第39話 鍵を知っていた人
朝、目を覚ましたエレノアは、しばらく天井を眺めてから、自分の胸の内を確かめた。
昨日はナタリー・ヴェルヌについて新しい報告を聞いた。
結婚後の名がナタリー・グレイであること。
婚姻時に届け出られていた住所からは、すでに転居している可能性が高いこと。
夫のダニエルも以前の勤め先を辞めており、今の居場所はまだ分からないこと。
そして、ヴァレリアがナタリーや自分について何と説明しているのかも聞いた。
それらを思い出しても、昨日ほど胸がざわつかなかった。
(分かったことと、分からないことがある)
それだけだった。
ナタリーが逃げたとは決まっていない。
自分を傷つけた人だとも決まっていない。
ヴァレリアの説明が本当とも、嘘とも決まっていない。
だから、今は決めない。
そう考えられるだけで、以前より呼吸がしやすかった。
エレノアは身体を起こす。
そこで、机の上に置かれた灰青色の帳面が目に入った。
昨日は開かなかった。
今日も、まだ開きたいとは思わない。
(じゃあ、今日も開かない)
昨日の自分がそう決めたからではなく、今日の自分がそう思ったから。
同じ選択でも、理由は違っていた。
やがて扉が叩かれる。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい」
「入室してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
リディアが入室し、いつもの挨拶を交わす。
カーテンを開けるか尋ねられたエレノアは、今日は迷わず答えた。
「全部お願いします」
「かしこまりました」
朝の光が一気に室内へ入ってくる。
昨日は半分だった。
今日は全部。
その違いに、特別な意味をつける必要はない。
「今日は何を着ようかな」
エレノアは衣装棚の前へ立った。
水色は昨日着た。
薄い緑も最近よく選んでいる。
黄色も好きになってきた。
何着か見たあと、少しだけ目を引いたのは、柔らかな生成り色のドレスだった。襟元と袖口にごく細い青色の刺繍が入り、華やかというより落ち着いた印象の服だ。
「これにします」
「こちらですね」
「はい」
リディアが取り出す。
「髪はいかがなさいますか?」
「今日は何かつけたいです」
そう答えたあと、エレノアは一瞬だけ黙った。
髪飾り。
その言葉から、どうしても失われた青い髪飾りを思い出す。
けれど、なくなったものを探している間、ほかの飾りを使ってはいけないわけではない。
「青いリボン、ありますか?」
「ございます」
「それにします」
「かしこまりました」
鏡の前へ座り、髪を整えてもらう。
後ろで結ばれた青いリボンが、鏡越しに少しだけ見えた。
(青い髪飾りとは違う)
当然だ。
代わりにしたわけでもない。
これは今日、自分が選んだ青いリボンだった。
◇ ◇ ◇
朝食では、昨日より少し厚めに切られたパンが出ていた。
エレノアはそれを見て、一枚食べられるかを考える。
今朝は空腹を感じている。
「一枚食べます」
自分でそう決めてから、魚の入った温かなスープへ手を伸ばした。
セドリックは向かいでパンを切っている。
昨日、ミレーヌとの面会について少しだけ話した。
今日は彼から続きを尋ねてくることはない。
そのことに安心しながら食事を進めていると、アルフォンスが食後の茶へ手を伸ばしたところで口を開いた。
「エレノア」
「はい」
「昨日のナタリー・グレイについてではないのだが、別件で一つ、伝えるかどうか確認しておきたい報告がある」
エレノアはスプーンを置いた。
昨日、自分が「報告が届いていることは教えてほしい」と言った。
今日はその通りにしてくれている。
「何についてですか?」
「お前の昔の机と、その鍵についてだ」
エレノアの指先が止まる。
ベルナール伯爵邸に残っている、自分の昔の部屋。
机の左下。
鍵が掛かったままの収納。
マルタは、自分が小さな真鍮色の鍵を持っていたように思うと証言した。
ノエルも、細い紐に小さな金属のようなものがついているのを見た記憶がある。
だが、その鍵はまだ見つかっていない。
「鍵が見つかったんですか?」
「いや」
「じゃあ……誰かが何か覚えてた?」
「そうだ」
アルフォンスはそれ以上を言わず、待った。
聞くかどうかをエレノアへ任せている。
「誰ですか?」
「ベアトリス・ロランだ」
胸の奥が少し硬くなる。
ベルナール家の現在の侍女長。
かつてヴァレリア付きの上級侍女を務めていた女性。
