第27話 妹の言葉を聞くかどうか
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、最初に思い出したのはアルフォンスが預かっている二通の書面ではなかった。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光を眺めながら、まだ眠気の残る頭に浮かんだのは、南の小池を泳ぐ銀色の小魚だった。昨日は雨上がりの水が少し濁っていたけれど、今日はどうなっているだろう。ジュリアスは北庭園の仕事だと言っていたから、池へ行っても会わないかもしれない。それでも構わなかった。
(今日も、魚を見に行きたい)
そう思ってから、昨夜のことを思い出した。
赤茶色の髪をした侍女についての報告と、ミレーヌから届いた言葉。どちらもアルフォンスが保管しており、内容はまだ聞いていない。
気にならないわけではない。むしろ、ミレーヌが何を話したいと言ったのかは、昨夜から胸の片隅に残っている。
それでも、目を覚ました瞬間に最初に浮かんだものが調査ではなかったことを、エレノアは少し不思議に思った。
「おはようございます、お嬢様」
控えめなノックのあと、返事を待って入ってきたリディアが窓辺へ向かう。エレノアが頷いたのを確かめてからカーテンを開けると、昨夜まで残っていた雲はほとんど消えており、朝の庭園には柔らかな日差しが落ちていた。
「おはようございます。今日は晴れてますね」
「はい。庭師たちも朝から忙しそうでございます」
「南の小池に行きたいです」
口にしてから、エレノアは一瞬だけリディアの顔を見た。
以前なら、最後に「行ってもいいですか」と付け足していただろう。
リディアは何も不自然なことがなかったように頷いた。
「では、ご朝食のあとでしょうか」
「はい。そのつもりです。でも、先に叔父様のお話を聞くかもしれません」
「昨日届いたご報告でございますね」
「はい」
エレノアは寝台から降りながら、自分の中にある二つの希望を確かめた。
報告を聞きたい。
魚も見たい。
どちらかを選んだら、もう一方を諦めなければならないわけではない。
「朝ご飯を食べながら決めます」
「かしこまりました」
衣装棚の前では、リディアが三着のドレスを並べた。淡い緑、白に近い薄紫、そして昨日とは少し色味の違う水色である。
エレノアは最初に水色へ目を向けたものの、今日は薄紫の前で視線が止まった。
「これ、着たことありました?」
「こちらへいらしてからは、まだ一度もお召しになっておりません」
「そうなんですね」
嫌な感じはしない。
けれど、好きかどうかもまだ分からなかった。
「今日はこれにします」
「髪飾りはいかがなさいますか?」
リディアが数本のリボンを見せる。白、青、黄色、それから柔らかな灰色。
エレノアはしばらく見比べたあと、白を指した。
「これをつけたいです」
「承知いたしました」
支度を終えて鏡の前に立つと、薄紫のドレスと白いリボンをつけた自分が映っていた。似合っているのかどうかはよく分からないが、少なくとも嫌ではない。
「リディア」
「はい」
「これ、似合いますか?」
「よくお似合いでございます」
「本当に?」
「はい。ただ、私が似合うと思うことと、お嬢様がお好きかどうかは別でございますね」
エレノアは鏡の中の自分をもう一度見た。
「……まだ分かりません」
「では、今日一日お召しになってからお考えになってもよろしいかと」
「明日には嫌いになるかもしれない?」
「その可能性もございますし、好きになるかもしれません」
「どっちでもいい?」
「もちろんでございます」
エレノアは小さく笑った。
「じゃあ、今日はこれにします」
◇ ◇ ◇
朝食の席には、アルフォンス、マルグリット、オーギュスト、セドリックが揃っていた。
焼きたてのパンと卵料理、温かな野菜のスープ、それに果物が並んでいる。エレノアの前には昨日までと同じように、最初から多すぎない量が置かれていた。
「おはよう、エレノア」
マルグリットが微笑む。
「おはようございます」
席についたエレノアがパンへ手を伸ばそうとしたところで、厨房から料理を運んできた使用人が一歩前へ出た。
