第43話 私が選べる家族
翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。
雨が降るほど暗くはないものの、陽射しは雲の向こうで柔らかく滲んでいる。寝台の中でしばらく天井を見つめていたエレノアは、昨夜の日記に書いた言葉を思い出しながら、毛布の上でゆっくりと指を動かした。
『私はベルナール家に帰りたくない』
『私はロシュフォール家にいたい』
そこまでは、もう迷っていない。
けれど、その先に何があるのかは知らなかった。
(選べるものを知ってから決める)
昨夜そう書いたばかりだ。
だから今朝も、先に答えを決めつける必要はない。
ベルナール伯爵家の娘であり続けながら、ロシュフォール公爵家で暮らすことができるのか。あるいは、アルフォンスが言っていたように、今の状態そのものを正式に変える方法があるのか。
知らないまま考え続けても、想像ばかりが膨らんでしまう。
扉を叩く音がした。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。入ってください」
リディアが入室すると、エレノアは身体を起こした。
いつもの朝と同じようにカーテンをどうするか尋ねられ、今日は半分だけ開けてもらう。曇った空から入る光は弱く、部屋の中には静かな明るさが広がった。
「今日は、薄い青のドレスにします」
「こちらでしょうか」
リディアが二着を示す。
どちらも青系統だが、一方は水色に近く、もう一方は少し灰色がかった落ち着いた色だった。
エレノアは見比べたあと、灰色がかった方へ手を伸ばす。
「こっちがいいです」
「かしこまりました。髪飾りはいかがなさいますか?」
「今日は……白いリボンじゃなくて、何か別のものを見てもいいですか?」
「もちろんでございます」
いくつか並べてもらい、エレノアは淡い黄色の細いリボンを選んだ。
昨日とは違う。
けれど、昨日と違うものを選ぶために選んだわけでもない。
今日の自分が、これをいいと思った。
鏡の前へ座りながら、エレノアはふと笑った。
「私、最近、服を選ぶのに時間がかかるようになりました」
髪を整えていたリディアの手が、ほんの少しだけ止まる。
「お困りでしょうか?」
「いいえ。前は、何でもいいと思っていたから早かっただけなんだなって」
「そうでございましたか」
「本当に何でもよかった日もあったと思います。でも……選んでも意味がないと思っていた日も、たぶんありました」
ベルナール伯爵邸では、好みを尋ねられた記憶が少ない。
尋ねられたとしても、「何でもいい」と答えていた。
ヴァレリアは、それをエレノア自身の好みとして説明していたらしい。
派手なものを嫌う。
一人でいることを好む。
食事も少ない方を好む。
けれど今になってみれば、「何でもいい」という言葉の中に、本当の無関心と、諦めと、恐れと、相手へ合わせる気持ちが混ざっていたのだと思う。
「時間がかかってもいいですか?」
「もちろんでございます」
リディアは鏡越しに穏やかに答えた。
「お嬢様がお選びになるための時間でございますから」
「……はい」
選ぶための時間。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、エレノアは鏡に映る自分を見つめた。
今日、もっと大きな選択肢を聞くことになるかもしれない。
だからこそ、急がない。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、アルフォンスとセドリック、マルグリットが揃っていた。
オーギュストは朝から旧知の貴族を訪ねる予定があり、すでに外出しているという。
エレノアは席へ着くと、焼いたパンと柔らかく煮た卵、温かな野菜のスープを順番に見た。
「今日は卵から食べます」
誰も理由を尋ねなかった。
昨日はパンからだった。
だから今日は卵から、という規則もない。
小さなことなのに、その自由が心地よかった。
食事が半分ほど進んだ頃、エレノアはアルフォンスへ目を向けた。
「叔父様」
「うん?」
「昨日のお話なんですけど」
アルフォンスの手が止まる。
けれど、先を促すことはしなかった。
「私がこれからどこの家で暮らすか、選べるものを調べてくれているって言いましたよね」
