第47話 皇室へ届ける私の意思
朝食を終えたエレノアが図書室へ向かおうとすると、廊下の向こうからセドリックが歩いてきた。片手には数枚の書類を持っていたが、彼女の姿を見つけると足を緩め、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、エレノア。今日は図書室へ行くの?」
「おはようございます、お兄様。昨日借りた本の続きを読もうと思っています。まだ兄妹が二つ目の町へ着いたところなんですけど、二人が少し喧嘩してしまって、その続きが気になっていて」
「そうか。あの二人は考え方が違うから、旅の途中で何度か意見がぶつかるんだよ。でも、どちらかが一方的に悪いわけではないところが、僕は好きだったな」
セドリックは懐かしそうに笑いながら、手に持っていた書類を軽く持ち直した。エレノアはその言葉を聞いて、昨夜読んだ場面を思い返す。
兄は先を急ぎたがり、妹は町で困っている人を助けたいと言っていた。どちらの気持ちも理解できるからこそ、エレノアは二人がどのように仲直りするのか知りたかった。
「私も、どちらが悪いのか決められませんでした。お兄様は、初めて読んだ時にどちらの味方をしましたか?」
「子供の頃は兄の方だったと思う。早く次の町へ行きたかったからね。でも今なら、妹の言い分も分かる気がするよ」
セドリックはそこで少しだけ表情を改めた。
「ところで、父上が今日の午前中に君へ相談したいことがあるそうなんだ。急ぎではないから、図書室で少し過ごしてからでも構わないと言っていたよ」
「叔父様が、私にですか?」
「うん。皇室へ送る書簡について、君自身の意思を確認したいそうだ」
皇室という言葉を聞いた瞬間、エレノアの胸が小さく強張った。
第二王子レオナードとの縁談について、皇室から照会が届いていることは知っている。アルフォンスから概要を説明してもらったが、書簡そのものはまだ読んでいなかった。
養女縁組の準備が始まり、ロベルトも反対しないと返答してきた。
だからといって、レオナードとの縁談が自動的になくなったわけではない。
そのことは、エレノアも理解していた。
「……私が、何か答えないといけないんでしょうか」
声に僅かな不安が混じったことに、セドリックは気づいたらしい。
「今すぐ答えを求められているわけじゃないよ。父上は、君がどこまで説明を聞きたいか、書簡を読んで確認したいか、それから返答にどんな言葉を使ってほしいかを相談したいんだと思う」
「私が、言葉を選んでもいいんですか?」
「もちろん。君の縁談に関することだからね」
エレノアは少し俯いた。
ベルナール伯爵邸では、第二王子との縁談について自分の希望を尋ねられたことはなかった。父が話を進め、ヴァレリアが喜び、ミレーヌが羨ましがる。その中で、エレノア自身の気持ちは、最初から存在しないもののように扱われていた。
だからこそ、今になって自分の言葉を選んでよいと言われることが、少し不思議だった。
「分かりました。図書室へ行く前に、叔父様とお話ししたいです」
「そうか。じゃあ、僕からも父上へ伝えておくよ」
「ありがとうございます、お兄様」
セドリックが歩き去ったあと、エレノアは廊下の窓へ視線を向けた。
外には明るい朝の光が広がっている。
庭の木々は穏やかな風に揺れ、遠くでは使用人たちが花壇の手入れをしていた。
(私が嫌だと言ったことを、今度はちゃんと皇室へ伝えてもらえるんだ)
嬉しいと思う一方で、怖さもあった。
皇室へ正式に拒絶の意思を伝えれば、第二王子はどう思うだろう。
怒るだろうか。
それとも、気にも留めないだろうか。
前の人生で見たレオナードの顔が、記憶の奥から浮かび上がる。
処刑台へ連れていかれる直前、彼はミレーヌのそばに立っていた。
自分を見つめるその瞳には、かつて婚約者へ向けていたはずの優しさなど残っていなかった。
エレノアは胸元へ手を当て、ゆっくり息を吐いた。
(今は、まだ婚約していない。私は、断ることができる)
何度も自分へ言い聞かせてきた言葉だった。
