第29話 開ける場所は、私が選ぶ
翌朝、エレノアは目を覚ましてからしばらく、寝台の中で天井を眺めていた。
眠気が残っているわけではない。
昨夜、机の上へ置いたままにした封筒のことを考えていた。
ベルナール伯爵邸にある自分の旧室。
その部屋のどこに収納があり、どこがすでに確認され、どこがまだ開けられていないのか。それだけをまとめてもらった一覧が、封筒の中に入っている。
昨日は開かなかった。
ナタリー・ヴェルヌという名前を知ったばかりで、それ以上を同じ日に受け取る必要はないと思ったからだ。
(今日は、どうしよう)
机は寝台から見えない。
それでも、封筒がそこにあることは分かっている。
早く母の箱を見つけたい。
青い髪飾りも探したい。
自分の部屋から何がなくなり、何がまだ残っているのかも知りたい。
だからといって、起きた瞬間に封筒を開かなければならないわけではない。
エレノアは掛け布を少し持ち上げ、足を床へ下ろした。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「お嬢様。お目覚めでございますか?」
「はい」
「入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
リディアが入室し、いつものようにカーテンを開けてもよいか確認する。エレノアが頷くと、朝の光がゆっくり部屋へ広がった。
昨日より少し雲が多い。
「雨、降りますか?」
「午後に少し降るかもしれないと、庭師たちが話しておりました」
「じゃあ、池に行くなら朝の方がいい?」
「雨を避けたいのであれば、その方がよろしいかと」
エレノアは少し考えた。
「朝ご飯のあと、先に池へ行きます」
「かしこまりました」
「それから……」
机へ視線を向ける。
封筒が昨日置いた場所にある。
誰も動かしていない。
「戻ってきたら、あれを見ます」
「旧室の一覧でございますね」
「はい」
口にした途端、少し緊張した。
けれど嫌ではない。
自分で決めた。
今日は開く。
「アルフォンス様にもお伝えいたしましょうか?」
「まだいいです」
「承知いたしました」
「自分で先に見てみたいです」
「では、必要になりましたらお呼びいたします」
「はい」
リディアはそれ以上何も言わず、今日の衣装を用意する。
三着並んだうち、エレノアは淡い緑色のドレスを選んだ。
髪には何もつけない。
昨日は白いリボンをつけた。
今日は必要ないと思った。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、マティアスから今日の小さなパンを一つ受け取ったあと、エレノアは南の小池へ向かった。
今日はリディアを伴っている。
ただし、二人は並んで歩いてはいなかった。
エレノアが少し前を歩き、リディアは数歩後ろにいる。
自分の歩く速さを誰かに合わせなくてもいいことが、最近になって少し心地よく感じられるようになっていた。
池へ着くと、朝の曇り空を映した水面は灰色に近い。
昨日までの青さはない。
それでも水草の間には小さな波紋があり、しばらく待つと銀色の魚が一匹だけ姿を見せた。
「いた」
エレノアはいつもの腰掛けへ座る。
今日はリディアを隣へ呼ばなかった。
リディアも尋ねず、少し離れたところに立っている。
(昨日は一緒に座ってほしかった)
今日は一人で見たい。
その違いに理由はなかった。
嫌いになったわけではない。
昨日一緒に座ったから、今日も座らなければならないわけでもない。
魚は水草の陰へ消えた。
しばらくすると別の場所から二匹現れる。
エレノアはパンの包みを膝の上へ置いたまま、水面を眺めた。
まだ空腹ではない。
旧室の一覧を開く前に、ここへ来たかった。
怖いから逃げてきたのかと考えかけ、すぐに首を横へ振る。
(違う)
怖さがまったくないわけではない。
それでも、池へ来たのは魚を見たかったからだ。
怖いことから離れるための場所と、好きだから行く場所は、同じ場所であっても意味が違う。
「お嬢様」
少し離れた場所から声がした。
ジュリアスだった。
今日は池の向こう側で、低い植え込みの枯れた枝を切っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「本日は少し雨が降るかもしれません。昼以降にこちらへいらっしゃる場合は、足元にお気をつけください」
「池の近く、滑りますか?」
「はい。石の縁は特に」
「じゃあ、雨が降ったら近づきません」
「それがよろしいかと存じます」
ジュリアスは一礼すると、また作業へ戻った。
止められた、とは感じなかった。
危険な理由を教えられ、自分でどうするかを決めた。
エレノアはその違いを考えながら、やがて少し空腹を感じたため、パンを開いた。
