第30話 一つだけ開けた、その先に
その日の朝、エレノアが最初に思い出したのは、ベルナール伯爵邸で午後に開けられることになっている収納のことだった。
寝台脇に置かれた小卓。
その下段にある、まだ中身を確認されていない収納。
母アデラインの木箱が入っているかもしれない。
青い髪飾りがあるかもしれない。
あるいは、自分自身も忘れてしまった何かが残っているかもしれない。
(今日、開けるんだ)
胸が少しだけ重くなる。
けれど昨日の夜ほど、その重さを恐ろしいとは感じなかった。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、窓の方へ目を向ける。カーテンはまだ閉じられているため、外が晴れているのか曇っているのかは分からない。
しばらくして扉が叩かれ、リディアの声がした。
「お嬢様。お目覚めでございますか?」
「はい。起きています」
「入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
入ってきたリディアは、いつものようにカーテンを開ける前にエレノアへ確認する。
了承すると、柔らかな朝の光が室内へ入った。
昨日心配されていた雨は夜のうちに少し降ったらしく、窓の向こうに見える庭の葉が濡れている。
「池のところ、滑りますか?」
エレノアが尋ねると、リディアは窓の外を見た。
「石の縁はまだ濡れていると思われます。ジュリアスへ確認いたしましょうか?」
「お願いします。でも、危なかったら今日は近くまで行きません」
「かしこまりました」
エレノアは寝台から降りる。
今日の午後には、ベルナール伯爵邸で自分の収納が開けられる。
そのことは変わらない。
だからこそ、それまでの時間を待つことだけに使いたくなかった。
「リディア」
「はい」
「今日、収納を開けるのはお昼のあとですよね?」
「その予定でございます」
「終わったら、すぐに知らせが来る?」
「エレーヌが確認内容を整理してから戻りますので、多少お時間はかかるかと存じます」
「じゃあ、何時になるかは分からない?」
「正確には申し上げられません」
「分かりました」
以前の自分なら、結果が届くまで部屋でじっとしていたかもしれない。
何かをしていて知らせを聞き逃したらいけない。
楽しんでいる間に大切なことが起きたらいけない。
そんなふうに考えていただろう。
けれど、知らせは逃げない。
自分が刺繍をしていても、本を読んでいても、庭を歩いていても、戻ってきた報告は待っていてくれる。
「今日は何をお召しになりますか?」
リディアが用意した衣装を見せる。
淡い青。
柔らかな黄色。
薄い桃色。
エレノアの視線が、最後の一着で少し止まった。
以前にも感じた、理由の分からない小さな引っかかり。
桃色のドレス。
嫌いなのか。
怖いのか。
何かを思い出しそうなのか。
まだ分からない。
「今日は黄色にします」
「かしこまりました」
「桃色は、そのままにしてください」
「もちろんでございます」
「嫌いって決めたわけじゃないから」
「はい」
リディアは桃色のドレスを下げた。
選ばなかっただけ。
捨てたわけでも、二度と着ないと決めたわけでもない。
エレノアは黄色のドレスへ袖を通した。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、いつも通りアルフォンスたちが待っていた。
エレノアが席につくと、セドリックが一度だけ彼女を見る。
何か言いたそうに見えたが、すぐには口を開かなかった。
「おはようございます」
「おはよう、エレノア」
「おはよう」
マルグリットとオーギュストも普段通りだ。
誰も、今日の午後のことを最初の話題にはしない。
それがありがたかった。
エレノアはスープを一口飲み、焼いたパンへ少量のバターを塗った。
今日の朝食には白身魚を小さく焼いたものもある。
一口食べると、以前気に入った香草に似た香りがした。
「これ、好きです」
自然に言葉が出た。
マルグリットが微笑む。
