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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第33話 会うなら、私の決めた場所で



 翌朝、エレノアは目を覚ましてから、しばらく寝台の中で天井を眺めていた。


 昨夜は紙包みから見つかった幼いころの絵を思い返しながら眠ったためか、目覚めた直後にも、母と自分らしい二人が手をつないでいる拙い絵が頭に浮かんだ。アデラインの本当の顔は相変わらず曖昧なままだったが、以前のように無理やり思い出そうとすると胸が苦しくなる、ということはなかった。


(忘れてることは、まだ悲しい。でも、昨日より少し違う)


 母の顔を忘れていることだけが、母との関係のすべてではない。


 幼い自分は母へ花の絵を描き、一緒に野薔薇を見たいと書いた。それだけでも、今のエレノアが知らなかった過去の自分を少し取り戻せたように思える。


 寝台脇の小卓へ目を向ければ、空の肖像枠がある。


 机には、生成りの布で包み直した三枚の紙と、まだ紐を解いていない灰青色の帳面が置かれていた。


 帳面を見ても、今朝は「開けなければならない」という焦りは湧かなかった。


(今日は、開けないと思う)


 昨日の朝なら、そのあとに「でも午後になったら変わるかもしれない」と自分へ言い聞かせただろう。


 今日は、それさえ決めなくていい気がした。


 開けたくなったら、その時に考えればいい。


 扉が叩かれ、リディアの声が聞こえる。


「お嬢様、お目覚めでしょうか」


「はい。起きています。どうぞ」


 入室したリディアは朝の挨拶を済ませると、カーテンをどうするか尋ねた。エレノアが全部開けてほしいと答えると、明るい秋の朝日が部屋の奥まで入り込む。


「今日は晴れてますね」


「はい。庭師によれば、午後まで大きく崩れることはなさそうです」


「池に行けそう?」


「行けると思います。ただ、朝は少し冷えておりますので、午前中でしたら上着をお持ちください」


「じゃあ、あとで行きたいです」


 口にしてから、エレノアは少し笑った。


「今日は、最初から行きたいって思いました」


「そのようでございますね」


「調査のことより先に」


 それを良いことだとリディアは決めつけなかった。ただ、柔らかな表情で頷いている。


 エレノアは寝台から降り、今日着る服を選ぶため衣装棚へ向かった。


 淡い黄色。


 水色。


 白に近い薄紫。


 以前なら、どれを選んでも「これでよろしいでしょうか」と尋ねただろう。


 今日は水色の服へ手を伸ばした。


「これにします」


「かしこまりました」


「理由は……今日は水色がいいから、でいいです」


「十分かと存じます」


 着替えを済ませたあと、リディアが髪を整える。髪飾りについて尋ねられ、エレノアは少し迷った末、今日は白い細いリボンを選んだ。


 青い石の髪飾りはまだ見つかっていない。


 だからといって、他の髪飾りを使ってはいけないわけではない。


 鏡に映る自分を見ながら、エレノアはリボンの位置を少しだけ直してもらった。


「もう少し下がいいです」


「このくらいでしょうか」


「はい。そこが好きです」


 好き、と言った自分の声が、朝の静かな部屋へ自然に溶けた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食では、マティアスから庭へ持っていくパンについて、今日も確認が来た。


