第46話 私の名前を、私が決めるために
朝食を終えたエレノアが自室へ戻ると、窓辺の小卓には、昨夜読みかけた物語の本が置かれていた。森で道に迷った少女が、何度も間違えながら家へ帰る物語で、結末を知っているにもかかわらず、エレノアは時折その本を開いている。最後に少女を迎えた家族が、道に迷ったことを責めず、温かな食事を用意していた場面が好きだった。
昨日、ベルナール伯爵家から養女縁組に反対しないという返事が届いた。嬉しかったはずなのに、父が自分を引き留めなかったことを少し寂しく思ってしまい、夜になっても複雑な気持ちは消えなかった。それでも今朝は、その感情を無理に整理しようとは思わなかった。
(嬉しいことと、寂しいことが一緒にあってもいい。叔父様がそう言ってくれたんだもの)
エレノアは本を閉じ、机の上へ視線を移した。そこには母アデラインの肖像画が失われたままの小さな枠と、まだ開いていない灰青色の帳面がある。以前の部屋から保全された品々については、内容を確認するかどうかを決める権利が自分にあると説明されており、今もその判断は保留していた。
けれど今日は、少し別のことが気になっている。
養女縁組が正式に成立したら、自分の名前はどうなるのだろう。
ロシュフォール公爵家の娘になることを望んだのは自分だ。けれど、これまで十五年間名乗ってきた名前が変わることについて、エレノアはまだ十分に考えていなかった。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
リディアが銀の盆を手に入室し、窓辺の小卓へ茶器を並べた。今日の茶葉は柔らかな花の香りがするもので、湯気とともに甘い匂いが部屋へ広がる。
「ありがとうございます、リディア。少し聞いてもいいですか?」
「もちろんでございます。どのようなことでしょう」
エレノアは椅子へ腰を下ろし、しばらく自分の指先を眺めた。口にする前から緊張してしまうのは、答えによって何かが決まってしまうように感じるからだろう。
「私、叔父様の養女になったら、エレノア・ロシュフォールになるんですよね?」
リディアはすぐに断定せず、少し考えてから答えた。
「正式な手続きがどのように整えられるかにもよりますが、ロシュフォール家の姓を名乗られることになると伺っております。詳しいことはアルフォンス様にお尋ねいただくのが確かかと存じます」
「そうですよね。私、昨日までは養女になれるかどうかばかり考えていて、名前のことはあまり考えていませんでした」
「お嬢様にとって、大切なことでございますね」
リディアは茶を注ぎ終えると、エレノアの向かいではなく、少し離れた位置に立った。エレノアが自分から話し始めるのを待つ、いつもの姿勢だった。
「ベルナールって名前が、嫌いなのかもしれないと思っていたんです。でも、今朝考えたら、よく分からなくなってしまって」
エレノアは温かな茶器を両手で包んだ。陶器越しの熱が指先へ伝わり、落ち着かない気持ちを少しだけ和らげてくれる。
「お父様の家の名前ですし、あのお屋敷で起きたことも思い出します。でも、お母様と一緒に暮らしていた頃も、私はエレノア・ベルナールだったんですよね」
「はい。お嬢様のお名前には、幸せだった頃の思い出もございます」
「だから、名前を変えたら、その頃の私までいなくなってしまうような気がして……」
言葉にしてから、エレノアは自分の考えが少しおかしいのではないかと不安になった。ロシュフォール家の娘になりたいと言ったのは自分なのに、今度はベルナールの名前を失うことを怖がっている。
けれど、リディアは不思議そうな顔をしなかった。
「お嬢様がどのようなお名前を名乗られても、これまでの出来事がなかったことになるわけではございません。ですが、そう感じられること自体を、急いで否定なさる必要もないと思います」
「……そうでしょうか」
「はい。新しいお名前を嬉しく思うことと、これまでのお名前に思い出があることは、別のことでございますから」
