↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/94

第32話 開くものを、自分で選ぶ



 翌朝、エレノアが目を覚ました時、最初に視界へ入ったのは寝台脇の小卓に置いた空の肖像枠だった。


 昨日、自分でそこへ移したものだ。中には何も入っていないけれど、机の上で紙包みや帳面と並んでいた時よりも、今の場所の方がずっと落ち着いて見える。


 母アデラインの顔があったはずの空白へ目を向けても、昨日ほど胸は痛まなかった。


(なくなってることは、変わってないのに)


 それでも、感じ方は昨日と同じでなくていいのだろう。


 悲しくなくなったわけではない。


 ただ、悲しいものを自分の近くへ置いておけるようになったのかもしれなかった。


 エレノアは寝台から降りると、室内履きを履いて机へ向かった。


 そこには、未開封の紙包みと灰青色の帳面が残されている。


 昨日は帳面を一度だけ「開けてもいいかもしれない」と思い、それでも最終的には開かなかった。


 今朝はどうだろう。


 エレノアはまず帳面を見た。


 やはり胸の奥に重いものが落ちる。


 怖い。


 それは昨日と変わらない。


 次に、紙包みへ視線を移した。


 こちらも中身は分からない。けれど帳面を見た時ほどの怖さはなかった。


(こっちは、少し知りたい)


 昨日までは二つとも「まだ開けていないもの」だった。


 けれど、同じ日に同じ場所から見つかったからといって、同じ扱いをする必要はない。


 片方を開けたら、もう片方も開けなければならないわけでもない。


 エレノアがそんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様、お目覚めでしょうか」


「はい。どうぞ」


 許可を得て入ってきたリディアは、いつものように朝の挨拶をしてから、エレノアが机の前に立っていることに気づいた。


「今日は、カーテンを全部開けてください」


「かしこまりました」


 厚い布が左右へ寄せられると、朝の光が一気に室内へ広がった。灰青色の帳面も、茶色がかった紙包みも、その光の中では昨夜より現実的な物に見える。


 エレノアは紙包みを指先でそっと触った。


「リディア」


「はい」


「これ、今日開けたいかもしれません」


 リディアはすぐに喜んだり、開けるよう勧めたりしなかった。


「紙包みの方でございますね」


「はい。帳面はまだ嫌です」


「では、紙包みだけになさいますか?」


「……たぶん」


 口にしたあと、エレノアは少し考える。


「開けるなら、誰かにいてもらった方がいいのかな」


「お嬢様は、どなたかにいてほしいですか?」


 尋ね返され、エレノアは紙包みから手を離した。


 中に何があるか分からない。


 母に関係する物かもしれない。


 自分に関係する物かもしれない。


 あるいは、何の意味もない物かもしれない。


 一人で開けたい気持ちは、あまりなかった。


「お祖母様にいてほしいです」


「マルグリット様ですね」


「はい。それと……お父様にも」


 アルフォンスの顔を思い浮かべてから、エレノアは頷いた。


「セドリックお兄様は、今日は呼ばなくていいです」


「承知いたしました」


「嫌だからじゃないです」


「はい」


「それも、言わなくていいのかな」


 リディアが僅かに微笑む。


「セドリック様なら、呼ばれなかったことだけで嫌われたとはお考えにならないと思います」


「そうですよね」


 最近、自分は誰かを選ばなかった時、その理由まで説明しなければならないような気持ちになることがある。


 けれど、マルグリットを選んだからセドリックを拒絶したことにはならない。


 今日一緒にいてほしい人を選ぶだけだ。


「朝ごはんを食べてからにします」


「かしこまりました」


「でも、朝ごはんを食べたあとで嫌になったら、開けません」


「その場合は、そのようになさってください」


 リディアの返答はいつも通りだった。


 エレノアはそれを聞いて安心すると、紙包みを元の位置へ戻した。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席で、セドリックは本当に何も気にしていないようだった。


 オーギュストと昨夜届いた領地からの報告について話しており、アルフォンスは二人の会話を聞きながら時折口を挟んでいる。マルグリットはエレノアが席へ着くと、今朝の果物について「少し酸っぱいらしいわ」と教えてくれた。