一つだけ。
昨日、自分で今日も一つにすると決めたもの。
半分ほど食べたところで、もう十分かもしれないと思う。
(でも、一つって決めた)
その考えが浮かんだ瞬間、エレノアはパンを見る。
一つ頼んだ。
だから全部食べなければならない。
そうではないはずだ。
昨日まで何度も確かめた。
自分で頼んだものでも、途中で十分になれば残していい。
「リディア」
「はい」
「半分、残してもいいですよね?」
「もちろんでございます」
「自分で一つって言ったのに?」
「一つ必要だと思って選ばれたことと、実際に召し上がってみて半分で十分だったことは、矛盾しないかと存じます」
「間違えたわけじゃない?」
「結果を知る前に、正確な量を当て続けることは難しいのではないでしょうか」
エレノアは残ったパンを包み直した。
「じゃあ、持って帰ります」
「かしこまりました」
少し嬉しかった。
選んだあとに変えてもいい。
それは食べ物だけではないのかもしれない。
今日、旧室の一覧を開くと決めた。
でも、途中で怖くなったら閉じてもいい。
全部決めなくてもいい。
エレノアはもう一度池を眺めてから立ち上がった。
「戻ります」
「はい」
自分の部屋を調べるために。
今度は、自分の意思で。
◇ ◇ ◇
自室へ戻ったエレノアは、すぐには封筒を開かなかった。
まず手を洗い、庭で履いていた靴から室内履きへ替え、持ち帰った半分のパンをリディアへ預ける。
「マティアスさんに、半分でお腹いっぱいになったって伝えてください」
「かしこまりました」
「怒らないと思いますけど……」
そこまで言って、エレノアは少し笑う。
「本人じゃないから、リディアには分からないですよね」
リディアも微笑んだ。
「はい。ただ、昨日までのマティアスの言葉から推測することはできます」
「推測?」
「おそらく、量を調整するための参考になさるかと」
「それなら、推測って言えばいいんですね」
「そうでございますね」
分からないことを、何も言えないことにする必要もない。
分かっている事実と、そこから考えたことを分ければいい。
エレノアはそのことを覚えておこうと思いながら、机の前へ座った。
封筒を手に取る。
「リディア」
「はい」
「ここにいてください」
「もちろんでございます」
「でも、隣じゃなくていいです」
「では、窓際におります」
「はい」
リディアが少し離れた場所へ移動する。
エレノアは封を開いた。
中から出てきた紙は二枚だった。
一枚目には、ベルナール伯爵邸にある旧室の簡単な見取り図。
二枚目には、収納場所ごとの状態が記されている。
エレノアは最初に見取り図を見た。
扉。
寝台。
窓。
机。
衣装棚。
書棚。
洗面台。
小型収納棚。
壁際の長持。
線だけで描かれた部屋なのに、見た瞬間、胸が重くなった。
(私の部屋)
知っている。
当然だ。
三年間、そこで暮らした。
けれど、今こうして紙の上から見ると、自分の部屋なのに他人の部屋のようにも見える。
机の位置を見たとき、指先が少し冷たくなった。
夜、蝋燭を小さくして手紙を書いた。
マルタへ託した手紙ではない。
それよりもっと前。
母方の家へ何度か書こうとして、途中で破いた記憶がぼんやりとある。
(届かなかった手紙……)
ロシュフォール家との交流が減った理由は、まだ分かっていない。
自分が書いたものがどれほどあったのかさえ、記憶は曖昧だ。
「お嬢様?」
リディアの声がする。
「大丈夫……」
言いかけて止める。
「少し、胸が重いです」
「お休みになりますか?」
エレノアは見取り図を見た。
「もう少しだけ見ます」
「承知いたしました」
二枚目へ進む。
最初に書かれているのは、衣装棚だった。
『衣装棚――既確認。現存衣類について目録作成済み。新たな開封不要』
ここはすでに調べられている。
アニエス・モローの記録と照合され、八着の衣装が不足していることも分かっている。
次は書棚。
『書棚――外観および書籍背表紙のみ確認済み。書籍内部未確認。引き出しなし』
エレノアは少し考えた。
母の箱が入る場所ではない。
ただ、手紙を本へ挟んだことがあっただろうか。
分からない。
印をつけず、次へ進む。
『寝台脇小卓――上段引き出し既確認。下段収納未確認』
そこで手が止まる。
寝台の横。
小さな卓。
夜に水差しが置かれていた場所。
上の引き出しには、以前何を入れていたのだろう。
櫛。
小さな布。
薬。
記憶が混ざる。
『机――天板上および左右上段引き出し既確認。右下深型引き出し未確認。左下収納は施錠状態。鍵所在不明』
エレノアは紙を持つ指へ力を入れた。
「鍵……」
思わず声が出る。
左下収納。
鍵。
何か知っている気がする。
けれど、はっきりしない。
机の前に座る自分。
小さな鍵。
どこかへ隠す。
それとも、誰かに取られた?