「マティアスが聞いたら喜ぶでしょうね」
「たぶん?」
エレノアが言い直すように首を傾げると、マルグリットが小さく笑った。
「ええ。たぶん、ね」
「本人に聞かないと分からないですから」
「最近、我が家では人の気持ちを勝手に決めると注意されるようになったな」
オーギュストが面白そうに言う。
「お祖父様も?」
「もちろんだ。長く生きていても、他人の頭の中までは見えん」
「お祖父様でも分からないんですね」
「分かったつもりになって失敗したことなら、山ほどある」
「お父様、それを朝から誇らしげに言うことではありませんよ」
アルフォンスが苦笑すると、食卓に小さな笑いが広がった。
エレノアも笑った。
そのあと、魚をもう一口食べる。
今日は美味しい。
明日も食べたいかは、明日にならなければ分からない。
けれど、今日好きだと思ったことまで疑う必要はない。
朝食が半分ほど進んだところで、セドリックがようやく口を開いた。
「エレノア」
「はい?」
「今日のこと、僕から聞いてもいい?」
何のことかは分かった。
「収納のこと?」
「うん。話したくなければいいんだけど」
エレノアは少し考えた。
「聞いていいです」
「怖い?」
簡単な問いだった。
以前なら反射的に「大丈夫です」と答えていただろう。
エレノアはスプーンを置いた。
「少し怖いです」
「うん」
「でも、見てほしいです」
「箱があるといいね」
セドリックの言葉に、エレノアはすぐには頷かなかった。
「……あったら嬉しいです。でも、なかったら、がっかりすると思います」
「そうだね」
「だから、あんまり『きっとある』って思わないようにしてます」
「その方がいいかもしれない」
「でも、期待しちゃだめってことでもないですよね?」
セドリックが少し驚いた顔をする。
「もちろん」
「見つかってほしいって思ってもいい?」
「いいよ。期待した結果、見つからなくて悲しくなるかもしれないけど、悲しくなりたくないから期待しちゃいけない、とは思わない」
エレノアはゆっくり頷いた。
「じゃあ、見つかってほしいです」
今度ははっきり言った。
「お母様の箱、あそこにあったらいいな」
マルグリットの目元が僅かに揺れた。
けれど彼女は「きっとある」とは言わなかった。
「ええ」
それだけ答える。
その短い返事が、エレノアにはちょうどよかった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、ジュリアスから「池の周囲の石はまだ滑りやすい」と伝言が届いた。
エレノアは少し残念に思った。
それでも、池へ行くこと自体を諦める必要はない。
「近くまで行かないなら大丈夫ですか?」
リディアを通じて確認すると、ジュリアスからは「芝の道から眺める範囲であれば問題ないと思われます」と返事があった。
エレノアは庭へ出た。
いつもの腰掛けまでは行かず、少し離れた芝の道で立ち止まる。
ここからでは魚はほとんど見えない。
水面が木々の間から少し見えるだけだ。
(今日は魚、見えないな)
残念だった。
でも、来なければよかったとは思わない。
濡れた土の匂いがする。
葉に残った雨粒が、時々朝の光を反射する。
魚を見るために好きになった場所だったが、魚が見えない日にも来たいと思える。
「リディア」
「はい」
「池が好きなのか、魚が好きなのか、分からなくなりました」
「どちらも、ではいけないのでしょうか」
「あ」
エレノアは少し笑った。
「どっちかじゃなくていいんですね」
「はい」
「じゃあ、どっちも好きかもしれません」
決めつける必要もない。
今は、そう思う。
それだけでいい。
◇ ◇ ◇
昼食を終えるころ、ベルナール伯爵邸では、エレノアの旧室の前に三人の女性が集まっていた。
マルタ。
ベルナール家の副家政管理官、ヘレナ・バルドー。
そしてロシュフォール家から派遣された家令補佐、エレーヌ・フォシェ。
エレーヌは三十二歳の女性で、濃い栗色の髪を首の後ろでまとめている。普段はロシュフォール家の帳簿や備品記録を扱うことが多く、今回も物品へ触れる役ではなく、確認した内容を記録するために来ていた。
