第41話 何も調べない日の過ごし方
目を覚ましたエレノアは、窓の向こうから聞こえてくる鳥の声に耳を澄ませながら、しばらく寝台の中で身体を伸ばしていた。
今日は、できれば調査をしない日。
昨夜、自分でそう決めたことを思い出したものの、だからといって何をすればいいのかまでは考えていなかった。
(何も調べないなら、今日は何をするんだろう)
ベルナール伯爵家にいた頃なら、そんな疑問を抱くことすらなかっただろう。
するべきことを探し、ヴァレリアや使用人たちの邪魔にならないように動き、自分の存在が誰かの負担にならないよう気をつける。それでも何かを間違えれば、自分が悪かったのだと思っていた。
ロシュフォール公爵家へ来てからは、少しずつ違う時間が増えている。
池へ行く。
刺繍をする。
食べたいものを選ぶ。
眠ければ昼寝をする。
母について話を聞く。
何かを調べるためでも、誰かに認めてもらうためでもない時間が、自分の一日の中へ少しずつ入り込んできた。
(今日は、それだけで一日過ごせるのかな)
不安がないわけではない。
何もしない時間が長くなると、自分だけが怠けているような気持ちになることもある。
それでも今日は、自分で決めた。
エレノアは身体を起こすと、枕元の小卓に置かれた空の肖像枠へ目を向けた。
「おはようございます、お母様」
いつものように声をかけたあと、少し考えて続ける。
「今日は、できれば何も調べません。……ちゃんとできるか分からないけど」
調べないことを「ちゃんとする」というのも妙な言い方だと思い、口元が少し緩んだ。
机の上には、灰青色の帳面が置かれている。
開こうと思えば、自分の手ですぐに開けられる。
けれど、今日もそのままにしておく。
明日の午後には、ベルナール伯爵邸に残された昔の机、その右下の引き出しを開けてもらうことになっている。だからこそ、今日まで何かを開く必要はなかった。
やがて扉が叩かれ、リディアの声が届いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。入ってください」
許可を得て入室したリディアは、朝の挨拶をしたあと、いつものようにカーテンについて尋ねた。
「今日は半分にします」
「かしこまりました」
昨日は全部開けた。
今日は半分。
それだけの違いだった。
衣装棚の前では少し長く迷った末、エレノアは淡い青緑色のドレスを選んだ。水色とも緑とも言い切れない色合いが気に入り、袖口に小さく施された白い刺繍を指でなぞる。
「これ、前にも見ましたよね」
「はい。まだお召しになってはいません」
「そうでしたか」
「気になっておられましたか?」
「たぶん。でも、選ばなかったんだと思います」
以前選ばなかった服を、今日選んでもいい。
その逆もある。
「今日はこれにします。それと、髪は……白いリボンにします」
「承知いたしました」
身支度を整えてもらっている間、エレノアは鏡の中の自分を眺めた。
淡い青緑。
白いリボン。
どちらも自分で選んだ。
その程度のことで、朝の時間が以前より少し楽しい。
「リディア」
「はい」
「今日、何か報告は来てますか?」
尋ねてから、エレノアは鏡越しにリディアを見る。
昨日、自分から頼んだ。
報告が来たこと自体は知らせてほしい。
聞くかどうかは、自分で決めたい。
リディアは少しだけ間を置いてから答えた。
「昨夜から今朝にかけて、ベルナール伯爵家から緊急性のある報告は届いていないと伺っております」
「緊急じゃないものは?」
「調査関係では、今朝の時点では新しい報告はないとのことでございます」
「そうですか」
エレノアは胸の奥を確かめる。
安心した。
けれど、ほんの少しだけ拍子抜けした気持ちもある。
(何もないなら、今日は本当に調べなくていいんだ)
そう思った瞬間、別の不安が顔を出した。
(じゃあ、本当に何をしよう)
自分で休む日を選んでおきながら、休み方が分からない。
