第42話 右下の引き出し
朝、目を覚ましたエレノアが最初に思い出したのは、ベルナール伯爵邸に残された古い机のことだった。
昨日は調査をしないと決め、南の池へ行き、初めて西の小庭園を歩き、図書室では森で迷子になる少女の物語を読んだ。夜も灰青色の帳面には触れず、もう一度読みたくなった物語集を寝台へ持ち込んだまま、いつの間にか眠っていた。
その一日を挟んだことで、机の右下にある深い引き出しへの恐怖がなくなったわけではない。
胸の奥には、朝から小さな重さがある。
(今日、開けるって決めた。でも、今日になったからって、絶対に開けなきゃいけないわけじゃない)
昨夜、自分で日記へ書いた言葉を思い出す。
休んだから頑張らなければならないわけではない。
昨日何も調べなかった分、今日は二倍進めなければならないわけでもない。
それでも、今の自分はどうしたいのか。
エレノアは寝台から身体を起こし、枕元の小卓に置かれた空の肖像枠へ目を向けた。
「おはようございます、お母様」
声をかけてから、少し考える。
「今日は、机の右下を開けてもらう予定です。でも……まだ、開けますとは言わないでおきます」
朝の自分と、午後の自分は違うかもしれない。
昨日の自分とも違う。
それを認められるようになったことは、以前のエレノアにとって想像もできなかった変化だった。
扉が叩かれ、リディアの声が届く。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。入ってください」
入室したリディアは朝の挨拶を済ませると、いつものように窓辺へ視線を向けた。
「カーテンはいかがいたしましょう」
「今日は全部開けます」
「かしこまりました」
厚い布が左右へ寄せられると、朝の光が部屋の奥まで差し込んだ。昨日より少し雲が多いらしく、眩しすぎない柔らかな光が、机の上に置かれた二冊の本を照らしている。
一冊は、まだ開いていない灰青色の帳面。
もう一冊は、昨日自分で選んだ物語集。
エレノアはしばらく二冊を見比べたあと、物語集の方を手に取った。
「これ、あとで図書室へ返します」
「もうよろしいのでございますか?」
「はい。二回読みました」
「お気に召したのですね」
「……はい」
素直に答えると、少し照れくさい。
けれど、もう「十五歳なのに子供向けの本を読んだ」と言い訳する必要はない気がした。
衣装は、薄い藤色のドレスを選んだ。髪には同系色ではなく、昨日使った白いリボンをもう一度合わせる。
「同じリボンでもいいですよね」
「もちろんでございます」
「昨日使ったから、今日は別のものにしなきゃいけないのかなって、少し思いました」
「お嬢様がお使いになりたいのでしたら、何日続けてお選びになっても問題ございません」
「じゃあ、今日もこれにします」
好きなものを毎日選んでもいい。
違うものを選んでもいい。
その日の自分が決めればいい。
身支度を終えたエレノアは、鏡の中の自分を見つめながら小さく息を吐いた。
「リディア」
「はい」
「午後の予定、変わってませんか?」
「はい。お嬢様から変更のお申し出がない限り、予定通りでございます。午後二時にベルナール伯爵邸の旧室で、机の右下の引き出しのみ確認いたします」
リディアは、決定事項を押しつけるような言い方をしなかった。
「マルタ様が引き出しを開け、エレーヌ・フォシェが内容を記録いたします。ヘレナ・バルドーがベルナール伯爵家側の立会人となります。ロベルト様、ヴァレリア様、ベアトリス様は立ち会われません」
エレノアは一つずつ確かめるように頷いた。
「鍵みたいなものが出ても?」
「左下の施錠された収納には使用いたしません。発見された状態を記録したうえで保管し、まずお嬢様へ報告いたします」
「途中で嫌になったら?」
「中止できます」
「一つ見つけたところで、全部出さないでって言っても?」
「もちろんでございます」
条件は変わっていない。
それを確認しただけで、肩に入っていた力が少し抜けた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
リディアはそれ以上、勇気づけるような言葉を加えなかった。
頑張ってくださいとも、大丈夫ですとも言わない。