「ああ」
「もう、分かりましたか?」
「大まかにはな。ただ、食事の途中で話す内容ではないと思っている」
エレノアは自分の皿を見る。
以前なら、「今聞きたい」と思ってもそのまま食事をやめていたかもしれない。
けれど今日は、まだ食べたい。
「じゃあ、食べ終わってから聞きたいです」
「分かった」
「今日、聞いても大丈夫ですか?」
「もちろんだ」
セドリックが静かにスープを口へ運びながら、エレノアを見た。
「僕も同席していい?」
エレノアは少し考える。
昨日はアルフォンスと二人で話した。
今日は、自分がどこの家に属するかという話になる。
セドリックは従兄だ。
もし何かが変われば、彼との関係にも影響するかもしれない。
「いてほしいです」
「分かった」
マルグリットについても、エレノアは自分から尋ねた。
「お祖母様も、いてくれますか?」
「もちろんよ。あなたが望むなら」
「お願いします」
話す人を自分で選べる。
その確認を終えてから、エレノアは食事へ戻った。
急がず、残りのパンも食べる。
これから大切な話があるからといって、朝食を途中でやめる必要はない。
そんな当たり前のことが、今のエレノアには一つの練習のように感じられた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えて少し休んだあと、四人は南向きの小さな居間へ移った。
大きな応接室ではない。
家族が普段使うための部屋で、窓辺には小さな花瓶があり、淡い黄色の花が数輪飾られている。曇り空のため室内は少し暗かったが、暖炉には小さく火が入り、肌寒さは感じなかった。
エレノアはマルグリットの隣へ座った。
向かいにはアルフォンスとセドリックがいる。
アルフォンスの手元には数枚の紙があった。
昨日届いた皇室からの書簡ではない。
エレノアはそれを確認してから、少しだけ肩の力を抜いた。
「これは?」
「お前の今後の身分について、家の法務を担当している者に確認させた内容だ。まだ正式な申請書ではない」
「私が何も決めてないから?」
「ああ。お前の意思を確認する前に、正式な手続きを始めるつもりはない」
エレノアは頷いた。
「教えてください」
アルフォンスは紙を机の上へ置いた。
「まず、今の状態を続けることはできる。お前は法的にはベルナール伯爵家の娘のまま、ロシュフォール家が保護する形でここに滞在する」
「ずっとですか?」
「当面は可能だ。ただし、長く続けるなら問題も増える」
「どんな問題ですか?」
「お前に関する正式な判断を、誰が行えるのかという問題だ。婚姻、財産、社交上の身分、家としての責任、それから今後の生活に関わる様々な手続きだな」
エレノアの表情が僅かに強張ったのを見て、アルフォンスは声を和らげた。
「今すぐ何かを決めなければならないという意味ではない。あくまで、今の状態を何年も曖昧なままにするのは難しいという話だ」
「……はい」
「次に、ベルナール伯爵家の娘という身分を維持したまま、正式にお前の保護や後見に関する権限をこちらへ移す方法がある。ただし、お前が未成年である以上、家同士だけで好きに決められるものではない。事情を示し、必要な承認を得ることになる」
「そうしたら、私はベルナールのまま?」
「ああ」
「ここには住めますか?」
「住めるように整えることはできる」
エレノアは膝の上の手を見た。
それなら、帰らなくてもいい。
ベルナール家の娘のまま、ロシュフォール家で暮らす。
それも一つの答えなのだ。
「ほかにもあるんですか?」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
エレノアが顔を上げる。
「叔父様?」
「ある」
「教えてください」
アルフォンスは一度、セドリックとマルグリットへ視線を向けた。
二人とも何も言わない。
それから、改めてエレノアを見る。
「お前がベルナール家を離れ、ロシュフォール家へ正式に入る方法だ」
エレノアの呼吸が止まりかけた。
「正式に?」
「ああ」
「それは……どういう意味ですか?」
「私の養女になる」
暖炉で薪が小さく弾けた。
その音が、不思議なほどはっきり聞こえた。
エレノアはアルフォンスの顔を見つめたまま、すぐには何も言えなかった。
養女。
意味は分かる。
言葉としても知っている。
