第37話 初めて、妹の言葉を聞く
翌朝、エレノアは目を覚ますと、しばらく寝台の中から窓を眺めていた。
カーテンはまだ閉じられているため、外の景色は見えない。それでも布越しに滲む明るさから、昨夜のうちに雨が降り出した様子はないと分かった。
今日、ミレーヌが来る。
その事実は、昨日よりもずっと近いところにあった。
午後二時になれば、東側の小応接室へ妹が入ってくる。昨日、自分で座って確かめた椅子に腰掛け、少し斜めに置かれたもう一つの椅子へミレーヌが座ることになる。
(今日なんだ)
胸の奥がゆっくりと強張った。
怖い。
けれど、逃げたいとまでは思わなかった。
昨日まで何度も考え、それでも会ってみたいと思った気持ちは、朝になって消えてはいない。ただ、昨日より緊張が強くなっているだけだった。
エレノアは掛け布団の上へ両手を置いたまま、昨夜の自分が考えたことを思い出す。
今日の自分が決めればいい。
池へ行くか。
何を着るか。
朝食をどれくらい食べるか。
立って迎えるか。
何を話すか。
昨日の自分が全部を決めておかなかったからこそ、今の自分が選べる。
やがて扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。起きてます」
「入室してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
リディアが入ってきたあとも、いつもと同じようにカーテンを開けるかを尋ねた。
エレノアは一瞬だけ迷い、それから頷く。
「全部開けてください」
「かしこまりました」
厚いカーテンが左右へ引かれると、朝の光が室内へ広がった。
空は薄い雲に覆われているものの暗くはなく、庭の木々も穏やかな風に枝先を揺らしている。少なくとも今のところ、馬車で移動することに支障が出る天候ではなさそうだった。
エレノアは寝台から降りると、最初に小卓の空の肖像枠へ目を向けた。
「おはようございます、お母様」
そう挨拶してから、机を見る。
灰青色の帳面も、三枚の絵を包んだ生成りの布も、昨日と同じ場所にある。
今日は開かない。
少なくとも、今は。
「リディア」
「はい」
「池に行きたいです」
口にしてみると、それほど迷いはなかった。
「朝食のあとに」
「承知いたしました。庭の状態を確認しておきます」
「あと……服」
今日は少し迷った。
ミレーヌに会うための服だと思うと、どれを選ぶのが正しいのかを考えそうになる。
地味すぎないもの。
華美すぎないもの。
姉らしいもの。
ロシュフォール家で保護されている伯爵令嬢として失礼のないもの。
そんな基準が頭へ浮かんだところで、エレノアは衣装棚の前に立った。
(違う)
今日はミレーヌのためだけに服を選ぶわけではない。
自分が一日着る服だ。
「薄い緑のにします」
「こちらでございますか?」
リディアが取り出したのは、以前にも着た淡い緑色のドレスだった。装飾は控えめで、柔らかな布地が身体を締めつけない。
「はい。それがいいです」
「髪飾りはいかがなさいますか」
エレノアの視線が、鏡台の上へ向いた。
青い髪飾りは、まだ見つかっていない。
だからといって、青以外の飾りをつけてはいけないわけではない。
「今日は……白いリボンにします」
「かしこまりました」
ミレーヌにどう見られるかではなく、自分が着たいものを選んだ。
それだけで胸の強張りが消えるわけではなかったが、少なくとも服まで面会に奪われずに済んだ気がした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、誰もエレノアの顔を見るなり「大丈夫か」とは尋ねなかった。
それがありがたかった。
マルグリットは今日の午後に同席する。それでも朝食中はいつも通り果物を選び、オーギュストは領地から届いた報告についてアルフォンスと短く話している。
セドリックも普段通りだった。
ただし、普段より少しだけエレノアを見る回数が多い。
本人は隠しているつもりらしいが、何度か視線が合った。
「お兄様」
「何?」
「気になりますか?」
エレノアが尋ねると、セドリックは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……気にはなるよ」
誤魔化さなかった。
「でも、僕が気になることと、エレノアが話さなきゃいけないことは別だから」
エレノアは少しだけ笑った。
「まだ何も起きてないです」
「そうだった」
「午後です」
「うん」
セドリックは自分のパンへ手を伸ばしたあと、少し考えるように視線を落とした。
「終わったあとも、話したくなかったら話さなくていいからね」
「お兄様には?」
「僕にも」
「気になるのに?」
「ものすごく気になる」
今度はエレノアが少し大きく笑った。
オーギュストまで口元を緩めている。
「そこは否定しないんですね」
「しないよ。でも、気になるから教えて、って言ったら、エレノアが断りにくくなるだろう?」
その言葉に、エレノアの笑みが少しだけ静かなものへ変わった。
以前なら、誰かが知りたいと言えば答えなければならないと思っていた。
誰かが心配しているなら、その心配を取り除くために説明しなければならないと思っていた。
「……終わって、話したかったら話します」
「うん」
それだけで話は終わった。
エレノアは皿へ視線を戻す。
今日は卵料理を半分ほど食べ、温野菜にも手をつけた。パンは一枚用意されていたが、途中で少しお腹がいっぱいになってきたため、三分の一ほど残した。
一瞬、午後に備えてもっと食べた方がいいのではないかと思った。
