第8話 祖母からの招待状
翌朝、ロシュフォール公爵家から一通の手紙がベルナール伯爵邸へ届けられた。
昨日のように家令が自ら訪れたわけではない。公爵家の使者が正門で正式な書簡として差し出し、受け取ったベルナール家の使用人が、それを屋敷の中へ運んだ。
封筒にはロシュフォール公爵家の紋章を用いた封蝋が施されている。
宛名はエレノア・ベルナール。
ただし、高位貴族の家から届いた正式な書簡である以上、今のベルナール家でそれが本人の手元へ直接届けられることはなかった。
「ロシュフォール家から、また?」
朝食を終えて間もない執務室で報告を受けたロベルトは、露骨に眉をひそめた。
机の上へ置かれた封筒を見る。
昨日は誕生日の贈り物。
今日は正式な書簡。
近年ほとんど交流のなかった家から二日続けて接触があれば、偶然だと片づけるには少々不自然だった。
「エレノア宛てか」
「はい」
執事が答える。
「差出人は?」
「封筒には、マルグリット・ロシュフォール様のお名前がございます」
「先代公爵夫人……?」
ロベルトの表情が変わった。
現公爵アルフォンスからではない。
その母であり、エレノアの祖母にあたるマルグリットからだった。
「開けたの?」
声がして、執務室へヴァレリアが入ってくる。
「まだだ」
「そう」
ヴァレリアは机の上の封筒を見つめた。
昨日から感じていた違和感が、さらに大きくなる。
贈り物だけならば、まだ分かる。
だが、その翌日に祖母から正式な手紙まで届いた。
(やっぱり、何かある)
ただし、それが何なのかは分からない。
ここで重要なのは、分からないものを勝手に決めつけないことだった。
「どうするの?」
「確認する」
「開けるの?」
「エレノア宛ての書簡は確認すると、本人にも伝えてある」
縁談を拒否した日のことを思い出したのだろう。
ロベルトは迷わなかった。
ペーパーナイフへ手を伸ばし、封を開ける。
ヴァレリアは止めなかった。
むしろ、内容を知りたかった。
便箋を取り出し、ロベルトが目を通す。
警戒していた表情が、途中で僅かに変わった。
「何と?」
「……招待だ」
「招待?」
「エレノアに会いたいらしい」
ヴァレリアが手を差し出す。
ロベルトは少し迷ってから便箋を渡した。
そこに書かれていた文章は、拍子抜けするほど穏やかなものだった。
間もなく誕生日を迎える孫娘へ。
長く顔を見られていないこと。
昨日届けた品を気に入ってくれたなら嬉しいということ。
久しぶりに一緒に茶を飲みたいこと。
もし都合がよければ、ロシュフォール公爵邸へ遊びに来てほしいこと。
そして最後には、オーギュストも会いたがっていると記されていた。
「普通の招待状ね」
ヴァレリアが言った。
「ああ」
「どうするつもり?」
「断る」
即答だった。
ヴァレリアは夫を見る。
「理由は?」
「今は時期が悪い」
「それを、あちらへどう説明するの?」
「第二王子殿下との縁談が進んでいる。準備もあると言えばいい」
「まだ正式な婚約は成立していないでしょう?」
ロベルトが黙る。
ヴァレリアは便箋を机へ戻した。
「あなたが受諾の返書を出したことと、婚約が正式に成立したことは同じではないわ。あちらもそれくらい知っているでしょう?」
「だから何だ」
「その状態で、誕生日が近い孫娘へ会いたいという祖父母の招待を、縁談の準備を理由に断るのは少し不自然よ」
「エレノアは俺の娘だ」
「ええ」
ヴァレリアは否定しなかった。
「でも、亡くなったアデライン様の娘でもあるわ」
その名前が出た瞬間、ロベルトの表情が硬くなる。
「ロシュフォール家から見れば、姪であり孫よ。しかも近年ほとんど会わせていない」
「会わせなかったわけではない」
「分かっているわ」
ヴァレリアは柔らかく返す。
「けれど、向こうからそう受け取られる可能性はあるでしょう?」
ロベルトは答えない。
ヴァレリアは夫を追い詰めるような言い方をしなかった。
彼女自身、エレノアをロシュフォール家へ行かせたいわけではない。
むしろ逆だった。
昨日の家令の言葉。
今日の招待状。
エレノアが何かを隠している可能性。
できることなら屋敷の中へ置いておきたい。
しかし、感情のまま拒絶してロシュフォール家の警戒を強める方が危険だった。
「断るなら、もっと自然な理由が必要よ」
「なら病気とでも言うか」
「昨日、家令が本人に会っているのに?」
ロベルトの眉が寄る。
「体調を崩したと言えばいい」
「それなら、お見舞いに来られるかもしれないわね」