 エレノアは一口食べてから、顔を僅かにしかめた。


「本当に酸っぱいです」


「でしょう?」


「お祖母様は食べたんですか?」


「ええ。私は好きよ」


「私は……今日はあんまり好きじゃないです」


 言ってから、エレノアは自分の言葉に少しだけ驚いた。


 嫌い、と決めたわけではない。


 今日はあまり好きではない。


 それだけでいい。


「じゃあ、無理に食べなくていいわね」


 マルグリットが自然に答えたため、エレノアは果物を一切れ残した。


 朝食が半分ほど進んだところで、アルフォンスがエレノアへ尋ねる。


「リディアから聞いたよ。紙包みのこと」


「はい」


「朝食後でいい?」


「そのつもりです。でも、まだ絶対じゃないです」


「分かった」


 向かいにいたセドリックが一度だけ顔を上げた。


 エレノアはその視線に気づき、自分から話した。


「今日は、お祖母様とお父様に一緒にいてもらおうと思ってます」


「うん」


「セドリックお兄様は呼ばないです」


「了解」


 あまりにも普通に返されたので、エレノアは瞬きをした。


「それだけ?」


「それだけって?」


「どうしてって聞かないんですか?」


「エレノアがそうしたいからじゃないの?」


 セドリックは不思議そうに答えたあと、少しだけ笑った。


「僕が必要になったら呼んで。必要じゃなければ、今日は僕の仕事をしてるから」


「……はい」


 胸の奥にあった小さな心配が、簡単にほどけた。


(選ばなかったからって、嫌われるわけじゃない)


 それは当たり前のことなのかもしれない。


 けれどエレノアにとっては、何度も実際に経験しなければ、まだ身体の方が信じてくれないことだった。


 食事を終えるころ、使用人から庭へ持っていくパンについて確認された。


「今日はどうなさいますか?」


 昨日は半分でちょうどよかった。


 エレノアは自分のお腹へ意識を向けてみる。


「今日は、まだ分かりません」


「では、後ほど改めてお伺いいたします」


「はい。それでお願いします」


 昨日の量を今日の決まりにしない。


 その小さな選択を済ませてから、エレノアはマルグリットとアルフォンスとともに自室へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 紙包みは、昨日から変わらず机の上にあった。


 エレノアは椅子へ座り、マルグリットには隣へ、アルフォンスには机を挟んだ向こう側ではなく少し離れた椅子へ座ってもらった。リディアは扉の近くに控えている。


「触るのは、私がやります」


「分かった」


 アルフォンスは手を伸ばさなかった。


「途中でやめたくなったら、やめます」


「ええ」


 今度はマルグリットが答える。


「中に何か書いてあっても、全部読まなくていいです」


「もちろんよ」


 エレノアは紙包みへ手を伸ばした。


 古い紙は乾いているが、触れただけで崩れるほど脆くはない。細い紐などは使われておらず、何度か折り返して包まれているだけだった。


 最初の折り目へ指をかける。


 そこで一度、手が止まった。


 怖くないわけではない。


 けれど帳面へ触れようとした時のような、胸を締めつける強い拒絶感はなかった。


(開けたい)


