第38話 昨日の答えを、今日の決まりにしない
翌朝、エレノアが目を覚ました時、最初に思い出したのは処刑台ではなかった。
薄黄色のドレスだった。
白いリボンをつけた十五歳の少女が、少し緊張した顔で椅子に座っている。桃色が一番好きだと言い、黄色も好きだと笑ったミレーヌの姿が、眠りから覚めたばかりの意識へ静かに浮かんだ。
(昨日、会ったんだ)
そのあとになって、胸の奥へ複雑なものが広がっていく。
嬉しい、と呼ぶには違う気がする。
安心した、と言い切ることもできない。
怖くなくなったわけではないし、妹を許したわけでもない。それでも、昨日の二十分が嫌なことだけだったのかと聞かれれば、それも違った。
エレノアは掛け布団の上で両手を重ねた。
(今日は、どう思ってるんだろう)
昨日の夜は、まだ決めなくていいと思った。
朝になれば何か答えが出るのではないかと、心のどこかでは期待していたのかもしれない。
けれど、やはり分からない。
ミレーヌにもう一度会いたいのか。
しばらく会いたくないのか。
昨日の面会を良かったと思っているのか。
それとも、怖かった記憶の方が強いのか。
どれも少しずつ当てはまり、どれか一つだけを選ぶことができなかった。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい」
「入室してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
リディアが入ってくる。
いつものように挨拶を交わし、カーテンを開けるかを尋ねられたところで、エレノアは窓へ視線を向けた。
「今日は半分だけ開けてください」
「かしこまりました」
左右すべてではなく、片側だけが開かれる。
朝の光が部屋の半分ほどへ差し込み、机の上に置かれた灰青色の帳面と、生成りの布に包まれた三枚の絵の端を照らした。
寝台脇の小卓には、母の肖像が抜かれた空の枠がある。
「おはようございます、お母様」
エレノアは今日も声をかけた。
それから寝台を降り、昨日途中で止めた刺繍布を見る。
葉は完成していない。
面会から戻ったあと、手が震えて続きを刺せなかったものだ。
「リディア」
「はい」
「昨日の続き、朝食のあとにしてもいいですか?」
「もちろんでございます」
「池より先に」
「では、本日は刺繍をなさってから、池へ行かれるかどうかお決めになりますか?」
エレノアは少し考えた。
「はい。池に行くかは、その時決めます」
「かしこまりました」
昨日は池へ行った。
だから今日も行く必要はない。
毎日好きだったとしても、毎日同じ行動をしなければ好きではなくなるわけでもない。
そんなことを考えながら、エレノアは衣装棚へ向かった。
今日選んだのは淡い水色のドレスだった。
髪には何もつけない。
白いリボンを選んだ昨日と違っていていい。
◇ ◇ ◇
朝食の席へ入った時、セドリックは一瞬だけエレノアを見た。
その視線に昨日の面会について聞きたい気持ちが含まれていることは、エレノアにも何となく分かった。
けれど、彼は聞かなかった。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます、お兄様」
いつもと同じ挨拶だった。
アルフォンスもオーギュストも、昨日のことには触れない。
マルグリットだけは面会に同席していたから内容を知っているが、彼女も自分から話題にはしなかった。
エレノアは席へ着く。
今朝は柔らかく焼いた卵と野菜のスープ、薄く切ったパン、果物が用意されていた。
スープを二口飲んだところで、エレノアはふと顔を上げる。
「お兄様」
「うん?」
「昨日のこと、気になりますか?」
セドリックの手が止まった。
「気になるよ」
昨日と同じく、誤魔化さない。
「でも聞かないんですか?」
「エレノアが話すって言ってないからね」
エレノアはスプーンを持ったまま、少し考えた。
話したくないわけではない。
全部を話したいわけでもない。
「少しなら話してもいいです」
セドリックの表情が僅かに変わる。
それでも、すぐに質問を重ねることはなかった。
「何を話したい?」
何を聞きたい、ではなかった。
その違いに気づき、エレノアは昨日のことを思い返す。
「ミレーヌは、桃色が一番好きなんですって」
「……色?」
「はい。黄色も好きだそうです」
「そうなんだ」
セドリックは少し意外そうな顔をしたあと、笑った。
「エレノアは、それを聞いたんだね」
「最初に服の話をしました」
「うん」