エレノアは鏡の中で少し困った顔をした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、温かな野菜のスープと柔らかく焼かれた卵、薄切りのパンが用意されていた。
エレノアが席へ着くと、セドリックはすでに食事を始めており、アルフォンスは何かの書類を食堂へ持ち込もうとしたところをマルグリットに注意されていた。
「アルフォンス。食事中くらいは、それを置いておきなさい」
「目を通すだけだ」
「昨日も同じことを言っていたでしょう」
「昨日は本当に目を通しただけだ」
「そのあと食事が冷めました」
オーギュストが茶を飲みながら、口元に僅かな笑みを浮かべる。
「諦めろ、アルフォンス。お前は昔から、仕事を持ち込んだ時点で負けている」
「父上まで何を言っているんです」
家族の会話を聞きながら、エレノアは目を瞬かせた。
公爵家の当主でも、食事中に仕事をすれば注意されるらしい。
アルフォンスは渋々書類を従僕へ預け、ようやく椅子へ座った。
その様子がおかしくて、エレノアの口元から小さな笑いがこぼれる。
「エレノアまで笑うのか」
「すみません」
反射的に謝った直後、エレノアは「あ」と小さく声を漏らした。
アルフォンスも気づいたらしく、眉を上げる。
「今のは謝るところだったか?」
「……違います」
「そう思うなら、取り消してもいいんじゃない?」
セドリックが卵を切り分けながら言った。
ミレーヌとの面会でも、一度口にした謝罪を取り消した。
あの時より、今日はずっと軽い。
「じゃあ、取り消します」
「うん」
「叔父様が、お祖母様に怒られてるのが少し面白かったです」
今度ははっきり言うと、オーギュストが声を立てて笑い、マルグリットまで楽しそうに微笑んだ。
アルフォンスだけが少し不満そうな顔をする。
「私は公爵なのだが」
「この家では私の息子でもあります」
マルグリットに即座に返され、アルフォンスは何も言えなくなった。
エレノアはまた笑った。
その笑いが落ち着いた頃、セドリックが尋ねる。
「今日は池へ行く?」
「行きたいです」
「ほかには?」
「刺繍もします」
「それから?」
エレノアは答えようとして、止まった。
「……分かりません」
セドリックが首を傾ける。
「決めてない?」
「はい。今日は調査をしない日にしたんですけど、そうしたら何をしたらいいのか分からなくなりました」
アルフォンスの表情から先ほどまでの不満が消えた。
「何もしなくてもいいんだぞ」
「でも、一日ですよ?」
「ああ」
「朝から夜まで?」
「そうだ」
エレノアには、それがひどく贅沢なことのように聞こえた。
「そんなに何もしなくて大丈夫なんですか?」
「何もしないと言っても、食事もするし、庭にも行くのだろう?」
「はい」
「刺繍もする」
「はい」
「それなら、すでにいくつかすることがあるじゃないか」
エレノアは考え込んだ。
自分の中では、それらは「するべきこと」には入っていなかった。
池へ行くのは役に立たない。
刺繍も仕事ではない。
だから「何もしていない」と感じる。
「役に立つことじゃなくてもいいんですか?」
その問いに、食卓の空気が僅かに変わった。
誰もすぐには答えなかったのは、エレノアの言葉を軽く扱わなかったからだ。
やがてマルグリットが静かに口を開く。
「エレノア。あなたが庭を歩くことは、誰かの役に立つためではありません。刺繍も、好きな服を選ぶことも、眠ることも同じです」
「でも、何にもならないですよね」
「あなたが一日を過ごします」
マルグリットはそう答えた。
「それでは足りませんか?」
エレノアは言葉を失った。
(私が一日を過ごす)
誰かに褒められるためでもない。
家に置いてもらうためでもない。
食事を与えてもらう代わりでもない。
何かを返すためでもない。
ただ、自分が一日を過ごす。
それだけでいい。
「……まだ、よく分からないです」
正直に答えると、マルグリットは頷いた。
「それなら今日は、分からないまま試してみてはいかが?」
「何もしないのを?」
「何もしない、ではなく、したいことだけをしてみるのです」
