第40話 疑うことと、決めつけること
翌朝、目を覚ましたエレノアが最初に思い出したのは、昨日聞かずに残した報告のことだった。
ヴァレリアとベアトリスが接触した。
リディアから聞いたのは、それだけである。
何を話したのかも、どちらから声をかけたのかも、まだ知らない。それなのに目覚めたばかりの頭は、知らない部分へ勝手に形を与えようとする。
(ヴァレリア様が、ベアトリスさんに何か隠すように言ったのかもしれない)
そこまで考えたところで、エレノアは掛布の上に置いていた手を握り、ゆっくりと開いた。
(……違う。まだ、そこまで分かってない)
昨日も同じだった。
ベアトリスの名前が食事の記録にも、母の木箱にも、昔の部屋にも現れるからといって、すべてを彼女がしたことにはならない。
今日の報告も同じである。
ヴァレリアとベアトリスが話した。
今の自分が知っている事実は、それだけだ。
エレノアは寝台から起きると、枕元に近い小卓へ置いた空の肖像枠を見た。中には何もないのに、以前よりもその枠を寂しいものだけだとは感じなくなっている。
「おはようございます、お母様」
声にしてから、少し笑う。
「今日は、昨日聞かなかった話を聞こうと思います。でも、朝ご飯のあとにします」
誰に約束するでもない。
それでも口にすると、自分の中で今日の順番が決まった。
やがて扉が控えめに叩かれ、リディアの声が届く。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。入ってください」
入室したリディアは朝の挨拶をしたあと、窓辺へ向かう前に振り返った。
「カーテンはいかがいたしましょう」
「今日は全部開けてください」
「かしこまりました」
布が左右へ引かれると、白っぽい朝の光が部屋へ広がった。雲は薄く、窓硝子越しの庭には夜露を残した葉が静かに光っている。
エレノアは衣装棚の前へ移動し、並んだ服を眺めた。
昨日は生成り色のドレスに青いリボンを合わせた。
今日は薄い水色へ手を伸ばしかけ、少し考えてから、その隣にある柔らかな黄色のドレスを選ぶ。
「これにします」
「黄色でございますね」
「はい。それと、今日は髪には何もつけません」
「承知いたしました」
昨日は自分で青いリボンを選んだ。
だから今日も何かをつける必要はない。
好きだったものを毎日選ばなくても、昨日好きだと思った気持ちが間違いになるわけではなかった。
着替えを終え、鏡の中の自分を見る。
まだ細い。
けれど、ロシュフォール公爵家へ来たばかりの頃より頬の色はよくなり、鎖骨の目立ち方も少しだけ和らいでいるように見えた。
その変化を喜んでいいのか、以前なら分からなかっただろう。
今は、少なくとも嫌ではない。
「リディア」
「はい」
「昨日の報告、まだありますよね」
「はい。アルフォンス様より、今朝改めてお嬢様へ確認するよう申しつかっております」
「朝ご飯のあとに聞きます」
「かしこまりました」
「でも、朝ご飯の途中で気が変わったら、池のあとにします」
リディアの口元が、ごく僅かに柔らかくなる。
「そのようにお伝えいたします」
エレノアは頷いた。
昨日決めたことを、今日必ず守らなければならないわけではない。
聞くと決めた。
けれど、いつ聞くかは今日の自分がもう一度決めていい。
その感覚は、以前よりずっと自然になっていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、焼いた白身魚に淡い香草のソースが添えられていた。
エレノアは一口食べてから、少しだけ首を傾ける。
「昨日の魚と味が違います」
向かい側に座るセドリックが顔を上げた。
「どちらが好き?」
「昨日の方です」
答えてから、エレノアはもう一口食べる。
「でも、これも嫌いじゃないです」
「なるほど。昨日の方が好きで、今日のも食べられる」
「はい」
マルグリットが穏やかに微笑んだ。
「好き嫌いは、二つに分けなくてもよいものですものね」
「はい。前は、好きじゃないなら嫌いなのかなって思ってました」
エレノアは魚へ視線を落とした。
「でも、普通っていうのもあるんですね」
「たくさんありますよ」
マルグリットの返事を聞きながら、エレノアはパンへ手を伸ばした。
今日は一枚すべて食べられそうな気がする。
けれど最初から決めず、食べながら考えることにした。