「ドレスのことも話しました。ミレーヌは知らなかったって。返したくないと思ったこともあったけど、私のものなら返すって言いました」
アルフォンスの眉が僅かに動いた。
それでも口を挟まない。
「それから……私がどうして昔一人だったのか聞かれました」
食卓の空気が少しだけ変わる。
エレノアはそれを感じながら続けた。
「話したくないって言いました」
セドリックの目がエレノアへ向く。
「そうしたら、ミレーヌはそれ以上聞きませんでした」
「……そうか」
「はい」
それだけ話したところで、エレノアはスープへ視線を戻した。
「今日は、ここまでにします」
「分かった」
セドリックはすぐに頷いた。
アルフォンスも何も求めなかった。
少しして、エレノアはもう一度顔を上げる。
「お父様」
アルフォンスが応じる。
「どうした?」
「私、ミレーヌとまた会うか、まだ決めてません」
「ああ」
「昨日会ったから、また会わせる話が進んだりしませんか?」
アルフォンスは首を横へ振った。
「進めない。昨日許可されたのは、昨日の一度だけだ」
エレノアはその答えを聞いて、肩の力を少し抜いた。
「ミレーヌ嬢から次の希望が届いたとしても、まずエレノアへ伝えるかどうかから確認する。昨日会ったことを、今後の面会を自動的に許可したものとして扱うつもりはない」
「よかった」
口に出すと、自分が思っていた以上に安心したことが分かった。
昨日の自分が会うと決めた。
その決定が、今日以降の自分まで拘束するわけではない。
「昨日の答えは、昨日の答えなんですね」
「そうだ」
アルフォンスは静かに答えた。
「今日の答えが違っても構わない」
エレノアは頷いた。
そしてスープをもう一口飲む。
今日は昨日より食欲がある。
だからといって、昨日の自分が間違っていたわけではない。
昨日は昨日の身体で、今日は今日の身体だった。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、自室へ戻ったエレノアは、昨日途中で止めた刺繍布を膝へ広げた。
未完成の葉へ針を通す。
昨日は震えていた指が、今日はそれほど震えない。
一本。
もう一本。
緑の糸が布の上へ重なり、途中だった葉が少しずつ形になっていく。
「昨日の続きなのに、昨日と同じ気持ちじゃないです」
傍らで衣類を整えていたリディアが顔を上げた。
「刺繍のお話でしょうか」
「それもです」
エレノアは針を止める。
「昨日はミレーヌと会ったあと、これを見るだけで疲れた感じがしました。でも今日は続きをしたいです」
「はい」
「昨日できなかったなら、今日もできないと思わなくていいんですね」
「昨日お疲れだったことと、本日なさりたいと思われることは、別でございますから」
「……そうですね」
エレノアは再び針を動かした。
やがて、葉が完成する。
少し左右の形が違う。
以前なら直したかもしれない。
今はそのままにした。
「できました」
「はい。きれいな葉でございます」
「左右、違いますよ?」
「違いますね」
「それでも?」
「私はきれいだと思いました」
エレノアは刺繍布を眺める。
「じゃあ、これで完成にします」
昨日の続きを、今日終わらせた。
それだけのことが妙に嬉しかった。
刺繍布を置いたところで、リディアが一度扉の方へ視線を向けた。
ちょうど控えめなノックが響く。
入室した使用人は、アルフォンスからの伝言を持っていた。
「公爵閣下より、お嬢様へ確認がございます。本日、調査に関する新しい報告が届いておりますが、お聞きになるかどうかはお嬢様がお決めになってよいとのことでございます」
エレノアの指が刺繍布の端で止まった。
「何についてかは聞いていいですか?」
「ナタリー・ヴェルヌ様の所在確認に関する報告とのことでございます」
胸の奥が少し冷たくなる。
赤茶色の髪。
細身の侍女。
ヴァレリア付きだった女性。
グスターヴが覚えていた人物と特徴が似ている。
自分の断片的な記憶にある赤茶色の髪とも重なる。
けれど、同一人物だとはまだ分かっていない。
まして、何かをした人物だと決まったわけでもない。
「……見つかったんですか?」
使用人は勝手に答えなかった。
「私がお預かりしているのは、報告が届いたことと、その内容をお聞きになるかどうかを確認するようにとの言葉のみでございます」
エレノアは口を閉じた。
知りたい。
けれど、昨日はミレーヌとの面会があった。
今日まで調査のことを何も考えずに過ごしてもいいのではないかという気持ちもある。
(今、聞きたい?)
