第44話 帰りたい家
翌朝、エレノアは目を覚ましてから、すぐには寝台を出なかった。
薄いカーテン越しに朝の光が差し込み、部屋の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。枕元の小卓には空の肖像枠があり、少し離れた机の上には、まだ開いていない灰青色の帳面が置かれていた。
昨日の日記へ書いた言葉も、はっきり覚えている。
『叔父様の娘になりたいかもしれない』
『明日も同じ気持ちだったら、もう少し考える』
そして朝になった。
エレノアは毛布の上で両手を重ね、胸の内側を確かめるようにゆっくり呼吸した。
(昨日と同じ気持ちなのかな)
問いかけてみても、すぐに言葉にはならない。
ただ、アルフォンスから示された三つの選択肢を順番に思い浮かべた時、自分の気持ちがどこで動くのかは分かった。
ベルナール伯爵家の娘のまま、ロシュフォール公爵家で保護されながら暮らす。
帰らなくていいことには安心する。
ベルナールの姓を残したまま、保護や後見に関する権限をロシュフォール家へ移す。
それなら、もっと安心してここで暮らせるのかもしれない。
そして、アルフォンスの養女になり、ロシュフォール家の娘になる。
そこまで考えた時だけ、安心とは少し違う温かさが胸の奥へ広がった。
(やっぱり、嬉しい)
その感情を認めた途端、同じ場所へ不安も生まれる。
嬉しいから正しいとは限らない。
昨日までのエレノアなら、そう考えて感情そのものを押し込めていただろう。
けれど今は、嬉しいことと、慎重に考えることは両立するのだと少しずつ分かり始めている。
扉が叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「はい。入ってください」
入室したリディアにカーテンをすべて開けてもらう。
昨日まで空を覆っていた雲は薄くなり、窓から差し込む光は明るかった。
「今日は晴れそうですね」
「午後には雲もかなり少なくなるそうでございます」
「じゃあ、あとで池に行きたいです」
「かしこまりました」
衣装を選ぶために数着を並べてもらい、エレノアは淡い若草色のドレスへ手を伸ばした。
髪飾りは迷った末、何もつけないことにする。
「今日はこれだけでいいです」
「はい」
リディアが髪を整える。
鏡の中の自分を見ながら、エレノアは昨日の会話を思い出した。
「リディア」
「はい」
「昨日、私が養女になるかもしれないって話しましたよね」
「はい」
「誰かに話しましたか?」
「いいえ。お嬢様から許可をいただいておりませんので」
即答だった。
エレノアは鏡越しにリディアを見る。
「叔父様にも?」
「アルフォンス様は制度についてすでにご存じですが、お嬢様が昨日どのようなお気持ちを話されたかについては、私から申し上げておりません」
「私が、ここを自分の家にしたいって思ってることも?」
「申し上げておりません」
胸の奥に、ほっとした感覚が広がる。
「ありがとうございます」
「お嬢様のお気持ちは、お嬢様のものでございます」
リディアはそう言ってから、整えた髪を最後に確認した。
エレノアは鏡へ視線を戻す。
自分の気持ちが、勝手に誰かへ渡されていない。
だから、自分で伝えられる。
「今日、叔父様と話したいです」
「お時間を確認いたしましょうか?」
「はい。でも、朝食のあとでいいです」
「承知いたしました」
言った途端、胸が速く鳴り始めた。
それでも、嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、エレノアはいつもより少しだけ口数が少なかった。
アルフォンスもセドリックも、それに気づいていたようだったが、理由を尋ねてはこない。
マルグリットだけが一度、エレノアの顔を見て微笑んだ。
それも「何か決めたのね」と言うような笑みではない。
ただ、いつもと同じ穏やかなものだった。
エレノアは温かなミルクを一口飲み、パンへ薄く果実のジャムを塗った。
今日は甘いものが食べたい。
一口食べると、思っていたより酸味が強かった。
「……これ、少し酸っぱいです」
セドリックが自分のパンへ同じジャムを塗りながら頷く。
「今朝のは酸味が強いね」
「嫌いではないです。でも、もう少し甘い方が好きかもしれません」
「厨房に伝える?」