アルフォンスは報告について触れない。
エレノアが自分から言うまで待っている。
そのことに気づいたのは、魚を半分ほど食べた頃だった。
(待ってくれてる)
以前なら、待たれることすら怖かったかもしれない。
早く答えなければ。
相手を困らせている。
怒らせる前に決めなければ。
そんな考えが先に浮かんだだろう。
けれど今は、アルフォンスが待っているのは自分を試すためではないと分かっている。
「叔父様」
「何だ?」
「昨日の報告、朝ご飯のあとに聞きます」
「ああ」
「池の前に」
「分かった」
それだけで話は終わった。
エレノアは残りの食事へ戻る。
結局、パンは四分の一ほど残した。
「これは残します」
誰に許可を求めるでもなく告げる。
食事を終えたあと、エレノアは自分の腹具合を確かめた。
ちょうどよかった。
◇ ◇ ◇
報告を聞く場所は、昨日と同じ南向きの小居間にした。
窓の向こうには朝の庭が見え、雲の隙間から時折差し込む光が、絨毯の端をゆっくり明るくしている。
今日はアルフォンスとエレノアだけが卓を挟んで座り、リディアは少し離れた壁際に控えていた。
セドリックもマルグリットも同席していない。
エレノアがそう選んだ。
「全部聞きます」
席へ落ち着いてから、エレノアは言った。
「ただ、誰が何を言ったのかを分けて教えてください」
「分かった」
アルフォンスの手元には、一枚ではなく数枚の記録があった。
「まず、接触そのものについてだ。昨日の午前、ベアトリスが過去の鍵と肖像について追加の聞き取りを受けた。その後、通常業務へ戻ってから、ヴァレリアに私室へ呼ばれている」
「ヴァレリア様から呼んだんですね」
「ああ。そこはベアトリス本人と、呼びに行った侍女の証言が一致している」
エレノアは頷く。
「それから?」
「ヴァレリアは、ベアトリスが昔のことをまた聞かれたのか、と尋ねた」
「何について聞かれたかも?」
「ベアトリスによれば、自分からは答えなかった。伯爵から、聞き取り対象者同士で内容を共有しないよう指示されていると伝えたそうだ」
「……ベアトリスさんが?」
「ああ」
少し意外だった。
エレノアは無意識に膝の上の指を動かし、それに気づいて手を重ね直した。
「ヴァレリア様は、それでやめたんですか?」
「いや」
アルフォンスは記録を確かめる。
「ベアトリスの証言では、ヴァレリアはそのあと『エレノアの机についてでしょう』と尋ねた」
エレノアの呼吸が浅くなる。
昨日、自分が聞いたのは、ベアトリスが質問者から机と告げられる前に「机の鍵でしょうか」と答えたという話だった。
そして今度はヴァレリアが、ベアトリスの聞き取り内容を知らされていない状態で、エレノアの机へ言及した。
「どうして……」
口から出かけた言葉を、エレノアは途中で止める。
「いえ。まだ分からない」
「そうだ」
「ヴァレリア様が机のことを知っていた理由は、まだ分からないんですよね」
「ああ。少なくとも、この発言だけでは分からない」
アルフォンスの声は静かだった。
エレノアは胸の中に生まれた嫌な感覚を無理に消そうとはしなかった。
疑わしいと思う。
怖いとも思う。
けれど、その感情を証拠にしない。
「続き、聞きます」
「ヴァレリアはさらに、昔エレノアの机には鍵の掛かった場所があった、と話したそうだ」
「左下って言ったんですか?」
「そこまでは言っていないと記録されている」
「ベアトリスさんは?」
「これ以上話さない方がいい、とヴァレリアへ伝えた。今聞いた内容と自分の記憶が混ざれば、今後の証言が不正確になる可能性がある、と」
エレノアはしばらく言葉を失った。
昨日まで、自分の中でベアトリスは疑いの強い人物だった。
それは今も変わらない。
食事の指示書に署名がある。
母の木箱の移動にも名前が残っている。
マルタが自分から離された頃にも、ヴァレリアの近くにいた。
そして机の鍵について、尋ねられる前から知っていた。
それらは消えない。
けれど同じベアトリスが、ヴァレリアとの証言共有を拒んだ。
「ベアトリスさんは、そのあとどうしたんですか?」
「ヴァレリアの部屋を出たあと、自分から家令へ報告した」
「自分から?」
「ああ。ヴァレリアからエレノアの机について話題を向けられたことを、その日のうちに申告している。だから今回の報告がこちらにも届いた」
エレノアは窓へ目を向けた。
薄い雲の向こうから日が差し、庭の一角だけが明るくなっている。