自分へ問いかける。
怖い。
でも、聞きたくないわけではない。
灰青色の帳面を開く時とは少し違う。
ナタリーについては、以前から追ってもらうことを自分も了承している。
「聞きます」
エレノアは答えた。
「でも、今すぐじゃなくていいです」
「承知いたしました」
「お昼を食べてからにします。それと……誰が一緒にいるか、私が決めてもいいですか?」
「もちろんでございます」
「お父様と、お兄様がいいです。お祖母様は……今日は休んでいてほしいです」
昨日、ずっと自分の面会に付き添ってくれた。
それを理由に遠慮しなければならないわけではないが、今日はアルフォンスとセドリックがいいと思った。
「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」
使用人が退室する。
エレノアは息を吐いた。
「池はどうなさいますか?」
リディアに尋ねられる。
エレノアは窓の外を見る。
調査報告を聞くと決めたからといって、それまで待ち続ける必要はない。
「行きます」
今度は迷わなかった。
◇ ◇ ◇
その報告の発端となったのは、前日の午前まで遡る。
ベルナール伯爵家から直接ナタリーを訪ねることは、ロベルト自身が禁じていた。
リュシアン通り付近で確認された婚姻記録。
夫の名はダニエル・グレイ。
妻の名はナタリー。
年齢もおおよそ一致していたが、最初に確認された写しでは旧姓欄が不鮮明だった。
それだけを根拠にナタリー・ヴェルヌだと決めることはできない。
そのため原本の照合が行われた。
結果、妻の旧姓はヴェルヌ。
年齢と婚姻時期も、ベルナール家の雇用記録に残る退職時期と矛盾しなかった。
ここまででようやく、ナタリー・ヴェルヌが結婚後、ナタリー・グレイを名乗ったことは確認できた。
しかし、居場所は別だった。
婚姻時に届け出られたリュシアン通り近くの住所へ、いきなり訪問することはしていない。
近隣へ不用意に名前を出さず、土地と建物の管理記録、商取引に付随する住所記録など、第三者へ噂を広げにくい方法から確認した。
その結果、グレイ夫妻はすでに婚姻時の住所には住んでいない可能性が高いことが判明した。
ダニエルが勤めていた北部の織物商は、主人の高齢を理由に前年閉業している。
ただし、ダニエル自身は閉業のおよそ半年前に退職していた。
退職理由は記録にない。
現在の勤務先も、まだ確認できていない。
夫妻がどこへ移ったのか。
なぜ移ったのか。
現在も夫婦で暮らしているのか。
それらは不明だった。
そして何より重要なのは、ナタリー・グレイがグスターヴの記憶にある赤茶色の髪の侍女であるかどうかは、依然として確認されていないことだった。
ロベルトは報告書を読み終えたあと、しばらく机の上へ置いたまま動かなかった。
「原本確認は間違いないのだな」
「はい。ナタリー・ヴェルヌ本人の婚姻記録と見て問題ございません」
家令が答える。
「だが、それだけだ」
「はい」
ロベルトは紙面へ視線を落とした。
ナタリー・ヴェルヌ。
ヴァレリア付きの侍女だった女。
自分も見たことはあるはずだ。
しかし顔を鮮明には思い出せない。
妻のそばにいた使用人の一人。
その程度にしか見ていなかった。
「グスターヴには、ナタリーの肖像や特徴を見せるな」
「承知しております」
「先に名前を教えることもするな。確認が必要になったとしても、記憶を誘導しない方法を取れ」
「はい」
ロベルトは一度目を閉じる。
エレノアのことを調べれば調べるほど、自分が知らなかった人間の名が増えていく。
マルタ。
ノエル。
サビーヌ。
オスカー。
グスターヴ。
ナタリー。
娘の周囲にこれだけの人間がいて、その一人一人が自分より多くエレノアの日常の断片を覚えている。
(私は、何を見ていた)
問いはもう何度も浮かんでいた。
だが、その問いに浸ることを、ロベルトは自分へ許さなかった。
後悔したからといって、調査が進むわけではない。
「移転先の確認は続けろ。ただし、近隣で『ナタリー・グレイを探している』などと言い回るな。ヴァレリア側から先に接触があった形跡についても、可能な範囲で確認する」
「かしこまりました」
「それと、この報告はロシュフォールへ回す」
家令が僅かに顔を上げる。
「現住所が判明してからではなく、現段階で、でございますか」
「ああ」
ロベルトは低く答えた。
「見つかっていないことも情報だ。エレノアが知るかどうかは、向こうで本人に選ばせてもらう」
自分から娘へ直接知らせることはしない。
会うことも求めない。
