第26話 箱を運んだ人
朝食を終えたあと、エレノアは南の小池へ向かうため、玄関ではなく庭園側の扉から外へ出た。
昨夜はクロノアと話したあと、いつもより少し寝つくまでに時間がかかった。第一周回で自分が処刑されたあと、ロシュフォール家の人々が何かを調べ、何かを覆そうとしていたらしい。その事実は嬉しいとも悲しいとも簡単には言えず、眠りにつく直前まで胸の中に残っていた。
(叔父様たちは、何をしていたんだろう)
知りたい気持ちはある。
けれど、クロノア自身が知らないことを想像で埋めても仕方がない。今の自分が調べられることでもなく、何より今日は今日で、自分の生活がある。
庭へ出ると、夜のうちに降った雨の名残が芝生に残っていた。雲の切れ間から差し込む朝日を受け、葉の先に溜まった水滴が小さく光っている。濡れた土と草の匂いが混ざった空気を吸い込むと、寝起きから胸に残っていた重さが少しだけ薄くなった。
今日、エレノアが選んだのは淡い青色のドレスだった。髪には何もつけていない。
昨日と同じである必要はなかったし、昨日と違うものを選ばなければならないわけでもない。ただ朝、三着並んだ服を見たときに青がいいと思い、リボンを見たときには何もつけたくないと思った。
それだけで決めた。
南の小池までの道も、今では覚えている。
以前なら一人で屋敷から離れるだけで落ち着かなかったが、今朝は出る前にリディアへ「南の小池へ行ってきます」と伝えただけだった。許可を求めたのではない。
『許可じゃなくて、連絡だ』
アルフォンスの言葉を思い出しながら歩いていると、池の周囲を囲む低い生垣が見えてきた。
昨日ジュリアスが話していた通り、今日は彼の姿がない。北庭園の作業を担当すると言っていたから、当然なのだろう。
(本当に、魚に会いに来たんだ)
誰かが待っているわけではない。
何か仕事があるわけでもない。
ただ、自分が来たかったから来た。
池の縁から少し離れた場所に置かれた石造りの腰掛けへ座り、水面を眺める。雨の影響なのか昨日より水が僅かに濁っており、最初は小魚の姿が見つからなかった。
それでもすぐに帰る気にはならなかった。
木々の葉が風に擦れる音を聞きながら待っていると、水草の陰から銀色の小さなものが一瞬だけ現れた。
「あ」
思わず声が漏れたものの、魚は逃げず、二匹、三匹と続いて姿を見せる。
エレノアは膝の上で手を重ねながら、しばらくそれを眺めた。
(今日もいた)
それだけなのに、少し嬉しい。
昨日は、何もしない時間があってもいいのだと知った。
今日も同じことをしている。
けれど、昨日と今日がまったく同じとは感じなかった。水面の色も、風の匂いも、魚が出てくる場所も違う。自分の気持ちも少し違っている。
やがて背後から、芝生を踏む控えめな足音が近づいてきた。
「お嬢様」
振り返ると、少し離れた場所にリディアが立っていた。
追いかけてきたのではないらしく、手には薄い上着と小さな布包みを持っている。
「どうしました?」
「風が少し冷たくなってまいりましたので、上着をお持ちいたしました。それから、厨房のマティアスからでございます」
「マティアスさん?」
「はい。朝食の際、お嬢様が昨日より果物を召し上がっていらしたと聞きまして、庭でお腹が空いた場合のためにと」
リディアが布包みを開くと、中には小さく焼かれたパンが二つ入っていた。
「私、朝ご飯を食べましたよ?」
「存じております」
「それでも食べていいんですか?」
「お腹が空いたのであれば」
エレノアはパンとリディアを交互に見る。
朝食を食べたあとに、また食べる。
以前なら考えなかった。
「今は……まだ空いてないです」
「では、お持ち帰りになっても構いません」
「あとで空いたら?」
「そのときに召し上がればよろしいかと」
「空かなかったら?」
「昼食まで取っておいてもよろしいですし、必要なければ厨房へ戻しても構いません」
食べるか、食べないか。
今決めなくてもいい。
エレノアは布包みを受け取ると、自分の隣へ置いた。
「じゃあ、今は食べません。でも、ここに置いておきます」
「かしこまりました」
リディアは上着も渡したが、着せようとはしなかった。エレノアは少し風を確かめてから、自分で肩へ掛ける。
「リディアも座りますか?」
尋ねてから、エレノアは石の腰掛けの空いている場所を見た。
リディアは少し驚いたようだった。
「よろしいのでしょうか」
「私が座ってほしいって言ったら、座ってもいいんですか?」
「勤務中ではございますが、お嬢様のお話し相手ということでございましたら」
「じゃあ、少しだけ」
「失礼いたします」
リディアは十分な距離を空けて腰を下ろした。
二人で池を見る。
しばらく何も話さなかった。
エレノアは、その沈黙が嫌ではないことに気づいた。
◇ ◇ ◇
同じころ、王都セレディアの北区では、朝から商人たちが店先の覆いを上げ始めていた。
貴族の大邸宅が並ぶ中央区とは違い、北区には職人の工房や小さな商店、古物を扱う店が密集している。馬車が二台すれ違うには少し狭い通りを進みながら、ロベルトは窓越しに店の看板を追っていた。
伯爵家の紋章を大きく掲げた馬車は使わなかった。
ギュスターヴ・メルシエへ余計な圧力をかけたくないという判断から、家令と記録係一人だけを連れてきている。
目的の店は、大通りから一本入った場所にあった。
看板には古い文字で『メルシエ古物商』と書かれている。
店内へ入ると、乾いた木と古い紙、それに磨き油が混ざった独特の匂いがした。壁際の棚には食器や置時計、小さな彫像、銀器、額縁などが並んでおり、奥には年代の違う家具も置かれている。
「ベルナール伯爵様でいらっしゃいますね」
店の奥から現れたのは、六十代ほどの男性だった。
「叔父のエティエンヌ・メルシエでございます。ギュスターヴは奥におります」
「急な申し出に応じてもらってすまない」
