第28話 名前を知っても、まだ分からない
翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。
昨夜、眠れなかったわけではない。ミレーヌから届いた書面を読んだことで処刑台の記憶が蘇り、一度は胸が苦しくなったものの、寝台へ入ってからは思っていたより早く眠ることができた。
ただ、夢を見た。
内容はほとんど覚えていない。
誰かの背中を追いかけていたような気もするし、長い廊下を一人で歩いていたような気もする。目覚める直前には青い何かが見えた気がしたが、それが髪飾りだったのか、空だったのか、水だったのかも分からなかった。
(分からないなら、分からないままでいい)
以前なら、思い出さなければならないと焦っていたかもしれない。
今は違う。
無理に夢の続きを探そうとせず、エレノアは寝台の中で身体を伸ばした。
窓の外から鳥の声が聞こえる。
少しして扉が叩かれ、返事をするとリディアが入ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
「よくお休みになれましたか?」
「はい。でも、夢を見ました」
「怖い夢でございましたか?」
「分からないんです。ほとんど覚えてなくて」
「そうでございましたか」
リディアはそれ以上、夢の内容を尋ねなかった。
カーテンを開けてもよいか確認してから窓辺へ向かい、朝の光を部屋へ入れる。
「今日は少し暖かくなりそうでございます」
「池に行っても寒くない?」
「日中であれば、昨日より過ごしやすいかと」
「じゃあ、今日も行きたいです」
「承知いたしました」
言ってから、エレノアは少し考えた。
昨日、アルフォンスからもう一つの報告が届いていると聞いた。
赤茶色の髪をした侍女。
自分の断片的な記憶に似た特徴を持つ女性について、ベルナール伯爵家側で調べた結果である。
昨日は聞かなかった。
ミレーヌの言葉だけで十分だと思ったからだ。
今朝はどうだろう。
(聞きたい)
昨日より、はっきりそう思った。
怖くないわけではない。
名前を聞いた瞬間、何かを思い出すかもしれない。あるいは、何も思い出さないかもしれない。
それでも今日は、知りたい気持ちの方が少し強かった。
「リディア」
「はい」
「朝ご飯のあと、叔父様に昨日の報告を聞きたいって伝えてもらえますか?」
「かしこまりました」
「でも、朝ご飯の前じゃなくていいです」
「では、お食事を終えられてからお伝えいたします」
「はい」
エレノアは頷いた。
今日の最初の予定が決まった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、エレノアは昨日と同じように自分のお腹の具合を確かめながら食べた。
今日はパンを半分ほど残したが、野菜のスープは全部飲んだ。卵料理も食べ、果物は最初に用意されていた三切れすべてを口へ運んだ。
食後、厨房から確認に来た使用人へ、庭へ持っていく小さなパンは今日も一つにすると伝える。
「昨日と同じでよろしいのでございますね」
「はい。でも、明日は分かりません」
「承知しております。明日はまたお尋ねいたします」
返事を聞いて、エレノアは少し笑った。
同じものを選んでも、それが永遠の決まりになるわけではない。
その感覚にも、少しずつ慣れてきた。
「叔父様」
席を立つ前に呼ぶと、アルフォンスが顔を上げた。
「昨日の、もう一つの報告を聞きたいです」
「分かった」
「今日は、お祖母様も一緒でいいですか?」
「もちろん」
マルグリットがエレノアを見る。
「私でよければ」
「お願いします」
「セドリックは?」
アルフォンスに尋ねられ、エレノアは向かい側にいる従兄を見た。
セドリックは自分から「聞きたい」とは言わず、静かに待っている。
昨日、アルフォンスが自分の許可なくミレーヌの書面をセドリックへ見せなかったことを、エレノアはまだ知らない。
それでも、その待ち方が嫌ではなかった。
「今日は……セドリックお兄様も一緒がいいです」
「分かった」
セドリックが少しだけ目を見開いた。
「いいの?」
「はい」
「途中で僕に出てほしくなったら言ってね」
「怒らない?」
「たぶん寂しくはなるけど、怒らないようにする」
「寂しくなるんですか?」
「そりゃあね。エレノアに『出て』って言われたら、兄としては少し寂しい」