そのことが、今のエレノアにはありがたかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアは図書室へ物語集を返しに行った。
昨日座った窓際の椅子が空いている。
返却するだけのつもりだったのに、書棚の前を通ると、自然に足が遅くなった。
「今日は借りません」
誰に言うでもなく口にすると、後ろにいたリディアが微笑む。
「はい」
「……でも、見てもいいですか?」
「もちろんでございます」
エレノアは児童向けの物語が並んだ棚を少し眺めた。
昨日読んだものとは別に、海辺の町を描いた表紙の本がある。
その隣には、赤い屋根の家と二人の姉妹が描かれた本。
気にはなる。
けれど、今日は借りない。
(読みたいと思ったからって、今すぐ読まなくてもいいんだ)
開けたいものを、今すぐ開けなくてもいい。
会ってみたいと思った相手と、すぐ次の約束をしなくてもいい。
気になった本を、今日借りなくてもいい。
少しずつ、同じ考え方が別のものにもつながっていく。
「また今度にします」
「はい」
図書室を出たあと、エレノアは南の小池へ向かった。
午後に調査があるからといって、午前中までそのためだけに使う必要はない。
水面には雲の影がゆっくり流れていた。
今日はユリウスの姿がなく、別の庭師が遠くで植え込みを整えている。
エレノアはいつもの腰掛けへ座った。
池を眺めていると、胸の奥にある緊張が消えるのではなく、少しずつ形を持っていくように感じる。
怖い。
何が出てくるか分からない。
何も出てこないかもしれない。
母の品が出てきてほしいという期待もある。
同時に、母の品が出てきたら、それがなぜ自分の手元から離れていたのかを考えなければならない。
(何もなかったら、がっかりするのかな)
それも分からない。
何かが見つかることだけが正解ではない。
引き出しが空なら、「そこにはなかった」という事実が増える。
アルフォンスたちはそう説明してくれた。
それでも、エレノアは人間だから、事実だけを同じ重さで受け取れるわけではなかった。
母の肖像が見つかってほしい。
青い髪飾りも見つかってほしい。
野薔薇の彫られた木箱も、自分のところへ戻ってきてほしい。
そして、できることなら、自分がなぜあんな扱いを受けたのか分かるものも見つかってほしい。
(でも、見つかってほしいからって、見つかったことにはしない)
それだけは決めている。
魚の一匹が水面近くまで上がり、すぐに深いところへ戻っていった。
エレノアはその小さな波紋が消えるまで見届けてから、立ち上がった。
「戻ります」
「はい、お嬢様」
リディアが応じる。
午後まで、まだ時間はある。
昼食も食べる。
急がない。
◇ ◇ ◇
午後一時を少し過ぎた頃、エレノアは自室で刺繍をしていた。
野薔薇の隣に増やした葉へ、もう少しだけ糸を重ねる。
今日は手元が落ち着かず、二度ほど針を止めた。
それでも、失敗したわけではない。
少しずれているように見える部分もあるが、ほどくほどではないと思った。
「これ、このままにします」
向かいに座るマルグリットが刺繍枠を見る。
「気になるの?」
「少しだけ。でも、嫌いではないです」
「なら、そのままでもよいと思いますよ」
「はい」
エレノアは針を布へ戻さず、糸を整えて道具を置いた。
マルグリットは時間を確認するように時計へ目を向けたものの、机の調査について自分から切り出さなかった。
それが分かったからこそ、エレノアは自分から口を開く。
「お祖母様」
「なあに?」
「今日、やっぱり開けてもらおうと思います」
言葉にすると、胸が少し強く鳴った。
マルグリットはすぐに褒めなかった。
「今、そうしたいと思っているのね」
「はい。怖いです。でも、開けてほしくないとは思ってないです」
「そう」
「怖くなくなるまで待った方がいいですか?」
「それを決めるのも、あなたでしょうね」
マルグリットは手元の刺繍を置いた。
「怖くても知りたいなら、知る方を選んでもいいでしょう。怖いから今日はやめると決めてもいい。大切なのは、怖がっている自分を無視して誰かの期待に応えようとしないことではないかしら」
エレノアは膝の上の刺繍枠へ視線を落とした。