「本人も、昔の勤め先のことであれば話せることは話すと申しております」
ロベルトは軽く頭を下げた。
伯爵が商人へするには珍しい仕草だったのか、エティエンヌが一瞬だけ目を見開いたものの、何も言わず店の奥へ案内する。
狭い応接室には、すでに一人の男が待っていた。
三十代後半。短く刈った灰褐色の髪に、少し日に焼けた顔。体格は細いが、長年重い荷物を扱っていたのか腕はしっかりしている。
ロベルトの姿を見ると、ギュスターヴは立ち上がった。
「お久しぶりでございます、伯爵様」
「座ってくれ。今日は雇用関係にあるわけではない。覚えていることを、そのまま聞きたい」
「はい」
「分からないことは、分からないと言ってくれ」
ギュスターヴの表情に僅かな戸惑いが浮かぶ。
「承知いたしました」
全員が席につくと、記録係が紙と筆記具を準備した。
ロベルトは最初から箱について尋ねなかった。
「三年前まで、我が家の西側保管室を管理していたな」
「はい。正確には保管室全体の管理補佐から始め、最後の二年ほどは西側を任されておりました」
「退職理由は?」
「叔父の腰が悪くなりまして。この店を一人で回すのが難しくなったためでございます」
「伯爵家との間に問題があったわけではない?」
「ございません」
「退職時に、保管品の引き継ぎはしたか?」
「はい。後任へ帳簿と鍵、棚ごとの管理方法を引き継ぎました」
ロベルトは家令へ視線を向ける。
家令が古い帳簿の写しを一枚だけ取り出した。
「この記録形式に見覚えはあるか?」
ギュスターヴは紙を受け取り、しばらく目を通した。
「ございます。私がいたころのものです」
「『本邸戻し』とは、どういう意味だ?」
「保管室から本邸側へ品を戻した場合の記載でございます。元の部屋へ戻す場合もあれば、別の部屋へ移す場合もございました」
「移動先を書かないこともあった?」
「……ございました」
ギュスターヴは少し気まずそうに眉を下げる。
「今思えば、よい管理とは言えません。ただ、衣装や私物類は侍女側が引き取ったあと、こちらでは移動先まで管理しないことが多かったのでございます」
「誰が受け取ったかは?」
「書く場合と、書かない場合がございました」
「『奥方確認』という記載は?」
「伯爵夫人様でございます」
迷いのない返事だった。
「ヴァレリアか?」
「はい。当時、私どもが『奥方様』と申し上げればヴァレリア様のことでございました」
昨日の照合結果と一致する。
ロベルトは記録係が書き終えるのを待ってから、次へ進んだ。
「二年前の冬、東側二階の衣装室から複数の品が西側保管室へ移されたことを覚えているか?」
ギュスターヴはすぐには答えなかった。
目を閉じるようにして考えてから、ゆっくり口を開く。
「冬物と、使わなくなった家具類がまとめて運ばれた時期がございました」
「誰の衣装室か覚えている?」
「そこまでは……。申し訳ございません」
「構わない。箱を覚えているか?」
ロベルトはここで初めて尋ねた。
「箱、でございますか」
「どんな箱かは、まだ言わない。覚えているものがあるなら話してほしい」
ギュスターヴは眉間へ皺を寄せた。
「いくつかございました。帽子箱、裁縫道具を入れた箱、書類箱。それから……」
そこで言葉が止まった。
「何だ?」
「木の箱がございました」
ロベルトの指が膝の上で僅かに動いた。
「特徴は?」
「濃い色の木で、女性の私物を入れるような大きさだったと記憶しております。両手で持てる程度です」
「模様は?」
「……花が彫られていたような」
家令が顔を上げた。
ロベルトは急かさず、同じ調子で尋ねる。
「どんな花か覚えているか?」
「そこまでは分かりません。花か葉だったと思います」
「その箱を誰が持ち込んだ?」
「私ではございません」
「誰だ?」
「女性使用人だったと思います。ただ、名前までは……」
「ベアトリス・ロランだった可能性は?」
ギュスターヴはすぐに頷かなかった。
「あり得ますが、断言できません。侍女長本人が保管室まで来ることもございましたし、別の侍女へ運ばせることもございました」
「ヴァレリアは?」
「奥方様ご本人が品を運ぶことは、ほとんどございませんでした」
「その箱を、その後見たか?」
ギュスターヴの視線が帳簿の写しへ戻る。
「一度、出した覚えがございます」
部屋の空気が僅かに変わった。
ロベルトは前のめりになりそうになる身体を抑えた。
「詳しく話してくれ」
「確か……保管してからそれほど経っていなかったと思います。数日か、十日ほどか。二週間は経っていなかったはずです」
十二日。
帳簿と合う。
「誰の指示だった?」
「奥方様側からだったと思います」
「ヴァレリア本人か?」
「直接ではございません。侍女が来ました」
「誰だ?」
「申し訳ございません。顔は覚えておりますが、名前が」
「どんな人物だった?」
「当時二十代後半ほどでしょうか。髪は赤みのある茶色で、細身の女性でした」
ロベルトの表情が止まる。
家令も同じだった。
赤みのある茶色。
それだけなら珍しい特徴ではない。
しかし、ロシュフォール家から共有されたエレノアの断片的な記憶には、赤茶色の髪と細い指という要素がある。
それをギュスターヴへ伝えるわけにはいかなかった。
「名前を思い出せないか?」
「……すみません」
「構わない。続けてくれ」
「その侍女から、奥方様が確認するため本邸へ戻すようにと言われました。私は箱を棚から出し、廊下まで運んだと思います」
「誰に渡した?」
ギュスターヴは考え込んだ。
「先ほどの侍女だったか、別の者だったか……そこが曖昧でございます」
「箱の中身は見たか?」
「いいえ。鍵がかかっていたかどうかも覚えておりません」
「戻ってきたか?」
ギュスターヴの眉が寄る。
「それが……」
「何だ?」
「戻ってこなかったと思います」
「確かか?」