食事に関する古い指示書へ署名していた人物。
母の木箱が西保管室へ移された記録にも関わっている。
名前を聞くだけで、穏やかな気持ちにはならない。
「……聞きます」
そう答えてから、エレノアは少し考えた。
「でも、朝ご飯を食べてから」
「分かった」
「今聞いたら、パン食べられなくなるかもしれないから」
「それでいい」
アルフォンスはすぐに話題を終えた。
エレノアはパンを見る。
まだ半分ほど残っている。
(調査があるからって、食べるのをやめなくていい)
魚のスープを一口飲む。
それからパンを食べた。
結局、一枚すべてを食べきった。
食べられたことを褒めてもらう必要はない。
食べたかったから食べた。
それだけでよかった。
◇ ◇ ◇
朝食後、すぐに報告を聞くことはしなかった。
エレノアは自室へ戻り、昨日完成させた刺繍を眺めたあと、南の小池へ行くことにした。
先に聞いてしまえば、池へ来ても鍵のことばかり考えてしまう気がしたからだ。
庭は薄い雲の下にあった。
雨の気配はなく、風も昨日の午後ほど強くない。
いつもの腰掛けへ座ると、水面の端で小さな波紋が広がった。
魚が一匹、水草の下から姿を見せる。
今日は小さくちぎったパンを少しだけ持ってきた。
一つ落とす。
魚が近づく。
もう一つ落とす。
そこでエレノアは手を止めた。
「今日はこれくらいにします」
「はい」
リディアは何も言わない。
エレノアは残ったパンを包みへ戻した。
「鍵って、見つかったら開けたくなると思いますか?」
唐突な問いだった。
リディアは少し考えてから答える。
「お嬢様が、という意味でございますか?」
「はい」
「私には分かりません」
「私も分かりません」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
「前は、鍵が見つかったら開けるんだと思ってました」
「はい」
「でも、鍵が見つかっても使わなくていいって、お父様たちに言ってもらいました」
鍵があることと、使うことは別。
その言葉を、自分でも口にした。
「それでも、見つかったら気になると思います」
「そうかもしれません」
「気になったら、開けなきゃ駄目ですか?」
「いいえ」
リディアの答えは簡潔だった。
「気になるお気持ちと、実際になさることは、同じでなくてもよろしいのではないでしょうか」
エレノアは水面を見る。
「ミレーヌの時と同じ?」
「どの部分でしょう」
「会ってみたいと思ったけど、怖かったです」
「はい」
「怖かったけど、会いました。でも、怖かったら会わないって決めてもよかった」
「その通りかと存じます」
「鍵も、知りたいけど開けないって決めてもいい」
「はい」
エレノアは小さく息を吐く。
答えを決める必要は、まだない。
そもそも鍵すら見つかっていない。
「じゃあ、先に何を知ってるのか聞きます」
池から立ち上がる。
報告を聞く準備ができた。
◇ ◇ ◇
場所は、昨日ナタリーの報告を聞いた小書斎ではなく、南向きの小居間を選んだ。
エレノアが自分でそう決めた。
調査報告を聞く場所として何度か使った部屋で、窓から庭が見える。
今日はアルフォンスとセドリックがいる。
マルグリットには同席を頼まなかった。
必要ならあとで話せばいい。
エレノアが席へ着くと、アルフォンスが一枚の記録を机へ置いた。
「まず口頭で聞くか?」
「はい」
エレノアは頷く。
「短くお願いします」
「分かった」
アルフォンスは記録へ一度視線を落とした。
「ベルナール家で、昔の机の鍵について複数の使用人へ別々に聞き取りが行われた。その中で、ベアトリスへは最初から『机の鍵』とは伝えていない」
「どう聞いたんですか?」
「エレノアが当時、自分で管理していた鍵や小さな金属製品について、覚えていることがあるか、と聞いた」
「はい」
「するとベアトリスは、『机の鍵でしょうか』と自分から答えた」
エレノアは瞬いた。
「机って言ってないのに?」
「言っていない」
「左下のところ?」
「そのあと確認すると、エレノアの机の左下の収納には鍵が掛かっていたことを知っていた、と答えている」
エレノアの胸がざわつく。
「どうして知ってたの?」
「そこは明確ではない。ベアトリスは、部屋の管理状況を把握する立場だったため知っていたのだと思う、と説明している」
「鍵を持ってた?」
「持っていたとは言っていない」
「見たことは?」
「はっきりとは覚えていない、と答えている」
