第45話 父から届いた返事
朝の光が窓辺に差し込んだ時、エレノアは寝台の中で小さく伸びをした。昨夜は日記を書き終えてからもなかなか眠れないのではないかと思っていたが、実際にはいつもより早く眠りについたらしい。窓の外では小鳥が鳴き、庭の木々を揺らす風も穏やかで、何か大きな決断をした翌朝とは思えないほど、屋敷には普段と変わらない時間が流れていた。
アルフォンスの養女になりたいと伝えたことを思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。昨日までは、そう願ってもよいのかと何度も考えていたのに、実際に口にしてみれば、その言葉は不思議なほど自分の気持ちに馴染んでいた。
(まだ手続きは終わっていないけれど、私はもう、自分の望みを伝えられたんだ)
嬉しさだけではなかった。ベルナール伯爵家からどんな返事が来るのか、ロベルトが反対したらどうなるのか、考え始めれば不安はいくらでも見つかる。それでも、昨日の自分が間違っていたとは思わなかった。
扉を叩く音が聞こえ、エレノアは毛布を整えてから返事をした。
「おはようございます、リディア。今日はよく眠れました」
「おはようございます、お嬢様。それは何よりでございます。お顔の色も、昨日より少しよろしいように見えます」
リディアは穏やかに微笑みながら入室し、カーテンを開けてもよいか確認した。エレノアが頷くと、朝の光が部屋の奥まで広がり、机の上に置かれた灰青色の帳面や、まだ開封していない品々の保管記録を明るく照らした。
机の上には、考えなければならないことがいくつも残っている。
母アデラインの肖像画は見つかっていない。小さな木箱も、青い髪飾りも行方が分からないままだ。以前の部屋から保全された紙箱や衣類の束、革袋、折り畳まれた紙片についても、エレノアはまだ中身を確認する日を決めていなかった。
けれど、今日はそれらを開くつもりはない。
「今日は、少し明るい色のドレスにしたいです」
「かしこまりました。何着かお持ちいたしましょう」
リディアが衣装を用意する間、エレノアは鏡台の前に座った。並べられたのは、淡い桃色、柔らかな水色、そして白い小花の刺繍が施された薄黄色のドレスだった。
薄黄色を見た時、妹のミレーヌが訪ねてきた日のことを思い出した。
あの日、ミレーヌも黄色のドレスを着ていた。自分の好きな色は桃色だけれど、黄色も好きだと話していたことを覚えている。
以前なら、妹と同じ色を選ぶことに抵抗を覚えたかもしれない。
しかし今朝は、薄黄色の布地を見ても胸が苦しくならなかった。
「今日は、これにします」
「こちらの黄色でございますね」
「はい。刺繍が可愛いです」
リディアがドレスを手に取ると、エレノアは少し考えてから付け加えた。
「それから、髪には白いリボンをお願いします」
「承知いたしました」
鏡に映る自分の姿を見ながら、エレノアは小さく笑った。
ミレーヌが黄色を着ていたから、自分が黄色を着てはいけないわけではない。妹との関係がどうなるのかは分からないけれど、好きな色まで誰かのものとして考える必要はなかった。
そんなことを思えるようになった自分が、少しだけ不思議だった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、アルフォンスとセドリック、マルグリット、そして久しぶりにオーギュストも揃っていた。
エレノアが食堂へ入ると、オーギュストが新聞から顔を上げた。白髪交じりの眉を僅かに持ち上げ、孫娘の姿を眺める。
「今日は随分と春らしい装いだな」
「おはようございます、お祖父様。黄色のドレスを選んでみました」
「よく似合っている。アデラインも、若い頃はそういう柔らかな色を好んでいた」
母の名前が出ると、エレノアは思わず足を止めた。
「お母様もですか?」
「ああ。もっとも、あの子は気分によって随分と好みが変わったがな。昨日は青が好きだと言っていたのに、翌日には庭で咲いた花を見て桃色の服を仕立てたいと言い出すような娘だった」
マルグリットが懐かしそうに笑う。
「そうでしたね。仕立て屋を呼んだあとで、やっぱり別の色がいいと言い始めたこともありました」
「それは仕立て屋さんが困りませんでしたか?」
エレノアが尋ねると、オーギュストは少し得意そうに頷いた。