「保管室の棚には、それぞれ品の置き場所が決まっておりました。あの箱を置いた棚が空いたままだった記憶がございます。ただし、別の棚へ移された可能性までは否定できません」
「帳簿には?」
「本邸へ戻したなら、その時点で保管室の管理対象から外れます。再び預けられない限り、こちらでは追いません」
ロベルトは息を吐いた。
箱が西側保管室へ入り、その後、本邸へ戻った可能性はかなり高くなった。
だが、そこから先がない。
「もう一つ聞く」
「はい」
「その時期、装身具類を小包で出した記憶は?」
ギュスターヴは首を傾げた。
「装身具は、私どもが直接扱うことが少なかったのでございます。宝石類は別管理でしたから」
「小さな髪飾りは?」
「価値によります。高価な宝石であれば金庫管理、日常用の装身具なら衣装類と一緒に扱われることもございました」
「青い石の髪飾りに覚えは?」
「ございません」
その答えも記録された。
ロベルトは少し間を置いてから、別の角度から尋ねる。
「当時、エレノアの私物が頻繁に保管室へ移されていたという印象はあるか?」
「エレノアお嬢様の、と明確に認識していたわけではございません」
「では、東側二階から?」
「それなら、何度かございました」
「どのくらいだ」
「一度に大量というより、季節ごとに少しずつです。衣装、古い玩具、書物、小物類などだったと思います」
「誰の指示で?」
「侍女側から運ばれてくるだけでしたので、私は上の指示までは確認しておりません」
ギュスターヴはそこで言葉を止めたあと、少し迷うようにロベルトを見た。
「伯爵様」
「何だ?」
「これは、関係があるか分かりません」
「それでいい。話してくれ」
「エレノアお嬢様のお名前を、保管室で一度だけ聞いた覚えがございます」
ロベルトの胸が詰まる。
「誰から?」
「先ほど申し上げた、赤みのある茶髪の侍女です」
「何と言っていた?」
「正確な言葉ではないかもしれません。それでもよろしければ」
「ああ」
ギュスターヴは慎重に記憶を辿った。
「『お嬢様はもうお使いになりませんから』と。そのようなことを申していたと思います」
「何について?」
「衣装だったか、小物だったか……申し訳ございません。そこまでは」
「エレノアの名を出した?」
「たしか、『エレノアお嬢様』と」
「その侍女は誰に仕えていた?」
「奥方様の近くで見かけることが多かったと思います」
ロベルトはすぐに質問を重ねなかった。
赤みのある茶髪。
細身。
二十代後半ほど。
ヴァレリアの近くにいた侍女。
そして、「エレノアお嬢様はもう使わない」という言葉。
衣装をミレーヌへ回した際、アニエス・モローが聞いた説明とも似ている。
偶然かもしれない。
同じ人物かもしれない。
それを今決めてはいけない。
「当時の使用人名簿と照合する」
家令へそう告げると、ロベルトは再びギュスターヴを見た。
「今日はありがとう。最後に確認する。今話した内容の中で、確実に覚えていることと、自信のないことを分けてもらえるか?」
ギュスターヴは少し考えたあと、指を折るように整理した。
「西側保管室へ濃い木箱が入ったこと、花か葉のような彫りがあったこと、本邸へ一度出したこと、その後は私の管理下へ戻った記憶がないこと。この四点は、比較的はっきりしております」
「それ以外は?」
「箱を持ち込んだ人物、持ち出すよう伝えた侍女の名前、箱を最終的に誰へ渡したか、エレノアお嬢様のお名前が出た際に何を運んでいたか。そこは自信がございません」
「分かった」
ロベルトは頷いた。
「分からないところまで答えさせてしまってすまなかった」
「いえ」
ギュスターヴは戸惑ったようにロベルトを見たあと、少しだけ視線を下げた。
「もし、あの箱がお嬢様の大切な品だったのでしたら……当時、もっときちんと記録しておけばよかったと存じます」
「それは私が言えることではない」
「伯爵様?」
「あの家の責任者は私だった」
ロベルトは机の上で両手を組んだ。
「使用人の記録が不十分だったことより、娘の物が娘の知らないところで動かされていることに私が気づかなかった方が問題だ」
ギュスターヴは何も答えなかった。
ロベルトも、それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
昼食前になって屋敷へ戻ったエレノアは、南の小池から持ち帰ったパンを一つだけ食べた。
池にいた間には空腹を感じなかったが、部屋へ戻って刺繍布を眺めているうちに、少しお腹が空いた。
以前なら昼食が近いから我慢しただろう。
今日はリディアへ聞いた。
「今、食べたらお昼ご飯が少なくなってもいいですか?」
「もちろんでございます。昼食時にあまりお腹が空いていなければ、少ない量になさいますか?」
「はい。そうします」
パンは朝食用より小さく、中には何も入っていなかった。少し硬くなった表面を噛むと、中はまだ柔らかく、噛むほど小麦の甘みが出てくる。
「おいしいです」
「マティアスへ伝えておきます」
「自分で言ってもいいですか?」
「もちろんでございます」
「厨房に行っても?」
リディアは少し考えた。
「厨房は火や刃物が多く、人の出入りもございます。ご案内が必要ではございますが、入ってはいけない場所ではございません」
「許可がいる?」
「危険を避けるための案内、と考えていただく方が近いかと」
エレノアはパンを持ったまま頷いた。
「じゃあ、今度行ってみたいです」
「マティアスも喜ぶと思います」
もう一つのパンは食べなかった。
「これは、どうしよう」
「お昼まで取っておかれますか?」
「……マティアスさんに返したら、嫌な気持ちになりますか?」
「私はマティアス本人ではございませんので、断言はできません」
リディアの答えに、エレノアは少し驚いた。
「嫌じゃないって言わないんですね」
「私が勝手に決めることではございませんから」
昨夜から何度も似た言葉を聞いている気がする。