「開けたことは?」
「ない、と」
「ヴァレリア様に開けろって言われたことは?」
「それもないと答えている」
エレノアは口を閉じた。
ベアトリスが「机の鍵」と自分から言った。
だから何か知っている。
そう思いたくなる。
けれど、机の左下が施錠されていたことを、侍女長として知っていただけかもしれない。
「これだけ?」
「鍵については、主なところはそこだ」
「ほかにもあるんですか?」
「母君の肖像についても聞き取りが行われている」
エレノアの視線が、わずかに揺れた。
「……聞きます」
「ベアトリスも、エレノアの寝台の近くに小さな木製の肖像枠があり、中に女性の肖像が入っていたことを覚えている。アデラインだと思う、と答えた」
「なくなったのは?」
「分からない、と」
「誰かが持っていったところは?」
「見ていない、と答えている」
エレノアは膝の上の手へ視線を落とす。
マルタ。
ノエル。
そしてベアトリス。
三人が、母の肖像があったことを覚えている。
肖像枠だけは自分の手元へ戻った。
中身はない。
「お母様の絵、本当にあったんですね」
「ああ」
「私の記憶だけじゃない」
「複数の証言が一致している」
それでも、誰が持ち出したかは分からない。
なぜ枠だけ残ったのかも分からない。
「ベアトリスさんが取ったってことにはならない?」
「ならない」
アルフォンスは即答した。
「机の鍵を知っていたことも、肖像を覚えていることも、それだけで持ち出しや盗難への関与を示すものではない」
「……はい」
エレノアは頷く。
「でも、ベアトリスさんは、お母様の箱が保管室にあったことも知ってた」
「そうだ」
「食事の紙にも名前がある」
「ああ」
「マルタさんが離されたことにも関わってるかもしれない」
「そこは証言と記録を照合中だ」
エレノアの中で、ばらばらの点が一人の名前へ集まりそうになる。
ベアトリス。
ヴァレリアのそばにいた女性。
自分の食事。
母の箱。
部屋。
鍵。
肖像。
(全部、ベアトリスさんだったら?)
考えた瞬間、怖いほど簡単に話がつながった。
ヴァレリアの命令を受け、ベアトリスが自分から食事を奪い、母の品を片づけ、部屋を管理し、鍵まで把握していた。
そう考えれば分かりやすい。
けれど――。
「……違う」
エレノアは小さく呟いた。
セドリックが視線を向ける。
「何が?」
「今、全部ベアトリスさんがやったのかもって思いました」
正直に言った。
「でも、それはまだ分からない」
「うん」
「名前がいっぱい出てくるから、つなげたくなっただけかもしれない」
アルフォンスが静かに頷く。
「その可能性はある」
「でも、逆に、何も関係ないって決めるのも違いますよね」
「そうだ」
「じゃあ……」
エレノアは少し考える。
「知っていたことだけ残す?」
「それがいいだろう」
アルフォンスが記録をエレノアの方へ向けた。
「ベアトリスは、机の鍵という言葉を聞かされる前に、自分から『机の鍵でしょうか』と答えた。左下の収納が施錠されていたことを知っていた。鍵そのものは明確に覚えていないと述べた。開けたことも、開けるよう命じられたことも否定している」
「はい」
「肖像については、寝台近くに木製の小さな肖像枠と、アデラインと思われる女性の肖像があったことを覚えている。消失時期、持ち出した人物については知らないと答えている」
エレノアは自分でも記録を読む。
書かれているのは、それだけだ。
疑いまで書かれてはいない。
「これ、私も写していいですか?」
「もちろんだ」
「あとで、自分の紙に書きます」
「分かった」
エレノアは記録を机へ戻した。
「鍵は、まだ探してるんですよね」
「ああ。共用の鍵保管場所、古い管理記録、当時の使用人への聞き取りに限って続けている。お前の私物収納を勝手に開けて探すことはしていない」
「机も壊してない?」
「触れていない」
「よかった」
そこまで確認したあと、エレノアは少し黙った。
鍵。
もし見つかったら。
左下の収納を開けるか。
その問いが、今までより近くなった気がする。
「お父様」
「何だ?」
「もし鍵が見つかったら、最初に私に教えてください」
「ああ」
「誰かが試しに差してみるのも、やめてください」
「分かった」
「本当にその机の鍵か確認するためでも?」
「エレノアが許可するまでは使わせない」
エレノアは安心して息を吐いた。
「それなら、探してもらって大丈夫です」
「分かった」
セドリックがそこで初めて少し姿勢を変えた。