「困っていたとも。だから私は、一度決めたなら最後まで責任を持ちなさいと注意したのだが、アデラインは『それなら次に仕立てる服の色を変えます』と言い返してきた」
セドリックが小さく笑った。
「叔母上らしいですね」
「お前はまだ幼かったから覚えておらんだろうが、あの子は大人しいだけの娘ではなかったぞ」
エレノアは席に着きながら、その話を心の中で繰り返した。
母は優しく、いつも自分を抱きしめてくれた。
幼い記憶の中では、母は穏やかに微笑んでいることが多い。けれど、こうして祖父母から話を聞くたびに、記憶の中だけでは知らなかった母の姿が増えていく。
「お母様も、迷ったりしたんですね」
「もちろんよ。誰だって迷うものです」
マルグリットは温かなスープをエレノアの前へ置いてもらいながら、優しく答えた。
「アデラインは自分の考えを持っている子でしたけれど、いつでも迷わず決められたわけではありません。あなたが今、自分の気持ちを確かめながら進んでいることも、少し似ているのかもしれませんね」
エレノアは照れたように目を伏せた。
母と似ていると言われることは嬉しい。
けれど、母のようにならなければならないわけでもない。
自分には自分の好きな色があり、考える時間がある。
「私、お母様のお話をもっと聞きたいです」
「ええ。いくらでも話しましょう」
その返事を聞き、エレノアは安心して朝食へ手を伸ばした。
食事の途中、アルフォンスが仕事の予定についてセドリックと短く話していたが、エレノアの養女縁組には触れなかった。
昨日、正式な準備を始めると聞いたばかりだ。
今日すぐに結果が出るとは思っていない。
だからエレノアも、食事の席で進み具合を尋ねることはしなかった。
代わりに、オーギュストが若い頃に育てていた庭の花について聞き、セドリックが幼い頃に池へ落ちかけた話を聞いて笑った。
セドリックはその話を持ち出した祖父へ困ったような視線を向けたものの、否定はしなかった。
「落ちたわけではありません。靴を片方濡らしただけです」
「片方だけで済んだのは、庭師が支えてくれたからだろう」
「お祖父様、その話はもう十分ではありませんか」
「エレノアが楽しそうにしているのだから、よいではないか」
オーギュストの言葉に、エレノアは笑いながらセドリックを見た。
「お兄様にも、そんなことがあったんですね」
「僕だって子供だったからね。もっとも、今でも父上は時々その話を持ち出すんだ」
アルフォンスが涼しい顔で紅茶を飲んでいる。
「事実だからな」
「父上まで……」
食堂に柔らかな笑い声が広がった。
エレノアはその声を聞きながら、胸の奥に小さな温かさが積もっていくのを感じた。
昨日、自分で選んだ家。
まだ正式には、その家の娘ではない。
それでも、こうして同じ食卓を囲む時間は、すでに自分の日常になっていた。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアはマルグリットと刺繍をすることにした。
日当たりのよい小部屋へ移動し、窓辺の椅子へ腰を下ろす。テーブルには糸巻きや布が並べられ、マルグリットが以前から使っている小さな裁縫箱も置かれていた。
エレノアが刺しているのは、野薔薇の花だった。
まだ花弁の一部しか完成していないが、以前より針を動かす手が安定している。
「ここ、少し糸が重なってしまいました」
エレノアが布を持ち上げると、マルグリットは眼鏡越しに刺繍を確かめた。
「本当ね。でも、ほどかなければならないほどではありませんよ。気になるなら直してもいいし、そのまま続きを刺しても大丈夫です」
「どちらでも?」
「ええ。あなたがどう仕上げたいかによります」
エレノアはしばらく考え、針先で重なった部分をそっと整えた。
「このままにします。少し花弁が厚くなっただけだから」
「よいと思います」
再び針を動かしながら、エレノアは昨日のことを思い出した。
マルグリットに抱きしめてもらった時、思わず涙が出た。
嬉しかった。
けれど、あとになってから少し恥ずかしくもなった。
「お祖母様」
「なあに?」
「昨日、抱きしめてくれてありがとうございました」
マルグリットは針を止め、孫娘を見た。
「こちらこそ、嬉しかったわ」
「私、泣いてしまいました」
「そうね。でも、泣くことは悪いことではないでしょう?」
「はい。最近、そう思えるようになりました」
エレノアは少し笑ったあと、視線を刺繍へ戻した。