 今度は、その気持ちの方が少し強い。


 エレノアはゆっくり紙を開いた。


 一枚目を広げると、中から薄い布が現れた。


「布……?」


 小さく呟きながら、さらに紙を開いていく。


 中に入っていたのは、淡い生成り色の布に包まれた、平たい何かだった。


 エレノアは一度アルフォンスを見る。


「ここまでは、紙包みの中ですよね」


「ああ」


「布も開けていいと思いますか?」


「所有物としては、お前の旧室から出たものだ。だが、私が決めるより、お前がどうしたいかだね」


 エレノアは布へ指を置いた。


 少しだけ迷い、それから端をめくった。


 中から現れたのは、数枚の厚手の紙だった。


 最初の一枚には、花が描かれている。


「……野薔薇?」


 マルグリットの声が僅かに震えた。


 エレノアはすぐに顔を上げた。


「お祖母様、知ってるんですか?」


「少し見せてもらってもいい?」


「触らないで、見るだけなら」


「ええ」


 エレノアは紙を机の中央へ置いた。


 そこには、上手とは言えないが丁寧に描かれた小さな花がいくつも並んでいた。薄い赤、黄色、青。端には子供らしい不揃いな線で葉が描かれている。


 そして下の方に、小さな文字があった。


『おかあさまへ』


 エレノアの呼吸が止まりそうになった。


「私の字?」


「断定はできないけれど……」


 マルグリットは目を細める。


「あなたが幼いころに書いた文字に、とてもよく似ているわ」


「お祖母様、見たことあるんですか?」


「ええ。アデラインが送ってくれた手紙の中に、あなたが書いた短い言葉を添えてくれたことが何度かあったの」


「手紙……」


 エレノアは紙へ視線を戻した。


 母へ。


 幼い自分が描いたらしい花。


 次の紙も見たい。


 そう思った。


 エレノアは一枚目を横へずらし、二枚目を見た。


 今度は人の絵だった。


 長い髪の女性と、小さな女の子が手をつないでいる。顔は丸と点だけで描かれていて、どちらが誰なのか説明がなければ分からないほど幼い絵だった。


 しかし、その横には文字がある。


『おかあさまと エレノア』


 エレノアの唇が僅かに震えた。


「私……」


 言葉が続かない。


 紙の中の女の子は笑っている。


 母らしい女性も笑っている。


 現実のアデラインの顔を、エレノアはもうはっきり思い出せない。


 それなのに、幼い自分が描いた母は、簡単な丸い顔で大きく笑っていた。


(私、お母様と一緒に笑ってたんだ)


 胸が痛い。


 けれど、その痛みの中には昨日までとは違うものがあった。


 失った悲しさだけではない。


 確かにあった時間の痕跡が、目の前に残っている。


「もう一枚、あります」


 エレノアは自分へ言い聞かせるように呟いた。


 マルグリットもアルフォンスも急かさない。


 三枚目を持ち上げる。


 そこには絵ではなく、短い文章が書かれていた。


 文字は一枚目より少し整っている。


『おかあさまへ


 きょうは おはなが きれいでした。


 おかあさまが すきなおはなを みつけました。


 こんど いっしょに みたいです。


 エレノア』


 エレノアは最後まで読み、紙を持ったまま動けなくなった。


 野薔薇。


 母が好きだった花。


 マルグリットから、母が野薔薇を好んでいたと聞いたことがある。


 幼い自分も、それを知っていた。


「お祖母様」


「ええ」


「お母様、本当に野薔薇が好きだったんですよね」


「大好きだったわ」


「私も、知ってたんですね」


「そうみたいね」


 マルグリットの声が少し掠れている。


 エレノアは紙から目を離さず、何度か瞬きをした。


「私、忘れてました」


「ええ」


「お母様が好きだったことも、一緒に花を見たかったことも」


「そうね」


「……悲しいです」


 今度は、そう言えた。


 忘れていた自分を責める言葉ではない。


 ただ、悲しい。


 その感情を口にすると、目の奥が熱くなった。


「お祖母様」


「なあに?」


「手、握ってください」


 マルグリットはすぐには触れず、エレノアが差し出した手を確認してから、両手でそっと包んだ。


 温かい。


 エレノアは紙を机へ置き、空いた手で目元を拭った。


「お母様に、渡したのかな」


「分からないわ」


「渡したから、私の部屋に戻ってきたのかな。それとも、渡せなかったのかな」


「どちらもあり得るわね」


「お母様が取っておいてくれたのかもしれない?」


「その可能性もあるわ」


「でも、分からない」


「ええ」


 マルグリットは、慰めるために「きっとそうよ」とは言わなかった。


 エレノアはそれが嬉しかった。


 分からないものを、優しい答えで埋めなくてもいい。


 それでも、目の前にあるものは本物だ。


「これ、私が持ってていいんですよね」


「もちろんだ」


 アルフォンスが答える。


「お前の旧室から見つかったもので、少なくとも今見えている内容は幼いお前自身が作った可能性が高い。所有関係について正式な確認が必要ならこちらでしておくが、誰かが勝手に持っていくことはさせない」


