第34話 妹と会う日
翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の外では細い枝が風に揺れていた。
昨夜のうちに雨が降ったらしく、窓硝子の向こうに見える庭はまだ湿っている。薄い朝日を受けた葉には小さな水滴が残り、風が通るたびに雫が落ちて、その下の植え込みを僅かに揺らしていた。
エレノアは寝台の中でしばらくその景色を眺めたあと、昨日自分で書いた言葉を思い出した。
『ミレーヌと会うことにした』
胸の奥が少し重くなる。
会うことそのものは、もう決めた。
ミレーヌも条件を受け入れ、その条件のまま会いたいと返事をしてきた。
残っているのは、いつ会うかということだった。
(今日じゃなくてもいい)
その考えが最初に浮かんだ。
明日でもいい。
三日後でも、一週間後でもいい。
少なくともアルフォンスは、早く決めなければならないとは一度も言っていない。
それでも、エレノアは昨日までとは違う感覚が自分の中にあることに気づいていた。
会うと決める前は、日付を考えるだけでも胸が苦しかった。けれど今は、怖さは残っているものの、「いつなら会えそうか」を考えることができる。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。どうぞ」
リディアが入室し、朝の挨拶をしてからカーテンを開く。曇りの残る空から入ってきた光は昨日ほど明るくなかったが、室内の輪郭を柔らかく浮かび上がらせた。
「雨、降ったんですね」
「夜半に少し降ったようでございます。今は上がっておりますが、庭の地面はかなり湿っているそうです」
「池は?」
「行くことはできますが、いつもの腰掛けは濡れている可能性がございます」
エレノアは少し考えた。
「じゃあ、今日は午後にします。乾いてたら行きたいです」
「かしこまりました」
今日の予定を一つ決める。
それからエレノアは衣装棚へ向かった。
水色の服に手を伸ばしかけ、昨日も水色だったことを思い出す。
同じものを選んでもいい。
しかし今日は、少し違う色を着たい気分だった。
「これにします」
選んだのは、柔らかな薄緑色のドレスだった。華美な装飾は少なく、襟元と袖口に細い白糸の刺繍が入っている。
「髪はどうなさいますか?」
「今日はリボンなしにします」
「承知いたしました」
リディアが髪を整えている間、エレノアは鏡の中の自分を見つめた。
ふと、ミレーヌの姿を思い出す。
同じ年齢。
同じ伯爵家で育った妹。
けれど、好きな食べ物すら知らない。
ミレーヌが何色を本当に好きなのかも知らない。
以前は桃色が好きなのだと思っていた。服も小物も桃色が多かったからだ。
だが、それもヴァレリアが選んだものだった可能性はある。
(会ったら、聞いてみてもいいのかな)
好きな色を。
そんなことを聞くために会うのは、おかしいだろうか。
もっと大切なことを話すべきなのかもしれない。
ドレスのこと。
自分がいなかった食卓のこと。
ヴァレリアから何を聞いていたのか。
聞くべきことはいくらでもある。
それでも、「好きな色は何?」という問いが、なぜか一番自然に思えた。
「リディア」
「はい」
「ミレーヌに会った時、好きな色を聞いてもいいと思いますか?」
髪を整えていたリディアの手が一度止まり、すぐに再び動き始める。
「お嬢様がお聞きになりたいのでしたら、よろしいのではないでしょうか」
「もっと大事なことを話した方がいいのかなって思って」
「二十分すべてを、重要な確認のために使わなければならないのでしょうか」
エレノアは鏡越しにリディアを見る。
「……そういう決まりはないですね」
「はい」
「じゃあ、聞きたくなったら聞きます」
そう答えると、胸の奥の重さがほんの少し軽くなった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、アルフォンス、オーギュスト、マルグリット、セドリックが揃っていた。
焼いたパンの香りと温かなスープの湯気が漂う中、エレノアはいつもの席へ着く。マティアスが用意した今朝の卵料理には細かく刻んだ香草が入っており、一口食べると、以前自分が好きだと伝えた魚料理の香りを少し思い出した。
