第35話 知ることと、会うことは別だから
ミレーヌと会う日を決めた翌朝、エレノアはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るくなり始めたばかりで、厚いカーテンの隙間から入り込む光も弱い。屋敷の中には使用人たちが動き始める微かな気配があるものの、昼間のような生活音には遠く、静かな時間が部屋の中に残っていた。
寝台に横になったまま、エレノアは昨日決めた日を思い出す。
二日後の午後二時。
東側の小応接室。
最長二十分。
マルグリットが同席し、アルフォンスは隣室で待機する。身体には触れない。急に距離を詰めない。途中で嫌になったら、その時点で終わっていい。
そこまで思い返したところで、胸の奥が少しだけ硬くなった。
(あと二日)
昨日は三日後だった。
一晩眠れば、当然一日近づく。
分かっていたことなのに、数字が小さくなると急に現実味が増したように感じられた。
エレノアは掛け布団の上から胸元へ手を置き、ゆっくり息を吐いた。心臓は少し速いが、息苦しいほどではない。
(怖い。でも、今すぐ何かを決め直さなくてもいい)
今日になったからといって、面会のことだけを考えて過ごす必要はない。
むしろ、そうしないために日を空けたのだ。
扉が叩かれるより先に寝台から降りると、エレノアは小卓の上に置かれた空の肖像枠へ目を向けた。中には相変わらず何もないが、今ではその空白を見るたびに、紙包みから見つかった幼い絵も一緒に思い出すようになっている。
「おはようございます、お母様」
小さく声をかけてから、少しだけ照れくさくなった。
誰にも聞かれていない。
それでも、母へ挨拶をしたというだけで、朝が昨日までとは少し違って感じられた。
ほどなくして扉が叩かれ、リディアの声が聞こえる。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。今日はもう起きています」
入室したリディアは、寝台から離れているエレノアを見ても驚くことなく、いつものように朝の挨拶をした。
「カーテンを開けてもよろしいでしょうか」
「はい。全部お願いします」
朝の光が部屋へ入り、机の上の物を照らす。
生成りの布に包まれた三枚の紙。
まだ閉じられたままの灰青色の帳面。
昨日書いた記録。
エレノアは帳面を一度見たが、開けたいとは思わなかった。
それよりも今日は、池へ行きたい。
「リディア、朝ごはんのあと、池に行きたいです」
「かしこまりました。昨日の雨によるぬかるみが残っていないか、先に確認してもらいます」
「お願いします」
「本日のお召し物はいかがなさいますか?」
エレノアは衣装棚の前へ移動した。
昨日は薄緑色だった。
今日は何色がいいだろう。
数着を見比べているうち、淡い黄色のドレスに目が止まる。
「これにします」
「かしこまりました」
その隣には、以前から何となく落ち着かない気持ちになる桃色のドレスが掛かっていた。
嫌いだと決めたわけではない。
捨てたいとも思っていない。
けれど今日も選びたいとは思わなかった。
エレノアは桃色の布地を少しだけ眺め、それから黄色のドレスへ手を添えた。
「今日は、こっちがいいです」
「はい」
理由を説明しなくても、リディアは尋ねなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、焼きたてのパンと野菜を煮込んだスープ、それに白身魚を小さく焼いた料理が用意されていた。
エレノアは魚を一口食べてから、以前好きだと伝えた香草とは違う味であることに気づいた。
「今日のも、おいしいです」
近くにいた使用人へそう伝える。
「マティアスへお伝えいたします」
「お願いします」
今日はパンを一つ取ったが、食事を進めるうちに全部はいらない気がしてきた。半分ほど残ったところで手を止め、以前なら感じていた「取ったのだから食べなければ」という焦りがほとんど出てこないことに気づく。
少しだけ嬉しくなった。
「今日はここまでにします」
使用人が自然に皿を下げる。
誰も残した量を責めない。
マルグリットもアルフォンスも、食事を残したことを特別な出来事として扱わなかった。