エレノアは思わず笑った。
「でも出てくれる?」
「出るよ。寂しいことと、居座っていいことは別だから」
昨日、アルフォンスから聞いた言葉と似ている。
相手が嫌な気持ちになる可能性を、全部自分が防ぐ必要はない。
エレノアはそのことを思い出しながら頷いた。
「じゃあ、一緒にいてください」
「喜んで」
◇ ◇ ◇
話を聞く場所には、今度は温室を選んだ。
ガラス越しに朝の日差しが入り、鉢植えの花や緑の葉を明るく照らしている。湿った土と植物の匂いが漂い、屋敷の中とは少し違う空気があった。
エレノアは以前にも座った長椅子の端へ腰を下ろした。
隣にはマルグリット。
向かい側にはアルフォンスとセドリックが座っている。
アルフォンスの手には、一通の報告書があった。
「最初に、分かっていることと分かっていないことを分けて話す」
「はい」
「昨日までに聞いている通り、ギュスターヴは赤みのある茶色の髪をした、当時二十代後半ほどの細身の侍女を覚えていた」
「はい」
「その人物がヴァレリアの近くにいたという記憶もある。ただし、名前は覚えていない」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
「そこまでは聞きました」
「ああ。ベルナール家で当時の使用人名簿を調べた結果、条件に近い者が三人いたそうだ」
「三人?」
「最初から一人だったわけではない」
エレノアは少し驚いた。
自分の中では、赤茶色の髪をした一人の女性がいるような気がしていた。
けれど、名簿には三人いる。
「そのうち一人は、実際には金髪に近い明るい茶色だったという別の証言がある。もう一人は当時すでに四十歳を超えていた」
「じゃあ、残った人が?」
「特徴には最も近い」
アルフォンスはそこで一度言葉を止めた。
「名前は、ナタリー・ヴェルヌ」
その名前を聞いた瞬間、エレノアは息を止めた。
ナタリー。
ナタリー・ヴェルヌ。
頭の中で名前を繰り返す。
けれど、何も起きない。
顔は浮かばない。
声も出てこない。
厨房近くの暗い廊下。
腕を掴む細い指。
赤茶色らしき髪。
以前からある断片以上のものは、何も戻ってこなかった。
「……知ってる名前じゃないです」
エレノアは小さく言った。
「そうか」
「聞いたら思い出すかと思ったんですけど」
「思い出さない?」
「はい」
少しだけ、期待していたのかもしれない。
名前さえ分かれば、記憶が全部繋がるのではないかと。
けれど、そんなことはなかった。
「それでいいのかな」
エレノアが呟くと、アルフォンスが報告書を膝へ置いた。
「何が?」
「名前が分かったのに、何も思い出さなくても」
「名前は、記憶を開く鍵とは限らないだろう」
セドリックが静かに言う。
「その人が本当にエレノアの覚えている人かも、まだ分かってないんだし」
「そうですよね」
「むしろ、名前を聞いたからって無理に何かを思い出そうとしない方がいいと、僕は思う」
エレノアはセドリックを見る。
「思い出した方が、調べるのに役立つかもしれないですよ?」
「役立つかもしれない。でも、エレノアが苦しくなることを前提に調査を進める必要はない」
セドリックの声には怒りがなかった。
ただ、はっきりしている。
「記録も証言もある。僕たちはそっちからも調べられる」
エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「続けてもいいです」
アルフォンスが頷く。
「ナタリーは現在三十一歳。五年前から二年前まで、ヴァレリア付きの侍女としてベルナール家に勤めていた」
「三年間?」
「ああ。その後、結婚を理由に退職している」
「今は?」
「まだ居場所を確認できていない」
「いなくなったんですか?」
「そういう意味ではない」
アルフォンスはすぐに補った。
「退職後の住所が、今の使用人記録には残っていないだけだ。結婚して姓が変わっている可能性もある。ロベルトが所在を調べさせている」
「逃げたとかじゃない?」
「そう判断できる情報はない」
「……はい」
自分の中に一瞬浮かんだ考えを、エレノアはそのまま認めた。
見つからない。
だから逃げた。
そう繋げそうになった。
「また決めそうになりました」
「気づけたなら十分だよ」
アルフォンスが言う。