「ベアトリスさんが、ヴァレリア様を困らせようとして嘘をついた可能性は?」
「ゼロとは言えない」
「じゃあ、ヴァレリア様が本当に机って言ったかは、ベアトリスさんの話だけ?」
「一部はそうだ。ただし、ベアトリスがヴァレリアに呼ばれたことは呼びに行った侍女が確認している。会話の中身は二人きりだったため、直接聞いた第三者はいない」
「ヴァレリア様にも聞いたんですか?」
「ロベルトが確認している」
エレノアの肩に力が入った。
「何て?」
「聞くか?」
アルフォンスはそこで止めた。
すでに全部聞くと言ったからといって、途中で確認を省かない。
エレノアは少しだけ考えてから頷いた。
「聞きます」
「ヴァレリアは、ベアトリスを呼んだこと自体は認めている。昔のことを聞かれたのかと尋ねたことも認めた」
「机は?」
「エレノアの机について口にした可能性も否定していない」
「……否定してない?」
「ああ。ただし理由については、『以前からエレノアの私物や部屋が調べられていると知っていたため、机も対象になっているのではないかと思った』と説明している」
エレノアは眉を寄せる。
「ヴァレリア様は、私の部屋のどこまで調べたか知ってるんですか?」
「ロベルトは詳細を伝えていない。少なくとも、お前がどの収納の開封を許可したか、どこを開けていないか、鍵の掛かった左下収納が現在の調査対象になっていることは伝えていない、と確認している」
「じゃあ、机って言ったのは……」
また言葉が先へ走りそうになる。
エレノアは息を整えた。
「……それだけだと、理由は分からない」
「そうだ」
「偶然かもしれない」
「ああ」
「昔から机に鍵が掛かってるのを知ってたから、思いついたのかもしれない」
「その可能性もある」
「でも、何か知ってるから机って言った可能性もある」
「それも否定できない」
エレノアは両手を膝の上で組んだ。
「分からないことが増えました」
「そうだな」
アルフォンスは、それを悪いことのようには言わなかった。
「調べれば、すぐ答えが出ると思ってました」
「私も、昔はそう思うことが多かった」
「叔父様も?」
「ああ。何か一つ証拠が出れば、その次も、その次も一直線につながるような気がする。だが実際には、分かったことで新しい疑問が増えることの方が多い」
「嫌じゃないですか?」
「嫌だ」
即答だった。
エレノアは少し目を丸くする。
「嫌なんですか」
「早く全部明らかにして、お前から奪われたものを取り戻したいと思っているからな」
アルフォンスの声に、抑えた感情が滲んだ。
「誰がお前を傷つけたのかも、誰がアデラインの品を動かしたのかも、なぜお前が食事すらまともに与えられない生活になったのかも、今すぐ答えがほしい。だが、私がそう思うことと、答えが出ていることは別だ」
エレノアは叔父の顔を見つめた。
アルフォンスも待つのが平気なわけではない。
知りたくないわけでもない。
怒っていないわけでもない。
それでも、自分の感情だけで事実を決めないようにしている。
「私、ヴァレリア様が何か隠してるって思いました」
「そう思ったか」
「はい。今も少し思ってます」
エレノアはそこで視線を逸らさなかった。
「机って言ったのが、すごく嫌です。だって、叔父様たちは教えてないんですよね」
「ああ」
「だから、知ってたんじゃないかって思います」
「そう考えるのは自然だ」
「でも、自然に思ったことが、本当とは限らない」
「その通りだ」
エレノアは小さく頷いた。
「じゃあ、私の紙には『ヴァレリア様は、聞き取りの内容を知らされていないのに、机について自分から話した』って書きます」
「ああ」
「『鍵を隠した』とか、『机を開けた』とは書きません」
「それがいい」
「ベアトリスさんのことも、昨日より少し分からなくなりました」
昨日は、名前が重なるほど疑いが強くなった。
今日聞いた行動は、それだけでは説明できない。
「悪いことをした人でも、別の時に正しいことをすることってありますか?」
「ある」
「じゃあ、今日のことが正しかったからって、昔のことまで何も悪くなかったことにはならない?」
「ならない」
「反対も?」
「ああ。昔に問題のある行動をしていたとしても、昨日の報告まで嘘だと決める理由にはならない」
エレノアはその言葉をゆっくり受け止めた。
「難しいです」
「難しいな」
「人って、一個じゃないんですね」