「……」
「それに、エレノアが後から知ったら?」
「知る必要はない」
その答えに、ヴァレリアはすぐ反応しなかった。
少し考える。
「私は、知らせた方がいいと思うわ」
「なぜだ」
「昨日から、あの子は明らかにこちらを警戒しているもの」
ロベルトがヴァレリアを見る。
「今ここで手紙を隠したと分かれば、さらに頑なになる。第二王子殿下との縁談を受け入れさせたいのでしょう?」
「当然だ」
「なら、何もかも力で押さえるのは逆効果よ」
ヴァレリアは静かに微笑んだ。
「まず本人に読ませましょう。そのうえで、どうしたいか聞けばいいわ」
「どうしたいか?」
「行きたいと言うかどうかを見るの」
その一言で、ロベルトにも妻の意図が伝わった。
エレノアの反応を見る。
ロシュフォール家と何か通じているなら、そこに出るかもしれない。
「……分かった」
ロベルトは手紙を封筒へ戻した。
「呼べ」
◇ ◇ ◇
そのころエレノアは、自室の机の前に座っていた。
朝食を終えたあと、昨日と同じように箱を開いている。
まだ色は決めていない。
けれど今日は、最初に淡い青へ目が向いた。
(やっぱり、これが気になる)
指先で触れる。
柔らかな布地が肌を滑る。
昨日の夜にも綺麗だと思った。
朝の光の中で見ても、やはり綺麗だ。
もしかしたら、自分はこの色が好きなのかもしれない。
そう思ったとき、扉が叩かれた。
「エレノアお嬢様」
「はい」
「旦那様がお呼びです」
指が止まった。
胸の中にあった穏やかさが、一瞬で消える。
「お父様が?」
「はい。執務室へお越しになるようにと」
「……分かりました」
何だろう。
昨日のことか。
家令との会話について、ヴァレリアから何か聞いたのかもしれない。
(落ち着いて)
エレノアはリボンを箱へ戻した。
自分が何か悪いことをしたわけではない。
そう考えても、父に呼び出されたというだけで身体は強張る。
執務室の机。
低い声。
叩かれた机。
思わず腕を庇った自分。
記憶が重なり、右の上腕が痛むような錯覚を覚えた。
「……行きます」
立ち上がる。
廊下へ出て、執務室へ向かう。
一歩進むたびに、あの日の感覚が蘇る。
(でも、前とは違う)
あのときは、自分の拒絶がこの屋敷の外へ一つも出ていなかった。
今は違う。
叔父が知っている。
助けを求めたことを。
父が自分の意思を無視して婚姻を進めていることを。
その事実だけで、呼吸が少し楽になる。
執務室の前へ着いた。
扉を叩く。
「エレノアです」
「入れ」
父の声。
扉を開ける。
ロベルトだけではなかった。
ヴァレリアもいる。
二人の姿を見た瞬間、エレノアは警戒した。
「お呼びでしょうか」
「ああ。座れ」
一瞬、身体が固まる。
以前、同じ部屋で座るよう命じられたとき、自分は拒絶した。
今日はどうするべきか。
けれど、今は座ることそのものを拒む理由はない。
(言われたから座るんじゃない。話をするために、私が座る)
エレノアはそう考え、椅子へ腰を下ろした。
「これが届いた」
ロベルトが封筒を机の上へ置く。
見覚えのある紋章。
心臓が跳ねた。
ロシュフォール公爵家。
「私に、ですか?」
「ああ」
手を伸ばそうとして、止まる。
封が開いている。
それを見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
「……お読みになったのですね」
「お前宛ての書簡は確認すると言ったはずだ」
「はい」
分かっていた。
父は最初からそう宣言していた。
だから秘密の手紙を通常の経路で送れなかった。
それでも、自分宛ての手紙が先に開かれている光景を実際に見ると、胸が痛んだ。
「読みなさい」
ロベルトが封筒を差し出す。
エレノアは両手で受け取った。
便箋を開く。
最初の文字を見ただけで、目の奥が熱くなった。
祖母の字だった。
昔、誕生日や季節の節目に届いていた手紙。
まだ母が生きていたころ、贈り物へ添えられていた短い言葉。
幼い自分は何度も読んだ。
(お祖母様……)
ゆっくり読み進める。
誕生日。
昨日の贈り物。
久しぶりに顔を見たい。
一緒にお茶を飲みたい。
遊びに来てほしい。
祖父も会いたがっている。
難しい言葉は一つもなかった。
政治的な話もない。
ただ祖母が孫娘へ送った手紙だった。
それなのに。
最後まで読んだとき、エレノアの指先は震えていた。
「どうしたい?」
ヴァレリアの声。
エレノアは顔を上げる。
「え?」
