第31話 まだ開けないという選択
朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、エレノアは目を覚ますより先に、昨夜机の上へ置いたものの存在を思い出した。
母アデラインの肖像が入っていた可能性の高い、小さな木製の肖像枠。折り畳まれた紙の中に何が包まれているのか分からない紙包み。そして、淡い灰青色の布で表紙を覆われ、細い紐で閉じられた薄い帳面。
(まだ、開けてない)
昨夜は、それでいいと思って眠った。
けれど朝になれば気持ちが変わっているかもしれないとも考えていた。目覚めた瞬間に中身を知りたくなり、昨夜の自分がどうして開けなかったのか不思議に思うかもしれない、と。
実際には、そうならなかった。
知りたい気持ちは残っている。それでも、寝台から見える机の方へ視線を向けただけで胸の奥が少し硬くなり、特に灰青色の帳面を想像すると、まだ手を伸ばしたくないという感覚の方が先に現れた。
(じゃあ、今日はまだ開けたくないのかな)
そこまで考えてから、エレノアは自分で小さく首を傾げた。
今日一日ずっと開けたくないのかは分からない。
今、この瞬間には開けたくない。それだけなら分かる。
以前なら朝のうちに「今日は開けない」と決め、その決定を夜まで守らなければならないと思ったかもしれない。あるいは逆に、調べると決めた以上は怖くても開かなければならないと思っただろう。
けれど今は、朝に決めたことを午後に変えてもいいと知っている。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでございますか?」
「はい。起きています」
「入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
入室したリディアは、いつものようにすぐにはカーテンへ触れなかった。エレノアが開けてほしいと伝えてから布を左右へ寄せると、朝の光が室内へ広がり、机の上に置かれた三つの品もはっきり見えるようになった。
肖像枠の木肌には細かな傷があり、灰青色の帳面は朝の光を受けると昨夜より少し明るく見えた。紙包みは何も語らないまま、その隣へ静かに置かれている。
リディアも一度そちらを見たが、何も尋ねなかった。
「リディア」
「はい」
「普通に置いてあっても、大丈夫ですか?」
問いの意味が曖昧だったのだろう。リディアは勝手に解釈せず、少し考えてから尋ね返した。
「昨夜届いたお品を、このまま机の上へ置いておくことについてでしょうか。それとも、目に入る場所にあることで、お嬢様のお気持ちが苦しくならないかということでしょうか」
「……両方かもしれません」
「保管上は問題ございません。ただ、紙類ですので飲み物を近くへ置かない方が安全です。お気持ちについては、私には決められません」
「そうですよね」
エレノアは寝台から降り、室内履きを履いて机へ近づいた。
帳面には触れず、空になった肖像枠だけを両手で持ち上げる。昨日より怖くはなかったが、母の顔がそこにないことを確かめるたび、胸の奥には小さな寂しさが残った。
「これだけ、別のところに置こうかな」
「どちらへ置かれますか?」
エレノアは部屋を見回した。
机の上では、帳面や紙包みと並んで「調べるもの」のように見える。けれど、この肖像枠については、もう少し違う場所へ置きたいと思った。
「寝台の近くがいいです」
「では、小卓はいかがでしょう」
「そこにします」
リディアが受け取ろうとはしなかったため、エレノアは自分で運んだ。寝台脇の小卓の上へ置き、少し離れて眺めてから、向きをわずかに変える。
中身はない。
母の顔もない。
それでも、自分が昔持っていた可能性の高いものが、今は自分のところへ戻ってきた。
「変ですか? 何も入ってないのに飾るの」
「私は変だとは思いません」
「どうして?」
「お嬢様が、そこへ置きたいとお考えになったからです」
エレノアは少し笑った。
「最近、みんなそう言いますね」
「そうでしょうか」
「私が決めたならいいって」