「それから、ナタリーの勤務期間は、食事について問題のある記録が見つかっている時期と一部重なる」
エレノアの表情が固くなる。
「一部?」
「ああ。全部ではない」
「じゃあ、ナタリーさんが食事を減らしたってことですか?」
「それも分からない」
アルフォンスは首を横へ振った。
「同じ時期に屋敷にいた、というだけだ」
「……そうですよね」
「ロベルトも、期間が重なっただけで関与したと扱わないよう指示しているそうだ。ナタリーの前後にヴァレリアへ仕えていた者も含めて調べている」
「お父様が?」
「ああ」
エレノアは少し黙った。
父が調べている。
一人を犯人だと決めずに。
それを聞くと、また胸の中に小さな温かさが生まれた。
昨日と同じだった。
許したわけではない。
会いたいわけでもない。
それでも、嬉しい。
「ほかには?」
「ナタリーが、ギュスターヴの覚えている侍女と同一人物だという確認は取れていない。お前の記憶にある女性とも同じだとは確認できていない」
「はい」
「現時点で言えるのは、条件に最も近い候補が一人見つかった。それだけだ」
エレノアは名前をもう一度頭の中で繰り返した。
ナタリー・ヴェルヌ。
知らない名前。
少なくとも、今の自分にはそう感じる。
「叔父様」
「うん?」
「もし見つかったら、私が会わないといけないですか?」
「いいや」
即答だった。
「でも、私のことを聞くんですよね?」
「聞く可能性は高い」
「だったら、私が直接聞いた方が――」
「それを望むなら、将来考えることはできる。だが、今の段階で会う必要はない」
エレノアは自分の腕を見た。
誰かに掴まれた感覚。
まだ顔のない記憶。
もしナタリーが同じ人物だったら。
その人が目の前に現れたら、自分は何を感じるのだろう。
「怖いです」
「うん」
「まだ見つかってもいないのに」
「見つかっていないからこそ、想像の中では何にでもなってしまうことがある」
マルグリットの言葉に、エレノアは顔を上げた。
「何にでも?」
「恐ろしい人にも、何も知らない人にも、あなたを助けたかった人にさえ、想像の中ではできてしまうでしょう?」
「……はい」
「だから今は、名前が分かったというところまででいいのではないかしら」
エレノアはしばらく考えた。
「ナタリー・ヴェルヌさん」
声に出してみる。
やはり、記憶は戻らない。
「今は、この名前だけ知っておきます」
「分かった」
アルフォンスが報告書を閉じようとした。
そのとき、エレノアはもう一つ気になった。
「お義母様は、ナタリーさんのこと知ってますよね?」
「ヴァレリア付きの侍女だったのだから、当然知っているだろう」
「お父様は聞いたんでしょうか」
「そこまでは、この報告には書かれていない」
「聞いてほしいって言ってもいい?」
「もちろん希望として伝えられる。ただし、すでに確認している可能性もある」
「じゃあ……」
エレノアは少し考えた。
「『聞いてください』じゃなくて、『確認しているなら、結果を知りたいです』って伝えてください」
「分かった」
「あと、ナタリーさんが見つかっても、私に会わせる前に教えてほしいです」
「それも伝える」
「勝手に連れてこないで」
「約束する」
そこでようやく、エレノアは深く息を吐いた。
名前を知った。
けれど、答えは出なかった。
それでも以前のように、答えが出ないことそのものが怖いわけではなかった。
「今日はここまでにします」
「うん」
アルフォンスが報告書を閉じる。
エレノアは立ち上がろうとして、隣のマルグリットを見た。
「お祖母様」
「なあに?」
「池に行ってきます」
「ええ。いってらっしゃい」
今度は誰にも、逃げるために庭へ行くのかとは聞かれなかった。
エレノア自身も、そうは思わなかった。
知りたいことを知ったあと、自分が好きな場所へ行く。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ヴァレリアが自室の窓辺に立っていた。
朝のうちにロベルトからナタリー・ヴェルヌについて尋ねられてから、胸の内に残った不快感が消えない。
ナタリー。
たしかに自分へ仕えていた侍女である。
衣装の管理。
手紙の整理。
来客時の補助。
屋敷内での細かな指示。
使いやすい女だった。
余計な口を利かず、頼んだことを淡々とこなす。退職すると聞いたときには惜しいと思った記憶もある。