けれど、それが自分に向けられた選択肢になるとは考えたことがなかった。
「私が……叔父様の娘になるんですか?」
「ああ」
「セドリックお兄様とは?」
「今は従兄妹だけど、正式には兄妹になることになるね」
答えたのはセドリックだった。
いつもの落ち着いた声だったが、その目はエレノアから逸らされていない。
エレノアは今度はマルグリットを見る。
「お祖母様は?」
「今と同じように、あなたのお祖母様ですよ」
「でも、私のお母様は?」
問いが口からこぼれた瞬間、自分でも胸が痛んだ。
「お母様は、ロシュフォールの人でした。でも……私が叔父様の娘になったら、お母様の娘じゃなくなるんですか?」
マルグリットの表情が僅かに揺れた。
けれど、彼女はすぐに首を横へ振った。
「そんなことはありません。アデラインがあなたのお母様であることは、誰にも変えられません」
「名前が変わっても?」
「ええ」
「家が変わっても?」
「もちろんです」
エレノアは自分の胸元へ手を当てた。
母を裏切るような気がしたわけではない。
けれど、何かを選ぶことで、別の何かを失うのではないかという怖さがある。
「私は今、エレノア・ベルナールです」
「ああ」
アルフォンスが答える。
「養女になったら?」
「手続きがすべて認められれば、ロシュフォール家の娘として名乗ることになる」
「エレノア・ロシュフォール……?」
「そうなる」
自分の名前なのに、自分のものではないように聞こえた。
エレノアは小さく唇を動かしてみる。
「エレノア・ロシュフォール」
声にしてみても、まだ馴染まない。
それは当然だ。
十五年間、ベルナールとして生きてきた。
良いことばかりではなかった。
それでも、その姓の中には母と過ごした幼い頃もある。
父に抱き上げてもらった記憶も、きっとどこかにある。
姓を変えることは、苦しかった日々だけを捨てることではない。
「ベルナールじゃなくなったら……お父様とは、どうなるんですか?」
アルフォンスは、彼女がロベルトを指していることを正しく理解した。
「親子としての法的な関係は変わる。だからこそ、簡単に決めていいことではない」
「もう、お父様の娘じゃなくなる?」
「制度の上では、ロシュフォール家の娘になる」
「じゃあ、昔お父様の娘だったこともなくなるんですか?」
「それは消えない」
アルフォンスの答えは静かだった。
「制度が変わっても、お前がこれまで生きてきた時間まで書き換わるわけじゃない。ロベルトが実の父であることも、アデラインが実の母であることも変わらない」
エレノアは長く息を吐いた。
胸の中に、安堵と痛みが同時に広がる。
(なくならないんだ)
父に守られなかったことも。
昔、父を好きだったことも。
母と過ごした時間も。
ベルナール家で傷ついたことも。
ロシュフォール家へ入ったからといって、消えるわけではない。
「ロシュフォールの娘になったら、ベルナール家であったことを忘れなきゃいけないわけじゃないんですね」
「忘れる必要はない」
「嫌だったことも?」
「忘れなくていい」
「好きだったことも?」
「それもだ」
アルフォンスの声に迷いはなかった。
エレノアは目を伏せた。
昨日、日記に書いた。
好きだったことと、戻らないことは一緒にあっていい。
家が変わることも、同じなのかもしれない。
セドリックが静かに口を開く。
「エレノア」
「はい」
「一つだけ、僕から言ってもいい?」
「はい」
「父上の養女になるかどうかに関係なく、僕は今でも君を家族だと思ってる」
エレノアが顔を上げる。
セドリックは続けた。
「だから、僕のために養女になる必要はないし、逆に僕に遠慮して断る必要もない」
「遠慮?」
「僕がいるから」
エレノアは意味が分からず首を傾げた。
「叔父様の子供は、セドリックお兄様ですよね」
「そうだね」
「そこに私が入ったら……困るんですか?」
その問いに、セドリックは僅かに眉を下げた。
「僕は困らない。でも、君がそう考える可能性はあると思ってた」
「私が来たら、セドリックお兄様のものを取りますか?」
財産。
家。
父親。
居場所。
具体的に何を意味しているのか、エレノア自身にも分からなかった。
けれど、誰かの家へ入るということは、その人の持っていた場所を奪うことなのではないかという恐れが、胸の奥に生まれていた。
