第6話 あなたの声は、届いている
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降るほどではないものの、陽射しは弱く、庭の木々もどこか色を失って見える。窓を少し開ければ冷たい風が入り込み、遠くでは使用人たちが朝の仕事を始める音が聞こえていた。
何も変わらない朝だった。
少なくとも、エレノアにはそう見えた。
昨日と同じ部屋で目を覚まし、昨日と同じ屋敷で一日を始める。
父ロベルトが皇室側へ出した返書は、もう自分の手が届かないところまで進んでいるだろう。
自分がアルフォンスへ送った手紙も、どこにあるのか分からない。
市場へ着いたのか。
商会へ渡ったのか。
途中で誰かに見つかったのか。
あるいは、もうロシュフォール公爵家へ届いているのか。
(考えても分からない)
そう理解していても、思考は同じところへ戻ってしまう。
エレノアは寝台の上で膝を抱えそうになり、途中でやめた。身体を丸めれば少し安心できる気がしたものの、朝からそうしてしまえば、このまま一日中ここから動けなくなりそうだった。
「起きよう」
誰に言うでもなく呟き、ゆっくり足を床へ下ろした。
今日は侍女が来る前に、自分でできるところまで身支度をしてみようと思った。
昨日は着替えを手伝われることが怖くて、一人にしてほしいと頼んだ。
あれが正しかったのかは分からない。
けれど少なくとも、自分がどうしたいかを言えた。
(今日も、それでいい)
できることを一つずつ。
全部を一度に変えようとしなくていい。
そう思いながら衣装棚を開き、並んでいるドレスを見る。
そこで、エレノアは動きを止めた。
淡い灰色。
薄い茶色。
深緑。
くすんだ青。
どれも伯爵令嬢としておかしなものではない。
けれど。
(私は、どれが好きだったんだろう)
ふと浮かんだ疑問に、自分で戸惑った。
服を選ぶとき、これまでは何を基準にしていただろう。
ヴァレリアが決めたもの。
侍女が用意したもの。
場に相応しいと言われたもの。
派手すぎないもの。
ミレーヌより目立たないもの。
そこまで考えたところで、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(最後のは……誰に言われたんだっけ)
思い出せない。
けれど、そうしなければならないと思っていた。
自分から何かを選んだ記憶が、驚くほど少ない。
エレノアは衣装棚の前でしばらく迷ったあと、くすんだ青のドレスへ手を伸ばした。
好きだからではない。
ただ、今日はこれにしようと思った。
それだけだった。
けれど自分で選んだという事実が、少しだけ不思議に感じられた。
◇ ◇ ◇
朝食は昨日より静かだった。
ロベルトは届いた書類に目を通しながら食事を取り、ミレーヌは新しい刺繍についてヴァレリアへ話している。エレノアも必要以上に口を開かず、目の前のパンを少しずつ食べていた。
昨日ヴァレリアから受けた問いかけが、まだ頭に残っている。
誰か好きな相手がいるのか。
誰かから何かを言われたのか。
ロシュフォール家から連絡があったのではないか。
あれは偶然ではない。
ヴァレリアは、自分が急に変わった理由を探している。
(マーサには近づかない)
昨日決めたことを、もう一度胸の中で確認する。
今は余計な動きをしない。
手紙について誰にも聞かない。
叔父から何かが返ってくる可能性だけを期待して、怪しまれるようなことをしてはいけない。
「お姉様、そのドレス珍しいね」
ミレーヌの声に、エレノアは顔を上げた。
「そう?」
「うん。最近あまり着てなかったでしょう?」
言われて自分の袖を見る。
「そうだったかしら」
「その色、ちょっと地味だってお母様が言ってたから」
エレノアの手が止まった。
ヴァレリアへ視線を向ける。
「あら」
ヴァレリアは困ったように笑った。
「そんな言い方をしたかしら。あなたには、もっと明るい色の方が似合うと思っただけよ」