エレノアはスープの中に浮かぶ小さな人参を見つめながら、その言葉を何度か胸の中で繰り返した。
(したいことだけをする日)
それなら少しだけ分かる気がした。
「やってみます」
答えてから、卵を一口食べる。
今日は少し塩味が強い。
けれど嫌いではなかった。
◇ ◇ ◇
朝食後、エレノアは予定通り南の小池へ向かった。
空はよく晴れ、昨日まで薄く残っていた雲もほとんど消えている。秋へ向かう季節の風はまだ冷たいほどではなく、日向へ出れば頬に柔らかな温かさを感じられた。
小池の近くでは、ユリウスが長い柄の道具を使って水際の枯れ葉を集めていた。
エレノアに気づくと作業の手を止め、適度な距離を保ったまま一礼する。
「おはようございます、エレノア様」
「おはようございます、ユリウスさん」
いつもの腰掛けへ向かいながら、エレノアは池を見る。
今日は水面が明るく、魚の影もよく見えた。
ユリウスが作業へ戻ろうとしたところで、エレノアはふと尋ねる。
「ユリウスさんは、お休みの日って何をしますか?」
予想していなかった質問だったのだろう。
ユリウスは柄を持ったまま少し考えた。
「休みの日、ですか?」
「はい。仕事しない日です」
「そうですね……朝を遅くまで寝ることもありますし、市場へ行くこともあります。あとは、何もしないこともあります」
「何もしない?」
「昼まで寝て、起きて飯を食って、そのままぼんやりしていたら夕方になっていたこともあります」
エレノアは驚いた。
「それで、怒られないんですか?」
「誰にでしょう?」
「……誰に?」
聞き返され、自分でも分からなくなった。
休みの日に何もしなかったユリウスを、誰が怒るのか。
彼は成人しているし、自分の仕事をしている。
休みの日の過ごし方を監督する人などいないのだろう。
「すみません。変なこと聞きました」
「いえ。ただ、休みの日に庭へ来て勝手に仕事を始めたら、先輩には怒られると思います」
「仕事した方が怒られるんですか?」
「休めと言われているのに仕事をしたら、人手の割り振りも狂いますから」
その答えは、エレノアにとって少し意外だった。
働くことがいつでも正しいわけではない。
休むべき日に勝手に働けば、むしろ困る人もいる。
「じゃあ、休むのも必要なんですね」
「俺はそう思っています。ずっと働いていたら、次の日に使いものになりませんし」
ユリウスはそう言ってから、自分が公爵令嬢に近い立場の少女へずいぶん庶民的な話をしたことに気づいたらしく、少し困ったように頭を下げた。
「失礼いたしました」
「どうしてですか?」
「少々、言葉が砕けすぎました」
「私は分かりやすかったです」
エレノアが答えると、ユリウスはほっとしたように笑った。
それ以上話を引き延ばさず、彼は仕事へ戻る。
エレノアも腰掛けへ座った。
今日は魚へ与えるパンを持ってきていない。
昨日も持ってこなかった。
それでも魚は、自分が来る前から泳いでいる。
池は、自分が何かをしなくても池のままだ。
(私も、何かしてなくても私なのかな)
すぐには確信できない。
けれど、以前ほど不思議な考えには思えなかった。
◇ ◇ ◇
その頃、ロシュフォール公爵家の執務室では、アルフォンスが朝食時に取り上げられた書類へようやく目を通していた。
机の向こうには家令が立ち、今日届いた書簡を種類ごとに整理している。
領地からの報告。
商会との契約確認。
秋の社交行事に関する招待。
そして、その中に一通だけ、皇室関係の封蝋を伴う書簡があった。
アルフォンスは封を確認してから開く。
読み進めるにつれて、その表情から僅かな柔らかさが消えていった。
「殿下の件ですか」
家令が尋ねる。
「ああ」
アルフォンスは書簡を机へ置いた。
内容そのものは、突然のものではない。
ベルナール伯爵家から第二王子レオナードとの縁談について受諾の意思が一度伝えられ、その後、エレノア本人がロシュフォール家へ保護を求め、本人の同意に重大な疑義があるとして手続きが止まっている。
正式な婚約は成立していない。
そこは変わらない。