 エレノアは卵料理と温かいスープを食べながら、自分のお腹の具合を考えた。昨日は半分でちょうどよかったが、今日は朝食そのものを少し多く食べられそうだった。


「今日は、パンはいりません」


 給仕をしていた使用人へそう伝える。


「かしこまりました」


 それだけで話は終わった。


 昨日半分を頼んだから、今日も何か頼まなければならないわけではない。


 アルフォンスは書類へ目を通しながら朝食を取っていたが、エレノアの返答を聞いても何も言わなかった。


 しばらくして、エレノアの方から口を開いた。


「お父様」


「うん?」


「昨日、ミレーヌに返事、届きましたか?」


「届いたよ」


 エレノアの匙が僅かに止まる。


「何か返事は?」


「ない」


 胸の奥が小さくざわついた。


 怒ったのだろうか。


 悲しんだのだろうか。


 もう会いたくなくなったのだろうか。


 いくつかの考えが浮かび、エレノアはそれをすぐ事実にしないよう意識して息を整えた。


「返事をしなかった理由は分かりますか?」


「そこまでは聞いていない。ただ、こちらから返事を求めてもいない」


「そうですよね」


 アルフォンスは書類を置き、エレノアを見る。


「気になる?」


「少し」


「確認することもできる。でも、ミレーヌが返事を送らなかった理由まで聞く必要があるかは、エレノアが決めていい」


 エレノアは考えた。


 ミレーヌが怒ったかどうかは気になる。


 しかし、それを知ったら、自分はどうするのだろう。


 もし「悲しんでいる」と聞けば、早く会わなければならないような気持ちになるかもしれない。


 もし「怒っている」と聞けば、怖くなって会いたくなくなるかもしれない。


 それは、今の自分が本当に知る必要のあることだろうか。


「聞かなくていいです」


「分かった」


「ミレーヌが何を感じるかは、ミレーヌのものだから」


 言ってから、エレノアは少し自信をなくしてアルフォンスを見た。


「……合ってますか?」


「私に正解を決めさせたい?」


「あ」


 エレノアは口を閉じた。


 アルフォンスの声に責める響きはない。


「今のは意地悪だったかな」


「ちょっとだけ」


「ごめん」


「でも、分かりました」


 エレノアはスープへ視線を落とし、少し笑った。


「私がそう思うなら、それでいいんですね」


「うん。あとで考えが変わってもいい」


「じゃあ、今は聞きません」


 そこで会話を終え、エレノアは朝食へ戻った。


 ミレーヌが今何を感じているかは分からない。


 分からないままでも、朝食を食べることはできる。


     ◇ ◇ ◇


 午前中、エレノアは予定通り南の小池へ向かった。


 冷たい風が庭を抜けていたため、リディアが持ってきた薄手の上着を羽織る。庭木の葉には少しずつ秋の色が混じり始めており、歩くたびに乾いた葉が小さく鳴った。


 池の近くでは、ユリウス・フェルナーが水際の枯れ葉を長い柄の道具で集めていた。


 エレノアに気づくと、彼は作業の手を止めて一礼する。


「おはようございます、エレノア様」


「おはようございます。今日はお仕事中ですね」


「はい。風が強くなると、池へ葉が入りやすい時期ですので」


 エレノアは水面を見る。


 確かに端の方へ何枚もの葉が浮かんでいた。


「魚は、葉っぱが入ったら困るんですか?」


「少しくらいなら問題ありません。ただ、多すぎると水の状態へ影響します」


「全部取るんですか?」


「全部は取りません。落ち葉そのものが悪いわけではありませんので、増えすぎない程度に調整します」


「残すんですね」


「はい」


 ユリウスはそれ以上説明を押しつけず、作業へ戻った。


 エレノアはいつもの腰掛けへ座り、池を眺める。


 何でも取り除けばいいわけではない。


 多すぎれば困る。


 けれど、少しあること自体が悪いわけでもない。


(怖い気持ちも、そうなのかな)


 ミレーヌに会うのが怖い。


 その怖さを全部なくしてからでなければ会えないと思っていた。


 けれど、本当にそうなのだろうか。


 怖さが残っていても、自分が逃げられる場所や、一緒にいてほしい人や、終わる時間を決めておけば、会える可能性はあるのかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸が少し速く鳴った。


 エレノアは無意識に上着の前を握った。


「お嬢様?」


 リディアが気づく。


「大丈夫……」


 言いかけて、エレノアは止まった。


 胸は少し苦しい。


 なら、大丈夫と言い切る必要はない。


「ちょっと、緊張しました」


「何か思い出されましたか?」


「ミレーヌのことを考えてました」


 リディアは隣へ座ることも、詳しく尋ねることもしなかった。


「お水をお持ちしましょうか」


「はい。少し飲みたいです」


 水を受け取り、一口ずつ飲む。


 冷たすぎない水が喉を通るうち、速くなっていた鼓動も少しずつ落ち着いていった。


「リディア」


「はい」


「誰かに会う時って、途中で帰ってもいいんですか?」


「状況によるとは思いますが、ミレーヌ様との面会についてでしょうか」


「はい」


「アルフォンス様へ確認する必要はございますが、お嬢様が望まれるなら、途中で終了できる条件を事前に決めることは可能だと思います」


「時間も?」


「はい」


「誰が一緒にいるかも?」


「それも可能かと」


「触らないでって、先に言っても?」


「伝えることはできます」


 エレノアは水の入った杯を両手で持ちながら考えた。


 会う。


 会わない。


 今までは、その二つだけを考えていた。


 けれど実際には、その間にたくさんのことを決められる。


 どこで会うか。


 誰と会うか。


 何分会うか。


 何を話すか。


 触れていいか。


 嫌になった時にどうするか。


(それなら……)


