第36話 明日のためだけの日にはしない
朝の光が窓辺へ届き始めた頃、エレノアは寝台の中で目を覚ました。
薄いカーテン越しに差し込む光はまだ柔らかく、室内の家具を淡い輪郭だけで浮かび上がらせている。廊下の向こうでは使用人たちが一日の支度を始めたらしく、遠くで扉の開閉する音や、何かを運ぶ足音が微かに聞こえていた。
身体を起こす前に、エレノアは天井を見つめた。
今日が何の日なのかは、考えなくても分かっている。
明日、ミレーヌと会う。
午後二時、東側の小応接室で最長二十分。マルグリットが同席し、アルフォンスは隣室にいる。ミレーヌとは真正面ではなく、少し角度をつけて座ることも決めた。
昨日まで何度も確認してきた条件が、目を覚ましたばかりの頭の中へ自然に並んでいく。
(明日なんだ)
胸の奥が少しだけ縮んだ。
怖くないわけではない。
日が近づくにつれて、ミレーヌの顔を思い浮かべる回数も増えていた。今の十五歳の妹だけではなく、前の人生で自分が最後に見たミレーヌの姿まで、望んでいない時に重なってくることがある。
処刑台へ連れていかれる自分。
群衆の声。
そして、レオナードに守られるように寄り添っていたミレーヌ。
その光景が浮かびかけたところで、エレノアは掛け布団の上から指先を握った。
(今、会うのはあの日のミレーヌじゃない)
前の人生を忘れる必要はない。
忘れられるとも思わない。
けれど、明日会う妹は、自分が三年後に処刑されることも知らない。レオナードとの婚約すら成立していない今の時間を生きている。
だからこそ、会ってみようと思った。
今のミレーヌが何を考えているのか、自分の目で確かめてみたいと思った。
エレノアはゆっくり息を吐き、寝台から降りた。
寝台脇の小卓には、空の肖像枠が置かれている。
「おはようございます、お母様」
この挨拶も、少しずつ日常になってきた。
母の肖像そのものは、まだ見つかっていない。それでも、空の枠を調査の証拠として机へ置くのではなく、自分のそばへ置くと決めたことは間違っていなかったと思える。
やがて扉が控えめに叩かれ、リディアの声が届いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。どうぞ」
入室したリディアが朝の挨拶をしたあと、カーテンへ手をかける前にエレノアを見る。
「開けてもよろしいでしょうか」
「はい。今日は全部お願いします」
カーテンが開くと、朝の光が一気に室内へ広がった。机の上には灰青色の帳面と、生成りの布に包み直した三枚の絵があり、その近くには昨夜まで書いていた記録も置かれている。
エレノアは机へ近づいたものの、どれにも手を伸ばさなかった。
「リディア」
「はい」
「今日は、調査の報告って何か来る予定がありますか?」
「私が存じている範囲では、急ぎのご報告はございません。ただ、新しい情報が届く可能性までは分かりかねます」
「そうですよね」
エレノアは頷き、少し考えた。
「もし来ても、急ぎじゃなかったら明日より後にしてもらえますか?」
リディアはすぐに返事をせず、確認するように問い返した。
「明日の面会が終わるまで、急ぎでない調査報告はお聞きにならない、ということでよろしいでしょうか」
「……面会が終わるまで、って決めなくてもいいです」
自分で言いながら、エレノアは少し笑った。
以前なら、今の気持ちをそのまま数日分の決まりにしていたかもしれない。
「今日は聞かないです。明日の朝になって聞きたくなったら、その時また決めます」
「かしこまりました」
「今日の分だけでいいです」
リディアの表情が柔らかくなる。
「では、本日中に急を要さないご報告がございましたら、そのようにお伝えいたします」
「お願いします」
明日のために今日を空けるのではない。
今日、自分が調査を聞きたくないから聞かない。
似ているようで、エレノアにとっては大きく違っていた。
◇ ◇ ◇
朝食には、柔らかく焼いた卵と温野菜、薄く切ったパン、それに果物が用意されていた。
エレノアは自分の席へ座ると、まず果物へ目を向けた。赤い実と薄黄色の果肉が一緒に盛られており、どちらから食べるか少し迷った末、黄色い方へ手を伸ばす。
それだけの選択にも、以前のような緊張はなかった。