「誰も、今日開けてほしいって言ってません」
「ええ」
「叔父様も、セドリックお兄様も」
「ええ」
「だから、今日は私が見たいです」
今度は、さっきよりはっきり言えた。
「机の右下だけ、お願いします」
「分かりました」
マルグリットの返事は穏やかだった。
エレノアは刺繍道具を片づける。
午後二時まで、あと少し。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸の旧室には、約束の時刻より少し前に三人が集まっていた。
マルタは机から少し離れた場所に立ち、エレーヌ・フォシェは記録用の紙と筆記具を準備している。ベルナール伯爵家側の立会人であるヘレナ・バルドーは、触れてはならないという条件を守り、部屋の入口寄りに立っていた。
机は、かつてエレノアが使っていた時の位置から動かされていない。
左下には施錠された収納がある。
今日開けるのは、その反対側。
右下の深い引き出しだけだった。
エレーヌが条件を読み上げる。
「本日の確認対象は、エレノア様が以前使用されていた机の右下、施錠されていない深型引き出し一か所のみです。ほかの引き出し、左下の施錠収納、窓側収納、壁側の長櫃は確認いたしません」
マルタとヘレナが頷く。
「内容物は、原則として発見された順序と位置を記録します。確認に必要な範囲を超えて開封、分解、使用はいたしません。鍵、または鍵と思われる物が発見された場合、いかなる錠にも使用せず、その状態を記録して保管します」
「承知しております」
ヘレナが答えた。
マルタも小さく息を整えてから頷く。
「はい」
「では、始めます」
エレーヌの言葉を受け、マルタが机へ近づいた。
引き出しの取っ手へ触れる。
一度だけ手を止めたのは、恐れているからというより、自分の記憶を確かめるためだった。
かつてこの部屋で、まだ幼かったエレノアの身支度を手伝っていた頃。
この机の右下を開けたことがあっただろうか。
曖昧だった。
左下が施錠されていたことは覚えている。
けれど右下については、日常的に使われていたような気もすれば、自分は触れなかったような気もする。
「記憶は曖昧です」
マルタは取っ手へ手を置いたまま言った。
「この引き出しを私が以前開けたことがあるかどうか、はっきり覚えておりません」
エレーヌがその発言を記録する。
「そのまま記録します」
「お願いします」
マルタは今度こそ取っ手を引いた。
古い木が擦れる低い音とともに、深い引き出しがゆっくり手前へ出てくる。
中は空ではなかった。
上部に、折り畳まれた薄い布が二枚。
その下に、小さな紙箱。
奥には数枚の紙をまとめたものと、細長い革製の袋らしき物が見える。
マルタは触れずに手を離した。
「開きました」
エレーヌが机へ近づく。
最初に全体の配置を確認し、紙へ簡単な図を描いた。
「上部、手前寄りに薄布二点。中央やや右に小型紙箱一点。奥側に紙束一点。奥左側に細長い革製収納物と思われるもの一点。現時点で鍵と思われる物は視認できません」
ヘレナは離れた位置から確認する。
「異議ありません」
「では、上から一点ずつ確認します」
マルタが最初の布を持ち上げた。
淡い生成り色の布で、縁には小さな花の刺繍がある。
衣類ではない。
大きさから見れば、物を包むための布だった可能性が高い。
二枚目は無地で、少し厚い。
どちらにも名前や印は見当たらない。
エレーヌは材質や刺繍の特徴を記録し、別々に置かせた。
次は紙箱。
蓋は紐などで封じられていない。
しかし、今日の条件では、箱が見つかったからといって自動的に中を開けることにはなっていなかった。
エレーヌは手を止める。
「これは別容器です。開封の許可はありません」
「では、外側のみ記録します」
マルタは箱を持ち上げ、向きを変えないよう注意しながら確認した。
黄ばんだ白い紙で覆われた箱。
手のひらより少し大きい。
蓋の端に薄い青色の染みのようなものがあるが、それがインクなのか、布の色移りなのかは分からない。
文字はない。
「未開封のまま保管対象にします」
エレーヌが決めた。
今日ここで開けない。
中身を確認するかどうかは、エレノアへ報告してから本人が決める。