「お父様も、触らない?」


「触ってほしい?」


 エレノアは少し考えた。


 紙を見つめる。


「……一枚目だけなら、持って見てもいいです」


「いいの?」


「はい。でも、二枚目と三枚目は今日は私が持ってたいです」


「分かった」


 アルフォンスは一枚目の花の絵だけを、両手で丁寧に持ち上げた。


 ほんの少し眺めてから、すぐに元の場所へ戻す。


「かわいい花だ」


「下手じゃないですか?」


「幼い子供の絵に、植物画の精密さを求める気はないよ」


 その答えが可笑しくて、エレノアは涙の残った顔で笑った。


「お父様、そういう言い方しますよね」


「褒めたつもりなんだけど」


「褒めてるように聞こえません」


「では訂正しよう。私は好きだよ、この絵」


 その言葉を聞いた瞬間、エレノアはクロノアが自分の最初の歪んだ星について言ったことを思い出した。


 上手かどうかと、好きかどうかは別。


 同じ言葉ではない。


 それでも少し似ていて、胸の奥が温かくなった。


「私も、好きかもしれません」


 エレノアは花の絵を見つめながら言った。


「まだ、ちょっと悲しいけど」


「悲しいまま好きでもいいんじゃない?」


 アルフォンスの言葉に、エレノアはゆっくり頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 紙包みを開けたあと、エレノアは灰青色の帳面を見た。


 さっきより近くに感じる。


 けれど、手を伸ばしたいとは思わなかった。


「帳面は、開けません」


「分かったわ」


 マルグリットが答える。


「紙包みを開けたからって、こっちも開けなくていいですよね」


「ええ」


「今日は、もう十分です」


 その言葉を口にすると、自分の身体も同意しているように肩の力が抜けた。


 エレノアは三枚の紙を元の生成りの布で包み直した。ただし、外側の紙まで元通りに閉じるかは少し迷う。


「これ、また包んだ方がいいのかな」


 アルフォンスは保存状態について専門家へ確認することを提案した。


「古い紙だから、傷まない保管方法を聞こう。内容を見る必要がない専門家なら、紙質や保管環境だけ確認できる」


「中身を見せなくても?」


「できる範囲はある」


「じゃあ、それがいいです」


 エレノアは布で包んだ三枚を机の上へ置いた。


 灰青色の帳面とは少し離して置く。


 今まで二つは同じ「未開封のもの」だった。


 今は違う。


 一つは開けた。


 一つはまだ開けない。


 それでよかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼前、ベルナール伯爵邸ではロベルトが新しい報告を受け取っていた。


 昨日見つかった婚姻登録の原本確認が終わったのだ。


「旧姓は?」


「ヴェルヌで間違いございません」


 家令が答える。


「ナタリー・ヴェルヌ。婚姻時の年齢も、伯爵家の旧雇用記録と一致します。婚姻相手はダニエル・グレイで間違いないと考えられます」


 ロベルトは書類へ目を落とした。


「現在地は?」


「登録時住所はセレディア西側外縁区、リュシアン通り近くです。ただし婚姻登録から時間が経っております。現在も同住所かどうかを確認中です」


「まだ訪ねるな」


「はい」


「近隣へ『ベルナール伯爵家がナタリーを探している』と広まるのも避けろ。本人が何も知らない可能性もある」


「承知しております」


 ロベルトは指先で机を軽く押さえた。


 ナタリー・ヴェルヌがダニエル・グレイと結婚した。


 そこまでは、かなり確かになった。


 しかし、そこから先は何一つ確定していない。


 ギュスターヴが見た赤茶色の髪の侍女だったか。


 アデラインの木箱を運んだか。


 エレノアの腕を掴んだ記憶の人物なのか。


 食事制限に関わったのか。


 どれも分からない。


「ヴァレリアの旧侍女については?」


「ナタリーの前後に勤務していた者のうち、二名は所在を確認できました。一名は王都内、一名は南東部の商業都市へ移っております」


「ナタリーを先に聞くことを前提にするな。証言が互いに混ざらないよう、接触順を考えろ」


「はい」


「それから、エレノアの旧室で見つかった肖像枠の件は?」


「ノエルの証言を受け、当時の私物記録と、アデライン様の肖像画を扱った絵師の記録を確認しております。ただ、小型肖像については現時点で記録を発見できておりません」


 ロベルトは目を閉じた。


「ベアトリスには、まだ肖像が消えた時期を教えるな」


「独立して尋ねますか?」


「ああ。小型肖像について何を知っているかだけ聞け。ノエルの証言は伏せろ」


「かしこまりました」


 家令が退出すると、ロベルトは一人になった。


 調査すべきことが増えている。


 以前なら、ひとつの答えへ早く辿り着くことを優先したかもしれない。


 だが今は、急ぐことで証言を汚す可能性があることを知っている。


 何より、これは自分が安心するための調査ではない。


 エレノアが何を奪われ、何をされ、なぜ助けを求めることすら難しい状態になったのかを確かめるためのものだ。


 自分が父親らしいことをしたと満足するためではなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアは南の小池へ行かなかった。