「以前は違いましたか?」
何気ない問いだったが、エレノアの指先が肖像枠の縁で止まった。
ベルナール家にいたころ、自分の部屋の物をどこへ置くかについて、誰かへ確認した記憶はあまりない。自分で決めていたからではなく、そもそも物が減っていくことに慣れてしまっていた。
衣服がなくなった。
母の箱がなくなった。
髪飾りもなくなった。
そして今度は、肖像までなくなっていたことが分かった。
「前は……私が決める前に、なくなってたものが多かったです」
リディアは表情を曇らせたものの、すぐに誰かを責める言葉を挟まなかった。
「では、この枠をどこへ置くかは、お嬢様がお決めになれますね」
「はい」
エレノアはもう一度位置を直し、今度は満足して手を離した。
「ここがいいです」
「かしこまりました」
母の顔はない。
それでも、空白ごと自分のそばへ置くことにした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、マティアスから今日の小さなパンをどうするかという確認が届いていた。
昨日は一個を頼み、その半分ほどで満腹になった。
そのことを思い出しながら、エレノアはすぐに答えず、朝食の量を見てから考えることにした。
今日は柔らかく煮た野菜と卵、薄く切ったパン、それに果物が少し並んでいる。温かい湯気の匂いを確かめながら食べ始めると、向かいに座ったセドリックが一度エレノアを見たものの、昨日届いた品については尋ねなかった。
「セドリックお兄様」
「うん?」
「聞かないんですか?」
「何を?」
「昨日のもの」
セドリックは少し困ったように笑った。
「気にはなってるよ」
「じゃあ、どうして聞かないの?」
「僕が気になることと、エレノアが話したいかどうかは別だから」
その返答を聞いて、アルフォンスが僅かに口元を緩めた。オーギュストも何か言いたそうだったが、マルグリットに視線だけで止められ、黙って自分の茶へ手を伸ばしている。
エレノアは少し考えたあと、自分から話すことにした。
「まだ開けてません」
「うん」
「今日も、今は開けたくないです。でも、午後になったら変わるかもしれません」
「それでいいんじゃないかな」
「朝に開けないって言って、午後に開けたくなったら、変ですか?」
「全然」
セドリックが即答したため、エレノアは少し笑った。
「じゃあ、午後に開けたくならなくても?」
「それも全然変じゃない」
「明日でも?」
「一週間後でも、一か月後でも、急いで確認する必要がないものならね」
そこでアルフォンスが補足した。
「ただし、調査上すぐ確認した方がいい事情が出た場合は、その事情だけはお前へ伝える。そのうえで、どうするか一緒に考えよう」
「勝手に開けるんじゃなくて?」
「少なくとも今の二つについて、現時点で勝手に開ける理由はないよ」
エレノアは頷いた。
何が入っているか分からない紙包みと帳面は、調査に関係する可能性がある。だから永遠に誰にも見せず、自分だけで抱え込むと今ここで決める必要もない。
けれど、可能性があるというだけで、今日すぐに開ける必要もない。
「お父様」
エレノアが呼ぶと、アルフォンスが顔を上げた。
「昨日の部屋のことで、何か新しいことはありましたか?」
「ある。ただし、急いで聞かなければならない内容ではない」
「怖いこと?」
「今のところ、新しい危険が分かったという話ではないよ。お前の昔の机について、マルタから一つ記憶が出た」
エレノアの手が止まった。
机。
昨日は開けなかった場所の一つだ。
「聞きたいです」
「朝食の途中だけど、今聞く?」
その確認に、エレノアは自分の皿を見た。
まだ半分ほど残っている。
以前なら、気になることがあるのに食事を続けるのは不真面目なように感じただろう。けれど、調査の話を聞いたあとに食欲がなくなる可能性もある。
「食べてからにします」
「分かった」
アルフォンスはそれ以上話さなかった。
エレノアは卵を食べ、野菜を口へ運ぶ。気にならないわけではないが、食事を終えるまで情報が消えることはない。
果物を一切れ残したところで満腹になった。
