第25話 私の知らないところで決めないで
朝の光が窓辺へ差し込むころ、エレノアは机の上に置いていた刺繍布を手に取っていた。
昨日初めて刺した二つの青い星は、改めて明るい場所で見ると想像していた以上に形が違っている。一つ目は右側へ少し傾き、二つ目も角の長さが揃っていない。
それでも、直したいとは思わなかった。
(昨日は、これでいいって思った)
眠って朝になっても、その気持ちは変わっていない。
だから一つ目も二つ目も、そのまま残す。
ただ、三つ目を今日刺したいかと考えると、まだ分からなかった。
「昨日はやりたかったけど、今日はまだ分からない……」
小さく呟いたところで、扉が叩かれた。
「おはようございます。リディアでございます」
「おはようございます。入ってください」
入室したリディアは、机の前に立っているエレノアを見ると、その手元へ一度だけ視線を向けた。
「昨日の刺繍でございますね」
「はい。最初の星、やっぱり曲がってました」
「初めてお作りになったものですから」
「リディアも刺繍できますか?」
「簡単なものでしたら。ですが、奥様ほど上手ではございません」
「最初は曲がりました?」
「それはもう」
リディアが真面目な顔で答える。
「母に見せたところ、『星なのか虫なのか分からない』と言われたことがございます」
「虫?」
「六本ほど足のようなものがございましたので」
エレノアは刺繍布とリディアの顔を交互に見て、笑った。
「私の方が星に見えます」
「お嬢様の勝ちでございます」
「勝ち負けなんですか?」
「今決まりました」
笑いながら、エレノアは刺繍布を机へ戻した。
そのままリディアが用意してくれた衣装を見る。
今日は淡い水色、生成り、薄い緑。
「緑にします」
「かしこまりました」
「髪は……」
昨日は青いリボンだった。
今日はどうしたいだろう。
鏡台へ視線を向けると、何もつけない自分も想像できた。
「今日は何もつけません」
「承知いたしました」
すぐに決まった。
そのことを特別な出来事だとは、もう以前ほど思わない。
選ぶことが少しずつ日常になっている。
その変化を、エレノア自身はまだはっきり言葉にできなかった。
◇ ◇ ◇
同じ朝。
ベルナール伯爵邸の書斎では、昨夜見つかった二つの記録について照合作業が進められていた。
机の上には、西側保管室で使われていた古い帳簿が三冊並んでいる。
ロベルトの向かいには家令とオスカー・メルヴァンが座り、その横には別の記録簿が開かれていた。
「こちらをご覧ください」
家令が指したのは、問題となっている時期より半年ほど前の記録だった。
『装身具箱 二 修繕確認 B・R』
さらに別の頁。
『冬季衣装 一式 返却確認 B・R』
もう一冊にも同じ記号がある。
そして、その記録の横には別の書類が添えられていた。
「この日は、侍女長代理としてベアトリス・ロランが物品確認を担当した記録が残っております」
「つまり」
「『B・R』は、ベアトリス・ロランを示す略記と考えてほぼ間違いないかと」
ロベルトはすぐには頷かなかった。
「本人にも確認する」
「はい」
「だが、その前にもう一つだ。『奥方確認』は?」
家令が別の帳簿を差し出した。
「同じ形式の記載を、前後二年分で十一件確認いたしました」
「誰を指す」
「すべてヴァレリア様が確認された品と一致しております」
ロベルトの目が細くなる。
「アデラインが存命だった時期の帳簿は?」
「表記形式が異なっております。少なくとも現在確認している帳簿で『奥方』と記載されているものは、ヴァレリア様が伯爵夫人として家内管理へ関与されるようになった後のものだけです」
「では、この『奥方確認』は」
「記録上はヴァレリア様を指すと判断するのが自然です」
「自然、か」
「はい。ですが、この『私物箱』そのものがアデライン様の木箱であるかは、まだ確定できません」
「分かっている」
ロベルトはその一線を越えなかった。
濃い茶色の木箱。
東側二階の衣装室。
西側保管室への搬入。
十二日後の『私物箱』の本邸への戻し。
ヴァレリアによる確認。
そして同日、『B・R』によって確認された装身具類。
状況は近づいている。
しかし、近づいたことと答えへ到達したことは違う。
「ベアトリスを呼べ」
「承知いたしました」
ほどなくして、ベアトリス・ロランが書斎へ入ってきた。