「条件をもう一度確認いたします」
エレーヌが書面を開く。
「本日開けるのは、寝台脇小卓の下段収納一か所のみ。実際に取っ手へ触れ、収納内の物へ触れるのはマルタさんのみ。ヘレナさんと私は立ち会いおよび記録。収納内に重要性が高いと思われる品があった場合、その場で作業を止めます」
「はい」
マルタが緊張した表情で頷く。
ヘレナも一礼した。
「他の収納は?」
「開けません」
「机の施錠部分も?」
「本日は対象外です」
「承知しました」
ヘレナはそれ以上尋ねなかった。
エレーヌは扉の封印記録を確認する。
ロベルトの指示により、旧室では必要最低限の掃除以外の物品移動が止められていた。扉そのものを封鎖しているわけではないが、出入りした者と目的は記録されている。
問題がないことを確認してから、三人は部屋へ入った。
マルタが足を止める。
何年も前。
自分がまだエレノアの側仕えだったころ、何度も出入りした部屋。
あのころより、ずっと物が少ない。
そして冷たい。
人が暮らしていない部屋は、同じ家具が置かれていても別の場所のように見える。
「大丈夫ですか?」
エレーヌに尋ねられ、マルタは息を吐いた。
「はい。ただ……懐かしいというより、少し嫌な感じがします」
「その感想も記録いたしますか?」
「いいえ。それは必要ありません」
「分かりました」
エレーヌは無理に理由を聞かなかった。
三人は寝台の横へ進む。
小卓は古いものではない。
アデラインの時代から使われていた家具でもなく、エレノアが十歳を過ぎたころに部屋へ入れられたものだと備品記録には残っている。
上段の浅い引き出しはすでに確認済み。
櫛、乾いた香草袋、空になった小瓶、布片などが記録されている。
今回開けるのは、その下。
観音開きになった小さな扉だった。
「開けます」
マルタが言う。
エレーヌは時刻を書き込んだ。
「お願いします」
マルタが取っ手へ指をかける。
扉は施錠されていない。
少し固くなっていたが、ゆっくり引くと木の軋む音とともに開いた。
三人とも、すぐには中へ手を伸ばさなかった。
エレーヌがまず外から見える範囲を記録する。
「内部、布製品と思われる物が三点。紙包み一点。小型の木製品一点を視認。奥部は現状では確認困難」
マルタの顔が変わった。
「木製品?」
ヘレナも中を見る。
しかし、母アデラインの箱として証言されている、両手で持つほどの大きさではない。
見えているのは掌より少し大きい程度のものだった。
「箱とは違いますね」
ヘレナが言う。
「その判断も、まだ記録上は『見える範囲では大きさが一致しない』としておきます」
エレーヌが静かに訂正する。
「失礼しました」
「いえ」
マルタが手前の布製品を一つずつ取り出す。
薄い肩掛け。
刺繍のない白い布。
古い寝間着の上着。
どれもエレノアの物と思われるが、その場で断定はしない。
紙包みが見える。
「こちらを出します」
「お願いします」
マルタが両手で取り出す。
紙は少し黄ばんでいる。
紐もかかっていない。
開くことは、今日の許可に含まれているのか。
三人が一度止まった。
「紙包みは収納物です。中身の確認まで行うかどうか、指示には明記されておりません」
エレーヌが言った。
「では、開けない方がいいでしょう」
ヘレナが答える。
「私もそう思います」
マルタも頷いた。
紙包みはそのまま。
次に、小型の木製品を取り出す。
それは箱ではなかった。
「……写真立て?」
マルタが呟く。
この国では肖像画を小さく写した簡易な印刷肖像が、裕福な家を中心に少しずつ使われ始めている。目の前にあるのは、その小さな肖像を収めるための木枠だった。
だが、中は空だった。
誰の肖像が入っていたのか分からない。
「空の小型肖像枠、一点」
エレーヌが記録する。
「マルタさん、見覚えは?」
「……ございます」
マルタの声が低くなる。
「ただ、はっきり覚えているところだけ申し上げます」
「お願いします」
「以前、この枠には女性の肖像が入っていました」