分からないことを、分かったことにしない。
エレノアは布包みを見ながら少し考えた。
「じゃあ、あとで本人に聞きます」
「それがよろしいかと」
パンを机へ置いたところで、扉が控えめに叩かれた。
リディアが応対すると、廊下にいた使用人から何かを聞き、戻ってくる。
「アルフォンス様からでございます。ベルナール伯爵家より連絡が届いたそうですが、急ぎではございません。お嬢様がお聞きになりたい時に、と」
エレノアの手が止まった。
「お父様、ギュスターヴさんに会ったんでしょうか」
「内容は私には伝えられておりません」
「そうですよね」
少し知りたい。
けれど、今すぐではない。
昼食も近い。
「お昼ご飯のあとに聞きます」
「そのようにお伝えいたします」
エレノアは残ったパンを包み直した。
調査は進んでいる。
それでも、自分まで急ぐ必要はない。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸へ戻ったロベルトは、昼食を取る前に使用人名簿を開かせていた。
二年前から五年前までの間に、ヴァレリアの身の回りを担当した侍女。
赤みのある茶髪。
当時二十代後半ほど。
細身。
条件だけでは一人に絞れない可能性もある。
「三名おります」
家令が名簿を示した。
「三人?」
「はい。ただし、一人は金髪に近い明るい茶色だったとの証言があり、もう一人は当時四十歳を超えております」
「残る一人は?」
家令が一つの名前を指す。
「ナタリー・ヴェルヌ。現在三十一歳。五年前から二年前までヴァレリア様付きの侍女として勤務。その後、退職しております」
「理由は?」
「結婚と記載されております」
「今どこにいる」
「現時点では不明です」
ロベルトは名前を見つめた。
ナタリー・ヴェルヌ。
記憶を探れば、顔は思い浮かぶ。
ヴァレリアの後ろに立っていたことがある。赤茶色の髪を低い位置でまとめ、あまり目立つ話し方をしない女だった。
しかし、それだけだ。
エレノアの記憶にある人物と同じだと決めるには、何も足りない。
「所在を調べろ。ただし、罪人を探すようなやり方はするな」
「承知いたしました」
「それから、エレノアの食事記録で問題が出始めた時期と、ナタリーの勤務期間を照合する」
「はい」
「一致しても、それだけで関与したことにはしない。あくまで時期の確認だ」
「承知しております」
ロベルトは名簿を閉じかけ、思い直してもう一度開いた。
「ナタリーの前後にヴァレリア付きだった者も一覧にしてくれ」
「ナタリーだけではなく?」
「一人に絞ってから調べれば、都合のいい証拠だけを見ることになる」
自分で口にして、ロベルトは苦いものを感じた。
第一周回のことを彼は知らない。
けれど今、自分が娘について調べるとき、最初から答えを決めて証拠を集めてはならないということだけは分かる。
「旦那様」
家令が躊躇いがちに口を開いた。
「もう一点、よろしいでしょうか」
「何だ」
「ミレーヌお嬢様から、昨日の件についてお話ししたいとの申し出がございます」
ロベルトは書類から顔を上げた。
「エレノアへ何を話したいか、決まったのか?」
「そのようでございます」
「分かった。午後に聞く」
「はい」
「私が内容を勝手にまとめない。本人の言葉を記録して、ロシュフォール公爵へ送る」
家令は一礼して退出した。
残されたロベルトは、机の上に並ぶ名前と記録を見つめる。
箱。
衣装。
食事。
装身具。
それぞれが別の問題なのか、一つの流れに繋がっているのかさえ、まだ分からない。
以前の自分なら、家の中で起きていることをヴァレリアへ任せて終わっていた。
娘が「大丈夫」と言えば、その言葉を信じたのではなく、安心するために利用していたのかもしれない。
(私は、何を見ていたんだ)
答えはまだ出ない。
ただ、今は調べるしかなかった。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアはアルフォンスと話す場所として、昨日とは違う部屋を選んだ。
今日は温室ではなく、小さな南向きの居間だった。
大きな窓から午後の光が入り、壁際には低い本棚が並んでいる。アルフォンスとエレノアのほかには、少し離れた場所にリディアが控えていた。
セドリックを呼ぶかと聞かれたが、今日は呼ばなかった。
「嫌だからではないです」
「うん」
「今日は叔父様と二人で聞いてみたいです」
「分かった」
アルフォンスはそれ以上理由を尋ねなかった。
エレノアはソファへ座り、膝の上で両手を重ねる。
「ギュスターヴさんのことですよね?」
「ああ。ロベルトが今朝、本人へ会った」
「箱のこと、知ってました?」
「話す前に一つ確認する。少し進展はあったが、箱が見つかったわけではない」
「はい」
「青い髪飾りも見つかっていない」
「はい」
最初にそこを聞けたことで、期待が膨らみすぎずに済んだ。
「聞きます」
アルフォンスは報告書を開いた。
「ギュスターヴは、西側保管室に濃い色の木箱が入ったことを覚えていた。両手で持てるくらいの大きさで、花か葉のような彫りがあったそうだ」
エレノアの指が僅かに動く。
「お母様の箱……」
「可能性は高くなったと思う。ただし、彼は野薔薇だとは確認していない」
「はい」
「その箱は保管されてから二週間も経たないうちに、本邸へ戻すため保管室から出された記憶があるそうだ。帳簿にある十二日後の記録とも時期は合う」
「じゃあ、保管室からなくなったあと……」
「本邸へ戻った可能性が高い」
「どこに?」
「そこは分からない」
エレノアは少し俯いた。
箱は屋敷の外へすぐ捨てられたわけではなかったのかもしれない。
少なくとも、一度は本邸へ戻った可能性がある。
「誰が戻したんですか?」
「ギュスターヴ本人は棚から出して廊下まで運んだ記憶がある。ただ、そのあと誰へ渡したかは曖昧だそうだ」