「エレノア、もう一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「今の報告を聞いて、次の場所を開けたいと思った?」
エレノアは驚いた。
すぐに答えず、自分の気持ちを探る。
旧室には、まだ開けていない場所がある。
机の右下の深い引き出し。
鍵の掛かった左下収納。
窓際の小棚の下部。
壁際の長櫃。
ほかにも確認していない場所が残っている。
寝台脇の収納を一つだけ開け、そこで紙包みと灰青色の帳面、空の肖像枠を見つけた。
その後は次を開けていない。
「……少し思いました」
「うん」
「お母様の肖像が、別のところにあるかもしれないって」
胸の奥が痛む。
「箱も、髪飾りも」
「うん」
「でも、今すぐ開けたいかは……」
エレノアは考える。
探したい。
見つけたい。
母の顔を取り戻したい。
青い髪飾りも。
野薔薇の木箱も。
けれど、何かを開けるたびに、知らなかったものが出てくるかもしれない。
怖い記憶が戻るかもしれない。
「今日は決めません」
エレノアは答えた。
「分かった」
「でも、次に開けるならどこがいいか、一覧をもう一回見たいです」
「それは今日見る?」
「……一覧だけなら」
「分かった」
アルフォンスは別の紙を用意させた。
以前エレノアへ渡された、旧室の確認状況をまとめた一覧の写しだった。
すでに確認済みの場所。
まだ開けていない場所。
鍵の有無。
大きさ。
現在の状態。
エレノアは一つずつ見る。
机の右下。
鍵なし。
深さがある。
書類や布、小箱程度なら入る。
机の左下。
施錠。
鍵不明。
窓際の小棚。
下部二枚扉。
鍵なし。
衣類や小物が入る程度。
壁際の長櫃。
鍵なし。
外観のみ確認。
内部未確認。
比較的大きい。
エレノアの指が、机の右下で止まった。
「ここ……」
何かを思い出したわけではない。
ただ、机という場所に引っかかりがある。
左下は鍵が掛かっている。
その隣の右下。
「開けたい?」
セドリックが尋ねる。
エレノアはすぐに首を振らなかった。
「分かりません」
そして、紙から手を離す。
「今日は決めないです」
「うん」
「一覧は持って帰っていいですか?」
「もちろんだ」
「部屋で見ます」
自分の昔の部屋についての紙だ。
自分の部屋で、自分の時間に考えたい。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ベアトリスが侍女長室で古い帳面を整理していた。
数日前から、過去の勤務記録や備品記録について何度も質問を受けている。
今日も午前中、追加の確認があった。
エレノアの机。
鍵。
肖像。
ベアトリスは帳面を閉じ、眼鏡を外した。
五十年以上生きていれば、覚えていることと忘れていることが混ざる。
まして、使用人として長く一つの家へ仕えていれば、一日に見る物の数は多い。
鍵一つ。
箱一つ。
肖像一枚。
当時は、その一つ一つが後年になってこれほど重い意味を持つとは思わなかった。
(机の鍵……)
質問を受けた時、自分は確かにそう口にした。
なぜ真っ先にそれを思い浮かべたのか。
左下が施錠されていたことは覚えている。
エレノアの部屋の整理について報告を受けたことがあったからだ。
だが、鍵そのものを見た記憶は曖昧だった。
小さかったような気もする。
真鍮色だったと言われれば、そうだった気もする。
しかし、それは質問を受けたあとに作られた印象かもしれない。
だから、覚えているとは答えなかった。
ベアトリスは眼鏡を戻す。
そこへ、侍女の一人が扉を叩いた。
「侍女長、奥様がお呼びです」
「何のご用件ですか」
「以前のお嬢様のお部屋について、少し確認したいことがあるとのことです」
ベアトリスの手が止まる。
「……私に?」
「はい」
少しの沈黙のあと、ベアトリスは立ち上がった。
「分かりました」
ヴァレリアの私室へ向かう。
扉の前で名乗り、入室を許される。
「お呼びでしょうか、奥様」
「ええ。座ってちょうだい」
「勤務中でございますので、このままで結構でございます」
ヴァレリアは一瞬だけベアトリスを見る。
「そう」
卓上には茶が置かれている。
ヴァレリアはカップへ触れながら、何でもないことのように尋ねた。
「また昔のことを聞かれたのでしょう?」
ベアトリスは表情を変えなかった。
「伯爵様より、調査内容について他者へ不用意に共有しないよう申しつけられております」
「私は他者ではないでしょう」