「誰か分かりますか?」
「アデライン様だったと思います」
言ってから、マルタはすぐに続けた。
「いいえ。『思います』では証言になりませんね。私は、エレノアお嬢様がこの枠を手にして、『お母様』と呼んでいるのを見た記憶があります。ですから、中に入っていたのはアデライン様の肖像だったと認識していました」
エレーヌがそのまま記録する。
「肖像そのものがいつなくなったかは?」
「分かりません。私が離れる前には……」
マルタが目を閉じる。
「申し訳ありません。そこは覚えておりません」
「分からない、で記録します」
「お願いします」
収納の奥が見えるようになった。
母の木箱はない。
青い髪飾りも見えない。
しかし、一番奥に薄い冊子のようなものが立てかけられている。
「まだあります」
マルタが慎重に取り出した。
薄い布張りの帳面だった。
表紙に名前はない。
紐で閉じられているが、鍵はない。
三人は再び止まる。
「中を開く許可は?」
「ありません」
「では、この状態で止めます」
エレーヌが記録する。
収納の中そのものは、これでほぼ空になった。
底板や奥板を外すことはしない。
隠し場所があるかどうかまで調べる許可もない。
母の木箱は見つからなかった。
青い髪飾りも見つからなかった。
だが、未開封の紙包み。
空になったアデラインのものと思われる小型肖像枠。
紐で閉じられた薄い帳面。
三つの確認を、エレノアへ委ねる必要がある。
「戻しますか?」
ヘレナが尋ねる。
エレーヌは事前指示を確認した。
「重要性が高いと思われる物が見つかった場合、その場で確認を止める、とあります。移動については、勝手に行わないことになっています」
「では?」
「取り出した状態そのものを記録し、エレノア様へ確認します。安全上、この部屋を一時的に閉鎖し、三人が退出した時点で扉を管理対象とします」
マルタが帳面を見つめる。
「お嬢様の字かもしれません」
「分かりますか?」
「いいえ。開いていませんから」
マルタは首を横へ振った。
「だから、それも今は分かりません」
エレーヌは小さく頷いた。
誰も帳面を開かなかった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸へ戻ったエレーヌから報告を受けたアルフォンスは、最初に時刻を確認した。
夕食にはまだ少し早い。
「エレノアには?」
「まだお伝えしておりません」
「ありがとう」
「収納内に目的の木箱および青い石の髪飾りは確認できませんでした」
「そうか」
「ただし、判断を仰ぐべき物が三点ございます」
エレーヌは記録を読み上げる。
未開封の紙包み。
空の小型肖像枠。
紐で閉じられた薄い帳面。
「肖像枠について、マルタさんはエレノア様が過去に『お母様』と呼びながら手にしていた記憶があると証言しています」
アルフォンスの顔が強張った。
「中身は?」
「ありません」
「いつ失われた?」
「不明です」
「帳面は?」
「開いておりません」
「紙包みも?」
「同じく」
アルフォンスは黙った。
開ければ、何か分かるかもしれない。
帳面にエレノア自身が書いたものがあるかもしれない。
紙包みに手紙が入っているかもしれない。
肖像がどこへ行ったのかを示す何かがあるかもしれない。
それでも、エレノアは「一か所を開ける」としか許可していない。
収納の中にある閉じた物まで勝手に開けてよいとは言っていない。
「そのままにして正解だ」
「はい」
「部屋は?」
「退出後、管理記録を残して閉じています。取り出した物は小卓前の台へ置き、布をかけてあります。誰も触れないようヘレナさんが管理しております」
「分かった」
アルフォンスは立ち上がる。
「私からエレノアへ話す」
◇ ◇ ◇
エレノアは、そのときマルグリットと刺繍をしていた。
二匹の魚の横へ、水草をもう一本増やしている。
昨日より少し濃い緑色の糸を選んだ。
「同じ水草なのに、色が違ってもいいでしょうか」
「あなたの刺繍ですもの」
「本物の池だと変ですか?」
「池の水草だって、全部が同じ色ではないでしょう?」