「お義母様?」
「ヴァレリア本人が運んだわけではないらしい。侍女から、『奥方様が確認するため』という趣旨の指示を受けたと話している」
「侍女……」
胸の奥がざわついた。
「どんな人ですか?」
アルフォンスが一瞬だけ間を置いた。
その僅かな間で、エレノアには何かあるのだと分かった。
「赤みのある茶色の髪で、当時二十代後半ほど。細身の女性だったと記憶しているそうだ」
指先が冷たくなった。
頭の中に、まだ輪郭のない記憶が浮かぶ。
厨房の近く。
細い指。
赤茶色の髪。
腕を掴まれた感覚。
けれど顔が出てこない。
「エレノア」
アルフォンスの声が聞こえる。
エレノアは自分の腕へ触れそうになり、途中で止めた。
「……似てます」
「ああ」
「私が覚えてる人に」
「特徴は似ている」
「同じ人?」
「まだ分からない」
その返事に、エレノアはゆっくり息を吐いた。
「そうですよね」
「ギュスターヴも名前は覚えていない」
「お父様は調べてる?」
「当時ヴァレリアの近くにいた侍女を照合している」
「分かったら教えてください」
「ああ。ただし、名前が一致する人物が見つかっても、その人が箱を運んだ、あるいはお前の腕を掴んだ人物だと確定するわけではない」
「分かってます」
エレノアは自分で言ったあと、もう一度頷いた。
「似てるだけです」
「そうだ」
アルフォンスは少し待った。
「続けられる?」
エレノアは胸のざわつきを確かめる。
怖さはある。
それでも、聞けないほどではない。
「続けます」
「ギュスターヴは、その箱が保管室へ戻ってきた記憶はないと話している。ただ、別の場所へ移された可能性までは否定できないそうだ」
「じゃあ、本邸のどこかにあったかもしれない?」
「ああ」
「今も?」
「それは分からない」
また分からない。
けれど、昨日までとは違う。
箱は西側保管室で消えたのではなく、一度本邸へ戻った可能性が出てきた。
「探す場所が変わりますね」
エレノアが言うと、アルフォンスは少し目を見開いた。
「そうだな」
「保管室だけじゃなくて、お屋敷の中」
「ああ。ロベルトにも同じ考えがあるはずだ」
「私の部屋に戻った可能性も?」
「ゼロではない」
「でも、ノエルさんはそのあと見てない?」
「少なくとも、彼女が仕えていた期間に戻ったという証言はない」
エレノアは考えた。
自分の部屋。
机の引き出し。
まだ開けていない場所。
別の部屋。
ヴァレリアの管理する場所。
「叔父様」
「うん?」
「私の部屋を、もっと調べてもらうことはできますか?」
「できる。ただ、お前の私物を調べることになる」
「勝手には開けない?」
「もちろん」
「じゃあ……」
エレノアは少し考えた。
「全部じゃなくて、どこに何があるかを先に教えてほしいです」
「一覧にする?」
「はい。それを見て、開けていいところを私が決めたいです」
アルフォンスの表情が柔らかくなる。
「分かった。そうしよう」
「あと、お義母様の部屋は?」
「そこはお前の許可だけで調べられる場所ではない。ベルナール家側で、必要性と権限を整理することになる」
「私が調べてって言ったら、すぐ開けられるわけじゃないんですね」
「ああ」
エレノアは少し安心した。
自分の物を勝手に開けられたくない。
それなら、嫌いな相手だからという理由だけで、ヴァレリアの物を何でも勝手に開けていいとは思えなかった。
「ちゃんと調べてください」
「うん」
「でも、勝手にはしないで」
「約束する」
エレノアは背もたれへ少し身体を預けた。
そこでアルフォンスは報告書を閉じかけたが、エレノアが気づいた。
「まだありますか?」
「ある。ただし、今聞く必要はない」
「どんなこと?」
「ギュスターヴが覚えていた侍女の言葉だ」
エレノアは少し迷った。
「私のこと?」
「おそらく。ただ、何について話していたかまでは分かっていない」
「……聞きます」
アルフォンスは慎重に言葉を選んだ。
「その侍女が以前、『エレノアお嬢様はもうお使いになりませんから』という趣旨のことを話していた記憶があるそうだ」
エレノアの眉が寄る。
「何を使わないって?」
「分からない。衣装だったのか、小物だったのかも覚えていないそうだ」
「また……」
服のことが浮かぶ。
三着。
自分のために仕立てられ、ミレーヌの体型へ直された服。
「私、何でも『いらない』って言ってたんでしょうか」
「そうとは限らない」
「でも、アニエスさんには何でもいいって言ってたんですよね」
「ああ」
「箱も必要ないって言われて、服も使わないって言われて……」
言葉が少し詰まる。
「私が本当に言ったのか、誰かがそう言ったのか、分からない」
「そうだな」
「私、自分でも覚えてない」
「全部を覚えていなくてもいい」
エレノアは膝の上の手を見つめた。
「今の私は、欲しいって言えるようになってきました」
「ああ」
「でも昔の私は……言わなかったのかな」
「言えなかったのかもしれないし、本当に欲しくないものもあったかもしれない。誰かにそう言わされた可能性もあるし、何も聞かれずに周囲が決めた可能性もある」
「いっぱいありますね」
「だから調べる」
アルフォンスの返事に、エレノアは顔を上げた。
「今のお前が、昔の自分を責める必要はない。何も言えなかったとしても、それには理由があったはずだ」
胸の奥に、少しだけ痛みが走った。
(私、何も言わなかったから、取られたのかな)
そんな考えが浮かびかけた。
けれど、エレノアは昨日書いた言葉を思い出した。
分かったことと、分からないことを一緒にしない。
「……私が言わなかったから取られた、って決めるのも違いますね」
「そうだ」
「まだ分からないから」
「ああ」
エレノアはゆっくり息を吐いた。
「今日は、ここまでにします」
「分かった」
アルフォンスは報告書を閉じた。
そこでエレノアは、もう一つだけ思い出す。