けれど今日は、その言葉を正式な書面として皇室へ届けるための相談が始まろうとしている。
それは、エレノアにとって大きな一歩だった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室へ入ると、窓際の小卓には二人分の茶器が用意されていた。
大きな執務机には書類が整然と積まれているが、エレノアが座る場所には必要なものだけが置かれている。以前、養女縁組について相談した時と同じように、アルフォンスは机を挟まずに向かい合って話すつもりらしかった。
「おはよう、エレノア。セドリックから聞いたよ。先にこちらへ来てくれたんだね」
「おはようございます、叔父様。皇室へのお返事について、私に聞きたいことがあるって……」
「ああ。今日はその話をしたいと思っていた。ただ、無理にすべて決める必要はないから、まずは状況を説明させてほしい」
エレノアが頷くと、アルフォンスは机から一通の書簡と、別の紙を持ってきた。
封筒には皇室の紋章が押されている。
それを見ただけで、エレノアの指先が少し冷たくなった。
前の人生では、皇室から届く書簡を喜ばしいものだと思おうとしていた。第二王子の婚約者であることは名誉であり、父や継母もそう言っていたからだ。
けれど、実際にはその立場が自分を守ってくれることはなかった。
「こちらが、先日届いた照会の書簡だ」
アルフォンスは封筒を小卓へ置いた。
「内容は以前簡単に説明したが、今日はもう少し詳しく話そう。皇室側が確認したいのは、第二王子との縁談が現在どのような状態にあるのか、それからお前の居住先と保護に関する扱いがどうなっているのか、ということだ」
「私がロシュフォール家にいる理由も、ですか?」
「ああ。ベルナール伯爵家の娘として縁談が持ち込まれた以上、今のお前がどこにいて、誰が正式な連絡を受ける立場にあるのか、皇室側も整理する必要があるのだろう」
エレノアは静かに聞いていた。
アルフォンスは書簡の上へ手を置き、続ける。
「ただし、ここで大切なのは、まだ正式な婚約が成立していないということだ。ベルナール伯爵が受諾の返書を送った経緯はあるが、お前自身が第二王子との縁談を望まないと明確に伝えている。私は、その事実を曖昧にするつもりはない」
「……はい」
「それから、今はお前自身がロシュフォール家への養女縁組を希望している。手続きは始まったばかりだから、まだロシュフォール家の娘として正式に登録されたわけではない。その点も、正確に伝える必要がある」
エレノアは頷いた。
名前が変わることについて、昨日アルフォンスと話したばかりだった。
まだ正式な手続きが終わっていない以上、今の自分はエレノア・ベルナールである。
その事実を、嫌だとは思わなかった。
ただ、これから変わっていくことを、自分で望んでいる。
「叔父様、私……書簡を読んでもいいですか?」
アルフォンスの表情が僅かに柔らかくなった。
「もちろんだ。難しい表現があれば説明するし、途中でやめたくなったら閉じてもいい」
「はい。読んでみたいです」
アルフォンスは書簡をエレノアの前へ差し出した。
厚手の紙には整った文字が並んでいる。
皇室の事務を担当する部署からの正式な照会であり、第二王子本人が書いたものではなかった。
エレノアは最初の行から、ゆっくり読み始めた。
ベルナール伯爵家から以前提出された受諾の返書。
その後、縁談が正式な婚約へ進んでいないこと。
エレノアがロシュフォール公爵家に滞在していること。
今後の連絡や身分上の取り扱いを確認する必要があること。
文章は事務的で、感情的な言葉はなかった。
けれど、エレノアは読み進めるうちに、胸の奥へ少しずつ緊張が積もっていくのを感じた。
(私のことなのに、私の名前が書類の中で動いている)
前の人生でも、こうして自分の知らないところで様々な書類が作られていたのだろうか。
婚約の話が進んだ時も、婚約を破棄された時も、罪を着せられた時も。
自分が何を望んでいるかを尋ねられないまま、誰かが決めたことが正式な事実として扱われていた。
エレノアは途中で一度、書簡から顔を上げた。