「この香草、魚の時と同じですか?」
近くにいた給仕へ尋ねると、厨房へ確認してくれた。
しばらくして戻ってきた答えは、「一部は同じだが、全部ではない」だった。
「全部同じじゃないんですね」
「料理によって合うものを変えているそうです」
「マティアスさんが?」
「はい」
エレノアはもう一口食べた。
「これも好きです」
「厨房へお伝えいたしますか?」
「はい。でも、毎日これにしてほしいって意味じゃないです」
「そのようにお伝えいたします」
以前なら、「好き」と言えばそればかり出されるのではないかと考え、何も言わなかったかもしれない。
今は、好きなものを好きと言いながら、毎日同じものを望んでいるわけではないと付け加えられる。
朝食が半ばまで進んだところで、エレノアはアルフォンスを見た。
「お父様」
「うん?」
「ミレーヌと会う日を考えたいです」
アルフォンスは食器を置いた。
「今ここで?」
「みんながいるけど……」
エレノアはマルグリットとセドリック、それからオーギュストを見る。
話を聞かれて困る内容ではない。
「ここでいいです」
「分かった」
「今日、は……」
口にしただけで胸が少し縮む。
エレノアは自分の身体の反応を確かめた。
「今日は嫌です」
「うん」
「明日も、ちょっと近いです」
「では、それより後だね」
アルフォンスは候補日を勝手に決めず、待っている。
「三日後は?」
「こちらの予定としては問題ない。マルグリットも大丈夫?」
「ええ。私は空けられるわ」
「ミレーヌ側は確認が必要だけどね」
三日後。
今日を含めずに三日先。
近すぎるだろうか。
エレノアはパンを小さくちぎりながら考える。
(逃げたくなるほど近くはない。でも、ずっと考え続けるほど遠くもない)
「三日後がいいです」
言った瞬間、胸が強く鳴った。
セドリックが向かい側からエレノアを見たが、何も口を挟まない。
「時間は?」
アルフォンスが尋ねる。
「午後がいいです」
「昼食の直後は避けようか」
「はい。食べたあと、少し休んでからがいいです」
「では、午後二時ごろを候補にして先方へ確認する」
エレノアは頷いた。
「二十分は変えません」
「もちろん」
「お祖母様が一緒にいて、お父様は隣の部屋」
「その条件も変えない」
「途中で嫌になったら終わる」
「ああ」
一つずつ確認していくと、呼吸が落ち着いてくる。
その時、セドリックが静かに口を開いた。
「僕から一つだけ聞いてもいい?」
エレノアは少し身構え、それから頷いた。
「はい」
「当日は僕、屋敷にいない方がいい?」
予想していなかった質問だった。
「どうしてですか?」
「エレノアは僕を面会に入れないって決めた。でも、同じ屋敷にいること自体が気になるなら、外の用事を入れられる」
エレノアはセドリックを見る。
怒っていない。
寂しそうでもない。
ただ、本当に確認しているようだった。
「いてください」
答えは意外なほど早く出た。
「部屋にはいなくていいけど、屋敷にはいてほしいです」
「分かった」
「でも、扉の前で待ってたりはしないでください」
セドリックの口元が僅かに緩む。
「しないよ」
「本当に?」
「父上が隣室にいるのに、僕まで扉の前に立ったら、さすがにミレーヌ嬢が気の毒だろう」
「お兄様、ちょっとやりそうです」
「信用がないなあ」
そのやり取りに、オーギュストが小さく笑った。
「自覚がないなら、なお悪いな」
「祖父上まで」
朝食の席に軽い笑いが広がる。
エレノアも笑った。
ミレーヌと会う日を決める話をしながら笑えることが、少し不思議だった。
怖い話をする時は、最初から最後まで怖い顔をしていなければならないわけではない。
そんな当たり前のことを、また一つ覚えた気がした。
◇ ◇ ◇
朝食後、アルフォンスはすぐにベルナール家へ日程確認を送った。
ただし、「決定」ではなく「エレノアが希望する候補」として伝え、ミレーヌ側の都合を確認する形にした。
エレノアはその手配を見届けたあと、自室へ戻った。
机には灰青色の帳面がある。