アルフォンスが僅かに目を細める。
「そうだな」
ヴァレリアが優しく笑った記憶がある。
ミレーヌが自分を姉と呼んだ記憶もある。
ロベルトが父親らしい言葉を口にした日だって、まったくなかったわけではない。
それでも、自分が傷つけられたことは消えない。
逆に、嫌いな相手のすることが全部悪いとも限らない。
(好きか嫌いかだけで、起きたことまで変わるわけじゃない)
エレノアは一度深く息を吸った。
「ほかにありますか?」
「今回の接触については、もう一つだけ」
「聞きます」
「ロベルトは、ヴァレリアに改めて、調査対象となっている元使用人や現使用人へ、過去の出来事について個別に確認したり、証言内容を尋ねたりしないよう命じた」
「ナタリーさんにも連絡しないように言ってましたよね」
「ああ。その指示も継続している」
「ヴァレリア様は?」
「自分は証言を合わせる意図などなかったと答えている。ベアトリスへ声をかけたのは、長く仕えている者として気になったからだ、と」
「それが本当かは?」
「分からない」
「はい」
今度は、すぐに受け止められた。
「これで終わり?」
「今回の報告はここまでだ」
「じゃあ、終わります」
エレノアは自分から区切った。
アルフォンスは書類を閉じる。
「池へ行くか?」
「はい。でも、その前に一つだけ」
「何だ?」
「ベアトリスさんが自分から家令に報告したことも、私の紙に書いていいですよね」
「もちろんだ」
「疑うためのことだけ書いたら、ずるい気がするから」
アルフォンスは少し驚いたようにエレノアを見たあと、ゆっくり頷いた。
「ああ。事実として残しておくべきだ」
「そうします」
エレノアは席を立った。
胸の中には、まだヴァレリアへの疑いがある。
それを消す必要はない。
けれど、疑いがあるからこそ、疑いに都合のいい事実だけを拾わない。
今の自分には、それが大切な気がした。
◇ ◇ ◇
南の小池へ向かう頃には、朝の雲が少し薄くなっていた。
今日はユリウスの姿はなく、水面には風が作る細かな波だけが広がっている。
エレノアは腰掛けへ座り、しばらく何も話さなかった。
リディアも黙って隣に立っている。
「リディア」
「はい」
「私、ヴァレリア様が嫌いです」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
以前なら、そんな言葉を言ってはいけないと思っただろう。
誰かを嫌うのは悪いことだと思っていた。
「はい」
リディアは否定しなかった。
「怖いし、会いたくないです」
「はい」
「でも、嫌いだからって、ヴァレリア様が全部やったことにはならない」
「そのようにお考えなのですね」
「はい」
エレノアは池を見る。
「嫌いな人のことを、ちゃんと調べるって難しいですね」
「そうかもしれません」
「好きな人も?」
「ええ。大切な方であれば、悪い可能性を考えたくないこともあるでしょうから」
エレノアは少し考えた。
「父のことも?」
「ベルナール伯爵様のことでございますか?」
「はい」
エレノアは自分から頷いた。
「昔、私は、お父様は忙しいだけだと思ってました」
本人を呼ぶ時に使っていた呼び方が、口から出る。
その響きに胸が少し痛んだが、無理に言い換えなかった。
ロベルトは今も、自分の実父である。
「私が我慢すればいいって思ってました。ヴァレリア様の言う通り、私が手の掛かる娘だから、お父様も困ってるのかなって」
リディアは何も挟まずに聞いている。
「でも、忙しくても、私を見なかったことはなくならない」
「はい」
「私、お父様のことが好きだったから、悪くないって思いたかったのかもしれません」
その言葉は、胸に少し痛かった。
父親だった。
好きでいたかった。
信じたかった。
処刑台の前で、最後まで一度くらい自分を見てほしかった。
冷たい秋空。
罵声。
腐った果実の匂い。
そして、ロベルトが視線を逸らした姿。
記憶が急に近づき、エレノアの指先が冷たくなる。
リディアが気づいたように姿勢を変えたが、触れなかった。
「お嬢様」
「……大丈夫じゃないです」
エレノアは自分から言った。
「少し、怖いこと思い出しました」
「お部屋へ戻られますか?」
「まだ、ここにいたいです」
「承知いたしました」
「少しだけ、話さないでいてください」
「はい」
風が池の表面を撫でる。
水草が揺れ、小さな魚がその陰へ潜った。