「叔父様」
「どうした?」
「ここには、私が嫌だと言ったことは書いていないんですね」
アルフォンスは書簡の該当箇所を確認した。
「そうだね。少なくとも、この照会にはお前の拒絶の意思を確認済みだとは書かれていない」
「皇室は、私が断ったことを知らないんでしょうか」
「その可能性はある。ただし、担当部署の書簡に書かれていないからといって、皇室の誰も知らないとは限らない。そこは確認しなければ分からない」
エレノアは少し考えた。
誰が何を知っているのか。
それを、勝手に決めない。
以前からアルフォンスたちが教えてくれていることだった。
「じゃあ、私が断ったことを、きちんと伝えるんですね」
「ああ。そのための返答だ」
エレノアはもう一度書簡へ目を落とした。
最後まで読み終えると、紙を丁寧に机へ置いた。
指先はまだ少し冷たい。
けれど、途中で読むのをやめたいとは思わなかった。
「全部、読めました」
「よく読んだね。何か分からないところはあったかな」
「難しい言葉はありました。でも、叔父様のお話を聞いていたので、だいたい分かりました」
エレノアは少し迷ってから、静かに続けた。
「私、この書簡が怖かったんです。何が書いてあるのか分からないから、きっと悪いことが書いてあるんだと思っていました」
アルフォンスは頷いた。
「実際に読んでみて、どうだった?」
「怖い気持ちはまだあります。でも、思っていたようなことは書いてありませんでした」
エレノアは書簡を見つめた。
第二王子の命令でもない。
婚約を強制する通知でもない。
ただ、現在の状況を確認するための書簡だった。
それでも、安心しきれるわけではない。
皇室から届いたという事実だけで、前の人生の記憶が胸の奥を刺激する。
「叔父様、私の返事は、どう書くんですか?」
「それを、これから一緒に考えたい」
アルフォンスは別の紙を取り出した。
そこには、まだ正式な文面ではない回答案が記されていた。
◇ ◇ ◇
回答案には、三つの重要な内容がまとめられていた。
第一に、エレノアと第二王子レオナードの間には、正式な婚約が成立していないこと。
第二に、エレノア本人がその縁談を望んでおらず、今後も婚約へ進む意思がないこと。
第三に、現在はロシュフォール公爵家で保護されており、本人の希望に基づいて養女縁組の準備が進められていること。
エレノアは一つずつ読み、気になるところへ指を置いた。
「叔父様、ここなんですけど……」
「どこかな」
「『現時点において婚約を希望していない』って書いてありますよね」
「ああ」
エレノアは少しだけ眉を寄せた。
「これだと、今は嫌だけど、あとで気持ちが変わるかもしれないって思われませんか?」
アルフォンスは紙へ目を落とした。
それから、エレノアの顔を見る。
「そう受け取られる可能性はあるね。私としては、正式な婚約が成立していない現在の状態を正確に示すつもりだったが、お前が気になるなら表現を改めよう」
エレノアは驚いた。
自分が一言尋ねただけで、公爵家から皇室へ送る書簡の文章を変えてもらえる。
以前の自分なら、考えられなかったことだった。
「変えても、いいんですか?」
「もちろん。これはお前の意思を伝えるための文書だからね」
エレノアはしばらく考えた。
どんな言葉なら、自分の気持ちが正確に伝わるだろう。
ただ「嫌です」と書くのでは、正式な書簡としては不十分なのかもしれない。
けれど、遠回しにしすぎて、別の意味に受け取られるのも嫌だった。
「私は、第二王子殿下との婚約を望んでいません」
エレノアはゆっくりと言った。
「これから先も、その縁談を進めてほしくありません」
アルフォンスは黙って聞いていた。
「でも、殿下のことを悪く書きたいわけではないんです。私が嫌だっていうことだけ、きちんと伝えたいです」
その言葉を聞き、アルフォンスは少し考えてから頷いた。
「分かった。ならば、本人は第二王子との婚約を希望せず、今後その縁談を進める意思もない、と明記しよう」
「それなら、私の気持ちと同じです」
エレノアはほっと息を吐いた。