「今日は、庭のパンはどうする?」
マルグリットが尋ねる。
「一個じゃなくて、半分ってできますか?」
「聞いてみればいいでしょう」
「半分にした残りはどうなるんでしょう」
エレノアはそこで、厨房へ迷惑をかけるのではないかと考えかけた。
だが以前マティアス自身から、量を相談して調整すればよいと聞いている。
「……やっぱり、マティアスさんに聞いてもらいます。半分だけ用意できるなら半分がいいです。難しいなら今日はなしでもいいです」
「そのまま伝えましょう」
リディアが答える。
選ぶことは、必ずしも用意された選択肢の中から一つを取るだけではない。量を変えられるか尋ねてもいいのだと、エレノアは少しずつ覚えていた。
◇ ◇ ◇
朝食後、エレノアはアルフォンスとともに小さな応接室へ移った。
誰に同席してもらうか尋ねられ、少し考えてからセドリックも呼ぶことにした。マルグリットは今日は呼ばず、リディアには扉の近くへいてもらう。
窓から入る朝の光は明るく、机の上にはまだ何も資料が置かれていない。
「マルタさんが思い出したことって、何ですか?」
エレノアが尋ねると、アルフォンスは必要な部分だけを順序立てて説明した。
「お前の旧室にある机の左下収納は、今も鍵がかかっている。それについてマルタは、昔のお前が小さな真鍮色の鍵を持っていたところを何度か見た記憶があるそうだ」
エレノアは無意識に両手を膝の上で握った。
「私が?」
「ああ。ただし、マルタは鍵をどこに保管していたかまでは覚えていない。それから、その鍵が今も残っているか、左下収納の鍵だったかについても、現時点では確定していない」
「私が、自分で鍵をかけてた?」
「その可能性が高いとマルタは考えている。でも、そこもまだ証言だけだ」
エレノアは机を思い浮かべた。
ベルナール家の旧室。
左下。
鍵。
何かが胸の奥をかすめたが、形にはならない。
(鍵を持ってた? どこに?)
思い出そうとすると、頭の中にいくつかの場所が浮かびそうになる。しかし、それが本当の記憶なのか、今聞いた話から作った想像なのか判断できなかった。
「分かりません」
「うん」
「何も思い出せないです」
「それでいい」
アルフォンスがすぐに答えた。
エレノアは眉を寄せる。
「でも、私の鍵だったかもしれないのに」
「だからといって、今すぐ思い出さなければならないわけじゃない。思い出そうとして作ってしまった記憶と、本当に戻ってきた記憶を混ぜない方がいい」
エレノアは、以前から調査で繰り返されてきたことを思い出した。
似ていることと、同じであることは違う。
可能性と事実は違う。
自分の記憶であっても、それは同じなのだ。
「お父様は、鍵を見たことありますか?」
何気なく尋ねたあと、エレノアはアルフォンスが少しだけ視線を落としたことに気づいた。
「私ではなく、ロベルトが『見たことがあるかもしれない』と言ったそうだ」
胸の奥が僅かに固くなる。
「お父様が?」
エレノアが「お父様」と呼ぶ時、今はアルフォンスを指すことが多くなっている。そのためアルフォンスは、混乱しないよう「ロベルト」と名前を使った。
「ただ、彼自身がすぐに『証言として記録しないでほしい』と訂正している。どこで見たのかも、そもそもお前の鍵だったのかも分からないそうだ」
「そうなんですね」
エレノアは少しだけ俯いた。
ロベルトが覚えているかもしれない。
その事実に、昨日とは違う感情が生まれる。
嬉しい、と言い切るほどではない。
怖いわけでもない。
何かが引っかかる。
「会いたい?」
セドリックはそう尋ねなかった。
代わりに、エレノアが自分から話し始めるまで待っている。
その沈黙がありがたかった。
「もし、本当に見たことがあるなら……どこで見たのかは知りたいです」
エレノアはゆっくり言葉を選んだ。
「でも、そのためにロベルトお父様と会いたいかは、まだ分かりません」
「別々でいいよ」
アルフォンスが答える。
「情報を知りたいことと、本人へ会いたいことは別だ」
「じゃあ、思い出したら書いてもらうことはできますか?」
