第7話 会って、話を聞くために
昼を過ぎても、エレノアは贈られた布とリボンを片づけられずにいた。
窓から差し込む光は朝より明るくなり、机の上へ並べた色を柔らかく照らしている。淡い青、深い青、若草色、薄紫、柔らかな黄色、薔薇色、白、銀灰色。どれも上質な品だったが、今のエレノアにとって大切なのは、その値段でも美しさでもなかった。
好きなものを、自分で選んでいい。
今すぐ決められなくてもいい。
それを叔父と従兄が、自分へ贈ってくれた。
(叔父様は、私の手紙を読んだ)
何度確かめても、胸の奥が熱くなる。
家令の言葉を思い出す。
――叔父様は、お嬢様のお声を確かに受け取りました。
手紙をマーサへ渡したときは、これほど先のことまで想像できなかった。
途中で見つかるかもしれない。
届けてもらえないかもしれない。
届いたとしても、アルフォンスが自分を覚えているのか分からない。
助けてほしいなどと突然頼んで、困らせるだけかもしれない。
不安はいくつもあった。
それでも手紙は届いた。
返事を求めず、危険なことをしなくていいとまで伝えてくれた。
(待っていてもいいんだ)
何もせず従うのとは違う。
自分が助けを求めた結果を、信じて待つ。
今までのエレノアには、その違いすらよく分かっていなかった。
『まだ決めないの?』
机の端から声がした。
銀色の淡い光が集まり、小さなクロノアが姿を現す。
エレノアは薄紫のリボンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「何を?」
『色』
「決めないわ」
『朝もそう言っていたわね』
「ええ。今日いっぱいは迷うことにしたの」
そう答えると、クロノアは不思議そうに首を傾げた。
『迷いたいの?』
「……そう言われると変ね」
エレノアは思わず笑った。
けれど、少し考えてから頷く。
「たぶん、迷いたいんだと思う」
『どうして?』
「今まで、迷う前に決まっていたから」
言葉にしたことで、自分でも腑に落ちた。
服も、食事も、外出も、勉強も、付き合う相手も。
すべてを奪われていたわけではない。
伯爵令嬢として必要なものは与えられていたし、選択肢らしきものを示されたことだってある。
けれど振り返れば、その多くには最初から「正しい答え」が用意されていた。
ヴァレリアがこちらの方が似合うと言えば、それを選んだ。
父が必要だと言えば従った。
ミレーヌが欲しそうにすれば譲った。
相手が喜ぶ答えを探すことに慣れすぎて、自分の好みを探す時間など持ったことがなかった。
「だから、今日は迷ってみる」
エレノアは淡い青の隣にある若草色へ触れた。
「これも綺麗だし、こっちも好きかもしれない。明日になったら違うものが良く見えるかもしれないでしょう?」
『それで困らないなら、いいんじゃない?』
「困らないわ。だって、急がなくていいって言われたもの」
口にすると、また少し嬉しくなった。
クロノアが机の上を歩きながら、並べられたリボンを眺める。
『私は銀が好きよ』
「あなた、自分が銀色だからじゃない?」
『だから好きなのよ』
「そういう決め方でもいいのね」
『好きに理由が必要なの?』
何気ない問いだった。
けれどエレノアは答えられなかった。
好きに理由が必要なのか。
嫌いに理由が必要なのか。
レオナードとの婚約を拒絶したとき、父は理由を求めた。
家に利益がある。
皇族との縁談は名誉だ。
断る理由などない。
だから受け入れるべきだと言われた。
(でも、私は嫌だった)
未来を知っているからだけではない。
もう二度とあの人の隣に立ちたくない。
あの腕の中で守られていたミレーヌを見ながら、自分だけが処刑台へ送られた記憶を忘れることなどできない。
けれど、たとえその記憶がなかったとしても。
結婚したくないと言うだけでは足りないのだろうか。
「……理由がなくても、嫌なものは嫌でいいのかな」
『私に聞いている?』
クロノアがエレノアを見る。
その視線に気づき、エレノアは少し困ったように笑った。
「また答えをもらおうとしてたわね」
『少しね』
「じゃあ、自分で考える」
エレノアは椅子の背へ身体を預け、窓の外へ目を向けた。
庭師が低木の枝を整えている。
少し離れたところでは二人の侍女が洗った布を運んでいた。