それが今の自分に許されている距離だった。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアは小さな書斎へ入った。
アルフォンスとセドリックが先に待っている。
机の上には一通の報告書が置かれていたが、エレノアの席の前には出されていない。
まず口頭で聞くか、自分で読むか。
そこから選べるようにしているのだろう。
「お父様」
「来たか」
「はい」
エレノアは椅子へ座る。
セドリックは向かいではなく、少し横へずれた位置にいた。
「自分で読みますか。それとも、説明してもらえますか」
アルフォンスが答える。
「どちらでもいい。概要だけ先に聞いて、それから読むか決めても構わない」
「じゃあ、概要をお願いします」
アルフォンスは頷いた。
「婚姻記録の原本が確認された。以前見つかったダニエル・グレイの妻ナタリーは、旧姓ヴェルヌだった」
エレノアの指先が僅かに動く。
「……同じ人だったんですね」
「ベルナール家に勤めていたナタリー・ヴェルヌが、退職後にダニエル・グレイと婚姻し、ナタリー・グレイとなった。そこまでは記録上、かなり確かだ」
「はい」
「ただし、グスターヴが覚えていた赤茶色の髪の侍女と同一人物だとは確認されていない」
エレノアは頷く。
「私が覚えてる人とも?」
「確認されていない」
「何かした人かどうかも?」
「分からない」
答えが一つずつ切り分けられていく。
エレノアは少しだけ息を吐いた。
「それで、どこにいるんですか?」
「まだ分からない」
予想していなかった答えに、エレノアは瞬いた。
「リュシアン通りじゃないんですか?」
「婚姻時には、その付近の住所が届け出られていた。ただ、現在はそこから転居している可能性が高い」
「いつ?」
「正確な時期はまだ確認中だ」
「どこへ?」
「それもまだだ」
エレノアは黙った。
見つかったと思ったら、また分からなくなった。
以前なら、そのことを「調査に失敗した」と感じたかもしれない。
けれど今は少し違う。
「ナタリー・ヴェルヌがナタリー・グレイになったことは分かった。でも、今どこにいるかは分からない」
「そうだ」
「一個分かって、一個まだ分からない」
セドリックが静かに頷く。
「そういうことだね」
エレノアは報告書を見る。
「読みます」
アルフォンスが書類をこちらへ滑らせた。
そこには婚姻記録の確認結果と、旧住所の確認状況が簡潔にまとめられている。
ダニエルの以前の勤務先についても書かれていた。
北部の織物商。
前年に閉業。
ダニエルはその約半年前に退職。
理由不明。
現在の勤務先不明。
エレノアは一行ずつ読む。
「逃げたんですか?」
自分で口にしたあと、すぐに紙面を見る。
どこにもそんなことは書いていない。
「……違う」
アルフォンスが答えるより先に、エレノア自身が言い直した。
「転居したことしか分からない」
「そうだ」
「お仕事を辞めた理由も分からない」
「ああ」
「だったら、逃げたとは決まってない」
結婚して住む場所を変えることはある。
仕事を変えることもある。
家賃の問題かもしれない。
夫婦の事情かもしれない。
家族の事情かもしれない。
もっと単純な理由かもしれない。
何か悪いことをして逃げた可能性が絶対にないとは言えないが、それを今選び取る根拠もない。
「お父様は、どうするって?」
ロベルトを指していることは、二人にも伝わった。
アルフォンスは報告書の別紙を見る。
「所在確認を続ける。ただし近所へ名前を出して聞き回ることはせず、記録から追う。ヴァレリア側から先に接触した形跡がないかも、可能な範囲で確認するそうだ」
エレノアの表情が少し硬くなる。
「ヴァレリア様は、ナタリーさんを探してることを知ってますよね」
「ナタリーという名前が調査対象になっていることは知っている。ロベルトから接触するなとも言われている」
「守ってるかは分からない?」
「確認できている範囲では、接触した証拠はない。だから、破ったとも守っているとも断定はしない」
「……はい」
エレノアは報告書を机へ戻した。
そこで、以前から気になっていたことを思い出す。
「お父様」
「何だ?」
「前にお願いした、ヴァレリア様へナタリーさんのことを聞いた結果は?」
アルフォンスは一瞬だけ黙った。
エレノアはその反応を見て、自分の質問が伝わっていることを確認する。
「私、聞きたいって言いました」
「ああ。覚えている」
「まだ詳しく聞いてません」
「その通りだ」
アルフォンスは言い訳をしなかった。
「こちらから改めて確認すべきだった。報告そのものは届いている」