「できる。ただし、誘導しないように、彼自身が思い出した範囲だけを書かせた方がいいだろうね」
「お願いします」
エレノアはそこで一度息を吐いた。
「鍵は、どうやって探してるんですか?」
「お前が許可した範囲だけだ。共用の鍵保管場所と管理記録、それから当時のお前の周囲にいた使用人への聞き取り。別の私物収納を勝手に開けて探すことはしていない」
「マルタさん以外にも?」
「ノエルにも聞く予定だ。ほかに当時お前の部屋へ入る機会があった者がいれば、必要性を確認してから聞き取り対象にする」
「ベアトリスさんは?」
「いずれ確認する可能性はある。ただ、先に独立して聞ける人間の記憶を取った方がいい」
エレノアは頷いた。
同じ話を先に聞かせれば、記憶が混ざるかもしれない。それはナタリーの調査でも、母の箱でも繰り返し注意されていることだった。
「鍵が見つかったら、机を開けるんですか?」
「お前が決める」
アルフォンスの返答は早かった。
「鍵が見つかったことと、開けることは別だよ」
その言葉に、エレノアの肩から少し力が抜けた。
「……よかった」
「開けたくない?」
「分かりません。でも、鍵が見つかったら、そのまますぐ開けられちゃうのかなって思ったら、ちょっと怖かったです」
「なら、鍵が見つかっても保管して、お前へ知らせるだけにするよう伝えておく」
「はい。そうしてください」
エレノアは自分の膝へ置いた手を見た。
鍵が見つかる。
それでも、扉は勝手に開かれない。
鍵があることと、使うことは別。
また一つ、似ているようで違うものを分けることができた。
◇ ◇ ◇
同じころ、ベルナール伯爵邸では、ノエル・ファランドが再び呼ばれていた。
以前、アデラインの木箱について証言した時と同じく、ノエルの前には必要最低限の記録係だけが座っている。ロベルトは今回の聞き取りにも同席せず、自分の存在が記憶や回答へ影響する可能性を避けていた。
質問を担当する家令は、机の左下収納や真鍮色という情報を最初から与えなかった。
「エレノアお嬢様が、ご自身で管理されていた鍵について何か記憶はありますか」
ノエルはすぐに答えず、視線を斜め下へ落とした。
「鍵……でございますか」
「はい。屋敷の共用鍵ではなく、お嬢様個人が持っていた可能性のあるものです。記憶がなければ、ないとお答えください」
「少しお待ちください」
ノエルは目を閉じた。
エレノアへ仕えた期間は半年ほど。マルタが外された後で、すでに少女は自分の希望を口にすることが少なくなっていた。
衣装を選ぶ時にも「何でもいい」と言うことが多く、食事について尋ねても「大丈夫」と答える。ノエルはそれを、手のかからない令嬢なのだと思っていた。
今になれば、その認識そのものが正しかったのか分からない。
「……一度だけ」
ノエルがゆっくり口を開いた。
「確信はございません。ですから、そのように記録してください」
「承知しました」
「お嬢様が、細い紐のようなものを手に持っていらしたことがございます。そこに、小さな金属のものが付いていたような……」
記録係のペンが動く。
「形は?」
「分かりません」
「色は?」
「申し訳ございません。金色だったような気もしますが、室内の灯りだったかもしれません」
「どちらで見ましたか?」
「お嬢様のお部屋です。ですが、どの辺りだったかまでは……」
「その金属が鍵だったと認識しましたか?」
ノエルはしばらく考え、首を横へ振った。
「いいえ。当時は気にしておりませんでした。今、鍵について尋ねられたので、その場面を思い出しただけです」
「その品をどこへしまったかは?」
「覚えておりません」
家令は余計な情報を与えず、そこまでを記録させた。
「もう一点だけ。小型の肖像枠について、何か記憶はございますか」
「肖像枠?」
「エレノアお嬢様の部屋にあったものについてです」
今度はノエルの表情が変わった。
「木の、小さなものでしょうか」
「こちらから特徴は申し上げません。覚えている範囲をお話しください」
「……茶色い木の枠で、片手でも持てるくらいだったと思います。寝台の近くで見たことがございます」