五十代に入ったばかりの彼女は、以前と同じく背筋を伸ばしている。だが、度重なる聞き取りのためか、その顔には隠しきれない疲労があった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「ああ。座ってくれ」
「失礼いたします」
ロベルトは帳簿を見せなかった。
「確認したいことがある」
「はい」
「二年前の冬、エレノアの衣装室を整理したあと、西側保管室へ移したものを再び確認したことはあるか?」
ベアトリスの眉が僅かに動く。
「西側保管室、でございますか」
「覚えている範囲でいい」
「……奥様と確認したことはございます」
「何を?」
「衣装や小物を」
「木箱は?」
沈黙が落ちた。
「以前話した、アデラインの箱だ」
「はい」
「西側保管室へ入れたあと、見たか?」
ベアトリスは膝の上で両手を重ねた。
「……見たと思います」
「誰と?」
「奥様と」
「ヴァレリアと?」
「はい」
「いつだ」
「正確な日は覚えておりません」
「何のために?」
「保管品を確認するためでございます」
「その箱をどうした」
「私は……」
ベアトリスの言葉が止まる。
ロベルトは急かさなかった。
「覚えていないなら、そう言え」
「……申し訳ございません」
「謝罪ではなく、事実を聞いている」
「はい」
ベアトリスは一度深く息を吸った。
「奥様が箱をご覧になったことは覚えております。蓋を開けたかどうかまでは……はっきりいたしません」
「そのあと箱をどこへ?」
「分かりません」
「君が運んだ可能性は?」
「ございます」
「どこへ?」
「……本邸へ戻したような気もいたします」
ロベルトの目が鋭くなる。
「どこへ戻した」
「そこが、どうしても」
「ヴァレリアの部屋か?」
「分かりません」
「エレノアの部屋か?」
「それも……」
「では、何を覚えている」
責める声にはしなかった。
それでもベアトリスの指先に力が入る。
「奥様が、アデライン様の品をエレノアお嬢様のお部屋へ置いたままにする必要はない、と仰っていたことを覚えております」
「いつだ」
「箱を最初にお部屋から出したころだったと思います」
「以前の証言と同じだな」
「はい」
「その後、西側保管室でも同じ話をした?」
「……申し訳ございません。そこまでは」
ロベルトは一度目を閉じた。
「分かった。もう一つ聞く」
「はい」
「当時、君は物品記録で自分の名前を『B・R』と略記することがあったか?」
ベアトリスが顔を上げた。
「はい」
「確かか?」
「はい。受領や確認だけの場合、そう記すことがございました」
「装身具類を確認した記憶は?」
「何度もございますので、どれを指しているのか分かりません」
「青い石の髪飾りは?」
「以前申し上げた通り、存じません」
ロベルトは彼女の表情を見る。
驚いたようには見えない。
しかし、それだけで真偽は判断できない。
「今日はここまでだ」
「はい」
ベアトリスが立ち上がる。
扉へ向かう直前、ロベルトが呼び止めた。
「ベアトリス」
「はい」
「君は今でも、あれがエレノアのための教育だったと思っているか?」
ベアトリスの背中が固まった。
長い沈黙のあと、ゆっくり振り返る。
「……分かりません」
「以前は?」
「そう思っておりました」
「今は?」
「分からなくなりました」
それだけ答え、ベアトリスは頭を下げて退室した。
扉が閉じる。
ロベルトはしばらく何も言わなかった。
家令も黙っている。
やがてロベルトは、机の上の帳簿へ目を落とした。
「ギュスターヴ・メルシエは?」
「所在が確認できました」
ロベルトが顔を上げる。
「どこだ」
「以前の情報通り、王都北区にございます親族の古物店を手伝っております。本人へ連絡を取り、本件について話を聞きたい旨を伝えました」
「返事は?」
「明日なら時間を取れるとのことです」
「ここへ呼ぶのか?」
「本人は来訪しても構わないと申しております」
ロベルトは少し考えた。
「いや。こちらから人を出す」
「旦那様ご自身が?」
「ああ」
家令が驚いたように目を上げる。
「よろしいのでしょうか」
「三年前に辞めた使用人を伯爵邸へ呼びつければ、それだけで圧力になる」
「……承知いたしました」
「私とお前で行く。記録係を一人。人数は増やすな」
「はい」
「それと、ギュスターヴには箱の特徴を事前に詳しく伝えるな」
「先入観を与えないためですか?」
「そうだ」