(それが今さら、何だというの)
ロベルトは木箱について尋ねた。
花か葉の彫りがある濃い木箱。
アデラインの遺品。
それが一度西側保管室へ移され、その後、本邸へ戻されたらしい。
ヴァレリアは窓枠へ置いた指先をゆっくり動かした。
自分が確認を命じた可能性はある。
何年も前のことで、細かな順番まで覚えているわけではない。
アデラインの物を整理する必要があったのは事実だ。亡くなった前妻の品がいつまでも屋敷中に残っていては、新しい女主人として家を整えるうえで扱いに困るものもあった。
それを当時の自分は当然だと思っていた。
今になって、その一つ一つをロベルトが掘り返している。
しかも、自分の話だけを信じない。
それが何より腹立たしかった。
「お母様?」
声に振り返る。
扉のところにミレーヌが立っていた。
「どうしたの?」
「入っていい?」
「もちろんよ」
ヴァレリアはすぐに表情を和らげた。
ミレーヌが部屋へ入り、母の近くまで来る。
「昨日、お父様に話した」
「エレノアへ伝えたいこと?」
「うん」
「何を話したの?」
ミレーヌは一瞬、答えかけた。
けれど、すぐに口を閉じる。
「……言わない」
ヴァレリアの眉が僅かに動いた。
「どうして?」
「お父様が、お姉様に送る内容をそのままお母様に見せないって言ったから」
「私はあなたの母親よ?」
「分かってる」
「あなたが何を考えているか、知りたいだけなの」
いつもなら、ミレーヌはここで話したかもしれない。
母に隠し事をする理由などなかった。
けれど昨日、自分で言葉を選び、ロベルトに書かせ、二度も表現を直した。
あれはエレノアへ伝えるために考えた言葉だ。
「お姉様が聞いてからなら、話していいのかな」
「エレノアが聞いたかどうかまで、あなたには分からないでしょう?」
「じゃあ、まだ話さない」
「ミレーヌ」
「お母様、怒ってる?」
ヴァレリアは一瞬黙り、すぐに微笑んだ。
「怒ってはいないわ。ただ、少し寂しいだけ」
昨日のエレノアと同じような言葉を、ミレーヌは知らない。
それでも、母が寂しいと言った瞬間、胸がちくりと痛んだ。
「ごめんなさい」
反射的に謝ってから、ミレーヌは眉を寄せた。
「……でも、言わない」
ヴァレリアの笑みが僅かに固くなる。
「そう」
「うん」
「分かったわ」
ミレーヌはほっとしたように息を吐いた。
それから部屋を出ようとして、途中で立ち止まる。
「お母様」
「なあに?」
「私、お姉様が一人でいるのが好きだって、お母様から聞いたんだよね?」
ヴァレリアの目が静かに細くなった。
「そうだったと思うわ」
「お姉様が言ったの?」
「どうして急にそんなことを聞くの?」
「私、お姉様から聞いた覚えがなかったから」
ミレーヌは母の顔を見る。
「お茶が好きじゃないのも、華やかな服が嫌いなのも、お母様から聞いた」
「エレノアは昔から控えめな子だったでしょう?」
「それって、嫌いってこと?」
「ミレーヌ」
声が少しだけ強くなった。
ミレーヌの肩が揺れる。
ヴァレリアはすぐに声を柔らかくした。
「ごめんなさい。あなたを責めているわけではないの」
「うん」
「エレノアは自分から欲しいものを言わない子だった。人の多い場所では黙っていたし、何を出しても『何でもいい』と言うことが多かったわ。だから私は、あの子が静かに過ごす方が好きなのだと思っていたの」
「本人に聞いた?」
昨日ロベルトからも聞かれた問いだった。
ヴァレリアは少しだけ間を置いた。
「話をしたことはあるわ」
「『一人が好き?』って?」
「そんな一言一句まで覚えていないわよ」
「そっか」
ミレーヌは納得したようにも、していないようにも見えた。
「じゃあ、今度お姉様に会えたら、本人に聞いてみる」
「会えるの?」
「分かんない。私は会いたいって伝えた。でも、お姉様が会いたくないなら会わない」
ヴァレリアの表情が僅かに変わった。
「どうしてそんなことを?」
「だって、お姉様が怖いなら、私が会いたいからって会わせるのは違うでしょう?」
ヴァレリアは娘を見つめた。
以前のミレーヌなら、欲しいものがあれば欲しいと言った。
それを悪いとは思っていなかった。
自分も、娘にはそう育ってほしいと思っていた。
欲しい服。
欲しい菓子。
行きたい場所。
会いたい人。