「お祖母様からのご招待でしょう?」
ヴァレリアは優しく微笑んでいる。
「行きたい?」
あまりにも真っ直ぐな質問だった。
だからこそ、エレノアはすぐに答えられなかった。
父がいる。
ヴァレリアもいる。
ここで行きたいと言えば、どうなる。
警戒される。
断られるかもしれない。
ロシュフォール家との接触をさらに制限されるかもしれない。
頭の中にいくつもの可能性が浮かぶ。
以前なら、相手が望む答えを探した。
父がどう答えてほしいのか。
ヴァレリアが何を期待しているのか。
それを考え、自分の言葉を変えた。
今も、その癖は消えていない。
怖い。
けれど。
(私は、会いたい)
昨夜、自分でそう思った。
助けてほしいからだけではない。
祖父と祖母に。
叔父に。
セドリックに。
会いたい。
なら。
「行きたいです」
エレノアは答えた。
ロベルトの眉が寄る。
ヴァレリアの笑みは変わらない。
「ロシュフォール公爵家へ行きたいの?」
「はい」
「なぜだ」
今度は父だった。
エレノアは手紙を持つ指へ少し力を込めた。
「お祖父様とお祖母様に、長くお会いしていないからです」
「今でなければならないのか」
「招待してくださったのが今ですから」
「第二王子殿下との縁談が進んでいる」
その言葉だけで、胃の奥が縮む。
それでもエレノアは目を逸らさなかった。
「それと、お祖父様たちにお会いすることは関係ありません」
「関係ある。お前は今、自分の立場を理解するべき時期だ」
「私の立場とは何ですか?」
「またその話をするつもりか」
ロベルトの声が低くなる。
身体が反応する。
肩が強張り、指先が冷える。
けれど、エレノアは口を閉ざさなかった。
「私は、第二王子殿下との婚姻を望んでいません」
「その件はすでに――」
「お父様が返書を送ったことは知っています」
声が震えた。
それでも続ける。
「でも、それで私が望んだことにはなりません」
「エレノア」
ヴァレリアが柔らかく割って入る。
「今はお祖母様からの招待について話しているのよ」
「はい」
「だったら、縁談の話と混ぜない方がいいわ」
優しい言い方だった。
だが、エレノアには分かった。
話を切り離そうとしている。
父が縁談を理由に招待を断ろうとしているのに、自分が反論すると「別の話」になる。
(まただ)
ヴァレリアはいつも、言葉を整える。
怒鳴らない。
命令しない。
けれど最後には、自分の言葉が違う形へ変えられてしまう。
「では、招待のお話だけをします」
エレノアは一度息を吸った。
「私は、行きたいです」
それだけを言う。
余計な説明をしない。
ヴァレリアが僅かに目を細めた。
「……そう」
「はい」
「随分、ロシュフォール家へ会いたがるのね」
「家族ですから」
口にした瞬間、エレノア自身が驚いた。
家族。
その言葉をロシュフォール家へ使った。
昔なら当たり前だった。
母がいて、叔父がいて、祖父母がいて、セドリックがいて。
けれど母が亡くなってから、少しずつ遠くなった。
父から、もう別の家なのだと言われた。
母方の家族には母方の事情があるのだと。
自分はベルナール家の娘なのだから、いつまでもロシュフォール家を頼るべきではないのだと。
それを疑わなかった。
でも。
(家族でいても、いいんだ)
向こうは自分を忘れていなかった。
叔父は声を受け取った。
祖父母は会いたいと言ってくれた。
「お母様のご家族です」
エレノアは続けた。
「私にとっても、大切な家族です」
ロベルトの顔が硬くなる。
「お前はベルナール家の娘だ」
「はい」
「なら――」
「それと、ロシュフォール家の方々が私の家族であることは、両立しないのでしょうか」
ロベルトが言葉を止めた。
エレノア自身も、自分がここまで言えるとは思っていなかった。
心臓は痛いほど鳴っている。
逃げたい。
もう謝って終わらせたい。
それでも、膝の上にある祖母の手紙が指へ触れている。
それが支えになった。
「私は、お祖母様の招待を受けたいです」
もう一度、はっきり言った。
◇ ◇ ◇
沈黙が落ちた。
ロベルトは娘を見ていた。
数日前までなら、これほど明確に自分へ意見することはなかった。
縁談を告げた日から、急に変わった。
理由が分からない。
「誰かに何かを吹き込まれたのか」
その問いに、エレノアの表情が僅かに揺れた。
「いいえ」
「なら、なぜ急にそんな口を利くようになった」
胸が痛んだ。
そんな口。
ただ自分の希望を言っただけなのに。
(やっぱり、私は変なの?)