頭の中に映像が浮かびかけ、すぐに崩れた。
(思い出さなきゃ)
焦りが胸を押す。
鍵があった。
何かを入れていた。
大切なものだったかもしれない。
母の箱ではない。
箱が入るほど大きな場所ではない。
でも、手紙なら。
「……っ」
息が浅くなった。
紙の文字が見えにくくなる。
「お嬢様」
リディアは近づかなかった。
「ここで止められますか?」
その問いに、エレノアは紙を見つめる。
もっと見なければ。
今日見ると決めた。
自分で開けた。
途中でやめたら――。
(途中で、やめてもいい)
池で残したパンを思い出す。
一つ食べると決めた。
半分で十分になった。
だから残した。
それで、間違いではなかった。
エレノアは紙を机へ置いた。
「止めます」
「はい」
「でも、片づけないでください」
「このままにいたしますか?」
「はい。あとでまた見るかもしれないから」
「承知いたしました」
エレノアは椅子の背へ身体を預けた。
深く息を吸う。
一度。
二度。
三度。
リディアは何も言わず待っている。
しばらくして、胸の苦しさが少し薄くなった。
「鍵があったみたいです」
「机の収納でございますか?」
「はい。鍵がどこにあるか分からないって」
「何か思い出されましたか?」
「少しだけ。でも、本当の記憶か分からないです」
「では、今はそうしておかれるのがよろしいかと」
「『鍵を知ってる気がする。でも分からない』?」
「はい」
エレノアはその言葉を小さく繰り返した。
「それでいいですね」
「はい」
紙は机の上に残した。
続きを見るかどうかは、まだ決めなかった。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、そのころロベルトが家令から新しい報告を受けていた。
「ナタリー・ヴェルヌの退職後について、少し分かりました」
「話せ」
「退職時の婚姻相手は、ダニエル・グレイという名の帳場係だったようです。北区の織物商に勤めていた記録があります」
「現在は?」
「その織物商は昨年、店を畳んでおります」
「理由は?」
「店主の高齢による廃業です。問題を起こした記録はありません」
「ダニエルは?」
「廃業の半年ほど前に退職しております。転職先はまだ確認中です」
「ナタリーの現在の姓はグレイか?」
「婚姻が正式に成立していれば、その可能性が高いですが、婚姻登録の写しを確認中です」
ロベルトは頷いた。
「急がせるな。分かったことだけ積み上げろ」
「承知いたしました」
「本人を見つけても、いきなり屋敷へ連れてくるな」
「はい」
「まず接触方法を決める。本人が拒否した場合の扱いも考える」
家令が少し驚いたようにロベルトを見る。
「強制なさらないので?」
「犯罪の容疑者と決まったわけではない」
「仰る通りでございます」
「それに、もし本当にエレノアへの扱いに関わっていたとしても、誰の指示だったのか、本人が何を認識していたのかは別に調べる必要がある」
ロベルトは机の上にある複数の記録へ目を落とした。
人間一人を見つければ、すべてが解決するわけではない。
それはギュスターヴの聞き取りで嫌というほど分かった。
「旦那様。もう一件ございます」
「何だ」
「エレノアお嬢様の旧室について、ご指定通り、未確認箇所を開けずに一覧を作成いたしました」