「中身は?」
ノエルは眉を寄せた。
「女性の肖像だったように思います」
「誰か分かりましたか?」
「アデライン様だと、私は思っておりました。ただ……」
ノエルは自分の言葉を慎重に選ぶ。
「直接ご本人を存じ上げていたわけではございません。お屋敷にある大きな肖像画と似た女性でしたので、そう考えていただけです」
「あなたが仕えていた期間中、肖像は枠の中にありましたか?」
そこでノエルは長く黙った。
「最初は、あったと思います」
「途中でなくなった記憶がありますか?」
「……ございます」
記録係の手が一瞬止まり、すぐに動き始めた。
「詳しくお願いします」
「ある日、お嬢様が枠を手にしていらっしゃいました。私は遠くから見ただけですが、中が白く見えて……その後、お嬢様が何かを探していたような記憶があります」
「何を探していたと?」
「分かりません。当時、私は聞きませんでした」
ノエルの声が僅かに掠れた。
「お嬢様は何もおっしゃらなかったので」
その言葉を口にした瞬間、ノエルは苦しそうに唇を結んだ。
何も言わなかったから、大丈夫だと思った。
何も頼まれなかったから、必要とされていないと思った。
それがどれほど危うい判断だったのか、今になって何度も突きつけられている。
「時期を特定できますか?」
「正確には難しいです。ただ、私が仕え始めてすぐではありません。辞める直前でもなかったと思います」
「誰かが肖像へ触れているところを見ましたか?」
「いいえ」
「ベアトリス様、ヴァレリア様、あるいは他の侍女が持ち出すところは?」
「見ておりません」
「エレノアお嬢様が誰かへ尋ねた場面は?」
「それも覚えておりません」
家令はそれ以上、答えを作らせるような質問をしなかった。
確認できたのは、ノエルが仕えた半年ほどの期間の途中で、小型肖像枠の中身が消えていた可能性があること。そしてエレノアがそのころ何かを探していたように見えたことだけだった。
誰が取ったのかは、依然として分からない。
◇ ◇ ◇
昼前、エレノアは南の小池へ向かった。
昨日までの雨はすっかり上がり、濡れていた石もかなり乾いている。ジュリアスからも「今日はいつもの腰掛けまで問題ありません」と伝えられていたため、エレノアはリディアと一緒に池の近くまで歩いた。
水面には細かな光が揺れ、その下を一匹の魚がゆっくり横切っていく。
「今日は見えました」
「はい」
「昨日は見えなかったから、ちょっと嬉しいです」
腰掛けへ座ると、リディアが小さな包みを差し出した。
「マティアスからでございます」
「半分にできました?」
「はい。ただし、『半分に切るくらいは料理とは呼ばないから遠慮するな』とのことです」
エレノアは思わず笑った。
「怒ってました?」
「怒っているようには見えませんでした。声は少し大きかったですが」
「それ、いつもの声じゃないですか?」
「おそらく」
二人で顔を見合わせ、また少し笑う。
包みの中には、本当に小さなパンが半分だけ入っていた。
エレノアはすぐには食べず、膝の横へ置く。
池を眺めながら、朝聞いた鍵のことを考えた。
(私、自分で鍵をかけてたのかな)
もしそうなら、何を入れていたのだろう。
母の手紙。
自分の日記。
大切な小物。
あるいは、誰にも見られたくないもの。
想像ならいくらでもできる。
だからこそ、どれも事実にしてはいけない。
「リディア」
「はい」
「鍵をかけるって、見られたくないからするんでしょうか」
「そういう場合もあると思います」
「ほかにも?」
「なくしたくないから、勝手に動かされたくないから、子供に触らせたくないから、仕事上必要だから……理由はいろいろあるかと」
「そっか」
エレノアは水面へ目を戻した。
「私が鍵をかけてたとしても、怖いものが入ってるとは限らないんですね」
「はい」
「大事なものかもしれない?」
「その可能性もございます」
「何でもないものかもしれない?」
「それもございます」
エレノアは肩の力を抜いた。
灰青色の帳面も同じだ。
怖いことが書かれているかもしれない。
楽しいことが書かれているかもしれない。