一瞬、そう思う。
けれどすぐに違うと考え直した。
叔父の家令は、自分が色を選べなくても待ってくれた。
祖母は会いたいと手紙をくれた。
マーサは自分が触れられることを怖がったとき、すぐに距離を取ってくれた。
自分の意思を示すことそのものを責めなかった人たちがいる。
(私が意見を言うことは、悪いことじゃない)
まだ完全には信じきれない。
それでも、その考えを手放したくなかった。
「自分で考えました」
「何を」
「私がどうしたいのかを、です」
ロベルトの顔から感情が消える。
「今までは考えていなかったと?」
「考えていたつもりでした」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
「でも、本当は……どうすれば怒られないかを考えていただけだったのかもしれません」
言ってから、自分の言葉に胸がざわついた。
思っていた以上に、それは自分の中へ深く刺さった。
父の顔色。
ヴァレリアの声。
ミレーヌの希望。
使用人たちの視線。
いつも誰かを見ていた。
自分ではなく。
「怒られないように?」
ロベルトの声が低くなる。
「誰がお前を怒らせるというんだ」
エレノアは息を止めた。
答えられなかった。
頭の中に何かが浮かびかける。
閉じた扉。
冷たい床。
腕を掴む指。
低い声。
何かを落とした音。
そして。
『何度言えば分かるの?』
身体が震えた。
右腕を左手で押さえる。
「エレノア?」
ヴァレリアの声。
その声を聞いた瞬間、浮かびかけた記憶が途切れた。
「……何でもありません」
反射的に答える。
息が浅い。
ロベルトは怪訝そうに見ている。
ヴァレリアは黙っている。
(今の、何……?)
分からない。
思い出そうとすると、身体の方が拒絶する。
胸が苦しい。
「顔色が悪いわ」
ヴァレリアが立ち上がりかける。
「触らないでください」
エレノアは咄嗟に言った。
ヴァレリアの動きが止まった。
室内が静まり返る。
エレノア自身も、自分の声に驚いた。
「……ごめんなさい」
すぐに謝罪が出る。
けれどヴァレリアは座り直さなかった。
半ば腰を浮かせた姿勢のまま、エレノアを見ている。
「どうしたの?」
「少し……驚いただけです」
「私が近づいただけで?」
答えられない。
右腕を押さえていることに気づき、慌てて手を離す。
遅かった。
ヴァレリアの視線がそこへ落ちた。
ほんの一瞬。
すぐに顔へ戻る。
「具合が悪いなら、今日は休んだ方がいいんじゃないか」
ロベルトが言った。
話を終わらせるつもりなのだろう。
そして、このままなら招待の話も流される。
(嫌だ)
怖い。
息もまだ整っていない。
それでも、ここで終わらせたくなかった。
「招待は」
エレノアは声を絞り出した。
「何?」
「お祖母様の招待は、どうなるのですか」
ロベルトが苛立ったように息を吐く。
「今のお前を外出させられると思うか」
胸が沈む。
「では、断るのですか」
「そう言っている」
「私が行きたいと言っても?」
「体調も悪いだろう」
「今、少し驚いただけです」
「無理をするな」
「無理ではありません」
「エレノア」
「行きたいです」
また言った。
声は震えている。
それでも言った。
「お祖母様に会いたいです」
「しつこいぞ」
ロベルトの声が強くなった。
身体が縮こまりそうになる。
そのとき。
「あなた」
ヴァレリアが静かに呼んだ。
ロベルトが妻を見る。
「行かせてもいいのではないかしら」
エレノアは耳を疑った。
「何?」
「ロシュフォール家へよ」
ヴァレリアはすでに座り直していた。
表情もいつもの穏やかなものへ戻っている。
「本人がこれだけ行きたがっているのだもの」
「お前まで何を言っている」
「ただし」
ヴァレリアはエレノアへ視線を向けた。
「一人で、とは言っていないわ」
胸の奥が冷える。
「私が同行します」
「……」
「それなら問題ないでしょう?」
ロベルトは黙った。
ヴァレリアが続ける。
「先代公爵夫妻からの招待を断る必要もない。エレノアの希望も叶えられる。私が一緒なら、体調が悪くなっても対応できるわ」
表向きは、何もおかしくない。
継母が十五歳の娘に付き添う。
むしろ自然だ。
(でも、それじゃ……)
叔父と話せない。
助けてほしい理由を説明できない。
痣のことも。
父のことも。
ヴァレリア自身についても。
「どう?」
ヴァレリアがエレノアへ微笑む。
「それなら行けるわよ」
試されている。
エレノアは直感した。
ここで嫌だと言えば、なぜヴァレリアと一緒では駄目なのかを問われる。
何か秘密があると認めるようなものだ。
(どうする?)