「公爵家へ送ったか?」
「今朝、届けております」
「部屋の状態は?」
「大きな変化はございません。ただ……」
家令が言葉を濁した。
「何だ」
「机の左下収納が施錠されております」
「鍵は?」
「見つかっておりません」
ロベルトの眉が寄る。
「以前からか?」
「そこが不明でございます。日常的な掃除では、施錠された私的収納を開けることはございませんでしたので」
「壊すな」
「承知しております」
「鍵を探せ。ただし、エレノアの部屋の収納は勝手に開けるな」
「はい」
「鍵そのものを探す範囲は?」
「共用の鍵保管場所、旧侍女詰所、管理台帳であれば、お嬢様の私物へ触れず確認できます」
「そこまでにしろ」
家令が一礼する。
ロベルトは少し考えてから続けた。
「ベアトリスへ、机の鍵について知っているかだけ聞け。中身について誘導するな」
「かしこまりました」
「ノエルにも確認できるか?」
「現在の所在は把握しておりますので、可能でございます」
「では、ノエルにはエレノアが机の収納を施錠していた記憶があるかを聞け。鍵の形をこちらから説明するな」
「はい」
「マルタにもだ」
そこでロベルトは一度止まった。
マルタ。
エレノアが信頼し、ロシュフォール家への手紙を託した女性。
もし誰かがエレノアの私物の扱いを知っているなら、彼女の記憶は重要かもしれない。
「ただし、三人の証言は別々に取れ」
「承知いたしました」
家令が退出したあと、ロベルトは椅子へ深く座った。
娘の机。
施錠された収納。
父親である自分は、その存在すら知らなかった。
当然なのかもしれない。
十五歳の娘が机のどこに何を入れているか、父親がすべて把握している必要などない。
問題は、知らなかったことそのものではない。
娘が助けを求めようとしていた可能性に、何一つ気づかなかったことだった。
◇ ◇ ◇
昼食前になって、エレノアは机の上の一覧へもう一度目を向けた。
朝から二時間ほど経っている。
その間、刺繍を少し進め、本を数ページ読み、リディアと昼食の量について話した。
一覧を見ないようにしていたわけではない。
机の上にあることを知りながら、別のことをしていた。
そして今、もう一度見てもいいと思った。
「リディア」
「はい」
「続きを見ます」
「かしこまりました」
「今度は……隣に座ってください」
「はい」
リディアが椅子を持ってきて、少し間を空けて隣へ座る。
エレノアは紙を手に取った。
机の欄は飛ばさない。
もう一度見る。
『右下深型引き出し未確認。左下収納は施錠状態。鍵所在不明』
胸は少し重くなったが、先ほどほどではない。
その下へ進む。
『窓際小型収納棚――上段既確認。下段二扉収納未確認』
『洗面台脇収納――既確認。日用品のみ』
『壁際長持――施錠なし。外観確認のみ。内部未確認』
最後まで読んだ。
エレノアは紙を机へ置く。
「全部見ました」
「はい」
「箱が入りそうなところ、いくつありますか?」
尋ねてから、エレノアは少し考えた。
「……違う」
「はい?」
「リディアに決めてもらうんじゃなくて、私が考えます」
見取り図と一覧を並べる。
母の木箱は両手で持てる程度。
机の深型引き出しには入るだろうか。
大きさが分からない。
左下収納は?