それを我慢させる理由などないと思っていた。
なのに今、ミレーヌは自分が会いたい相手にも、相手側の選択があるのだと話している。
「誰にそんなことを教わったの?」
「誰って……」
ミレーヌは考えた。
「お父様も言ってたけど、たぶん、お姉様が帰ってこないって言ったからかな」
その答えを残して、ミレーヌは部屋を出ていった。
一人になったヴァレリアは、閉じた扉を見つめる。
エレノアは屋敷にいない。
それなのに、屋敷の中の人間が少しずつ変わっている。
ロベルトは記録を調べる。
ミレーヌは母にすべてを話さなくなった。
ベアトリスも以前ほど簡単に「覚えていないこと」を補って答えようとはしない。
(あの子がいなくなってから、どうしてこんなことに)
ヴァレリアはそう考え、すぐに唇を噛んだ。
エレノアが何かをしたわけではない。
むしろ、何もしていない。
ただ、帰らないと決めただけだ。
それがベルナール家の中に、これまで誰も見ようとしなかった空白を作っていた。
◇ ◇ ◇
南の小池へ着いたエレノアは、今日はすぐに腰掛けへ座らなかった。
水際から十分に離れた道をゆっくり歩き、昨日ジュリアスが作業していた辺りまで行ってみる。
池の反対側から見る景色は、いつもの腰掛けから見るものとは少し違った。
水草の集まる場所が近く、銀色の魚がときどき葉の間から見える。
「こっちにもいる」
独り言を口にしても、誰も咎めない。
ジュリアスは少し離れた花壇で作業をしており、エレノアが来たことに気づくと一度だけ頭を下げた。それ以上近づいてはこなかった。
エレノアは池を半周したところで、いつもの腰掛けへ戻った。
今日はリディアも少し離れた木陰にいる。
エレノアが一人でいたいのか、隣へ座ってほしいのか分からないため、勝手に近づかず待っているのだろう。
「リディア」
「はい」
「今日は、こっちに座ってください」
「かしこまりました」
昨日と同じように少し間を空けて座る。
エレノアは水面を眺めた。
「名前、分かりました」
リディアはすぐには何の名前か尋ねなかった。
「赤茶色の髪の人の候補です」
「そうでございましたか」
「ナタリー・ヴェルヌさん」
声に出すのは二度目だった。
やはり何も思い出さない。
「聞いたことありますか?」
「いいえ。私はロシュフォール家へ奉公してから、ベルナール伯爵家の使用人と直接関わったことはほとんどございませんので」
「そうですよね」
エレノアは少し笑った。
「私も、名前を聞いても分からなかったです」
「はい」
「何も思い出さなかった」
リディアは静かに待っている。
「少し、がっかりしました」
その感情を口にすると、自分でも意外だった。
「怖いのに、思い出したかったみたいです」
「答えを知りたかったのでございましょうか」
「たぶん」
「そうでございますか」
「でも、名前が分かっただけでした」
水面を魚が横切る。
「名前って、もっとすごいものだと思ってました」
「すごいもの、でございますか?」
「名前が分かれば、その人が誰か分かるって」
リディアは少し考えた。
「私は、お嬢様のお名前を以前から存じておりました」
「私の?」
「はい。ロシュフォール家に仕えておりますから、アデライン様のお嬢様であるエレノア様のお名前は存じておりました」
「じゃあ、私のこと知ってた?」
「いいえ」
はっきりした返事だった。
「お名前を知っていただけでございます」
エレノアは目を瞬く。
「今は?」
「今は、以前より存じております」
「何を?」
「青色を選ばれる日があること。何も髪につけたくない日もあること。魚をご覧になるのがお好きらしいこと。香草を使った魚料理を気に入られたこと。刺繍を始められたこと」
エレノアの口元が少し緩んだ。
「いっぱいありますね」
「ですが、まだ存じ上げないこともたくさんございます」
「私も、自分のこと分からないこといっぱいあります」
「でしたら、私が全部分かるはずもございませんね」
「そうですね」
エレノアは池を見る。
ナタリー・ヴェルヌ。
名前を知った。
それだけでは、その人が誰なのかは分からない。
自分に何をしたのかも。
何もしていないのかも。
箱を運んだのかも。
食事に関わったのかも。
まだ何一つ決まっていない。
「名前だけで、悪い人にしちゃだめですね」
「私は、その方を存じません」
「私もです」