行かなければ、話せない。
行けば、ヴァレリアがいる。
それでも。
ロシュフォール公爵邸へ入ることはできる。
叔父がいる。
セドリックがいる。
祖父母もいる。
(叔父様は、私の手紙を読んでいる)
向こうも、自分と話す必要があると分かっているはずだ。
なら。
全部を自分一人で何とかしようとしなくてもいい。
「……分かりました」
エレノアは答えた。
「お義母様と一緒に参ります」
ヴァレリアの目が僅かに動く。
「それでいいのね?」
「はい」
怖くないわけではない。
それでも、会える。
「ありがとうございます、お父様」
ロベルトは不満そうだったが、最終的に頷いた。
「先方へ返事を出す。日取りはこちらの都合もあるから、今日中に調整させる」
「はい」
「もう下がりなさい」
エレノアは立ち上がった。
祖母の手紙を持ったまま、扉へ向かう。
「エレノア」
ヴァレリアに呼び止められた。
振り返る。
「手紙はお部屋へ持っていっていいわ」
エレノアは手元を見る。
返すよう言われると思っていた。
「……ありがとうございます」
頭を下げ、執務室を出た。
扉が閉まる。
廊下を数歩進んだところで、ようやく大きく息を吐いた。
足が震えている。
壁へ手をつきたくなるのを堪え、ゆっくり歩く。
(行ける)
ロシュフォール家へ。
祖父母に会える。
叔父に会える。
セドリックにも。
ヴァレリアが同行する。
だから何も解決していない。
むしろ難しくなったかもしれない。
それでも、閉じられていた屋敷の外へ出られる。
自分が助けを求めた場所へ、自分自身が行ける。
それは確かな前進だった。
◇ ◇ ◇
エレノアが退室したあと、ロベルトはすぐヴァレリアを見た。
「なぜ行かせる」
「言ったでしょう? 断る方が不自然だからよ」
「それだけか」
「もちろん、それだけではないわ」
ヴァレリアはあっさり認めた。
「確かめたいの」
「何を」
「エレノアとロシュフォール家の間に、何があるのか」
ロベルトの表情が険しくなる。
「やはり、何かあると思うのか」
「分からないわ」
ヴァレリアは首を振る。
「だから確かめるのよ」
「エレノアに聞けばいい」
「聞いて、素直に答えると思う?」
ロベルトは黙った。
「今のあの子は、私たちに何かを隠している」
ヴァレリアは先ほどのやり取りを思い返す。
家族。
自分で考えた。
どうすれば怒られないかを考えていただけ。
そして、自分が近づいた瞬間の反応。
――触らないでください。
あの言葉。
(あれは何?)
単なる反抗には見えなかった。
エレノアは明らかに怯えていた。
しかも右腕を庇った。
ヴァレリアは目を細める。
「どうした」
「いいえ」
今は言わない。
まだ確かめていない。
「ロシュフォール家へ行けば分かることもあるでしょう」
「向こうで余計なことを話されたらどうする」
「だから私が同行するの」
「ずっと側にいろ」
「そのつもりよ」
ヴァレリアは微笑んだ。
「エレノアを一人にはしないわ」
◇ ◇ ◇
自室へ戻ったエレノアは、扉が閉じると同時に寝台へ腰を下ろした。
張り詰めていたものが一気に緩む。
祖母の手紙を胸へ抱く。
「……怖かった」
今度は、自分の感情を誤魔化さなかった。
怖かった。
父の声が強くなったとき。
ヴァレリアが近づいたとき。
右腕を押さえてしまったとき。
そして、浮かびかけた記憶。
(何だったんだろう)
考えようとすると、胸がざわつく。
無理に思い出したくない。
けれど、自分の身体がヴァレリアを怖がった。
その事実は残っている。
銀色の光が現れる。
『戻ったのね』
「クロノア」
小さな神霊が姿を現した。
『どうしたの?』
「招待状が来たの」
『招待状?』
「お祖母様から」
エレノアは手紙を見せる。
「ロシュフォール家へ来ないかって」
『よかったじゃない』
「うん」
頷く。
けれど笑えなかった。
『何かあった?』
「お義母様も一緒に来ることになった」
『ああ』
クロノアも事情を察したらしい。
「どうしよう」
口から出たあと、エレノアは止まった。
また答えを求めようとした。
「……違う」
『何が?』
「自分で考える」
エレノアは手紙を膝へ置いた。
ヴァレリアが同行する。
自由に話せない。
それは困る。
でも、行くこと自体を諦める必要はない。
叔父は事情を知っている。
家令も、昨日ヴァレリアが同席していたことを見ている。
なら、自分と二人で話す機会が必要だと考えている可能性は高い。