「エレノアお嬢様。料理長より、今朝のパンについて伺うよう申しつかっております」
「マティアスさんから?」
「はい。昨日お持ちした小さなパンを、本日も二つご用意するか、一つにするか、朝食後に改めてお決めいただきたいとのことでございます」
エレノアは目を瞬いたあと、昨日厨房の入口で交わした会話を思い出した。
勝手に一つへ減らさない。
今日の自分へ聞く。
「まだ決めなくてもいいですか?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、朝ご飯を食べてから決めます」
「かしこまりました」
使用人が一礼して離れると、向かいに座っていたセドリックが少し笑った。
「ずいぶん真剣にパンの数を相談してるね」
「大事なんです」
「うん。大事だね」
からかわれると思ったエレノアは、素直に返されたことで少しだけ拍子抜けした。
オーギュストがスープを口へ運びながら、低い声で言う。
「食べ物の量は重要だぞ。わしなど若いころは、厨房に顔を出すたびに肉を増やせと言っていた」
「あなたの場合は増やしすぎだったのです」
マルグリットがすぐに返したため、オーギュストは不服そうに眉を上げた。
「若者は食わねば育たん」
「三十歳を過ぎても同じことを言っていたでしょう」
「まだ育つつもりだった」
セドリックが吹き出し、アルフォンスも口元を緩める。
エレノアはパンをちぎりながら二人のやり取りを聞き、やがて堪えきれずに笑った。
笑いながら食事をしても、誰も咎めない。
そのことを、以前ほど意識しなくなっている自分にも気づいた。
スープを半分ほど飲んだところで、エレノアはアルフォンスへ視線を向けた。
アルフォンスは何も言わない。
昨夜の書面について、自分から話し始める様子もなかった。
「叔父様」
「うん?」
「昨日の二つの報告、まだありますよね?」
「ああ。私の執務室で保管している」
「内容は変わってない?」
「一文字も」
エレノアはパンを一口食べてから考える。
「朝ご飯のあとに、聞きたいです」
「二つとも?」
「……先に、ミレーヌの方を聞きたいです」
「分かった」
「もう一つは、そのあと決めます」
「ああ」
アルフォンスはそれだけ答えた。
誰も「せっかくだから両方聞けばいい」とは言わない。
エレノアは少し安心して食事を続けた。
卵は全部食べた。スープも飲み切った。果物は三切れのうち二切れで十分だと思い、一切れを残した。
食後、先ほどの使用人がもう一度やってくる。
「お嬢様。小さなパンはいかがなさいますか?」
エレノアは自分のお腹の具合を確かめた。
「今日は一つにします」
「かしこまりました」
「でも、明日はまた聞いてください」
「マティアスも、そのつもりでございます」
「よかった」
そう答えてから席を立った。
今日は一つ。
明日は、明日の自分が決める。
◇ ◇ ◇
ミレーヌから届いた書面を聞く場所として、エレノアは昨日と同じ南向きの小さな居間を選んだ。
ただし、今日はアルフォンスだけではなく、マルグリットにも一緒にいてほしいと頼んだ。セドリックを嫌だから外したわけではないし、アルフォンスと二人では不安だから祖母を呼んだわけでもない。ただ、今朝はマルグリットがそばにいてほしいと思った。
窓際の一人掛け椅子へマルグリットが座り、アルフォンスはエレノアの正面ではなく、少し斜めの位置に腰を下ろしている。
書面はまだ封筒に入ったままだった。
「これはロベルトが書いたものだが、内容はミレーヌ本人が確認しているそうだ」
アルフォンスが説明する。
「お父様が勝手にまとめたんじゃない?」
「ミレーヌ本人が話し、ロベルトが書き取った。最後に読み上げ、二か所はミレーヌ自身の希望で表現を直している、と添えられている」
「どこを直したかも分かるんですか?」
「ああ。元の表現と、修正後の表現が併記されている」
エレノアは封筒を見つめた。
「私が自分で読んでもいい?」
「もちろん」
「叔父様に読んでもらっても?」
「できる」
「お祖母様に読んでもらうのは?」
マルグリットが静かに頷く。
「あなたがそう望むなら」
三つの方法がある。
自分で読む。
アルフォンスに読んでもらう。