「あ、そうですね」
エレノアが糸を通そうとしたところで、扉が叩かれた。
アルフォンスが入ってくる。
その顔を見た瞬間、エレノアは手を止めた。
「終わったんですか?」
「ああ」
胸が大きく鳴った。
「箱、ありました?」
最初にそれを聞いた。
アルフォンスは誤魔化さない。
「なかった」
エレノアの指が止まる。
「……なかった」
「ああ。青い髪飾りも、確認できなかった」
期待していた。
期待してもいいと、朝に言った。
だから、その分だけ胸が沈む。
「そっか……」
エレノアは刺繍布を膝へ置いた。
「残念です」
「うん」
「すごく、ではないけど……やっぱり残念」
マルグリットが隣で黙っている。
誰も「次がある」と急いで慰めなかった。
エレノアは少しだけその残念さの中にいた。
見つかってほしかった。
開ければそこにあるかもしれないと考えていた。
でも、なかった。
「ほかに、何かありました?」
「ある」
アルフォンスの声で、エレノアが顔を上げる。
「何?」
「閉じたままの紙包みが一つ。紐で閉じた薄い帳面が一冊。それから、小さな木製の肖像枠があった」
「肖像……」
「枠だけで、中身はなかった」
エレノアの胸がざわつく。
「マルタさんは?」
「見覚えがあると言っている。お前がその枠を手にして『お母様』と呼んでいた記憶があるそうだ」
「お母様……」
その瞬間、何かが浮かんだ。
寝台。
夜。
膝の上に置いた小さなもの。
女性の顔。
柔らかな髪。
けれど、輪郭はすぐに消える。
「私……持ってた?」
「マルタはそう証言している」
「中、なくなってるんですよね?」
「ああ」
「誰が取ったの?」
「分からない」
エレノアは唇を結んだ。
また、なくなっている。
母の木箱。
青い髪飾り。
今度は母の肖像。
「どうして……」
声が少し震えた。
「どうして、お母様のものばっかりなくなるの?」
アルフォンスは答えなかった。
答えられないからだ。
偶然かもしれない。
整理の中で移動したのかもしれない。
誰かが意図的に取り上げたのかもしれない。
今の証拠だけでは決められない。
エレノアも、それを分かっている。
それでも悲しかった。
「私、そんなにお母様のもの持ってちゃだめだったのかな」
「違うわ」
今度はマルグリットが言った。
声は穏やかだが、はっきりしている。
「それだけは違う」
「でも……」
「誰が何をしたかはまだ分からない。けれど、あなたが母親の形見を持っていたいと思うことに、悪い理由など必要ないわ」
エレノアは目を伏せる。
「お祖母様は、持っててほしかった?」
「ええ」
マルグリットは迷わなかった。
「アデラインのことを忘れないでほしかったから、ではないの。忘れるかどうかまで、あなたへ求めるつもりはないわ。ただ、持っていたいなら持っていてほしかった」
「忘れてもいいの?」
「人の記憶は薄れるものよ。顔も、声も、少しずつ曖昧になることがある。それを裏切りだとは思わない」
エレノアの目から、一粒だけ涙が落ちた。
「私、お母様の声、もうよく覚えてないです」
「そう」
「顔も、肖像がないと……少しずつ分からなくなって」
「ええ」
「忘れたくなかったのに」
マルグリットはエレノアへ手を伸ばしかけ、途中で止める。
エレノアがそれに気づいた。
「手、握ってください」
「ええ」
触れられる前に、自分で頼んだ。
マルグリットの手が重なる。
温かい。
「忘れてしまう部分があっても、アデラインがあなたの母親だったことはなくならないわ」
「はい……」
「それに、私たちが覚えているアデラインの話なら、何度でもするわ。あなたが聞きたい日に」
「今日じゃなくても?」
「もちろん」
エレノアは涙を拭った。
「今日は、ちょっとだけでいいです」
「ええ」
しばらく手を握ってもらってから、エレノアはアルフォンスを見る。
「紙包みと帳面は?」
「誰も開いていない」
「本当に?」
「ああ。収納から取り出したところで止めてある」
胸の中に、悲しさとは別の感情が生まれた。
少しだけ、安心。