「そうでしたか」
「気に障った?」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
けれど、胸の中には今の言葉を残した。
地味だと言われた。
だから着なくなった。
自分でそう判断したつもりだったのか、それともヴァレリアの言葉をそのまま自分の好みだと思い込んでいたのか。
まだ分からない。
「今日は、それが着たかったので」
エレノアがそう言うと、ヴァレリアの目が僅かに細くなった。
「そう」
それ以上は何も言わない。
けれどエレノアには、その短い返事の中に観察されているような感覚があった。
以前なら、すぐ別の服へ着替えた方がいいのかと不安になったかもしれない。
今も不安がないわけではない。
それでも今日は、自分でこれを選んだ。
食事を終えるまで、エレノアは着替えたいとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
朝食が終わって間もなく、ベルナール伯爵邸の正門へ一台の馬車が到着した。
側面にはロシュフォール公爵家の紋章が刻まれている。
門番がそれを確認した瞬間、姿勢を正した。
公爵家。
それも、この屋敷の長女エレノアの母方にあたる家だ。
近年ほとんど行き来がなかったとはいえ、無下に扱える相手ではない。
馬車から降りたのは、五十代半ばほどの男だった。
髪には白いものが混じっているが、背筋は真っ直ぐに伸びている。派手さのない服装にもかかわらず、長く高位貴族の家へ仕えてきた者特有の落ち着きがあった。
「ロシュフォール公爵家より参りました」
家令は門番へ名乗り、後ろの馬車へ視線を向けた。
「エレノア・ベルナールお嬢様へ、公爵閣下よりお届け物がございます」
門番は一瞬だけ戸惑った。
「エレノアお嬢様へ、でございますか?」
「左様です」
「少々お待ちください」
「もちろんです」
家令は急かさなかった。
門番の一人が屋敷へ走る。
やがて報告は執事へ渡り、そこからロベルトへ届いた。
◇ ◇ ◇
「ロシュフォール家から?」
執務室で報告を受けたロベルトは、書類から顔を上げた。
「はい。家令殿がお越しです」
「用件は」
「エレノアお嬢様への贈り物を届けに来られたとのことです」
ロベルトの眉が僅かに寄った。
「贈り物?」
「少し早い誕生日のお祝いだと」
ロベルトは黙った。
不自然ではない。
母方の叔父が姪へ誕生日の贈り物を送る。
それ自体には何の問題もない。
ただし。
「なぜ、今年に限って家令本人が来る」
呟く。
近年、ロシュフォール家との交流はほとんどない。
贈答品が届くこと自体は過去にもあったが、家令が直接持参するのは珍しい。
「あなた」
声がして、ロベルトが顔を上げる。
いつの間にか執務室の扉のところにヴァレリアが立っていた。
「聞いたのか」
「ええ。廊下が少し慌ただしかったものですから」
ヴァレリアは室内へ入り、扉を閉める。
「ロシュフォール公爵家からですって?」
「ああ」
「エレノアへ?」
「誕生日の贈り物だそうだ」
ヴァレリアはすぐには答えなかった。
昨日。
エレノアへロシュフォール家から連絡があったのかと尋ねた。
エレノアは「ありません」と答えた。
あれが嘘だったのか。
それとも、本当に偶然なのか。
「どうするの?」
「贈り物だけ受け取ればいい」
「家令は?」
「帰ってもらう」
ヴァレリアは少し考えた。
「それは、かえって不自然ではなくて?」
「何がだ」
「公爵家の家令がわざわざ来たのよ。本人へ祝いの言葉くらい伝えたいと言われたら、会わせない理由を聞かれるでしょう?」
ロベルトの表情が険しくなる。
「エレノアは今、反省させている」
「それをロシュフォール家へ説明するの?」
穏やかな問いだった。
ロベルトが黙る。
「第二王子殿下との縁談を嫌がったので、自室を中心に過ごさせています、と?」
「……」
「今はまだ、あちらに余計なことを知られない方がいいと思うわ」