マルグリットに読んでもらう。
エレノアは少し迷ったあと、手を伸ばした。
「自分で読みます」
アルフォンスが封筒を渡す。
紙を取り出したエレノアは、すぐには読み始めなかった。
「途中でやめてもいいですよね?」
「ああ」
「読み終わらなくても?」
「構わないわ」
マルグリットの声も重なる。
エレノアは頷き、最初の行へ目を落とした。
そこには、ミレーヌが三着の服について、自分のために作られたものだとは知らなかったと話したことが記されていた。
ヴァレリアから与えられたため、自分への贈り物だと思っていたこと。
気に入っていた服もあり、それが手元からなくなることには寂しさを感じること。
けれど、エレノアの所有物だと確認されたなら返すつもりでいること。
最初に「返したくない」と表現したものを、ミレーヌ自身が「なくなるのは嫌」と修正したことまで書かれている。
エレノアの目が、その一文で止まった。
(気に入ってたんだ)
胸の中に浮かんだ感情は、自分でもすぐには名前をつけられなかった。
怒りだけではない。
悲しさだけでもない。
自分のために作られた服を、自分はほとんど覚えていない。その服をミレーヌは着て、気に入り、なくなるのを嫌だと思っている。
「エレノア?」
マルグリットが呼ぶ。
「……大丈夫、じゃなくて」
反射的に出かけた言葉を止め、エレノアは紙から目を上げた。
「少し、嫌な気持ちです」
「そう」
「でも、ミレーヌが気に入ってたっていうのも……なんか、嫌じゃないです」
自分で口にしても、よく分からない。
「変ですか?」
「いいえ」
マルグリットはすぐに否定しなかった。少し考えるようにエレノアを見てから、穏やかに続ける。
「自分の物を知らないうちに使われていたことは嫌だけれど、それを気に入った人の気持ちまで嫌いとは限らないのでしょう」
「……そうなのかな」
「私が決めることではないわね。あなたがこれから考えて、違うと思えば違っていていいのよ」
エレノアは紙を見つめ直した。
「もう少し読みます」
次に書かれていたのは、「知らなかった」という言葉だった。
ただしミレーヌは、知らなかったから自分は悪くないと言いたいわけではない、と続けていた。
自分は本当に知らなかった。
それでも服を着ていた。
姉が何を着ているのか、何を食べているのかを気にしていなかった。
コレットと話して初めて、姉と一緒に茶を飲んだことはあるのに、姉が何を食べていたのか二人とも思い出せなかったことに気づいた。
そこまで読んだところで、エレノアの指が紙の端を強くつまんだ。
記憶が蘇ったわけではない。
ただ、伯爵邸の茶会用の小さな部屋が頭に浮かんだ。ミレーヌの前には色鮮やかな菓子が並び、自分の前には何があったのだろうと考えても、はっきりしない。
(私も、覚えてない)
何を食べていたのだろう。
食べていたのだろうか。
分からない。
「止める?」
アルフォンスが尋ねる。
エレノアは紙を膝へ下ろした。
「少しだけ」
「うん」
誰も次を急かさなかった。
窓の外では、庭師が遠くの花壇を横切っている。枝を揺らす風の音と、廊下の向こうから聞こえる使用人の足音が、部屋の静けさの中へ薄く混ざっていた。
「ミレーヌも覚えてないんですね」
「そう書かれているな」
「私が何を食べてたか」
「ああ」
「私も覚えてません」
エレノアは膝の上の紙へ視線を落とした。
「それが、ちょっと怖いです」
マルグリットの手が動きかけたが、途中で止まった。触れてよいかを尋ねるような視線を向けられ、エレノアは自分から少し身体を寄せる。
それを合図に、マルグリットの手がそっと背ではなく肩へ置かれた。
「今は、今日の朝に何を食べたか覚えている?」
「はい。パンと、卵と、野菜のスープ。果物は二つ食べて、一つ残しました」
「昨日は?」
「朝は……パンを大きい方にして、卵と、果物と、スープです。庭でマティアスさんのパンを一つ食べました」
言葉にしているうちに、エレノアの肩から少し力が抜けた。
「覚えてます」
「ええ」
「これからは、覚えていけるかな」
「きっと全部は覚えていないでしょうね」
マルグリットの答えは、エレノアが期待したものとは少し違った。