エレノアの胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。
怒っているのかもしれない。
以前なら「大丈夫です」と言ってしまっただろう。
けれど、今日は違った。
「……少し嫌です」
アルフォンスの表情が引き締まる。
「すまない」
「忘れてたんですか?」
「忘れてはいなかった。ただ、ミレーヌ嬢との面会準備が重なったことで、こちらが伝える時期を勝手に後ろへずらしてしまった」
「私が疲れると思ったから?」
「それもある」
「でも、聞くかどうかは私が決めるって、前に言いました」
「ああ」
「だったら、内容を勝手に言わないのはいいけど、『報告があります』って教えてほしかったです」
「その通りだ」
アルフォンスはまっすぐエレノアを見る。
「私の判断が一つ先へ出た。すまなかった」
エレノアは胸の中を確かめる。
謝られたから、すぐに「いいです」と言わなければならないわけではない。
「まだ少し嫌です」
「ああ」
「でも、今言えたから……前よりはいいです」
アルフォンスが静かに頷いた。
セドリックも口を挟まない。
エレノアは報告書の端へ指を置いた。
「その結果、今日聞けますか?」
「聞ける」
「今?」
「エレノアが望むなら」
エレノアは考えた。
ナタリーの所在について聞いたばかりだ。
さらにヴァレリアの話を聞けば、疲れるかもしれない。
だからといって、明日に延ばす必要もない。
「短く、先に聞きたいです」
「分かった」
アルフォンスは別の記録を取り出した。
「ロベルトがヴァレリアへ確認した内容だ。ナタリーについては、ヴァレリアは『静かで、余計なことを言わず、仕事のできる侍女だった』という趣旨の説明をしている。退職は婚姻のためと認識していた。現在の住所や婚姻後の生活については知らないと答えている」
「ナタリーさんに、私のことを何かさせたかは?」
「直接そう尋ねる形は避けている。誘導になるからな。ただ、当時のエレノアの身の回りについて、誰へどのような指示を出していたかは確認している」
エレノアは背筋を少し伸ばす。
「ヴァレリアは、自分がエレノアの好みを判断していたこと自体は否定していない。エレノアが静かで、『何でもいい』と答えることが多かったため、派手な服や茶会を好まない、一人で過ごす方が楽なのだと考えた、と説明している」
昨日、ミレーヌから聞いた言葉と重なる。
一人でいるのが好き。
お茶が嫌い。
派手な服が嫌い。
自分のことは自分でしたい。
胸の奥がざわつく。
「私に聞いたって言ってますか?」
「直接、明確に確認した個々の場面は示していない」
「じゃあ、分からないんですね」
「ああ。ヴァレリアが本当にそう解釈していたのか、後からそう説明しているのかは、現時点では断定できない」
「嘘だって決まってない」
「決まっていない」
「本当だとも?」
「決まっていない」
エレノアは膝の上で両手を組んだ。
嫌な感じがする。
ヴァレリアの声を思い出しそうになる。
けれど、今聞いたものは事実の確定ではない。
ヴァレリアの説明だ。
「ナタリーさんのことも、ヴァレリア様の話も、まだ分からないことが多いですね」
「そうだな」
「でも、分からないって分かった」
セドリックが僅かに微笑む。
「それも前進だと思うよ」
エレノアは兄を見る。
「前だったら、分からないの嫌でした」
「今は?」
「今も嫌です」
正直に答える。
「でも、分からないからって、一番怖い答えを本当だと思わなくてもいいって、少し分かってきました」
ナタリーが逃げた。
ナタリーが自分を傷つけた。
ヴァレリアが全部命じた。
そう考えれば、ばらばらの出来事が一つにつながったように見えるかもしれない。
けれど、それはまだ証拠ではない。
自分が処刑された前の人生でも、証拠らしく見えるものが積み重ねられた。
毒。
手紙。
証言。
購入記録。
それらによって、無実の自分が犯人にされた。
(だから、私は同じことをしたくない)
嫌いだから犯人。
怖いから犯人。
怪しいから犯人。
それでは、自分を殺した人々と同じになってしまう。
「ナタリーさんが見つかったら」
エレノアはゆっくり言った。
「いきなり私のところへ連れてこないでください」
「もちろんだ」
「会うかどうかは、その時決めます」
「ああ」
「それと、見つかっただけで、何かした人みたいに扱わないでほしいです」
アルフォンスの目が僅かに細くなる。
怒りではない。
娘の言葉を受け止める時の表情だった。
「分かった」