 行きたくなかったわけではない。


 今日は紙包みを開けたあと、外へ出るよりもマルグリットと一緒に母の話を聞きたいと思ったからだ。


 公爵邸の南向きの小さな居間で、二人は窓辺に座っていた。


「お母様は、絵を描きましたか?」


「描いたわよ。上手ではなかったけれど」


「上手じゃなかったんですか?」


「本人は上手だと言い張っていたわ」


 マルグリットが懐かしそうに笑う。


「野薔薇を描くのが好きだったけれど、なぜか花びらの数がいつも多すぎたの」


「私の絵も、変じゃなかったですか?」


「似たのかもしれないわね」


 エレノアは膝の上の刺繍布へ目を落とした。


 少し太った魚。


 細い魚。


 水草。


 不揃いな泡。


「じゃあ、この魚もお母様に似たのかな」


「それはどうかしら」


「似てることにしてもいいですか?」


「あなたがそう思いたいなら、私は止めないわ」


 エレノアは笑った。


 それからしばらく、アデラインが幼いころに庭の花を摘みすぎてオーギュストに叱られた話や、摘んだ花を全部マルグリットの寝室へ飾ろうとして部屋中を花の匂いだらけにした話を聞いた。


 母は、完璧な人ではなかった。


 花びらを多く描きすぎる。


 庭の花を摘みすぎる。


 怒られると最初は言い訳をする。


 そんな話を聞くたび、エレノアの中にいる「亡くなった母」が、少しずつ人間らしい輪郭を持ち始める。


「お母様も、失敗したんですね」


「たくさんしたわ」


「怒られました?」


「もちろん。でも、殴られたり食事を抜かれたりはしなかった」


 マルグリットの声は穏やかだったが、言葉を曖昧にはしなかった。


「失敗したことと、傷つけてよいことは別だから」


 エレノアは刺繍布を撫でた。


「私も、そう思えるようになってきました」


「ええ」


「まだ、最初に『私が悪かったのかな』って思うことはありますけど」


「思ってしまうことまで責めなくていいのよ」


 エレノアは顔を上げる。


「それも?」


「長い間そう考えるようにさせられてきたのでしょう。今日から考えないようにしなさいと言われて、簡単に消えるものではないわ」


 その言葉を聞き、エレノアはしばらく黙った。


(直ってないから、駄目なんじゃない)


 変わってきている。


 でも、まだ昔の考え方も残っている。


 その両方が今の自分なのだろう。


     ◇ ◇ ◇


 夕方近くになってから、リディアが一通の連絡を持ってきた。


「お嬢様、ベルナール家からではございません。アルフォンス様からの確認でございます」


「何ですか?」


「ミレーヌ様へのお返事についてです。急ぎではないとのことですが、以前のお言葉を聞いたことだけでも伝えるか、引き続き何も返さず待っていただくか、お嬢様のご希望を確認したいとのことです」


 エレノアの指が止まった。


 ミレーヌ。


 会いたいと言っていた妹。


 自分の服を着ていたことを知らなかったと言い、気に入っているから失うのは嫌だと正直に言った妹。


 何を謝ればいいのか分からないけれど、謝りたいと思っていると言った妹。


 そして、エレノアが嫌なら会わないと言った。


(待ってるんだ)