「全部じゃない?」
「私だって、十日前の朝食をすべて覚えてはいないもの。でも、食べたことそのものを怖がらずにいられる日が増えれば、それでいいのではないかしら」
エレノアは少し考えた。
「忘れても、食べたことがなくなるわけじゃない?」
「ええ」
その言葉を胸の中で何度か確かめてから、エレノアは再び書面を持ち上げた。
続きを読む。
そこには、ミレーヌがエレノアを「何でも怒らず、何でも譲ってくれる、大丈夫な人」だと思っていたことが記されていた。
そして、その認識の多くがヴァレリアから聞いたものだったことも。
『お姉様は一人でいるのが好きだから、放っておいてあげた方がいい』
『お茶はあまり好きではない』
『華やかな服は苦手』
エレノアは、その三つの文を何度も読み返した。
胸の奥に、冷たいものがゆっくり広がる。
「私、一人が好きだったのかな」
誰へともなく尋ねる。
アルフォンスは答えを急がなかった。
「今は?」
「今?」
「ああ。今のお前は、一人が好き?」
エレノアは考える。
南の小池では一人で魚を見る時間が好きだった。
昨日はリディアを自分から隣へ誘った。
セドリックと一緒に歩くのも嫌ではない。
マルグリットと刺繍をする時間も好きになってきた。
夜、クロノアと話すこともある。
「一人でいたい時もあります」
「うん」
「でも、ずっと一人がいいわけじゃないです」
「それが今のお前だ」
「昔は?」
「私は分からない」
アルフォンスははっきり言った。
「お前自身が本当に一人を好んでいた時期があったかもしれない。周囲から離されて一人でいることに慣れただけかもしれない。ヴァレリアが正しく理解していた可能性も、都合よく説明していた可能性もある。今ある情報だけで、どれか一つに決めることはできない」
「ミレーヌも、お義母様から聞いただけ?」
「少なくとも、この書面では、本人から聞いた覚えはないと話している」
エレノアは唇を結んだ。
(ミレーヌは、私に聞かなかった)
それは少し寂しい。
同時に、自分もミレーヌへ何かを聞いたことがあっただろうかと思う。
好きな色。
好きな食べ物。
欲しいもの。
自分は知っていただろうか。
「私も、ミレーヌの好きな食べ物、知らないです」
アルフォンスが僅かに目を細める。
「そうか」
「好きな色は……たぶん桃色だと思ってました。でも、本当に好きかは聞いたことないです」
自分たちは姉妹だった。
同じ家で暮らしていた。
それなのに、お互いをほとんど知らなかったのかもしれない。
ただし、その事実だけで二人が同じだったとは思えない。エレノアは家の中で食事を減らされ、物を取り上げられ、傷を隠していた。ミレーヌが同じ目に遭っていたわけではない。
違う立場だった。
それでも、知らなかったという一点だけなら、互いにあるのかもしれない。
「続きを読みます」
最後の部分へ進む。
ミレーヌは、会って謝りたいのかもしれない、と話していた。
何を謝ればいいのか、自分でもまだ分からない。
服を着ていたことなのか。
姉について何も知らなかったことなのか。
姉が家を出てから初めて考え始めたことなのか。
それでも謝りたいと思っている。
そして最後に、自分は会いたいが、エレノアが会いたくないなら会わなくていい、と記されていた。
『私が会いたいからって会わせるのは違うんでしょう?』
その言葉を読んだ瞬間、エレノアの胸が強く締めつけられた。
紙の向こうに、十五歳のミレーヌがいる。
けれど同時に、別の姿も重なった。
冷たい秋の空。
処刑台。
群衆の声。
そして、レオナードの腕に守られるように立っていたミレーヌ。
自分を見ていたのか。
目を逸らしていたのか。
そこさえ、記憶の中では曖昧だった。
(あの子は、私が死ぬ時にそこにいた)
喉が狭くなり、息が浅くなる。
紙を持つ指が震え始めた。
「エレノア」
アルフォンスの声が遠く感じられる。
今ここにいるミレーヌは十五歳だ。
まだ、あの毒殺未遂事件は起きていない。
まだ、レオナードと自分の婚約も成立していない。
けれどエレノアにとって、起きなかったことにはならない。
あの時間を生きた。
疑われた。
誰にも信じてもらえなかった。