エレノアは呼吸を整えながら、今いる場所を確かめる。
ロシュフォール公爵家の庭。
南の小池。
昼前。
リディアがいる。
処刑台ではない。
十五歳の自分は生きている。
しばらくして、冷たかった指先に温度が戻ってくる。
「もう少し大丈夫です」
「はい」
「……変な言い方ですね」
「いいえ」
リディアは穏やかに答えた。
「大丈夫か、大丈夫ではないかの二つだけでなくてもよろしいのではないでしょうか」
エレノアは目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「魚と同じですね」
「魚でございますか?」
「朝の魚です。好きと嫌いの間に、普通がありました」
リディアも僅かに笑う。
「なるほど」
「怖いのと平気の間にも、いっぱいあるのかも」
「そうかもしれません」
エレノアは池へ視線を戻した。
今日はパンを持ってきていない。
だから魚へ何も与えない。
それでも池へ来ていい。
何かをしなければ、その場所にいる意味がないわけではなかった。
◇ ◇ ◇
昼食と短い休憩を終えたあと、エレノアは昨日持ち帰った旧室の一覧を机へ広げた。
灰青色の帳面は、その少し向こうに置かれている。
今日も開けない。
それについては迷わなかった。
一覧には、まだ確認していない場所が並んでいる。
机の右下の深い引き出し。
鍵の掛かった左下収納。
窓際の小棚の下部。
壁際の長櫃。
エレノアは昨日と同じように、机の右下へ目を留めた。
(次に開けるなら、ここ)
昨日はそう考えた。
今日も気持ちは大きく変わっていない。
ただ、午前中にヴァレリアが机について口にしたという報告を聞いたことで、その場所が昨日より重く感じられる。
(だから開ける?)
違う。
(だから開けない?)
それも違う。
ヴァレリアが机を知っていたことと、自分が右下の引き出しを開けるかどうかは、本来別のことだ。
エレノアは椅子から立つと、呼び鈴を使った。
少ししてリディアが入室する。
「お呼びでしょうか」
「叔父様に、あとで相談したいことがあるって伝えてください」
「かしこまりました。内容をお伝えしてもよろしいでしょうか」
「昔の部屋の、次に開ける場所についてです」
「承知いたしました」
「でも、今日すぐ開けてほしいって意味じゃないです」
「そのようにお伝えいたします」
エレノアはほっとして、一覧へ戻った。
相談することと、許可することも別だった。
◇ ◇ ◇
午後遅く、アルフォンスとセドリックがエレノアの部屋を訪れた。
入室を許可してから、エレノアは二人を机の前へ案内する。
一覧は広げたままにしてあった。
「次に開ける場所について考えたいと聞いた」
「はい」
アルフォンスが椅子へ座り、セドリックはその隣へ腰を下ろした。
エレノアは自分の椅子へ戻る。
「昨日から、机の右下が気になってます」
「理由は?」
セドリックの問いに、エレノアは考える。
「はっきりした理由はないです。机だから、かもしれません」
「今日、ヴァレリアが机のことを知っていたと聞いたから?」
「それも少しあります」
エレノアは正直に答えた。
「だから、それだけで決めない方がいいのかなって思ってます」
アルフォンスが一覧へ目を落とす。
「では、開けるかどうかではなく、今分かっている情報だけ整理するか?」
「はい」
「右下は施錠されていない。外観確認では破損もない。深さがあり、書類、布類、小箱などが入る程度の大きさ。中身はまだ誰も確認していない」
「ベルナール伯爵も?」
「ロベルトも見ていない。少なくとも、今回の保存措置が始まってからは誰にも開けさせていない」
「ベアトリスさんも?」
「現在の調査では開けていない。昔については不明だ」
「マルタさんは、そこに何を入れてたか覚えてない?」
「明確には覚えていない。机周辺には便箋や書きかけの紙、刺繍図案などがあった記憶はあるそうだが、どの引き出しに何が入っていたかまでは区別できないと答えている」
「ノエルさんは?」
「右下について具体的な記憶はない」
エレノアは頷いた。
「じゃあ、開けてもお母様のものがあるとは限らない」
「ああ」
「何もないかもしれない」
「その可能性もある」
「私の昔のものだけかもしれない」
「そうだ」
セドリックがエレノアを見ながら尋ねる。
「もし何もなかったら、どう思いそう?」
「残念だと思います」
「うん」