ロベルトは帳簿を閉じる。
「覚えていることだけを聞く」
◇ ◇ ◇
昼前。
ロシュフォール公爵邸の温室では、エレノアが三つ目の星を刺すかどうか悩んでいた。
朝にはまだ決めていなかった。
けれど昼が近づくにつれ、少しやってみたい気持ちが出てきた。
だから今、昨日と同じ席に座っている。
向かいにはマルグリット。
今日はセドリックも少し離れた椅子で本を読んでいた。
「お兄様」
「うん?」
「本を読みに来たんですか?」
「そうだよ」
「私を見に来たんじゃなくて?」
セドリックの視線が本から上がる。
「……半分くらいは」
「半分は見に来たんですね」
「邪魔?」
エレノアは少し考える。
「今日は大丈夫です」
「今日は?」
「一人でやりたくなったら言います」
「分かった」
セドリックは素直に本へ戻った。
以前なら、エレノアはそんなことを言えなかっただろう。
相手が自分を心配しているなら、その気持ちを拒んではいけない。
そばにいてくれるなら喜ばなければならない。
そう考えていた。
今は、いてほしい日と、一人になりたい日があってもいいのだと少しずつ理解し始めている。
「今日は何色にする?」
マルグリットが尋ねる。
エレノアは糸を眺めた。
昨日は青。
今日は黄色が気になる。
「黄色にします」
「では三つ目も星?」
「……はい」
針へ糸を通す。
昨日より早くできた。
「あ」
「上手になったわね」
「昨日三回やったから」
「ええ」
布へ針を刺す。
一針。
二針。
三針。
昨日より少しだけ手が慣れている。
それでも途中で一度、針先が指へ触れた。
「痛っ」
エレノアの肩が跳ねる。
セドリックが即座に本を閉じた。
「刺した?」
「少しだけです」
「見せて」
エレノアは反射的に手を引きそうになった。
でも、セドリックの手は伸びてこない。
見せて、と言っただけ。
「……血、出てますか?」
「ここからじゃ分からない」
エレノアは自分で指先を見る。
赤い点が一つ。
「ちょっとだけ」
「リディアを呼ぶ?」
「そこまでじゃないです」
「じゃあ布で押さえようか」
マルグリットが清潔な布を差し出す。
エレノアは受け取った。
「ありがとうございます」
指先を押さえる。
痛い。
でも、それだけ。
誰も怒っていない。
布を汚したと責める人もいない。
「刺繍、やめる?」
マルグリットが聞く。
エレノアは途中の黄色い星を見る。
「……続けます」
「分かったわ」
「でも、少し休んでから」
「ええ」
針を置く。
失敗したから終わりではない。
痛いから無理に続ける必要もない。
休んでから戻ってもいい。
そのどれも、以前の自分には思いつかなかった選択だった。
「お兄様」
「何?」
「本、読んでていいですよ」
「本当に?」
「はい。指を刺しただけです」
「……分かった」
少し不満そうだった。
それが面白くて、エレノアは笑った。
◇ ◇ ◇
午後。
アルフォンスは新しい報告を受け取った。
昨夜見つかった記録について、ベルナール家側で照合が進んだという内容だった。
彼は一通り目を通したあと、すぐエレノアを呼ぶことはしなかった。
昨日の約束がある。
まず、本人に聞く。
温室へ向かうと、エレノアはちょうど三つ目の星を完成させたところだった。
「叔父様」
「邪魔だったか?」
「今終わりました」
エレノアが布を持ち上げる。
「見ますか?」
「見せてくれるのか?」
「はい」
アルフォンスは近づいた。
青い星が二つ。
黄色い星が一つ。
形はそれぞれ少し違う。
「上手だな」
「最初のは曲がってます」
「どれだ?」
「これです」
「言われないと分からない」
「それは嘘です」
エレノアが即座に言った。
アルフォンスは一瞬黙り、それから笑った。
「分かる?」
「分かります。二つ目と比べたら全然違います」
「じゃあ訂正する。曲がっているけど、いいと思う」
「はい。私もそう思います」
その返事に、アルフォンスの表情が柔らかくなる。
少し離れたところで本を読んでいたセドリックが、そのやり取りを黙って見ていた。
以前のエレノアなら、「上手だ」と言われれば、自分がそう思っていなくても「ありがとうございます」と答えて終わっていたかもしれない。
今は違う。
違うと思ったら、違うと言う。
そして、相手が言い直しても怖がらない。
ほんの小さな変化だった。
けれどセドリックには、その一つ一つが目に見えるほど大きかった。