(私は、行けばいい)
そこから先は、その場で考える。
全部を今ここで決める必要はない。
「行く」
エレノアは言った。
『うん』
「お義母様が一緒でも、私は行く」
『それが答え?』
「うん」
少しだけ力を込めて頷く。
「だって、会いたいから」
その言葉を口にした瞬間、胸の中にあった不安の形が少し変わった。
怖いから行くのではない。
逃げるためだけでもない。
会いたい人に会うために行く。
それも、自分が選んだ理由だった。
◇ ◇ ◇
午後になり、ベルナール伯爵家からロシュフォール公爵家へ返書が送られた。
招待を受ける意思があること。
エレノアの体調と予定を考慮し、日程を調整したいこと。
そして、伯爵夫人ヴァレリアが付き添う予定であること。
書簡がロシュフォール公爵邸へ届いたのは、日が西へ傾き始めたころだった。
アルフォンスは執務室でそれを受け取った。
「返事が来た?」
同席していたセドリックが椅子から身を乗り出す。
「ああ」
アルフォンスが封を開く。
読み進める。
途中で眉間に皺が寄った。
「どうしました?」
「招待は受けるそうだ」
セドリックの表情が明るくなる。
「なら――」
「ヴァレリアも来る」
そこで止まった。
「……なるほど」
セドリックは椅子へ背を戻した。
「簡単にはいきませんね」
「最初から分かっていたことだ」
アルフォンスは返書を机へ置く。
「むしろ来ると言っただけましだ」
「どうします?」
「何がだ」
「エレノアと二人で話す方法です」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
ヴァレリアが同行する以上、エレノアから離れようとしない可能性がある。
無理に引き離せば警戒される。
だが、本人が助けを求めている以上、誰にも聞かれず話せる時間は絶対に必要だった。
「祖母上に任せますか?」
セドリックが言った。
「母上に?」
「招待したのは祖母上です。久しぶりに孫娘と二人で話したいと言っても、不自然ではないでしょう」
「ヴァレリアが断るかもしれない」
「なら僕が伯爵夫人の相手をします」
アルフォンスが息子を見る。
「お前が?」
「駄目ですか?」
「何を話す」
「何でも。社交界のことでも、最近の王都のことでも」
「十八歳のお前が三十八歳の伯爵夫人を長時間引き止められると思うか」
「父上よりは警戒されないと思いますけど」
「それはそうだが」
セドリックは少し笑った。
「僕が無理なら、父上も使います」
「俺はついでか」
「公爵なんですから働いてください」
「お前、最近遠慮がなくなったな」
「エレノアのことなので」
その答えに、アルフォンスは何も言えなくなった。
しばらくして、扉が叩かれる。
「入れ」
現れたのはマルグリットだった。
「返事が来たの?」
「母上、どうして」
「使者が戻ったと聞いたから」
アルフォンスは諦めて返書を差し出した。
マルグリットは急いで読み、最初は安堵した表情を浮かべた。
しかし最後まで読むと眉を寄せる。
「伯爵夫人も来るのね」
「はい」
「そう」
返書を丁寧に畳む。
「なら、来てもらいましょう」
「母上?」
「何?」
「嫌がるかと思いました」
「嫌よ」
即答だった。
「でも、嫌だから来るなと言える立場ではないでしょう」
「それはそうですが」
「それに」
マルグリットは息子と孫を交互に見た。
「エレノアと二人で話す時間が欲しいのでしょう?」
二人とも黙った。
「顔に書いてあるわ」
マルグリットは小さく息を吐く。
「私がエレノアを庭へ連れていくわ」
「庭へ?」
「昔、あの子が好きだった場所があるの」
その言葉に、セドリックの表情が変わる。
「東の庭ですか?」
「ええ」
マルグリットの顔が少しだけ柔らかくなる。
「アデラインが子供のころから好きだった庭よ。エレノアも小さいころ、よくあそこで遊んでいたでしょう?」
「覚えています」
セドリックが頷く。
「噴水の近くで、よく転びそうになってました」
「あなたが走らせるからよ」
「僕のせいだったんですか?」
「半分くらいは」
短いやり取りのあと、マルグリットは表情を戻した。
「久しぶりだから、昔の庭を見せたい。孫娘と二人で歩きたい。そう言えばいいでしょう?」
「ヴァレリアが同行すると言ったら?」
「断るわ」
「母上」
「喧嘩はしないわよ」
マルグリットは息子の警戒を察したらしい。
「ただ、祖母と孫で話したいことがあると言うだけ。伯爵夫人がそれでもついてくるなら、そのとき考えましょう」