 まだ怖い。


 それでも、ほんの少しだけ「会う」という選択が現実のものに近づいた。


「今日、お父様に相談したいです」


「承知いたしました」


「でも、会うって決めたわけじゃないです」


「そのようにお伝えいたします」


 エレノアはもう一度池を見た。


 一匹の魚が水草の影から出てきて、光の中を横切っていく。


 以前の自分なら、会うかどうかを決める前に条件を考えることを、優柔不断だと思ったかもしれない。


 今は違う。


 決めるために必要なことを知るのも、自分の選択なのだと思えた。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、ベルナール伯爵邸では、ベアトリス・ロランへの聞き取りが行われていた。


 質問役の家令は、ノエルの証言内容を伏せたまま、小型肖像について尋ねた。


「エレノアお嬢様のお部屋に、小型の肖像枠があったことを覚えておりますか」


 ベアトリスは膝の上で手を重ね、すぐには答えなかった。


「小型の肖像枠……でございますか」


「はい。記憶がなければ、そのようにお答えください」


「いくつか装飾品はございましたので、どれを指しているのか分かりません」


「では、アデライン様の肖像については?」


 その名前が出た時、ベアトリスの眉が僅かに動いた。


「大きな肖像画であれば、屋敷にございます」


「エレノアお嬢様が個人的に所持していた小型のものです」


 ベアトリスは視線を落とした。


「……あったように思います」


「どのようなものですか?」


「木製の、小さな枠だったかと。寝台の近くに置かれていた時期がございました」


「中には誰の肖像が?」


「アデライン様だったと思います」


 家令は表情を変えず、記録係へ目配せした。


「その肖像が後に枠からなくなったことを知っていますか?」


 ベアトリスの指が僅かに動いた。


 しかし、答えは慎重だった。


「なくなった、と明確に認識した記憶はございません」


「枠、あるいは中の肖像を移動させたことは?」


「私はございません」


「誰かが触れていたところを見ましたか?」


「覚えておりません」


「ヴァレリア様から、アデライン様の肖像や遺品について何か指示を受けたことは?」


 ベアトリスは一呼吸置いた。


「遺品の整理については、以前申し上げた通りでございます。エレノアお嬢様が日常的に使用していないものについて、奥様から整理するよう指示を受けたことはございます」


「小型肖像がその対象に含まれていたかは?」


「分かりません」


 否定ではない。


 肯定でもない。


 家令はそこを曖昧なまま記録させた。


「では、もう一点。エレノアお嬢様が小さな鍵を所持していたことについて、記憶はございますか」


 今度はベアトリスの反応が少し違った。


「鍵?」


「はい」


「……机の鍵でしょうか」


 家令はその言葉を聞いても、すぐに頷かなかった。


「なぜ机だと思われたのですか?」


 ベアトリスは自分が先に具体的な場所を口にしたことへ気づき、ほんの僅かに唇を引き結んだ。


「お嬢様の部屋で個人用の鍵といえば、机くらいしか思い当たらなかっただけでございます」


「机の収納が施錠されていたことを知っていましたか?」


「はい。左下だったと思います」


「鍵を見たことは?」


「直接は……」


 ベアトリスはそこで言葉を止めた。


「分かりません。見たことがあったかもしれませんが、はっきりとは覚えておりません」


「その収納を開けたことは?」


「ございません」


「開けるよう指示されたことは?」


「ございません」


「鍵の保管場所を知っていましたか?」


「いいえ」


 家令はそれ以上踏み込まなかった。


 ベアトリスが、質問で場所を示される前に「机の鍵」と口にした。


 さらに左下が施錠されていたことも知っていた。


 それは新しい情報だが、鍵の所在や中身について知っている証拠ではない。


 聞き取りは、事実と推測を分けたまま終了した。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアはアルフォンスと話すため、南向きの小さな居間を選んだ。