セドリックはすぐに否定するのではなく、言葉を選んだ。
「家の制度や財産については、正式に整理しなければならないことがある。それは事実だよ。でも、それは大人たちと専門の者が、法に従って整えるべきことだ。君が『僕から何かを奪うから』という理由で、自分の居場所を諦める必要はない」
「でも……」
「それに、僕が一番困るのは、君が僕に遠慮して本当は望んでいるものを諦めることだ」
セドリックはそこで少しだけ笑った。
「妹ができること自体は、僕は歓迎するよ」
「妹……」
「正式にそうなったら、だけどね」
エレノアの胸が、また大きく鳴った。
従兄ではなく、兄。
叔父ではなく、父。
想像しようとすると、身体の奥が落ち着かなくなる。
「叔父様は?」
エレノアが尋ねる。
アルフォンスは眉を寄せた。
「何がだ?」
「私が娘になったら……嬉しいですか?」
アルフォンスは答えなかった。
いや、答えられなかったように見えた。
その沈黙に不安を覚え、エレノアは反射的に言葉を足しかける。
「すみ――」
そこで止めた。
謝ることではない。
アルフォンスはそれに気づいたらしく、目を細めた。
「嬉しい」
低い声だった。
「とても嬉しいと思う」
エレノアは瞬きをする。
「でも、それを先に言いたくなかった」
「どうして?」
「お前が私を喜ばせるために選ぶかもしれないからだ」
昨日と同じ理由だった。
「私は、お前を娘にしたいと思っている」
アルフォンスは、今度は曖昧にしなかった。
「アデラインの代わりになれるとは思っていないし、なるつもりもない。ロベルトとの過去を消せるとも思っていない。それでも、これから先、お前が望むなら、私の娘として守りたい」
エレノアの喉が詰まった。
アルフォンスの声には、何かを要求する響きがない。
「ただし、私がそう望んでいるからといって、お前が同じ答えを返す必要はない」
「……はい」
「今日決めなくてもいい。何日でも考えていいし、もっと制度について聞いてからでもいい。ベルナールの姓を残したままこちらで暮らす方法を選んでも、私はお前を追い出さない」
エレノアは俯いた。
膝の上の手が少し震えている。
怖いからではない。
嬉しいのだと思う。
でも、その嬉しさを認めると、何かを捨てるような気がして怖い。
(叔父様の娘になりたいって思ったら、お父様を嫌いだって決めることになるの?)
違う。
昨日、自分で書いたばかりだ。
昔好きだったことと、戻らないことは一緒にあっていい。
ならば、ロベルトの娘として生まれたことと、これから別の家族を選ぶことも、同時に存在していいのではないか。
「お祖母様」
「はい」
「お母様がいたら、怒りますか?」
マルグリットの瞳が揺れた。
しばらく答えず、エレノアの顔を見つめる。
「それは、私には分かりません」
予想していなかった答えに、エレノアは目を見開いた。
「分からないんですか?」
「ええ。亡くなった人の気持ちを、私が勝手に決めてはいけないでしょう?」
マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「ただ、私が知っているアデラインは、あなたが苦しむ場所へ戻ることを望むような母親ではありませんでした」
エレノアの目に涙が滲む。
「そして、アルフォンスがあなたを大切にすることを嫌がるとも、私は思いません。でも、それは私が娘を知っている者としてそう思うだけです。アデライン本人の言葉ではありません」
「……はい」
「あなたは、亡くなった母親の許可まで想像して、自分の人生を止めなくてもいいのですよ」
エレノアは目元を指で拭った。
「私、お母様を忘れたくないです」
「忘れなくていいの」
「ロシュフォールになっても?」
「むしろ、アデラインもロシュフォールの娘でしたよ」
その言葉に、エレノアは少しだけ目を見開いた。
当たり前のことだった。
母はアデライン・ロシュフォールとして生まれ、ベルナール伯爵家へ嫁いだ。
ロシュフォールという姓は、母と無関係な新しい名前ではない。
「お母様と同じ……」
「ええ」
マルグリットはそれ以上、選択を誘導するような言葉を言わなかった。
エレノアは暖炉の火を見つめた。
すぐに決めなくていい。
そう言われている。
だから、本当に今日は決めなくてもいい。