そもそも自分のものではないかもしれない。
開ける前から、中身を一番怖いものへ決める必要はない。
しばらくして空腹を感じたため、半分のパンを食べた。
今日はちょうどよかった。
「これなら全部食べられました」
「そのようですね」
「でも、明日も半分とは限らないです」
「では、明日またお尋ねいたします」
それで話は終わった。
昨日半分だったから、今日も半分。
今日半分でちょうどよかったから、明日も半分。
そう決めなくていい。
食べる量ですら、その日の自分に聞いていいのなら、帳面を開く日も同じなのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアは自室で刺繍布を広げた。
今日は新しい模様を増やすつもりはなく、少し太った最初の魚の周囲へ、小さな泡のような丸を二つ刺してみる。左右で大きさが違ってしまったが、ほどかなかった。
扉が叩かれ、アルフォンスが入室の許可を求めた。
「何か分かりましたか?」
「二つある。どちらも急ぎではない」
「ナタリーさん?」
「いや。今日は違う」
エレノアは少し考え、刺繍針を布へ安全に留めた。
「聞きます」
「一つは、今朝話した鍵について。ノエルにも独立して聞き取りをした」
エレノアの背筋が少し伸びる。
「何て?」
「彼女は鍵そのものを見たとは言っていない。お前が細い紐のようなものを持っていて、そこに小さな金属が付いていた場面を一度だけ覚えているそうだ。色は金色に見えた気もするが、灯りのせいかもしれない。金属が鍵だったかどうかも分からない」
「マルタさんの話と、ちょっと似てる?」
「似ている。ただし、同じ物を見たと確定はできない」
「はい」
エレノアはすぐに頷いた。
「似てるだけです」
その言葉を自分で言えるようになったことに、アルフォンスは僅かに目を細めた。
「もう一つは、昨日見つかった肖像枠についてだ」
エレノアの視線が寝台脇の小卓へ向かう。
「ノエルも見たことがある?」
「ああ。寝台の近くに、小さな木の肖像枠があったことを覚えている。中には女性の肖像があり、屋敷にあるアデラインの肖像画と似ていたから、おそらくアデラインだと思っていたそうだ」
「じゃあ、やっぱりお母様だった?」
「可能性はかなり高くなった。でも、ノエル自身はアデラインを直接知っていたわけではない」
「分かりました」
「それから――」
アルフォンスが一度言葉を止めた。
その間に、エレノアの指が刺繍布の端をつまむ。
「まだあるんですね」
「ああ。聞く?」
「……はい」
「ノエルが仕えていた期間の途中で、肖像枠の中身がなくなっていた記憶があるそうだ」
エレノアは動かなかった。
「途中で?」
「最初は入っていたと思う、と。ある日、お前が空になったように見える枠を持っていて、その後、何かを探しているように見えたことを覚えている。ただし、何を探していたかは分からない。誰かが肖像を持ち出すところも見ていない」
胸の奥が重くなる。
昨日までより、少しだけ時期が狭まった。
母の肖像は、ずっと前からなかったわけではない。
少なくともノエルが仕え始めたころには、入っていた可能性がある。
そして、その半年ほどのどこかで消えた。
「私、探してたんですね」
「そう見えた、とノエルは言っている」
「誰にも言わなかったのかな」
「そこは分からない。ノエルは聞かなかったそうだ」
エレノアは視線を落とした。
(また、言わなかったのかな)
そう思いかけた瞬間、胸の中に古い癖が顔を出す。
自分が言わなかったから。
自分が頼まなかったから。
自分がもっと大きな声で訴えなかったから。
だから、なくなったままになった。
けれど、その考えを最後まで進める前に、エレノアはゆっくり息を吐いた。
「私が言わなかったからなくなった、とは分からないですよね」
「ああ」
「言ったかもしれないし」
「そうだね」
「言えなかった理由があったかもしれない」
「それもある」
「そもそも、私が言わなくても、人のものを勝手に取っていいわけじゃない」
アルフォンスの表情が僅かに和らぐ。