紙箱を安全な場所へ移したあと、奥の紙束が見えやすくなった。
紙束には紐がかけられていた。
封蝋はない。
一番上の紙に文字がある。
エレーヌは触れる前に身を屈め、読める範囲だけを確認した。
「文字があります」
マルタの顔が強張った。
「何と?」
「……『エレノア衣類』と読めます。その下に日付らしき数字があります」
エレーヌはそれ以上、勝手に紙束を解かなかった。
現在進行している衣類調査と関係する可能性がある。
すでに八着のドレスが帳簿上で行方不明となり、そのうち三着については、アニエス・モローの記録からミレーヌの寸法へ直されたことが判明している。
だが、この紙束がその件と同じものかどうかは、まだ分からない。
「紙束は紐を解かず、表面記載のみ記録します」
「それがよいと思います」
ヘレナが答えた。
最後に残ったのは、細長い革製の袋だった。
茶色の革は乾燥し、表面に細かなひびがある。
マルタがそっと持ち上げると、中に何か硬いものが入っている感触があった。
「何か入っています」
エレーヌの手が止まる。
「形は分かりますか?」
「細いものが……二本か三本ほどあるように感じます。ただ、袋を開けなければ分かりません」
「振ったり、押して確かめたりしないでください」
「はい」
マルタはすぐに机上へ置いた。
革袋の口は細い紐で巻かれている。
結び目は固く、長くそのままになっていたことが窺えた。
外側には文字も印もない。
エレーヌは革袋も未開封として記録した。
「引き出し底部を確認します」
内容物をすべて取り出したことで、木製の底板が見えた。
汚れと細かな傷はある。
隠し板らしき不自然な継ぎ目は見当たらない。
そして、右奥の角に、小さく折り畳まれた紙片が一枚残っていた。
紙束とは別で、引き出しの側面と底の間に挟まるように入っている。
マルタが手を伸ばしかけ、止めた。
「これは……」
エレーヌも位置を確認する。
「紙片一点。右奥、側板との隙間に挟まっています。偶然入り込んだ可能性もあります。まず位置を記録します」
図へ書き足したあと、マルタが慎重に紙片を取り出した。
小さく二つ折りになっている。
表面には文字がない。
エレーヌはしばらく考えた末、首を横へ振った。
「これも開きません」
今日の目的は、右下の引き出しを確認すること。
見つかったものを片端から開封することではない。
「エレノア様へ報告し、判断を仰ぎます」
その判断に、二人とも異論を唱えなかった。
引き出しの中から鍵は見つからなかった。
母の肖像もない。
青い髪飾りも、野薔薇の木箱もない。
しかし、確認すべきものはいくつか見つかった。
薄布二点。
未開封の小型紙箱。
『エレノア衣類』と表面に記された紐付き紙束。
中身不明の細長い革袋。
隙間に挟まっていた未開封の小さな二つ折り紙片。
エレーヌはすべてを記録したあと、内容物を勝手に別の場所へ移さず、事前に決められた保全用の容器へ個別に収めた。
「以上で、本日の確認を終了します」
左下の錠には、誰も触れなかった。
◇ ◇ ◇
午後三時を過ぎた頃、ロシュフォール公爵邸へ報告が届いた。
エレノアは自室にいた。
調査が始まる時刻を知っていたため、二時を過ぎてからは刺繍をしてもあまり手が進まず、結局途中で針を置いている。
扉が叩かれた。
「お嬢様」
リディアの声だけで、エレノアは背筋を伸ばした。
「はい」
「机の確認が終了したとの報告が届いております」
心臓が強く鳴る。
けれど、リディアは続けない。
内容を聞くかどうかは、エレノアが決める。
「……終わったんですね」
「はい」
「誰か、怪我とかは?」
「ございません」
「予定してなかった場所を開けたりは?」
「ございません。右下の引き出し一か所のみです。左下の施錠収納には触れておりません」
それを聞いて、エレノアは息を吐いた。
次に聞くべきことは分かっている。
何が入っていたのか。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
(聞きたい)
怖い。
それでも聞きたい。
「叔父様は?」
「報告書を確認するため、執務室にいらっしゃいます」
「私も聞けますか?」
「もちろんでございます。こちらへお呼びすることもできます」