それなのに、胸の奥では何かが少しずつ形を持ち始めていた。
「叔父様」
「ああ」
「養女になる時、お父様……ベルナール伯爵は、嫌だって言えますか?」
呼び方を途中で変えた。
アルフォンスはそれを指摘しない。
「意見を述べる機会はある。今のお前が未成年であり、実父が存命だからな。ただし、彼が嫌だと言えばそれだけですべて終わる、という単純な話ではない」
「どうして?」
「お前がベルナール家へ戻ることを明確に拒否していること、医師が複数の時期に生じた傷を確認していること、食事や生活上の扱いについて記録や証言が出ていること、それから現在こちらで保護している経緯がある」
エレノアは少し息を呑んだ。
自分が傷つけられたことが、制度の中で意味を持つ。
嬉しいことではない。
けれど、「家の中のことだから」で消されないのだ。
「私も、話さないといけませんか?」
「必要になる可能性はある。ただし、誰の前で、どこまで、どんな形で確認されるのかは、こちらからもできる限り配慮を求める」
「ベルナール伯爵の前で全部言わないといけないとか……」
「それを当然の前提にはしない」
エレノアは胸元へ置いていた手をゆっくり下ろした。
「殿下との縁談は?」
「養女縁組を選ぶ場合は、なおさら整理が必要になる。お前の家が変われば、縁談を申し込まれている相手方も、従来の話をそのまま続けられるとは限らない」
「なくなりますか?」
「自動的に消えるとまでは言えない。だから、そこは別に正式な手続きが必要だ」
アルフォンスは都合のよい答えを言わなかった。
「ただ、少なくともベルナール伯爵が以前送った受諾の返書だけを根拠に、お前の意思を無視して婚約成立へ進むことは認めさせない」
「……はい」
エレノアは胸の中に浮かんだ安堵を、そのまま受け止めた。
レオナードと婚約したくない。
それは、今も変わらない。
養女になることを、縁談から逃げるためだけの道具にはしたくない。
けれど、家を変えることが結果として縁談の扱いにも影響するなら、それは自分の人生の一部として考える必要がある。
「今日、決めなくていいんですよね」
「ああ」
「明日でも?」
「ああ」
「もっと後でも?」
「手続き上、いつまでもというわけにはいかないが、少なくとも今日この場で答えを出す必要はない」
エレノアは頷いた。
「じゃあ、今日は決めません」
アルフォンスの表情は変わらなかった。
失望も、安堵も見せない。
「分かった」
それだけだった。
エレノアは、その返事を聞いて初めて、自分が試していたことに気づいた。
叔父は、本当に待ってくれるのか。
自分がすぐ「娘になりたい」と言わなくても、態度を変えないのか。
確かめたかったのだ。
(怒らない)
当たり前なのかもしれない。
けれど、エレノアには大切な確認だった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「でも、言いたいです」
「なら、受け取っておく」
セドリックが小さく笑った。
その笑い方を見て、エレノアも少しだけ口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
話を終えたあと、エレノアは一人で考えたいと伝えた。
完全に一人になるのではなく、リディアには少し離れた場所で待ってもらい、南の小池へ向かう。
曇り空の下、庭はいつもより色が淡く見えた。
池の水面も灰色に近い。
けれど、近くまで行けば水草の緑も、岸辺の小さな白い花も見える。
エレノアは腰掛けへ座った。
今日はパンを持ってきていない。
魚に餌をやるためではなく、ただここにいたかった。
(養女)
改めて心の中で言葉にする。
(エレノア・ロシュフォール)
胸が落ち着かない。
嫌なのではない。
むしろ、思っていたより嬉しい。
それを認める方が怖かった。
アルフォンスの娘になれる。
セドリックの妹になれる。
マルグリットとオーギュストは、今まで通り祖父母でいてくれる。
そして、この家に「置いてもらう」のではなく、自分の家として暮らせるかもしれない。
(私、そうなりたいのかな)
すぐに答えは出さない。
今日は決めないと言った。
その約束は、誰かとの約束ではなく自分との約束だ。
だから、考えるだけでいい。
風が吹き、水面に細かな波が広がった。