「エレノア」
アルフォンスが声を少し改める。
「新しい報告が来ている」
エレノアの表情が変わる。
アルフォンスは続けない。
「聞きたいか?」
「箱のことですか?」
「箱と、装身具に関係する可能性がある記録だ」
エレノアの指先が刺繍布を握る。
「分かったんですか?」
「少しだけ進んだ。ただし、箱そのものだと確定したわけではないし、髪飾りも見つかっていない」
「……そうですか」
「今日聞かなくてもいい」
エレノアは三つの星を見る。
胸が少し速い。
知りたい。
怖い。
またヴァレリアの名前が出るかもしれない。
ベアトリスかもしれない。
知らない人かもしれない。
でも。
(今は、知りたい)
「聞きます」
「ここで?」
エレノアは温室を見回す。
マルグリットがいる。
セドリックもいる。
土の匂い。
葉の緑。
雨上がりの光。
「ここがいいです」
「分かった」
アルフォンスは空いている椅子へ座った。
「誰にいてほしい?」
「みんな、このままで」
「うん」
マルグリットもセドリックも移動しなかった。
アルフォンスが報告書を開く。
「二年前の冬、西側保管室へ移された品の記録を調べたところ、その十二日後に『私物箱』が一つ、本邸へ戻されたという記録が見つかった」
「私物箱……」
「ああ」
「お母様の箱ですか?」
「まだ分からない」
エレノアは頷く。
「誰が戻したんですか?」
「そこは記録されていない」
「どこに?」
「それも分からない」
「じゃあ、何が分かったんですか?」
「その記録には、『奥方確認』と書かれている」
エレノアの顔が強張る。
「お義母様?」
「ベルナール家が同じ形式の記録を前後二年分確認した。『奥方』と記された十一件は、すべてヴァレリアが確認した品と一致していたそうだ」
「じゃあ……」
「待って」
アルフォンスが静かに止める。
「ヴァレリアがその『私物箱』を確認した可能性はかなり高くなった。だが、その私物箱がお母様の木箱だったかはまだ分からない」
「……はい」
「似た時期に、濃い茶色の木箱が西側保管室へ入ったという証言がある。サビーヌも木箱を見た記憶がある。今回、十二日後に私物箱が本邸へ戻った記録が出た。ここまでは繋がっている」
「でも、同じ箱かは分からない」
「そうだ」
エレノアは自分で言えた。
「もう一つある」
「はい」
「同じ日に、『装身具類 小包一』という記録がある」
青い髪飾りが頭に浮かぶ。
エレノアの手に力が入る。
「それは……」
「これも、お前の髪飾りとは確認されていない」
「はい」
「確認欄には『B・R』と記されていた。照合したところ、これはベアトリス・ロランが使っていた略記である可能性が非常に高く、本人も自分がその略記を使っていたことを認めた」
「ベアトリスさんが、装身具を?」
「何らかの装身具類を確認したことまでは記録上かなり確かだ。ただ、ベアトリスは青い髪飾りについては知らないという以前の証言を変えていない」
「覚えてないんですか?」
「その記録が何を指すか分からない、と」
エレノアは唇を結ぶ。
「嘘をついてるかもしれない?」
セドリックの視線がアルフォンスへ向く。
アルフォンスは慎重に答えた。
「可能性をゼロにはできない」
「本当に覚えてないかもしれない?」
「それもある」
「どっちかは、まだ分からない」
「そうだ」
エレノアは俯いた。
以前なら。
誰かが怪しいと聞けば、その人が悪いと決めたかもしれない。
第一周回では、自分がまさにそうされた。
証言。
物証。
誰かの言葉。
それらを並べられ、すべてが自分を犯人だと指していると言われた。
違うと言っても聞いてもらえなかった。
(私は、同じことをしたくない)
怖い。
腹も立つ。
箱を返してほしい。
髪飾りも返してほしい。
それでも、まだ分からないことを分かったことにはしたくない。
「ベアトリスさんが悪いって、まだ決めないでください」
アルフォンスが静かに頷く。
「分かった」
「お義母様も……」
そこで声が止まる。
ヴァレリア。
怖い。
嫌だった。
食事のこと。
箱。
服。
自立という言葉。
いくつもの証言が彼女へ近づいている。
「お義母様のことは、私は怖いです」
「ああ」
「嫌だったこともあります」
「ああ」
「でも、分かってないことまで、お義母様がやったって決めるのは……」
エレノアは一度息を吸った。
「嫌です」
「分かった」