 ミレーヌからの書面を聞いた時にも使った部屋だが、今日は窓を少し開けてあり、庭から冷たい風と葉の擦れる音が入ってくる。


 誰に同席してほしいか尋ねられ、エレノアはマルグリットを選んだ。


 セドリックは呼ばない。


 リディアには扉の近くへいてもらう。


「ミレーヌと会うことについて考えたいです」


 エレノアが切り出すと、アルフォンスは静かに頷いた。


「会うと決めた?」


「まだです」


「分かった」


「でも、会うならどうしたいかを先に決めてもいいですか?」


「もちろん」


 エレノアは膝の上へ両手を置いた。


 池で考えたことを、一つずつ言葉にしていく。


「ベルナール家では会いたくないです」


「うん」


「私の昔の部屋も嫌です。あそこだと、たぶん話より部屋のことが気になります」


「では、こちらで会う?」


 エレノアはすぐには頷かなかった。


 ロシュフォール公爵邸は安全な場所だ。


 だからこそ、ミレーヌを自分の部屋へ入れるのは嫌だった。


「私の部屋は嫌です」


「もちろんだ」


「この部屋みたいな、みんなが使う部屋なら……少し考えられます」


 アルフォンスはエレノアの言葉を途中でまとめず、そのまま待っている。


「ヴァレリア様は来てほしくないです」


「分かった」


「ロベルトお父様も……」


 そこで言葉が止まる。


 ロベルトがいる方が、ミレーヌは安心するかもしれない。


 けれど、エレノアは父の前でミレーヌと話したくなかった。


「来てほしくないです」


「それでいい」


「ミレーヌ一人?」


「移動には当然、護衛や侍女が必要になる。ただし面会する部屋へ誰を入れるかは調整できる」


「ミレーヌの侍女は?」


 コレット・ラヴァン。


 エレノアは名前だけ知っている。


 ミレーヌに仕えて二年ほどで、部屋に以前からあった物の由来は知らなかった若い侍女。


「ミレーヌが必要なら、部屋の端にいてもらってもいいです」


「エレノア側は?」


「お祖母様にいてほしいです」


 マルグリットが黙ってエレノアを見る。


「私でいいの?」


「はい」


「アルフォンスは?」


 エレノアは父を見る。


「お父様は……近くにいてほしいです。でも、部屋の中じゃなくてもいいかもしれない」


 アルフォンスは少し意外そうな顔をしたが、反対しなかった。


「隣室にいることもできる」


「呼んだら来られますか?」


「すぐに」


「じゃあ、それがいいです」


 自分で言ってから、エレノアは胸の中を確かめる。


 怖さはある。


 けれど、先ほどより具体的になった。


「セドリックお兄様は?」


 マルグリットが尋ねる。


「今回は、いなくていいです」


 エレノアは少し笑った。


「たぶん、お兄様がいたら、ミレーヌがちょっと怖いと思うから」


 アルフォンスが口元を緩めた。


「否定しづらいね」


「お兄様、ミレーヌのこと嫌いですか?」


「それは本人に聞かないと分からないよ」


「あ、そうでした」


 エレノアも笑う。


 他人の感情を勝手に決めない。


 最近、何度も同じところへ戻ってくる。


「時間も決めたいです」


「どのくらいなら大丈夫そう?」


「分かりません」


「なら、最長時間を決める方法もある。例えば三十分以内。途中で終えてもいい」


「三十分……」


 エレノアは想像してみた。


 ミレーヌと向かい合って三十分。


 長いようにも、短いようにも感じる。


「最初は二十分がいいです」


「分かった」


「二十分たったら、絶対に終わる?」


「延長したいとエレノア自身が言わない限りは終える、という条件にできる」


「ミレーヌがもっと話したいって言っても?」


「エレノアが延長を望まなければ終える」


「私が五分で嫌になっても?」


「終えていい」


 エレノアはゆっくり頷いた。


「触らないでほしいです」


「先に伝える」


「急に近づかないでほしい」


「それも」


「謝らなきゃいけないって決めて来てほしくないです」


 アルフォンスが僅かに眉を上げた。


「そこは、もう少し聞いてもいい?」


 エレノアは自分でも言葉を整理する。


「ミレーヌは、何を謝ればいいのか分からないって言ってました。それなのに、会うから謝らなきゃってなったら……たぶん、私も何て返せばいいか分からないです」


「謝罪を禁止したいわけではない?」


「違います。ミレーヌが本当に謝りたいことがあるなら、言ってもいいです。でも、会うために謝ることを用意しなくていいって……伝えられますか?」