エレノアは両手を膝の上に置いたまま、ロベルトのことを考える。
今の父。
まだ法の上では、自分の父親。
子供の頃、自分を抱き上げてくれた記憶は曖昧だ。
けれど、完全にないわけではない。
母が生きていた頃、三人で食事をしたこともあった。
その頃の父まで憎いのかと聞かれれば、分からない。
今の父を許せるかと聞かれても、分からない。
ただ、一つだけはっきりしている。
「戻りたくない」
声に出す。
少し離れて立つリディアには聞こえたかもしれない。
それでも構わなかった。
「ベルナール家には、戻りたくない」
二度目は、もっとはっきり言えた。
そこにはヴァレリアがいる。
自分を守らなかったロベルトがいる。
ミレーヌもいる。
けれど、ミレーヌについては以前とは少し違う。
怖い。
それでも、今のミレーヌをまだ知らないと思えるようになった。
だからといって、同じ家へ戻って暮らしたいわけではない。
(ミレーヌに会うことと、ベルナール家へ戻ることも別なんだ)
家族の形を変えたら、妹との関係がどうなるのかも分からない。
それも、後で考えればいい。
今は、自分の居場所を考える。
ロシュフォール家へ来てからの日々を思い返した。
初めて「帰りたくない」と言った時。
傷を診てもらった時。
皿を落とした時に怒鳴られなかったこと。
食べる量を自分で決めたこと。
服を選んだこと。
池へ行ったこと。
刺繍をしたこと。
子供向けの本を読んだこと。
何もしない一日を過ごしたこと。
嫌だと言っても、怖いと言っても、分からないと言っても、追い出されなかった。
それらを思い出しているうちに、エレノアは一つのことに気づいた。
(私、ここにいたいんじゃなくて……)
昨日は、そう言った。
ロシュフォール家にいたい。
でも今、胸の中にあるものは少し違う。
(ここを、私の家にしたいのかもしれない)
その違いに気づいた瞬間、目の奥が熱くなった。
滞在する場所ではなく。
守ってもらう場所だけでもなく。
帰る場所。
自分の家。
そう思いたいのかもしれない。
エレノアはすぐに立ち上がらなかった。
その気持ちを抱えたまま、しばらく池を眺め続けた。
今日、答えを出さない。
けれど、答えに近づいてはいけないわけではない。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが執務室にいた。
机上には数通の書類が置かれている。
エレノアの旧室を調べた報告も届いていたが、彼には内容物を自由に扱う権限は与えられていない。
右下の引き出しが確認され、複数の物品が保全された。
それだけが伝えられている。
何が見つかったのか、すべては知らされていなかった。
それはエレノアの希望に基づく扱いだった。
ロベルトは、その事実に異議を唱えなかった。
以前の自分ならどうしただろう。
自分は父親なのだから知る権利があると言ったかもしれない。
家の中のことを、なぜ外へ持ち出すのかと考えたかもしれない。
今は、その「父親だから」という言葉を簡単に口にできなかった。
娘が自分の家を怖がっている。
娘が自分と会うことを望んでいない。
娘の身体には、複数の時期についた傷が残っていた。
そして、自分はそれを知らなかった。
(知らなかったことは、責任がないことと同じなのか)
何度考えても、答えは否だった。
扉が叩かれる。
「入れ」
家令が一通の封書を持って入ってきた。
「ロシュフォール公爵家より使者が参りました」
ロベルトの顔が強張る。
「エレノアに何かあったのか」
「緊急の知らせではございません。今後のエレノア様の身分に関し、ベルナール家側で保管している出生、家族関係、財産に関する記録を確認したいとの申し入れでございます」
ロベルトは言葉を失った。
「身分……?」
「現時点では、特定の手続きを開始するとの通知ではございません。可能な選択肢を整理するための照会、と記されております」
特定の手続きではない。
まだ何も決まっていない。
それでも、ロベルトには意味が分かった。
エレノアは帰ってこないかもしれない。
今までのような一時的な滞在ではなく、法の上でもベルナール家から離れる道を検討し始めている。
胸の奥に強い拒絶が生まれた。
(私の娘だ)
そう思った。
しかし、その直後に別の問いが浮かぶ。
(では私は、あの子の父親として何をした?)