アルフォンスに尋ねられ、エレノアは少し考えた。
「いいえ。これはこれで食べられます。次に選べるなら、甘い方がいいです」
「分かった」
たったそれだけで会話は終わった。
エレノアは自分でも少し可笑しくなる。
以前なら、「酸っぱい」と感じたことすら言わなかっただろう。
今は、嫌いではないが、もっと好きなものがあると言える。
(家も、同じなのかな)
ベルナール家で生まれたことを、全部否定しなくてもいい。
けれど、これから暮らしたい場所は別にある。
その二つを、無理に同じ答えへまとめなくてもいいのかもしれない。
朝食を終える頃、リディアが静かにアルフォンスへ何かを伝えた。
アルフォンスがエレノアを見る。
「話したいことがあるそうだな」
「はい」
「今からでもいいし、少し休んでからでもいい」
「池に行ってからでもいいですか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、そうします」
自分から話したいと言ったのに、先に池へ行く。
以前なら、相手を待たせることが申し訳なくてできなかった。
けれどアルフォンスは嫌な顔をしなかった。
「戻ったら声をかけてくれ」
「はい」
◇ ◇ ◇
南の小池は、朝の光を受けて細かく輝いていた。
エレノアはいつもの腰掛けへ座り、今日は少量だけ持ってきたパンを指先で細かくちぎった。
魚が寄ってくる。
一つ落とすと、水面が小さく揺れた。
もう一つ。
三つ目を落としたところで、エレノアは残りを包み直した。
「今日はこれで終わりにします」
少し離れていたリディアが頷く。
「はい」
魚はまだ近くにいる。
もっと欲しそうに見える。
けれど、それはエレノアが全部与えなければならない理由にはならない。
池の向こう側では、庭師が低木の枝を整えていた。少し離れた場所にユリウスの姿も見えたが、こちらが話をしていると分かっているのか、仕事の手を止めて近づいてくることはない。
エレノアは包んだパンを膝の横へ置いた。
「リディア」
「はい」
「昨日、私が決めるのは難しいって言ったでしょう?」
「はい」
「まだ難しいです」
「そうでございますか」
「でも……決めてもらう方がいいとは、今日は思わないです」
リディアは何も挟まず、続きを待った。
「叔父様が『養女になりなさい』って言ったら、たぶん私は頷いたと思います」
それは想像できる。
アルフォンスが望んでいる。
マルグリットもセドリックも歓迎している。
ならば、それに従えばいい。
そう考えただろう。
「でも、それだったら、叔父様が決めたことになります」
「はい」
「私は、自分で言いたいです」
口にした途端、胸がまた速く鳴った。
リディアは微笑んだ。
「でしたら、お戻りになりますか?」
エレノアは池を見る。
もう少しここにいたい気もする。
けれど、逃げるために座っているわけではない。
「あと少しだけ」
「かしこまりました」
急かされない。
エレノアは水面を眺めながら、言いたい言葉を考えた。
養女にしてください。
娘にしてください。
ロシュフォール家へ入りたいです。
どれも間違ってはいない。
けれど、一番自分の気持ちに近い言葉は何だろう。
昨日、池で気づいた。
ここに「いたい」だけではない。
ここを、自分の家にしたい。
その気持ちを伝えればいい。
上手に言えなくてもいい。
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室へ入るのは、エレノアにとってまだ少し緊張することだった。
大きな机。
整然と積まれた書類。
壁一面の書棚。
仕事をするための場所だと一目で分かる。
けれど今日は、机を挟んで話すことにはならなかった。
「そちらへ座ろう」
アルフォンスが窓際の応接用椅子を示す。
小さな丸卓を挟み、向かい合って座る。
リディアは扉の外で待っている。
「二人でいいか?」
「はい」
エレノア自身がそう望んだ。
アルフォンスは何も先に言わない。
昨日示した選択肢について、答えを催促もしなかった。
その沈黙の中で、エレノアは自分の指先を見つめた。
「叔父様」
「ああ」
「昨日、三つ教えてくれましたよね」
「覚えている」
「今のまま保護してもらうこと。ベルナールのまま、正式にこちらで守ってもらえるようにすること。それから……叔父様の養女になること」