「奥様も含め、聞き取り対象者同士で証言内容を共有しないように、との指示でございます」
ヴァレリアの笑みが僅かに固くなる。
「ずいぶん厳密なのね」
「私から申し上げられることではございません」
「エレノアの机についてでしょう?」
ベアトリスの目が、ほんの僅かに動いた。
だが答えない。
ヴァレリアはその反応を見逃さなかった。
「昔、あの子の机には鍵の掛かった場所があったわよね」
「奥様」
ベアトリスの声は低く、落ち着いていた。
「そのお話を私へなさらない方がよろしいかと存じます」
「なぜ?」
「後ほど私が追加の聞き取りを受けた場合、今ここで奥様から伺った内容と、自分自身の記憶を区別しにくくなる可能性がございます」
ヴァレリアは黙った。
「それに、伯爵様より接触や証言のすり合わせと受け取られかねません」
「私はそんなつもりではないわ」
「存じません」
ベアトリスは淡々と答えた。
「ですので、なおさらお控えいただく方がよろしいかと」
ヴァレリアの瞳に、一瞬だけ冷たいものが宿る。
「あなた、ずいぶん言うようになったのね」
「私は侍女長でございます。家中に疑念が生じている時こそ、記録と証言を混ぜないよう努めるのも役目かと存じます」
「昔はもっと、私の気持ちを分かってくれたでしょう?」
ベアトリスは答えなかった。
ヴァレリアがベルナール家へ入ったばかりの頃、確かに自分は彼女の身の回りを担当していた。
新しい伯爵夫人。
前妻の娘。
同じ年の実娘。
難しい家だった。
自分は家を乱さないことを優先した。
夫人の指示を受け、使用人へ伝えた。
エレノアには自立を促すのだと言われれば、それを教育方針として扱った。
食事についても。
衣類についても。
人の配置についても。
(私は、どこまで考えていた)
今になって問われれば、答えに困ることが増えている。
命じられた。
だからした。
それだけで済むことなのか。
自分は何を見て、何を見ないことにしたのか。
だが、その答えを今ここでヴァレリアと作ってはいけない。
「奥様」
ベアトリスは一礼した。
「ほかに通常業務についてのご用件がなければ、失礼してもよろしいでしょうか」
ヴァレリアはしばらく彼女を見つめていた。
「……ええ」
「失礼いたします」
ベアトリスは部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下を数歩進んだところで、彼女は足を止めた。
そして近くにいた若い侍女へ声をかける。
「家令はどちらに?」
「執務室かと存じます」
「分かりました」
ベアトリスは方向を変えた。
先ほどヴァレリアから、エレノアの机について話題を向けられた。
その事実は、自分だけの胸へしまっておくべきではない。
それが何を意味するのかは、自分が決めることではなかった。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアは自室で旧室の一覧を見ていた。
机の右下。
窓際の小棚。
壁際の長櫃。
鍵の掛かった左下。
指で順番を追う。
どこを開けても、何もないかもしれない。
母の品があるかもしれない。
自分の昔の物があるかもしれない。
見たくない物があるかもしれない。
その時、扉が叩かれた。
「お嬢様」
リディアが入室の許可を得てから姿を見せる。
「アルフォンス様より、追加の連絡がございます」
エレノアは一覧から顔を上げた。
「今日聞いたことの続き?」
「ベルナール伯爵家より、先ほど新たな報告が入ったとのことでございます。ただし緊急にお聞きいただかなければならない内容ではないため、本日お聞きになるか、明日以降になさるか、お嬢様へ確認してほしいとのことです」
昨日、自分が頼んだ通りだった。
報告があることだけは知らせてもらえる。
内容を聞くかは、自分で決める。
「何についてですか?」
「ベアトリス・ロラン様と、ヴァレリア様の接触についてとのことです」
エレノアの背筋が少し強張った。
「接触?」
「それ以上は、私からは伺っておりません」
知りたい。
すぐにそう思った。
同時に、朝から鍵の話を聞き、旧室の一覧まで見ている。
胸の中が少し重い。
「……明日にします」
「承知いたしました」
答えたあと、エレノアは自分の中を確かめる。
気になる。
とても気になる。
それでも、今日はもう十分だった。
「でも、明日の朝になったら、もう一回、聞くか確認してください」
「かしこまりました」
「私が忘れてたら?」