「ミレーヌの返事は?」
「まだ届いていない」
「そうですか」
「気になる?」
「少し」
以前なら、気になっていること自体を隠したかもしれない。
「でも、来たらすぐ聞くかは、その時に決めます」
「うん」
アルフォンスは立ち上がりかけたが、エレノアが小さく呼び止めた。
「叔父様」
「何だ?」
「お父様が調べに行ったんですよね。自分で」
「ああ」
「私……それを、嬉しいって思ったらだめですか?」
アルフォンスは座り直した。
「どうして、だめだと思う?」
「だって、帰りたくないし、まだ会いたくないし、許してもいないのに」
「それと、ロベルトが動いたことを嬉しいと思う気持ちは別だろう」
「別でいい?」
「ああ」
エレノアは少し黙った。
「じゃあ、少し嬉しいです」
「うん」
「でも、帰りたくはないです」
「分かってる」
「会いたいとも、まだ思いません」
「それも分かってる」
「……よかった」
エレノアは小さく笑った。
「嬉しいって思ったら、全部許したことになるのかと思いました」
「ならないよ」
アルフォンスの声は穏やかだった。
「人の気持ちは、一つだけじゃない」
以前にも似たことを教えてもらった。
怒りながら楽しいと思っていい。
嫌いながら、相手がやっていないことまで責めなくていい。
父が動いたことを嬉しいと思いながら、会わないことを選んでもいい。
(気持ちも、一個に決めなくていいんだ)
そのことを知るたびに、胸の中に少しずつ余白が増えていく気がした。
◇ ◇ ◇
午後遅く、ミレーヌは父の書斎へ入った。
昨日とは違い、今日は自分から椅子へ座る。
「決めた」
「何を話したいか?」
「うん」
ロベルトは机の上の書類を脇へ寄せた。
「記録を取ってもいいか?」
「お姉様に送るの?」
「ロシュフォール公爵へ送る。エレノアが聞くかどうかは、本人が決める」
ミレーヌは少し複雑そうな顔をしたが、頷いた。
「いいよ」
「では、話してくれ」
記録係を呼ぼうとしたロベルトを、ミレーヌが止めた。
「お父様が書いて」
「私が?」
「うん。知らない人に聞かれるの、ちょっと嫌」
「分かった」
ロベルトは自分で紙を用意した。
ミレーヌはすぐには話し始めなかった。
窓の外を見たり、自分の指を組み直したりしながら、何度か口を開きかける。
「急がなくていい」
「分かってる」
少し不機嫌そうに返したあと、ミレーヌは息を吐いた。
「まず、服のこと」
「ああ」
「三着とも、お姉様のために作った服だったって知らなかった」
ロベルトはそのまま記す。
「お母様からもらった。少なくとも私は、そう思ってた」
「いつ頃?」
「全部は覚えてない。でも、一着は誕生日の少し前だったと思う」
「続けて」
「気に入ってた服もある。だから、お姉様の物だって分かっても、何とも思わないわけじゃない」
ミレーヌは唇を少し尖らせる。
「返したくないっていうか……なくなるのは嫌」
ロベルトは口を挟まなかった。
「でも、お姉様の物なら返す」
「うん」
「それから」
ミレーヌの声が少し小さくなる。
「知らなかったって言いたい」
「それは書く」
「でも、『知らなかったから私悪くないよね』って言いたいわけじゃない」
ロベルトの筆が止まる。
「どう違う?」
「分かんない」
ミレーヌは困ったように眉を寄せた。
「私、本当に知らなかった。でも、着てたのは本当だし、お姉様が着てないことも気にしてなかった」
「それを伝える?」
「うん」
ロベルトは再び書き始める。
「あと……お姉様が何を食べてたかも知らなかった」
「食事のことか」
「この前、コレットと話したの。お茶を一緒に飲んだことはあるのに、お姉様が何を食べてたか二人とも思い出せなかった」
ミレーヌの声から、普段の軽さが少し消えた。
「私、お姉様のこと、ずっと大丈夫な人だと思ってた」
「大丈夫な人?」
「何でも怒らないし、何でも譲ってくれるし、私が欲しいって言ったら『いいわ』って言うし。お母様も、お姉様はそういう子だって言ってたから」
「ヴァレリアが?」
「うん。お姉様は一人が好きだから放っておいてあげた方がいいとか、お茶もあまり好きじゃないとか、華やかな服は苦手とか」
ロベルトの筆がゆっくり止まった。
「それを、ヴァレリアから聞いていた?」
「うん」
「いつから?」
「分かんない。ずっと」
「エレノア本人から聞いたことは?」
ミレーヌが黙る。
長い沈黙のあと、首を横へ振った。
「たぶん、ない」
ロベルトは紙を見つめた。
娘たちの間にあった距離。
それを単なる性格の違いだと思っていた。
「それも伝えるか?」
「……うん」
「ヴァレリアを責める内容になる可能性がある」
「でも、本当にお母様から聞いた」
「分かった。そのまま記す」
ミレーヌは父が書く様子を見つめていた。
「最後に一個」
「何だ?」
「会って、謝りたい……のかもしれない」
「かもしれない?」
「何を謝るのか、自分でもちゃんと分かってないから」
ミレーヌは膝の上で手を握る。
「服を着たこと? お姉様のこと何も知らなかったこと? お姉様がいなくなってから初めて考えたこと? どれなのか分からない」
「それでも伝える?」
「……うん。でも、お姉様が会いたくないなら会わなくていい」
その言葉を口にするのは簡単ではなかったらしく、ミレーヌの表情には寂しさが滲んでいた。
「本当は会いたいよ。でも、怖いなら……私が会いたいからって会わせるのは違うんでしょう?」
ロベルトはすぐには答えられなかった。
自分は、エレノアが帰りたくないと言ったときに連れ戻そうとした。
娘が何を望むかより、伯爵家へ戻ることが当然だと思っていた。
「そうだな」
ようやくそれだけ答える。
「じゃあ、それも書いて」
「ああ」
ロベルトは最後まで書き終えた。
「内容を確認するか?」
「読んで」
ロベルトは、できるだけ言葉を変えずに読み上げた。
ミレーヌは途中で二度修正を求めた。