「伝えられるよ」


「それから、ドレスのことは話してもいいです」


 エレノアは少し迷いながら続けた。


「でも、調査のことを全部聞かれるのは嫌です。ナタリーさんのこととか、お母様の箱とか、まだ分からないことが多いから」


「面会の目的を姉妹間の話に限定することもできる」


「そうしてください」


 そこでエレノアは黙った。


 条件が並んだ。


 ロシュフォール公爵邸の共用の部屋。


 ヴァレリアとロベルトは同席しない。


 マルグリットが同席。


 アルフォンスは隣室。


 最長二十分。


 途中終了可能。


 身体へ触れない。


 急に距離を詰めない。


 謝罪を義務にしない。


 調査全般を話す場にしない。


 ここまで決めると、会う場面が頭の中に浮かぶ。


 以前のような、形のない恐怖ではない。


 出口のある部屋になった。


「エレノア」


 マルグリットが静かに呼ぶ。


「ここまで考えて、どう?」


 エレノアは自分の胸へ手を当てた。


 怖い。


 まだ怖い。


 処刑台の前で見たミレーヌの姿を思い出せば、指先が冷たくなる。


 レオナードの腕の中にいた妹。


 自分が無実を訴えても、誰も助けてくれなかった朝。


 あのミレーヌと、今こちらへ会いたいと言っている十五歳のミレーヌが、エレノアの中ではどうしても重なってしまう。


(同じ人。でも、今はまだ、あの日まで進んでいない)


 前の人生を知らないミレーヌ。


 今のミレーヌが、将来同じことをするかは分からない。


 だからといって、過去に感じた恐怖を消す必要もない。


「怖いです」


 エレノアは正直に言った。


「でも……この条件なら、一度だけ会ってみたいです」


 アルフォンスはすぐに予定を決めようとはしなかった。


「それは、今のエレノアの決定として受け取っていい?」


「はい」


「今日会う必要はないよ」


「今日じゃない方がいいです」


「日を決める?」


 エレノアは少し考えた。


「明日も嫌です」


「うん」


「二日後……」


 口にしてみると、少し近すぎる気がする。


「やっぱり、まだ日までは決めたくないです」


「分かった」


「会うことは決める。でも、いつかは後で決める。それでもいいですか?」


「もちろん」


 エレノアは息を吐いた。


 会う。


 その一つだけを決めた。


 いつ会うかは、まだ決めない。


 条件は伝える。


 ミレーヌがその条件で会いたいかどうかも、ミレーヌ自身が決める。


「ミレーヌにも、嫌なら断っていいって伝えてください」


「条件が多いから?」


「はい。二十分とか、触らないとか、いろいろあるから。ミレーヌが『そんなの嫌』って思うかもしれない」


「その場合は?」


 エレノアは少しだけ胸が痛んだ。


 けれど答えた。


「じゃあ、今は会わないです」


「分かった」


「条件を減らしてまで会わなくていいです」


 言葉にすると、意外なほどしっくりきた。


 会うために安全を手放す必要はない。


 ミレーヌにも条件を拒む権利がある。


 どちらかが無理をしなければ成立しない面会なら、今はしない。


 それでいい。


     ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、ベルナール伯爵邸へロシュフォール家から連絡が届いた。


 ロベルトは内容を確認すると、自分でミレーヌへ伝える前に何度か読み返した。


 エレノアが面会そのものには同意した。


 だが日程は未定。


 条件がある。


 その一つ一つを読み、ロベルトは途中で目を閉じた。


 自分とヴァレリアは同席しない。


 その条件に痛みがないわけではない。


 それでも、口を挟む資格はなかった。


 娘が父親を安全のために外したいと考えるところまで追い込んだのは、他でもない自分たちの家庭なのだから。


 ミレーヌが応接室へ来ると、ロベルトは余計な前置きをせず伝えた。


「エレノアから返答があった」


「お姉様から?」


 ミレーヌの表情が明るくなりかける。


 ロベルトは、その期待を煽らないよう続けた。


「会う意思はあるそうだ。ただし、日程はまだ決めない。条件もある」


 ミレーヌは椅子へ座り直した。


「条件?」


「場所はロシュフォール公爵邸の共用の部屋。ヴァレリアと私は同席しない。マルグリット公爵夫人が同席し、アルフォンス公爵は隣室にいる。面会は最長二十分。エレノアが途中で終了したいと言った場合は、その時点で終える」