エレノアは部屋を見回した。
空の肖像枠。
灰青色の帳面。
刺繍枠。
自分の寝台。
今はここで聞きたい。
「来てもらってもいいですか?」
「承知いたしました」
リディアが退出してから、エレノアは椅子へ座った。
両手を膝の上で重ねる。
少し冷たい。
しばらくして、アルフォンスがやってきた。
彼は一人だった。
「入ってもいいか?」
「はい」
許可を得てから入室し、エレノアの向かいへ座る。
手には報告書がある。
「聞くか?」
「はい」
「全部?」
その問いに、エレノアは少し考えた。
「まず、何が見つかったかだけ聞きたいです。詳しいことは、そのあと決めます」
「分かった」
アルフォンスは報告書を開く。
「右下の引き出しには、薄い布が二枚、小さな紙箱が一つ、紐でまとめられた紙束が一つ、細長い革の袋が一つ、それから引き出しの奥の隙間に、小さく折り畳まれた紙片が一枚あった」
エレノアは黙って聞く。
「鍵は?」
「見つかっていない」
「青い髪飾りは?」
「確認できる範囲にはなかった」
「お母様の木箱は?」
「なかった」
「肖像は?」
「それもなかった」
期待していたものは、一つも見つからなかった。
胸の奥が沈む。
エレノアはその感情を無理に否定しなかった。
「……ちょっと、がっかりしました」
「ああ」
「見つからないかもしれないって分かってたのに」
「分かっていても、期待はするだろう」
「はい」
アルフォンスは「それでも調査は進んだ」と急いで慰めなかった。
がっかりした気持ちがあるなら、まずそこにいていい。
エレノアはしばらく膝の上の指を見つめたあと、顔を上げた。
「ほかのものは?」
「紙箱と革袋、折り畳まれた紙片は開けていない」
「どうして?」
「お前の許可がなかったからだ」
エレノアは目を瞬かせた。
「引き出しを開ける許可はしました」
「引き出しを開けることと、その中に入っていた閉じたものを全部開くことは別だと判断したそうだ。私もそれでいいと思う」
胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた。
以前なら、誰かが全部調べてから結果だけを自分へ教えただろう。
あるいは、そもそも教えてもらえなかったかもしれない。
「じゃあ、まだ中身は誰も知らないんですか?」
「紙箱、革袋、折り畳まれた紙片についてはな。外から確認できることだけ記録してある」
「紙束は?」
「紐を解いていない。ただ、一番上に文字が見えている」
「何て書いてあるんですか?」
アルフォンスは一度だけ報告書へ視線を落とした。
「『エレノア衣類』と読めるそうだ。その下には日付らしき記載がある」
エレノアの指先が動いた。
「私の服?」
「可能性はある。ただし、中を確認していない以上、何の記録かは分からない。今調べている八着のドレスと関係するとも、まだ言えない」
「……はい」
アニエスの記録によって、自分のために作られた八着のドレスが現在確認できず、そのうち三着がミレーヌの寸法へ直されていたことは分かっている。
残る五着がどこへ行ったのかは分からない。
紙束が、その答えなのかもしれない。
まったく別の衣類についての記録かもしれない。
(見たい)
思った瞬間、すぐに口へ出すのはやめた。
自分の気持ちを一度確かめる。
「叔父様」
「うん?」
「紙束を見たいって言ったら、今日見られますか?」
「できる」
「紙箱も?」
「できる。革袋も紙片も、お前が望めば確認できる」
「全部、今日じゃなくても?」
「もちろんだ」
エレノアは背もたれへ少し身体を預けた。
選択肢が多い。
全部開ける。
一つだけ開ける。
今日は何も開けない。
紙束だけを見る。
箱だけを見る。
明日考える。
どれでもいい。
「今日は……紙束も開けません」
「ああ」
「紙箱も、革の袋も、紙も」
「分かった」
「でも、見つかった場所は知りたいです」
アルフォンスは報告書を机へ置き、エレノアから見える向きへ変えた。
簡単な図が描かれている。
引き出しの手前に布。
中央に箱。
奥に紙束。
その横に革袋。
右奥の隙間に小さな紙片。
エレノアは図をじっと見た。
「紙は、隙間に入ってたんですね」
「ああ。意図的に隠されたのか、偶然入り込んだのかは分からない」