ヴァレリアは夫の向かいへ座った。
「会わせればいいのよ」
「何?」
「私も同席するわ」
その言葉に、ロベルトが妻を見る。
「ただの誕生日祝いなら、それで終わるでしょう?」
「もし違ったら?」
「だから私がいるの」
ヴァレリアは微笑んだ。
「エレノアが何を話すのか、聞いていればいいでしょう?」
ロベルトはしばらく考えた。
やがて執事へ命じる。
「応接室へ通せ」
「かしこまりました」
「エレノアも呼べ。ただしヴァレリアが同席する」
「承知いたしました」
執事が退室する。
ヴァレリアはその背中を見送りながら、ゆっくりと指を組んだ。
(昨日の今日で、ロシュフォール家から使者……)
偶然だろうか。
エレノアが何かをしたのか。
まだ分からない。
だからこそ、見なければならない。
自分の目で。
◇ ◇ ◇
「私に……?」
自室で呼び出しを受けたエレノアは、侍女の言葉を理解するまで数秒かかった。
「はい。ロシュフォール公爵家の家令様がお見えです」
心臓が跳ねた。
すぐに顔を伏せる。
「どうして?」
「少し早いお誕生日のお祝いをお持ちくださったそうです」
「誕生日……」
偶然。
そう考えるには、あまりにも時期が良すぎる。
手紙を出した。
その翌々日の朝に、叔父の家から家令が来た。
(届いたの?)
期待が一気に込み上げる。
けれど、すぐに抑えた。
まだ分からない。
以前から予定されていた贈り物かもしれない。
たまたま今日届いただけかもしれない。
「お嬢様?」
「……ごめんなさい。行くわ」
立ち上がる。
足元が少し頼りない。
廊下へ出ると、侍女が先導する。
応接室へ向かうあいだ、エレノアは何度も呼吸を整えた。
(期待しすぎないで)
もし違ったら。
ただの贈り物だったら。
落胆した顔をヴァレリアに見られるかもしれない。
それに、もし本当に手紙が届いていたとしても、叔父の家令がそれを口にするとは限らない。
父に知られれば終わる。
(普通にしないと)
そう思うほど身体が固くなる。
応接室の前へ着いた。
侍女が扉を開ける。
「エレノアお嬢様でございます」
中へ入った瞬間、エレノアはまずヴァレリアを見つけた。
ソファに座っている。
父はいない。
そして、その向かいには見覚えのある男が立っていた。
幼いころ。
ロシュフォール公爵邸を訪れたときに何度も見た顔。
当時より白髪は増えている。
それでも忘れてはいない。
「……ご無沙汰しております、エレノアお嬢様」
家令が深く頭を下げた。
その声を聞いた瞬間。
記憶が蘇った。
母と一緒にロシュフォール家へ行った日。
玄関で迎えてくれた人。
走って転びそうになった自分へ、慌てず手を差し出してくれた人。
叔父に抱き上げられて困っていると、笑いを堪えながら見ていた人。
「……お久しぶりです」
声が震えそうになる。
エレノアはゆっくり頭を下げた。
「お元気そうで何よりでございます」
「あなたも」
そこでヴァレリアが口を挟む。
「立ったままでは何でしょう。エレノア、座りなさい」
「はい」
隣へ座る。
ヴァレリアとの距離は近い。
家令が何を言うのか、すべて聞こえる位置だった。
「本日は突然の訪問となりましたこと、まずお詫び申し上げます」
「いいえ」
ヴァレリアが応じる。
「ただ、少し驚きましたわ。最近はあまり行き来もございませんでしたから」
「仰る通りでございます」
家令の表情は変わらない。
「公爵閣下も、その点を気にかけておられました」
ヴァレリアの目が僅かに動いた。
「まあ」
「間もなくエレノアお嬢様のお誕生日でございますので、今年は少し早めにお祝いを届けたいと」
「叔父様が……?」
思わず声が出た。
家令がエレノアを見る。
「はい。公爵閣下とセドリック様、お二人からでございます」
セドリック。
その名前にも胸が揺れた。
幼いころ、兄のように遊んでくれた従兄。
「こちらを」
家令の合図で、同行していた従僕が箱を運び込む。
思っていたより大きい。