 ミレーヌの顔から、先ほどまでの明るさが少し消えた。


 ロベルトは止めずに続ける。


「身体へ触れない。急に距離を詰めない。謝罪は面会の条件ではない。何を謝るべきか分からないまま、会うためだけに謝罪を用意する必要はない。ドレスについて話すことは構わないが、現在進行している調査全般を話す場にはしない」


「……いっぱいあるね」


「ああ」


「お父様も来ないの?」


「来ない」


「お母様も?」


「来ない」


 ミレーヌは膝の上で手を握った。


「私、一人?」


「移動には護衛と侍女を付けられる。コレットを面会室へ入れることも、必要なら相談できるそうだ」


「お姉様は、私が怖いの?」


 ロベルトは答えなかった。


「それはエレノア本人しか答えられない」


「でも、触っちゃ駄目で、急に近づいちゃ駄目で、二十分だけなんでしょう?」


「条件から何を感じるかはお前の自由だ。ただ、それをエレノアの気持ちとして断定するな」


 ミレーヌは唇を結んだ。


 少し傷ついているように見える。


 それでも、ロベルトは「そんなに怖がっているわけではない」と慰めることはできなかった。


 知らないからだ。


「嫌なら断っていいとも書いてある」


「私が?」


「ああ。条件を受け入れられないなら、今は会わない。それでいいとエレノアは言っている」


「条件を変えてって言ったら?」


「それは私には分からない。ただ、エレノアは条件を減らしてまで会う必要はないと伝えている」


 ミレーヌはしばらく黙っていた。


「……ちょっと嫌」


 ロベルトは待つ。


「二十分しかないのも、お祖母様がずっといるのも、触っちゃ駄目なのも嫌。私、お姉様と二人で話せると思ってた」


「そうか」


「お父様、怒らないの?」


「何に?」


「嫌だって言ったから」


「嫌だと感じることと、条件を破ることは別だ」


 昨日、自分がミレーヌへ言ったことと似ている。


 ミレーヌもそれに気づいたのか、少しだけ頬を膨らませた。


「またそれ」


「同じだからな」


「……でも、会いたい」


 ミレーヌは俯き、しばらく自分の指を見つめていた。


「二十分でも会いたい。触れなくてもいい。お祖母様がいてもいい」


「コレットは?」


「一緒に来てほしい。でも、部屋の中は……」


 考えた末、ミレーヌは首を横へ振る。


「外で待っててもらう。お姉様がお祖母様と一緒なら、私も一人で話してみる」


「分かった」


「日が決まってないのは?」


「エレノアが決めるまで待つ」


「また待つんだ」


 不満そうな声だった。


 けれど今度は、その不満を理由に条件を変えようとはしなかった。


「……分かった。待つ」


 ミレーヌは顔を上げる。


「お姉様に、『条件は全部分かった。それで会いたい』って伝えて」


「それだけでいいか?」


「うん」


 一度頷いたあと、ミレーヌは思い直したように付け足した。


「あと、『日を早く決めて』は書かないで」


「言いたいのか?」


「ちょっと言いたい」


 ミレーヌは正直に答えた。


「でも、それ書いたら急かすことになるでしょう?」


「ああ」


「じゃあ、書かない」


 ロベルトは頷いた。


 ミレーヌはまだ不満を感じている。


 寂しさもある。


 自分が想像していた姉妹の再会とは違うことに、傷ついてもいるだろう。


 それでも、自分の感情を消すのではなく、相手へ押しつけないという選択をした。


 それは、今までこの家で誰も十分に教えてこなかったことだった。


     ◇ ◇ ◇


 夕食後、エレノアは自室で刺繍の続きをしていた。


 魚の周りに増やした泡の隣へ、今日は小さな葉を一枚だけ刺している。


 扉が叩かれ、リディアが入室の許可を求めた。


「お嬢様、ミレーヌ様から、先ほどの条件についてお返事が届いております」


 針を持つ手が止まった。


「早かったですね」


「はい。ただ、急いで聞く必要はございません」


 エレノアは刺繍布を見る。


 葉はまだ途中だ。


「これを終わらせてから聞きます」


「かしこまりました」


 リディアは待った。


 エレノアは焦らず、残りの数針を刺す。