アルフォンスはそれ以上何も足さなかった。
「調べてください」
「もちろん」
「ちゃんと分かるまで」
「ああ」
「私が嫌いだから犯人、みたいにしないでください」
セドリックが僅かに目を伏せる。
マルグリットも黙っている。
アルフォンスだけが、真っ直ぐエレノアを見ていた。
「約束する」
「はい」
「お前がヴァレリアを怖いと思っていることも、嫌だと思っていることも否定しない。その一方で、証拠がないことまで彼女のしたことにはしない」
「お願いします」
エレノアは胸の前で手を重ねた。
少し苦しい。
でも、言えた。
「それと」
アルフォンスが続ける。
「以前、西側保管室を管理していたギュスターヴ・メルシエの居場所も分かった」
「ギュスターヴさん?」
「三年前までベルナール家の保管庫を管理していた男だ。今は王都北区で親族の古物店を手伝っている」
「箱のことを知ってるかもしれない?」
「可能性はある。ただ、知らないかもしれない」
「いつ聞くんですか?」
「ベルナール伯爵が明日、本人へ会いに行く予定だ」
エレノアの目が少し大きくなる。
「お父様が?」
「ああ」
「自分で?」
「そう報告されている」
胸の中へ、形の分からない感情が落ちる。
嬉しいとは違う。
許したいとも違う。
父が今になって動いている。
その事実をどう受け取ればいいのか、まだ分からない。
「お父様が調べてくれてるからって、帰らなくていいんですよね」
「帰らなくていい」
「許さなくても?」
「今、許す必要はない」
「お父様が頑張ったら、会わないといけない?」
「いいや」
アルフォンスの返事は変わらない。
「ロベルトが今やっていることは、本来やるべきことを今やっているだけだ。それを理由に、お前が何かを返さなければならないわけじゃない」
エレノアはゆっくり頷く。
「分かりました」
「今日はここまでにするか?」
「……もう一個だけ聞いていいですか?」
「もちろん」
「ミレーヌのこと」
セドリックの姿勢が僅かに変わった。
「会うと決めた?」
「まだです」
「うん」
「でも、ミレーヌが何て言って会いたいって言ったのか、知りたいです」
アルフォンスが少し考える。
「報告に書かれている範囲でいいか?」
「はい」
「ミレーヌは、自分から『エレノアお姉様に会いたい』とロベルトへ申し出た。理由を尋ねられた際には、詳しいことは話さず、『会って話したい』という趣旨だったそうだ」
「それだけ?」
「最初はな。その後、衣服の件が判明してからは、元々お前のために仕立てられた服だと知らなかったこと、自分が持っている物の中にお前の物があるなら調べてほしいことを話している」
「返すって?」
「自分がずっと自分の物だと思っていた品なら、返すのを嫌だと思うかもしれない。ただ、それがお前の物なら返すべきだとも言ったそうだ」
エレノアは目を瞬く。
「嫌だって、言ったんですか?」
「ああ」
「返したくないって?」
「そうではない。返すべきだと思うが、自分が嫌だと思う気持ちまで嘘にはしなかった、という報告だ」
エレノアは黙った。
少し意外だった。
第一周回のミレーヌ。
レオナードに守られていた少女。
泣いていた。
自分を怖がるような目で見ていた。
処刑される自分を助けなかった。
その姿と。
『嫌だと思うかもしれない。でも、お姉様の物なら返す』
今聞いた言葉が、うまく重ならない。
(分からない)
エレノアは思う。
(今のミレーヌが、分からない)
それでいいのかもしれない。
第一周回で知っていたミレーヌだけで、今の十五歳の妹を全部決める必要はない。
だからといって、過去の記憶を消す必要もない。
「叔父様」
「うん」
「私、ミレーヌに会うかはまだ決めません」
「分かった」
「でも……」
少し迷う。
「何を話したいのか、先に聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「会わないで聞く方法、ありますか?」
「手紙にしてもらうこともできる」
「手紙……」
文字。
第一周回では、自分が書いたとされた手紙が証拠にされた。
憎悪の言葉。
自分の筆跡だと言われたもの。
胸の奥が冷える。
「エレノア?」
セドリックが気づく。
「……手紙は、少し嫌です」
「じゃあ別の方法にしよう」
アルフォンスがすぐに答えた。
「伝言でもいい。ロベルトを通して、何を話したいのか尋ねてもらうこともできる」