その普通さが、エレノアには心地よかった。
食後の温かい飲み物を少し口にしていると、アルフォンスが声をかけてきた。
「エレノア。今日、こちらから確認したいことが二つある」
エレノアの手が止まる。
調査に関することだろう。
以前なら、その場ですぐ聞かなければならないと思ったかもしれない。だが今は、まず自分の予定を思い出した。
「急ぎですか?」
「どちらも急ぎではない」
「今日じゃなくても?」
「構わない」
「……じゃあ、池から帰ってきてから聞くか決めてもいいですか?」
「もちろん」
アルフォンスは内容を先に口にしなかった。
「何についてかだけ、聞いてもいいですか?」
「ああ。一つはベルナール家で以前働いていた者について。もう一つは、旧室の鍵についてだ」
エレノアの指先が僅かに強張った。
鍵。
旧室の机。
左下の、まだ開けられていない収納。
以前、古い部屋の一覧を見た時に浮かんだ曖昧な感覚が蘇る。自分が何かを書いていたような、何かを隠そうとしていたような、それでも最後までは掴めなかった記憶。
「鍵……見つかったんですか?」
「それも含めて、今は答えないでおくよ。内容を聞くと決めてから話す」
エレノアは少し驚いた。
質問したのは自分だ。
それでもアルフォンスは、聞くと決める前に答えを流し込まなかった。
「……はい」
「池へ行っておいで」
「お父様は、気にならないんですか?」
「何が?」
「私がすぐ聞かないの」
アルフォンスは少し考えたあと、苦笑した。
「私自身は気になるよ。調査の報告を受けたら、早く整理したくなる性格だからね」
「じゃあ、私が後にするの、もどかしい?」
「少しは」
正直な答えに、エレノアは瞬きをした。
「でも、それは私の気持ちだ。エレノアが今すぐ聞かなければならない理由にはならない」
その言葉を聞き、エレノアは温かい飲み物の入った杯を両手で包んだ。
「じゃあ、池に行ってきます」
「うん」
「帰ってから、聞きたいか考えます」
アルフォンスは頷いた。
◇ ◇ ◇
南の小池へ続く道は、昨日より乾いていた。
念のため先に状態を見てもらっていたため、リディアとエレノアはぬかるみの少ない道を選んで歩く。朝の空気は冷たかったが、雲の切れ間から日が差しており、濡れていた石や葉がところどころ光っていた。
池の近くでは、ユリウスが低木の枝を整えていた。
「おはようございます、エレノア様」
「おはようございます」
「腰掛けは乾いております。今朝、確認いたしました」
「ありがとうございます」
エレノアはいつもの腰掛けへ座った。
池の水面は穏やかで、昨日よりも魚の姿が見つけやすい。細い魚が水草の間を抜け、少し大きな魚がその後ろからゆっくりついていく。
エレノアはしばらく黙って眺めた。
調査のことを考えないようにしようとすると、かえって「鍵」という言葉が頭へ浮かぶ。
(気になる)
それは否定しようがなかった。
けれど、気になるからすぐに聞かなければならないわけではない。
今は池にいる。
魚を見たいと思ってここへ来た。
その時間まで調査に渡してしまう必要はない。
「今日は、あの魚がよく見えます」
エレノアが水面を指すと、リディアが視線を向けた。
「少し大きな魚でございますか?」
「はい。前にも見た気がします」
「同じ魚かもしれませんし、違う魚かもしれませんね」
「分からない?」
「私には見分けがつきません」
「私もです」
エレノアは笑った。
分からないことが、ここにもある。
けれど、魚の見分けがつかないことは怖くない。
知らないこと全部が恐ろしいわけではないのだ。
「ユリウスさんは、魚を見分けられますか?」
少し離れたところで作業していたユリウスへ尋ねると、彼は鋏を止めて池を見た。
「特徴のあるものなら、何匹かは分かります。ただ、全部は無理ですね」
「ずっとここで働いてても?」
「はい。分からないものは分かりません」
「困らないんですか?」
「必要なら調べますし、必要でなければ、そのままのこともあります」
以前にも似たことを言われた気がする。
知らないものを、全部知らなければならないわけではない。
エレノアは池へ視線を戻した。
(でも、鍵のことは知りたい)
それは、今の自分が知りたいと思っている。