しかし、いつまでも「保留」のままにしておける問題でもなかった。
皇室側の担当部署から届いたのは、現在の状況を確認し、今後の手続きを整理したいという連絡だった。
エレノア本人の意思。
ベルナール伯爵家の見解。
ロシュフォール公爵家が現在どの立場で彼女を保護しているのか。
そして今後、誰が彼女の身分上の後見と生活を担うのか。
いずれも、避け続けることはできない。
「今日、お嬢様へお伝えになりますか?」
家令の問いに、アルフォンスはすぐ答えなかった。
今日はエレノアが、自分で「調査をしない日」にすると決めた。
これはベルナール家で進めている虐待や私物の調査とは異なる。
だが、彼女の過去と将来に直結する話であることに変わりはない。
「急ぎの回答期限は?」
「ございません。先方も、エレノア様の体調と事情へ配慮したうえでの確認を求めております。数日以内に受領だけ返せば問題ないかと」
「なら、今日は伝えない」
アルフォンスは決めた。
「ただし隠すつもりはない。明日の机の確認が終わった直後に重ねるのも避けたい。エレノアの状態を見て、書簡が来ていることから伝える」
「かしこまりました」
家令が一礼する。
アルフォンスはもう一度書簡へ視線を落とした。
これまで最優先してきたのは、エレノアをベルナール伯爵邸へ戻さないことだった。
だが、保護することと、この家に正式に迎えることは同じではない。
本人の意思を置き去りにしてはならない。
(私が望んでいるからといって、あの子も同じとは限らない)
姉アデラインの娘。
血のつながった姪。
この家へ来たあの日から、アルフォンスにとってエレノアを家族として扱うことに迷いはなかった。
それでも、法的な身分を変えることは別の問題だった。
エレノアは十五歳であり、今もベルナール伯爵家の娘である。
父ロベルトとの関係。
母方のロシュフォール家との関係。
第二王子との止まったままの縁談。
それらを整理するためには、いずれエレノア自身が「どこで、誰の家族として生きたいのか」を考える必要がある。
アルフォンスは書簡を別の書類の下へ隠さず、専用の書類箱へ移した。
「これは私の管理で保管する。エレノアに話す前に、ベルナール伯爵へ余計な動きをさせるな」
「承知いたしました」
「それから、養子縁組を含めた身分整理の制度だけ調べておいてくれ。まだ本人には何も提案していない。選択肢を整理するだけだ」
「はい」
家令は余計な問いを挟まなかった。
アルフォンス自身も、まだ答えを決めるつもりはない。
エレノアに「この家の娘になれ」と言うのは簡単だ。
だが、それではロベルトが彼女の意思を確かめず縁談を進めたことと、形こそ違えど同じことをしてしまう。
守りたいという気持ちを理由に、選択を奪ってはならない。
そのことを、アルフォンスは以前より強く意識するようになっていた。
◇ ◇ ◇
昼前まで池の近くで過ごしたエレノアは、部屋へ戻る途中で廊下の窓から庭を眺め、ふと足を止めた。
いつも行く南の小池とは反対側に、小さな花壇が見える。
何度も通っている廊下なのに、これまでじっくり見たことがなかった。
「リディア、あそこは何ですか?」
「西側の小庭園でございます」
「行ってもいいところ?」
「もちろんでございます」
エレノアは少し迷った。
南の小池は、自分にとって安心できる場所になっている。
新しい場所へ行く必要はない。
けれど、今日はしたいことだけをしてみる日だった。
「行ってみたいです」
「では、ご案内いたします」
廊下の途中から階段を下り、別の出入口を使って外へ出る。
西側の小庭園は南の池より小さく、中央に石造りの噴水があった。大きなものではなく、丸い水盤の中央から細い水が静かに流れ落ちている。
周囲には季節の花が植えられ、白や淡い紫の花が風に揺れていた。
「ここ、初めてです」
「はい。お嬢様は南側へ行かれることが多うございましたので」
「誰か専用の場所ですか?」
「いいえ。ご家族や来客の方も利用されます。ただ、南庭より小さいため、こちらは静かに過ごされたい方が使われることが多いようです」