「でも、前に寝台の横を開けた時、お母様の箱はありませんでした。でも、失敗じゃなかったです」
そこには紙包みがあった。
幼い自分が母へ描いた花。
母と自分の絵。
一緒に花を見たいと書いた手紙。
空になった肖像枠。
そして、まだ開けていない灰青色の帳面。
「だから、何もなかったら残念だけど……開けたことまで間違いにはしなくていいと思います」
「それなら」
セドリックは一度言葉を切り、急かさないように続けた。
「怖いものが出てきた場合は?」
エレノアの喉が少し詰まる。
考えたくない問いではある。
けれど、考えずに開ける方が怖い。
「すぐ全部見なくていいですか?」
「もちろん」
「前みたいに、マルタさんが開けて、一個ずつ外へ出す?」
アルフォンスが頷く。
「同じ条件にできる」
「紙があったら?」
「封があるもの、束ねられているもの、帳面などは、中身を勝手に開かず外形だけ記録させることもできる」
「箱があったら?」
「閉じているなら、閉じたまま記録できる」
「私が途中でやめてって言ったら?」
「その時点で止める」
「まだ中に残ってても?」
「ああ」
エレノアは一覧へ目を戻した。
条件を決めれば、開けることは「全部を知ること」ではなくなる。
一つの収納を開けても、中身をすべて開く必要はない。
途中で止めてもいい。
「……開けたいです」
言ったあと、自分の胸の内を確かめる。
怖さはある。
けれど、今の言葉を取り消したいとは思わない。
「机の右下を、一つだけ」
「分かった」
「今日じゃなくていいです」
「いつにする?」
「明日も嫌です」
セドリックが少し笑った。
「ずいぶんはっきりしたね」
「今日はヴァレリア様の話を聞いたから、明日すぐだと、その勢いで開けるみたいで嫌です」
「なるほど」
「一日、何も調査しない日がほしいです」
アルフォンスの表情が柔らかくなる。
「では明日は、報告に緊急性がない限りこちらから調査の話は持ち込まない」
「報告が来たことも言わない?」
エレノアは少し考える。
「……それは、言ってください」
「聞くかどうかは?」
「私が決めます。でも、できれば聞かない日にしたいです」
「分かった」
「机の右下は、明後日がいいです」
「時間は?」
「午後。お昼ご飯を食べて、少し休んだあと」
「立ち会いは前と同じでいいか?」
前回は、マルタが実際に収納を開け、ロシュフォール側の記録担当としてエレーヌ・フォシェ、ベルナール側の立会人としてヘレナ・バルドーが参加した。
ロベルトもベアトリスも、その場にはいなかった。
「同じ人がいいです」
「マルタ、エレーヌ、ヘレナだな」
「はい。ベルナール伯爵は来ないでください」
「分かった」
「ベアトリスさんも来ないでほしいです」
「それも伝える」
「ヴァレリア様も、もちろん」
「ああ」
エレノアはもう一つ考える。
「あと、右下を開けても、左下の鍵は触らないでください」
「ああ」
「もし右下の中から鍵が出てきても、その場で左下には使わないでください」
アルフォンスとセドリックの視線が同時にエレノアへ向く。
言ってから、自分でもその可能性に気づいた。
もし。
右下の引き出しに、失われた鍵が入っていたら。
胸が速くなる。
「……あるかもしれない?」
「可能性はある」
アルフォンスは慎重に答えた。
「だが、今のところ右下に鍵があることを示す証言や記録はない」
「はい」
エレノアは呼吸を整える。
「だから、見つかるって決めない」
「ああ」
「でも、もし鍵らしいものが出たら、用途を確かめないで、そのまま記録してもらえますか?」
「マルタが取り出す必要はあるかもしれないが、鍵穴へ差し込んで確認することはさせない。発見場所と状態を記録して、別に保管する」
「私に先に教える?」
「もちろん」
「そのあと、使うかは私が決める」
「そうしよう」
エレノアは肩から力を抜いた。
「それでお願いします」
決まった。
明日は調査を進めない日。
明後日の午後、旧室の机の右下だけを開ける。
そこから何が出ても、左下の鍵穴へ何かを試すことはしない。
新しく見つかった封書や帳面、箱も勝手に開けない。
途中で止めてもいい。
それだけ決めれば十分だった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットと刺繍をして過ごした。
薄赤色の野薔薇らしい花は、まだ花弁の形が少し不揃いだった。