エレノアは茶を一口飲んだ。花の香りが口の中へ広がり、胸の奥にあった小さな緊張がゆっくりと解けていく。
「今日、叔父様に聞いてみます。名前がどうなるのか、ちゃんと知っておきたいです」
「よろしいかと存じます。アルフォンス様も、お嬢様がご自分で確認なさることを喜ばれると思います」
リディアの言葉に、エレノアは小さく頷いた。
以前の自分なら、名前が変わると聞いても何も尋ねなかっただろう。家の都合で決まることなのだから、自分には関係がないと思っていたはずだ。
けれど、今回は違う。
自分の名前について、自分で知りたいと思っている。
その小さな変化を、エレノアは大切にしたかった。
◇ ◇ ◇
午前の執務室には、紙をめくる音と時計の針が進む音だけが響いていた。アルフォンスは養女縁組に関する資料を確認しており、机の端にはベルナール伯爵家から届いた返書が置かれている。昨日のうちに必要な担当者へ指示を出したものの、正式な手続きには確認すべき事項が多かった。
ロベルトが反対しないと明言したことで、ひとまず大きな障害の一つは取り除かれた。しかし、それで養女縁組が自動的に成立するわけではない。エレノア本人の意思をどのように正式記録へ残すのか、財産や相続に関する取り扱いをどう整理するのか、皇室へどの段階で何を報告する必要があるのか、担当者からの確認を待たなければならない部分が残っていた。
アルフォンスは資料から目を上げ、机の別の場所に置かれた皇室からの書簡へ視線を移した。
第二王子レオナードとの縁談に関する照会も、まだ完全には片づいていない。
正式な婚約が成立していない以上、存在しない婚約を破棄する手続きが必要なわけではない。だが、ベルナール伯爵がかつて受諾の返書を送った経緯があり、皇室側の記録にも縁談の検討が残っている。エレノアの保護先と今後の家族関係が変わるなら、その情報をどのように整理するかも問題になる。
アルフォンスは書簡を手に取り、内容をもう一度確認した。
(あの子の意思を聞かずに進められた縁談が、今度はあの子の意思を尊重するための手続きを複雑にしているとはな)
苛立ちを覚えないわけではない。
しかし、感情のままに皇室へ抗議しても、エレノアのためになるとは限らなかった。必要なのは、正式な婚約が成立していない事実と、本人が縁談を望んでいない意思を、混同されない形で記録することだ。
扉が叩かれ、家令が入室した。
「アルフォンス様、養女縁組に関する確認事項を整理いたしました。まだ回答を得られていない部分もございますが、現時点で判明している範囲をお持ちしております」
「ありがとう。そこへ置いてくれ」
家令は書類を机へ置き、説明を始めた。
「ベルナール伯爵からの返書については、反対しないという意思が明記されておりますので、今後の協議資料として保管いたします。ただし、財産関係の記録と、故アデライン様からエレノア様へ引き継がれるべき品々については、別途確認が必要です」
「その二つを混ぜないようにしてくれ。養女縁組に同意したからといって、過去の財産管理が適切だったことにはならない」
「承知しております。調査記録と縁組の手続きは、それぞれ独立して整理いたします」
アルフォンスは頷いた。
母の遺品が行方不明になっていることと、娘が新しい家族を選ぶことは、確かに関係している。しかし、一方の解決をもう一方の条件にしてはならない。
エレノアがロシュフォール家の娘になったとしても、アデラインから受け継ぐべきものを探す権利は消えない。逆に、遺品がすべて見つからなければ養女になれないということでもない。
「それから、エレノア様ご本人への説明についてですが、確認できた事項から順にお伝えする形でよろしいでしょうか」
「ああ。ただし、確定していない制度上の扱いを、決まったこととして説明しないようにしてくれ。本人が何を選べるのか、どの段階で意思確認が必要なのか、そこを曖昧にしたくない」
「かしこまりました」
家令が退出したあと、アルフォンスは椅子の背へ身体を預けた。
昨日、エレノアは父親からの返事を聞いて泣いた。