「ああ」
「私、昨日は決めませんでした」
「それでいいと言っただろう」
「はい」
エレノアは一度息を吸った。
「昨日、池で考えました」
アルフォンスの表情が僅かに柔らかくなる。
それでも、口は挟まない。
「私はベルナール家に帰りたくありません。それは、もう変わらないと思います」
「ああ」
「でも、ベルナール家で生まれたことまで嫌だったことにしたいわけじゃないです。お母様がいた頃のこともあります。お父様のことも……昔は好きだったと思います」
ロベルトを「お父様」と呼んだ。
アルフォンスは表情を変えなかった。
その呼び方を取り上げも、訂正もしない。
「今は、許せるのか分かりません。会いたいのかも分からないです。でも、昔好きだったことまで、なくしたくないです」
「なくす必要はない」
「はい。昨日もそう言ってくれました」
エレノアは膝の上の手を握り、すぐに力を緩めた。
「それでも、戻りたくないです」
声が少し震える。
「ベルナール家の娘のまま、ここに住むこともできるって聞きました。それでもいいのかなって考えました。帰らなくていいなら、それで十分なのかなって」
「うん」
「でも……十分じゃないって思いました」
アルフォンスの目が僅かに見開かれた。
エレノアは続ける。
「ここに置いてもらいたいんじゃないです」
胸の奥から出てきた言葉は、池で考えていたものより自然だった。
「守ってもらえる間だけ、ここにいたいんでもないです」
目の奥が熱くなる。
けれど、俯かなかった。
「私、ここへ帰ってきたいです」
アルフォンスの呼吸が僅かに止まった。
「朝起きるのも、夜眠るのも、ここがいいです。失敗した時も、怖い時も、嬉しいことがあった時も……ここに帰ってきたいです」
涙が一滴だけ頬を伝った。
エレノアは手の甲で拭った。
「昨日、叔父様が私を娘にしたいって言ってくれて、嬉しかったです。セドリックお兄様が妹になるのを歓迎するって言ってくれたのも嬉しかった。お祖母様が、お母様の娘じゃなくなるわけじゃないって言ってくれたのも」
アルフォンスは何も言わない。
言えば、彼女の言葉を途中で止めてしまうと思っているようだった。
「だから……」
エレノアはもう一度息を整えた。
今度は、はっきりと彼を見る。
「叔父様の娘になりたいです」
言えた。
胸の奥が大きく揺れた。
怖さもある。
それでも、後悔はなかった。
「私、ロシュフォール家の子になりたいです」
アルフォンスが目を閉じた。
ほんの短い時間だった。
けれど、再び目を開いた時、その瞳には隠しきれない感情が滲んでいた。
「……もう一度だけ確認してもいいか?」
「はい」
「私が望んでいるからではなく、お前自身がそうしたいと思っているのか?」
エレノアは頷いた。
「はい」
「レオナード殿下との縁談から逃れるためだけでもない?」
「違います」
「ベルナール伯爵を罰するためでもない?」
少し考えてから、エレノアは首を横へ振った。
「違います。お父様に悲しんでほしいって、少しも思わないとは言えません」
自分でも驚くほど正直な言葉だった。
「私がいなくなるって分かって、後悔してほしいって思う気持ちはあります。でも、それだけで叔父様の娘になりたいわけじゃないです」
「ああ」
「私が、ここを自分の家にしたいからです」
アルフォンスの唇が僅かに震えた。
エレノアは初めて見る表情だった。
怒っているわけではない。
悲しんでいるだけでもない。
嬉しいのだと分かる。
「分かった」
アルフォンスはそれだけ言って、少し俯いた。
すぐに何か言おうとして、やめる。
エレノアは待った。
やがてアルフォンスが顔を上げる。
「ありがとう、エレノア」
「どうして叔父様がお礼を言うんですか?」
「私の娘になりたいと言ってくれたからだ」
「でも、私がなりたいんです」
「それでも嬉しいんだ」
エレノアは少しだけ笑った。
「じゃあ……どうしたらいいですか?」
「ここからは手続きが必要になる」
アルフォンスは感情だけで話を終わらせなかった。
「お前が望んだと分かったから、正式に動き始める。だが、今日言ったから明日から姓が変わるわけではない」
「はい」
「ベルナール伯爵への正式な通知と意思確認、これまでの保護に至った事情を示す資料、医師の所見、生活や財産管理に関する記録、それから必要な承認を得るための申請を整えることになる」