一度目は「返すのが嫌」を「なくなるのが嫌」に。
二度目は「謝りたい」を「何を謝ればいいのかまだ分からないけれど、謝りたいと思っている」に。
すべて直したあと、ミレーヌは頷いた。
「それでいい」
「ロシュフォール公爵へ送る」
「うん」
「エレノアが聞かないことを選ぶ可能性もある」
ミレーヌは目を伏せた。
「分かってる」
少し間を置いてから、顔を上げる。
「でも、私が言いたいことを勝手に変えないで送ってくれるんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、いい」
ミレーヌは立ち上がった。
扉へ向かう途中で、ふと思い出したように振り返る。
「お父様」
「何だ?」
「お母様に、今の話する?」
「必要なことは確認する。ただ、お前がエレノアへ伝えたいと言った内容を、そのままヴァレリアへ見せることはしない」
「そっか」
ミレーヌは少し安心したように頷いた。
「じゃあ、お願い」
扉が閉じたあと、ロベルトは娘の言葉を書いた紙を見つめた。
『お姉様は一人が好きだから』
『お茶もあまり好きではない』
『華やかな服は苦手』
どれも、エレノア本人の言葉ではなかった。
そして今、ロシュフォール家から届く報告では、エレノアは自分で服の色を選び、食べたいものを選び、庭を歩き、刺繍を始めている。
どちらが本当の娘なのか。
その問い自体が間違っているのかもしれない。
昔のエレノアも、今のエレノアも同じ一人の娘だ。
ただ、自分はその娘が何を好きなのかを聞かなかった。
◇ ◇ ◇
夕食前、エレノアは厨房の入口に立っていた。
リディアが隣にいる。
中では何人もの料理人や使用人が動き、鍋から立つ湯気と焼いた肉の香りが混ざっていた。金属の器具が触れ合う音や、短い指示の声が絶えず響いている。
人が多い。
熱い。
少し怖い。
けれど、ベルナール伯爵邸の厨房とは違う。
「入りますか?」
リディアが尋ねる。
エレノアはすぐには答えず、中の様子を見た。
「入口で話すだけでもいいですか?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、今日はここで」
リディアが中の使用人へ声をかけると、ほどなくして大柄な男性が手を拭きながらやってきた。
四十代ほどで、腕まくりした袖から太い腕が見えている。
「お嬢様。お呼びと伺いました」
マティアスだった。
エレノアは少し緊張しながら、朝の布包みを差し出した。
「パン、一つ食べました」
「ありがとうございます」
「おいしかったです」
マティアスの顔が明るくなる。
「それは何よりでございます」
「でも、一つ残しました」
「はい」
「返しても、嫌じゃないですか?」
マティアスは一瞬きょとんとしたあと、エレノアの質問の意味を考えるように少しだけ顎へ手を当てた。
「残念かどうか、という意味でしたら、お嬢様が無理をして召し上がる方が私は困ります」
「困る?」
「料理人は食べる方のお腹を見ることができませんから。足りなければ足りないと、もう十分なら十分と教えていただける方が助かります」
「残ったら?」
「使えるものなら別の形で使います。使えない状態なら処分することもございます」
「怒らない?」
「怒りません。ただ、毎日十個欲しいと仰って九個残されましたら、『明日は二個にいたしましょう』と相談するかもしれません」
エレノアは想像して、少し笑った。
「十個は食べられません」
「私もそう思います」
「じゃあ、明日も二個持ってきてもらって、一個しか食べなかったら?」
「それなら翌日は、一個にするか二個にするかお尋ねします」
「勝手に一個にしない?」
「お嬢様が毎日同じ量を望まれるとは限りませんので」
エレノアは布包みをマティアスへ渡した。
「今日は返します」
「承知いたしました」
「明日は……」
そこで考える。
「明日の朝、決めます」
「では、明日の朝に伺います」
マティアスは何でもないことのように答えた。
その返事が嬉しかった。
「あと、昨日のお魚の葉っぱ、おいしかったです」
「香草でございますね」
「はい。また食べたいです」
「承知いたしました。ただ、同じ魚が入るとは限りませんので、別の料理でもよろしいでしょうか」
「香草が同じなら?」
「近い風味にはできます」
「じゃあ、それがいいです」
「かしこまりました」
厨房から漂う香りの中で、エレノアは自分が食べたいものを料理人へ直接伝えた。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かい。
部屋へ戻る途中、リディアが穏やかに言った。
「マティアスは嬉しそうでございましたね」
「パンを返したのに?」
「お嬢様がご本人へ感想をお伝えになったからではないでしょうか」
「そうなのかな」
「私には、そう見えました」
リディアはそこで少し笑う。
「ただし、本人に確認したわけではございませんので、断言はいたしません」
エレノアも笑った。
「最近、みんなそれ言いますね」
「大切なことなのでしょう?」
「はい」
廊下の窓から夕方の光が差し込み、二人の影を床へ長く伸ばしていた。
母の箱はまだ見つからない。
青い髪飾りもない。
赤茶色の髪をした侍女が誰なのかも分からない。
けれど今日、箱が一度は本邸へ戻された可能性が高くなった。
そして自分は、残したパンをどうするか自分で決め、料理人へ好きな味を伝えた。
大きなことと、小さなこと。
どちらも今日起きた、自分に関係する出来事だった。
◇ ◇ ◇
日が沈んで間もなく、ロシュフォール公爵邸へベルナール伯爵家から二通目の書面が届いた。
一通は、ギュスターヴへの聞き取り後に進められた使用人名簿の照合結果。
もう一通は、ミレーヌがエレノアへ伝えたい内容を、本人の確認を経て記録したものだった。
アルフォンスは執務室で両方を読んだ。