安堵しているようにも、傷ついているようにも見えた。
アルフォンスは、その涙の理由を一つに決めつけるつもりはない。
あの子にとってロベルトは、長い間、自分を守ってくれるはずだった父親なのだ。今はその役割を果たさなかったことが明らかになっていても、幼い頃の思い出まで簡単に消えるわけではない。
(あの子が私の娘になることを望んでくれた。それは嬉しい。だが、私が喜ぶことと、あの子が失ったものを悲しむことは別だ)
その時、扉の外から控えめな声が聞こえた。
「叔父様、エレノアです。少しお時間をいただいてもいいですか?」
アルフォンスはすぐに姿勢を正した。
「もちろんだ。入っておいで」
扉が開き、淡い水色のドレスを着たエレノアが顔を覗かせた。リディアは後ろで一礼し、本人が望んだ通り、廊下で待つことにしたらしい。
アルフォンスは机の書類をまとめ、窓際の椅子を示した。
「何か聞きたいことがあるのかな」
「はい。養女になったあとの名前について、少し聞きたいんです」
アルフォンスは意外そうに目を瞬かせたあと、穏やかに頷いた。
「大切なことだね。私も、きちんと説明しておくべきだった」
◇ ◇ ◇
エレノアは窓際の椅子へ腰を下ろした。
向かい側にはアルフォンスが座り、二人の間にある小さな丸卓には、使用人が用意した温かな茶が置かれている。執務机を挟まずに話せることが、エレノアには少し嬉しかった。
「私、ロシュフォール家の養女になったら、エレノア・ロシュフォールになるんですよね?」
「基本的には、その形を想定している。ただ、正式な記録上の扱いについては確認を進めているところだ。今ここで、すべて決まったと断言することはできない」
「そうなんですね」
「名前が変わることが、気になっているのかな」
エレノアは頷いた。
「ロシュフォールって名前になるのは嬉しいです。叔父様やセドリックお兄様と同じ家の名前になるんだと思うと、すごく嬉しいんです」
そこまで言ってから、少しだけ視線を落とした。
「でも、ベルナールって名前がなくなるのは、少し怖い気もして……」
アルフォンスはすぐに答えなかった。
エレノアが続きを話すのを待っている。
「ベルナール家で暮らしていた頃は、嫌なことがたくさんありました。今でも戻りたくないですし、お父様に会うのも怖いです。でも、お母様が生きていた頃は、私もエレノア・ベルナールだったんですよね」
エレノアは茶器の縁へ指を添えた。
「名前を変えたら、あの頃の私までなくなってしまうのかなって思ったんです。そんなことないって、頭では分かっているんですけど」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そう感じるのは、不思議なことではないよ。名前には、その人が生きてきた時間が重なっているからね」
「叔父様も、そう思いますか?」
「ああ。私にとってロシュフォールという名は、父から受け継いだものでもあり、アデラインと共に育った家の名でもある。だが、同じ名前でも、人によって結びついている思い出は違うだろう」
エレノアは顔を上げた。
アルフォンスは少し微笑んで続けた。
「お前がベルナールの名を持っていた十五年間は、名前を変えても消えない。アデラインと過ごした日々も、私たちから離れていた時間も、すべてお前自身の人生だ」
「……はい」
「それに、アデラインは結婚してベルナール家へ入ったが、生まれ育ったロシュフォール家とのつながりが消えたわけではなかった。名前だけで、その人がどこから来たのかが決まるわけではないんだよ」
母の話が出たことで、エレノアの表情が少し柔らかくなった。
「お母様は、ロシュフォール家の娘でもあったんですね」
「ああ。私の妹であり、父上と母上の娘だった。そして、お前の母親だ」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
母が亡くなったあと、自分はベルナール家に残った。