アルフォンスは回答案の該当箇所へ修正を書き加えた。
その様子を見ながら、エレノアは胸の奥に不思議な感覚が広がるのを覚えた。
自分の言葉が、正式な書面へ変わっていく。
誰かに都合よく解釈された言葉ではなく、自分が伝えたい意味のまま。
それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
「叔父様、もう一つ聞いてもいいですか?」
「もちろんだよ」
「この返事を送ったら、殿下は私に会いに来たりしますか?」
アルフォンスの表情が僅かに引き締まった。
「可能性がないとは言えない。ただ、皇室から正式な連絡がある場合には、まずこちらで内容を確認する。お前が望まない面会を、勝手に決めるつもりはない」
「……はい」
「それに、今はまだ第二王子本人から何か申し入れがあったわけではない。起きていないことを、すべて先回りして怖がらなくてもいいんだよ」
エレノアは頷いた。
前の人生で知っているレオナードは、自分の拒絶を簡単に受け入れる人物ではなかった。
しかし、今のレオナードが何を考えているのかは分からない。
まだ直接会ってもいない。
その違いを忘れてはいけない。
(私は、前の人生の殿下を知っている。でも、今の殿下が何をするかまでは知らない)
だからこそ、必要なのは想像で怯え続けることではなく、今できる準備をすることなのだろう。
「叔父様、ありがとうございます。私、この文章で伝えてほしいです」
「分かった。最終的な形式を整えたうえで、もう一度確認してもらおう」
「はい」
エレノアは少し笑った。
自分が嫌だと言ったことが、正式な言葉として残る。
それは、前の人生では得られなかったものだった。
◇ ◇ ◇
午後、アルフォンスは回答案の修正を担当者へ伝えた。
正式な書簡として整えるためには、皇室に対する礼節を保ちながら、エレノア本人の意思を曖昧にしない表現が必要になる。
その作業は簡単ではなかった。
皇室からの縁談を断ること自体が、貴族社会では慎重に扱われる問題だからだ。
しかし、アルフォンスはその難しさを理由に、エレノアの意思を弱めるつもりはなかった。
セドリックも同席し、文面を確認していた。
「父上、こちらの表現ですが、『当面の間』という言葉は不要ではありませんか?」
セドリックが指摘した箇所を、アルフォンスは確認した。
「そうだな。保護の状況については現時点の事実を記す必要があるが、縁談を望まない意思まで一時的なものに見せる必要はない」
「エレノア自身も、今後その縁談を進めてほしくないと明確に話していましたから」
「ああ。そこは変えない」
アルフォンスは修正を指示した。
セドリックは父の横顔を見ながら、少しだけ表情を和らげた。
エレノアがロシュフォール家へ来たばかりの頃、彼女は自分の希望を口にすることさえ難しかった。
食事を選ぶことにも遠慮し、服を選ぶ時にも相手の顔色を窺っていた。
今は、皇室へ送る書簡の表現について、自分から意見を述べている。
その変化は、セドリックにとって何より嬉しいものだった。
「エレノア、随分と変わりましたね」
セドリックが静かに言うと、アルフォンスは頷いた。
「ああ。だが、無理に強くなったわけではないと思う」
「そうですね」
「あの子は、怖いと思いながらも自分の気持ちを言葉にしている。私たちができるのは、その言葉を勝手に変えずに受け止めることだ」
セドリックは父の言葉を聞き、改めて書簡へ視線を落とした。
皇室へ届けるのは、ロシュフォール公爵家の都合ではない。
エレノア自身の意思だ。
そのことを忘れてはならないと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットと庭を歩いていた。
日中の陽射しは少し和らぎ、木々の間を抜ける風には涼しさが混じっている。庭の奥では使用人たちが花壇の手入れをしており、遠くから小さな話し声が聞こえていた。
「今日は叔父様と、皇室へのお返事についてお話ししました」
エレノアがそう言うと、マルグリットはゆっくり頷いた。
「そう。どんなお話をしたの?」