母の箱とは違うかもしれない。
青い髪飾りとも関係ないかもしれない。
それでも、昔の自分が何かを鍵のかかる場所へしまっていたのなら、今の自分は少し気になる。
そしてもう一つ。
以前働いていた者。
おそらくナタリー・ヴェルヌのことだろう。
エレノアはその名前を知っている。
赤茶色の髪で細身だったという昔の侍女と、条件が似ている人物。
けれど同じ人物かどうかは分からない。
自分の記憶にある赤茶色の髪の人物とも、まだ結びついていない。
「リディア」
「はい」
「帰ったら、聞こうと思います」
「二つともでございますか?」
エレノアは少し考えた。
「鍵は聞きたいです。もう一つは……何が分かったかの最初だけ聞いて、嫌だったら止めてもいいですか?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、そうします」
決めたあとも、すぐに立ち上がることはしなかった。
魚をもう少し見る。
自分でここへ来たいと決めた時間だからだ。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では同じころ、ロベルトが二つの報告書を並べていた。
一つはナタリー・ヴェルヌの婚姻記録と、その後の住所確認。
もう一つは、エレノアの旧室にある施錠された机の収納についての証言整理だった。
家令が向かいに立っている。
「ナタリー・ヴェルヌについては、婚姻後の氏名をナタリー・グレイとする記録が確認できました」
「現在地は?」
「婚姻時に届け出られたセレディア西側外縁区の住所には、現在住んでおりません」
「いつ移った?」
「正確な時期を確認中です。近隣への聞き込みは、伯爵家の名を出さず、住民情報を不用意に広げない範囲に留めています。現時点では、ダニエル・グレイが以前勤めていた織物商を辞めた後、夫婦で転居した可能性が高いというところまでです」
「可能性、だな」
「はい。転居先はまだ確定しておりません」
ロベルトは報告書の該当箇所を見る。
ナタリーが見つかったわけではない。
証言を取れたわけでもない。
まして、何かに関与したと判明したわけでもない。
「他の旧侍女は?」
「ナタリーの前後にヴァレリア様へ直接仕えていた者のうち、二名の所在を確認しております。一名は王都内、一名は南東部です。まだ接触しておりません」
「そのままにしろ。順序を決める前に、それぞれの勤務期間と担当範囲を比較する」
「承知いたしました」
「ナタリーだけを特別扱いするな。ギュスターヴの記憶と身体的特徴が近いというだけだ」
「はい」
ロベルトはもう一方の書類へ手を移した。
「鍵は?」
「マルタは、エレノア様が小さな真鍮色の鍵を使っていたところを複数回見た記憶があると証言しております。場所については、机の左下の収納だった可能性が高いとのことですが、鍵をどこへ保管していたかは覚えておりません」
「ノエルは?」
「自分が仕えていた期間には、机の左下が施錠されていたことは知っていたものの、エレノア様が開けるところを直接見た記憶はないとのことです。鍵そのものについても明確な記憶はありません」
「ベアトリスは、質問で場所を示す前に『机の鍵』と言った」
「はい。また、左下が施錠されていたことも把握していました。ただし、鍵を直接見たかどうかは曖昧で、収納を開けたことも、鍵の保管場所を知っていたことも否定しております」
ロベルトは眉間へ指を当てた。
「私の曖昧な記憶は?」
「記録しておりません」
「それでいい」
以前、自分にも小さな鍵を見たような感覚があった。
だが、いつ、どこで、誰が持っていたのか説明できない。
他人の証言を聞いたあとで浮かんだ記憶ほど慎重に扱う必要がある。
「共通鍵の保管場所には?」
「該当するものはありません。管理台帳にも、エレノア様の私物机の鍵を預かった記録は確認できませんでした」
「旧室の他の収納を探したか?」
「いいえ。エレノア様から許可された範囲外です」
「それでいい」
ロベルトは短く息を吐いた。
鍵が見つからない。
だが、見つからないからといって、机を壊していい理由にはならない。
「この内容をロシュフォールへ送る。事実と証言者の推測を分けろ。特にマルタの『机の左下だった可能性』を確定事項として書くな」