ミレーヌは被害者として守られ、自分は罪人として処刑された。
「……怖い」
声に出した瞬間、涙が滲んだ。
マルグリットの手が肩にある。
アルフォンスは席を立たない。
誰も書面を取り上げない。
「ミレーヌに会うの、怖いです」
「うん」
「でも……」
エレノアは震える息をゆっくり吐いた。
「会いたくないだけじゃないんです」
自分でも、それが困る。
完全に拒絶できたなら簡単だった。
「何を言うのか、聞いてみたい」
「うん」
「今のミレーヌが、何を考えてるのか知りたいです」
涙を拭いながら、エレノアは書面を見る。
「でも、会ったら……あの時のことを思い出すかもしれない」
アルフォンスには「あの時」が何を意味するか分からない。
エレノアはまだ、処刑と逆行について家族へ話していない。
それでもアルフォンスは無理に尋ねなかった。
「なら、会うか会わないかを今決めなくてもいい」
「でも、ミレーヌは待ってます」
「待つと本人が選んだ」
「ずっと?」
「お前が決めるまで、と伝えてある」
「それで怒らない?」
「怒るかもしれない」
予想していなかった答えに、エレノアは顔を上げた。
「怒るかもしれないんですか?」
「私はミレーヌではないから、怒らないとは言えない。待たされることに苛立つ可能性はあるし、悲しくなる可能性もある」
「じゃあ……」
「でも、ミレーヌが怒るかもしれないことと、お前が急いで会わなければならないことは別だ」
エレノアは黙った。
「相手が嫌な気持ちになる可能性を、全部お前が防ぐ必要はない」
「でも、私のせいで……」
「お前の選択が相手の感情へ影響することはある。それは人と関われば避けられない」
アルフォンスの声は優しいが、何でもエレノアだけが正しいと言うものではなかった。
「大切なのは、相手を傷つけるために選ぶのか、自分を守るために必要な選択をするのか、その違いを考えることだと私は思う」
エレノアはその言葉をゆっくり受け止めた。
「私、ミレーヌを困らせたいわけじゃないです」
「うん」
「待たせて、苦しめたいわけでもない」
「分かってる」
「でも、今すぐ会うのは怖い」
「なら、今すぐ会わなくていい」
エレノアは目元を拭った。
「……もう少し考えます」
「ああ」
「でも、ミレーヌの言葉は聞けました」
「うん」
「聞いてよかったです」
それは本当だった。
怖かった。
苦しかった。
処刑台の記憶まで蘇った。
それでも、知らなかった昨日より、今の方がいいと思える。
エレノアは書面を折ろうとして、途中で止めた。
「これ、私が持っててもいいですか?」
「もちろん。お前宛ての内容だ」
「誰にも見せなくていい?」
「お前が望まない限りは」
「じゃあ、持ってます」
自分の物として紙を受け取る。
その感覚が、少し不思議だった。
「もう一つの報告はどうする?」
アルフォンスが尋ねる。
赤茶色の髪の侍女。
昨夜なら、今日になれば聞こうと思っていた。
けれど今は、ミレーヌの言葉だけで胸の中がいっぱいだった。
「今日は聞きません」
「分かった」
「明日も聞かないかもしれません」
「それでもいい」
エレノアは頷いた。
「魚、見に行ってきます」
マルグリットが肩から手を離し、少し微笑んだ。
「いってらっしゃい」
◇ ◇ ◇
南の小池には、今日も魚がいた。
エレノアは昨日と同じ石造りの腰掛けへ座り、朝食後に受け取った小さなパンの包みを隣へ置いた。今はまだ空腹ではないため、食べるつもりはなかった。
水面には青空が映っている。
風が吹くたびにその青が崩れ、水草の影から銀色の魚が現れては消えた。
エレノアは膝の上に、ミレーヌの書面を置いていた。
もう一度読むつもりで持ってきたわけではない。
ただ、自分の手元に置いておきたかった。
(ミレーヌは、私に会いたい)
そして、自分は怖い。
でも少し会ってみたい。
その両方がある。
どちらかを消さなくてもいいのだと、今は思える。
「今日は四匹……」
魚を数えていると、少し離れた道から足音が聞こえた。
顔を上げると、作業籠を持ったジュリアスが歩いてくるところだった。昨日は北庭園の仕事だと聞いていたが、今日は戻ってきたらしい。