「分かりました」
アルフォンスは頷いた。
「ただし、エレノアへいきなり全部を聞かないでください」
「分かっているわ」
「助けてほしい理由を問い詰めるようなことも」
「アルフォンス」
マルグリットが静かに息子を呼んだ。
「私は、あの子のお祖母ちゃんよ」
「……はい」
「三年近くまともに会えていなかった孫が来るの。最初に聞きたいことは、そんなことじゃないわ」
マルグリットは返書へ視線を落とした。
「ちゃんと顔を見て、元気だったかと聞きたい。それだけよ」
その声に、アルフォンスはそれ以上何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
日程の調整は、その日のうちに進められた。
ロシュフォール側が提示したのは二日後の午後。
昼食を終えたころにベルナール伯爵邸を出れば、余裕を持って到着できる時間だった。
夕方まで茶を楽しみ、日が落ちる前に帰る。
表向きは、ただの親族訪問。
ベルナール家側にも拒む理由はなく、ロベルトは最終的に了承した。
夕食の席でそれを告げられたエレノアは、思わず顔を上げた。
「二日後、ですか?」
「ああ」
ロベルトが答える。
「午後からだ」
「……はい」
「ヴァレリアも行く。勝手な行動はするな」
胸の奥に小さな痛みが走る。
せっかく行けるのに、最初に言われるのがそれなのか。
けれどエレノアは反論しなかった。
「分かりました」
「お姉様、いいなあ」
ミレーヌが向かいから言う。
「私も行きたかった」
エレノアは少し驚いた。
「ミレーヌも?」
「だって公爵家でしょう? お屋敷もすごく大きいんでしょう?」
「ミレーヌ」
ヴァレリアが娘を窘める。
「遊びに行くのとは違うのよ」
「分かってるけど」
ミレーヌは少し唇を尖らせた。
「お姉様ばっかりずるい」
その言葉に、エレノアの身体が反応した。
譲らなければ。
そう思った。
自分だけが行くから、ミレーヌが嫌な思いをする。
だったら自分が――。
(違う)
エレノアは膝の上で手を握った。
祖母が招待したのは自分だ。
母アデラインの娘である自分へ、会いたいと言ってくれた。
それをミレーヌへ譲ることはできない。
そもそも譲る必要もない。
「ごめんなさい」
口から出た。
言った瞬間、自分で気づく。
なぜ謝ったのだろう。
ミレーヌも不思議そうにしている。
「なんで謝るの?」
「……そうね」
エレノアは少し考えた。
「謝ることではなかったわ」
「え?」
「お祖母様が私を招待してくださったから、私は行ってくるわ」
ミレーヌが瞬きをする。
「うん……」
「帰ってきたら、お屋敷がどんなところだったか話すわね」
「本当?」
「ええ」
それならミレーヌも納得したらしい。
すぐに笑顔へ戻った。
エレノアは小さく息を吐く。
謝らなくてよかった。
譲らなくてもよかった。
誰かが羨ましがったからといって、自分が持っているものを手放さなければならないわけではない。
ほんの小さなこと。
それでも、エレノアには大きなことだった。
◇ ◇ ◇
夜。
自室へ戻ったエレノアは、机の上に祖母からの手紙を置いた。
二日後。
あと二日で会える。
嬉しい。
怖い。
その二つが胸の中に同時にある。
(何を話そう)
婚約を断りたいことは、手紙に書いた。
父が自分の意思を無視して返書を送ったことも。
外出と手紙を制限されたことも。
けれど、それ以外はほとんど書いていない。
何を書けばいいのか分からなかったからだ。
身体の痣。
食事。
使用人のように扱われたこと。
母の形見。
それらを「助けを求めるほどのこと」と考えたことがなかった。
今も、まだ分からない。
(叔父様に見せるの?)
右腕へ視線を落とす。
袖の下。
まだ完全には消えていない痣がある。
古い痕もある。
見せれば、何があったのか聞かれる。
(私が失敗したから)
いつもの答えが浮かぶ。
その瞬間、別の疑問も生まれた。
(失敗したら、殴られるのは普通なの?)
答えが分からない。
今まで疑問にすら思わなかった。
失敗した。
怒らせた。
言うことを聞けなかった。
だから仕方ない。
そう思っていた。
けれどマーサは、自分が触れられることを怖がったとき、怒らなかった。
家令は、自分が色を選べなくても急かさなかった。
祖母は、自分へ会いたいと書いてくれた。
もし自分が彼らの前で何かを失敗したら。
(殴られる?)