けれど、身体はもう十分だと言っている。
「残します」
誰に言うでもなく、小さく口にする。
向かい側にいたマルグリットが聞いていたらしい。
「ええ」
ただ、それだけだった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、エレノアは予定通り南の小池へ向かった。
道は乾いており、朝の空気には少し冷たさが残っている。庭の奥へ進むほど屋敷から聞こえる生活音が遠ざかり、代わりに葉が擦れる音と鳥の声が近くなった。
ユリウスは少し離れた花壇で作業していた。
エレノアへ気づくと一礼したものの、今日は特別なことを言わない。
そのことにも少し安心した。
屋敷の中では、今日ミレーヌが来ることを必要な者は知っている。それでも、自分を見る人すべてが面会のことを考えているわけではない。
池の魚に至っては、もちろん何も知らない。
エレノアは腰掛けへ座り、水面を眺めた。
今日はパンを持ってきていない。
食べたいと思わなかったからだ。
しばらくすると、水草の間から二匹の魚が姿を見せた。
「昨日と同じ魚でしょうか」
何となく尋ねると、少し離れて立っていたリディアが答える。
「私には見分けがつきません」
「私もです」
エレノアは笑った。
分からない。
それで困らないこともある。
魚が昨日と同じかどうか分からなくても、今そこに泳いでいる魚を見ることはできる。
(ミレーヌも……)
そこまで考えて、エレノアは膝の上で指を組んだ。
前の人生のミレーヌと、今のミレーヌ。
同じ人だ。
けれど、今のミレーヌは三年後に何をするのか知らない。
そもそも、本当に同じことをするのかも分からない。
レオナードと恋仲になるのか。
自分が罪を着せられる時、どこまで関わっているのか。
あの毒殺未遂事件で、ミレーヌ自身が何を知っていたのか。
それらは、前の人生でさえ分からなかった。
自分は処刑された。
ミレーヌとレオナードが親密だったことも知っている。
けれど、それだけで事件のすべてを知ったことにはならない。
(今日、それを聞くわけじゃない)
聞けない。
今のミレーヌには存在しない出来事なのだから。
だから今日は、今の妹を見る。
エレノアは水面を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
「リディア」
「はい」
「少し早めに戻ります」
「承知いたしました」
逃げるためではない。
午後までに疲れすぎないために、自分で時間を決めた。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアは自室へ戻った。
面会まで、まだ一時間以上ある。
以前の自分なら、その時間をずっと緊張しながら過ごしていただろう。
今も落ち着いているわけではない。
時計を見る回数は明らかに増えている。
それでも、エレノアは刺繍布を取り出した。
昨日「今日は完成」と決めた野薔薇へ、今日は手を加えない。その代わり、少し離れた場所へ新しい葉を一枚だけ刺し始めた。
針を布へ通す。
糸を引く。
次の位置を決める。
その繰り返しに意識を向けていると、胸の鼓動ばかりを数えずに済んだ。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「お嬢様」
リディアが入室の許可を求めたあと、室内へ入った。
「ベルナール伯爵家の馬車が到着したとのことでございます」
針を持っていたエレノアの指が止まった。
胸が一気に強く鳴る。
喉の奥が乾いた。
「……ミレーヌ?」
「はい。ミレーヌ様がお一人で馬車を降りられたとのことです。付き添いの侍女は控えの場所までとなっております」
「お父様は?」
「ベルナール伯爵は同行されておりません」
「ヴァレリア様も?」
「いらしておりません」
分かっていたことを確認した。
それでも、実際に聞くと少し安心した。
エレノアは刺繍布へ視線を落とす。
途中の葉。
まだ完成していない。
「これ、ここに置いておいてください」
「はい」
「帰ってきて、続きがしたくなったらします」
「かしこまりました」
エレノアは立ち上がった。
足が少し重い。
逃げたいとは思わない。
けれど、身体は明らかに緊張している。
「リディア」
「はい」
「手……」
そこまで言ってから、一度迷った。
「小応接室まで、手をつないでもらってもいいですか?」
リディアはすぐに手を差し出すのではなく、確認する。
「私からお手をお取りしてもよろしいでしょうか」
「はい」
触れる前に聞いてくれる。
そのいつもの手順に、エレノアの肩から少しだけ力が抜けた。
リディアの手は強く握らない。
エレノアが離そうと思えば、いつでも離せる程度の力だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ミレーヌはロシュフォール公爵邸の客用控室にいた。
今朝選んだのは、薄い黄色のドレスだった。
青でも桃色でもない。
理由を聞かれても、うまく説明できない。ただ、朝になってこれがいいと思ったから選んだ。
髪には小さな白いリボンだけを飾っている。
コレットはここまで同行したものの、面会場所までは来ない。
「お嬢様」
控室を出る前、コレットが声をかけた。
「はい」
「エレノア様がお答えになりたくないことは、無理にお尋ねにならないようお願いいたします」
「分かってる」
少し不満そうに返したあと、ミレーヌは唇を結んだ。
今日は怒らない。
そう決めたわけではない。