「承知いたしました」
「ナタリーについても、現在地未確定のまま送れ。『見つかった』と読める書き方はするな」
家令が一礼する。
ロベルトは書類を閉じた。
以前の自分なら、答えの出ない報告に苛立ったかもしれない。
今も焦りはある。
だが、その焦りを埋めるために推測を事実へ変えれば、結局エレノアが何をされたのかを再び見誤ることになる。
それだけは繰り返してはならなかった。
◇ ◇ ◇
池から戻ったエレノアは、すぐには報告を聞かなかった。
手を洗い、少し休んでから、昼食前に聞きたいと自分で決めた。
場所には、南向きの小さな居間を選んだ。
誰に同席してほしいか尋ねられ、今日はアルフォンスだけにした。マルグリットにもセドリックにも、聞いたあとで必要なら話すことができる。
リディアはいつも通り扉の近くに控えている。
エレノアは椅子へ座ると、まず自分から言った。
「鍵の方から聞きたいです」
「分かった」
アルフォンスは書面を開いた。
「最初に大事なことを言うね。鍵そのものは、まだ見つかっていない」
「……はい」
少しだけ肩の力が抜けた。
見つかったのではないかと思っていた。
残念なのか、安心なのか、自分でもよく分からない。
「マルタが、昔のエレノアが小さな真鍮色の鍵を持っていたところを何度か見たと証言した」
エレノアの指先が動いた。
「私が?」
「ああ。ただし、マルタ自身も鍵の保管場所は覚えていない。机の左下の収納に使っていた可能性が高いと考えているけれど、そこは彼女の記憶と推測が混ざっているので、確定とは扱っていない」
エレノアは自分の右手を見る。
小さな鍵。
真鍮色。
その言葉を頭の中で繰り返す。
何かが浮かびそうな感覚はある。
けれど、形にはならない。
「私……前に、鍵のことをちょっと思い出しそうになりました」
「うん」
「でも、どこに置いたかは分からないです」
「思い出そうとしなくていいよ」
「ノエルさんは?」
「左下の収納が施錠されていたことは知っていた。ただ、エレノアが開けるところや鍵そのものについては、はっきり覚えていない」
「ベアトリスさんは?」
アルフォンスは少し間を置いた。
「質問する側が机だと教える前に、『机の鍵でしょうか』と答えた。それから、左下が施錠されていたことも知っていた」
エレノアの背中が僅かに強張る。
「じゃあ、ベアトリスさんが鍵を持ってた?」
「それは分からない」
すぐに否定されたことで、エレノアは息を止めかけた自分に気づいた。
「彼女は、鍵を直接見たかどうかも明確には覚えていないと言っている。収納を開けたこと、開けるよう命じられたこと、鍵の保管場所を知っていたことは否定した」
「嘘かもしれない?」
「可能性を完全には否定できない。でも、今の証言だけで嘘だとも言えない」
「……はい」
エレノアは膝の上の手を見た。
ベアトリスは母の木箱を部屋から持ち出し、ヴァレリアへ渡した人物だ。
食事に関する指示書にも署名がある。
だから、鍵についても何かしたのではないかと思いたくなる。
しかし、それはまだ分からない。
(嫌いとか、怖いとか、疑うことと、やったって決めることは違う)
以前、自分で言ったことだ。
「共通の鍵を置く場所には?」
「なかった。管理記録にも預かった記録はない」
「私の昔の部屋を探したんですか?」
「エレノアが許可していない場所は探していない」
エレノアは顔を上げた。
「本当に?」
「本当に」
「鍵を探すためでも?」
「ああ。お前は、共通の鍵の保管場所、管理記録、証言の確認までは許可した。でも、鍵を探すために自分の私物収納を勝手に開けていいとは言っていない」
胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。
「よかった」
その言葉が自然に出た。
「鍵は気になります。でも、だからって全部開けられるのは嫌です」
「その条件は守る」
「机も壊してない?」
「壊していない」
「……よかった」
エレノアはもう一度言った。
鍵は見つからなかった。
けれど、それを失敗だとは思わなかった。
自分が決めた境界を守ったまま、少しだけ情報が増えた。