「昨日、叔父様に養女になりたいって言った時も泣きました。嬉しいのに、どうして泣くんだろうって思って」
「嬉しい時にも涙は出ますよ。長い間我慢していたことを言えた時にもね」
「……我慢していたんでしょうか」
「それは、あなたにしか分からないことね」
マルグリットは決めつけなかった。
エレノアは、その答えが好きだった。
自分の気持ちを、誰かに説明してもらわなくていい。
まだ言葉にできないなら、そのままでもいい。
「私、少し怖いです」
針を布へ通しながら、エレノアは静かに言った。
「何が怖いのかしら」
「叔父様の養女になることじゃなくて……お父様が、どう思うのかなって」
ロベルトのことだった。
マルグリットはその呼び方を聞いても、表情を変えなかった。
「反対するかもしれないと思っているの?」
「はい。それから、怒るかもしれません」
エレノアの手が止まる。
「私が勝手なことを言ったって。ベルナール家の娘なのに、どうしてほかの家へ行きたがるんだって」
マルグリットは少し考えてから、静かに答えた。
「ロベルトが何を思うかは、私にも分かりません。悲しむかもしれないし、怒るかもしれない。でも、その感情をどう扱うかは、ロベルト自身の責任です」
「私が怒らせたとしても?」
「ええ。あなたが自分の人生について希望を伝えたことと、相手がその希望を聞いてどう感じるかは、別のことです」
エレノアは針を持つ指を見つめた。
(怒らせたとして、それが何だというの?)
そんな言葉が、ふと胸の中へ浮かんだ。
まだ、強く言い切れるほどではない。
父が怒る姿を想像すれば、身体は今でも強張る。
けれど、怒られることを恐れるあまり、自分の望みを取り消す必要はないのかもしれない。
「私、お父様が怒っても、ベルナール家には戻りたくないです」
マルグリットは静かに頷いた。
「その気持ちを、忘れなくていいのよ」
「はい」
エレノアはもう一度針を動かした。
小さな野薔薇の花弁が、少しずつ形になっていく。
◇ ◇ ◇
その頃、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが前日に届いた書簡を机の上へ広げていた。
何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。
エレノア本人が、ロシュフォール公爵家への養女縁組を希望した。
ロベルトは一晩考えた。
娘を手放したくないという感情は、今も胸の中にある。
しかし、それだけを理由に拒絶すれば、エレノアが自分で選んだ道を塞ぐことになる。
執務室の窓からは、伯爵邸の庭が見えた。
幼いエレノアがアデラインと歩いていた場所だ。
昔は、あの庭を娘が駆け回っていた。
母親の後ろを追いかけ、花を見つけるたびに嬉しそうに呼びかけていた姿を、ロベルトは覚えている。
それなのに、いつから娘は庭へ出なくなったのだろう。
いつから食卓で口数が減ったのだろう。
いつから、自分の前で笑わなくなったのだろう。
思い返しても、はっきりした時期が分からない。
それが、何より恐ろしかった。
(私は、あの子の変化を見ていなかったのか)
アデラインが亡くなったあと、家を立て直すことに必死だった。
ヴァレリアを迎え、ミレーヌを家へ入れ、社交界での立場を整えようとした。
その間、エレノアは大人しい娘になったと思っていた。
母親を失った悲しみから立ち直り、聞き分けがよくなったのだと。
けれど、今になって考えれば、それは都合のよい解釈だったのかもしれない。
娘が何を考え、何を望み、何を怖がっているのか。
自分は尋ねただろうか。
尋ねたとして、その答えを最後まで聞いただろうか。
ロベルトは机へ肘をつき、額に手を当てた。
そこへ家令が入室した。
「旦那様、昨日の書簡について、返答の準備はいかがいたしましょう」
ロベルトは顔を上げる。
「返書を書く」
「承知いたしました。内容について、ご指示をいただけますか」
しばらく沈黙したあと、ロベルトは口を開いた。
「養女縁組について、私が反対する意思はないと伝える」
家令の表情が僅かに動いた。
しかし、何も言わずに頷く。
「ただし、必要な書類については正式な確認を行う。エレノアの財産や母親から受け継いだものについても、勝手に処分しないよう改めて指示を出せ」
「かしこまりました」
「それから……」
ロベルトは言葉を探した。