「分からないままにしておくんですね」
「今はな」
エレノアは頷いた。
「それがいいです」
以前なら、隙間に挟まった紙というだけで「誰かが隠した」と考えたかもしれない。
今でも、その可能性は頭に浮かぶ。
けれど、可能性は事実ではない。
「薄い布は?」
「一枚は生成り色で、縁に小さな花の刺繍がある。もう一枚は無地で少し厚い。名前や印は確認されていない」
「お母様のものかは?」
「分からない」
「私のものかも?」
「それも分からない」
分からないことばかりだ。
けれど、エレノアは以前ほどそれを嫌だとは思わなかった。
分からないなら、分からないと書いておけばいい。
「保管しておいてください」
「ああ」
「勝手に開けないで」
「もちろんだ」
「紙束も」
「ああ」
そこで話を終えてもよかった。
しかし、アルフォンスが報告書を閉じようとした時、エレノアはもう一つだけ尋ねた。
「ベアトリスは、今日は何もしてませんよね?」
「立ち会っていない。調査場所にも来ていない」
「ヴァレリアも?」
「来ていない」
「お父様も?」
ロベルトをそう呼ぶ時、以前より少しだけ胸が複雑に痛んだ。
アルフォンスは呼び方について何も言わない。
「ベルナール伯爵も立ち会っていない。事前に決めた条件通りだ」
「分かりました」
エレノアはほっと息を吐いた。
アルフォンスが立ち上がろうとした時、ふと、エレノアは昨日から気になっていたことを思い出した。
調査とは関係ない。
けれど、今聞いてみたい。
「叔父様」
「どうした?」
「私、いつまでここにいていいんですか?」
アルフォンスの動きが止まった。
エレノア自身も、なぜ今その質問が出てきたのか分からなかった。
昨日、役に立たなくても一日を過ごしていいと言われた。
今日は、自分の古い部屋に残されたものを調べてもらった。
ベルナール伯爵家にあるものを、自分のものとして取り戻そうとしている。
それなのに、自分自身がどの家に属しているのかは、まだ曖昧なままだ。
「帰れって言われるまで、ですか?」
「違う」
アルフォンスの返答は早かった。
けれど、そのあとに続く言葉は慎重だった。
「少なくとも、私がお前をベルナール家へ帰す日を決めているわけではない。お前は帰りたくないと言った。その意思は今も変わっていないか?」
「はい」
そこだけは迷わなかった。
「帰りたくありません」
「なら、私から『もう帰れ』と言うつもりはない」
「ずっと?」
その問いに、アルフォンスは少し黙った。
エレノアの胸に不安が生まれる。
けれど彼は、曖昧な安心を与えるために嘘を言おうとはしなかった。
「エレノア。今のお前は、法の上ではまだベルナール伯爵家の娘だ」
「……はい」
「だから、これから先もこの家で暮らすなら、いずれ今の状態を正式に整理する必要がある」
エレノアの手が膝の上で固くなる。
「ベルナール家に戻るってことですか?」
「違う」
アルフォンスは再び、はっきり否定した。
「戻ることだけが選択肢ではない。ただ、どんな方法があるのかを調べて、お前に説明する必要があるということだ」
「私が決めるんですか?」
「お前に関わることだからな」
「叔父様が決めるんじゃなくて?」
「私が勝手に決めてはいけない」
エレノアはアルフォンスを見つめた。
以前、ロベルトは第二王子からの縁談について、自分が嫌だと言ったあとも受諾の返書を送った。
自分の将来を、自分以外の人間が決めた。
だから、アルフォンスの言葉は胸の深いところへ届いた。
「叔父様は、私にどうしてほしいんですか?」
聞いた瞬間、アルフォンスの表情が僅かに変わった。
答えに困ったのだと分かる。
「言ったら、私がそれを選ぶと思いますか?」
「……その可能性を考えている」
エレノアは驚いた。
「どうして?」
「お前はまだ、人を困らせないために自分の答えを変えることがある」
否定できなかった。
今日だって、アルフォンスが「ベルナール家へ戻った方がいい」と言ったなら、怖くても自分が間違っているのかもしれないと考えただろう。
「だから、私の希望を先に押しつけたくない」
「でも、聞きたいです」
「今?」
「……少しだけ」
アルフォンスは長く息を吐いた。
それから、椅子へ座り直した。