「鍵の話は、ここまでで大丈夫です」
「分かった」
アルフォンスは書面の該当箇所を閉じるように手で押さえた。
「もう一つはどうする?」
ナタリー。
エレノアはその名前を心の中で呼んだ。
「最初だけ聞きます」
「途中で止める?」
「嫌になったら止めます」
「分かった」
アルフォンスは別の報告へ移る。
「ナタリー・ヴェルヌが、結婚後にナタリー・グレイという姓になったことは、婚姻記録から確認された」
エレノアはゆっくり瞬きをした。
「グレイ……」
「夫はダニエル・グレイ。以前は王都北側の織物商で帳簿関係の仕事をしていた。店は昨年、店主が高齢になったため閉じている。ダニエルはその半年ほど前に辞めている」
「ナタリーさんは、見つかったんですか?」
「まだだ」
エレノアは息を吐いた。
「婚姻時の住所は確認できた。でも、今はそこに住んでいない。いつ転居したのか、どこへ移ったのかは調べている途中だ」
「逃げたんですか?」
質問した直後、自分で気づく。
「……違いますね。それもまだ分からない」
「うん。普通の転居かもしれない。夫の仕事に伴うものかもしれない。理由はまだ何も分かっていない」
「ほかの人も調べてるんですよね?」
「ああ。ナタリーだけに絞らず、前後の時期にヴァレリアへ直接仕えていた者も比較している。二人は所在が分かっているけれど、まだ接触していない」
「どうして?」
「証言を取る順番を考えているからだそうだ。誰か一人の話を基準にして、ほかの人へ同じ話を聞かせると、記憶が混ざる可能性がある」
エレノアは少し考えた。
「ギュスターヴさんの話も?」
「そうだね。『赤茶色の髪で細身の侍女が木箱に関係していた』と先に教えてから聞けば、相手が本当は覚えていなくても、その人物を思い浮かべてしまうかもしれない」
「だから、言わないで聞く?」
「できる限りね」
エレノアはそこで一度、報告を止めてもらった。
嫌になったわけではない。
ただ、考えたかった。
「お父様」
「うん?」
「ヴァレリア様には、ナタリーさんのことを聞いたんですよね」
以前、自分が知りたいと頼んでいたことだ。
アルフォンスは頷いた。
「その報告も来ている。エレノアが以前、結果を知りたいと言っていたから、こちらでは保留していた」
「……今日、聞いてもいいです」
「今?」
エレノアは胸の内を確かめる。
鍵の話。
ナタリーの婚姻と転居。
もう十分だと思えば、ここで止められる。
それでも、ヴァレリアが何を答えたのかは知りたかった。
「はい。でも、それを聞いたら今日は調査の話を終わりにします」
「分かった」
アルフォンスは急がず、報告の該当部分を確認した。
「ロベルトがヴァレリアへ、ナタリーについて尋ねた。ヴァレリアは、以前自分に仕えていた侍女で、物静かで仕事ができたと記憶しているそうだ。結婚で辞めたことも覚えていた」
「箱のことは?」
「ナタリーと箱を結びつける質問はしていない」
「どうして?」
「ギュスターヴの証言を先に教えたくなかったからだと思う。『赤茶色の髪の侍女が箱を運んだか』と聞けば、それ自体が情報になるからね」
「……そっか」
「それから、ロベルトはヴァレリアへ、ナタリーに連絡しないよう伝えている」
「ヴァレリア様は?」
「なぜ疑っているのかと尋ねたそうだ。ただ、ナタリーへ連絡すると言ったわけではない」
エレノアは黙って聞いた。
「もう一つ。以前、ヴァレリアがエレノアについて『一人でいるのが好き』『お茶が好きではない』『派手な服を好まない』というような説明を周囲へしていた件も、ロベルトが尋ねている」
胸の奥が少しざわつく。
「何て言いました?」
「エレノアが静かにしていることが多かったことや、『何でもいい』と答えることが多かったため、そう判断したという説明だった。本人へ一つずつ直接確認したかについては、明確な記憶がないそうだ」
「……私が言ったんじゃない?」
「少なくとも、今のところ『エレノア本人がそう言った』と確認できる証拠はない」
エレノアは唇を閉じた。
昔の自分が何を言ったのか、全部は覚えていない。
もしかしたら、本当に「何でもいい」と答えたことはあるのだろう。
けれど。
(何でもいいって言ったら、何も好きじゃないことになるの?)