「それがいいです」
「分かった」
「ミレーヌに、何を話したいのか聞いてください」
「ああ」
「でも、返事を聞くかどうかは……」
エレノアは少し考える。
「返事が来てから決めてもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、それでお願いします」
決めた。
会うかどうかは決めていない。
でも、何を話したいのかは知りたい。
一歩だけ。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが父の書斎へ呼ばれていた。
「お姉様から?」
入ってくるなり尋ねた娘へ、ロベルトは頷いた。
「直接ではない。ロシュフォール公爵を通してだ」
「何て?」
「会うかどうかは、まだ決めていないそうだ」
ミレーヌの顔が少し曇る。
「……うん」
「ただし」
その一言で、顔が上がる。
「お前が何を話したいのか知りたい、と」
「お姉様が?」
「ああ」
「それを聞いてから、会うか決めるってこと?」
「返事が来てから、それを聞くかどうかも自分で決めるそうだ」
「え?」
ミレーヌが眉を寄せる。
「どういうこと?」
「お前が話したい内容を私へ伝える。それをロシュフォール公爵家へ送る。エレノアは、内容を聞くかどうかをその時点で決める」
「……そこから?」
「ああ」
「そんなに?」
ミレーヌの声に、責めるというより純粋な戸惑いが混じる。
ロベルトは娘を見る。
「それだけ慎重にならなければならない理由があるのだろう」
「私に会うのが?」
「おそらく」
ミレーヌは唇を噛んだ。
「私、お姉様に何かした?」
「分からない」
「覚えてないだけ?」
「それも分からない」
「お父様、最近そればっかり」
「分からないことを分かるとは言えない」
ミレーヌが黙る。
以前なら、父はもっと簡単に答えていた。
大丈夫だ。
気にするな。
姉妹なのだから。
母に任せておけばいい。
最近は、そのどれも言わなくなった。
「……何を話したいか、か」
ミレーヌは近くの椅子へ座った。
「すぐ答えなくてもいい」
「うん」
「考えてからでいい」
「でも、お姉様待ってるんでしょう?」
「待つとは言っていない」
「え?」
「お前の返事を待つ義務はない。エレノアは自分の生活をしている」
ミレーヌは不満そうに父を見る。
「お父様、最近お姉様の味方ばっかり」
ロベルトの顔が僅かに強張る。
「そう聞こえたか」
「うん」
「……すまない」
「なんで謝るの?」
「お前にも同じように、自分で考える時間はある」
ミレーヌは父を見つめた。
ロベルトは続ける。
「今すぐ答えなくていい。今日でも、明日でもいい」
「じゃあ……少し考える」
「ああ」
「でも一個は分かる」
「何だ?」
「服のことは話したい」
「三着の?」
「うん」
ミレーヌは自分のスカートを見下ろす。
「知らなかったって言いたい」
「分かった」
「でも、それだけじゃ……言い訳みたい」
「そう感じるのか?」
「だって、知らなかったから悪くありません、って言って終わりみたいで嫌」
ロベルトは黙って聞く。
「私、着てたし」
「ああ」
「気に入ってた服もあるし」
「うん」
「返すの嫌だって思うのも、本当だし」
ミレーヌは眉を寄せる。
「でも、お姉様のなら返す」
「それを話したい?」
「……うん」
「他には?」
「まだ分からない」
「なら、それでいい」
「明日でも?」
「ああ」
ミレーヌは頷いた。
立ち上がって扉へ向かう。
途中で止まった。
「お父様」
「何だ」
「お姉様、私のこと嫌いなのかな」
ロベルトは答えられなかった。
「分からない」
「またそれ」
「本人にしか分からない」
「……そっか」
ミレーヌは少し寂しそうに笑った。
「じゃあ、勝手に大丈夫って思わない方がいいね」
その言葉を残し、部屋を出ていった。
ロベルトは閉じた扉を長く見つめた。
勝手に大丈夫だと思わない。
その言葉が、自分自身へ向けられたもののように聞こえた。
◇ ◇ ◇
夜。
エレノアは自室の机へ向かっていた。
三つの星を刺した布が横にある。
青が二つ。
黄色が一つ。
今日聞いたことは多かった。
ヴァレリアが確認した可能性の高い私物箱。
ベアトリスの略記。
装身具類。
ギュスターヴという元保管係。
そしてミレーヌ。
ペンを持つ。
『分かったこと』
そこまで書いて、止まる。
何が分かった?