エレノアは噴水の近くへ進んだ。
水音が南の池とは違う。
池では風や魚の動きで水面が揺れるが、こちらでは一定の間隔で水が落ち続けている。
「こっちも好きかもしれません」
「それは何よりでございます」
「南の池が好きなのに?」
口にしてから、自分でも答えが分かりかけている気がした。
リディアもすぐには答えず、エレノアが考えるのを待つ。
「……両方好きでもいいんですよね」
「はい」
エレノアは噴水の縁から少し離れた長椅子へ座った。
「好きな場所、一つじゃなくていいんだ」
南の池を好きになったから、そこだけを選び続けなくていい。
魚が好きだから、毎日同じ料理を食べなくてもいい。
水色が好きだから、黄色を選んでもいい。
ミレーヌと一度会ったから、また会わなければならないわけではない。
一つ選んだことが、その後の自分を縛る決まりにはならない。
(好きなものが増えるのって、前の好きなものを捨てることじゃないんだ)
当たり前のことなのかもしれない。
それでもエレノアには、少し新しい発見だった。
◇ ◇ ◇
昼食では、朝より空腹を感じていた。
エレノアはパンを一枚取り、鶏肉と野菜を柔らかく煮込んだ料理を食べる。
食事の途中で、セドリックが何気なく尋ねた。
「午前中は池にいたの?」
「池にも行きました。そのあと、西の小庭園にも行きました」
「噴水のところ?」
「はい」
「どうだった?」
「好きでした」
セドリックが微笑む。
「じゃあ、また行く?」
「行くかもしれません。でも、南の池も好きです」
「両方行けばいいんじゃない?」
「私も、さっきそう思いました」
言葉にすると、少し嬉しかった。
「今日は、したいことだけする日なんです」
「それはいいね」
「でも、まだ午後が残ってます」
「困ってる?」
「少しだけ」
セドリックは笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「休むのも大変だね」
「はい。思ってたより難しいです」
「じゃあ昼寝したら?」
「眠くないです」
「本を読むとか」
「何を読めばいいか分かりません」
「刺繍は?」
「それはします」
そこでエレノアは、自分が選択肢をいくつも並べてもらっていることに気づいた。
以前なら、その中から「正しいもの」を探しただろう。
今は、どれを選んでも怒られない。
「……本、見てみたいです」
「図書室へ行く?」
「はい。でも、勉強の本じゃなくてもいいですか?」
「もちろん」
「物語でも?」
「むしろ休む日に勉強の本を選んだら、祖母上に止められるかもしれない」
向かいのマルグリットがすぐに反応した。
「止めません。ただし、なぜその本を読みたいのかは聞きます」
「ほら」
「それは止めるのと違いますよ、セドリック」
祖母と従兄のやり取りを聞きながら、エレノアは笑った。
「じゃあ、午後は図書室に行きます」
新しい予定が一つ増えた。
誰かに命じられた予定ではない。
自分が選んだ午後だった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵家の図書室は、エレノアが想像していたより広かった。
二階まで続く書棚には、領地経営や歴史、法律、地理、文学など様々な本が並び、中央には読書用の机がいくつも置かれている。高い位置の本を取るための移動式の梯子まであり、初めてゆっくり中へ入ったエレノアは入口付近で立ち止まった。
「こんなにあるんですね」
「公爵家でございますので、古い蔵書も多くございます」
リディアが説明する。
「お嬢様がお読みになる場合、特別な許可が必要な書棚は奥の一部のみでございます。それ以外は自由にお選びいただけます」
「何を読んでも?」
「はい」
自由に選べると言われると、また困る。
エレノアは書棚の間をゆっくり歩いた。
歴史書。
外国の紀行文。
詩集。
植物図鑑。
料理について書かれた本まである。
その中で、一冊の薄い本に目が留まった。
装丁には、森の中に小さな家が描かれている。
「これは?」