開ければ分かるかもしれないのに。
誰も勝手に開けなかった。
「帳面、私のですか?」
「分からない。表紙に名前はないそうだ」
「字は?」
「開いていないから確認していない」
「紙包みも?」
「同じだ」
エレノアは考えた。
開けたい。
中を知りたい。
特に帳面。
もし自分が書いたものなら、忘れていることが残っているかもしれない。
母について。
ベルナール家について。
自分自身について。
けれど、その中に何があるのか分からない。
「持ってきてもらえますか?」
「ここへ?」
「はい」
「できる。ただ、ベルナール家から持ち出すことになるから、所有関係を確認して記録を残した上で移す必要がある」
「今日できますか?」
「急げば可能だろう。ただ――」
アルフォンスは一度言葉を止める。
「今日、開きたい?」
エレノアはすぐに答えなかった。
帳面の中身を知りたい。
紙包みも気になる。
でも、母の肖像がなくなっていると知ったばかりだ。
今の胸の中には、それだけでも十分な重さがある。
「……今日は、開けません」
「分かった」
「でも、ここへ持ってきてほしいです」
「ああ」
「私のものなら、私が持っていたい」
「所有確認をして、問題がなければそうしよう」
「肖像枠も」
「分かった」
「中身がなくても」
「もちろん」
エレノアはマルグリットの手をもう一度握った。
「それから、今日は次の収納を開けません」
「うん」
「箱がなかったからって、次をすぐ開けたくないです」
「そのように伝える」
朝に自分で書いた言葉。
『何もなくても、次をすぐ開けなくていい』
今、それを実際に選べた。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ロベルトも同じ報告を受けていた。
「肖像枠の中身がない?」
「はい」
家令の報告に、ロベルトの眉間へ深い皺が寄る。
「マルタはアデラインの肖像だったと?」
「正確には、エレノアお嬢様がその枠を持って『お母様』と呼んでいた記憶がある、との証言です」
「いつまで肖像が入っていた?」
「不明です」
「ベアトリスへ聞け」
言った直後、ロベルトは止まった。
「いや、待て」
家令が黙って次の指示を待つ。
「先にマルタとノエルへ、それぞれ別に確認しろ。肖像枠について、こちらからアデラインの名前を出すな」
「承知しました」
「そのあとでベアトリスだ」
「はい」
「肖像画や小型肖像の移動記録も探せ。アデラインの遺品一覧が残っているなら照合する」
「かしこまりました」
「ヴァレリアには、まだこの件を伝えるな」
「理由を伺っても?」
「ナタリーの件と同じだ。先に話せば、記憶が混ざる」
家令が一礼する。
「それから、エレノアお嬢様から、紙包みと帳面、肖像枠をロシュフォール家へ移したいとの希望が届いております」
「認めろ」
ロベルトは即答した。
「所有確認は?」
「紙包みと帳面はお嬢様の旧室内、個人用収納から発見されています。ただし中身未確認のため、内容によっては――」
「開けずに移せ」
「よろしいので?」
「中身を見なければ所有確認ができないと言うなら、封をした状態で一時預かりとして移送記録を作れ。中を確認するためにここで開けるな」
「承知しました」
「肖像枠も同じだ」
家令が記録する。
ロベルトは椅子へ座ったまま、しばらく黙っていた。
アデラインの肖像。
もし本当にエレノアが持っていたのなら、それすら失われている。
自分は知らなかった。
娘の部屋に妻の肖像があったことも。
なくなったことも。
娘がそれをどう思ったのかも。
(私は何を見ていた)
答えは簡単だった。
見ていなかった。
屋敷が回っていることを、家族が問題なく暮らしていることと同じだと思っていた。
食事が用意されている。
衣服がある。
使用人がいる。
妻が家庭を管理している。
だから娘も問題なく暮らしているはずだと。
確認しなかった。
聞かなかった。
エレノアが何も言わなかったことを、問題がない証拠にした。
「旦那様」
家令の声で、ロベルトが顔を上げる。