「話を聞く必要はあるかもしれない。でも、最初から悪い人だって決めて聞いたら……違うことまで、そう聞こえるかもしれないから」
「その通りだ」
エレノアはそこで、少しだけ息を吐いた。
疲れている。
それでも、聞いてよかったと思った。
今度はその感想を、無理に保留しなくてもいい気がした。
「今日は、ここまでにします」
「分かった」
アルフォンスは書類を閉じる。
それ以上、新しい報告を出そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
書斎を出たあと、エレノアは自室へ戻るつもりだった。
しかし廊下を半分ほど進んだところで足を止める。
「リディア」
「はい」
「池、今からでも行けますか?」
「もちろんでございます。少々風が出ておりますので、羽織物をお持ちいたしますか?」
「お願いします」
午前中にも池へ行った。
それでも、もう一度行きたいと思った。
同じ日に二回行ってはいけない理由はない。
薄手の羽織を受け取り、南の庭へ向かう。
午後の池は朝とは少し違って見えた。
風で水面が細かく揺れている。
ユリウスは池から離れた場所で低木の手入れをしていたが、エレノアが来たことに気づくと作業の手を止めて一礼した。
「本日二度目ですね、お嬢様」
「二回来たら変ですか?」
何気なく尋ねると、ユリウスは少し考えた。
「私など仕事で日に何度も来ますので、二度なら少ない方でございます」
エレノアは思わず笑った。
「そういう意味じゃなかったです」
「失礼いたしました」
ユリウスも少し笑う。
エレノアはいつもの腰掛けへ座った。
今日はパンを持ってきていない。
魚が寄ってきても、餌を与える必要はない。
水面を眺めているだけでいい。
しばらくすると、リディアが少し離れた位置へ立つ。
「昨日のミレーヌのことを考えてました」
エレノアが言った。
「はい」
「それから、ナタリーさんのことを聞きました」
「はい」
「どっちも、まだ分からないことがあります」
ミレーヌが将来どうなるのか。
ナタリーが何をしたのか、していないのか。
ヴァレリアがどこまで意図していたのか。
母の品を誰がどこへ移したのか。
鍵はどこにあるのか。
灰青色の帳面には何が書かれているのか。
分からないことばかりだった。
「前は、分からないと怖かったです」
「今もお怖いですか?」
「怖いです」
エレノアは水面を見ながら答える。
「でも、分からないまま置いておくことと、何もしてないことは違うのかなって」
ナタリーの所在は追っている。
婚姻記録は確認できた。
旧住所から転居していることも分かった。
ヴァレリアの説明も記録されている。
少しずつ進んでいる。
全部が一度に答えにならないだけだ。
「ミレーヌのことも」
エレノアは続ける。
「昨日会ったからって、好きか嫌いか決めなくていい。でも、何もなかったことにもしたくないです」
「昨日お話しされたことは、すでにあったことでございますから」
「はい」
「次にどうなさるかは、また別のお話かと存じます」
エレノアは頷いた。
風が吹き、水面の光が細かく崩れる。
同じ池なのに、朝とは形が違う。
それでも池そのものが別物になったわけではない。
「リディア」
「はい」
「今日、ミレーヌから何か来てますか?」
「私が存じている範囲では、面会の申し込みなどは届いておりません」
「そうですか」
少しだけ安心した。
そして、ごく僅かに残念なような気もした。
その二つが同時にあることに気づき、エレノアは眉を寄せる。
「変です」
「何がでしょう」
「何も来てなくて安心したのに、ちょっとだけ……何もないんだって思いました」
リディアはすぐには答えなかった。
「安心なさることと、少し寂しく感じられることは、同時にあってはいけないのでしょうか」
エレノアは考える。
「……分かりません」
「では、今は両方ある、でよろしいのではございませんか」
「両方」
「はい」
エレノアは水面へ視線を戻した。
安心した。
少し寂しい。
また会いたいとはまだ決めていない。
会いたくないとも決めていない。
それでいい。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ベルナール伯爵邸では、ミレーヌがヴァレリアと向かい合っていた。
「昨日はどうだったの?」
柔らかな問いだった。
ヴァレリアは娘のために茶を注ぎながら微笑んでいる。
「ロシュフォール公爵夫人も同席なさったのでしょう? エレノアは何かあなたに言った?」
ミレーヌはカップへ視線を落とした。