ただ、姉が自分を怖がっていることだけは忘れたくなかった。
「……もし、お姉様が途中で帰ってって言ったら」
「その時は、お帰りになるのがよろしいかと存じます」
「うん」
ミレーヌは自分の手を見る。
何を言うか、昨夜も考えた。
謝る。
ドレスのことを話す。
姉がどうして家へ帰りたくないのか聞きたい。
母のことも聞きたい。
自分のことを嫌いなのかも知りたい。
けれど、二十分しかない。
それ以上に、二十分あるからといって全部を使って質問していいわけではない。
「行ってくる」
「はい。こちらでお待ちしております」
ミレーヌは案内役の使用人に従い、控室を出た。
長い廊下を歩きながら、何度も手を握りそうになる。
そのたびに力を抜いた。
(お姉様、どんな顔するんだろう)
怒っているだろうか。
泣くのだろうか。
自分を見ようともしないかもしれない。
それでも、今日は姉が「会ってもいい」と決めてくれた日だ。
そのことだけは、ミレーヌにも分かっていた。
◇ ◇ ◇
東側の小応接室には、すでにマルグリットがいた。
エレノアは入室すると、昨日確認した自分の椅子を見る。
「お祖母様」
「ええ」
「私、最初から座っていてもいいですか?」
「もちろんよ」
「ミレーヌが入ってきても、立たないかもしれません」
「それもあなたが決めていいわ」
マルグリットは少し離れた自分の席へ腰掛けた。
リディアは室内には残らず、扉の外で待機する予定になっている。
隣室にはアルフォンスがいる。
エレノアは自分の椅子へ座った。
卓上には水だけが用意されている。
花瓶の白と淡黄色の花も昨日のままだ。
時計を見る。
あと少し。
心臓の音が大きい。
手が冷たい。
呼吸も浅くなっている。
(怖い)
その気持ちを否定しなかった。
怖いから、会わなければならないわけでもない。
怖いから、会ってはいけないわけでもない。
自分は怖いと思ったまま、会うことを選んだ。
やがて扉が叩かれた。
エレノアの肩が僅かに揺れる。
マルグリットは何も言わず、ただそこにいた。
扉の外から、使用人の声が届く。
「ミレーヌ・ベルナール様がお見えでございます」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
一度だけ息を吸う。
「……どうぞ」
扉が開いた。
最初に見えたのは、薄い黄色だった。
そのあとに、ミレーヌの顔が見える。
十五歳。
同じ年の妹。
見慣れているはずの顔だった。
けれど、エレノアの目には一瞬だけ別の光景が重なった。
黒い喪服のヴァレリア。
自分から視線を逸らした父。
そして、レオナードのそばにいたミレーヌ。
処刑台。
群衆。
冷たい空気。
胸の奥が締めつけられ、指先が震えた。
(違う)
エレノアは目の前を見る。
今のミレーヌは薄黄色のドレスを着ている。
レオナードはいない。
ここは処刑場ではない。
ロシュフォール公爵邸の小応接室だ。
窓の外には庭があり、卓上には白い花がある。
少し離れた場所にはマルグリットがいる。
隣室にはアルフォンスがいる。
扉の外にはリディアがいる。
ミレーヌは部屋へ一歩入ったところで止まっていた。
姉が立ち上がらないからではない。
エレノアの顔が、一瞬ひどく怯えたように見えたからだった。
「……お姉様」
呼ばれた。
エレノアの肩がまた少し揺れた。
それを見たミレーヌの表情が曇る。
「ごめんなさい」
入ってきたばかりなのに、ミレーヌが謝った。
エレノアは驚いて妹を見る。
「どうして?」
「分からない」
ミレーヌの声は、思っていたより小さかった。
「でも、今、お姉様がすごく怖そうな顔をしたから」
エレノアは答えられなかった。
ミレーヌも、それ以上近づかない。
案内役の使用人が退室し、扉が静かに閉じられる。
「ミレーヌ」
マルグリットが穏やかに声をかけた。
「あなたの席はそこよ。エレノアへ近づかず、そのまま座ってちょうだい」
「はい」
ミレーヌは素直に従った。
椅子へ座るまでの間も、エレノアから目を離さない。
けれど、じっと見つめすぎていることに気づいたのか、途中で視線を膝へ落とした。
二人の間に沈黙ができる。
昨日まで、何を話すのだろうと何度も考えた。
実際に妹を前にすると、用意していたわけでもない言葉すら出てこなかった。
ミレーヌも同じらしい。
膝の上で両手を重ね、何度か指先を動かしている。
「……その服」
先に声を出したのはエレノアだった。
ミレーヌが顔を上げる。
「黄色なんですね」
「う、うん」
「好きなの?」
昨夜、聞けたら聞いてみようと思っていたことだった。
こんなに早く口から出るとは思わなかった。
ミレーヌは一瞬驚いたあと、自分のドレスを見る。
「好き。黄色も好きだけど、一番は桃色」
「桃色」
「お姉様は?」
問い返され、エレノアは少し考えた。
昔なら、答えられなかったかもしれない。
自分の好きな色など、考えたことがなかったからだ。
「水色も好きです。薄い緑も。最近は黄色も少し好き」
「いっぱいあるんだ」
「一つじゃなくてもいいみたいだから」
そう答えると、ミレーヌが目を瞬いた。
「好きな色って、一つじゃなくていいの?」
「駄目なの?」
「……分かんない」
二人とも少しだけ黙った。
そのあと、ミレーヌの口元がほんの僅かに緩む。
「じゃあ、私も黄色も好き」
「最初からそう言ってたじゃないですか」
「そうだけど」
エレノアの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った自分に気づき、胸の中に戸惑いが生まれる。
(私、今、ミレーヌと笑った?)