「私が第二王子殿下との婚約を望んでいないことを、ちゃんと書いてもらうことになりました」
「それは大切なことね」
「はい。でも、少し怖かったです」
エレノアは足元の小石を避けながら、ゆっくり歩いた。
「皇室へ送る書簡に、自分の言葉が書かれるなんて思っていませんでした。間違ったことを言ったらどうしようって、何度も考えてしまって」
マルグリットは隣を歩きながら、穏やかに答えた。
「間違えないように考えることは大切です。でも、自分の気持ちを伝えることまで、間違いを恐れて諦める必要はないのですよ」
「……はい」
「それに、あなたは一人で皇室と向き合っているわけではありません。アルフォンスもセドリックも、あなたの意思を守るために動いています」
エレノアは少し笑った。
「叔父様、私が書簡の言葉を変えてほしいって言ったら、本当に変えてくれました」
「そうでしょうね」
「お祖母様は、驚かないんですか?」
マルグリットは小さく笑った。
「アルフォンスは昔から、家族が本当に大切にしていることには頑固なところがありますから」
「叔父様が、頑固?」
「ええ。あなたのお母様とも、よく意見をぶつけていましたよ」
エレノアは目を丸くした。
「お母様と叔父様が、喧嘩をしたんですか?」
「喧嘩というほどではありませんけれど、二人とも譲らないことがありました。アデラインが自分で決めたいと言えば、アルフォンスは心配だからと理由を聞きたがって……最後には、きちんと話し合っていましたけれどね」
エレノアは思わず笑った。
今のアルフォンスからは、少し想像しにくい。
けれど、母と叔父が同じ屋敷で育ち、時には意見をぶつけながら過ごしていたのだと思うと、胸が温かくなった。
「私も、叔父様と意見が違うことがあるかもしれませんね」
「もちろんあるでしょう。それでも、話し合えばいいのです」
「怒られませんか?」
「意見が違うというだけで、怒られる必要はありませんよ」
エレノアは静かに頷いた。
ベルナール伯爵邸では、意見が違うこと自体が怖かった。
自分の考えを口にすれば、わがままだと言われることがあった。
だから、何も言わない方が安全だと思っていた。
けれど今は、違う意見を持っていても話し合える。
そのことが、少しずつ分かってきた。
「お祖母様、私……今日は少し嬉しかったです」
「何が嬉しかったの?」
「自分の言葉が、ちゃんと大切にされたことです」
マルグリットは足を止め、エレノアを見つめた。
その瞳には、優しい光が宿っていた。
「それは、本当に嬉しいことね」
エレノアは頷いた。
自分の言葉が誰かに届く。
その言葉を、勝手に別の意味へ変えられない。
それだけのことが、今のエレノアには大きな幸せだった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは日記を開いた。
今日の出来事を書き留めるために、机の上へ新しいインクを用意する。
窓の外では月が雲の間から顔を覗かせ、庭の木々を淡く照らしていた。
『今日は、皇室から届いた書簡を初めて読んだ』
エレノアはゆっくり文字を書いた。
『怖いことが書いてあると思っていたけれど、実際には現在の状況を確認するための書簡だった』
『叔父様と一緒に、皇室への返事を考えた』
そこで少しだけペンを止めた。
昼間、アルフォンスへ伝えた言葉を思い出す。
第二王子との婚約を望んでいない。
これから先も、その縁談を進めてほしくない。
以前なら、そんなことを口にするだけで恐ろしかった。
けれど今日は、自分から伝えることができた。
『私は、第二王子殿下との婚約を望んでいない』
『これからも、その縁談を進めてほしくない』
『その気持ちを、皇室へ正式に伝えてもらう』
書き終えると、胸の奥が少し軽くなった。
前の人生では、誰も自分の無実を信じてくれなかった。
何を言っても聞き入れてもらえず、最後には命まで奪われた。
その記憶は、今も消えない。
けれど今は、自分の言葉を聞いてくれる人がいる。
その言葉を、正式な書面へ残そうとしてくれる人がいる。