「もう一件、机の鍵についてでございます」
「分かったのか?」
「まだ所在は不明です。ただ、マルタさんから一つ証言がございます」
ロベルトの表情が変わる。
「何だ」
「エレノアお嬢様は、以前、机の左下収納をご自分で施錠していた可能性が高いとのことです」
「鍵は?」
「マルタさんは、小さな真鍮色の鍵をお嬢様が持っているところを何度か見た記憶があるそうです」
「どこに保管していた?」
「そこまでは覚えていないと」
「ノエルは?」
「まだ聞き取り前です」
「では続けろ」
「はい」
ロベルトはそこで何かを思い出しかけた。
小さな鍵。
真鍮色。
どこかで見たことがあるような気がする。
だが、それがエレノアのものだったのか、屋敷の別の鍵だったのか判断できない。
「私も……見たことがあるかもしれない」
家令が顔を上げる。
「どちらで?」
「分からん」
ロベルトはすぐに首を横へ振った。
「今のは証言として記録するな。思い出したとは言えない」
「承知しました」
曖昧な記憶を事実へ変えない。
それは今、娘がしていることと同じだった。
◇ ◇ ◇
夕食前、ベルナール家から三点の品がロシュフォール家へ届けられた。
移送には記録がつけられ、紙包みと帳面は開かれていない。
肖像枠も、発見された状態のままだった。
アルフォンスは受け取ったあと、エレノアへすぐ持っていくかどうかを確認しに来た。
「届いたよ」
「三つとも?」
「ああ」
「見たいです」
「今?」
「はい。でも、開けません」
「分かった」
小さな応接室へ運ばれた三点を前に、エレノアは椅子へ座った。
アルフォンスとマルグリットがいる。
セドリックは呼ばなかった。
リディアは少し離れた場所に立っている。
最初に見たのは、空の肖像枠だった。
木の縁へ指を伸ばしかけ、エレノアは止める。
「触っていいんですよね?」
「お前の旧室から出たものだ。今はお前が確認するためにここへ運ばれている」
「じゃあ、触ります」
両手で持ち上げる。
軽い。
木枠の表面には細かな傷がある。
裏側には小さな留め具があり、それを外せば肖像を入れ替えられる作りだ。
何も入っていない。
エレノアはしばらく見つめた。
「これ……知ってる気がします」
誰も先を促さない。
「寝る前に、見てたような……」
目を閉じる。
暗い部屋。
小さな灯り。
母の顔。
声は聞こえない。
自分が何かを話している。
『お母様』
そこまで。
エレノアは目を開いた。
「それ以上、分からないです」
「うん」
「でも、たぶん、私のです」
「そう思う?」
「はい」
断定できる証拠ではない。
それでも、自分の感覚としてそう思う。
「これは、部屋に置いておきたいです」
「ここに?」
「はい。今の私の部屋に」
「分かった」
「中身がなくても」
「うん」
エレノアは肖像枠を机の端へ置いた。
次に、紙包みを見る。
薄い。
中に何枚か紙が入っているように見える。
「これ、開けたら元に戻せますか?」
アルフォンスが包みを外から確認する。
「紙を折って包んでいるだけだから、開けること自体はできる。ただ、元とまったく同じ折り方へ戻せるかは記録してからの方がいいだろうね」
「じゃあ、開けるときは記録した方がいい?」
「もし調査資料として扱う可能性も考えるなら、その方がいい」
「分かりました」
最後に帳面。
淡い灰青色の布張り。
長い年月で色が少し褪せている。
紐で閉じられている。
エレノアは触れなかった。
「これが、一番怖いです」
「どうして?」
マルグリットが尋ねる。
「私が書いたものだったら、昔の私が何を考えてたか分かるかもしれないから」
「知りたくない?」
「知りたいです」
エレノアは正直に答える。
「すごく知りたい。でも……」
指先を膝の上で握る。
「怖いことがいっぱい書いてあったら、どうしよう」
「その可能性はあるわね」
マルグリットは否定しなかった。
「何も書いてないかもしれない?」
「ええ」
「全然違うものかもしれない?」
「もちろん」
エレノアは帳面を見る。
中身はまだ分からない。
だから今、頭の中で一番怖いものに変えてしまうこともできる。