リディアが背表紙を確認する。
「昔からある児童向けの物語集のようでございます」
「子供向け?」
「はい」
十五歳の自分が読むには幼いだろうか。
そう考えた直後、エレノアは本を棚へ戻しかけた手を止めた。
(読みたいかどうかで決めるんだった)
年齢に合っているか。
役に立つか。
難しい本を読んだ方が立派なのではないか。
そんなことを考え始めている。
「これ、読みます」
「かしこまりました」
窓際の椅子へ座り、本を開く。
物語は、森で迷子になった少女が、動物たちに助けられながら家へ帰るという単純なものだった。
けれど、エレノアは思った以上に夢中になった。
少女は途中で何度も道を間違える。
狐に教えてもらった道を途中で忘れ、雨に降られ、木の根に躓き、最後には帰る方向と反対へ歩いてしまう。
それでも、物語の中で誰も少女を殴らない。
食事を取り上げない。
失敗した少女に、年老いた鹿は「次は右へ行けばいい」と教えるだけだった。
エレノアの指がページの端で止まる。
(失敗しても、次を教えてもらえる)
以前なら、物語だからだと思ったかもしれない。
けれど今は、クラリスからも、マルグリットからも、アルフォンスからも聞いている。
失敗した子供を傷つけていい理由などない。
エレノアは少しだけ目元を押さえた。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でもよく分からない。
ただ、その本を閉じたいとは思わなかった。
最後まで読む。
少女は家へ帰り、家族に抱きしめられる。
道を間違えたことを叱られるのではなく、帰ってきたことを喜ばれる。
本を閉じた時、エレノアはしばらく表紙を見つめていた。
「リディア」
「はい」
「これ、部屋に借りていってもいいですか?」
「もちろんでございます」
「もう読み終わりましたけど」
「またお読みになりたいのであれば」
「……はい」
もう一度読みたい。
その理由を説明する必要はない。
「借ります」
エレノアは本を胸へ抱えた。
◇ ◇ ◇
夕方、部屋へ戻ったエレノアは刺繍枠を取り出した。
昨日まで進めていた野薔薇の横へ、今日は小さな葉を一枚だけ増やす。
何枚も刺す必要はない。
一枚を刺し終えたところで、今日はもう十分だと思った。
針を片づける。
その時、机の上にある灰青色の帳面が目に入った。
朝にも見た。
今も閉じている。
けれど今日は、開くかどうかを長く考えなかった。
(今日は開けない)
それで終わりだった。
代わりに図書室から借りた物語集を机へ置く。
灰青色の帳面と、森の絵が描かれた児童向けの本。
二冊が並んだ。
一冊は中身を知らない。
一冊は今日、自分で選んで最後まで読んだ。
どちらも自分の机に置いていい。
エレノアはその光景を少しだけ気に入った。
◇ ◇ ◇
夕食前、アルフォンスは自室へ戻る途中でセドリックに呼び止められた。
「父上」
「どうした?」
「今日、何か届いたでしょう」
アルフォンスは足を止める。
「なぜ分かった」
「朝食の時に持ち込もうとしていた書類の封蝋が皇室関係のものに見えたから」
「よく見ているな」
「エレノアのこと?」
アルフォンスは少し考えたあと、頷いた。
二人は廊下の中央で話し続けず、近くの小談話室へ入る。
扉を閉めてから、アルフォンスは皇室側から縁談の保留状態と今後の身分上の扱いについて確認が届いたことを説明した。
セドリックの表情が僅かに硬くなる。
「レオナード殿下との話を再開するという意味ではないんですね」
「違う。正式な婚約は成立していないし、本人の意思確認に問題があったことも先方は把握している。今後どう処理するかを整理したいという話だ」
「なら、エレノアは断れる?」
「当然だ。少なくとも、本人が明確に拒絶している状態で進めさせるつもりはない」
セドリックは少し安心したようだったが、すぐに別のことへ気づいた。
「身分上の扱いって?」
「エレノアが今後どこで生活し、誰が保護と後見を担うのかという問題だ。今は本人の希望を受けてこちらで保護しているが、ずっと曖昧な状態のままにはできない」