これも図面だけでは分からない。
寝台脇の下段。
窓際収納。
壁際の長持。
いくつか可能性がある。
「大きさを聞いてもいいですか?」
「もちろんでございます」
「開けなくても、外から測れますよね?」
「家具そのものの寸法であれば可能かと」
「じゃあ、中を開ける前に、未確認の収納の大きさを知りたいです」
リディアが頷く。
「アルフォンス様へお伝えいたします」
「それから……」
エレノアは一覧を指で追う。
いきなり全部開ける必要はない。
「寝台の横の下を、最初に見てもらいたいです」
「下段収納でございますね」
「はい」
「理由を伺っても?」
リディアの質問に、エレノアは少し考えた。
「お母様の箱じゃなくても、あそこに何を入れてたか知りたいからです」
母の箱だけを探すためではない。
自分が暮らしていた部屋を、自分の手元へ少しずつ戻すため。
「でも、私がいないところで開けてもらうことになりますよね」
「ベルナール伯爵邸でございますので」
「誰が開けるの?」
「それもご指定いただけるよう、アルフォンス様へ相談なさってはいかがでしょう」
「指定できる?」
「ベルナール家側との調整は必要でしょうが、ご希望を伝えることはできます」
エレノアは少し考えた。
ロベルト。
ベアトリス。
知らない使用人。
誰に触られるのも、少し嫌だった。
「叔父様に相談します」
「はい」
「今、呼んでもらえますか?」
「もちろんでございます」
◇ ◇ ◇
アルフォンスはエレノアの話を最後まで聞いてから、一覧へ目を落とした。
「最初に寝台脇の下段収納を確認したいんだね」
「はい。でも、その前に未確認の場所の大きさも知りたいです」
「分かった」
「あと、誰が開けるのか決めたいです」
「ああ」
「私、お父様に開けられるのも……今はちょっと嫌です」
口にすると、胸が少し痛んだ。
父は調べてくれている。
それを嬉しいと思っている。
それでも、自分の引き出しを父に開けられるのは嫌だ。
「変ですか?」
「変じゃない」
「嬉しいって思ってるのに」
「ロベルトが調査をしていることを嬉しいと思うことと、私物に触れてほしくないと思うことは別だよ」
また、別でいい。
エレノアは少し安心した。
「じゃあ、お父様じゃない人がいいです」
「誰ならいい?」
すぐには答えられなかった。
ベルナール家の使用人の中で、今の自分が信頼できる人。
「マルタさん」
最初に浮かんだ。
「マルタなら?」
「はい。でも、一人だと……あとで何があったか分からなくなるかもしれない」
「立ち会いが必要だと思う?」
「はい」
「誰がいい?」
エレノアはさらに考えた。
「ロシュフォール家の人を、一人つけられますか?」
「できると思う。ベルナール家側の許可は必要だが、ロベルトが拒む理由は少ないだろう」
「叔父様やセドリックお兄様じゃなくていいです」
「うん」
「ちゃんと記録できる人がいいです」
アルフォンスの口元が少し緩む。
「では、家令補佐の中から信頼できる者を選ぼう。品に触れる前後を記録し、必要なら簡単な図も残せる者にする」
「男の人ですか?」
「候補には男女どちらもいる」
エレノアは少し迷った。
「女の人がいいです」
「分かった」
「私の服とか、下着とかが出てくるかもしれないから」
「もっともだ」
「マルタさんと、その人。あと、ベルナール家の人も必要ですか?」
「家の管理上、立ち会いを一人求められる可能性はある」
「お父様じゃなくていい?」
「ああ」
「ベアトリスさんは……嫌です」
それもはっきり言った。
箱を自分の部屋から持ち出した人物。
食事の指示書へ署名した人物。
まだ何をどこまで知っていたのか分からない。
今、自分の私物を開ける場にはいてほしくなかった。
「分かった。ロベルトへその希望を伝える」
「嫌って言ってもいいんですね」
「もちろん」
「証拠があるからじゃなくても?」
「これは誰かを罰する場ではなく、お前の私物を確認する場だからね。安心できる人を望む理由として十分だ」
エレノアは頷いた。
「じゃあ、それでお願いします」
「最初は寝台脇の下段だけ?」
「はい」
「そこで何もなくても、次を自動的に開けない?」
アルフォンスが確認する。
エレノアは一瞬考え、それから頷いた。
「開けないでください」
「分かった」