ジュリアスもエレノアに気づき、作業の邪魔にならない距離で立ち止まる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます。今日はこっちなんですね」
「はい。北庭園の作業が一段落いたしましたので、今朝からこちらへ戻りました」
「魚、今日もいました」
「それは何よりでございます」
「四匹見ました。でも、もっといるかもしれません」
「水草の奥に隠れておりますので、全部を数えるのは難しいでしょう」
「ジュリアスさんも、何匹いるか知らないんですか?」
「正確には存じません」
エレノアは少し意外に思った。
「お世話してるのに?」
「池の状態は確認しておりますが、魚の一匹一匹まで管理しているわけではございませんので」
「知らなくてもいいことがあるんですね」
何気なく口にすると、ジュリアスは少し考えてから答えた。
「必要になれば調べることもございますが、知らなくても困らないことまで、すべて知る必要はないのかもしれません」
エレノアは水面へ目を戻した。
昨日届いたもう一つの報告を思う。
知らなくてもいいわけではない。
赤茶色の髪の侍女については、いつか知りたい。
けれど、今ではなくていい。
「私も、あとで知ることにします」
ジュリアスには意味が分からないだろう。
それでも彼は余計なことを尋ねず、「そうでございますか」とだけ答え、池の反対側へ回って作業を始めた。
その距離が心地よかった。
しばらく魚を眺めているうちに、エレノアは少しお腹が空いてきた。
隣の布包みを開く。
今日は一つだけ頼んだパン。
自分で一つと決めたものだ。
小さくちぎって口へ入れ、池を眺めながらゆっくり食べる。
(おいしい)
食べ終わったころには、胸のざわつきも少し落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
同じ朝、ベルナール伯爵邸では、ロベルトがヴァレリアと向かい合っていた。
場所は書斎ではなく、小さな応接室だった。
机を挟んだ尋問のような形にしないためだったが、ヴァレリアは部屋へ入った時点で夫の手元に書類があることへ気づいていた。
「また、何か見つかったの?」
声は穏やかだった。
ロベルトは椅子を勧め、自分も向かいへ座る。
「確認したいことがある」
「私に分かることなら」
「以前、お前の身の回りを担当していたナタリー・ヴェルヌについてだ」
ヴァレリアの表情は大きく変わらなかった。
「ナタリー?」
「ああ」
「懐かしい名前ね。結婚して辞めた子でしょう?」
「そう記録されている」
「それがどうかしたの?」
「五年前から二年前まで、お前付きの侍女だったな」
「ええ。たしか、それくらいだったと思うわ」
「どんな仕事を任せていた?」
ヴァレリアは少し考える。
「普通の身の回りの世話よ。衣装の準備や手紙の整理、来客時の補助。時々、家の中の細かな用事も頼んでいたわ」
「保管室から品を出させることも?」
そこで初めて、ヴァレリアの目が僅かに細くなった。
「何の話?」
「質問に答えてくれ」
「……あったかもしれないわ。何年も前のことよ」
「濃い色の木箱を西側保管室から本邸へ戻すよう頼んだ記憶は?」
「箱?」
「花か葉のような彫りがある、両手で持てる程度の木箱だ」
ヴァレリアは眉を寄せた。
「アデライン様の箱のこと?」
「そうだと決まったわけではない」
「でも、それを調べているのでしょう?」
「似た特徴の箱が保管室へ入り、その後十二日ほどで本邸へ戻された可能性が高くなった」
ヴァレリアはしばらく黙っていた。
「私は前にも言ったでしょう。あの箱は保管させたと思う、と」
「その後のことを聞いている」
「覚えていないわ」
「ナタリーへ確認を命じた可能性は?」
「あるかもしれない。でも、ないかもしれない。そんな昔の細かな指示まで、すべて覚えていると思う?」
苛立ちが声へ混じる。
ロベルトはその反応を罪の証拠とは見なさなかった。
「覚えていないなら、そう記録する」
「なら、そうして」
「もう一つある」
ヴァレリアが小さく息を吐く。
「今度は何?」
「ミレーヌは、お前から『エレノアは一人でいるのが好きだ』『茶を好まない』『華やかな服が苦手だ』と聞いていたと話した」