アルフォンスは書類を持ち込まず、セドリックは食事をしながらオーギュストと領地から届いた馬の話をしている。マルグリットは新しく庭へ植える予定の花について聞いており、誰も明日の面会を最初の話題にはしなかった。
そのことに気づいたエレノアは、少し不思議な気持ちになった。
(みんな、覚えてないわけじゃないよね)
もちろん、そんなはずはない。
アルフォンスもマルグリットも、明日のために部屋を整える手配をしている。セドリックも、面会中は部屋へ入らず、それでも屋敷にはいると約束してくれた。
ただ、明日ミレーヌが来るからといって、今日の朝食までその話だけで埋めようとはしていないのだ。
「エレノア?」
セドリックに呼ばれ、エレノアは顔を上げた。
「何ですか?」
「さっきから僕の皿を見ているから、何か欲しいのかと思って」
「見てた?」
「うん」
エレノアはセドリックの皿を見る。
自分とは違い、彼は卵料理をほとんど食べ終え、パンも二つ目に手を伸ばしていた。
「お兄様、朝からいっぱい食べるなって思ってました」
「……それだけ?」
「はい」
セドリックが少し困ったように笑う。
「欲しいなら分けるつもりだったんだけど」
「自分のがあります」
「そうだね」
オーギュストが二人のやり取りを聞いて低く笑い、マルグリットも口元を緩める。エレノアは何となく恥ずかしくなって、自分の卵料理へ視線を戻した。
しばらく食事を続けたあと、アルフォンスが静かに尋ねた。
「今日の予定は決めている?」
「池に行きたいです。それから、刺繍をします」
「ほかには?」
「……それだけです」
言ってから、エレノアは以前なら「それだけでは駄目なのではないか」と考えていただろうと思った。
何かを学ぶ。
何かを手伝う。
何か役に立つことをする。
そうしなければ、一日を過ごしてはいけないような感覚が長く残っていた。
けれどアルフォンスは、「それだけか」とは言わなかった。
「池の道は昨日より乾いていると思うよ。庭師に確認だけしてもらおう」
「はい」
エレノアはパンを一口食べてから、少し迷って続けた。
「あと、午後に明日の部屋を一回だけ見に行きたいです」
「もちろん」
「椅子とかは動かさなくていいです。昨日決めたままになってるか、見るだけ」
「分かった」
マルグリットがエレノアへ視線を向ける。
「私も一緒に行きましょうか?」
エレノアは少し考えた。
「今日は、一人で見たいです。リディアには一緒に来てほしいけど」
「ええ。では、私は行かないわ」
断っても、マルグリットは寂しそうな顔をしなかった。
それがエレノアにはありがたかった。
◇ ◇ ◇
南の小池へ向かう道には、朝露がまだ少し残っていた。
低い草の先で水滴が光り、歩くたびに土と葉の匂いが混ざった空気が漂う。昨日までの雨の名残はほとんど消えており、石畳も滑るほど濡れてはいなかった。
池の近くではユリウスが水辺の枯れ葉を長い柄の道具で集めていた。
エレノアに気づくと、作業の手を止めて一礼する。
「おはようございます、エレノア様。本日はいつもの道で問題ございません」
「ありがとうございます。魚はいますか?」
「今朝はよく見えました。ただ、日が高くなると少し水草の下へ入るかもしれません」
エレノアはいつもの腰掛けへ座った。
リディアはすぐ隣ではなく、声をかければ届く程度の場所に立つ。ユリウスも挨拶を終えると仕事へ戻り、必要以上にこちらへ注意を向けなかった。
水面を眺めていると、細い魚が一匹、水草の影から出てきた。
少し遅れて、もう一匹。
昨日見た魚と同じなのかは分からない。
エレノアはそれを確かめようとはしなかった。
(明日の今頃は、まだ会ってない)
ふいに考える。
面会は午後二時だ。
今と同じくらいの時間なら、明日もまだ朝からそれほど経っていない。
その時の自分は何をしているのだろう。
落ち着かずに部屋を歩いているかもしれない。
池へ来ているかもしれない。
食欲がなくなっているかもしれない。
意外と普通に朝食を食べているかもしれない。
どれになるかは分からない。
「リディア」
「はい」
「明日も、朝に池へ来てもいいですか?」
「もちろんでございます。天候と道の状態に問題がなければ」
「面会の日なのに?」
「面会の日に池へ来てはいけない理由が、何かございますか?」
エレノアは水面を見つめたまま、少し考えた。
「ないです」
「でしたら、お嬢様が明日の朝に来たいと思われた時にお決めになればよろしいかと存じます」