想像できなかった。
アルフォンスが自分を殴る姿。
セドリックが。
祖父が。
祖母が。
どれも記憶の中の姿と結びつかない。
「……どうして?」
声が漏れた。
銀色の光が現れる。
クロノアだった。
『何が?』
「失敗したら、怒られるでしょう?」
『場合によるんじゃない?』
「じゃあ、殴られるのは?」
クロノアが黙った。
エレノアはその反応を見る。
『エレノア』
「うん」
『誰かに、そう言われたの?』
「何を?」
『失敗したら殴られて当然だって』
エレノアは答えようとした。
けれど言葉が出ない。
誰に言われた。
分からない。
言葉として教えられたのかも覚えていない。
ただ、そういうものだと思っていた。
「……覚えてない」
『そう』
「でも、私が悪かったから」
口にした瞬間。
クロノアが否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、いつもより静かな声で尋ねる。
『あなたは、何をしたの?』
「え?」
『殴られたとき。何をしたの?』
エレノアは記憶を探した。
胸がざわつく。
思い出したくない。
けれど、一つだけ浮かんだ。
「……お皿を割った」
小さな声。
「たぶん」
『お皿を?』
「うん」
白い皿。
床。
割れた音。
足元へ散った破片。
誰かの声。
『何度言えば分かるの?』
身体が硬くなる。
「ごめんなさい」
反射的に言った。
『エレノア?』
「ごめんなさい、ごめんなさい。ちゃんと持ってたつもりだったの。でも、手が滑って――」
『今、謝らなくていいわ』
クロノアの声で、エレノアは瞬きをした。
自室。
机。
祖母の手紙。
今は皿など持っていない。
「……あ」
息を吐く。
手が震えていた。
『無理に思い出さなくていい』
「うん」
『二日後に全部話さなくてもいい』
「でも」
『話したいことだけ話せばいいんじゃない?』
エレノアは黙った。
それも、自分で選んでいいのだろうか。
どこまで話すか。
何を見せるか。
何をまだ話さないか。
「……そうね」
エレノアは祖母の手紙へ触れた。
「全部じゃなくてもいいのよね」
『私はそう思うわ』
「うん」
今度は、その答えを借りるのではなく、自分の中でも確かめる。
全部を話せなければ助けてもらえないわけではない。
まず会う。
一つ話す。
それから、もう一つ。
できるところまででいい。
エレノアは手紙を丁寧に畳み直した。
◇ ◇ ◇
二日後に着ていく服を決めようと思ったのは、そのあとだった。
衣装棚を開く。
いつもの服が並んでいる。
どれも問題はない。
けれどエレノアは、ふと机の上の箱を見た。
まだ仕立てていない布は使えない。
リボンなら。
髪へ結ぶことができる。
エレノアは箱を開いた。
いくつもの色の中から、淡い青へ指を伸ばす。
昨日も気になった。
今朝も最初に目が向いた。
今も綺麗だと思う。
(だったら)
これでいいのかもしれない。
いや。
これがいい。
エレノアは淡い青のリボンを持ち上げた。
「これにする」
『決めたの?』
クロノアが尋ねる。
「うん」
『どうして青?』
エレノアは少し考えた。
母が好きだったから。
昔の思い出があるから。
空の色だから。
理由はいくつか思いつく。
けれど最後には、少し笑った。
「綺麗だと思ったから」
『それだけ?』
「それだけ」
答えてから、胸が少し軽くなる。
「それでいいんでしょう?」
『あなたが決めたならね』
エレノアはリボンを胸元へ抱いた。
二日後。
これをつけていこう。
叔父とセドリックが、自分に選ばせるために贈ってくれたもの。
その中から、自分で初めて「これがいい」と選んだ色。
まだ人生の行き先までは選べない。
父との関係をどうするのかも。
ベルナール家を出られるのかも。
第二王子との縁談を完全に止められるのかも。
何一つ分からない。
それでも。
好きな色を一つ選ぶことはできた。
会いたい人に会いたいと言うこともできた。
嫌な婚姻を嫌だと言うこともできた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
自分の人生が、自分の手の中へ戻り始めている。
エレノアは淡い青のリボンを、祖母から届いた手紙の隣へ置いた。
二日後。
ロシュフォール公爵家へ行く。
ヴァレリアが隣にいても。
父から勝手な行動をするなと言われていても。
今度こそ、自分の口で話す。
すべてでなくてもいい。
まず一つ。
自分が嫌だったことを。
怖かったことを。
そして。
帰りたくないと思ったなら、その気持ちも。
エレノアは窓の外へ目を向けた。
夜の向こうにあるロシュフォール公爵邸では、彼女が訪れるための準備が始まっている。
ベルナール家では、ヴァレリアが彼女を一人にしないつもりでいる。
どちらも、まだ相手がどこまで動くのかを知らない。
ただ一つ確かなのは、二日後。
エレノアは三年近く遠ざかっていた母方の家族と、再び同じ場所で向き合う。
今度は、何も言えない子供としてではなく。
自分の人生を取り戻すために、助けを求めた一人の少女として。