エレノアは空の肖像枠へ視線を向けた。
「お母様」
小さく呼びかける。
「私、今日はちゃんと断ることができました」
返事はない。
それでも、言葉を続けた。
「まだ皇室へ返事が届いたわけじゃありません。でも、私の気持ちは、ちゃんと書いてもらえることになりました」
エレノアは少し笑った。
「私、前より少しだけ、自分のことを自分で決められるようになった気がします」
窓の外で風が吹き、木々の葉が静かに揺れた。
エレノアは日記へ最後の一行を書き加えた。
『私の意思は、私のものだ』
その言葉を見つめているうちに、胸の奥へ静かな確かさが広がっていく。
皇室がどのような返事をするのかは、まだ分からない。
第二王子が何を考えているのかも知らない。
養女縁組の手続きも、始まったばかりだ。
母の遺品や、ベルナール伯爵邸で起きたことについても、まだ解決していない問題が残っている。
それでも、今夜のエレノアは以前ほど未来を恐れていなかった。
自分の言葉を持ち、その言葉を伝えることができる。
そして、その言葉を守ろうとしてくれる家族がいる。
その事実が、何より心強かった。
◇ ◇ ◇
同じ夜、アルフォンスの執務室では、皇室へ送る回答案の最終確認が進められていた。
机の上には、エレノア本人が第二王子との婚約を望んでいないこと、今後もその縁談を進める意思がないこと、そしてロシュフォール公爵家への養女縁組を希望していることが、明確な言葉で記されている。翌朝、もう一度エレノア本人に内容を確認してもらい、問題がなければ正式な返書として送る予定だった。
アルフォンスは最後の一文まで目を通したあと、書類を机へ置いた。
エレノアは今日、自分の言葉で縁談を拒絶した。皇室へ提出する書簡の表現についても、自ら意見を述べている。その姿を思い出すと誇らしい気持ちになる一方で、彼女がそこまで言葉を選ばなければならなかった理由を考えずにはいられなかった。
かつて、エレノアの意思を確かめることなく縁談を進めたのはベルナール伯爵だった。しかし、その返書を受け取った皇室側が、現在どこまで事情を把握しているのかは分からない。
第二王子本人が、エレノアの拒絶を知っているのかどうかさえ不明だった。
「……これで、縁談の扱いを明確にできればよいが」
アルフォンスは低く呟き、皇室から届いた照会の書簡をもう一度手に取った。
文面そのものは事務的で、エレノアへ婚約を強制する言葉はない。だからといって、返答を送れば必ず望んだ通りに整理されると決まったわけでもなかった。
皇室が正式な婚約は成立していないと確認し、本人の拒絶を受け入れるのか。
あるいは、以前の受諾の返書について、さらに説明を求めてくるのか。
今の段階では、どちらとも断定できない。
アルフォンスは窓の外へ視線を向けた。庭はすでに夜の闇に包まれ、遠くに置かれた灯りだけが、石畳を淡く照らしている。
エレノアは、まだ十五歳だ。
ようやく安心して眠れる場所を見つけ、自分の名前や未来について考え始めたばかりの少女である。
その少女が、二度と望まない縁談によって追い詰められることのないようにしたい。
けれど、それは皇室が何を言ってきても、ただ拒絶を繰り返せばよいという意味ではなかった。相手がどのような説明を求め、どのような判断を示すのかを見極めたうえで、必要な対応を選ばなければならない。
アルフォンスは回答案を丁寧に揃え、明朝の確認用として別の封筒へ収めた。
まだ皇室への返答は送っていない。
だから、皇室がエレノアの意思をどう受け止めるかも、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、今度こそ彼女の意思を曖昧にしたまま、縁談を進めさせるつもりはないということだった。
翌朝、エレノアがこの書簡を確認すれば、正式な返答を届ける準備が整う。
そしてその先には、ロシュフォール公爵家の誰も、まだ答えを知らない問いが待っていた。
第二王子との婚約を望まないという、エレノア自身の明確な意思。
皇室は、その言葉をどのように受け止めるのだろうか。