穏やかな昼下がり。
ここだけ見れば、何もおかしなことなどない。
「理由があってもなくても、嫌だと言っていいと思う」
しばらくしてから、エレノアは言った。
「相手に迷惑をかけることなら、説明が必要なときもあるでしょうけど……自分の結婚くらい、自分が嫌だと思ったことを理由にしてもいいはずよ」
『それがあなたの答え?』
「今はね」
『なら、覚えておけばいいわ』
「ええ」
エレノアは頷いた。
答えは、これから変わるかもしれない。
けれど今、自分で考えて出した答えだった。
それだけでよかった。
◇ ◇ ◇
同じころ、ベルナール伯爵邸の別の一室では、ヴァレリアが侍女に茶を淹れさせていた。
白い磁器のカップから湯気が上がり、甘い花の香りが室内へ広がっている。いつもなら好んで飲む茶だったが、今日は一口飲んだところでカップを置いた。
「今朝、公爵家の家令が来たことは、どのくらいの使用人が知っているの?」
問いかけられた侍女が、少し考えて答える。
「正門の者と、玄関にいた者、それから応接室へ品を運んだ者は存じております。公爵家の紋章がございましたので、他にも見かけた者はいるかと」
「そう」
「何か問題がございましたか?」
「いいえ。親戚から誕生日の贈り物が届いただけよ」
ヴァレリアは微笑んだ。
「大げさにすることではないわ」
「かしこまりました」
「下がっていいわ」
侍女が一礼して退室する。
扉が閉じると、ヴァレリアの笑みが消えた。
(偶然にしては、出来すぎている)
エレノアが第二王子との縁談を拒んだ。
ロベルトへ逆らった。
その日のうちに使用人区画へ足を運んだ。
翌日、ロシュフォール家との連絡について尋ねれば、何もないと答えた。
そして今朝、公爵家の家令が自らやって来た。
ただの誕生日祝い。
そう考えることはできる。
エレノアの誕生日が近いことも事実だ。
叔父が姪へ贈り物をするのもおかしくない。
けれど。
(お声を確かに受け取りました、ね)
あの言葉が引っかかる。
家令の説明にも不自然な点はなかった。
長く疎遠だった姪へ、叔父が気にかけていることを伝えた。
それだけだと言われれば、それ以上追及できない。
何より、ロシュフォール公爵家の家令だ。
伯爵夫人である自分が、言葉尻だけを捉えて問い詰める相手ではない。
ヴァレリアは指先でカップの縁をなぞった。
(エレノアは何かを隠している)
それは、ほぼ間違いない。
問題は何を隠しているか。
ロシュフォール家とすでに連絡を取ったのか。
それとも別の誰かがエレノアの様子を伝えたのか。
だが、ここで屋敷中の使用人を問い詰めるのは得策ではない。
何もなければ、ただ自分たちがエレノアを警戒していると周囲へ知らせるだけになる。
それに。
(公爵家が何かを知っているのだとしたら、こちらが慌てれば余計に怪しまれる)
ヴァレリアは、感情だけで動く女ではなかった。
ロベルトなら、エレノアを部屋から出すなと言うかもしれない。
使用人を片端から問い詰めるかもしれない。
けれど高位貴族との付き合いは、それほど単純ではない。
ロシュフォール公爵家は伯爵家より遥かに格上だ。
エレノアの母方の血縁でもある。
理由もなく姪との接触を拒み続ければ、むしろ疑われる。
(まずは、見る)
誰がエレノアへ近づくのか。
エレノアが誰を頼るのか。
そして、ロシュフォール家が次に何をするのか。
焦って手を出すより、その方がいい。
ヴァレリアは再びカップを持ち上げた。
今度はゆっくり茶を口へ運ぶ。
その表情には、すでにいつもの穏やかな伯爵夫人の笑みが戻っていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、家令からの報告を受けたあとも、アルフォンスとセドリックが執務室に残っていた。
窓の外では午後の陽射しが傾き始めている。机の上にはエレノアの手紙と、家令が口頭で伝えた内容を簡潔に書き留めた紙が置かれていた。
「本人には会えた」
アルフォンスは椅子へ深く腰を下ろしたまま、もう一度確認するように言った。
「こちらの言葉も伝わった。それはよかった」
「ええ」
向かいに座るセドリックも頷く。
「でも、伯爵夫人が同席していた」
「ああ」
「エレノアは自由に話せなかった」