テーブルの上へ置かれ、蓋が開けられた。
中に入っていたのは、完成したドレスでも装飾品でもなかった。
上質な布地。
そして色とりどりのリボンや飾り紐。
淡い青。
深い青。
若草色。
薄紫。
柔らかな黄色。
薔薇色。
白。
銀灰色。
華美すぎないものを中心に、いくつもの色が並べられている。
エレノアは意味が分からず、家令を見る。
「これは……?」
「セドリック様からのご提案でございます」
「セドリック兄様が?」
幼いころの呼び方が、自然に口から出た。
家令の目元がほんの少しだけ和らぐ。
「はい」
「何を作るの?」
「それを、エレノアお嬢様にお選びいただきたいとのことでございます」
「私が?」
「お好きな色をお選びください」
エレノアは動けなかった。
好きな色。
朝、自分が考えていたことと同じだった。
「……どれでも?」
「もちろんでございます」
「でも、何に使うか決まっていないのでしょう?」
「お嬢様がお選びになったものに合わせて、職人へ仕立てさせる予定でございます。ドレスでも、羽織物でも、小物でも構わないと」
「私が決めるの?」
「はい」
当たり前のように言われる。
エレノアは箱の中を見る。
選んでいい。
どれでも。
好きなものを。
それだけのことなのに、指が動かない。
(好きな色って、何?)
分からなかった。
昔は青が好きだった気がする。
母が青いドレスを着ていたから。
空が綺麗だったから。
セドリックからも青い髪飾りをもらった。
けれど。
今も好きなのか。
分からない。
「迷っているの?」
隣からヴァレリアの声がした。
「エレノアなら、淡い色がいいんじゃないかしら。薔薇色なんて可愛いわよ」
エレノアの視線が、反射的に薔薇色へ向く。
「そうですね」と言いかけた。
けれど。
止まった。
家令は何も言わない。
急かさない。
薔薇色を勧めることも、ヴァレリアへ同意することもしない。
ただ待っている。
「……今、決めなくてもいいですか?」
エレノアは尋ねた。
「もちろんでございます」
即答だった。
「え?」
「本日決める必要はございません」
家令は穏やかに続ける。
「公爵閣下からも、急かす必要はないと申しつかっております。エレノアお嬢様がご自分でお選びになりたいと思われたときに、お選びください」
胸の奥が熱くなる。
選べと言われた。
けれど、今すぐ選べとは言われない。
自分で。
自分が選びたいときに。
(そんなことでいいの?)
好きな色がすぐ分からなくても。
迷っても。
時間をかけても。
誰にも怒られない。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。
「大切にします」
「まだ選んでもいないでしょう?」
ヴァレリアが笑う。
冗談めかした口調だった。
エレノアも小さく笑おうとした。
「そうですね」
けれど自分にとっては、もう大切だった。
布そのものではない。
選んでいいと言われたことが。
◇ ◇ ◇
その後も、家令はロシュフォール家の近況を簡単に話した。
オーギュストもマルグリットも元気であること。
セドリックが最近、アルフォンスの仕事を手伝う機会を増やしていること。
屋敷の庭に、今年も花が咲いたこと。
どれも何でもない話だった。
それなのにエレノアは、胸が苦しくなるほど懐かしかった。
「お祖父様とお祖母様も……お元気なのですね」
「はい。お二人とも変わらずお過ごしです」
「そう……」
最後に会ったのはいつだっただろう。
記憶の中の祖父母は、今よりずっと若い。
マルグリットは会うたびに髪を撫でてくれた。
オーギュストは無口だったけれど、自分が好きだと言った菓子を次に訪ねたとき必ず用意してくれた。
(会いたい)
そう思った。
はっきりと。
けれど口にはできない。
隣にはヴァレリアがいる。
家令も、それを分かっているのだろう。
救援要請の手紙については、一言も触れない。
「では、長居をしてもご迷惑でしょうから」