「そっか」
明日になったら決める。
最近、何度もそうしている。
以前のエレノアにとって、予定は一度決まったら守らなければならないものだった。自分の体調や気持ちで変更することは、迷惑をかけることだと思っていた。
今は、予定と選択が同じものではないと少しずつ分かってきている。
「明日、ミレーヌが来たら……」
言葉を途中で止める。
リディアは続きを急かさない。
「私、嫌な顔するかもしれません」
しばらくして、エレノアはそう続けた。
「前の……」
前の人生。
そこまで言いかけて、エレノアは口を閉じた。
リディアは知らない。
自分が一度処刑され、三年前へ戻ってきたことを知らない。
だから、その続きを話すことはできなかった。
「昔のことを思い出して、です」
言い直すと、リディアは静かに頷いた。
「はい」
「ミレーヌがまだ何も言ってないのに、怖くなったり、怒ったりするかもしれないです」
「その可能性はあるかと存じます」
「それって、ひどいですか?」
リディアはすぐに慰めるような答えを返さなかった。
「感情が浮かぶことと、その感情を理由に相手を傷つけることは、同じではないと私は思います」
エレノアは顔を上げた。
「嫌だと思うことも?」
「はい。お嬢様がミレーヌ様を見て怖いと思われることも、腹が立つことも、悲しくなることも、それ自体を私が良い悪いと決めるものではございません」
「でも、ミレーヌは理由が分からないかもしれない」
「そうかもしれません」
風が池の表面を揺らし、水草の間にいた魚の姿が一度見えなくなる。
「その時、説明できなければ?」
「説明できない、とお伝えすることもできます」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
(全部説明できなくてもいい)
前の人生のことを話さなければ、自分の恐怖のすべてをミレーヌに説明することはできない。
それでも、今の自分が怖がっていることは嘘ではない。
「じゃあ、明日はちゃんと笑わなくてもいいですか?」
「お嬢様がお笑いになりたい時に笑われればよろしいかと存じます」
「挨拶は?」
「なさりたい形で」
「姉らしくしなくても?」
その問いに、リディアはほんの少しだけ目を細めた。
「私は、お嬢様がどのように振る舞えば『姉らしい』のかを決める立場ではございません」
エレノアは一瞬きょとんとしてから、声を立てずに笑った。
「リディア、そういう答え多いですね」
「申し訳ございません」
「謝ってほしいって意味じゃないです」
笑いながら言うと、リディアも僅かに口元を緩めた。
池の向こうでは、ユリウスが作業を続けている。風に揺れる枝の音と、水を掬う道具の小さな音が混ざり合い、明日の面会とは関係のない時間が静かに流れていた。
エレノアはその時間を、急いで終わらせなかった。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室の窓辺に立っていた。
明日、姉に会う。
その事実を考えるたびに、胸の内側が落ち着かなくなる。
楽しみだと言い切るには怖く、怖いと言い切るには会いたい気持ちが強かった。
衣装棚の前ではコレットが服を整えているが、明日着るものはまだ決まっていない。昨日は青いドレスを試したものの、それを面会へ着ていくと決めたわけではなかった。
「コレット」
「はい、お嬢様」
「明日の服、今日のうちに決めた方がいい?」
コレットは衣装棚から振り返った。
「朝に決められても間に合います」
「でも、朝になって決められなかったら?」
「その時は、いくつか候補をご用意いたします」
「三つくらい?」
「多すぎると迷われるようでしたら、二つでも」
ミレーヌは窓から離れ、衣装棚の前へ歩いていった。
桃色のドレス。
昨日試した青。
薄い黄色。
白に近い薄紫。
どれも自分の服だ。
ただし、姉のために作られたものを自分の寸法へ直した三着だけは、別にしてある。
まだ正式な返却手続きは終わっていないものの、ミレーヌ自身が着ないと決めたためだった。
「お姉様、何色で来るかな」
「私には分かりかねます」
「うん」
以前なら、コレットのその答えをつまらないと思ったかもしれない。
今は、分からないものを分からないと言われることにも少し慣れてきた。
ミレーヌは青いドレスの袖へ触れた。
「私ね、明日、謝ろうと思ってる」