「結果を聞いてから、次を決めます」
「そのように伝える」
「あと……」
机の施錠された収納が気になる。
とても気になる。
「鍵は探してほしいです」
「収納は開けずに?」
「はい。鍵だけ」
「どこまで探していい?」
その質問で、エレノアはまた考える。
「私の物を開けないところまで」
「共用の鍵保管場所や管理記録、使用人への聞き取りは?」
「いいです」
「お前の旧室にある別の引き出しの中は?」
「まだ嫌です」
「分かった」
アルフォンスは一つずつ確認しながら紙へ書き留める。
誰が開けるか。
どこまで開けるか。
何をまだ開けないか。
鍵をどこまで探してよいか。
以前なら、こんなことを自分が決められるとは思わなかった。
「これでいい?」
アルフォンスが書いた内容を読み上げる。
エレノアは最後まで聞き、少しだけ修正を頼んだ。
「『女性使用人が望ましい』じゃなくて、『女性がいい』にしてください」
「分かった」
アルフォンスが書き直す。
「ほかには?」
「ありません」
「では、この条件でロベルトへ伝える」
「お願いします」
エレノアは一覧を自分の手元へ戻した。
少し疲れた。
けれど、嫌な疲れではない。
自分の部屋について、自分で決めた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール家からの連絡を受けたロベルトは、書面を二度読んだ。
最初に確認するのは、寝台脇小卓の下段収納一か所のみ。
他の未確認箇所は開けない。
立ち会いはマルタ。
ロシュフォール家から女性の記録担当者一名。
ベルナール家側からは管理上必要な一名のみ。
ロベルト本人は立ち会わない。
ベアトリスも立ち会わせない。
開封前後の状態を記録する。
収納物は勝手に移動、処分しない。
母アデラインの箱、青い髪飾り、書簡類など重要性の高い物が見つかった場合は、その場で確認を止め、エレノアへ報告する。
施錠された机左下収納については開けない。
鍵は共用管理場所、管理記録、使用人への聞き取りまで。
エレノアの別の私物収納を鍵探しのために開けることは禁止。
「……細かいな」
思わず漏れた。
家令が少し緊張したようにロベルトを見る。
「問題がございますか?」
「いや」
ロベルトは首を横へ振った。
「これでいい」
細かいのではない。
今まで、エレノアの希望が細かく確認されることなどなかっただけだ。
「ベルナール家側の立会人は?」
「私が務めましょうか」
「いや、お前は他の調査全体を管理している。今回の目的は私物確認だ」
ロベルトは少し考えた。
「女性の副家政管理官は?」
「ヘレナ・バルドーがおります。四十六歳。伯爵家勤務十四年。ヴァレリア様付きではなく、客室および共用部の管理を主に担当しております」
「エレノアとの関係は?」
「日常的な接触は少なかったはずです」
「問題のある記録に名前は?」
「現時点ではございません」
「なら候補としてロシュフォール家へ伝え、エレノア本人に確認してもらえ」
「こちらで決めないのでございますか?」
「本人が、誰が開けるか決めたいと言っている」
ロベルトは書面を机へ置いた。
「候補を出すところまでだ」
「承知いたしました」
「マルタには事情を説明し、本人が拒否するなら別の者を考える」
「はい」
「無理にやらせるな」
家令が退出したあと、ロベルトは書面へもう一度目を落とした。
『ロベルト本人は立ち会わない』
その一文が胸へ刺さる。
娘は、自分に部屋の収納を開けられたくない。
以前のロベルトなら、父親なのだから何が問題なのだと思ったかもしれない。
だが今は、その拒絶に理由を求めること自体が違うのだと分かり始めていた。
(私は、信頼されていない)
当然だった。
それでも痛い。
痛いからといって、エレノアへその痛みを解消させる権利はない。
ロベルトは書面を閉じた。
◇ ◇ ◇
夕方になり、エレノアのもとへ候補者について返事が届いた。
アルフォンスが伝えに来る。
「ベルナール家側の立会人として、ヘレナ・バルドーという女性が候補に挙がった」
「知ってる人ですか?」
「お前が、という意味?」
「はい」
「日常的な接触は少なかったと報告されている」
名前を聞いても、エレノアにはほとんど記憶がなかった。
「どんな人?」