家令が立ち上がった。
「もうお帰りに?」
思わず尋ねてしまった。
ヴァレリアがこちらを見る。
エレノアはすぐに表情を整えた。
「せっかく来てくださったので、もう少しお話を聞きたかっただけです」
「ありがたいお言葉でございます」
家令は頭を下げる。
「また機会もございましょう」
また。
その言葉だけで、胸の奥に小さな希望が灯る。
家令がヴァレリアへ向き直った。
「伯爵夫人。本日は突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、素敵な贈り物をありがとうございます。主人にも伝えておきますわ」
「お願いいたします」
家令はもう一度エレノアへ頭を下げた。
「エレノアお嬢様」
「はい」
「最後に、公爵閣下から一言お預かりしております」
心臓が跳ねた。
ヴァレリアの視線が家令へ向く。
「叔父様から?」
「はい」
家令は何も慌てない。
あくまで姪へ祝いを届けに来た使者として、穏やかな表情を保っている。
「公爵閣下は、こう仰っておりました」
ほんの僅かな間。
エレノアは無意識に息を止めた。
「――叔父様は、お嬢様のお声を確かに受け取りました、と」
世界から音が消えたように感じた。
ヴァレリアが僅かに眉を動かす。
「声?」
エレノアは答えられない。
喉が塞がった。
手紙。
届いた。
(届いたんだ)
叔父が読んだ。
あの言葉を。
助けてください、と書いた自分の声を。
手が震えそうになる。
膝の上で指を重ね、必死に押さえた。
「どういう意味かしら?」
ヴァレリアが笑顔のまま尋ねる。
家令は少しも動揺しなかった。
「昔から公爵閣下は、エレノアお嬢様からのお便りやお話を楽しみにしておられましたので」
「最近、何かお話を?」
「いいえ」
家令は自然に答える。
「だからこそでございます」
ヴァレリアの目が細くなる。
「どういうこと?」
「長らく直接お話しする機会がございませんでした。それでも、エレノアお嬢様が何を好まれ、どのようにお過ごしなのか、叔父として気にかけている。そのお気持ちを、公爵閣下なりの言葉で表されたのでございましょう」
嘘ではない。
けれど、本当の意味を知るのはエレノアだけだった。
「そういうことでしたか」
ヴァレリアが微笑む。
納得したように見える。
けれどエレノアには分かった。
納得していない。
きっと覚えている。
この言葉を。
あとで自分へ尋ねるかもしれない。
それでも。
(届いた)
その事実だけは、もう誰にも奪えない。
「エレノアお嬢様」
家令が静かに呼ぶ。
エレノアは顔を上げた。
視線が合う。
家令の表情は、昔と同じように穏やかだった。
「お返事は必要ございません」
その一言に、エレノアの胸がさらに詰まった。
返事をしなくていい。
今ここで何かを伝えようとしなくていい。
危険を冒さなくていい。
叔父はもう受け取っている。
「……はい」
それだけ答える。
「ありがとうございます」
家令は深く頭を下げた。
「では、失礼いたします」
部屋を出ていく。
扉が閉まった。
エレノアは、その扉を見つめたまま動けなかった。
◇ ◇ ◇
「エレノア」
ヴァレリアの声で、現実へ引き戻された。
「はい」
「随分、嬉しそうね」
笑っている。
けれど目は笑っていない。
「久しぶりに叔父様たちの話を聞けたので」
「そう」
「お祖父様とお祖母様もお元気だと分かりました」
「それだけ?」
胸の奥が冷たくなる。
「それだけ、とは?」
「最後の言葉よ」
やはり来た。
「お声を受け取った、と仰っていたでしょう?」
「はい」
「何のことかしら」
「家令が説明していた通りではないのですか?」
エレノアはできるだけ不思議そうに答えた。
「私にも、それ以上は分かりません」
「本当に?」
「はい」
ヴァレリアがじっと見つめてくる。
視線を逸らしたくなる。
それでも、エレノアは耐えた。
(知られていない)