今日も開ける気にはならない。
その横には、生成りの布に包まれた幼いころの絵がある。
こちらは、もう一度見たいと思った。
「リディア、昨日の絵、見てもいいですよね」
「もちろんでございます」
「自分のものなのに、まだ聞いちゃいます」
「聞いてはいけないわけでもございません」
エレノアは笑いながら布を開いた。
三枚のうち、今日は母と自分が手をつないでいる絵だけを取り出す。
丸い顔。
点のような目。
長い髪の母。
隣にいる小さな自分。
『おかあさまと エレノア』
拙い文字を指でなぞらないよう気をつけながら眺める。
「これ、いつ描いたんでしょう」
「紙そのものから正確な時期を判断するのは難しいかと存じます」
「そうですよね」
エレノアは紙の端を見る。
少し黄ばんでいる。
母が亡くなる前なのは間違いないだろう。
「お母様が持ってたのかな」
昨日と同じ疑問が浮かぶ。
けれど今日は、答えが分からないことにそれほど苛立たなかった。
「分からないですね」
「はい」
「でも、私が描いたのはたぶん本当」
「筆跡については、マルグリット様がお持ちの過去のお手紙と比較することも可能かと思います」
エレノアは少し考えた。
「今はしなくていいです」
「承知いたしました」
「絶対に私が描いたって証明しなくても、今日はこれを見てたいです」
絵をしばらく眺めたあと、エレノアは丁寧に布へ戻した。
その時、机の端に置いた灰青色の帳面が視界へ入る。
やはり、開けたいとは思わない。
「こっちは今日も開けません」
「はい」
選択は、昨日と同じでもいい。
毎日違うことをしなければ前へ進んでいない、ということではないのだろう。
◇ ◇ ◇
昼前、ベルナール伯爵邸へロシュフォール家からの使者が到着した。
ロベルトは書面を確認すると、すぐにミレーヌを呼ぶのではなく、まず内容を最後まで読んだ。
三日後。
午後二時。
前回提示された条件はすべて維持。
これはエレノアの希望日であり、ミレーヌ側に不都合がある場合は別日を調整する。
強制ではない。
ロベルトはその文面を確認したあと、ミレーヌを小さな応接室へ呼んだ。
「日程の候補が来た」
ミレーヌは椅子へ座る前に足を止めた。
「いつ?」
「三日後の午後二時」
その顔に、緊張と喜びが同時に浮かぶ。
「三日後……」
「都合が悪ければ変更できる」
「大丈夫。何もない」
「予定を確認してから答えてもいい」
「大丈夫だもん」
少し早口になったあと、ミレーヌは自分でも気づいたらしく、息を吐いた。
「……確認する」
「そうしなさい」
その場で侍女へ予定を確認させると、三日後の午後に外せない用事はなかった。
「行ける」
「では、そのように返答する」
「うん」
ミレーヌは椅子へ座り、落ち着かない様子で指を組み直した。
「何着ていけばいいのかな」
ロベルトは答えなかった。
「お父様?」
「私に決めてほしいのか?」
ミレーヌが少し眉を寄せる。
「服くらい聞いてもいいでしょう?」
「聞くのは構わない。ただ、私がエレノアの気持ちを推測して『この服なら安心する』とは言えない」
「そこまで聞いてないよ」
「そうか」
ミレーヌは頬を膨らませた。
しばらく考えたあと、ぽつりと呟く。
「お姉様のだったドレスは着ない」
ロベルトは娘を見る。
「三着のことか?」
「うん。返すって言ったのに、それ着て会いに行くの変でしょう?」
「それはお前が決めることだ」
「だから、着ないって決めたの」
「分かった」
「桃色も……」
そこでミレーヌは止まった。
自分の服の多くが桃色だ。
母が似合うと言って選んでくれた色。
自分も好きだと思っていた。
けれど、姉が自分の好きな色すら知らないと知った今、ミレーヌ自身もふと考えてしまう。
(私、本当に桃色が一番好きなのかな)
嫌いではない。
むしろ好きだ。
でも一番かと聞かれると、考えたことがなかった。
「お父様」
「何だ」
「私って、何色が好きだと思う?」
ロベルトは言葉に詰まった。
ミレーヌはその反応を見て、少しだけ笑う。
「知らないんだ」
「……桃色だと思っていた」
「私も」
「違うのか?」
「分かんない」
ミレーヌは窓へ目を向けた。