昨日、コレットへ言ったことを思い出す。
全部は話さない。
姉が自分へ話したことだから。
「会えたよ」
「ええ。それは聞いているわ」
「二十分だけ」
「それもね」
ヴァレリアは笑みを崩さない。
「何を話したの?」
ミレーヌは少し黙る。
母に何も言わないことは、思っていたより難しかった。
これまでなら、母に尋ねられたことへ答えるのは当たり前だった。
「……お姉様との話だから、全部は言わない」
ヴァレリアの指が、ティーポットの取っ手でほんの僅かに止まった。
「まあ」
声は優しいままだった。
「お母様にも?」
「うん」
「どうして?」
「お姉様が私に言ったことだから」
「でも、私はあなたのお母様よ。あなたが傷つけられていないか心配しているだけなの」
ミレーヌの胸に、ちくりとした罪悪感が生まれる。
母を心配させている。
話せば安心するのかもしれない。
けれど昨日、姉は自分のことを怖いと言った。
なぜ怖いのかは話さなかった。
それを母へ伝えていいのかさえ、ミレーヌには分からなかった。
「傷つけられてないよ」
「本当に?」
「うん」
「エレノアに何か責められたりは?」
ドレスのことを思い出す。
嫌だった、と姉は言った。
全部ミレーヌが悪いとは思っていないとも言った。
あれを「責められた」と母へ伝えたら、何かが違ってしまう気がした。
「話さない」
ミレーヌはもう一度言った。
ヴァレリアの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「ミレーヌ」
「お母様が嫌いだからじゃないよ」
「そんなことは思っていないわ」
「でも、言わない」
母が怒るかもしれない。
そう思った瞬間、昨日の姉との会話が蘇った。
『怒らないんですか?』
答えなかったから怒られると思っていた姉。
あの時、自分は不思議だった。
答えなくていいと約束したのに、どうして怒るのかと。
(じゃあ、私も言わなくていいこと、あるのかな)
ミレーヌはカップを両手で包んだ。
「それより、お母様」
「何かしら」
「私、聞きたいことがあるの」
ヴァレリアの目が僅かに細くなる。
「エレノアのこと?」
「うん」
ミレーヌは母を見る。
「お姉様が一人でいるのが好きだって、お母様、どうして思ったの?」
沈黙は一瞬だった。
ヴァレリアはすぐに微笑む。
「前にも話したでしょう? エレノアは昔から静かな子だったの。何を聞いても『何でもいい』と言うことが多くて、自分から人の輪へ入ろうともしなかったわ」
「お姉様に聞いたの?」
「もちろん、必要なことは聞いていたわ」
「いつ?」
ヴァレリアの笑みが僅かに固まる。
「ずいぶん昔のことよ。いちいち覚えてはいないわ」
「お茶が嫌いって、お姉様が言ったの?」
「そういう様子だったからよ」
「派手な服が嫌いっていうのは?」
「ミレーヌ」
少しだけ、母の声が強くなった。
ミレーヌの肩が反射的に縮む。
「どうしたの、急に」
「……知りたいだけ」
「エレノアに何か言われたのね?」
「言わない」
ヴァレリアの視線が変わる。
ほんの一瞬。
けれどミレーヌは、それを初めて「母が自分の答えを気に入らなかった時の顔」なのかもしれないと思った。
今までなら、すぐに謝っただろう。
「ごめんなさい」と言って、母が望むところまで話したかもしれない。
だが今日は、昨日の姉の姿が頭に残っている。
「私、お姉様のこと、自分で知りたい」
ミレーヌは言った。
「お母様から聞いたことだけじゃなくて」
「私が嘘を教えたと言いたいの?」
「そうじゃない」
ミレーヌは慌てて首を振りかけた。
しかし途中で止める。
「……分からない」
ヴァレリアの眉が動く。
「分からないから、聞いてるの」
その言葉は、昨日エレノアが何度も使ったものだった。
分からない。
それを誤魔化さずに口にすることが、こんなにも落ち着かないものなのだと、ミレーヌは初めて知った。
ヴァレリアは娘をしばらく見つめたあと、再び微笑んだ。
「そう。では、エレノアがまた会ってくれるといいわね」
「うん」
「でも、あまり無理を言ってはいけないわ。今のエレノアは少し不安定でしょうから」
ミレーヌの指が止まる。
「不安定?」
「だってそうでしょう? 突然家を出て、昔のことをいろいろと思い出しているようだもの。あなたまで振り回されたら、お母様は心配よ」
以前なら、そのまま受け入れたかもしれない。
だが昨日のエレノアは、怖がっていた。
震えてもいた。
それでも自分が嫌なことを、嫌だと言った。
分からないことを、分からないと言った。
途中で謝った言葉まで、自分で考えて取り消した。