「その通りだよ」
エレノアは空の肖像枠を見つめた。
昨日より悲しさは増したようにも思える。
母の顔が入っていた可能性が高くなったからだ。
けれど同時に、自分がそれを大切にしていたことも少しずつ見えてきた。
「お父様」
「うん」
「肖像、探してほしいです」
「もちろん」
「箱と髪飾りだけじゃなくて、これも」
「ああ」
「でも……」
エレノアは少し考える。
「全部を一気に探すために、私の部屋を全部開けるのは嫌です」
「分かった」
「肖像のことは、先に人に聞いたり、記録を見たりできますか?」
「できる。アデラインの遺品記録や肖像の作成記録も確認できるかもしれない。ベアトリスへの聞き取りも必要になるだろう」
「ヴァレリア様にも?」
「いずれは。ただ、順番は考える」
「はい」
エレノアはそこで、机の上にある灰青色の帳面へ目を向けた。
今朝よりも、少しだけ怖くないような気がした。
だからといって、開けたいわけではない。
それでも、朝とは違う。
「帳面」
「うん?」
「今、ちょっとだけ開けてもいいかなって思いました」
アルフォンスは立ち上がらなかった。
帳面を手に取ろうともしない。
「開ける?」
エレノアはしばらく考えた。
胸の奥へ問いかけるように、灰青色の表紙を見る。
知りたい。
少し怖い。
今なら開けられるかもしれない。
でも、アルフォンスがいるから勢いで開けようとしているだけではないか。
肖像の話を聞いて、何か答えがほしくなっただけではないか。
その二つも考える。
「……やっぱり、今日は開けません」
「分かった」
「変じゃない?」
「全然」
エレノアは小さく笑った。
「朝も同じこと聞きましたね」
「何度聞いてもいいよ」
「じゃあ、何度でも答えてください」
「もちろん」
エレノアは帳面へ手を伸ばさず、代わりに刺繍布を持ち上げた。
「今日はこっちをやります」
「何を刺してるの?」
「魚の泡です」
アルフォンスが布を覗き込む。
「泡?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「丸を刺したら、泡に見えたから泡にしました」
アルフォンスが笑う。
エレノアもつられて笑った。
何かを作る時、最初から全部決めなくてもいい。
刺してから名前を決めてもいい。
調べる時も、今日どこまで知るかを途中で変えていい。
その二つが同じものだとは思わないが、どちらも自分で決められることだけは似ていた。
◇ ◇ ◇
夕方、ロベルトはノエルの聞き取り記録を読んでいた。
執務室の窓から差し込む光はすでに橙色へ変わり、机の上に長い影を作っている。
小型肖像枠。
仕え始めたころには中身があった可能性がある。
その後、半年ほどの期間内で消えた可能性。
エレノアが何かを探していたように見えた。
ロベルトは記録を置き、こめかみを押さえた。
その時期なら、自分はこの屋敷にいた。
遠征にも長期出張にも出ていない。
同じ屋敷の中で暮らしていた。
それでも知らなかった。
娘が母の肖像を失い、何かを探していたことを。
(まただ)
木箱も。
食事も。
衣服も。
肖像も。
何か一つだけを見落としたのではない。
見落とす生活そのものを続けていた。
扉が叩かれ、家令が入ってくる。
「旦那様。ナタリー・ヴェルヌの件でございます」
ロベルトが顔を上げた。
「所在が分かったのか?」
「確定ではございません。ただ、ダニエル・グレイ氏の婚姻登録について、該当する可能性の高い記録が見つかりました」
「どこだ」
「北区ではありません。セレディア西側の外縁区、リュシアン通り近くでございます」
ロベルトはすぐに立ち上がろうとしたが、途中で止まった。
「登録上の妻の名は?」
「ナタリー。旧姓欄は写しが不鮮明で、現時点ではヴェルヌと断定できません。年齢は一致する可能性があります」
「なら、まだ本人と決めるな」
「はい」
「原本を確認しろ。それから、現在もそこに住んでいるかを先に確かめる。いきなり訪ねるな」
「承知しました」
「ヴァレリア側の人間が先に接触した形跡も確認できる範囲で調べろ。ただし近所へ余計な噂を広げるな」