直そうかと一瞬思い、やめる。
「そのままになさるの?」
マルグリットが尋ねる。
「はい。少し変だけど、嫌いじゃないので」
「私も好きですよ」
「上手だから?」
「いいえ。あなたが一針ずつ選んで刺したものだから」
エレノアは思わず笑った。
「クロノアも、似たこと言ってました」
口にしてから、指が止まる。
マルグリットは知らない。
クロノアのことを。
処刑されたことも。
時を遡ったことも。
「クロノア?」
当然、マルグリットが聞き返す。
エレノアの胸が大きく跳ねた。
言ってしまった。
これまで家族へ話していなかった名前を。
「あ……」
針を持つ指先が震える。
マルグリットは追及せず、ただ待った。
「お友達ですか?」
穏やかな問いだった。
エレノアは答えられない。
友達。
そう呼んでいいのかもしれない。
けれどクロノアは普通の友人ではない。
人ですらない。
自分を三年前へ戻した時の神霊。
そして、自分が一度死んだことを知る存在。
(どうしよう)
心臓の音が耳に響く。
嘘をつくこともできる。
昔の知り合いだと言えばいい。
けれど、その嘘を重ねたくない気持ちもあった。
「……今は、話せません」
ようやく出た言葉は、それだった。
マルグリットは驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに頷いた。
「分かりました」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのですよ」
「でも、名前だけ言って、説明しないのは……」
「説明できないことがあるのでしょう?」
「はい」
エレノアは針を布へ置いた。
「話したくないんじゃなくて……話していいのか、まだ決めてないんです」
「それなら、決めるまで待ちましょう」
マルグリットはそれ以上、クロノアについて聞かなかった。
エレノアの胸に、別の痛みが広がる。
優しくされるほど、言えないことが重くなる。
(いつか、話すのかな)
処刑されたこと。
レオナードと婚約していたこと。
ミレーヌと彼が自分を裏切ったこと。
毒殺未遂の罪を着せられたこと。
ロベルトが自分から目を逸らしたこと。
処刑台で死んだこと。
クロノアに出会い、十五歳へ戻されたこと。
もし話せば、アルフォンスたちはどう思うのだろう。
信じてもらえるのか。
悲しませるのか。
怒らせるのか。
それとも、自分を見る目が変わるのか。
「お祖母様」
「はい」
「もし、すごく信じられない話をしたら……信じますか?」
マルグリットはすぐに答えなかった。
少し考え、刺繍枠を膝の上へ置く。
「内容によります、と申し上げるのが正直なところですね」
エレノアは少し驚いた。
「絶対信じるって言わないんですか?」
「あなたが話したことを、最初から嘘だと決めつけるつもりはありません。でも、分からないことを分かったふりをするのも、あなたに対して誠実ではないでしょう?」
「……はい」
「ただし」
マルグリットはエレノアを真っ直ぐ見た。
「あなたが何かを怖いと感じたこと、苦しかったと感じたこと、助けを求めたいと思ったことまで疑うつもりはありません。出来事の説明が私には理解できなくても、あなたがそう感じたということは、まず受け止めます」
エレノアは目を伏せた。
涙が出そうになった。
「それなら……」
声が少し震える。
「いつか、話せるかもしれません」
「ええ」
「今日じゃないです」
「もちろん」
「いつになるかも分かりません」
「それでも構いません」
エレノアは頷いた。
クロノアの名前を口にした。
それだけだった。
秘密を明かしたわけではない。
けれど、今まで誰にも話していなかった世界へ、ほんの小さな穴が開いたような気がした。
怖い。
それでも、その穴を慌てて塞ぎたいとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、今日の記録をいつもよりゆっくり書いた。
『ヴァレリア様は、ベアトリスさんを自分から呼んだ』
『聞き取りの内容を教えられていないのに、私の机について話した』
『昔、机に鍵の掛かった場所があったことを知っていた』
『どうして今、机を思い浮かべたのかは分からない』
『ベアトリスさんは、証言が混ざるから話さない方がいいと言った』
『部屋を出たあと、自分から家令へ報告した』
そこで一度ペンを置く。
少し考え、続ける。