「ベルナール家へ戻すつもりは?」
「ない」
アルフォンスの答えに迷いはなかった。
「ただし、それを私一人で決めて終わりにもできない。エレノア自身がどうしたいのかを確認する必要がある」
セドリックは父を見つめる。
「養女にすることも考えてる?」
「私は考えている」
静かな答えだった。
「だが、エレノアが望むとは限らない」
「嫌がるかな」
「分からない」
「この家にはいたいって言ってるのに?」
「この家にいたいことと、私の娘になることは同じではない」
セドリックは口を閉じた。
アルフォンスは続ける。
「お前の妹になることも同じだ。私たちがそうなってほしいからといって、エレノアがそうならなければならない理由にはならない」
「……そうですね」
「それに、あの子は今まで、他人が自分のことを決める環境にいた。だからこそ、今度のことは特に慎重に扱いたい」
セドリックはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「俺は、妹になってほしいです」
「ああ」
「でも、それを先に言ったら、エレノアは俺を喜ばせるために『はい』って言うかもしれない」
「その可能性がある」
「じゃあ、言わない方がいい?」
「聞かれたなら、嘘をつく必要はない。ただ、答えを求める形にはするな」
セドリックは頷いた。
「分かりました」
「今日は何も言うな。エレノアが自分で調査を休むと決めた日だ」
「はい」
「明日は旧室の机を開ける予定がある。その結果と本人の状態を見て、別の日にまず書簡が届いていることから話す」
「養子の話を最初から出すんですか?」
「選択肢を整理してからだ。何が可能で、何を選んだ場合にどうなるのかを、こちらの希望と分けて説明する」
セドリックは少しだけ笑った。
「父上、かなり慎重ですね」
「当然だ」
「エレノアのことになると、もっと勢いで全部決めそうなのに」
アルフォンスは眉を寄せる。
「私はそこまで信用がないのか」
「最初に助けを求める手紙が来た時、すぐベルナール家へ乗り込もうとしたでしょう」
「乗り込んではいない」
「止めたからでしょう」
アルフォンスは反論しかけ、やめた。
事実だった。
セドリックは小さく笑ったあと、表情を真面目なものへ戻す。
「でも、今は分かります。父上が勝手に決めたら、たぶんエレノアは困る」
「ああ」
「俺も気をつけます」
二人はそれ以上話さなかった。
小談話室を出る頃には、夕食の時間が近づいていた。
そして二人とも、食卓ではこの話題を出さなかった。
◇ ◇ ◇
夕食後、エレノアは自室で今日のことを書き残していた。
調査について書くことは、ほとんどない。
それが少し不思議だった。
『今日は新しい調査報告はなかった』
最初にそう書いてから、次の行へ進む。
『南の池へ行った』
『西の小庭園へ初めて行った』
『噴水の音が好きだった』
『南の池も好き』
そこまで書いたところで、エレノアは少し考えた。
『両方好きでいい』
さらに、図書室で借りた本のことを書く。
『森で迷子になる女の子の本を読んだ』
『何回も失敗するけど、殴られなかった』
『帰ったら、怒られるより先に、帰ってきたことを喜んでもらっていた』
ペン先が少し止まる。
それから、ゆっくり続きを書いた。
『物語だからだけじゃなくて、本当もそうでいいのかもしれない』
完全に信じられるわけではない。
けれど、以前よりは信じたいと思える。
次に、朝食でマルグリットから言われた言葉を思い出す。
『今日は、したいことだけする日だった』
『役に立たなくても、一日を過ごしていいと言われた』
エレノアはそこで手を止めた。
今日、自分は何をしただろう。
池へ行った。
ユリウスと休みの日について話した。
初めて西の小庭園へ行った。
昼食を食べた。
図書室へ行った。
子供向けの本を読んだ。
刺繍を一枚だけ進めた。
何一つ、ベルナール家の調査は進めていない。
母の木箱も見つけていない。
肖像も見つけていない。