「その場合も、報告があることだけはお伝えいたします」
「お願いします」
リディアが一礼する。
エレノアは再び一覧を見る。
机の右下に指を置いた。
今すぐ決めなくてもいい。
けれど、いつまでも考えないままにしたいわけでもなかった。
「リディア」
「はい」
「次に一つだけ開けるなら、机の右下にしようかなって思ってます」
「はい」
「でも、まだ決めてないです」
「承知しております」
「今日、お願いはしません」
「はい」
エレノアは紙を畳まず、机の端へ置いた。
その隣には灰青色の帳面がある。
閉じた帳面。
まだ開けない旧室の収納。
聞くのを明日へ延ばした報告。
未決定のものが、いくつも並んでいる。
以前なら、それが怖かった。
全部早く終わらせなければならないような気がした。
けれど今日は、少し違った。
(決めてないものが、いっぱいある)
それでも一日は進んでいる。
お腹は空く。
夕食を食べる。
眠くなれば寝る。
明日はまた来る。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、エレノアは今日の記録を書いた。
『ベアトリスさんは、質問で机と言われる前に「机の鍵でしょうか」と言った』
『左下が閉まっていたことを知っていた』
『鍵を持っていたとは言っていない』
『開けたこともないと言っている』
『お母様の肖像があったことも覚えていた』
『なくなった理由は分からない』
そこで一行空ける。
『名前が何度も出てくると、全部その人がしたように考えたくなる』
『でも、出てきた名前が多いことと、全部したことは同じではない』
さらに続けた。
『だから、ベアトリスさんが知っていたことと、したことを分ける』
ペン先が止まる。
今日の午後に届いた追加報告。
ヴァレリアとベアトリスの接触。
気になっている。
それでも、聞くのは明日にした。
『報告があると知っていても、今日聞かなくていい』
その一文を書いた時、エレノアは少し笑った。
知らないままにされることと、自分で今は聞かないと決めることは違う。
その違いが、少しずつ分かるようになってきた。
次に、旧室の一覧を見る。
机の右下。
まだ決定ではない。
けれど候補になった。
『次に開けるなら、机の右下を考えている』
『まだお願いしていない』
『明日、気持ちが変わってもいい』
最後の一行を書いてから、エレノアはペンを置いた。
空の肖像枠へ目を向ける。
「お母様」
今日も呼ぶ。
「お母様の絵があったことを、三人が覚えてました」
マルタ。
ノエル。
ベアトリス。
「だから、私が忘れてても、本当にあったんです」
母の顔を、はっきりと思い出せない時がある。
そのことが怖かった。
自分が忘れたら、母との時間までなくなるように感じた。
けれど、肖像はあった。
幼い自分が母へ描いた絵も残っていた。
母と一緒に花を見たいと書いた手紙もあった。
自分の記憶だけが、過去のすべてではない。
「見つかるといいな」
素直にそう言った。
「お母様の絵」
見つからなかった時のことは、今は考えない。
見つかると決めることもしない。
ただ、見つかってほしいと思う。
願うことと、事実を決めることは別だった。
エレノアは空の枠へそっと触れたあと、手を離した。
机の上では、灰青色の帳面が今日も閉じている。
旧室の一覧には、まだ開かれていない場所がいくつもある。
真鍮色の鍵も見つかっていない。
ナタリーの居場所も分からない。
ミレーヌと次に会うかも決めていない。
そして、ヴァレリアが今日ベアトリスへ何を話したのかも、まだ知らない。
知らないことは多い。
決めていないことも多い。
それでもエレノアは、それらを一晩ですべて片づけようとは思わなかった。
明日聞くものは、明日聞けばいい。
明日決められなければ、その次でもいい。
ただし、自分の知らないところで決められるのではなく、自分が知っている上で待つ。
それが今のエレノアにとって、とても大きな違いだった。
「おやすみなさい、お母様」
灯りを落とす前、最後にそう告げる。
そして寝台へ入ったエレノアは、明日聞くことになる報告を気にしながらも、それを今夜のうちに想像だけで埋めることはしなかった。
ヴァレリアが何を言ったのか。
ベアトリスが何を答えたのか。
その意味が何なのか。
まだ知らない。
だから、今夜はまだ答えを作らない。
明日、自分の耳で聞いてから考える。
そう決めて、エレノアは静かに目を閉じた。