エレノアは真剣に聞いた。
「私も何かしますか?」
「必要な時には頼む。ただし、全部をお前一人に背負わせることはしない」
「私の気持ちは、書かないといけませんか?」
「正式な意思確認は必要になるだろう。だが、どんな形になるかは確認する。お前が不必要に傷つく方法を選ぶつもりはない」
「お父様……ベルナール伯爵に、私が直接言うんですか?」
「今の段階で、直接会う必要はない」
エレノアは明らかに安堵した。
「会わなくていいんですね」
「ああ。少なくとも、お前が望んでいないのに二人きりで会わせることはしない」
「……はい」
「それから、今後は呼び方も無理に変えなくていい」
突然そう言われ、エレノアは目を瞬かせた。
「呼び方?」
「ロベルトを『お父様』と呼ぶこともあるだろう。私を今まで通り『叔父様』と呼んでもいい。養女縁組が成立したからといって、翌日から私を父と呼ばなければならないわけじゃない」
エレノアは黙った。
実は少しだけ気になっていた。
アルフォンスの娘になりたいと言ったのだから、もう「叔父様」と呼ぶのはおかしいのではないか。
ロベルトを「お父様」と呼んだら、アルフォンスに失礼なのではないか。
そんなことを考え始めていた。
「叔父様って呼んでもいいんですか?」
「もちろんだ」
「養女になったあとも?」
「ああ」
「ずっと?」
「お前がそう呼びたいならな」
アルフォンスは穏やかに答えた。
「私は呼び名をもらうために、お前を娘にしたいわけじゃない」
胸が温かくなる。
「じゃあ、今は叔父様って呼びます」
「ああ」
「いつか変えたくなったら?」
「その時に変えればいい」
「お父様って?」
エレノアが小さな声で尋ねると、アルフォンスは一瞬だけ言葉を失った。
それから、少し困ったように笑った。
「……その時は、かなり嬉しいと思う」
「今すぐ言った方がいいですか?」
「それは駄目だ」
思ったより強く止められ、エレノアは目を丸くした。
アルフォンス自身も自分の声に気づいたのか、咳払いをする。
「私を喜ばせるために呼ぶのは違う。自然にそう呼びたいと思った時でいい」
「分かりました」
エレノアは笑った。
その笑顔を見たアルフォンスも、ようやく肩の力を抜いた。
◇ ◇ ◇
話を終えて部屋を出ると、廊下の少し先にセドリックがいた。
待ち伏せしていたわけではなく、書類を持って執務室へ向かっていたらしい。
エレノアと目が合う。
「話、終わった?」
「はい」
セドリックはそれ以上聞かなかった。
エレノアが話すまで待っている。
そのことが分かり、エレノアは自分から口を開いた。
「セドリックお兄様」
「うん?」
「私、叔父様の養女になりたいって言いました」
セドリックの足が止まった。
数秒、何も言わない。
「……そう」
声はいつもと変わらない。
けれど、表情は明らかに柔らかくなっていた。
「手続きはこれからです」
「うん」
「だから、まだ妹じゃないです」
「そうだね」
「でも……」
エレノアは少し迷う。
「嫌じゃないですか?」
セドリックは困ったように眉を下げた。
「昨日も言ったけど、歓迎するよ」
「本当に?」
「本当に」
「私が公爵家の娘になったら、セドリックお兄様の立場が変わったりしませんか?」
「制度上整理することはあるだろうけど、僕が君を嫌がる理由にはならないよ」
セドリックは手に持っていた書類を持ち直す。
「それに、エレノア」
「はい」
「君はもうずいぶん前から、僕にとって守りたい家族だよ。書類がそれに追いつくのが、これからなんだと思ってる」
エレノアの目が熱くなる。
「泣かせるつもりじゃなかったんだけど」
「最近、よく泣きます」
「悪いことじゃないよ」
「そうですか?」
「笑うのと同じくらいにはね」
エレノアは涙を拭って笑った。
「じゃあ、泣いても謝りません」
「うん。それがいい」
そこへ、少し離れたところからマルグリットが歩いてきた。
二人の様子を見て、何かがあったことに気づいたらしい。
けれど、彼女も自分から尋ねない。
「お祖母様」
「はい?」
「私、決めました」
マルグリットの足が止まる。
「叔父様の養女になりたいって、伝えました」
マルグリットは口元へ手を当てた。
目が潤む。
それでも、すぐに抱きしめようとはしなかった。
「……そう」