娘へ何か伝えたい。
謝罪したい。
会いたい。
けれど、今のエレノアは自分との面会を望んでいない。
書簡を通して謝罪を押しつけることも、彼女に返答を求めることも、今は違うのだろう。
「エレノア本人への伝言は、書かない」
家令が静かに頷く。
「承知いたしました」
「これは公爵家への返答だ。あの子に何かを求めるためのものではない」
ロベルトはそう言って、便箋を手元へ引き寄せた。
ペンを持つ手が、少しだけ重く感じられた。
書き始めたのは、簡潔な文章だった。
養女縁組に関する本人の意思を承知したこと。
実父として反対しないこと。
必要な手続きと記録の提出には協力すること。
ただし、財産や相続に関わる事項については正式な確認を求めること。
書き終えたあと、ロベルトは長く息を吐いた。
娘を手放すことに同意した。
けれど、父親として何かを成し遂げたような気持ちにはなれなかった。
むしろ、自分が取り返せないものの大きさを、改めて突きつけられたようだった。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアは南の小池へ向かった。
今日は少量のパンを持っている。
水面には陽射しが映り、魚がゆっくりと泳いでいた。
いつもの腰掛けへ座ると、エレノアはパンを細かくちぎって水へ落とした。
魚が集まってくる。
その様子を眺めていると、背後から足音が聞こえた。
「エレノア様」
振り返ると、庭師見習いのユリウスが少し離れた場所に立っていた。
「こんにちは、ユリウス」
「こんにちは。今日はよいお天気ですね」
「はい。昨日より明るいです」
ユリウスは礼儀正しく頭を下げたあと、池の縁へ視線を向けた。
「水草の手入れをいたしますので、少しこちら側を通らせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
ユリウスは道具を持ち直し、池の反対側へ回った。
エレノアはその様子を眺めながら、ふと尋ねた。
「ユリウスは、このお屋敷で働いて長いんですか?」
「まだそれほどではございません。見習いとして勤め始めてから、ようやく仕事の流れが分かってきたところです」
「そうなんですね」
「はい。まだ先輩方に教わることばかりです」
ユリウスは少し照れたように笑った。
エレノアは池の水面を見つめる。
「ここで働くのは、好きですか?」
ユリウスはすぐには答えず、少し考えてから頷いた。
「好きでございます。大変なこともありますが、庭の様子が少しずつ変わっていくのを見るのは楽しいです」
「毎日、同じことをするんじゃないんですか?」
「同じように見えても、少しずつ違います。昨日元気だった花が今日は少し弱っていたり、雨のあとで土の状態が変わったりしますので」
エレノアは興味深そうに頷いた。
「私、毎日同じ場所へ来ているのに、あまり気づいていませんでした」
「お嬢様が気になさる必要はございません。ただ、庭は毎日少しずつ変わっております」
ユリウスはそう言って、再び仕事へ戻った。
エレノアは水面へ視線を戻した。
毎日同じ場所へ来ている。
同じ腰掛けへ座り、同じ池を眺める。
けれど、昨日と今日では自分の気持ちも違う。
昨日は養女になりたいと伝えたばかりだった。
今日は、その選択が少しずつ現実になっていくことを考えている。
(変わるって、急に全部が違うものになることじゃないんだ)
池の魚も、庭の花も、少しずつ変わっていく。
自分も同じなのかもしれない。
エレノアは残ったパンを包み直した。
今日はもう十分だ。
立ち上がると、少し離れた場所で待っていたリディアが歩み寄ってきた。
「お戻りになりますか?」
「はい。今日は少し本を読みたいです」
「かしこまりました」
エレノアはもう一度池を振り返った。
ここへ来るたびに、少しずつ違う自分になっている。
そのことを、以前ほど怖いとは思わなくなっていた。
◇ ◇ ◇
夕方、アルフォンスのもとへベルナール伯爵家からの返書が届いた。
執務室で書簡を受け取ったアルフォンスは、封を切って内容を確認した。
ロベルトは養女縁組に反対しない。
必要な手続きには協力する。
財産や相続に関する事項については、正式な確認を求める。
文章は簡潔で、余計な感情は書かれていなかった。
アルフォンスは書簡を机へ置いた。
予想していなかったわけではない。