今なら違うと分かる。
怖くて選べないこともある。
どう答えれば怒られないか考えて「何でもいい」と言うこともある。
本当にどちらでもいいこともある。
一つの言葉だけで、その人の好み全部を決めることはできない。
「ヴァレリア様は、本当に私が一人が好きだと思ってたのかな」
「分からない」
「嘘をついてたのかもしれない?」
「それも分からない」
「本当にそう思い込んでたのかもしれない?」
「ああ」
エレノアは椅子の背へ身体を預けた。
「分からないこと、多いですね」
「多いね」
アルフォンスも否定しない。
「でも、前より嫌じゃないです」
「分からないことが?」
「はい。ちょっと嫌ですけど」
エレノアは僅かに笑った。
「全部分からないと怖かった時よりは、少しだけ」
そして、自分から言った。
「今日はここまでにします」
「分かった」
アルフォンスは報告書を閉じた。
「昼食にする?」
「はい。お腹空きました」
その言葉を口にした瞬間、エレノアは自分で少し驚いた。
母の遺品。
鍵。
昔の侍女。
ヴァレリア。
重い話をしたあとでも、お腹は空く。
以前なら、そのことを不謹慎だと思ったかもしれない。
今は違った。
「今日の昼ごはん、何ですか?」
「それは私も知らないな」
「お父様でも知らないんですね」
「公爵だからといって、昼食の献立を全部把握しているわけじゃないよ」
エレノアは笑いながら立ち上がった。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアは少し昼寝をした。
調査報告を聞いた日は頭の中がいっぱいになりやすいことを、自分でも分かり始めている。
以前なら「昼間から眠るなんて」と自分を責めただろう。
今日はリディアへ「少し寝ます」と伝え、寝台へ横になった。
目を覚ましたのは一時間ほど後だった。
起きた時、最初に思い出したのはナタリーでも鍵でもなかった。
ミレーヌだった。
(あと二日)
胸が少しだけ重くなる。
それでも、昼寝をしたことを後悔はしなかった。
午後は刺繍をしたい。
そう思って起き上がると、リディアが温かい飲み物を用意してくれた。
エレノアは窓辺の椅子へ座り、刺繍布を広げた。
三つの星。
二匹の魚。
水草。
泡。
斜めになった小さな葉。
今日は何を増やそうかと考える。
「花にします」
「何のお花になさいますか?」
「野薔薇……は、難しいかな」
「図案を用意いたしましょうか?」
エレノアは少し迷った。
母が好きだった花。
きれいに刺したい気持ちはある。
けれど、完璧な野薔薇でなければ母を思ってはいけないわけではない。
「自分でやってみます」
「かしこまりました」
「たぶん、変な花になります」
「それも完成してからのお楽しみでございますね」
エレノアは青ではなく、淡い赤色の糸を選んだ。
最初の一針を入れる。
花びらの位置が少しずれた。
もう一針。
思っていた形とは違う。
それでも抜かなかった。
(お母様も、花びらを多く描いたって言ってた)
マルグリットから聞いた母の話を思い出す。
完璧ではなかった母。
庭の花を摘みすぎて叱られた母。
野薔薇の花びらを多く描いてしまった母。
そういう母を知るたび、遠い肖像の中の人ではなく、自分と同じように間違えたり笑ったりした人だったのだと思える。
刺繍の花びらを一枚増やしたところで、扉が叩かれた。
リディアが応対すると、マルグリットだった。
「入ってもいい?」
「はい」
マルグリットはエレノアの向かいへ座り、刺繍布を覗き込む。
「あら、花が増えたのね」
「野薔薇にしようと思ったんですけど、もうちょっと違う気がします」
「まだ途中でしょう?」
「完成しても違うかもしれません」
「それなら、エレノアの野薔薇ね」
その言い方が気に入り、エレノアは笑った。
少し刺繍を進めてから、エレノアは手を止めた。
「お祖母様」
「なあに?」
「ミレーヌと会う時、最初に何を言えばいいと思いますか?」
マルグリットはすぐに答えなかった。
「私に決めてほしい?」
「……少しだけ」
「では、選択肢を考える手伝いならできるわ」
「はい」
「挨拶をしてもいい。久しぶりと言ってもいい。何を言えばいいか分からないと、そのまま言ってもいい。ミレーヌが先に話すのを待ってもいいわね」
「何も言わなくても?」
「しばらくなら、それでもいいと思うわ」
エレノアは刺繍針を布へ刺したまま考える。
「お久しぶりです、は変ですか? そんなに長く会ってないわけじゃないし」
「変ではないけれど、言いたくなければ言わなくていいわ」
「ミレーヌって呼べるかな」