だからといって、何かが許されたわけではない。
過去が消えたわけでもない。
ただ、好きな色の話をして、少し可笑しかった。
それだけだった。
ミレーヌは再び膝へ視線を落とした。
「あのね、お姉様」
「はい」
「ドレスのこと、ごめんなさい」
エレノアの笑みが消える。
ミレーヌは慌てて続けようとはせず、少し間を置いてから言葉を探した。
「お姉様のために作った服だって、本当に知らなかった。お母様が私にくれたから、私のものだと思ってた」
エレノアは黙って聞く。
「でも、知らなかったから返さなくていいとは思ってない。私、着たし、好きだった服もあるし……返したくないって思ったのも本当」
そこでミレーヌは唇を噛みそうになり、途中でやめた。
「でも、お姉様のものなら返します」
「……はい」
「怒ってる?」
エレノアはすぐには答えなかった。
怒っている。
悲しい。
ミレーヌだけが悪いとは思っていない。
けれど、自分の知らないところで服を奪われ、妹の身体に合わせて作り直されていたことを、平気だとは思えない。
「嫌でした」
エレノアはゆっくり言った。
「私のために作られた服を、私が知らないところでミレーヌの服にされたことは嫌です」
ミレーヌの肩が小さく縮む。
「うん」
「でも、ミレーヌが知らなかったなら、全部ミレーヌが悪いとは思ってません」
「……全部じゃなかったら、少しは私も悪い?」
その問いに、エレノアは迷った。
簡単に「悪くない」と言えば、妹は安心するかもしれない。
けれど、それを言うために会ったわけではない。
「分かりません」
正直に答えた。
「知らなかったことを、どこまでミレーヌのせいにしていいのか、私にはまだ分からないです」
ミレーヌは少し寂しそうな顔をした。
それでも、反論はしなかった。
「そっか」
エレノアの胸がちくりと痛む。
妹を悲しませた。
そのことに反射的な罪悪感が湧く。
(でも、分からないものを分からないって言っただけ)
ミレーヌを泣かせたいわけではない。
傷つけたいわけでもない。
けれど、妹を安心させるために、自分の気持ちを変える必要もない。
「それから」
ミレーヌが続ける。
「私、ほかにも謝りたいんだけど、何を謝ったらいいのか分からないの」
エレノアは妹を見る。
「それ、前にも聞きました」
「うん。でも、やっぱり分からなかった」
ミレーヌは困ったように眉を下げた。
「お姉様がご飯をちゃんと食べてなかったことも知らなかった。一人でいるのが好きだって、お母様から聞いてた。お茶も嫌いで、派手な服も嫌いで、自分のことは自分でやりたいんだって」
エレノアの指先が僅かに強張る。
「私、それを本当だと思ってた」
ミレーヌは顔を上げた。
「だから、お姉様が食堂にいなくても変だと思わなかったし、お茶に来なくても、お姉様が来たくないんだと思ってた。お姉様の部屋にも、ほとんど行かなかった」
「……はい」
「でも、それが違ったなら、私、ずっとお姉様のこと何も知らなかった」
声が少し震えていた。
「同じ家にいたのに」
エレノアは答えられなかった。
それは、自分も考えたことだった。
姉妹なのに、互いの好きな色さえ知らなかった。
自分はミレーヌが何を食べるのが好きなのかも知らない。
けれど、それを「お互い様」と言ってしまうことには抵抗があった。
自分は孤立させられていた。
食事を減らされ、母の品を失い、使用人との接触まで制限されていた。
同じように知らなかったからといって、同じ立場だったわけではない。
「私も、ミレーヌのことをあまり知りません」
エレノアは言葉を選んだ。
「でも、それで同じだったとは思ってないです」
ミレーヌの目が少し大きくなる。
「同じ?」
「私もミレーヌを知らなかった。ミレーヌも私を知らなかった。でも、それだけで同じだったことにはしたくない」
胸が苦しくなる。
それでも、言葉を止めなかった。
「私は……一人でいたくて、ずっと一人だったわけじゃないから」
ミレーヌが息を呑んだ。
マルグリットは口を挟まない。
ただ、エレノアが話し続けるかどうかを見守っている。
「一人の方がいい時もあります。今は、池で一人に近い時間を過ごすのも好きです。でも、昔の全部がそうだったわけじゃない」
「じゃあ……」
ミレーヌが言いかけ、止まる。
質問していいのか迷ったのだろう。
「聞いてもいい?」
その確認に、エレノアは少し驚いた。
「何を?」
「どうして、お姉様が一人だったのか」
エレノアの身体が硬くなる。
脳裏にいくつもの記憶が浮かびそうになった。
マルタがいなくなったこと。
残り物の食事。
痛み。
ヴァレリアの声。
失敗した自分が悪いと思っていた日々。
全部をミレーヌに話すことは、今はできない。