今はそれでいい。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアの旧室について依頼していた一覧が、ベルナール伯爵家からロシュフォール家へ届いた。
アルフォンスは内容を確認したあと、すぐにエレノアへ持っていくことはしなかった。
本人は午前中にナタリーの報告を聞いたばかりだ。
急ぎでもない。
一覧には、エレノアの旧室内で現在確認できる収納場所と、外から見て分かる範囲の状態だけが記されている。
寝台脇の小卓。
衣装棚。
机。
書棚。
窓際の小型収納棚。
洗面台脇の収納。
壁際に置かれた小さな長持。
さらに、どの場所がすでに過去の確認で開けられており、どこがまだ手をつけられていないかも分けられていた。
エレノアが「どこに何があるかを先に教えてほしい」と望んだからだ。
中身を勝手に確認するための一覧ではない。
どこを調べるか、エレノア自身が決めるための一覧だった。
「父上」
執務室へ入ってきたセドリックが、机の上の紙へ目を向ける。
「ベルナール家から?」
「ああ。エレノアの部屋の一覧だ」
「中は?」
「まだ開けていない場所もある」
「箱が入りそうな場所は?」
アルフォンスは息子を見る。
「それを先に絞るべきだと思うか?」
セドリックは一瞬黙った。
「……前の僕なら、そうしたと思う」
「今は?」
「エレノアが一覧を見てから決めるって言ったなら、待つ」
「正解を当てる試験ではないぞ」
「分かってるよ」
セドリックは苦笑した。
「でも、父上も同じこと考えたでしょう?」
「考えた」
「どこ?」
「言わない」
「僕にも?」
「エレノアが見る前に、私たちの予想を重ねたくない」
セドリックは紙を覗き込もうとしていた身体を戻した。
「なるほど」
「ただし、危険物がある可能性が出た場合は別だ。その場合は本人の希望だけで待つことはできない」
「そこは安全の問題だから?」
「ああ。守ることと、選択を奪わないことは、いつでも完全に同じ方向を向くとは限らない」
アルフォンスは一覧を封筒へ戻した。
「そのときは、なぜ必要なのかを説明する」
「エレノアが嫌だって言ったら?」
「それでも緊急性が高ければ動かなければならないことはある。ただし、『守るため』という言葉だけで何でも許されると思わないことだ」
セドリックは父の言葉を聞きながら、少しだけ笑った。
「僕たち、難しいこと始めたね」
「今まで簡単にしすぎていたんだろう」
誰かを守る。
家族だから決める。
子供だから従わせる。
そうしてしまえば簡単だった。
けれど、それではエレノアがベルナール家で受けてきたことと、形だけなら似てしまう。
目的が善意なら何をしてもよいわけではない。
「夕食前に、一覧が届いたことだけ伝える」
「うん」
「見る時期は本人が決める」
セドリックは頷いた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室で刺繍の続きをしていた。
昨日刺した少し太った銀色の魚の隣へ、今日は水草を一本だけ加えている。
魚をもう一匹刺そうかとも思ったが、朝の池で見た水草の揺れ方を思い出し、緑色の糸を選んだ。
上手く真っ直ぐにはならない。
途中で糸の間隔も少し変わった。
それでもやり直さなかった。
扉が叩かれ、リディアが応対する。
「お嬢様。アルフォンス様がお見えでございます」
「入ってください」
アルフォンスが入ってきた。
手には封筒を持っている。
それを見た瞬間、エレノアの身体が少しだけ緊張した。
ナタリーについて新しい報告だろうか。
アルフォンスはその変化に気づいたのか、すぐに説明した。
「急ぎの調査報告ではないよ」
「違うんですか?」
「ああ。以前お前が頼んでいた、ベルナール家の自室についての一覧が届いた」
「私の部屋……」
「どこに収納があり、どの場所がすでに確認され、どこがまだ開けられていないかをまとめてもらった。未確認の場所は、中を開けずに記載している」
「本当に開けてない?」
「ああ。少なくとも、この一覧を作るためには開けていないと報告されている」
「見てもいいですか?」
「もちろん」
アルフォンスが封筒を差し出す。
エレノアは受け取ったが、すぐには開かなかった。
「今見なくてもいい?」
「いいよ」
「いつまでに決めないとだめですか?」