ロベルトは封書を開くこともできず、しばらく見つめた。
娘を失いたくない。
その気持ちは本物だった。
けれど、「失いたくない」という自分の気持ちだけで、娘を再びベルナール家へ縛りつけていいのか。
今の彼には、すぐ答えることができなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室へ戻ると、昨日見つかった品々の一覧をもう一度見せてもらった。
紙箱。
『エレノア衣類』と書かれた紙束。
革袋。
折り畳まれた小さな紙片。
どれも、まだ開いていない。
「今日は開けません」
リディアへそう伝える。
「承知いたしました」
「明日も、まだ分かりません」
「はい」
エレノアは一覧を机へ置いた。
その隣には、灰青色の帳面がある。
開いていないものが、また増えている。
けれど、不思議と焦りは昨日より少なかった。
「リディア」
「はい」
「養女って、聞いたことありますか?」
リディアは一瞬だけ目を瞬かせたものの、すぐに表情を整えた。
「制度としては存じております」
「私が叔父様の養女になったら、リディアはどう思いますか?」
尋ねてから、エレノアは少し後悔した。
相手に答えを求めているような気がしたからだ。
「ごめんなさい。やっぱり――」
「お嬢様」
リディアは穏やかに呼びかけた。
「私個人の気持ちを申し上げてもよろしいのでしょうか。それとも、お嬢様が決めるための意見をお求めでしょうか」
エレノアは考えた。
「リディアの気持ちを聞きたいです。でも、それで決めるつもりはないです」
「でしたら申し上げます」
リディアは少しだけ微笑んだ。
「私は、お嬢様がこのお屋敷でこれからも暮らしてくださるのであれば、嬉しく思います」
「養女になることは?」
「それをお嬢様ご自身が望まれるのでしたら、嬉しいです」
「私が望まなかったら?」
「その場合も、お嬢様が決めたことを尊重したいと思います」
エレノアはしばらく彼女を見つめた。
「みんな、同じこと言います」
「同じでございましたか?」
「私が決めていいって」
「そうでございますね」
「それって、難しいです」
思わず笑うと、リディアも僅かに口元を緩めた。
「決めてもらう方が、楽なこともございますから」
「はい。でも……」
エレノアは机の上へ視線を落とした。
「もう、勝手に決められるのは嫌です」
「はい」
「だから難しくても、自分で決めたいです」
声に出すと、胸の奥が少し軽くなった。
リディアが退出したあと、エレノアは日記を開いた。
今日聞いた三つの道を書く。
『今のまま、ベルナール家の娘として保護されながら暮らす』
『ベルナールの姓を残して、正式に保護や後見をロシュフォールへ移す』
『叔父様の養女になって、ロシュフォール家の娘になる』
最後の一行だけ、何度も目が向く。
エレノアはその下に書き足した。
『叔父様は、私を娘にしたいと言った』
『セドリックお兄様は、妹になることを歓迎すると言った』
『お祖母様は、お母様の気持ちを勝手に決めなかった』
それから、少し迷う。
『私は今日、決めなかった』
ここまでは事実だ。
次に書くものは、事実というより気持ちだった。
『でも、池で考えた』
ペン先が止まる。
『ここにいたい、だけじゃないのかもしれない』
『ここを、自分の家にしたいと思った』
文字にした途端、また目の奥が熱くなった。
エレノアは手の甲で涙を拭い、もう一度ペンを持つ。
『叔父様の娘になりたいかもしれない』
書いた。
まだ「なりたい」と言い切れない。
けれど、「かもしれない」までなら、今の自分の気持ちだった。
その言葉をしばらく見つめたあと、エレノアはさらに一行を加える。
『明日も同じ気持ちだったら、もう少し考える』
決める期限ではない。
気持ちを確かめるための明日だ。
日記を閉じる前、エレノアは空の肖像枠を見た。
「お母様」
少しだけ笑う。
「ロシュフォールって、お母様と同じ名前なんですね」
当たり前のことなのに、今日はその意味が昨日までとは違って感じられた。
「もし私がロシュフォールになっても、お母様の娘のままでいていいって、お祖母様が言ってくれました」
返事はない。
それでいい。
亡くなった母の気持ちを、自分に都合よく作る必要はない。
エレノアは自分で選ばなければならない。
誰かに許してもらうためではなく。
誰かを喜ばせるためでもなく。
自分がこれから、どこへ帰りたいのか。
誰と同じ家で朝を迎えたいのか。
失敗した時、誰の前なら怯えずにいられるのか。
嬉しいことがあった時、誰に話したいのか。
そうやって考えていけばいいのだと思った。
机の上には、まだ開かれていないものがいくつもある。
灰青色の帳面も、昨日見つかった紙箱も、衣類の紙束も、革袋も、小さな紙片も、皇室から届いた書簡も、今夜は開かない。
けれど、エレノアの胸の中では、別のものが少しずつ開き始めていた。
家族は、生まれた時に決められたものだけなのだと思っていた。
父が父で、母が母で、自分はその娘として生きるしかないのだと。
母を失い、父に守られず、それでもその家から離れることさえ考えられなかった。
今は違う。
過去は選べない。
生まれた家も、実の父も、起きた出来事も変えられない。
けれど、これから帰る家については、自分にも選べる余地がある。
エレノアは最後に一行だけ書き加えた。
『家族も、これからの私は選んでいいのかもしれない』
まだ答えではない。
それでも昨日まで存在しなかった、新しい問いだった。