「四十六歳。ベルナール家に十四年勤めている。主に客室と共用部の管理を担当していて、ヴァレリア付きではない。現時点で調査中の食事指示や私物移動の記録には名前が出ていない」
「だから安全?」
「そこまでは言えない」
アルフォンスは即座に答える。
「今分かっている範囲では、問題への直接関与を示す情報がない、というだけだ」
「そうですよね」
「嫌なら別の候補を出してもらう」
エレノアは少し考えた。
知らない人。
けれど、知っているから安心とも限らない。
ベアトリスは知っていた。
父も知っていた。
それでも安心できない。
「ヘレナさんでいいです」
「会ったことをほとんど覚えていなくても?」
「はい。マルタさんと、ロシュフォール家の人も一緒なんですよね?」
「ああ。こちらからはエレーヌ・フォシェという女性の家令補佐を出す予定だ。三十二歳。記録整理を担当している」
「その人は私の物を触りますか?」
「基本は記録だけにする。実際に収納を開け、物へ触れる役目はマルタに限定することもできる」
「そうしてください」
「分かった」
「ヘレナさんは?」
「ベルナール家側の立ち会いだけ。触れないようにする?」
「はい」
「では、その条件も加える」
エレノアは少し安心した。
「いつやりますか?」
「早ければ明日できる。ただし、明日でなくてもいい」
「明日……」
胸が少し速くなる。
自分はその場にいない。
それでも、自分の部屋の収納が開けられる。
「朝じゃなくて、お昼のあとがいいです」
「理由は?」
「朝、結果が出るのをずっと待つのが嫌だから」
自分でも説明しながら分かってきた。
「朝は普通に過ごしたいです。池にも行きたいし、ご飯も食べたい。お昼のあとに開けてもらって、そのあと報告してほしいです」
「分かった。時間を調整しよう」
「結果は、その日のうちに聞けますか?」
「大きな問題がなければ」
「見つからなかった場合も?」
「ああ。『何もなかった』という報告もする」
「お願いします」
エレノアは頷いた。
明日。
寝台脇の収納を、一つだけ開ける。
母の箱があるかもしれない。
ないかもしれない。
別の何かが出てくるかもしれない。
何もないかもしれない。
それ以上は、まだ考えない。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは刺繍布に二匹目の魚を刺した。
一匹目より少し細い。
尾の形も前より魚らしくなった。
並べて見ると、最初の魚の方がずいぶん太って見える。
「変なの」
小さく笑う。
けれど、直そうとは思わなかった。
一匹目は一匹目。
二匹目は二匹目。
上達したからといって、最初のものを消す必要はない。
刺繍を机へ置き、その横に旧室の一覧を並べる。
今日、初めて全部を読んだ。
途中で一度止めた。
そのあと続きを読んだ。
そして、最初に開ける場所を一つだけ決めた。
全部ではない。
一つだけ。
エレノアは新しい紙を取り出した。
『寝台の横の下を開ける』
その下へ書く。
『マルタさんが開ける』
『エレーヌさんが記録する』
『ヘレナさんが立ち会う』
『ほかの場所は開けない』
最後に、少し考えてから一行を加えた。
『何もなくても、次をすぐ開けなくていい』
その言葉を見て、エレノアは肩の力を抜いた。
明日、何も見つからなかったら、がっかりするだろう。
母の箱が見つかってほしい。
青い髪飾りも見つかってほしい。
けれど、見つからなかった焦りのまま、次から次へと自分の部屋を開けさせる必要はない。
自分の物だからこそ、自分の速さで調べたい。
エレノアは紙を引き出しへしまう前に、もう一度読み返した。
(私の部屋だったんだ)
ベルナール伯爵邸にある、あの部屋。
嫌なことがたくさんあった。
怖かった。
一人だった。
それでも、そこにいた自分の物まで、他人のものになったわけではない。
誰が触るのか。
どこを開けるのか。
どこで止めるのか。
今の自分が決めていい。
エレノアは引き出しを閉じ、灯りを少し落とした。
明日の午後、一つの収納が開く。
そこに何があるのかは、まだ誰にも分からない。
けれど今夜のエレノアにとって大切だったのは、中身を先に当てることではなかった。
自分の部屋の扉の向こうに残されたものへ、ようやく自分の意思で手を伸ばし始めたことだった。