「私は、お前にここにいてほしい」
エレノアの胸が大きく鳴った。
「ベルナール家へ戻ってほしいとは思っていない。これは私の希望だ。ただし、お前が私の希望を叶える義務はない」
「どうして、いてほしいんですか?」
「家族だからだ」
あまりにも迷いのない答えだった。
エレノアは目を伏せる。
「私は、まだベルナール家の娘なのに?」
「それと、私の姪であることは両立する」
「……はい」
「そして、これ以上のことは、制度をきちんと確認してから話したい。できることと、私がしたいことと、お前がしたいことを混ぜたくない」
エレノアはすぐには意味を理解できなかった。
けれど、アルフォンスが何かを考えていることだけは分かる。
「選べるものがあるんですか?」
「ああ。今、調べさせている」
「いつから?」
「今日からだ」
「私が聞く前から?」
アルフォンスは少し迷い、頷いた。
「昨日、今後のお前の身分や生活について整理する必要があると分かる出来事があった」
エレノアの顔が上がる。
「何があったんですか?」
ここで隠すべきではない。
アルフォンスはそう判断した。
「皇室側から書簡が届いた」
エレノアの身体が強張った。
その変化を見たアルフォンスは、すぐに続ける。
「レオナード殿下との婚約が決まったという内容ではない」
エレノアは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
「……殿下のことですか?」
「止まっている縁談の扱いも含まれている。正式な婚約は今も成立していない。先方からは、現在の状況と今後の手続きを整理したいという確認が来ただけだ」
処刑台の記憶が、一瞬だけ胸の奥を掠めた。
レオナード。
ミレーヌを抱き寄せ、自分を見なかった人。
けれど、今のレオナードはまだ何もしていない。
自分とは婚約していない。
会ってすらいない。
エレノアは膝の上の手をゆっくり開いた。
「私が嫌だって言ったことは?」
「把握されている」
「また、勝手に決まったりしませんか?」
「させない」
アルフォンスの声は低かったが、怒鳴るような強さではなかった。
「少なくとも、お前の意思を無視したまま手続きを進めさせるつもりはない」
「書簡、見てもいいですか?」
「もちろんだ。ただ、今すぐでなくてもいい」
エレノアは考える。
今日は机の右下を開けた。
その中から、まだ開いていないものが四種類見つかった。
それだけでも胸の中には多くのものがある。
さらに皇室からの書簡まで読む必要はない。
「今日は見ません」
「分かった」
「でも、来たことは知っていたいです」
「今、知ったな」
「はい」
エレノアは小さく頷いた。
「あと……選べるものが分かったら、教えてください」
「ああ」
「叔父様がしてほしいことと、別々に」
「そうする」
「私が、すぐ決めなくても?」
「構わない」
エレノアはしばらく黙った。
胸の中には、まだ言葉にならないものがある。
ベルナール家へ戻りたくない。
ロシュフォール家にはいたい。
そこまでは、はっきりしている。
では、自分は誰の娘でいたいのか。
ロベルトを父ではなくしたいのか。
アルフォンスの娘になれるのか。
そんなことが可能なのかすら、まだ聞いていない。
そして、自分の中には、ロベルトを嫌いだけでは片づけられない気持ちも残っている。
昔は好きだった。
父が自分を見てくれると信じたかった。
だからこそ、見てもらえなかったことが痛かった。
(戻りたくない。でも、昔好きだったことまで消さなくてもいいのかな)
今はまだ、答えを出さなくていい。
「叔父様」
「うん?」
「私、ここにいたいです」
「ああ」
「それだけは、今決めてます」
アルフォンスは微笑んだ。
「分かった」
「でも、その先はまだ分かりません」
「それでいい」
答えを急かされなかったことで、エレノアはようやく肩の力を抜いた。
◇ ◇ ◇
夜。
エレノアは日記を開いた。
今日書くことは多い。
それでも、一度に全部書こうとはしなかった。
『机の右下を開けてもらった』
『鍵はなかった』
『青い髪飾りも、お母様の木箱も、肖像もなかった』
そこまで書き、少し間を空ける。
『がっかりした』