ロシュフォール家との交流は少しずつ減り、いつしか手紙を出すことさえ難しくなっていた。その理由のすべてが明らかになったわけではないけれど、今こうして叔父と向き合っていると、母が生まれ育った家とのつながりを取り戻しているように感じられる。
「私、ロシュフォールの名前になりたいです」
エレノアはゆっくりと言った。
「でも、ベルナールだった頃の私を、なかったことにはしたくありません」
「それでいい」
アルフォンスの返事は迷いがなかった。
「お前がどんな名前を名乗っても、私たちはお前が歩いてきた時間を否定しない。つらかったことも、幸せだったことも、勝手に消したりはしないよ」
エレノアは目元が熱くなるのを感じた。
以前なら、養女になると決めた以上、ベルナール家のことを思い出してはいけないのではないかと考えていただろう。新しい家族に迎えてもらうのだから、昔の家への気持ちは全部捨てなければならないと思ったかもしれない。
けれど、アルフォンスはそんなことを求めなかった。
「叔父様、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではないよ。むしろ、名前について不安があると教えてくれてよかった」
アルフォンスは少し考えてから、続けた。
「手続きの中で、お前自身の意思を記録する機会があるはずだ。その時、分からないことや納得できないことがあれば、必ず尋ねてほしい。私たちが説明を省いたまま進めることはしない」
「はい。私、ちゃんと聞きます」
「それから、名前が変わったあとも、急に別人になろうとしなくていい。今まで通り好きな本を読み、刺繍をして、池へ行けばいいんだ」
エレノアは思わず笑った。
「お魚にパンをあげるのも?」
「もちろん。ただし、あげすぎないようにな」
「最近は少しだけにしています」
「それはよかった」
アルフォンスも笑った。
その穏やかな表情を見ているうちに、エレノアの胸にあった不安は少しずつ形を変えていった。
名前が変わることは、過去を捨てることではない。
これから先、自分がどこに属し、誰と生きていきたいのかを示す一つの形なのだ。
「叔父様」
「何だい?」
「私、エレノア・ロシュフォールって名前、好きになれそうです」
アルフォンスは一瞬だけ目を細めた。
「私も、その名前を聞ける日が楽しみだよ」
その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアは図書室へ向かった。
ロシュフォール公爵家の図書室は、屋敷の東側にある。高い窓から午後の光が差し込み、棚に並んだ本の背表紙を明るく照らしていた。古い紙と磨かれた木の匂いが混ざり合い、エレノアはこの場所へ来るたびに少し落ち着いた気持ちになる。
今日は物語の本を探すつもりだった。
以前読んだ森の少女の話は、すでに何度か読み返している。結末を知っていても好きな物語だったが、今日は別の本を読んでみたいと思った。
棚の前で背表紙を眺めていると、少し離れた場所から声が聞こえた。
「エレノア、何か探しているの?」
振り返ると、セドリックが書類を数冊抱えて立っていた。
「こんにちは、お兄様。今日は新しい物語を読んでみようと思って」
「それなら、こちらの棚に面白いものがあるよ。僕が子供の頃に読んでいた本だけど、今でも十分楽しめると思う」
セドリックは書類を近くの机へ置き、少し奥の棚から一冊の本を取り出した。
表紙には、青い屋根の家と、その前に立つ小さな兄妹が描かれている。
「どんなお話ですか?」
「旅に出た兄妹が、いろいろな町で出会った人たちの手助けをする話だよ。大きな事件が起こるわけじゃないけど、読んでいると少し温かい気持ちになる」
エレノアは本を受け取り、表紙を眺めた。
「お兄様は、こういうお話が好きだったんですね」
「うん。もっとも、当時は冒険の場面ばかり楽しみにしていた気がするけどね」
「今は違うんですか?」
「今読むと、兄妹が旅の途中で何を考えていたのかの方が気になるかな。同じ本でも、読む時期によって面白いと思うところが変わるんだ」