ロベルトが娘を失いたくないと思っていることは分かっていた。
それでも、ここで強硬に反対すれば、エレノアの意思を無視することになる。
少なくとも、その選択はしなかったらしい。
しかし、反対しないという返事だけで、これまでの責任が消えるわけではない。
アルフォンスはその点を混同するつもりはなかった。
そこへセドリックが入室した。
「父上、ベルナール伯爵から返答があったと聞きました」
「ああ」
「内容は?」
「養女縁組には反対しないそうだ。必要な手続きにも協力する、とある」
セドリックは少しだけ目を見開いた。
「そうですか」
「意外か?」
「いえ。反対する可能性も考えていましたが、伯爵自身も今の状況を理解し始めているのかもしれません」
「理解しているなら、もっと早く娘を見てやるべきだった」
アルフォンスの声には抑えた怒りがあった。
セドリックは否定しなかった。
「それは、その通りです」
しばらく沈黙が続いた。
アルフォンスは書簡をもう一度見たあと、静かに息を吐いた。
「だが、今はエレノアの手続きを進めることが先だ。ロベルトへの怒りと、あの子の未来を混ぜるつもりはない」
「はい」
「必要書類の確認を進める。本人の意思を正式に記録する方法についても、負担の少ない形を検討させよう」
セドリックが頷く。
「エレノアには、今日伝えますか?」
アルフォンスは少し考えた。
本人が選んだ養女縁組に関する重要な返答だ。
知らせないまま進めるべきではない。
けれど、突然呼び出して聞かせれば、エレノアはまた何か悪いことが起きたのかと不安になるかもしれない。
「返答が届いたことだけ先に知らせよう。内容を聞くかどうかは、あの子に決めてもらう」
「分かりました」
セドリックは静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
夕食前、エレノアはリディアから、アルフォンスが話したいことがあると聞いた。
「叔父様が?」
「はい。ベルナール伯爵家から書簡が届いたそうでございます」
エレノアの指先が止まった。
胸が速く鳴る。
昨日送った書簡への返事だろう。
何が書かれているのかは分からない。
「……怒っていましたか?」
思わず尋ねると、リディアは首を横へ振った。
「私には内容は分かりません。ただ、アルフォンス様からは、お嬢様がお聞きになりたい時にお話しするとのことでございました」
エレノアは少し俯いた。
聞きたい。
けれど、怖い。
父が反対していたらどうしよう。
娘として許さないと言われていたら。
ベルナール家へ戻れと命じられていたら。
そんな想像が次々と浮かぶ。
(まだ何も知らないのに、勝手に怖い答えを作っている)
以前、ヴァレリアとベアトリスの接触について報告を聞く前にも、同じようなことを考えた。
分からないことを、想像で埋めない。
それは今も難しい。
けれど、思い出せるようになった。
「夕食のあとに聞きたいです」
「かしこまりました」
リディアが頷く。
エレノアは深く息を吐いた。
怖いから聞かないのではなく、食事を終えてから聞く。
それは自分で決めたことだった。
◇ ◇ ◇
夕食を終えたあと、エレノアはアルフォンスのいる小さな居間へ向かった。
部屋にはアルフォンスとセドリックがいた。
マルグリットは隣室にいると聞いていたが、エレノアは今回は二人だけでよいと伝えた。
アルフォンスが椅子を示す。
「来てくれてありがとう」
「はい。お返事が来たって聞きました」
「ああ」
「聞きたいです」
アルフォンスは机の上の書簡へ視線を向けた。
「まず、ベルナール伯爵は養女縁組に反対しないと返答してきた」
エレノアは息を呑んだ。
「……反対、しない?」
「ああ。必要な手続きにも協力すると書いてある」
しばらく言葉が出なかった。
反対されるかもしれないと思っていた。
怒られるかもしれないと思っていた。
それなのに、父は反対しないと言った。
「どうして……?」
エレノアの声が震えた。
「理由は書かれていない。だから、私にも断言はできない」
アルフォンスは正直に答えた。
「ただ、本人の意思を承知し、手続きに協力すると明記されている。そこは事実として受け取っていい」
エレノアは膝の上で両手を握った。
安心した。
確かに安心した。
けれど、その安心の奥に、別の感情が生まれていた。
(お父様は、私がいなくなってもいいの?)