鍵も見つけていない。
ナタリーの居場所も分かっていない。
ヴァレリアやベアトリスについて新しい答えも出ていない。
それでも。
(今日、無駄だったのかな)
胸へ問いかける。
すぐに答えは出なかった。
けれど、図書室で読んだ物語を思い出す。
西の小庭園の噴水も。
朝、アルフォンスがマルグリットに注意されていた時、家族と一緒に笑ったことも覚えている。
エレノアは新しい一行を書いた。
『何も調べなかったけど、今日がなくてもよかったとは思わない』
書いた文字を見つめていると、胸の奥が少し温かくなった。
これでいいのかもしれない。
調査が進んだ日だけが、自分の人生ではない。
傷つけられた理由を知るためだけに生きているのでもない。
奪われたものを取り返すことは大切だ。
真実を知りたい。
母の品も取り戻したい。
自分を傷つけた人間が誰なのかも、いつか知りたい。
けれど、それとは別に、自分が好きな場所を増やしたり、面白い本を読んだり、食事を選んだりしてもいい。
エレノアは空の肖像枠へ顔を向けた。
「お母様」
今日は、母の品について何も分からなかった。
それでも話しかける。
「西のお庭に行きました。噴水がありました」
母がその庭を知っていたかは分からない。
「南の池も好きです。でも、西のお庭も好きでした」
少し笑う。
「二つ好きでもいいみたいです」
空の枠は何も答えない。
けれど、それでよかった。
「あと、子供の本を読みました。十五歳なのに」
そこで自分の言葉に引っかかる。
「……十五歳でも、読んでいいですよね」
誰かに答えてもらわなくても、今は少し分かる。
「面白かったから、また読みます」
机へ視線を戻す。
灰青色の帳面は今日も閉じたままだった。
その隣には、森の絵が描かれた物語集が置かれている。
エレノアは灰青色の帳面へ手を伸ばさず、物語集の方を手に取った。
寝る前に少しだけ読み返してみたい。
同じ話でも、もう一度読みたいと思ったから。
その時、明日の予定を思い出す。
昔の机の右下を開けるのは、明日ではない。
今日が調査を休む日で、その次の日――つまり明日が、昨日決めた「明後日」に当たる。
エレノアは日付を頭の中で確かめ、少し緊張した。
(明日の午後、開ける)
胸がきゅっと縮む。
けれど、今日一日を過ごしたことで、昨日より少しだけ落ち着いてその予定を考えられる気がした。
右下だけ。
マルタが開ける。
エレーヌが記録する。
ヘレナが立ち会う。
ロベルトも、ヴァレリアも、ベアトリスも立ち会わない。
途中でやめてもいい。
鍵らしいものが見つかっても、左下には使わない。
その条件は変わっていない。
エレノアは日記の最後へ書き加えた。
『明日の午後、机の右下を一つだけ開ける』
『今日は休んだから、明日開けなければならないわけではない』
『明日の私が嫌だと思ったら、やめてもいい』
そこまで書いてから日記を閉じた。
今日休んだことを、明日の義務へ変えない。
休ませてもらったのだから頑張らなければならない、とは考えない。
その考え方は、まだ少し難しい。
けれど、覚えておきたかった。
「おやすみなさい、お母様」
肖像枠へ声をかけ、エレノアは物語集を持って寝台へ入った。
その夜、眠る前に読んだのは、過去の証言でも、失われた品の記録でもなかった。
森で何度も道を間違えながら、それでも最後には家へ帰る少女の物語だった。
そしてエレノアの知らないところでは、皇室から届いた一通の書簡が、アルフォンスの執務室にある書類箱の中で静かに保管されていた。
第二王子との止まったままの縁談。
ベルナール家へ戻るのか、それとも戻らないのか。
今後、誰の家族として、どこで生きていくのか。
それらについて、エレノアはまだ何も知らない。
アルフォンスもまた、彼女の代わりに答えを決めてはいなかった。
いずれ選ばなければならない日が来るとしても、その選択まで誰かが奪っていい理由にはならない。
だから今夜だけは、何も知らない少女が安心して物語を読みながら眠りにつける時間を、誰も邪魔しなかった。