 そのことを考えると、少しだけ胸が痛む。


 けれど、だから急いで会わなければならないわけではない。


「返事……」


 エレノアは小さく呟いた。


 会うとはまだ言えない。


 会わないとも言いたくない。


 何も返さないまま待たせ続けることもできる。


 しかし今の自分は、ミレーヌの言葉を聞いたことだけなら伝えたいと思った。


「短い返事でもいいですか?」


「もちろんでございます」


「私が言った通りに、誰かに書いてもらえますか?」


「可能だと思います。アルフォンス様へ確認いたします」


「じゃあ……」


 エレノアはすぐには続けなかった。


 何を伝えるかを考える。


 優しくしすぎて、会う約束のようになってはいけない。


 かといって、わざと冷たくする必要もない。


「『言葉は聞きました』」


 ゆっくり、一つずつ選ぶ。


「『伝えてくれてありがとう』」


 そこで一度止まった。


 ありがとうと言うことが、許すことになるのだろうか。


 少し考え、首を横へ振る。


 ならない。


 言葉を送ったことへの感謝と、過去のことをどう思うかは別だ。


「『会うかどうかは、まだ決めていません』」


 リディアは口を挟まず聞いている。


「それから……『もう少し待ってください』」


 エレノアは自分の言葉を頭の中でもう一度並べた。


「これだけでいいです」


「承知いたしました。内容を変えず、そのまま伝えるよう依頼いたします」


「ミレーヌが怒ったら?」


 口にした瞬間、以前アルフォンスから言われたことを思い出した。


 相手が怒るかもしれない。


 悲しむかもしれない。


 それでも、自分を守るための選択をしていい。


 リディアも答えを決めつけなかった。


「怒るかどうかは、私には分かりません」


「そうですよね」


「ただ、お嬢様はミレーヌ様を怒らせるために、そのお返事をなさるのでしょうか」


「違います」


「では、それはお嬢様が考えて決めた、現在のお返事なのだと思います」


 エレノアは頷いた。


「送ってください」


     ◇ ◇ ◇


 その日の夜、ベルナール伯爵邸でミレーヌは父ロベルトから呼ばれた。


 以前と同じ小さな応接室だった。


 ヴァレリアはいない。


 ロベルトはエレノアからの言葉を、自分の解釈を足さずに読み上げた。


「『言葉は聞きました。伝えてくれてありがとう。会うかどうかは、まだ決めていません。もう少し待ってください』。以上だ」


 ミレーヌは黙っていた。


 すぐに喜ぶことも、怒ることもしなかった。


「……お姉様、聞いてくれたの?」


「ああ」


「全部?」


「私が伝えた内容については、本人が聞いたと確認されている」


 ミレーヌは膝の上で両手を組んだ。


「会うかどうかは、まだ決めてないんだ」


「そう書いてある」


「もう少し待ってって」


「ああ」


 ミレーヌは唇を僅かに尖らせた。


 待つのは嫌だった。


 いつまで待てばいいのか分からないことも嫌だった。


 早く会って、直接話したいという気持ちはある。


 けれど同時に、以前の自分なら「どうしてすぐ会ってくれないの」と思っただろうことにも気づいていた。


(でも、お姉様は怖いって思ってるかもしれない)


 自分がその理由を全部知っているわけではない。


 むしろ、ほとんど知らない。


「お父様」


「何だ」


「私、嫌だって思ってもいいの?」


 ロベルトは少し眉を寄せた。


「何がだ?」


「待つの。早く会いたいし、いつまでか分からないの、嫌だなって思う」


 ロベルトはすぐに答えなかった。


「思うことまで禁じる必要はないだろう」


「でも、お姉様を急かしちゃ駄目なんでしょう?」


「それとは別だ」


 ミレーヌは顔を上げた。


「待つのが嫌だと思うことと、その嫌な気持ちを理由にエレノアへ決断を迫ることは同じではない」


 その言葉に、ミレーヌはしばらく考え込んだ。


「じゃあ、私、待つの嫌だけど待つ」


「そうか」


「返事はいる?」


「エレノアは求めていない」


「じゃあ、送らない」


 ミレーヌは少し寂しそうに笑った。


「『分かった』って言いたいけど、それを送ったら、またお姉様が何か返さなきゃって思うかもしれないし」


 ロベルトは娘を見つめた。


 この子もまた、今まで何も考えていなかったわけではないのだろう。


 ただ、考える必要のない場所にいた。


 姉の服が自分へ与えられても、それが姉の物だと知らされない。


 姉が食卓にいなくても、「一人が好きなのだ」と説明される。


 姉が何も求めなくても、「何も欲しくないのだ」と受け取る。


 その環境を作った責任が誰にどこまであるのかは、まだ調査の途中だ。


 しかし、父親である自分が何も確かめなかった事実だけは、もう変わらない。


「待つの、嫌だけど……」


 ミレーヌは立ち上がる前にもう一度呟いた。


「聞いてくれたのは、嬉しい」


 その二つの感情を、ロベルトはどちらも否定しなかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ夜、エレノアは自室の机に座っていた。