コレットの手が止まる。
「何について、でございますか?」
「それが分からないの」
ミレーヌは眉を寄せた。
「ドレスのことは謝れる。お姉様のものだって知らなかったけど、私が着てたのは本当だから。でも、それだけじゃない気がするの」
食卓に姉がいなかったこと。
姉が一人で過ごしていたこと。
母から「エレノアは一人が好きなのよ」と聞き、それを疑わなかったこと。
同じ屋敷に住んでいたのに、姉が何を食べ、何を好きで、何を嫌がっていたのか、ほとんど知らないこと。
「知らなかったことを謝るのって、変かな」
コレットはすぐに答えず、少し考えてから口を開いた。
「私には、お嬢様が何について謝るべきかを決めることはできません。ただ、分からないのでしたら、分からないままお伝えになることもできるのではないでしょうか」
「『何を謝ればいいか分からないけど、ごめんなさい』って?」
「それをエレノア様がどう受け取られるかは、私には分かりません」
「また分からない」
「はい」
ミレーヌは思わず笑った。
しかし笑いが収まると、表情は少しずつ真剣なものへ戻った。
「お姉様、私のこと嫌いかな」
「それも、私には分かりません」
「怖がってるんだよね」
「面会条件をお決めになる過程で、そのようなお気持ちがあることは伯爵様から伺っております。ただ、それ以上のことは存じません」
ミレーヌは視線を落とした。
「怖いのに、会ってくれるんだ」
それが嬉しいと思う一方で、姉が自分を怖がっていることは胸に刺さる。
なぜ怖いのか、自分には全部分からない。
ドレスだけで、人は妹を怖がるだろうか。
もっと何かがあるのかもしれない。
けれど明日の二十分で、すべてを聞き出していいとも思えなかった。
「私、いっぱい聞かない方がいいかな」
「面会には条件がございます。エレノア様が答えたくないことには、答えなくてよいとされています」
「分かってる」
ミレーヌは衣装棚を見ながら、少し考えた。
「じゃあ、聞いて、嫌そうだったらやめる」
コレットはその言葉に頷いたものの、念を押すように続ける。
「エレノア様が嫌だとおっしゃった場合は、すぐにおやめくださいませ」
「分かってるってば」
少しむっとした声を出したあと、ミレーヌは自分でも気づいて息を吐いた。
「……でも、そうだよね。私が聞きたいからって、答えてもらえるわけじゃない」
明日の面会は、姉から答えをもらうための時間ではない。
そのことを、ミレーヌも自分なりに理解し始めていた。
「服は、明日の朝決める」
「かしこまりました」
「今日はもう考えない」
そう言いながら衣装棚の扉を閉じたミレーヌは、数歩離れたところで一度振り返った。
「……たぶん」
コレットは笑わなかった。
「では、考えたくなられた時は、その時またお考えくださいませ」
ミレーヌは少しだけ目を丸くし、そのあと小さく笑った。
「それ、お姉様のところの人が言いそう」
もちろん、ロシュフォール家の使用人が何を言っているのか、ミレーヌは知らない。
それでも、最近の父とのやり取りや、自分自身が考えるようになったことの中に、以前とは違うものが増えていることだけは感じていた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアは刺繍をしばらく進めたあと、予定していた東側の小応接室へ向かった。
同行するのはリディアだけだった。
廊下には午後の光が差し込み、磨かれた床の上へ窓枠の影が長く伸びている。普段から使われている屋敷の一角なのに、明日ミレーヌと会う場所だと思うだけで、そこへ近づくにつれて心臓の鼓動が少しずつ強くなった。
小応接室の前へ着いたところで、リディアが扉を開ける。
室内は昨日確認した時とほとんど変わっていなかった。
エレノアが座る椅子は、入口と窓、そして隣室への扉が見える位置にある。ミレーヌの椅子は真正面ではなく少し斜めへずらされ、マルグリットの席は二人から少し離れた場所に置かれていた。
卓上の花瓶には、昨日と同じ種類の白と淡黄色の花が活けられている。
エレノアは部屋の入口に立ったまま、一度深く息を吸った。
(ここで会う)
胸が強く鳴る。
それでも足は動いた。
自分の椅子まで歩き、座る。
そこから入口を見ると、明日ミレーヌが入ってくる姿を想像してしまった。
一瞬だけ、前の人生のミレーヌが重なる。