ヴァレリアが箱を盗んだ?
違う。
ベアトリスが髪飾りを隠した?
違う。
まだそこまでは分かっていない。
エレノアは新しい行へ書く。
『分かったことと、まだ分からないことを一緒にしない』
少し長い。
でも、今の自分には大事だった。
次。
『嫌いでも、怖くても、その人がやっていないことまでやったことにしない』
書き終えた瞬間、処刑台の景色が一瞬だけ脳裏をよぎった。
冷たい空。
群衆。
果物が飛んできた。
人殺し。
裏切り者。
毒を盛った女。
自分がしていないことを、したと言われた。
レオナードは信じなかった。
父も助けなかった。
ミレーヌは守られていた。
胸が苦しくなる。
エレノアはペンを置いた。
「……違う」
今ここにいる。
十五歳。
ロシュフォール公爵邸。
机。
三つの星。
窓。
ベッド。
扉の向こうにはリディアがいる。
ゆっくり呼吸する。
(私は、今ここにいる)
何度か繰り返すと、処刑台の冷たさが少し遠ざかった。
そのときだった。
「ずいぶん、いろいろ考えるようになったね」
聞き覚えのある声がした。
エレノアが顔を上げる。
窓辺。
月明かりの近くに、淡い銀色の光が集まっていた。
輪郭が生まれる。
人のようで、人ではない。
半透明の小さな姿。
「クロノア……?」
「久しぶり、エレノア」
時の神霊は、以前と変わらない静かな笑みを浮かべていた。
エレノアは椅子から立ち上がる。
「どこにいたんですか?」
「休んでいた」
「ずっと?」
「あなたを戻すのは、それなりに疲れるんだよ」
「……そうでした」
クロノアは机の上を見る。
「それ、あなたが作ったの?」
「はい」
「星?」
「……一つ目も星です」
「まだ何も言ってないよ」
エレノアは口を閉じた。
クロノアの目が少し楽しそうに細くなる。
「曲がってると思ってるんだ?」
「少しだけ」
「捨てないの?」
「捨てません」
「どうして?」
「私が初めて作ったからです」
「そっか」
クロノアはそれ以上評価しなかった。
上手とも下手とも言わない。
「いろいろあったみたいだね」
「見てたんですか?」
「全部は見てないよ」
クロノアは即座に答えた。
「僕は何でも見えるわけじゃない。あなたの周りで起きたことを全部知ってるわけでもない」
「じゃあ、何を知ってるんですか?」
「今のあなたが、前に会ったときより少し違うってこと」
「どこが?」
「顔」
「顔?」
「前は、何か聞く前から謝りそうな顔をしてた」
エレノアは頬へ触れる。
「今は?」
「質問しそうな顔」
「……そんな顔がありますか?」
「僕にはそう見える」
クロノアが笑う。
エレノアは椅子へ座り直した。
「クロノア」
「うん?」
「聞きたいことがあります」
「答えられることなら」
「私が死んだあと」
クロノアの表情が僅かに変わる。
「ロシュフォール家は、どうなりましたか?」
静寂が落ちた。
以前から胸の奥にあった問い。
叔父。
祖父母。
セドリック。
第一周回では、最後まで自分を助けに来なかった人たち。
けれど今の彼らを知れば知るほど、あの人たちが何もせず自分の処刑を受け入れたとは思えなくなっていた。
「前に、叔父様たちは私をただ見捨てたわけじゃないみたいなことを言いましたよね」
「言ったね」
「何をしたんですか?」
クロノアはすぐには答えない。
「全部は知らない」
「また?」
「僕は時の神霊だけど、人間の世界を一日中覗いている存在じゃない。誰がどの部屋で何を話したかまで全部知っているわけじゃないんだ」
「……はい」
「でも、一つだけ知っている」
エレノアは息を止める。
「あなたが処刑されたあと、ロシュフォール公爵家は黙っていなかった」
「叔父様が?」
「うん」
「何をしたんですか?」
「そこまでは、正確には分からない」
期待しかけた胸が少し沈む。
クロノアは続けた。
「だから、僕の知らない部分を想像で埋めたくない」
エレノアは顔を上げた。