(不安定って、そういうことなのかな)
ミレーヌには判断できない。
だからこそ、今は母の言葉だけで決めたくなかった。
「分からない」
もう一度そう答えた。
ヴァレリアの笑みは消えなかった。
けれど、カップを持つ指先には、先ほどより少し強く力が入っていた。
◇ ◇ ◇
夜。
エレノアは自室の机へ向かっていた。
灰青色の帳面は今日も閉じている。
三枚の絵も、生成りの布の中だ。
それらを開かなかったことを、今日は何とも思わなかった。
開かなかった。
ただそれだけだった。
エレノアは新しい紙へ、今日知ったことを書いていく。
『ナタリー・ヴェルヌは、ダニエル・グレイと結婚したナタリー・グレイであることが記録で確認された』
『婚姻時の住所は、リュシアン通りの近く』
『今はそこに住んでいない可能性が高い』
『今いる場所は、まだ分からない』
『ダニエルさんは、織物商が閉じるより前に仕事を辞めている』
『理由は分からない』
『逃げたとは決まっていない』
そこで一度ペンを止める。
次にヴァレリアのことを書く。
『ヴァレリア様は、ナタリーさんを静かで仕事のできる侍女だったと話している』
『私が「何でもいい」と言うことが多かったから、一人でいることや地味なものを好むと考えた、と説明している』
『本当にそう考えていたのか、あとからそう説明しているのかは、まだ分からない』
そして少し間を空けた。
『私は、ヴァレリア様が嫌いだからという理由だけで、話を全部嘘だと決めない』
書いた文字を見つめる。
ヴァレリアが怖い。
嫌いだ。
思い出したくないことも多い。
それでも、嫌いな相手の言葉なら全部嘘だと決めることは、事実を知ることとは違う。
逆に、証拠がないから何もなかったとすることも違う。
分からないものは、分からないまま残す。
それは思っていたより難しい。
けれど、必要なことなのだと思う。
さらに今日のことを書く。
『お父様たちは、ヴァレリア様への聞き取り結果が届いていることを、私にすぐ教えなかった』
『私は少し嫌だと言った』
『お父様は謝った』
『私は、すぐに「大丈夫です」と言わなかった』
その一行を見て、エレノアは少しだけ笑った。
以前なら考えられなかった。
大切な人が謝ってくれたら、すぐに許さなければならないと思っていた。
嫌だった気持ちを残すことは、相手を責め続けることだと思っていた。
でも今日は、少し嫌なままでも話を続けられた。
アルフォンスも怒らなかった。
関係が壊れることもなかった。
最後に、昨日のことを思い出す。
ミレーヌ。
また会うかは決めていない。
今日、次の面会希望は届いていなかった。
安心した。
少しだけ寂しいような気もした。
その二つを、どちらか一方に直す必要はない。
エレノアは紙の最後へ、ゆっくりと一行を書き加えた。
『昨日の私が決めたことを、今日の私がずっと守り続けなくてもいい』
少し考え、さらに続ける。
『昨日会いたかったから、次も会わなければならないわけではない』
『昨日怖かったから、次は会ってはいけないわけでもない』
『今日の私は、今日決めていい』
ペンを置いた。
窓の外はすっかり暗くなっている。
エレノアは寝台脇へ移動し、空の肖像枠を見る。
「お母様」
今日も呼びかける。
「私、昨日と同じじゃなくてもいいみたいです」
母の顔はまだ戻ってこない。
返事もない。
それでも、その場所へ話しかけることはもう不自然に感じなくなっていた。
「ミレーヌのことも、ナタリーさんのことも、まだ分かりません」
小さく息を吐く。
「でも、分からない人を、怖い答えの中に入れないようにします」
それは、誰かのためだけではない。
自分自身が、かつてそうされたからだ。
誰かに都合のいい答えへ押し込まれ、証拠らしく見えるものを積み上げられ、無実を訴えても聞いてもらえなかった。
だから今度は、自分が知りたい。
急がずに。
一つずつ。
事実と、記憶と、恐怖と、推測を混ぜないように。
そして、途中で嫌になったら止まってもいい。
次の日に続きを知りたくなったら、また始めてもいい。
エレノアは空の肖像枠へそっと触れた。
「おやすみなさい、お母様」
それから机へ戻り、灰青色の帳面を見る。
今日は開かない。
けれど、その選択を明日の自分へ押しつけるつもりもなかった。
明日、開きたいと思うかもしれない。
まだ嫌だと思うかもしれない。
どちらでもいい。
昨日の答えは昨日のもの。
今日の答えは今日のもの。
そして明日には、明日の自分がいる。
そう思えることが、エレノアには少しだけ嬉しかった。