「……それは、今日は話したくないです」
エレノアが答えると、ミレーヌは一瞬だけ残念そうな顔をした。
しかし、すぐに頷いた。
「分かった」
それ以上、聞かなかった。
エレノアはそのことに気づいた。
拒んだのに、追及されない。
理由を求められない。
機嫌を悪くされない。
「怒らないんですか?」
思わず尋ねる。
今度はミレーヌが驚いた。
「何を?」
「答えなかったから」
「……なんで怒るの?」
「聞きたいのに、答えてもらえなかったから」
ミレーヌはしばらく考えた。
「聞きたいけど……お姉様、答えなくていいって最初から言ってたでしょう?」
「はい」
「だったら、怒ったら駄目じゃない?」
エレノアは妹を見つめた。
ミレーヌの言葉は、特別に立派なものではないのかもしれない。
約束したから守る。
ただそれだけだ。
それでもエレノアには、その「ただそれだけ」が妙に胸へ残った。
(今のミレーヌは、やめてくれた)
前の人生のことは消えない。
目の前の妹が三年後にどうなるかも分からない。
けれど、今この瞬間、ミレーヌは自分が嫌だと言ったところで止まった。
その事実まで否定する必要はなかった。
卓上の時計が小さな音を刻み続けている。
二十分という時間は、思っていたより短い。
マルグリットが時計へ一度だけ視線を向けた。
まだ終了ではない。
けれど、残り時間は多くなかった。
ミレーヌも気づいたらしい。
「お姉様」
「はい」
「もう一個だけ聞いていい?」
「内容によります」
「……それでもいい」
ミレーヌは一度息を整えた。
「お姉様、私のこと嫌い?」
エレノアの胸が大きく鳴った。
予想していた質問だった。
それでも、実際に聞かれると簡単には答えられない。
嫌い。
そう言えば楽なのだろうか。
前の人生の最後を思えば、憎いと言ってもおかしくない。
レオナードの腕の中にいた妹。
自分の無実を信じてくれなかった人々の中にいた妹。
けれど、今目の前にいる十五歳のミレーヌは、薄黄色のドレスを着て、自分の答えを待っている。
「分かりません」
エレノアは、また同じ答えを選んだ。
ミレーヌの瞳が揺れる。
「嫌いじゃない、とは今は言えないです」
胸が痛む。
それでも続ける。
「でも、嫌いだから会いたくない、とも思いませんでした。だから今日、会いました」
ミレーヌは何も言わない。
「怖いです」
エレノアの声が少し震えた。
「ミレーヌを見ると、怖いって思うことがあります」
ミレーヌの顔が傷ついたように歪む。
それを見て、エレノアも苦しくなる。
けれど、嘘にはしなかった。
「どうしてかは、今は全部話せません」
「……うん」
「でも、今日話して、さっきより怖くなくなったかって聞かれたら、それも分からないです」
ミレーヌは視線を落とした。
「そっか」
「ごめんなさい」
反射的に出た言葉だった。
言った瞬間、エレノア自身が気づく。
ミレーヌも顔を上げた。
「なんでお姉様が謝るの?」
エレノアは口を閉じた。
(どうして私は謝ったんだろう)
ミレーヌを悲しませたから。
怖いと言ったから。
望む答えを渡せなかったから。
けれど、それは謝らなければならないことなのだろうか。
「……今の、ごめんなさいは、いらなかったかもしれません」
エレノアが言い直すと、ミレーヌは少しだけ目を丸くした。
「取り消すの?」
「はい」
「謝ったのに?」
「間違えて謝ったと思ったから」
ミレーヌはぽかんとした。
その顔があまりにも子供らしくて、エレノアは思わず口元を緩めた。
「変ですか?」
「変っていうか……そんなのありなんだ」
「最近、ありみたいです」
「誰が決めたの?」
エレノアは少し考えた。
「私?」
今度はミレーヌが笑った。
ほんの小さな笑いだった。
けれど、先ほどまで張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
マルグリットはその二人を見ながら、静かに息を吐いた。
エレノア自身は気づいていないのかもしれない。
最初にミレーヌが部屋へ入った時、孫娘の顔から血の気が引いたのを、マルグリットは見ていた。
今も完全に緊張が消えたわけではない。
膝の上の指には時折力が入っている。
それでも、エレノアは逃げずに座り続けている。
無理をして笑い続けてもいない。
答えたくない問いを拒み、分からないものを分からないと言い、妹が傷ついた顔をしても自分の答えを撤回しなかった。
それは、以前この屋敷へ来たばかりのエレノアには難しかったことだった。
一方のミレーヌも、マルグリットが想像していたより静かだった。
無邪気さはある。
自分が知らなかったことへの戸惑いも、姉に嫌われたくないという身勝手さもあるだろう。