今日、自分が言ったことと似ていた。
分からないことを、分かったことにしない。
「ただ、あなたの処刑で終わりではなかった。それは知っている」
「……どうして?」
「時間の流れが、大きく乱れたから」
「時間?」
「人が死んだこと自体じゃない。そのあとも長く、多くの人が動いた。調べて、争って、何かを覆そうとしていた」
「何を?」
「分からない」
「冤罪を?」
「それも断定できない」
クロノアの答えはもどかしい。
けれど以前のエレノアなら、曖昧な答えに不安だけを覚えていたかもしれない。
今は違う。
「分からないなら、分からないでいいです」
自分の口から出た言葉に、エレノア自身が少し驚いた。
クロノアも目を瞬く。
「変わったね」
「みんなに教えてもらいました」
「何を?」
「分からないことは、分からないって言っていいって」
「いいことを教えてもらったね」
「はい」
エレノアは机の紙を見る。
「叔父様たちに、第一周回のことを話した方がいいと思いますか?」
クロノアは首を傾げた。
「それは僕が決めること?」
エレノアは黙る。
そして、少し笑った。
「……違いますね」
「うん」
「私が決めること」
「そう」
「でも、怖いです」
「それも本当だね」
「信じてもらえなかったら?」
「怖いね」
「変な子だって思われたら?」
「それも怖い」
「クロノア、何も解決してくれませんね」
「僕に解決してほしい?」
エレノアは考えた。
少し前なら、してほしかったかもしれない。
全部教えてほしい。
誰が悪いのか。
どうすればいいのか。
誰を信じればいいのか。
間違わない道を教えてほしい。
けれど今は。
「……全部は、嫌かもしれません」
「どうして?」
「自分で決めたいから」
クロノアが笑った。
「それなら、僕は邪魔しない方がよさそうだ」
「でも、いなくならないでください」
思ったより早く言葉が出た。
クロノアが目を丸くする。
エレノアも自分で驚いた。
「……たまには、来てください」
「うん」
「全部教えてくれなくてもいいので」
「僕が知らないことの方が多いけどね」
「それでも」
「分かった」
銀色の輪郭が少し薄くなる。
「もう行くんですか?」
「今日は顔を見に来ただけだから」
「次はいつ?」
「約束はできない」
「……そうですか」
「でも、また来るよ」
「はい」
クロノアの姿がさらに薄くなる。
「エレノア」
「何ですか?」
「その曲がった星」
「はい」
「僕は好きだよ」
「さっき、上手とも下手とも言わなかったのに」
「上手かどうかと、好きかどうかは別だから」
そう言って、クロノアは消えた。
銀色の光が数粒だけ残り、それもすぐ夜の中へ溶けていく。
エレノアはしばらく窓辺を見ていた。
それから机の上へ視線を戻す。
三つの星。
一つ目は曲がっている。
でも、自分も好きだ。
紙へ、最後の一行を書き加える。
『誰かに決めてもらわなくても、分からないまま考えていい』
そこでペンを置いた。
明日。
ベルナール伯爵は、ギュスターヴ・メルシエに会う。
ミレーヌも、自分が何を話したいのかを考えている。
母の箱はまだ見つからない。
青い髪飾りも見つからない。
食事を奪った仕組みも、身体に残る傷を誰がつけたのかも、まだすべては分からない。
第一周回で自分を陥れた者も分からない。
ロシュフォール家が処刑後に何をしたのかも分からない。
分からないことばかりだ。
けれど。
(分からないからって、誰かに答えを決めてもらわなくていい)
エレノアは灯りを落とし、ベッドへ入った。
今日もすべては解決しなかった。
それでいい。
一つずつ知る。
一つずつ考える。
嫌なら止める。
怖ければ待つ。
知りたければ聞く。
そして、自分に関わることを、自分の知らないところだけで決めさせない。
眠りへ落ちる直前、エレノアの頭に浮かんだのは、処刑台でもベルナール伯爵邸でもなかった。
少し歪んだ、青い星だった。