 途中で一度糸が絡まりかけたため、針を止めてゆっくり解いた。以前なら、返事が来たと知った瞬間に刺繍など続けていられなかったかもしれない。


 けれど、返事は消えない。


 葉を一枚完成させてから、エレノアは針を安全な場所へ留めた。


「聞きます」


「ミレーヌ様は、『条件は全部分かった。それで会いたい』とお返事されたそうです。日程については、エレノア様がお決めになるまで待つとのことです」


「それだけ?」


「正式に届けられた言葉は以上でございます」


 エレノアは胸へ手を当てた。


 条件を断られなかった。


 少し安心した。


 けれど同時に、会うことが本当に現実になったため、怖さも強くなる。


「……会うんですね、私」


 リディアは「はい」と決めつけなかった。


「お嬢様は、今日、会う意思を伝えられました」


「そうでした」


 まだ日程は決めていない。


 会う意思を伝えたからといって、今夜すぐに会うわけではない。


「日を決めるのは、明日でもいいですか?」


「もちろんでございます」


「明日になっても決められなかったら?」


「その時に、またお考えになればよろしいかと」


「……はい」


 エレノアは机へ向かい、今日の記録を取り出した。


 まず、母のことでも帳面のことでもなく、ミレーヌについて書いた。


『ミレーヌと会うことにした』


 その一行を書いた瞬間、胸が強く鳴った。


 エレノアは続ける。


『まだ日は決めていない』


『ロシュフォール家の共用の部屋で会う』


『お祖母様に一緒にいてもらう』


『お父様は隣の部屋』


『二十分まで』


『途中でやめてもいい』


『触らない』


『急に近づかない』


『謝ることを決まりにしない』


『調査の全部を話す場所にはしない』


 一つずつ書いていくうち、胸の中にある怖さが少しずつ輪郭を持つ。


 最後に、エレノアは別の一文を加えた。


『怖くなくなったから会うのではない』


 ペン先を止め、続きを考える。


 そして、ゆっくり書いた。


『怖いままでも、私が決めた条件なら会ってみたいと思った』


 エレノアはその文章を何度も読み返した。


 怖いことは、失敗ではない。


 怖さが残っていることは、まだ回復していない証拠でもない。


 処刑台の記憶が消えないまま、今のミレーヌを見てみたいと思った。


 それだけだ。


 机の端には、まだ灰青色の帳面がある。


 今日は一度も触れなかった。


 それでいい。


 母のことも、ナタリーのことも、旧室の机のことも、全部同じ日に進める必要はない。


 今日は妹と会うことについて考えた日だった。


 エレノアは記録用の紙を閉じ、刺繍布をもう一度手に取った。


 完成した小さな葉は、少し斜めになっている。


「これは、このままでいいかな」


 誰へ尋ねるでもなく呟く。


 直そうと思えば直せる。


 けれど、今日はこの形が気に入った。


 寝る前、エレノアは空の肖像枠へ「おやすみなさい」と告げた。


 それから机の上の灰青色の帳面を見る。


 開ける日は、まだ決めない。


 妹と会う日も、まだ決めない。


 それでも今日、自分で一つ先へ進むことを選んだ。


(会ったら、私はミレーヌに何を聞きたいんだろう)


 今度は、その問いが浮かんだ。


 服のこと。


 母から何を聞いていたのか。


 自分をどう思っていたのか。


 聞きたいことはいくつかある。


 けれど、質問を並べるだけの面会にはしたくないとも思った。


 何より、今のミレーヌを自分の目で見てみたい。


 前の人生の最後に見た妹ではなく、まだ何も決まりきっていない今の妹を。


 そのことを考えると、怖さの奥にほんの少しだけ別の感情が生まれた。


 それが期待なのか、好奇心なのかは、まだ分からない。


 エレノアは無理に名前を付けず、灯りを落とした。


 分からない感情を、分からないまま明日へ持っていってもいい。


 そう思えるようになったこと自体が、以前の自分とは少し違っていた。

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