しかし少なくとも今日の彼女は、拒否されたところで止まろうとしている。
それ以上を評価するには、まだ早い。
けれど、それ以下に扱う必要もない。
「そろそろ時間よ」
マルグリットが穏やかに告げた。
二人が同時に時計を見る。
ミレーヌの表情に、明らかな名残惜しさが浮かんだ。
「もう?」
「約束は二十分です」
エレノアが言う。
「……うん」
ミレーヌは何か言いたそうにした。
エレノアの身体が僅かに緊張する。
また会いたいと言われるかもしれない。
次はいつかと聞かれるかもしれない。
まだ決めていない。
そのことをどう言えばいいか考えたところで、ミレーヌが先に口を開いた。
「次も会って、とは今は言わない」
エレノアは目を瞬いた。
「なんで?」
「だって、お姉様が決めるんでしょう?」
「……はい」
「だから、今日会ってくれてありがとう」
ミレーヌは椅子から立ち上がった。
その瞬間、エレノアの肩に少し力が入る。
ミレーヌはそれに気づいたのか、こちらへ歩いてこなかった。
その場で立ったまま、ぎこちなく礼をする。
「ドレスは返します。あと……知らなかったことは、知らなかったままにしないようにする」
エレノアには、その言葉の意味をすべて理解することはできなかった。
ミレーヌ自身も、まだ分かっていないのかもしれない。
「はい」
だから、それだけ答えた。
マルグリットが立ち上がり、扉へ向かう。
ミレーヌもそちらへ歩き始めた。
エレノアは座ったままだった。
立たなくてもいいと決めた。
扉の前で、ミレーヌが一度振り返る。
「お姉様」
「何ですか?」
「薄い緑、似合ってる」
エレノアは自分のドレスを見る。
朝、自分で選んだ色だ。
「ありがとう」
少し迷ってから、付け加える。
「ミレーヌも、黄色似合ってます」
ミレーヌの顔がぱっと明るくなった。
その表情を見た瞬間、エレノアの胸の奥に、前の人生とは結びつかない新しい記憶が一つ生まれた。
薄黄色のドレス。
白いリボン。
好きな色を聞かれて笑った妹。
答えたくないと言った時、追及しなかった妹。
それだけだ。
たった二十分で、三年間の記憶を塗り替えられるはずはない。
塗り替える必要もない。
ただ、今までなかった記憶が一つ増えた。
「それでは、失礼します」
ミレーヌが部屋を出る。
扉が閉じられた。
その音を聞いた瞬間、エレノアの身体から力が抜けた。
背もたれへ深く身体を預ける。
「……終わった」
マルグリットはすぐに近づかず、自分の席のそばに立ったまま尋ねた。
「私がこちらへ行ってもいい?」
「はい」
許可を得てから、マルグリットはエレノアの隣まで来る。
「手、お願いします」
「ええ」
差し出された手を、エレノアは両手で握った。
温かい。
そこで初めて、自分の指先がかなり冷えていたことに気づいた。
「怖かったです」
「ええ」
「最初、すごく怖かった」
「見ていたわ」
「途中も、怖かったです」
「ええ」
マルグリットは「でもできたでしょう」とは言わなかった。
怖かったという事実を、成功のために小さくしなかった。
エレノアはその手を握ったまま、しばらく呼吸を整える。
「でも……」
言葉が続かない。
何を感じているのか、自分でもまだ分からない。
安心。
疲労。
悲しさ。
少しの嬉しさ。
混乱。
前の人生を思い出した時の恐怖。
今のミレーヌと話した時の戸惑い。
全部が混ざっている。
「今、決めなくていい?」
エレノアが尋ねる。
「何を?」
「ミレーヌのこと、どう思ったか」
「もちろんよ」
「次に会うかも」
「決めなくていいわ」
「今日の面会が良かったか悪かったかも?」
マルグリットは微笑んだ。
「それも、今すぐ一つに決めなくていいと思うわ」
エレノアはゆっくり頷いた。
「疲れました」
「では、お部屋へ戻りましょうか」
「……池は?」
「行きたいの?」
聞かれて、エレノアは少し考えた。
「今は、部屋がいいです」
「ええ」
◇ ◇ ◇
ミレーヌは控室へ戻るまで、一度も後ろを振り返らなかった。
振り返ったら、また姉のところへ戻りたくなる気がしたからだ。
控室ではコレットが待っていた。
「お嬢様」
「終わった」
「はい」
ミレーヌは椅子へ座ると、しばらく黙った。
コレットは何があったのかを尋ねない。
その沈黙が、今はありがたかった。
「お姉様ね」
やがてミレーヌが口を開く。
「私のこと、嫌いか分からないって」
コレットは表情を変えずに聞いている。
「嫌いじゃないとも言えないって」
声が少し震えた。
「それ、結構つらい」
「はい」
「でも、怖いのに会ってくれたんだって」
ミレーヌは自分の薄黄色のスカートを握りかけ、皺になる前に手を緩めた。