「今日は開けません」
「ええ」
「明日も、まだ分からないです」
「それでいいわ」
「でも、ここに置きます」
「ええ」
エレノアは紙包みと帳面も、自分の部屋で保管したいと頼んだ。
アルフォンスは了承する。
「ただし、調査上の記録として、現在の外観だけエレーヌに記録させてもいい?」
「私の前で?」
「ああ」
「中は開けない?」
「開けない」
「じゃあ、いいです」
また一つ、自分で範囲を決めた。
◇ ◇ ◇
夕食後、エレノアは自室の机に座っていた。
空の肖像枠。
紙包み。
帳面。
三つが目の前にある。
箱はなかった。
髪飾りもなかった。
今日の調査だけを見れば、探していたものは見つからなかったことになる。
けれど、何もなかったわけではない。
エレノアは新しい紙を取り出した。
『寝台の横の収納を開けた』
『お母様の箱はなかった』
『青い髪飾りもなかった』
ここまで書く。
少しだけ胸が痛む。
その下へ続けた。
『お母様の肖像が入っていたかもしれない枠があった』
『でも、肖像はない』
『紙包みがあった』
『帳面があった』
『まだ開けていない』
そして最後に、
『次の収納は、まだ開けない』
と書いた。
エレノアはペンを置いた。
以前なら、今日のうちに全部調べなければならないと思っただろう。
帳面も開く。
紙包みも開く。
次の収納も開ける。
鍵を探す。
箱を探す。
髪飾りを探す。
そうして答えが出るまで止まれない。
けれど、今日は一つだけ開けた。
そこで見つかったものを、自分のところへ持ってきた。
それだけでも十分に多かった。
エレノアは刺繍布を取り出した。
三つの星。
二匹の魚。
二本の水草。
その隣には、まだ何もない場所が残っている。
(次は何にしよう)
花でもいい。
魚を増やしてもいい。
水草でもいい。
星へ戻ってもいい。
まだ決めなくていい。
刺繍布を置き、今度は空の肖像枠へ視線を向ける。
「お母様」
小さく呼んでみた。
返事はない。
当然だった。
それでも、呼びたかった。
「私、少しずつ探します」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「箱も、髪飾りも。写真も」
少し考える。
「でも、急がないです」
それを母がどう思うかは分からない。
怒るのか。
笑うのか。
それとも、何も言わず待ってくれるのか。
母の気持ちまで勝手に決めたくはなかった。
ただ、エレノア自身はそうしたかった。
机の引き出しを開き、昨日までの紙を取り出す。
ミレーヌについて書いたもの。
ナタリーについて書いたもの。
旧室について書いたもの。
少しずつ増えている。
分かったこと。
分からないこと。
自分が感じたこと。
それらを一つに混ぜないための記録。
エレノアは新しい一行を書いた。
『見つからなかったことと、失敗したことは同じじゃない』
書いてから、じっと見つめる。
今日、母の箱は見つからなかった。
でも、自分が一か所を選び、条件を決め、誰に触れてほしいかを決め、結果を聞いた。
それは失敗ではない。
空の肖像枠が戻ってきた。
閉じた紙包みが戻ってきた。
閉じた帳面が戻ってきた。
まだ中身を知らなくても、それらは今、自分の手元にある。
エレノアは紙をしまい、寝台へ向かった。
灯りを消してからも、しばらくは帳面のことが頭に残っていた。
(私が書いたのかな)
分からない。
(何が書いてあるんだろう)
分からない。
(明日、開ける?)
それも、まだ分からない。
以前なら、その三つの「分からない」が怖かった。
今夜は少し違う。
答えがまだないというだけだった。
そして、答えがないまま眠ってもいい。
エレノアは目を閉じた。
今日、一つだけ扉を開けた。
その向こうには、探していた答えそのものはなかった。
代わりに、新しい問いがいくつか見つかった。
それでも急がない。
一つ開けたからといって、次もすぐ開けなければならないわけではない。
次の扉に手をかける時を決めるのも、今度こそエレノア自身なのだから。