「お母様がよく桃色を選んでくれたから、私も好きって思ってた。でも、他の色を選ぼうってあんまり思ったことなかった」
「なら、今から考えてもいいんじゃないか」
「お父様がそれ言うの?」
「言ってはいけないか?」
「最近のお父様、そういうことばっかり言うから」
不満そうな声ではあったが、以前のような刺々しさはなかった。
「三日後までに決めなくてもいいか」
「服は何か着ていく必要があるが、好きな色を一生分決める必要はないだろう」
「じゃあ、コレットと考える」
ミレーヌは立ち上がりかけて、もう一度座った。
「あと、お母様には?」
「面会の日程そのものは伝える」
「条件も?」
「必要な範囲ではな」
「お母様、来たいって言うかな」
「来ても面会には入れない」
「怒るかも」
「それはヴァレリアの問題だ」
ミレーヌは父の言葉を聞き、少しだけ複雑そうな顔をした。
母を嫌いになったわけではない。
今も好きだ。
自分を可愛がってくれた母であることは変わらない。
けれど、母から聞いていた姉の姿と、今少しずつ見えてきた事実が噛み合わない。
その違和感をどう考えればいいのか、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
午後、ロシュフォール公爵邸へ返答が届いた。
ミレーヌは三日後の午後二時で問題ない。
条件もすべて維持したまま受け入れる。
エレノアは南向きの小さな居間で、その報告をアルフォンスから聞いた。
「決まったんですね」
「うん。ただし、当日になってエレノアが無理だと思った場合は延期できる」
「ミレーヌが来たあとでも?」
「そこは少し難しくなるけれど、それでも会わなければならないわけではない。体調や精神状態が悪ければ、こちらから説明する」
「怒られませんか?」
「誰に?」
「ミレーヌとか、ロベルトお父様とか」
アルフォンスは少し考えた。
「怒る可能性がないとは言わない」
以前と同じように、優しい嘘で埋めない。
「でも、怒られる可能性があるから無理をする必要はない。約束を軽く扱っていいという意味でもないけれど、自分を傷つけてまで守らなければならない約束ではないよ」
「……はい」
「それと、当日の部屋を先に見ておく?」
エレノアは顔を上げた。
「見てもいいんですか?」
「もちろん。どこに座るかも決められる」
「見たいです」
アルフォンスとマルグリット、リディアとともに向かったのは、公爵邸一階の東側にある小応接室だった。
エレノアがこれまで報告を聞いていた南向きの居間とは別の場所で、来客用の大きな応接室よりかなり小さい。窓が二つあり、庭へ面している。中央には低い卓と椅子が四脚置かれ、隣室へ続く扉が一つ、廊下へ出る扉が一つある。
エレノアは入口で立ち止まり、部屋全体を見た。
「ここ?」
「候補の一つだよ」
アルフォンスは答える。
「嫌なら別の部屋にする」
エレノアは中へ入った。
扉から窓まで歩く。
椅子の位置を見る。
隣室への扉を開けてもらうと、その向こうには小さな書斎があった。
「お父様は、ここ?」
「エレノアがこの部屋を選ぶなら、私はここにいる」
「扉は?」
「開けておくことも、閉めておくこともできる」
エレノアは考えた。
開いている方が安心する気もする。
しかし、アルフォンスに会話を全部聞かれるのは少し嫌だった。
「閉めておいてください」
「分かった」
「でも、呼んだらすぐ来て」
「もちろん」
エレノアは面会室へ戻り、椅子の一つへ座った。
入口が見える位置。
窓も見える。
隣室の扉も近い。
「私はここがいいです」
「では、ミレーヌは向かい側?」
マルグリットが確認する。
エレノアは向かいの椅子を見る。
真正面だ。
少し圧迫感がある。
「ちょっとずらせますか?」
使用人に頼み、向かいの椅子を斜めへ移動してもらう。
真正面ではなく、互いに少し角度をつけて座れる位置になった。
「こっちがいいです」
「私の席は?」
マルグリットに尋ねられ、エレノアは自分の横ではなく、少し離れた場所を指した。
「ここにいてほしいです」
「ええ」
「話には、必要な時だけ入ってください」
「分かったわ」
マルグリットは嫌な顔をしない。