エレノアの手が膝の上で固くなった。
けれど、目を閉じなかった。
窓の外にはロシュフォール家の庭がある。
隣室の扉の向こうには、明日アルフォンスがいる。
少し離れた席にはマルグリットが座る。
自分が望めば、途中で終われる。
ここは処刑場ではない。
ベルナール家の応接室でもない。
レオナードもいない。
ヴァレリアもいない。
ロベルトもいない。
明日ここへ来るのは、ミレーヌ一人だ。
「リディア」
「はい」
「明日、ミレーヌが入ってきた時に立った方がいいですか?」
「一般的な挨拶としては立たれることもございますが、お嬢様がお身体の状態によって座ったままでいたい場合は、そのように事前にお伝えすることもできます」
「立つのが嫌ってわけじゃないです」
エレノアは椅子から一度立ってみた。
入口を見る。
それだけで少し緊張が増した。
「……明日決めます」
「かしこまりました」
再び座る。
「水はここ?」
「はい。明日はお嬢様にはお水を、ミレーヌ様にはご希望を確認したうえで飲み物をご用意する予定でございます」
「お菓子は?」
「現在は用意しない予定です。二十分と短い面会ですので、飲み物のみで問題ないと判断されております」
エレノアはほっとした。
ミレーヌと向かい合いながら食べ物を前にするのは、まだ少し嫌だった。
「それがいいです」
リディアが頷く。
エレノアは隣室への扉を見た。
「お父様、本当にここにいるんですよね」
「はい。明日の面会中は、隣室でお待ちになる予定です」
「呼ばなかったら、入ってこない?」
「そのように伺っております。ただし、お嬢様に明らかな危険が生じた場合などは別でございます」
「ミレーヌが急に近づいたら?」
「まずマルグリット様がお止めになります。必要であれば、室外に控える者も対応いたします」
「室外にもいるの?」
「通常の警護としております。お嬢様を囲むように大勢が立つことはございません」
エレノアはその説明を聞き、少し考えてから頷いた。
守られていることは安心する。
けれど、ミレーヌ一人を大勢で取り囲むような形にはしたくなかった。
「このままでいいです」
「承知いたしました」
エレノアはそれから数分だけ部屋に座った。
会話の練習はしない。
最初の言葉も決めない。
ただ、明日自分が座る場所から部屋を眺めた。
窓から入る光。
花瓶の位置。
入口までの距離。
隣室への扉。
自分の足元にある絨毯の模様。
怖くなった時に、ここへ戻ってこられるように覚えておきたかった。
「もう大丈夫です」
しばらくして立ち上がる。
「戻りますか?」
「はい」
扉の前まで歩いたところで、エレノアは一度だけ振り返った。
明日は、ここにミレーヌがいる。
怖い。
それでも、その怖さだけで今日を終わらせる必要はなかった。
◇ ◇ ◇
夕食前、エレノアは自室で刺繍布を広げた。
淡い赤色の糸で刺し始めた野薔薇は、やはり本物の野薔薇とは少し違う。花びらの大きさは揃っておらず、一枚だけ外側へ大きく飛び出している。
直そうと思えば直せる。
けれどエレノアは、その一枚を残した。
代わりに、その隣へ小さな葉を一枚増やす。
「リディア」
「はい」
「これ、野薔薇に見えますか?」
リディアは少し近づいて刺繍を眺めた。
「お花には見えます」
「野薔薇には?」
「私は刺繍の図案に詳しくございませんので、知らずに見れば種類までは分からないかもしれません」
「やっぱり」
エレノアは笑った。
「でも、これでいいです。私が野薔薇にしようと思って作ったから」
「はい」
「お母様の花です」
その言葉を口にすると、胸の中が少し温かくなった。
失われた木箱に刻まれていたという野薔薇。
まだ見つからない母の肖像。
青い髪飾り。
分からないことも、なくなったものも多い。
それでも、自分の手元に新しく作れるものまで失われたわけではない。
エレノアは最後の一針を入れ、今日はそこで糸を止めた。
「完成?」
自分で呟いてから、刺繍を眺める。
もう一枚花びらを足すこともできる。
葉を増やすこともできる。
「……今日は完成ってことにします」
明日になって足したくなれば、足せばいい。
完成したと決めたものを、二度と変えてはいけないわけでもない。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは机へ向かった。