「おそらくな」
アルフォンスは眉間へ指を当てた。
少なくともエレノアが無事であることは確認できた。
顔色が極端に悪いわけでもない。
目に見える怪我もなかった。
だが、それで安心できる状況ではない。
本人は助けを求めている。
それだけで、何かがあることは確かだ。
「父上」
「何だ」
「エレノアをここへ招くのは?」
「俺も考えた」
アルフォンスは机から手紙を取る。
「だが、普通に招待状を出してロベルトが断れば、それで終わる」
「なら、断りにくい理由を作る」
「例えば?」
「祖父上か祖母上を使う」
アルフォンスの眉が動いた。
「どういう意味だ」
「言葉が悪かったですね。祖父上か祖母上から、孫娘に会いたいと言ってもらうんです」
「……それは、確かにロベルトも断りにくい」
現ロシュフォール公爵からの招待であれば、政治的な意図を疑う余地がある。
しかし、先代公爵夫妻が亡き娘の忘れ形見である孫へ会いたいと申し出るなら、表向きは純粋な親族交流だ。
しかも近年疎遠だったからこそ、誕生日を機に久しぶりに会いたいという理由も自然に成立する。
「ただし」
アルフォンスが低く続ける。
「父上と母上に話さなければならない」
「当然でしょう」
「母上が手紙を読んだらどうなると思う」
セドリックは少し考えた。
「泣きますね」
「父上は?」
「怒ります」
「そのあと?」
「二人ともベルナール家へ行くと言うでしょうね」
親子は揃って黙った。
容易に想像できる。
マルグリットは孫娘を長く気にかけている。
オーギュストも口数こそ少ないが、エレノアへの愛情は深かった。
助けを求める手紙を見せれば、冷静でいられるとは思えない。
「でも、隠し続けるわけにもいかないでしょう」
セドリックが言う。
「分かっている」
「それに、父上」
「何だ」
「僕たちだけで抱え込むのも、少し違うと思います」
アルフォンスが息子を見る。
「エレノアが助けを求めた相手は父上です。でも、あの子には祖父と祖母もいる。二人とも、エレノアが困っていると知れば力になりたいと思うはずです」
「……ああ」
「僕だって、知らされなかったら怒ります」
「お前は今日知っただろう」
「だから言えるんです」
セドリックは苦笑した。
「父上が一人で全部やろうとしていたら、僕はたぶん父上にも腹を立てていました」
アルフォンスはしばらく息子を見たあと、小さく息を吐いた。
「分かった」
決断する。
「今夜、父上と母上を呼ぶ」
「はい」
「ただし、最初に釘を刺す。勝手にベルナール家へ行くな、と」
「聞いてくださるといいですね」
「聞かせる」
アルフォンスの声には自信がなかった。
セドリックもそれを察したらしく、少しだけ笑った。
久しぶりに親子の間へ柔らかな空気が戻る。
けれど、それも長くは続かなかった。
「招待が通ったとして」
セドリックが表情を戻す。
「エレノアがここへ来たあと、どうします?」
「まず本人と話す」
「それは決めましたね」
「ああ。何があったのか。なぜ助けを求めたのか。何を望んでいるのか」
アルフォンスは一つずつ確認する。
「そして、エレノアが帰りたくないと言った場合だ」
「……ロベルトは、連れ戻そうとするでしょう」
「当然だ」
まだ十五歳。
法的にはベルナール伯爵家の娘である。
母方の公爵家だからといって、本人の意思だけでそのまま留め置けば揉める。
「だから、その前に準備する」
アルフォンスは机の上に置かれた別の書類へ手を伸ばした。
「ロベルトが第二王子との縁談をどこまで進めているのか。エレノアに対して何をしているのか。法的にこちらが介入できる事情があるのか」
「調査を続ける?」
「ああ」
「虐待を疑っているんですか?」
セドリックの問いに、アルフォンスはすぐ答えなかった。
「まだ、そこまで言うつもりはない」
やがて慎重に言葉を選ぶ。
「家令が見た範囲では、目立った怪我はない。衣服も整っていた。食事を与えられていないとも、暴力を受けているとも、エレノアは一言も書いていない」
「はい」
「俺たちが先に答えを作れば、本人の話を聞く意味がなくなる」
セドリックが頷く。
「ただ」
アルフォンスの視線が手紙へ落ちる。
「父親へ婚姻を拒否した結果、外出と書簡を制限され、秘密の経路を使ってまで助けを求めた。それだけでも、放っておく理由にはならない」