 開いた紙包みから出てきた三枚の紙は、生成りの布に包み直してある。


 灰青色の帳面は、その隣にある。


 エレノアは今日の記録へ書き足した。


『紙包みを開けた』


『子供のころの私が描いたと思われる絵と、短い言葉が入っていた』


『お母様と私の絵があった』


『野薔薇のことを書いていた』


 そこまで書き、少し考える。


『忘れていたのは悲しい』


 さらに、その下へ続けた。


『でも、忘れていたから、なかったことにはならない』


 エレノアはペン先を止めた。


 母と一緒に笑った記憶を、今の自分ははっきり取り出せない。


 けれど幼い自分が描いた絵には、二人とも笑っている。


 それが事実を完全に証明するわけではないとしても、少なくとも幼い自分が母と手をつないだ絵を描きたいと思っていたことは残っている。


 そのことが嬉しかった。


 次に、ミレーヌへ送った言葉も記録した。


『言葉は聞いたと伝えた』


『会うかどうかは、まだ決めていない』


『もう少し待ってほしいと伝えた』


 最後の一行を書いた時、少し胸がざわついた。


 待たせている。


 ミレーヌは嫌がるかもしれない。


 それでも、今のエレノアには「もう少し待ってほしい」が本当の気持ちだった。


(嫌われたら、どうしよう)


 古い不安が浮かぶ。


 しかし、そのあとに別の考えも浮かんだ。


(嫌われたくないから会う、は違う気がする)


 会いたいと思った時に会いたい。


 怖さがあっても、それでも自分で会うと決められた時に。


 エレノアはそのことも紙へ書いた。


『嫌われないために会うのではなく、私が会いたいと思って決めてから会いたい』


 書き終えると、しばらくその一文を見つめた。


 まだ「会う」と決めたわけではない。


 それでも、もし会うならどうしたいかが、少しだけ見え始めている。


 エレノアは机の端にある灰青色の帳面へ目を向けた。


 今日は紙包みを開けた。


 母のことを知った。


 ミレーヌへ返事も送った。


 それだけで十分だった。


「あなたは、まだ」


 帳面へ小さく話しかけてから、自分で可笑しくなって口元を緩める。


 物へ話しかける必要はないのかもしれない。


 けれど誰も聞いていないので、構わない。


「まだ開けません」


 そう言っても、帳面は何も要求しない。


 急かさない。


 怒らない。


 そこにあるだけだ。


 エレノアは立ち上がり、寝台脇の小卓へ向かった。


 空の肖像枠を手に取る。


 中にはまだ何もない。


 それでも今日は、その空白を見ながら母の顔を無理に思い出そうとはしなかった。


「お母様、私、お花の絵を描いてたみたいです」


 返事はない。


「上手じゃなかったです」


 少し考えてから、エレノアは笑った。


「でも、お父様は好きだって言ってくれました」


 肖像枠を元の位置へ戻す。


 母の顔を忘れつつある自分。


 母を好きだった幼い自分。


 今も母を恋しく思う自分。


 どれか一つだけが本当なのではなく、全部が自分なのだろう。


 今日、紙包みを開けた自分と、帳面を開けなかった自分も同じだった。


 知ることを選ぶ時もあれば、まだ知らないことを選ぶ時もある。


 そして明日、気持ちが変わってもいい。


 エレノアは灯りを落とす前に、机の上をもう一度見た。


 生成りの布に包まれた三枚の紙。


 まだ紐を解かれていない灰青色の帳面。


 その二つはもう、同じ「怖いもの」ではなかった。


 一つずつ見て、一つずつ考え、自分で違いを決めていいものになっている。


(全部を一度に知らなくてもいい)


 そう思いながら寝台へ入ると、胸の奥に残っていた緊張が少しずつ薄れていった。


 今日の自分は、一つ開けた。


 一つは開けなかった。


 妹へ一つ返事をした。


 けれど、会う約束はしなかった。


 どれも途中だった。


 以前なら、途中のまま眠ることが怖かったかもしれない。


 今夜は違う。


 途中だからこそ、明日また自分で選べる。


 エレノアは小卓に置かれた空の肖像枠を最後に一度だけ見てから、静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。