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
反対されるのは怖かった。
けれど、反対されなかったら、それはそれで胸が痛む。
父が引き留めないことを、悲しいと思ってしまう。
エレノアは俯いた。
「……私、変ですね」
アルフォンスが静かに尋ねる。
「どうしてそう思う?」
「反対されたくなかったのに、反対しないって聞いたら……少し、悲しくなりました」
声が掠れる。
「お父様は、私がいなくなっても平気なのかなって」
セドリックが僅かに眉を寄せた。
けれど、口は挟まなかった。
アルフォンスはしばらく考えてから答えた。
「ロベルトが平気なのかどうかは、私には分からない。書簡には感情が書かれていないからな」
「はい……」
「ただ、反対しないことと、悲しくないことは同じではない」
エレノアが顔を上げる。
「そうなんですか?」
「ああ。お前が望んだ道を妨げないために反対しないのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。そこは本人にしか分からない」
エレノアは少し考えた。
自分もそうだった。
ベルナール家に戻りたくない。
けれど、父を昔好きだったことまで消したくない。
養女になりたい。
けれど、父に引き留められなかったことを少し悲しいと思う。
相反する気持ちは、一緒に存在する。
「私、反対されなくて嬉しいです」
エレノアはゆっくり言った。
「でも、少し悲しいです」
「ああ」
「それでも、養女になりたいです」
アルフォンスの表情が柔らかくなる。
「分かった」
エレノアは目元を拭った。
「お父様に、何か返事をしないといけませんか?」
「今は必要ない。これは家同士の正式な手続きに関する返答だからな」
「……はい」
「もし、いつかお前自身が何か伝えたいと思ったら、その時に考えればいい」
エレノアは頷いた。
今は、何も伝えたくない。
謝罪も、感謝も、怒りも、まだ言葉にならない。
だから、無理に返事をしなくていい。
そのことが分かり、少しだけ肩の力が抜けた。
セドリックが静かに口を開いた。
「エレノア、手続きはまだこれからだけど、一つずつ進めていけるよ」
「はい」
「必要なことがあれば説明するし、君が確認したいことも聞いていい」
エレノアはセドリックを見た。
「私、ちゃんと分からないことを聞きます」
「うん。それがいい」
アルフォンスも頷いた。
「私たちが勝手に進めて、あとから結果だけ伝えるようなことはしない」
「ありがとうございます、叔父様」
エレノアは少し笑った。
まだ不安はある。
けれど、父が反対しないという返事を受け取ったことで、養女になる道が一歩進んだことは確かだった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは日記を開いた。
今日も書きたいことがある。
『ベルナール伯爵から返事が届いた』
『養女になることに反対しないと書いてあった』
そこまで書いて、ペンを止める。
少し迷ってから、続きを書いた。
『安心した』
『でも、少し悲しかった』
『お父様が私を引き留めないことが、少し寂しかった』
文字を見つめているうちに、また涙が滲んだ。
エレノアはそれを拭い、続きを書いた。
『叔父様は、反対しないことと悲しくないことは同じではないと言った』
『お父様が何を思っているかは、まだ分からない』
『分からないことを、勝手に決めない』
それから、最後に一行を加えた。
『それでも私は、ロシュフォール家の娘になりたい』
その言葉を書いた時、胸の奥に静かな確かさが残った。
父が反対しても、反対しなくても。
父が悲しんでいても、平気だったとしても。
自分がどこで暮らしたいのかは変わらない。
エレノアは日記を閉じ、机の上を見回した。
灰青色の帳面は、まだ開いていない。
昨日までに保全された品々も、そのまま残っている。
皇室から届いた書簡についても、まだ読む日を決めていない。
養女縁組の手続きは始まったばかりで、正式にロシュフォール家の娘になったわけではない。
けれど、今日一つだけ変わったことがある。
ベルナール伯爵が、彼女の選択を妨げないと返答した。
それは、父が娘を愛していなかった証拠でも、過去の過ちを償った証拠でもない。
ただ、これからの道を塞がないという返事だった。
エレノアは空の肖像枠へ目を向けた。
「お母様」
小さく呼びかける。
「私、少しだけ悲しかったです」
返事はない。
それでも、言葉を続けた。
「でも、叔父様の娘になりたい気持ちは変わりませんでした」
窓の外では夜風が木々を揺らしていた。
エレノアはその音を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
悲しいことがあっても、選んだ道を取り消さなくていい。
嬉しいことがあっても、悲しかった気持ちを消さなくていい。
そして、誰かが自分を引き留めなかったからといって、自分の価値がなくなるわけでもない。
まだ、そのすべてを心から信じられるわけではなかった。
それでも、今夜は日記に書いた言葉を否定せずに眠れそうだった。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
明日もまた、この家で朝を迎える。
そのことを思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。