灰青色の帳面は今日も閉じられたままで、その隣には生成りの布に包んだ三枚の絵が置かれている。
今日はどちらも開かなかった。
それでよかった。
新しい紙を一枚取り、今日のことを書く。
『今日は、急ぎではない調査の報告を聞かないことにした』
少し考えて、その下へ続ける。
『明日も聞かない、と決めたわけではない』
さらに、池で考えたことを書く。
『明日の朝、池へ行くかは明日の朝に決める』
『ミレーヌを見て、怖くなったり怒ったりするかもしれない』
『そう思うことと、ミレーヌを傷つけることは同じではない』
そこで一度ペンが止まった。
エレノアは今日見てきた小応接室を思い出す。
入口。
窓。
斜めに置かれた二つの椅子。
少し離れたマルグリットの席。
閉じられる隣室の扉。
『明日の部屋を見た』
『怖かった』
その次に、何を書くか少し迷う。
怖かったけれど大丈夫だった。
そう書くこともできる。
しかし、「大丈夫」という言葉を、昔の自分はあまりにも多く使っていた。
本当は大丈夫ではない時にも。
エレノアは別の言葉を選んだ。
『怖かったけれど、自分で部屋に入って、自分の席に座って、戻ってきた』
それだけで十分だった。
怖さを消す必要はない。
強くなったと証明する必要もない。
起きたことを、そのまま書けばいい。
エレノアは最後に一行空けた。
『明日、ミレーヌに会う』
書いた瞬間、胸が大きく鳴った。
ペンを握る指にも少し力が入る。
それでも、続ける。
『会ってから何を思うかは、まだ分からない』
好きにならなければならないわけではない。
許さなければならないわけでもない。
嫌わなければならないわけでもない。
前の人生のミレーヌと、今のミレーヌをどう考えるのか、その答えを明日の二十分で出す必要もない。
ただ会う。
今の妹を、自分の目で見る。
それだけを決めている。
記録を閉じたエレノアは、空の肖像枠が置かれた寝台脇へ移動した。
「お母様」
いつものように呼びかける。
「明日です」
胸の奥に緊張が広がったが、今夜はそれを追い出そうとしなかった。
「怖いです。でも、会ってみたいです」
両方が本当だった。
怖いのに会いたい。
会いたいのに怖い。
どちらか一つに決めなくてもいい。
エレノアは空の枠を見ながら、少しだけ笑った。
「あと、ミレーヌの好きな色を聞けたら、聞いてみます」
その小さな目的を口にすると、明日の面会がほんの少しだけ違うものに見えた。
失われた過去を問いただすためだけの時間ではない。
自分が知らなかった妹を、少しだけ知るための時間にもできる。
もちろん、実際に聞けるかどうかは分からない。
明日になって聞きたくなくなるかもしれない。
ミレーヌの方から別の話をするかもしれない。
何も話せないまま終わるかもしれない。
それでもいい。
エレノアは寝台へ入り、掛け布団を胸元まで引き上げた。
目を閉じると、明日の小応接室が浮かぶ。
その入口から誰かが入ってくる。
一瞬、三年後のミレーヌの姿が重なりかけたが、エレノアは無理に消そうとはしなかった。
(私は、あの日を覚えている)
忘れなくていい。
(でも、明日会うミレーヌが何を言うかは、まだ知らない)
知らないから、会ってみる。
そのために、今日を全部使って怖がり続ける必要はなかった。
池へ行き、魚を見た。
刺繍をした。
自分で作った野薔薇を完成させた。
面会室を確認した。
朝食も夕食も食べた。
明日の前日であることだけが、今日の意味ではない。
今日には今日の時間があり、その一日を自分で過ごした。
エレノアはそのことを確かめるように、ゆっくり息を吐いた。
明日の朝になれば、その時の自分がまた選べばいい。
池へ行くか。
何を着るか。
朝食をどれだけ食べるか。
ミレーヌの名前を最初に呼ぶか。
立って迎えるか、座ったままでいるか。
好きな色を聞くか。
途中で終わるか。
まだ決めていないことがたくさんある。
けれど、それは準備不足ではなかった。
明日の自分に残してある選択だった。
(明日は、明日の私が決める)
そう心の中で言葉にすると、胸の奥に残っていた強張りが少しだけ緩んだ。
エレノアは空の肖像枠が置かれた小卓の方へ顔を向けたまま、静かに目を閉じた。
明日、妹に会う。
その事実は変わらない。
けれど今夜はまだ、誰かの姉としてでも、過去の被害者としてでもなく、ただエレノアとして眠ってよかった。