その名前を口にしただけで、前の人生の光景が一瞬浮かんだ。
黒い喪服のようなドレス。
泣きそうな顔。
その肩を抱くレオナード。
処刑台へ連れていかれる自分。
エレノアの指が止まる。
マルグリットは何も言わず待った。
エレノアは呼吸を整え、今いる部屋を見た。
窓。
午後の光。
刺繍布。
淡い赤の糸。
向かいに座る祖母。
ここは処刑場ではない。
ミレーヌと会うのも、あの日ではない。
「……やっぱり、ちょっと怖いです」
「ええ」
「名前を言うだけでも」
「なら、当日に無理をしなくていい」
「でも、呼びたい気もします」
「それも当日決めればいいわ」
エレノアは頷いた。
「練習しなくてもいい?」
「面会は試験ではないもの」
その言葉に、肩の力が抜けた。
「私、ちゃんとできるように準備しなきゃって思ってました」
「部屋や時間を準備することと、会話を正解通りに練習することは別でしょう?」
「……そうですね」
「それに、ミレーヌだって予定通りの言葉を話すとは限らないわ」
「そうか」
自分だけが準備する場ではない。
二人で会うのだ。
ミレーヌにも感情があり、考えていることがあり、言いたいことがある。
「じゃあ、好きな色だけ聞けたらいいな」
「それを聞きたいの?」
「はい」
エレノアは少し照れながら笑った。
「私、ミレーヌの好きな色、知らないんです」
「そう」
「たぶん桃色だと思ってました。でも、本当にそうなのかは聞いたことがないから」
「では、聞けそうなら聞いてみればいいわ」
「大事な話をしないで終わっちゃっても?」
「その二十分で何が大事かを決めるのは、あなたたちでしょう」
エレノアはその言葉を胸の中で繰り返した。
調査のための面会ではない。
証言を取るためでもない。
誰かが用意した姉妹らしさを演じるためでもない。
今の自分が、今のミレーヌを知るために会う。
それなら、好きな色を聞くことだって無意味ではない。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室の衣装棚の前で悩んでいた。
「これは?」
コレットが薄い青色のドレスを取り出す。
ミレーヌは鏡の前で身体へ当ててみた。
「似合わない?」
「私はお似合いだと思います」
「お母様は、青は顔色が悪く見えるって言ってた」
「では、おやめになりますか?」
「……分かんない」
コレットは無理に勧めなかった。
衣装棚には桃色や淡い赤の服が多い。
ヴァレリアが選んだものもあれば、ミレーヌ自身が気に入って買ってもらったものもある。
けれど、どれがどちらだったのかを考え始めると、意外なほど曖昧だった。
「私、桃色は好きなの」
「はい」
「でも、一番好きかは分かんない」
「では、一番を決めずともよろしいのでは?」
コレットの答えに、ミレーヌは鏡越しに彼女を見る。
「みんな、そういうこと言うようになった」
「皆様とは?」
「お父様とか」
少し考え、ミレーヌは付け足す。
「お姉様も、たぶんそういうこと考えてる気がする」
実際にエレノアから聞いたわけではない。
だから、それ以上は決めつけない。
「青、着てみようかな」
「では、お召しになってみますか?」
「今日?」
「はい。面会の日まで取っておく必要はございませんので」
ミレーヌは少し考え、頷いた。
着替えてみる。
鏡の中の自分は、いつもより少し大人しく見えた。
「変?」
「いいえ」
「コレット、本当に似合わなかったら言う?」
「お嬢様がお望みなら」
「言って」
「では申し上げますが、先ほどの桃色の方が、お顔は明るく見えました。ただ、こちらの青も私は好きです」
「どっちなの」
「似合うことと、私が好きなことは同じではございませんので」
ミレーヌは一瞬黙り、そのあと吹き出した。
「それ、面倒くさい」
「申し訳ございません」
「謝らなくていい。ちょっと面白かっただけ」
ミレーヌはもう一度鏡を見る。
「これでお姉様に会ったら、どう思うかな」
「私には分かりません」
「そうだよね」
以前なら、「きっとお似合いだと言ってくださいます」と答えてほしかったかもしれない。
今は、分からないと言われても少しだけ平気だった。
「面会の日は、当日の朝に決める」
「承知いたしました」
「桃色でも青でも、それ以外でもいい」
そう言ってから、ミレーヌは鏡の中の自分へ少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
夜になり、エレノアは今日の記録をつけた。
『昔の私は、小さな真鍮色の鍵を持っていたらしい』
『マルタさんは何度か見た』
『鍵はまだ見つかっていない』