以前なら、その感情を書かなかったかもしれない。
調べてもらったのだから感謝しなければならない。
何も見つからなくても文句を言ってはいけない。
そんなふうに考えただろう。
けれど、がっかりしたことと、調べてもらったことへの感謝は両方あっていい。
『薄い布が二枚、小さい紙箱、衣類と書かれた紙束、革の袋、小さい折った紙があった』
『まだ開けていない』
『誰も勝手に開けなかった』
その一行を書いた時、エレノアは少しだけ笑った。
自分の知らないところでも、自分との約束が守られた。
それが嬉しかった。
次に、皇室から届いた書簡について書く。
『皇室から、止まっている縁談と、これからのことを整理するための書簡が来た』
『正式な婚約は成立していない』
『私が嫌だと言っていることも伝わっている』
『今日は書簡を見なかった』
そして、少し長く迷ったあと、新しい行へ進む。
『私はベルナール家に帰りたくない』
これは迷わず書ける。
『私はロシュフォール家にいたい』
これも書ける。
その次は、すぐに書けなかった。
ペン先を紙の上で止めたまま、エレノアはアルフォンスとの会話を思い出す。
家族だから。
ここにいてほしい。
でも、自分の希望を押しつけたくない。
『叔父様は、私にここにいてほしいと言った』
『でも、叔父様がそう思っているから選ばなくてもいいと言った』
エレノアはさらに一行を加える。
『これから、私がどこの家で、誰の家族として生きるのか、選べるものを調べてもらう』
そこまで書いたところで、胸が少し苦しくなった。
誰の家族として。
その言葉は思ったより重い。
エレノアはペンを置き、空の肖像枠へ目を向けた。
「お母様」
母が生きていた頃、自分はベルナール家の娘であることを嫌だと思ったことなどなかった。
父も母もいて、自分はその娘だった。
ロシュフォール家には祖父母がいて、叔父がいて、従兄がいた。
全部が自分の家族だった。
それが、いつから変わったのだろう。
「私、お父様のこと、昔は好きだったと思います」
口にすると、胸が痛んだ。
「だから、今でも全部嫌いって言えないのかもしれません」
ロベルトが守ってくれなかったことは消えない。
ヴァレリアの言葉を信じ、自分を見ず、食事が減らされていることにも、傷が増えていることにも気づかなかった。
前の人生では、最後に自分を切り離した。
処刑の日、目を逸らした。
それでも、幼い頃に父の帰宅を待った記憶まで嘘になるわけではない。
「でも、戻りたくないです」
それも本当だった。
エレノアは机へ向き直る。
灰青色の帳面は閉じている。
今日見つかった紙箱も、紙束も、革袋も、折り畳まれた紙も、まだ開かれていない。
知らないものが増えた。
けれど、今日すべてを知らなくてもいい。
エレノアは日記の最後に、ゆっくりと書いた。
『好きだったことと、戻らないことは、たぶん一緒にあっていい』
『ここにいたい』
『その先は、選べるものを知ってから決める』
ペンを置く。
今日は、それで十分だった。
机の右下を一つ開けたからといって、すべての答えが出たわけではない。
むしろ、開けていない箱や紙が増え、知らないことも増えた。
それでも、自分で開ける場所を決め、自分の許可していないものは開かれず、途中で別の選択肢まで示された。
それは、以前のエレノアが知らなかった進み方だった。
答えを得るために、自分を置き去りにしなくていい。
真実へ近づくために、全部を一度に暴かなくていい。
そして、自分の未来を決める時でさえ、誰かが差し出した答えへ急いで頷かなくていい。
エレノアは空の肖像枠へ「おやすみなさい」と告げると、日記を閉じた。
明日、何を開くかはまだ決めていない。
小さな紙箱かもしれない。
『エレノア衣類』と記された紙束かもしれない。
あるいは、何も開かないかもしれない。
皇室から届いた書簡を見るかどうかも、まだ決めていない。
けれど、一つだけはもう決まっていた。
ベルナール伯爵家へ戻るつもりはない。
ロシュフォール家にいたい。
その先にどんな選択肢があるのかを知った時、自分が何を選ぶのか。
それは、まだ誰も知らなかった。
エレノア自身でさえも。
だからこそ、その答えだけは、誰かに先回りして決めさせたくなかった。