「期限はない」
「箱を探すの、遅くなりませんか?」
「少しは遅くなるかもしれない」
アルフォンスは誤魔化さなかった。
「でも、今すぐ探さなければ失われると分かっている状況ではない。部屋自体は現在、物を動かさないよう指示されている」
「誰も入らない?」
「掃除など必要最低限の管理はある。ただし、収納を開けたり私物を動かしたりしないようロベルトからも指示が出ているそうだ」
エレノアは封筒を見つめた。
箱を早く見つけたい。
母の物がどこにあるのか知りたい。
けれど、自分の部屋を思い出すだけで、まだ胸の中に重いものが残る。
「今日は、名前を聞きました」
「うん」
「ナタリーさんの」
「ああ」
「だから……これは明日にしてもいいですか?」
「もちろん」
エレノアは封筒を机へ置いた。
「でも、自分で持ってます」
「分かった」
「叔父様が持ってた方が安全?」
「この部屋で保管して問題ないと思う。ただ、不安なら私の執務室で預かる」
エレノアは少し考えた。
「ここに置きます」
「うん」
「私の部屋のことだから」
その言葉を口にした瞬間、胸の中に不思議な感覚が生まれた。
ベルナール伯爵邸の部屋。
嫌な記憶が多い。
自分の物を勝手に持ち出されたかもしれない。
食事を減らされ、誰にも言えず、一人で過ごしていた場所。
それでも、あそこは確かに自分が使っていた部屋だった。
だからこそ、誰がどこを開けるのかを自分で決めたい。
「分かった。では、明日でも、もっと先でも、見たいときに見ればいい」
「はい」
アルフォンスが退出したあと、エレノアは机の上に置かれた二つのものを見た。
一つは刺繍布。
もう一つは、自分の旧室の一覧が入った封筒。
調査と生活。
過去と今。
同じ机の上に並んでいる。
以前なら、調査の方を先にしなければならないと思ったかもしれない。
大切な母の箱を探しているのだから、自分の刺繍など後回しにすべきだと。
けれど、エレノアは緑色の糸を手に取った。
(今日は、こっち)
水草の続きを刺す。
封筒は逃げない。
自分が開けるまで、そこにある。
◇ ◇ ◇
その夜、エレノアは今日知った名前を紙へ書いた。
『ナタリー・ヴェルヌ』
文字にしても、何も思い出さない。
その下へ、現在分かっていることを書く。
『お義母様付きの侍女だった』
『赤茶色の髪、細身という記録がある』
『年齢もギュスターヴさんの記憶に近い』
『食事の記録が問題になっている時期と、働いていた時期が少し重なる』
そこまで書いてから、少し間を空ける。
『でも、箱を運んだ人かは分からない』
『私の腕を掴んだ人かも分からない』
『食事を減らした人かも分からない』
エレノアは最後の三行を何度か読み返した。
名前がついたことで、分かった気になりそうになる。
けれど、名前は答えではない。
その人を探すための手がかりが一つ増えただけだ。
さらに別の紙には、ミレーヌについて昨日書いた言葉がある。
『会うのが怖い』
『でも、少し会ってみたいとも思う』
『まだ決めなくていい』
エレノアは二枚を並べた。
分からないことばかりだった。
ナタリーが誰なのか。
ミレーヌに会うのか。
父にいつか会いたいと思う日が来るのか。
母の箱がどこにあるのか。
青い髪飾りはどうなったのか。
けれど今夜、エレノアはその多さに押し潰されるような気持ちにはならなかった。
一つずつでいい。
今日知ったのは、名前。
それだけでいい。
明日になれば、自分の旧室について書かれた封筒を開けるかもしれない。
開けないかもしれない。
朝になったら、まず魚を見に行きたくなるかもしれない。
それもまだ決めなくていい。
エレノアは二枚の紙を引き出しへ戻し、刺繍布を最後に眺めた。
三つの星。
少し太った銀色の魚。
その横で揺れる、少し曲がった緑の水草。
どれも整ってはいない。
それでも、自分で選んで増やしたものだった。
エレノアは灯りを落とす前に、机の上の封筒へ一度だけ視線を向けた。
(明日の私が、決めればいい)
名前を知ることと、その人を知ることは違う。
手がかりを得ることと、答えへ辿り着くことも違う。
そして、分からないものに名前がついたからといって、急いで結論を出す必要もない。
ナタリー・ヴェルヌ。
今夜のエレノアにとって、その名はまだ、一つの可能性に付けられた名前でしかなかった。