ヴァレリアの表情が止まった。
「……それが?」
「エレノア本人から聞いたのか?」
「普段の様子を見れば分かったわ」
「本人に聞いたかと尋ねている」
ヴァレリアは唇を結んだ。
「何度かは話したと思うわ」
「何と?」
「細かな会話まで覚えていないわよ」
「なら、本人がそう言ったと断定はできないな」
「ロベルト」
ヴァレリアの声が低くなる。
「あなたは今、私があの子をミレーヌから遠ざけたと言いたいの?」
「まだ何も決めていない」
「だったら、そういう聞き方をしないで」
「聞き方で答えが変わるなら、なおさら慎重に確認する必要がある」
ヴァレリアは椅子の肘掛けへ置いた指を強く曲げた。
「私は、あの子が一人でいる方が落ち着くと思っていたの。食卓でもほとんど話さない。お茶へ誘っても楽しそうではない。服を選ばせても『何でもいい』と言う。それを見て、無理に人の輪へ入れない方がいいと考えた。それの何が悪いの?」
ロベルトはすぐには答えなかった。
「それが事実なら、配慮だったのかもしれない」
「なら――」
「だが、今調べているのは、お前の意図だけではない。結果として何が起きていたかだ」
ヴァレリアの目が揺れる。
「食事が減らされていた。衣装が本人の知らないところで別の者へ回されていた可能性がある。母親の遺品が部屋からなくなった。そして、エレノアとミレーヌは互いの好みすらほとんど知らない」
「全部、私のせいだと言うの?」
「そうは言っていない」
「同じじゃない」
「同じにしないために、一つずつ調べている」
ロベルトは声を荒らげなかった。
「ナタリーの所在を探している。見つかった場合、本人へ当時のことを聞く」
「好きにすればいいわ」
「お前から先に接触しないでくれ」
ヴァレリアの顔から、一瞬だけ感情が消えた。
「私を疑っているのね」
「証言を混ぜたくないだけだ。ギュスターヴにも、ベアトリスにも同じように、分からないことを分からないまま答えてもらっている」
「妻より使用人を信じるの?」
「誰か一人を信じて答えを決めることを、今はしない」
その言葉に、ヴァレリアは返事をしなかった。
しばらくして立ち上がる。
「もういいかしら」
「ああ。ただし、ナタリーから連絡があっても直接会わず、家令へ知らせてくれ」
「分かったわ」
扉へ向かいかけたヴァレリアは、途中で足を止めた。
「エレノアは、私のことを何と言っているの?」
「それをお前へ伝えるつもりはない」
「なぜ?」
「エレノアが、お前へ伝えていいと言っていないからだ」
ヴァレリアは振り返った。
以前のロベルトなら、家族なのだからと話したかもしれない。
だが今は違う。
「……ずいぶん変わったのね」
「遅すぎたがな」
ヴァレリアは何も答えず、部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアはマルグリットと刺繍をしていた。
四つ目の星をどうするか、昨日から決めていなかった布が二人の間に置かれている。
「今日は刺す?」
マルグリットが尋ねる。
「星じゃなくてもいいですか?」
「もちろんよ」
「途中から変えたら変ですか?」
「変でもいいのではなくて?」
エレノアは笑った。
「最近、お祖母様もそう言いますね」
「あなたから教わったのよ。決めたことを変えてもいいのでしょう?」
「はい」
刺繍糸の箱を開き、色を眺める。
青。
黄色。
緑。
白。
赤。
薄紫。
今朝のドレスと似た色の糸もある。
「魚を刺してみたいです」
「南の小池の?」
「はい。でも、難しいですか?」
「星よりは少し難しいわね。でも、上手に作る必要はないでしょう」
「魚に見えなかったら?」
「あなたが魚だと言えば魚よ」
エレノアは銀色に近い灰色の糸を選んだ。
「これにします」
マルグリットに簡単な形を教えてもらいながら、星の隣へ小さな魚を刺し始める。
最初の針は少し曲がった。
次の糸は思った位置からずれた。
以前ならやり直したくなったかもしれない。
けれど、エレノアは少し離して布を眺めた。
「魚……に見えますか?」
マルグリットは真剣に布を見る。
「私には、泳いでいる魚に見えるわ」
「本当?」
「ただ、少し太っているわね」