「はい」
「自分で決めたのね?」
「はい」
「なら、お祖母様はとても嬉しいわ」
エレノアは一歩近づいた。
マルグリットは待っている。
「お祖母様」
「なあに?」
「抱きしめてもらってもいいですか?」
マルグリットの表情が崩れた。
「もちろんよ」
許可を求めたのはエレノアの方だった。
そして、許可を出したのもエレノアだった。
マルグリットの腕がゆっくり背中へ回る。
強く締めつけるのではなく、エレノアが離れようと思えばいつでも離れられる程度の力だった。
それでも、十分に温かかった。
「おかえりなさい、エレノア」
耳元で聞こえた言葉に、エレノアの涙がまた溢れた。
まだ手続きは終わっていない。
姓も変わっていない。
法の上では、今もベルナール伯爵家の娘だ。
それでも、その言葉だけは今受け取ってもいい気がした。
「……ただいま」
声は震えた。
けれど、はっきり言えた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、アルフォンスは正式な準備を始めた。
エレノア本人が養女縁組を希望したこと。
ベルナール伯爵家へ戻る意思がないこと。
ロシュフォール公爵家で今後も生活することを望んでいること。
それらを前提として、必要な書類と手続きを整理させる。
ただし、エレノアの虐待については、必要以上に詳細を広めない。
医師の所見や証言をどこまで提出する必要があるかも精査する。
エレノアの傷を、手続きを通すための見世物にするつもりはなかった。
そしてもう一つ。
ベルナール伯爵家へ、正式な通知を送る。
アルフォンスは完成した文面を何度も読み返した。
怒りを書き連ねることは簡単だった。
妹の娘を守れなかった男へ言いたいことなど、いくらでもある。
しかし、これは自分の怒りをぶつけるための書簡ではない。
エレノアの未来を進めるためのものだ。
だから必要な事実だけを記す。
エレノア本人が、ロシュフォール公爵家への養女縁組を希望したこと。
本人にベルナール伯爵家へ戻る意思がないこと。
正式手続きを開始するため、実父としてのロベルトの意思と必要書類の提出を求めること。
そして、返答は書面で行い、エレノア本人への直接接触を試みないこと。
アルフォンスは最後の一文を確認してから、封を命じた。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸へ書簡が届いたのは、その日の夕方だった。
ロベルトは封を切り、最初の数行を読んだところで手を止めた。
『エレノア本人より、ロシュフォール公爵家への養女縁組を希望する意思が示された』
昨日届いた照会とは違う。
昨日は、可能性を整理するためのものだった。
今日は違う。
エレノア自身が選んだ。
ロベルトは何度も同じ一文を読んだ。
「……養女」
口にすると、声が掠れた。
娘が、自分の娘ではなくなる道を選んだ。
その考えが胸を締めつける。
(なぜだ)
一瞬だけ、そんな言葉が浮かんだ。
しかし、すぐに自分で答えを知っていることに気づいた。
帰りたくないと言われた。
怖いと言われた。
傷が見つかった。
食事を十分に与えられていなかった可能性を示す記録も出た。
妻の遺品は娘の手元から消え、娘のために作られた衣類の一部は、本人の同意なく別の娘へ合わせて直されていた。
そして自分は、それらを知らなかった。
知らないまま、第二王子からの縁談を受けようとした。
エレノアが嫌だと言ったのに。
ロベルトは書簡を机へ置いた。
胸の内側に、娘を手放したくないという感情がある。
それは消えない。
だが、その感情があることと、自分に娘を引き留める資格があることは同じではない。
エレノアが最近繰り返している考え方を、ロベルトは知らない。
それでも彼自身も今、似たところへ辿り着き始めていた。
愛していると思うことと、守れていたことは同じではない。
父親であることと、父親として正しかったことも同じではない。
扉が叩かれた。
「あなた?」
ヴァレリアの声だった。
ロベルトは反射的に書簡へ手を置いた。
「何だ」
「夕食のお時間です。今日はずっとお部屋にいらしたでしょう?」
以前なら入室を許したかもしれない。
今は違う。
「先に行っていてくれ」
「何か届いたのですか?」
扉の向こうから問いかけられる。