エレノアは興味深そうに頷いた。
自分も、森の少女の物語を最初に読んだ時と、今読み返す時では、少し違う気持ちになっている。
最初は、少女が家へ帰れたことが嬉しかった。
今は、道に迷った少女が何度失敗しても、最後まで帰ることを諦めなかったところも好きになっていた。
「私、この本を読んでみます」
「気に入るといいな」
セドリックは微笑んだあと、ふと何かを思い出したようにエレノアを見た。
「そういえば、父上と話したんだって?」
「はい。名前のことを聞きました」
「名前?」
「養女になったら、エレノア・ロシュフォールになるんだなって思って。それが嬉しいんですけど、少し不安もあったんです」
セドリックは頷き、近くの椅子へ腰を下ろした。
「そうか。確かに、名前が変わるのは大きなことだね」
「お兄様は、私がロシュフォールの名前になるのを、どう思いますか?」
尋ねてから、エレノアは少しだけ緊張した。
昨日、セドリックは妹になることを歓迎すると言ってくれた。
けれど、実際に同じ姓を名乗ることについて、どう感じているのか聞いてみたかった。
セドリックは少し考えたあと、穏やかに答えた。
「嬉しいよ。君が僕の妹になることを、自分で望んでくれたんだから」
「……本当に?」
「もちろん。ただ、名前が変わったからといって、急に何かを変えなければならないとは思っていないよ」
セドリックは本の表紙へ視線を向けた。
「今まで通り、君が読みたい本を探すのを手伝うだろうし、庭を歩きたいと言えば一緒に歩く。困ったことがあれば話を聞くし、君が一人で考えたい時には待つつもりだ」
エレノアは胸が温かくなるのを感じた。
「じゃあ、名前が変わっても、お兄様は今まで通りなんですね」
「そうだね。少なくとも、君に対する気持ちは変わらないと思う」
「よかったです」
エレノアは本を胸に抱えた。
セドリックはその様子を見て、少しだけ笑った。
「それに、エレノア・ロシュフォールという名前は、なかなか似合うと思うよ」
「そうですか?」
「うん。もちろん、エレノア・ベルナールという名前だった君も、僕にとっては大切な従妹だったけどね」
エレノアは少し考えた。
「従妹だった私も、妹になる私も、同じ私なんですね」
「その通り」
セドリックは優しく頷いた。
「名前が変わっても、君自身が別人になるわけじゃない。だから、無理に何かを変えようとしなくていいよ」
エレノアは笑った。
「ありがとうございます、お兄様」
その呼び方を聞いたセドリックの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
彼女が初めて自分を「お兄様」と呼んだ時のことを、セドリックは覚えている。
あの頃のエレノアは、呼び方一つにも遠慮があった。
今は、自分から話しかけ、分からないことを尋ね、嬉しい時には笑ってくれる。
それが何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ベルナール伯爵邸では、ヴァレリアがロベルトの執務室の前に立っていた。
ここ数日、夫の態度は明らかに変わっている。
以前なら、家のことについて相談すれば、少なくとも話は聞いてくれた。だが今は、エレノアに関する調査やロシュフォール家とのやり取りについて尋ねても、必要なこと以外は答えようとしない。
それだけではない。
屋敷の使用人たちも、以前ほどヴァレリアへ情報を持ってこなくなっていた。
ロベルトから、過去の証言や調査に関わる者へ私的に接触しないよう指示が出ていることは知っている。ベアトリスに古い机のことを尋ねた件も、夫へ報告されたらしい。
ヴァレリアは扉の前で一度息を整えた。
「あなた、少しお話ししてもよろしいかしら」
中から返事があった。
「入ってくれ」
執務室へ入ると、ロベルトは机に向かって書類を確認していた。
ヴァレリアは柔らかな笑みを浮かべ、夫の様子を窺う。
「最近、お忙しそうですわね。何か私にお手伝いできることはありませんか?」