『ベアトリスさんは、机の左下が鍵付きだったことを知っていた』
『でも、鍵を持っていたかは分からない』
事実と、分からないことを分ける。
続いてナタリーについて書いた。
『ナタリー・ヴェルヌは、結婚してナタリー・グレイになったことが確認された』
『夫はダニエル・グレイ』
『昔の住所には今はいない』
『今どこにいるかは、まだ分からない』
『引っ越した理由も分からない』
『赤茶色の髪の人と同じ人かは、まだ分からない』
最後の一行を書いた時、少しだけ手が止まった。
以前の自分なら、「きっとこの人だ」と思ったかもしれない。
怖い記憶へ名前をつければ、分からないものが減るから。
けれど、間違った名前をつけてしまえば、本当に何が起きたのかが見えなくなる。
エレノアはさらに続けた。
『ヴァレリア様は、私が一人でいるのが好きだと思っていたと言っている』
そこで一度、ペンを止める。
正確には、「そう判断した」と説明している。
エレノアは書き直した。
『ヴァレリア様は、私が静かで「何でもいい」と言うことが多かったので、一人でいることや派手でない服を好むと判断したと説明している』
『本当にそう思っていたのか、別の理由があったのかは分からない』
事実を、自分の怒りに合わせて変えない。
それはヴァレリアを庇うことではない。
自分のためだ。
本当に起きたことを知りたいから。
そこまで書いてから、エレノアは紙を一枚めくった。
今度は調査ではなく、自分のことを書く。
『今日は調査の話を聞いた』
『でも、その前に池へ行った』
『聞いたあとで昼ごはんを食べて、昼寝もした』
『調査をしている日でも、普通のことをしていい』
そして、最後に二日後のことを書いた。
『ミレーヌと会うまで、あと二日』
胸が少し速く鳴る。
『まだ怖い』
ここで、以前なら「でも頑張る」と書いたかもしれない。
エレノアは少し考えてから、違う言葉を選んだ。
『怖いことを消すために、明日一日を使わなくていい』
書いた文字を見つめる。
明日も朝食を食べる。
池へ行きたければ行く。
刺繍をしたければする。
調査の報告が来ても、聞くかどうかを選ぶ。
灰青色の帳面も、開きたくなければ開かない。
面会の練習もしなくていい。
二日後に会うからといって、それまでの時間全部が「ミレーヌと会うための準備」になるわけではない。
エレノアは記録を閉じ、刺繍布を取り出した。
午後に始めた野薔薇らしき花は、まだ途中だった。
花びらは少し多い。
形も左右で揃っていない。
それでも、母が描いた花も花びらが多かったと聞いたことを思い出すと、このままでもいいように思えた。
エレノアは淡い赤の糸をもう一度針へ通し、二針だけ進めた。
完成させる必要はない。
今日はここまでにしたいと思ったところで針を置く。
それから寝台脇の小卓へ向かい、空の肖像枠を見た。
「お母様」
今日も小さく呼ぶ。
「ミレーヌと会うまで、あと二日です」
言葉にすると、やはり少し怖い。
「でも、明日は明日のことをします」
誰も返事をしない部屋で、エレノアは自分の言葉に頷いた。
机の上には、まだ開かれていない灰青色の帳面がある。
ベルナール家の旧室には、まだ開かれていない机の左下の収納がある。
どこかには、まだ見つかっていない小さな真鍮色の鍵があるかもしれない。
ナタリー・グレイが今どこにいるのかも分からない。
母の肖像も、木箱も、青い髪飾りも見つかっていない。
ミレーヌと会えば何が変わるのかも分からない。
分からないものは、まだたくさんある。
けれど、それらすべてを今夜のうちに知る必要はなかった。
エレノアは灯りを落とす前に、今日一日を思い返した。
池で魚を見た。
鍵について知った。
ナタリーの新しい姓を知った。
ヴァレリアの説明を聞いた。
昼食を食べた。
昼寝をした。
刺繍をした。
祖母と話した。
そのどれか一つだけが今日ではない。
調査をしている自分も、妹との面会を怖がっている自分も、魚を眺めて笑った自分も、昼寝をした自分も、全部同じ一日の中にいた。
(知ることだけが、私の生活じゃない)
その考えが胸へ落ちると、呼吸がゆっくりになった。
二日後にはミレーヌと会う。
明日は、その前の日になる。
けれど、明日は「面会の前日」というだけの日ではない。
自分が朝起きて、食べたいものを食べ、行きたい場所を選び、聞きたいことだけを聞き、休みたい時には休む一日でもある。
エレノアはその時間を、誰かへ渡してしまわないことにした。
そして二日後になった時、その日の自分がもう一度、自分の足で東側の小応接室へ向かえばいい。
そう考えながら、エレノアは静かに目を閉じた。