ロベルトは書簡を見つめた。
「君に話す必要があると判断したら、こちらから話す」
沈黙があった。
「……分かりました」
足音が遠ざかる。
ロベルトは椅子へ深く座り直した。
返答しなければならない。
拒絶することもできるのかもしれない。
父親として娘を手放せないと訴えることもできる。
けれど、もしそうした時、エレノアはどう感じるのだろう。
自分のところへ戻ってくるだろうか。
おそらく、戻らない。
ならば拒絶は、娘を取り戻す行為ではない。
娘が選んだ道を塞ぐ行為になる。
ロベルトは目を閉じた。
すぐには答えを出せなかった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは日記を開いた。
今日は書きたいことが、昨日よりもはっきりしている。
『叔父様に、養女になりたいと伝えた』
書いた文字を見て、胸がまた温かくなる。
『ロシュフォール家の子になりたいと言った』
『叔父様は、嬉しいと言った』
『でも、呼び方はすぐに変えなくていいと言った』
そこでエレノアは少し笑った。
『私は今まで通り、叔父様と呼ぶ』
『ロベルト様のことは、まだお父様と呼ぶことがある』
書いてから、少し考えて一文を加える。
『呼び方と、これから誰の娘になるかは、同じではない』
ロベルトを「お父様」と呼んだからといって、ベルナール家へ戻りたいわけではない。
アルフォンスを「叔父様」と呼んだからといって、娘になりたくないわけでもない。
十五年間使ってきた呼び方を、一日で変えなくてもいい。
いつか自然に変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
それも、その時に決めればいい。
『セドリックお兄様は、書類が家族に追いつくのがこれからだと言った』
『お祖母様に抱きしめてもらった』
『おかえりなさいと言ってくれた』
ペン先が止まる。
エレノアはその時の温かさを思い出した。
そして最後に書く。
『ただいまと言った』
それは、養女縁組の手続きが終わったという意味ではない。
まだベルナールの姓を持っている。
正式な承認もない。
ロベルトがどんな返答をするのかも知らない。
皇室から届いた書簡も、まだ読んでいない。
机の右下から見つかった紙箱も、『エレノア衣類』と記された紙束も、革袋も、折り畳まれた紙片も開けていない。
灰青色の帳面も閉じたままだ。
分からないことは、まだたくさんある。
それでも今日、一つだけはっきりした。
エレノアは空の肖像枠へ目を向けた。
「お母様」
呼びかける。
「私、ロシュフォール家の娘になりたいって言いました」
返事はない。
「お母様がどう思うかは、分からないままです」
マルグリットが教えてくれた。
亡くなった人の気持ちを、自分たちの都合で決めてはいけない。
「でも、私がどうしたいかは、少し分かりました」
エレノアは日記へ視線を戻し、最後の一行を書いた。
『私は、帰りたい家を自分で選んだ』
まだ正式には、その家の娘ではない。
それでも今夜、眠りにつく場所をエレノアはもう「置いてもらっている場所」とは思わなかった。
明日の朝も、ここで目を覚ましたい。
怖いことがあった時も、ここへ戻りたい。
嬉しいことがあった時には、この家の人たちへ話したい。
その願いは、誰かに命じられたものではない。
父への復讐のためでも、第二王子との縁談を避けるためだけでもない。
エレノア自身が考え、迷い、昨日は答えを出さず、一晩を越えて、それでも変わらなかった気持ちだった。
だから、今はこれでいい。
ロシュフォール家の正式な娘になるまでには、まだ越えなければならない手続きがある。
ベルナール伯爵家からの返答も必要になる。
それでも、自分の人生について自分から望みを伝えられたことは、もう誰にも取り消せない。
エレノアは日記を閉じ、寝台へ向かう前にもう一度だけ部屋を見回した。
空の肖像枠も、閉じた帳面も、刺繍枠も、昨日図書室から新しく借りることを見送った本のことも、全部が今の自分の日々につながっている。
そして、この部屋も。
この屋敷も。
ここで待っていてくれる人たちも。
いつか、ためらわずに「私の家」と呼べる日が来るのかもしれない。
その日を誰かに決めてもらうのではなく、自分で迎えたいと、エレノアは思った。