「今のところ、特にない」
短い返事だった。
ヴァレリアは表情を崩さず、少しだけ話題を変えた。
「エレノアのことですけれど、ロシュフォール公爵家での暮らしには慣れたのでしょうか。あの子が戻ってこないまま、随分と時間が経ってしまいましたわ」
ロベルトは書類から顔を上げた。
「エレノアは、あちらで暮らすことを望んでいる」
「もちろん、今はそうでしょうけれど……あの子もまだ十五歳ですもの。気持ちが変わることもあるのではありませんか?」
ヴァレリアは慎重に言葉を選んだ。
ロベルトが何を考えているのか、以前ほど読み取れない。
「家族なのですから、いつか落ち着いて話し合う機会を設けてもよいと思いますの。ミレーヌも、姉に会えないことを気にしておりますし」
ロベルトはしばらく妻を見つめていた。
その沈黙が長く感じられ、ヴァレリアは指先へ力を込める。
「ミレーヌは、すでにエレノアと一度会っている」
予想していなかった言葉に、ヴァレリアの表情が僅かに動いた。
「……そうなのですか?」
「ああ。条件を整えたうえで、短い面会が行われたと報告を受けている」
ヴァレリアは驚きを隠すように目を伏せた。
ミレーヌが姉と会ったことを、自分へ詳しく話していなかった。
以前なら、娘は何かあるたびに相談してきたはずだ。
「ミレーヌからは、何も聞いておりませんでしたわ」
「本人にも考えることがあるのだろう」
ロベルトはそう言ってから、机の上の書類を閉じた。
「ヴァレリア、エレノアに関することは、今後も必要な手続きを通して進める。君が直接働きかける必要はない」
「私は、あの子のことを心配しているだけです」
「心配しているなら、本人が望まない接触をしないことだ」
ヴァレリアは返す言葉を失った。
ロベルトの声は荒くない。
怒鳴られているわけでもない。
けれど、以前なら感じなかった明確な拒絶があった。
「……分かりました」
ヴァレリアは一礼し、執務室を出た。
廊下へ出ると、窓から差し込む夕日が床を赤く染めていた。
ヴァレリアはその光を見つめながら、静かに唇を結んだ。
ミレーヌがエレノアと会っていた。
しかも、自分には何も話していない。
(あの子まで、私に隠し事をするようになったの?)
胸の奥に生まれた不快感を、ヴァレリアは表情へ出さなかった。
ただ、これまで自分の言葉を疑わなかった娘が、少しずつ別の考えを持ち始めているのではないかという疑念が残った。
◇ ◇ ◇
その頃、ミレーヌは自室で小さな箱を開いていた。
中には、以前から大切にしている髪飾りやリボンが並んでいる。桃色や黄色の飾りが多く、どれも自分が好きで選んだものだった。
けれど、箱の奥には、いつからそこにあったのかはっきり覚えていない品も残っている。
姉の部屋から移されたものではないかと疑われている品々について、ミレーヌはまだすべての経緯を確かめられていなかった。
以前、姉と会った時のことを思い出す。
エレノアは、自分が知らなかったことについて責め立てることはしなかった。
けれど、知らなかったからといって、二人の立場が同じになるわけではないとも言った。
あの言葉は、今も胸に残っている。
(私は、本当に何も知らなかったのかな)
母が姉のことを話す時、ミレーヌはそれを疑わなかった。
姉は一人で過ごすのが好きなのだと聞けば、そうなのだと思った。食事の席へ来ないことがあっても、本人が望んでいるのだと説明されれば、それ以上考えなかった。
けれど、今は違う。
知らなかったことと、知ろうとしなかったことの違いを、ミレーヌは考え始めていた。
箱の中から細いリボンを取り出し、指先で撫でる。
これは自分で選んだものだ。
では、隣にある小さな装飾品はどうだっただろう。
誰が渡してくれたのか。
いつから持っていたのか。
曖昧な記憶しかない。
ミレーヌは箱を閉じず、机の上へ置いたままにした。
今すぐ答えが分かるわけではない。
けれど、分からないままにしておくことも、もう嫌だった。
姉へ何かを返すべきなのか、謝るべきなのか、それすら今は決められない。