「同感です」
「まず会う」
アルフォンスは言った。
「本人が何を話すかは、そのあとだ」
それが今の段階でできる、最も確かなことだった。
◇ ◇ ◇
夕食前。
エレノアは自室から食堂へ向かっていた。
廊下の角を曲がったところで、向こうからマーサが歩いてくるのが見えた。
胸が跳ねる。
マーサもエレノアに気づいた。
二人の距離は十歩ほど。
近くには若い侍女が一人、花瓶を抱えて歩いている。
(話さない)
昨日決めた。
今は近づかない。
エレノアは歩みを止めなかった。
マーサも同じだった。
やがて距離が縮まる。
「お嬢様」
マーサが他の使用人と同じように端へ寄り、頭を下げた。
「マーサ」
エレノアも、それだけ返す。
すれ違う。
何も言わない。
手紙が届いたことも。
ありがとうも。
叔父が動いてくれたことも。
伝えたいことはいくつもあった。
けれど振り返らない。
数歩進んだところで、後ろから若い侍女の声が聞こえた。
「マーサさん、その布はどちらへ?」
「西棟の客室よ。明日までに交換しておくよう言われているの」
いつも通りの声だった。
エレノアは歩きながら、胸の奥でそっと息を吐いた。
(ありがとう)
声にはしない。
今はそれでいい。
いつか、安全に言えるときが来たら伝えればいい。
◇ ◇ ◇
夕食では、ロベルトが朝の訪問について尋ねてきた。
「ロシュフォール家から贈り物が来たそうだな」
「はい」
「何だった」
「布とリボンです。好きなものを選んで仕立てるようにと」
「そうか」
それだけだった。
エレノアは少し拍子抜けする。
ヴァレリアがすでに説明していたのかもしれない。
「珍しいな」
ロベルトは料理を切り分けながら続ける。
「あちらから家令まで寄越すとは」
エレノアの手が止まりそうになる。
けれど、そのまま食事を続けた。
「私も驚きました」
「何か話したのか?」
「お祖父様とお祖母様がお元気だと聞きました。叔父様とセドリック兄様からの贈り物だとも」
「それだけか」
ヴァレリアと同じ問い。
エレノアは父を見る。
「はい」
嘘をついている。
正確には、すべてを話していない。
胸の奥に罪悪感が浮かびかける。
(でも、言わなくていい)
自分を守るための秘密だ。
マーサを守るためでもある。
それをすべて父へ話す義務はない。
「お姉様、何色にするの?」
ミレーヌが興味深そうに尋ねる。
「まだ決めていないわ」
「えっ、まだ?」
「ええ」
「私なら薔薇色かな。あ、でも薄紫も可愛かった?」
「見たの?」
「お母様から聞いたの」
ミレーヌは楽しそうに笑う。
「いいなあ。私も選びたい」
その一言に、エレノアの指が止まった。
一瞬だけ。
箱を譲るべきなのではないか、という考えが浮かんだ。
昔からそうだった。
ミレーヌが欲しがる。
ヴァレリアが「お姉様なのだから」と笑う。
父が揉めるなと言う。
そして自分が譲る。
そうすれば場が収まった。
「ミレーヌ」
ヴァレリアが娘を見る。
「エレノアへの贈り物よ」
「分かってるよ。ちょっと言っただけ」
「そう」
ミレーヌは悪びれず食事へ戻る。
エレノアは黙っていた。
今のところ、誰も譲れとは言っていない。
それでも身体は先に身構えた。
(私、最初から渡すことを考えた)
欲しいと言われただけで。
まだ何も求められていないのに。
それが、自分でも少し怖かった。
「エレノア?」
ロベルトの声に顔を上げる。
「何だ」
「いえ。何でもありません」
反射的に答えたあとで、胸の奥に引っかかる。
何でもない。
大丈夫。
すみません。
自分は、こういう言葉をどれだけ使ってきたのだろう。
けれど今は、食卓で説明する必要のあることでもない。
エレノアは自分を責めるのをやめた。
言わないことを選ぶのと、言えないことは違う。
その違いも、少しずつ覚えていけばいい。
◇ ◇ ◇
夜。
ロシュフォール公爵邸の小さな居間には、四人が集まっていた。
アルフォンス。
セドリック。
そして、先代ロシュフォール公爵オーギュストと、その妻マルグリット。
「それで?」
六十代半ばのオーギュストが、低い声で言った。
「急に呼び出しておいて、何の話だ」
引退して数年経つが、かつて帝国有数の公爵家を率いていた男の威厳は少しも衰えていない。