『ヴァレリア様が何か隠しているように感じた』
『でも、感じたことと、証拠は同じではない』
『ベアトリスさんを疑っている』
『でも、疑っている人が正しいことをした事実まで消さない』
文字を見返す。
以前の自分なら、こんな書き方はできなかったかもしれない。
誰かが優しければ、その人は全部正しい。
誰かが怒れば、自分が全部悪い。
誰かを嫌いなら、嫌う自分が悪い。
そんなふうに、一つの感情で全部を決めていた。
今は違う。
嫌いでも、事実は事実。
好きでも、間違いは間違い。
怖くても、知らないことは知らないままにする。
エレノアは次の項目を書いた。
『明日は、できれば調査をしない』
『明後日の午後、昔の部屋の机の右下を一つだけ開ける』
『マルタさんが開ける』
『エレーヌさんが記録する』
『ヘレナさんが立ち会う』
『ほかの場所は開けない』
『途中でやめてもいい』
『鍵らしいものが出ても、左下には使わない』
『私に知らせてから、どうするか決める』
そこまで書き終え、エレノアは机の隅にある灰青色の帳面へ目を向けた。
今日も開かなかった。
明日も、今のところ開くつもりはない。
そして、午後に思わず口にした名前。
クロノア。
エレノアは新しい行へペン先を置いたものの、しばらく動かせなかった。
やがて、ゆっくり書く。
『今日、お祖母様にクロノアの名前を言った』
『全部は話していない』
『話していいか、まだ決めていないと言った』
『お祖母様は待つと言った』
胸の奥が温かくなると同時に、少し怖くなる。
いつか。
本当にいつか。
自分が一度死んだことを話す日が来るのだろうか。
その答えは、まだ出さなくていい。
エレノアはペンを置き、空の肖像枠へ視線を移した。
「お母様」
今日も、そこに母の顔はない。
それでも話しかける。
「明日は、何も調べない日にしたいです」
少し考えてから言い直す。
「何も、じゃないですね。報告が来たら、来たことは教えてもらいます。でも、聞かないかもしれません」
自分で決めた休み方だった。
「明後日は、机の右下を開けます」
声にすると、少し緊張する。
「怖いです。でも、開けたいです」
怖いから開けるのではない。
怖くないから開けるのでもない。
知りたいと思ったから、自分で条件を決めて開ける。
「それと……」
エレノアは肖像枠へ指を伸ばし、木の縁をそっと撫でた。
「今日、クロノアの名前を言っちゃいました」
少しだけ笑う。
「お祖母様には、まだ何も話してません」
母なら、何と言うだろう。
話しなさいと言うのか。
まだ待ちなさいと言うのか。
今のエレノアには分からない。
だから、自分で決めるしかない。
「いつか話すかもしれません」
処刑台のことを。
戻ってきたことを。
自分が一度、家族に会えないまま死んだことを。
クロノアが教えてくれた、あの後もロシュフォール家が黙ってはいなかったということを。
「でも、まだです」
エレノアは手を離した。
「まだ、私が決めてません」
それでいい。
ヴァレリアが何を知っているのかも、まだ分からない。
ベアトリスが昔どこまで関わったのかも、まだ分からない。
机の右下に何が入っているのかも分からない。
鍵がどこにあるのかも、母の肖像がどこへ行ったのかも分からない。
分からないものは、分からないまま記録する。
疑っているものは、疑いとして残す。
怖いものは、怖いと認める。
そのうえで、自分が次に何をするかだけは、自分で決めていく。
エレノアは日記の最後へ、今日いちばん残しておきたい言葉を書いた。
『疑うことと、決めつけることは同じじゃない』
少し間を空けて、もう一行を加える。
『信じたいことと、本当のことも同じじゃない』
その二つを眺めてから日記を閉じると、エレノアは明かりを落とす前に窓の外を見た。
明日は、できるだけ普通に過ごす。
池へ行ってもいい。
刺繍をしてもいい。
昼寝をしてもいい。
魚を食べて、好きか普通か考えてもいい。
調査を進めない一日も、自分の人生には必要だった。
そして、その次の日。
自分が選んだ条件で、昔の机の右下を一つだけ開ける。
何が出るかは、まだ誰も知らない。
知らないからこそ、今夜のうちに答えを作らない。
「おやすみなさい、お母様」
エレノアは空の肖像枠へ告げ、寝台へ入った。
明日の自分には、明日の選択がある。
そのことを、今はもう以前ほど怖いとは思わなかった。