エレノアは思わず笑った。
「池の魚、こんなに太ってません」
「なら、これは別の魚ね」
「直さなくてもいい?」
「あなたが直したいなら直せばいいし、このままがいいなら、このままでいいわ」
エレノアはしばらく迷い、首を横へ振った。
「このままにします」
「どうして?」
「最初に刺した魚だから」
上手だから残すのではない。
失敗していないからでもない。
最初に自分が刺した魚だから残したい。
それだけで十分だった。
針を置いたところで、扉が叩かれた。
入ってきたリディアが一礼する。
「お嬢様。アルフォンス様からお伝えするよう申しつかりました。昨日のもう一件の報告につきましては、いつでもお聞きいただけるとのことでございます」
「急ぎじゃない?」
「はい。新たな危険が判明したという内容ではないと伺っております」
「分かりました」
エレノアは刺繍布へ目を戻した。
赤茶色の髪をした侍女。
その報告を聞けば、名前を知るのかもしれない。
知りたい。
けれど今は、魚の続きを刺したかった。
「今日は聞きません」
「かしこまりました」
「明日は……まだ分かりません」
「そのようにお伝えいたします」
リディアが退出すると、マルグリットは何も尋ねず、糸箱をエレノアの近くへ寄せた。
「次はどの色を使う?」
「魚の目って、黒でいいですか?」
「あなたの魚なのだから、好きな色でいいわよ」
エレノアは黒い糸へ指を伸ばしかけ、途中で青い糸を取った。
「青にします」
「ええ」
「本当の魚は青い目じゃないかもしれないけど」
「刺繍の魚まで本物と同じである必要はないでしょう」
「じゃあ、青です」
針へ糸を通しながら、エレノアは少しだけ笑った。
知らなければならないことは、まだたくさんある。
母の箱。
青い髪飾り。
自分の食事を減らした人。
赤茶色の髪の侍女。
なくなった服。
届かなかった手紙。
そして、第一周回で自分を罪人にした真実。
けれど、それらを全部同じ日に知らなくてもいい。
今日の自分は、ミレーヌの言葉を聞いた。
それだけでも十分に大きなことだった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の引き出しから昨日の紙を取り出した。
その隣には、ミレーヌからの書面を置く。
すぐには読み返さなかった。
代わりに自分の言葉を書く。
『ミレーヌは、私に会いたいと言っている』
少し間を空け、その下へ続けた。
『私は、会うのが怖い』
そこで手を止める。
以前なら、次に「だから会いたくない」と書いただろう。
けれど今の気持ちは、それだけではない。
『でも、少し会ってみたいとも思う』
三つの文章を並べて眺める。
どれか一つだけが本当なのではない。
全部、本当だった。
さらに下へ書く。
『まだ決めなくていい』
書き終えたあと、エレノアはペンを置いた。
机の端には、今日刺した小さな魚の布がある。青い星二つと黄色い星一つ、その隣に少し太った銀色の魚が泳いでいた。
上手ではない。
けれど、見ると少し嬉しい。
(明日、もう一匹刺してもいいし、刺さなくてもいい)
ミレーヌに会うかどうかも。
赤茶色の侍女について聞く日も。
父に会う日が来るのかどうかも。
今のエレノアには、まだ決められないことがたくさんある。
けれど、決められないことは、誰かに決めてもらわなければならないことと同じではなかった。
寝台へ向かう前、エレノアはミレーヌの書面を引き出しへしまおうとして、少し考えた。
そして、自分の書いた紙とは別の場所へ入れる。
捨てたくはない。
何度も読みたいわけでもない。
今はただ、自分の手元に置いておきたかった。
引き出しを閉じたあと、エレノアは窓辺へ寄った。
暗い庭園の向こうに池は見えない。
それでも、今日見た四匹の魚を思い出すことはできる。
「明日も、いるかな」
小さく呟きながらカーテンを閉じる。
知りたいことは、たくさんある。
知らなければならないことも、きっとある。
それでも、そのすべてに追い立てられるように生きる必要はないのだと、エレノアは少しずつ知り始めていた。
明日になれば、また明日の自分が決めればいい。
今夜はそれで十分だった。