隣に座るマルグリットも、穏やかな表情ながら息子の様子を注意深く見ていた。
「エレノアのことです」
アルフォンスが言った。
マルグリットの表情が変わる。
「エレノア?」
「はい」
「何かあったの?」
「まず、これを読んでください」
アルフォンスは手紙を差し出した。
「ただし、その前に一つ約束してください」
オーギュストが眉を寄せる。
「何だ」
「読み終わっても、今夜ベルナール家へ行かないでください」
「……何が書いてある」
「先に約束を」
「アルフォンス」
「父上」
親子の視線がぶつかる。
やがてオーギュストが深く息を吐いた。
「分かった」
「母上も」
「ええ」
マルグリットはすでに不安そうだった。
「約束するわ」
アルフォンスは手紙を渡した。
最初にオーギュストが読み、途中からマルグリットも横から覗き込む。
部屋が静かになる。
時計の針が進む音だけが聞こえた。
やがて。
「……何よ、これ」
マルグリットの声が震えた。
アルフォンスは何も言わない。
「どういうことなの」
手紙を受け取ったマルグリットが、最後まで読む。
その目が潤んでいく。
「助けてくださいって……」
指先が震えていた。
「この子が、こんなことを書くまで、何があったの」
「まだ分かりません」
アルフォンスが答える。
「今日、家令をベルナール家へ送りました。エレノア本人には会えています」
「なら、どうして連れてこなかったの!」
マルグリットの声が強くなる。
すぐに自分でも気づいたのか、口元へ手を当てた。
「……ごめんなさい。でも」
「分かっています」
「エレノアは無事なの?」
「見た範囲では」
「見た範囲って何よ」
マルグリットは立ち上がりかけ、オーギュストがその手を取った。
「座れ」
「でも、あなた」
「アルフォンスの話を最後まで聞く」
低い声だった。
マルグリットは夫を見る。
しばらくして、ゆっくり座り直した。
オーギュストはアルフォンスへ視線を戻す。
「説明しろ」
アルフォンスはこれまで分かっていることだけを話した。
第二王子との縁談。
エレノアが拒絶したこと。
ロベルトがその意思を無視して受諾返書を送ったこと。
外出と書簡を制限されていること。
手紙が通常の経路ではなく、市場の商会を経由して届いたこと。
そして今日、家令がエレノア本人へ接触し、こちらが手紙を受け取ったことを伝えたこと。
「……ロベルト」
オーギュストが呟いた。
声を荒らげてはいない。
むしろ静かだった。
だからこそ、アルフォンスには父が激怒していることが分かった。
「婚姻を拒否した娘を閉じ込めて、手紙まで見るのか」
「本人の手紙では、自室への完全な監禁とは書かれていません。屋敷内は動けています」
「言葉の問題ではない」
「分かっています」
「なら、明日迎えに行く」
「父上」
「約束したのは今夜行かないことだ」
セドリックが思わず顔を伏せた。
アルフォンスは額を押さえたくなった。
「そういう意味で約束させたんじゃありません」
「知るか」
「あなた」
今度はマルグリットが夫を止めた。
「私だって今すぐ迎えに行きたいわ。でも、アルフォンスの話を聞きましょう」
オーギュストは不満そうだったが、黙った。
「母上」
アルフォンスが続ける。
「お願いがあります」
「何?」
「エレノアを、この屋敷へ招いてください」
マルグリットが目を瞬く。
「私が?」
「はい」
「どうしてあなたではなく?」
「俺が今この時期に突然招けば、ロベルトは警戒する可能性がある。今日すでに家令を送っています」
「私なら違うの?」
「亡くなった娘の子に、誕生日が近いから会いたい。祖母がそう願うのは不自然ではありません」
マルグリットは黙った。
アルフォンスが続ける。
「祖父母からの招待なら、ロベルトも表立って断りにくい。エレノアがここへ来れば、ベルナール家の者がいない場所で本人の話を聞けます」
「それで、エレノアが帰りたくないと言ったら?」
問いかけたのはオーギュストだった。
アルフォンスは父を見る。
「帰しません」
マルグリットが息を呑む。
「そのための準備を始めています」
「できるの?」
「簡単ではありません。今のエレノアはベルナール伯爵家の娘です。ロベルトが引き渡しを求めれば、血縁だけを理由にこちらが無条件で拒否できるとは限らない」