エレノアはさらに部屋を見回した。
卓の上には花瓶が置かれている。
白い花と淡い黄色の花。
「花はこのままがいいです」
「お茶は?」
「……出さないと失礼ですか?」
「そんなことはない」
「飲み物は欲しいです。でも、同じお茶を飲むのはちょっと嫌かもしれない」
自分で言ってから、その理由に気づいた。
ミレーヌとのお茶。
自分が何を食べていたのか、二人とも思い出せなかった時間。
「お水がいいです」
「分かった」
「ミレーヌはお茶が飲みたかったら、飲んでもいいです」
「それも確認しておこう」
エレノアは頷いた。
自分が水を選ぶからといって、ミレーヌも水でなければならないわけではない。
部屋を確認しているうちに、面会がますます具体的になっていく。
怖さも増した。
けれど、不思議と逃げたいだけではなかった。
「ここで会います」
エレノアは自分で決めた。
◇ ◇ ◇
部屋を出たあと、エレノアは予定していた南の小池へ向かった。
午前中の湿気はかなり引いており、腰掛けも庭師が拭いてくれていた。
今日はユリウスの姿はない。
池の周りには、風で落ちた葉が少しだけ残っている。
エレノアは腰掛けへ座った。
リディアは少し離れた位置に立っている。
魚が二匹、水面近くへ上がってきた。
「三日後かあ」
声に出す。
誰も答えない。
それでいい。
(何を聞こう)
好きな色。
これは聞いてみたい。
ドレスのことも、たぶん話す。
でも、最初から問い詰めるようにはしたくない。
ミレーヌの顔を見た瞬間、自分がどうなるかも分からない。
泣くかもしれない。
怖くなって何も言えなくなるかもしれない。
怒るかもしれない。
意外と普通に話せるかもしれない。
どれも、今は分からない。
「リディア」
「はい」
「当日、何も話せなくなったらどうしよう」
「その場合は、何も話さず終了することもできます」
「二十分ずっと黙ってても?」
「お嬢様がそうなさりたいのであれば」
エレノアは魚を見つめた。
「それ、すごく気まずそうです」
リディアが僅かに微笑んだ。
「そうかもしれません」
「否定しないんですね」
「気まずくないとは言い切れませんので」
エレノアは小さく笑った。
気まずくてもいい。
うまく話せなくてもいい。
姉らしく振る舞わなくてもいい。
ミレーヌを安心させるために笑わなくてもいい。
それでも、会ってみる。
そのことだけでいいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕刻、ベルナール伯爵邸では、ヴァレリアがロベルトから面会の日程を知らされていた。
「三日後ですって?」
「ああ」
「なぜ私にはもっと早く知らせなかったの?」
「今日決まったからだ」
「私も行きます」
「面会の条件で、君は同席しないことになっている」
ヴァレリアの表情が止まった。
「……エレノアがそう言ったの?」
「そうだ」
「十五歳の子供だけで、そんな条件を?」
ロベルトはその言葉へすぐ反応した。
「一人で決めたかどうかを問題にするつもりか?」
「当然でしょう。ロシュフォール公爵家に囲まれているのよ。あの子が本当に自分の意思で私を拒んでいるのか、あなたには分かるの?」
「少なくとも、私はエレノア本人の言葉を無視して、君の推測を優先するつもりはない」
「推測?」
ヴァレリアの声が僅かに鋭くなる。
「私はあの子を育ててきたのよ」
「その『育ててきた』結果を今調べている」
室内の空気が張った。
ヴァレリアはしばらくロベルトを見つめていたが、やがて視線を逸らした。
「ミレーヌは一人で行かせるの?」
「護衛とコレットを付ける。面会室にはマルグリット公爵夫人が同席する」
「ロシュフォールの人間だけじゃない」
「ミレーヌが嫌なら断る権利があった。本人は条件を受け入れた」
「ミレーヌが?」
「ああ」
ヴァレリアの指先が僅かに動く。
「……あの子に、余計なことを言わせないで」
ロベルトの目が細くなった。
「余計なこととは何だ」
「違うわ。そういう意味じゃないの」
ヴァレリアはすぐに言葉を整えた。