ただ、少なくとも自分の持ち物については、きちんと確かめたい。
ミレーヌは机の引き出しから紙を取り出し、箱の中にある品々を一つずつ書き留め始めた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室で新しく借りた物語の本を読んでいた。
青い屋根の家から旅立った兄妹は、最初の町で道に迷った老人を助け、その礼として小さな木の笛を受け取っていた。兄は笛を旅の記念にしたいと言い、妹は家へ帰ったら母親に見せたいと話している。
エレノアはその場面を読みながら、少し笑った。
セドリックが子供の頃に好きだった本。
そう思うと、物語の中の兄妹が、どこか自分たちと重なって見える。
もちろん、実際に二人で旅をしたことはない。
それでも、いつかセドリックと一緒に町へ出かけたり、母アデラインが好きだった場所を訪ねたりすることはできるかもしれない。
そんな未来を想像できることが、エレノアには嬉しかった。
本を閉じると、机の上の日記へ手を伸ばした。
今日も書いておきたいことがある。
『今日は、名前について叔父様に聞いた』
『養女になったら、エレノア・ロシュフォールになる予定だと教えてもらった』
『ベルナールだった頃の私が、なくなるわけではないと言ってくれた』
エレノアは一度ペンを止めた。
その言葉を思い出すと、胸の奥が温かくなる。
母と過ごした日々も、父を好きだった頃の自分も、今の自分の中に残っている。
つらいことがあったからといって、幸せだった記憶まで捨てなくていい。
新しい家族を選んだからといって、過去の自分を否定する必要もない。
『私は、エレノア・ロシュフォールという名前になりたい』
そこまで書いたあと、エレノアは少し考えた。
そして、もう一行を加える。
『でも、エレノア・ベルナールだった私も、私のままでいい』
書き終えると、自然に笑みが浮かんだ。
以前なら、こんなふうに考えることはできなかっただろう。
誰かの期待に応えるために名前を変えるのではない。
自分が望む未来へ進むために、新しい名前を受け取る。
その違いが、今は少しだけ分かる。
エレノアは日記を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭は静かで、遠くの木々が月明かりに照らされている。
明日も、この家で朝を迎える。
そして、いつか正式にロシュフォール家の娘になる日が来る。
その時、自分はどんな気持ちになるのだろう。
嬉しくて泣くかもしれない。
少し怖くなるかもしれない。
あるいは、思っていたよりも普通の朝を迎えるだけなのかもしれない。
どれでもいい。
自分が選んだ道なのだから、その時の気持ちも自分のものとして受け止めたい。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
母の肖像画も、失われた遺品も、まだ見つかっていない。
ベルナール伯爵家で起きたことのすべてが明らかになったわけでもない。
皇室との縁談についても、正式な整理はこれからだ。
それでも、今夜は一つだけ確かなことがある。
自分の名前について、自分で考え、自分で尋ねることができた。
その小さな一歩が、エレノアには何より大切だった。
そして同じ夜、ロシュフォール公爵家の執務室では、アルフォンスが皇室への回答案を前に、慎重に言葉を選んでいた。
第二王子との縁談が正式な婚約へ至っていないこと。
エレノア本人がその縁談を望んでいないこと。
現在、本人の意思に基づいてロシュフォール公爵家への養女縁組の準備が進められていること。
それらを正確に記しながら、アルフォンスは一つのことを考えていた。
エレノアが自分の名前を選ぼうとしている今、その意思を皇室の都合によって再び奪わせるわけにはいかない。
書類の上に並ぶ文字は、まだ正式な結論ではない。
けれど、そこには確かに、エレノアが自分で選び取った未来を守ろうとする人々の意思が込められていた。