「だから本人から事情を聞くのね」
「はい」
アルフォンスは頷いた。
「婚姻を強制されていること以外に何があるのか。それを本人の言葉で聞く必要があります」
マルグリットは膝の上で手を握った。
「この手紙だけでは駄目なの?」
「助けを求めていることは十分分かります。でも、俺たちはまだ、あの子が何から助けてほしいのかを全部知らない」
その言葉に、部屋が静かになる。
「勝手に決めたくありません」
アルフォンスはゆっくり続けた。
「これまで大人が、あの子のためだと言いながら何かを決めてきた結果が今なら、俺たちまで同じことをしてはいけない」
マルグリットは俯いた。
やがて手紙へ目を落とす。
「……そうね」
涙を拭う。
「まず、エレノアに聞きましょう」
「お願いします」
「招待状は、私が書くわ」
アルフォンスの肩から少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
「でも」
マルグリットは顔を上げた。
その表情には、先ほどまでの涙とは違う強さがあった。
「ロベルトが断ったら、次は私も大人しくしていないわよ」
「そのときは俺も止めません」
「ならいいわ」
オーギュストが鼻を鳴らす。
「最初からそうしろ」
「父上は、まず待ってください」
「分かっている」
まったく納得していない顔だった。
セドリックが小さく息を吐く。
けれど、ようやく一歩進んだ。
エレノアをこの屋敷へ呼ぶ。
そして本人から話を聞く。
救い出すためではなく、まず何を望んでいるのかを知るために。
◇ ◇ ◇
同じ夜。
エレノアは寝台へ入る前に、もう一度机の上の箱を開いた。
昼間と同じ色が並んでいる。
けれど、夜の灯りの下では少し違って見えた。
エレノアは一つずつ眺めたあと、淡い青のリボンを手に取った。
しばらく見つめる。
(綺麗)
今度は、その感想を否定しなかった。
母が好きだったからでも。
セドリックが昔、青い髪飾りを贈ってくれたからでもない。
今、自分が見て。
綺麗だと思った。
「これが好きなのかもしれない」
まだ「好き」と言い切るのは少し怖い。
明日になれば違うものを選びたくなるかもしれない。
だからリボンは箱へ戻した。
今日は、それでいい。
蓋を閉めたところで、エレノアはふと窓の外を見た。
暗い庭。
その向こうに、ここからは見えない町がある。
さらにその先に、ロシュフォール公爵家がある。
そこに叔父がいる。
セドリックがいる。
祖父と祖母もいる。
(会いたい)
今朝より、はっきりそう思った。
助けてほしいだけではない。
会いたかった。
自分を覚えていてくれた人たちに。
もう一度。
家族と呼んでもいいかもしれない人たちに。
「叔父様」
誰にも聞こえない声で呟く。
「私、ちゃんと話せるかな」
何を話せばいいのか、まだ分からない。
婚約のこと。
父のこと。
ヴァレリアのこと。
身体に残る痣のこと。
食事のこと。
それらを「大したことではない」と思ってきた自分自身のこと。
どこまで話せるか分からない。
話そうとした瞬間、怖くなって何も言えなくなるかもしれない。
それでも。
(会えたら、今度は「大丈夫」だけで終わらせない)
そう決めた。
すべてを一度に話せなくてもいい。
一つだけでもいい。
自分に起きたことを、自分の言葉で誰かへ伝える。
それができたら。
何かが、また変わるかもしれない。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
彼女はまだ知らない。
同じ夜、ロシュフォール公爵邸で祖母マルグリットが机へ向かい、何度も書き直しながら一通の招待状をしたためていることを。
そこに難しい政治の言葉はなかった。
婚約のことも、助けを求める手紙のことも書かれていない。
ただ、長く会えていなかった孫娘へ向けて。
誕生日が近いから、久しぶりに顔を見たい。
あなたと一緒にお茶を飲みたい。
もしよければ、こちらへ遊びに来てほしい。
そう記されていた。
翌朝、その手紙はロシュフォール公爵家の正式な封蝋を施され、ベルナール伯爵家へ送られることになる。
今度の手紙は、隠す必要のない道を通って。