「かしこまりました」
家令が退出したあと、ロベルトは窓の外へ目を向けた。
ナタリーかもしれない女性の所在が、ようやく狭まり始めた。
だが、見つかったからといって答えが出るわけではない。
赤茶色の髪だった。
細身だった。
勤務時期が重なる。
それだけで、娘の記憶にいる人物と同一にしてはいけない。
今の自分にできるのは、確かめることだけだった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室で今日の記録を書いていた。
寝台脇には空の肖像枠がある。
机の上には紙包みと灰青色の帳面。
朝と同じ配置ではない。
肖像枠を自分で移したからだ。
エレノアは紙へ、今日分かったことを書いていく。
『マルタさんは、私が小さな真鍮色の鍵を持っていたのを見たことがある』
少し考えてから、その下へ付け足す。
『その鍵が机の鍵だったかは、まだ分からない』
『ノエルさんは、紐についた小さな金属を私が持っていたのを見たかもしれない』
『同じ物かは分からない』
さらに、母の肖像についても書いた。
『ノエルさんが仕え始めたころ、肖像枠には女の人の肖像が入っていた可能性がある』
『屋敷のアデラインお母様の肖像画と似ていたらしい』
『途中でなくなった可能性がある』
『私が何かを探していたように見えたらしい』
そこまで書いたところで、ペン先が止まる。
エレノアは少し迷い、その下へもう一行加えた。
『私が言わなかったからなくなった、と決まったわけではない』
書き終えると、胸の奥にあった重さが少しだけ形を変えた。
消えたものは戻っていない。
母の肖像も、木箱も、青い髪飾りも見つかっていない。
それでも、今の自分は、なくなったものを「自分が守れなかったから」とだけ考えなくなっている。
エレノアは灰青色の帳面へ目を向けた。
午後、一度だけ開けてもいいと思った。
けれど開けなかった。
そのことを後悔しているか、自分へ問いかける。
(後悔してない)
知りたい気持ちはある。
今すぐ紐を解いて、最初の頁だけでも見れば何か分かるかもしれない。
それでも今日は、そこまで進まなくてよかった。
エレノアは記録の最後へ、ゆっくり一文を書き足した。
『開けられることと、今日開けることは、同じじゃない』
鍵が見つかったとしても、机をすぐ開けなくていい。
帳面が手元にあっても、今日読まなくていい。
紙包みを自分が持っていても、中身をすぐ確認しなくていい。
そして、いつか開けたいと思ったなら、その時に開ければいい。
エレノアはペンを置き、刺繍布を手に取った。
二匹の魚のそばに、小さな丸が二つ並んでいる。
一つは少し大きく、もう一つは小さい。
「泡に見えるかな」
独り言を呟きながら眺めていると、先ほどまで帳面へ向けていた緊張が少しずつほどけていった。
明日になれば、また気持ちが変わるかもしれない。
帳面を開きたくなるかもしれないし、まだ触れたくないと思うかもしれない。紙包みの方だけ確認したくなる可能性もあれば、旧室の次の収納について考えたくなるかもしれない。
どれになるかは、今夜の自分が決めなくていい。
寝る支度を終えたあと、エレノアは小卓の肖像枠へ視線を向けた。
「おやすみなさい、お母様」
肖像は入っていない。
母の顔を完全には思い出せない。
声も、もう曖昧だった。
それでも、呼びかけることはできる。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
暗くなった部屋の中には、まだ開かれていないものが二つ残っている。
けれど、それは急いで答えを出さなければならない脅威ではなかった。
自分の手元に置かれ、自分が開く時を決められるものだった。
(明日の私は、どうしたいって思うんだろう)
以前なら、その答えを今のうちに決めておかなければ不安だったかもしれない。
今は少しだけ楽しみにも思えた。
明日の自分が何を選ぶのかを、今日の自分が先回りして決めなくてもいい。
その小さな余白を抱えたまま、エレノアは静かに目を閉じた。