「私、お姉様に怖いって言われた」
「……そうでございましたか」
「なんで怖いかは教えてくれなかった」
「お尋ねになったのですか?」
「聞いた。でも、今日は話したくないって言われたから、やめた」
コレットは静かに頷いた。
「それでよろしかったと思います」
「うん」
ミレーヌは唇を結ぶ。
姉の顔が浮かぶ。
自分が部屋へ入った瞬間、本当に怖そうだった。
あの表情を思い出すと胸が痛い。
(私、何したんだろう)
知らないことがある。
きっと、たくさんある。
けれど、だからといって今すぐ全部を知る権利があるわけではないらしい。
「コレット」
「はい」
「私、お母様に今日のこと全部話さない」
コレットの表情が僅かに変わった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「お姉様が私に言ったことだから」
以前、仲介された言葉についても、母へすべてを伝えなかった。
その時は自分でも、なぜ隠すのかよく分かっていなかった。
今は少し分かる。
「お父様には、会えたってことだけ言う。聞かれたら、詳しいことはお姉様との話だから言わないって言う」
「伯爵様がお尋ねになっても、ですか?」
ミレーヌは少し不安そうにした。
それでも頷く。
「うん」
父に逆らうことには慣れていない。
母に秘密を作ることにも慣れていない。
けれど今日、姉が「話したくない」と言ったところで止まった時、自分はそれを守れた。
ならば、姉が自分に話した言葉を、勝手に家族へ広げることも違う気がした。
「……お姉様、緑が好きなんだって」
ミレーヌはぽつりと言った。
「水色も。黄色も最近ちょっと好きだって」
それだけは、誰かに言いたくなった。
けれど、少し考えて首を振る。
「やっぱり、それも言わない」
「かしこまりました」
「私が知ってればいい」
ミレーヌはそう言って、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
エレノアが自室へ戻ると、刺繍布は出かける前と同じ場所に置かれていた。
途中まで刺した葉も、そのままだ。
「……続き」
椅子へ座り、針を持つ。
けれど、一針入れようとしたところで手が震えた。
エレノアは無理に続けず、針を布へ戻した。
「今日は無理かもしれません」
リディアが少し離れたところから答える。
「でしたら、そのままになさってはいかがでしょう」
「途中なのに?」
「明日続きをなさっても、数日後になさってもよろしいかと存じます」
「……そうですね」
エレノアは刺繍布を畳まず、そのまま置いた。
今は何かを完成させるより、身体を休めたかった。
「お水ください」
「はい」
水を飲む。
喉が思っていた以上に乾いていた。
少し落ち着いたところで、エレノアは机の紙へ目を向けた。
記録を書くかどうか迷う。
今日はまだ、言葉にできないことが多い。
それでも、忘れたくないことがあった。
「紙を一枚ください」
リディアが用意した紙を前に、エレノアはペンを持った。
最初に書いたのは、面会の内容ではなかった。
『ミレーヌは薄い黄色の服だった』
その下へ続ける。
『一番好きな色は桃色。黄色も好き』
『私は、水色と薄い緑が好き。最近は黄色も少し好き』
そこで一度止まる。
次に何を書くか迷った。
やがて、ゆっくりと続ける。
『ドレスのことを謝った』
『知らなかったと言った』
『返したくないと思ったこともあったと言った』
『それでも、私のものなら返すと言った』
『私は、全部ミレーヌが悪いとは思わない。でも、どこまで悪くないのかもまだ分からない』
さらに書く。
『私が昔どうして一人だったのか聞かれた』
『今日は話したくないと言った』
『ミレーヌは、それ以上聞かなかった』
その一行を書いたところで、エレノアの手が止まった。
大事だと思った。
とても小さなことかもしれない。
それでも、自分にとっては大事だった。
拒んだら、止まった。
エレノアは次の一行を、少しゆっくり書いた。
『嫌だと言ったところで、止まってくれた』
前の人生は消えない。
今のミレーヌが無実だと決まったわけでもない。
将来、何も起こらないと決まったわけでもない。
自分が妹を好きになったわけでも、許したわけでもない。
それでも、今日起きたことまで過去のために消してしまいたくなかった。
『私はミレーヌが怖いと言った』
『理由は全部話していない』
『ミレーヌは、次も会ってとは言わなかった』
『今日会ってくれてありがとう、と言った』
最後に、エレノアは長く迷った。
そして書く。
『今日会ったミレーヌと、私が覚えているミレーヌを、まだ同じようには考えられない』