「ミレーヌはまだ混乱しているでしょう。自分が悪かったと思い込んで、必要以上に自分を責めるようなことにならないでほしいだけ」
「なら、それはミレーヌ自身と話すべきことだ。ただし、何を話すなと指示することは認めない」
「娘に助言することまで禁じるの?」
「面会内容を誘導するなと言っている」
ヴァレリアは黙った。
ロベルトは続ける。
「それから、ナタリー・ヴェルヌについても同じだ。こちらから許可するまで接触しないように」
「まだ疑っているの?」
「疑うか信じるかの二択で調査しているわけではない」
「最近のあなたは、そればかりね」
「今までしなさすぎた」
ヴァレリアは何も答えなかった。
その顔には怒りだけではなく、焦りとも不安とも取れる色が浮かんでいた。
しかし、それが何を意味するのかをロベルトは決めつけなかった。
表情は証拠ではない。
今必要なのは、ヴァレリアの顔から答えを作ることではなく、残っている記録と独立した証言を一つずつ確かめることだった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室で三日後の面会について記録した。
『三日後の午後二時』
『東側の小応接室』
『私は入口と窓と隣室の扉が見える席』
『ミレーヌの椅子は真正面ではなく少し斜め』
『お祖母様は少し離れたところ』
『お父様は隣室。扉は閉める。でも呼んだら来てもらう』
『二十分』
『途中でやめてもいい』
『私は水』
そこまで書いて、ペンを止めた。
面会の条件ばかりが並んでいる。
その下に、今日考えたことを書き加える。
『ミレーヌの好きな色を聞いてみたい』
文字にすると、少し可笑しい。
もっと重大なことを書くべき場所のように思えたのに、そこへ「好きな色」と書かれている。
けれど消さなかった。
さらに続ける。
『何も話せなくてもいい』
『泣いても、怒っても、途中で終わってもいい』
ここでエレノアは少し迷った。
以前なら、「ちゃんと話さなければ」と書いただろう。
姉なのだから。
相手がわざわざ来るのだから。
時間を作ってもらうのだから。
そんな理由を並べ、自分が耐える方を選んだはずだ。
今は違う。
『うまく会えなくても、会おうと決めたことまで失敗にはならない』
書き終えたあと、エレノアは長くその一文を見つめた。
三日後、何が起きるかは分からない。
ミレーヌが何を言うかも、自分が何を感じるかも分からない。
前の人生の記憶がどれほど強く蘇るかも分からない。
それでも、部屋を見た。
座る場所を決めた。
時間を決めた。
同席者を決めた。
自分が水を飲むことまで決めた。
逃げ道も作った。
その全部を、自分で選んだ。
エレノアはペンを置き、机の端にある灰青色の帳面へ目を向けた。
今日も開けなかった。
けれど、開けなかったことを記録する必要さえない気がした。
帳面は、開ける日が来るまでそこにあればいい。
母の絵も、妹との面会も、失われた髪飾りも、見つからない木箱も、すべてを同じ速さで進める必要はない。
エレノアは寝台脇へ移動し、空の肖像枠を見た。
「お母様」
声にしてから、少しだけ考える。
「三日後、ミレーヌに会います」
もちろん返事はない。
「怖いです」
それでも、今日は続けられた。
「でも、私が会うって決めました」
胸の奥に、怖さとは別の温かさが生まれる。
誰かに命じられた面会ではない。
父に「姉妹なのだから仲良くしなさい」と言われたわけでもない。
マルグリットに勧められたわけでもない。
アルフォンスが必要だと決めたわけでもない。
自分が、今のミレーヌを見てみたいと思った。
だから会う。
エレノアは肖像枠へ小さく笑いかけてから、寝台へ入った。
灯りを消したあとも、三日後という日付は頭の中に残っていた。
怖さは消えない。
けれど、その怖さに追い立てられているのではなく、自分で決めた日へ少しずつ近づいていくのだと思えば、呼吸は乱れなかった。
(ミレーヌは、何色が好きなんだろう)
最後に浮かんだのは、処刑台でも、失われたドレスでもなかった。
まだ答えを知らない、ひどく小さな問いだった。
エレノアはその答えを三日後に聞けるかもしれないと思いながら、静かに目を閉じた。