先に開いた名簿照合の書面には、一人の名前が記されている。
ナタリー・ヴェルヌ。
現在三十一歳。
五年前から二年前まで、ヴァレリア付き侍女。
赤みのある茶髪。細身。
退職理由は結婚。
現在の所在は調査中。
食事制限の記録が確認されている期間とも、一部重なる。
ただし、ギュスターヴが見た侍女がナタリーであるとは未確認。
エレノアの記憶にある赤茶色の髪の女性とも、同一人物とは確認されていない。
アルフォンスはそこを二度読んだ。
似ている。
だが、まだ似ているだけだ。
次にミレーヌの記録へ目を通す。
読み進めるうちに、アルフォンスの眉が僅かに寄った。
『お姉様は一人でいるのが好きだと母から聞いていた』
『お茶を好まないと聞いていた』
『華やかな服を好まないと聞いていた』
エレノアがここへ来てから見せた姿と、完全には一致しない。
もちろん、人の好みは変わる。
環境によっても変わる。
だから、ヴァレリアが嘘を教えていたと即座に決めることはできない。
しかし、母親を介して姉妹の認識が作られていた可能性はある。
「父上」
声に顔を上げると、開いた扉のところにセドリックが立っていた。
「入っていい?」
「ああ」
セドリックが向かいへ座る。
「ベルナール家から?」
「二通来た」
「エレノアに話す?」
「今日は話さない」
「どうして?」
「本人が、返事が来たら聞くかどうか決めると言っていたからだ」
アルフォンスは二通を揃えて机へ置く。
「来たことだけ伝える。内容を聞くかどうかは、エレノアが決める」
セドリックは頷いた。
「ナタリーという名前は?」
「それも同じだ。急を要する危険情報ではない。今夜、無理に聞かせる必要はない」
「分かった」
少し沈黙したあと、セドリックがミレーヌの書面を見る。
「妹は何て?」
「それも、エレノアが聞くと決める前に私から話すことじゃない」
「僕にも?」
「お前にもだ」
セドリックは一瞬不満そうな顔をしたが、やがて息を吐いた。
「そうだね」
「気になるか?」
「気になる。でも、それと僕が知っていいかは別だろ」
アルフォンスは少し笑った。
「お前も変わったな」
「誰のせいだと思ってるの」
「エレノアか?」
「たぶん」
セドリックは椅子の背へ身体を預けた。
「守るって、全部先に知って全部決めることだと思ってた」
「私もだ」
「でも、あの子はそれをされたくないんだろうね」
「ああ」
アルフォンスは二通の書面へ視線を落とす。
「だからこそ、守る側も覚えなければならない」
「何を?」
「待つことを」
セドリックはしばらく父を見ていたが、やがて小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
夕食を終えたあと、エレノアは自室へ戻る前にアルフォンスから呼び止められた。
「エレノア。報告が二つ届いている」
「二つ?」
「一つは、今日話した赤茶色の髪の侍女に関するもの。もう一つはミレーヌからだ」
胸が少し速くなる。
「ミレーヌ、答えたんですか?」
「ああ」
「何て?」
聞きかけて、エレノアは口を閉じた。
アルフォンスは答えなかった。
待っている。
自分が本当に聞くと決めるまで。
「……今、聞くって言ったら聞けますか?」
「聞ける」
「明日にしたら?」
「明日まで保管する」
「もっとあとでも?」
「構わない」
エレノアは廊下の窓へ視線を向けた。
外はもう暗く、庭園の輪郭もほとんど見えない。
今日はギュスターヴの話を聞いた。
赤茶色の髪の侍女のことも聞いた。
厨房にも行った。
頭の中には、すでにいろいろなものがある。
(知りたい。でも、今日はもういっぱいかもしれない)
ミレーヌが何を言ったのかは気になる。
赤茶色の侍女の名前も気になる。
けれど、今聞いたら寝るまで考え続ける気がした。
「明日にします」
「分かった」
「二つとも」
「ああ」
「なくならないですよね?」
「もちろん」
「誰かが勝手に読んだり、内容を変えたりしない?」
「私が保管する。内容も変えない」
エレノアは安心して頷いた。
「じゃあ、明日」
「おやすみ、エレノア」
「おやすみなさい、叔父様」
自室へ戻ると、机の上には三つの星を刺した布が置かれていた。
エレノアは椅子へ座り、青い星二つと黄色い星一つを指先でそっとなぞる。
四つ目を刺すかどうかは、まだ決めていない。
明日になってから決めればいい。
報告を聞くのも同じだった。
(知りたいからって、今すぐ知らなくてもいい)
以前の自分なら、誰かから「話がある」と言われただけで、何を言われるのか分からない恐怖に耐えられず、その場で聞こうとしたかもしれない。
あるいは、怖くて何も聞かず、相手の決定を受け入れたかもしれない。
今はその間に、自分で選べる場所がある。
聞く。
聞かない。
今日は聞かない。
明日になったら聞く。
途中まで聞いて止める。
選択は二つだけではない。
エレノアは引き出しから、自分で書き始めた紙を取り出した。
昨日までの言葉の下へ、新しい一文を加える。
『知りたいことでも、知る時は私が決めていい』
書き終えたあと、少し眺める。
それから紙を自分で引き出しへ戻した。
明日には、ミレーヌが何を話したいのかを聞くかもしれない。
赤茶色の髪の侍女について、新しい名前を知るかもしれない。
母の箱へ繋がる道も、ほんの少し先へ進むかもしれない。
それでも今夜は、もう調べなくていい。
寝台へ向かう前、エレノアは窓の外を見た。暗い庭のさらに向こうにある南の小池はここから見えないが、明日の朝も銀色の小魚は泳いでいるだろうかと思うと、自然に口元が緩んだ。
(明日も、見に行きたい)
誰かに言われたからではない。
役に立つからでもない。
調査のためでも、母のためでも、父のためでもない。
自分が行きたいから行く。
明日の予定の中で、エレノアが今夜のうちに決めたのは、それだけだった。