その文章だけは、リディアに見せるつもりのない記録だった。
前の人生を知る自分だけが理解できる言葉。
さらに一行。
『どちらかを消さなくてもいい』
過去のミレーヌを忘れる必要はない。
今日のミレーヌを疑い続けなければならないと決める必要もない。
まだ分からない。
今はそれでいい。
エレノアはペンを置いた。
「リディア」
「はい」
「お父様たちに、今日はまだ話さないです」
「アルフォンス様方へ、という意味でよろしいでしょうか」
「あ……はい。アルフォンスお父様たち」
最近、自然にそう呼ぶことが増えてきた。
「話したくなったら、あとで話します」
「かしこまりました」
「でも、お祖母様は知ってますね」
「ご同席されておりましたので」
「そっか」
それは嫌ではなかった。
マルグリットには最初から同席してほしいと自分で決めた。
知っている人が一人いることも、自分の選択だ。
エレノアは椅子から立ち上がり、寝台脇の小卓へ向かった。
空の肖像枠がある。
「お母様」
その前へ座る。
「会いました」
返事はない。
それでも続ける。
「ミレーヌ、桃色が一番好きなんですって」
今まで知らなかった。
同じ屋敷で暮らしていた妹なのに。
「私は薄い緑も好きです」
それも、昔の自分は知らなかった。
母が生きていた頃、自分は何色が好きだったのだろう。
母は知っていたのだろうか。
いつか思い出すかもしれない。
思い出さないかもしれない。
「今日、ミレーヌを許したわけじゃないです」
エレノアは空の枠へ向かって言った。
「嫌いじゃないとも言えなかったです」
胸の奥が少し痛む。
「でも、会ってよかったかもしれない」
言ったあと、すぐに首を振った。
「……まだ、それも決めなくていいですね」
今日の面会を成功だったと評価しなくていい。
失敗だったと決めなくてもいい。
ただ、会った。
話した。
怖かった。
少し笑った。
知らなかったことを一つ知った。
答えたくないことには答えなかった。
それだけのことを、今日はそのまま持っていていい。
エレノアは空の肖像枠の縁へ触れそうになり、途中で指を止めた。
触れたい。
そう思ったため、今度は自分からそっと木の縁へ指先を置く。
「次に会うかは、また私が決めます」
その言葉を口にすると、不思議と安心した。
今日会ったから、次も会わなければならないわけではない。
今日少し笑えたから、妹を好きにならなければならないわけでもない。
怖かったから、二度と会ってはいけないわけでもない。
次の選択は、次の自分に残されている。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
今日という日はまだ終わっていない。
面会が終わったからといって、一日まで終わったわけではなかった。
エレノアは少し考えたあと、リディアへ顔を向ける。
「夕食、魚がいいです」
「承知いたしました。種類のご希望はございますか?」
「今日あるもので、焼いたのがいいです。香草が少しあるやつ」
「厨房へ確認いたします」
「あと、パンは……」
お腹の具合を確かめる。
「夕食の時に決めます」
「かしこまりました」
それでよかった。
妹に会った日の夕食も、自分で決めていい。
怖いことがあった日でも、好きなものを食べていい。
大きな出来事のあとに、普通の生活へ戻っていい。
エレノアはもう一度、途中までの刺繍布を見た。
今日は続きを刺せないと思った。
けれど、夕食のあとに気が変わるかもしれない。
それも、その時決めればいい。
机の上では灰青色の帳面が閉じたまま置かれている。
三枚の絵も布に包まれたままだ。
母の肖像はまだ見つからない。
野薔薇の木箱も、青い髪飾りも戻っていない。
小さな真鍮色の鍵も見つかっていない。
分からないことは、まだたくさん残っている。
それでも今日、エレノアは一つだけ、これまで知らなかったことを知った。
ミレーヌは桃色が一番好きだった。
そんな小さなことが、なぜか胸の中へ静かに残っている。
(私は、妹の好きな色さえ知らなかった)
その事実は悲しい。
けれど今は、一つ知っている。
知らなかった十五年間を、一度の面会で埋める必要はない。
これから知るかどうかさえ、まだ決めなくていい。
ただ今日、自分は妹の言葉を、自分の耳で聞いた。
誰かが説明したミレーヌではなく、母が語ったミレーヌでも、父が伝えたミレーヌでもない。
そして何より、処刑台から見た三年後のミレーヌだけでもない。
今日、自分の前に座っていた十五歳の妹の言葉を聞いた。
その新しい記憶を、エレノアは過去を消すためではなく、今を知るためのものとして、胸の中へそっと置いた。