もし手紙の存在を知っているなら、こんな尋ね方はしない。
ヴァレリアは疑っている。
だから反応を見ている。
「昨日、私は聞いたわよね」
「何をですか?」
「ロシュフォール家から連絡があったのかと」
「はい」
「あなたは、ないと答えた」
「ありませんでしたから」
それも嘘ではない。
エレノアから送っただけで、向こうから連絡はなかった。
今日までは。
「今日、突然家令が来た」
「私も驚きました」
「本当に偶然かしら」
「私には分かりません」
ヴァレリアの微笑みが少しだけ薄くなる。
「最近のあなた、随分と言葉を選ぶようになったわね」
エレノアの肩が僅かに強張った。
それでも答えなかった。
何を言っても、さらに探られる。
なら、言う必要のないことは言わない。
「まあ、いいわ」
ヴァレリアは立ち上がった。
「贈り物は、いったん私が預かるわね」
エレノアの顔が上がった。
「どうしてですか?」
「高価な布でしょう? きちんと管理しておいた方がいいもの」
「私の誕生日の贈り物です」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
ヴァレリアも僅かに目を見開いた。
エレノアは箱へ視線を向ける。
「叔父様とセドリック兄様が、私に選ぶようにと贈ってくださったものです」
「分かっているわ。でも――」
「私の部屋へ置いてはいけませんか?」
声が少し震えた。
怖い。
こんなことで逆らっていいのかという感覚が、身体の奥から湧き上がる。
それでも。
(渡したくない)
理由は自分でも分かっていた。
これはただの布ではない。
自分で選んでいいと言われたもの。
迷ってもいいと言われたもの。
自分の意思を尊重してもらえた証だった。
「なくしたり、汚したりしないように気をつけます」
「そういう問題ではなくてね」
「では、どういう問題ですか?」
言ったあとで、胸が跳ねた。
ヴァレリアの表情が一瞬だけ消えた。
けれど、すぐにいつもの微笑みへ戻る。
「……本当に、変わったわね」
エレノアは何も答えなかった。
「いいわ」
意外な言葉だった。
「持っていきなさい」
「いいのですか?」
「あなたへの贈り物だもの」
ヴァレリアは笑う。
「ただ、色を決めたら私にも教えてね。仕立てるなら相談に乗るわ」
「ありがとうございます」
エレノアは頭を下げた。
ヴァレリアが部屋を出ていく。
その足音が遠ざかってから、エレノアはようやく息を吐いた。
勝ったとは思わない。
ヴァレリアは譲っただけだ。
そして、間違いなく自分を疑っている。
それでも贈り物は手元に残った。
◇ ◇ ◇
自室へ戻ると、エレノアは侍女へ箱を机の近くに置いてもらった。
「ありがとう。少し一人にしてもらえる?」
「かしこまりました」
扉が閉まる。
静かになる。
エレノアは箱の前へ座った。
蓋を開ける。
色とりどりの布やリボンが並んでいる。
指先を伸ばし、最初に淡い青へ触れた。
柔らかい。
次に深い青。
若草色。
薄紫。
一つずつ触ってみる。
選ばなくていい。
今日でなくてもいい。
その言葉を思い出す。
「届いたんだ……」
誰もいない部屋で、ようやく口にできた。
途端に視界が滲んだ。
今度は「朝だから」では誤魔化せない。
「叔父様に……届いた」
涙が頬を伝った。
声を上げて泣くほどではない。
ただ、次から次へと溢れてくる。
エレノアは慌てて拭った。
泣いているところを誰かに見られたら困る。
そう思ったところで、手が止まる。
(今は、一人だ)
誰も見ていない。
なら。
少しくらい泣いてもいいのではないか。
エレノアは手を下ろした。
涙が頬を流れるままにする。
処刑台では、誰も信じてくれなかった。
父は目を逸らした。
レオナードはミレーヌを抱き寄せた。
群衆は自分を人殺しと呼んだ。
最後まで無実だと言っても、声は届かなかった。
けれど今。
自分が書いた「助けて」は。
届いた。
「……よかった」
震える声が漏れる。
銀色の光が、机の端へ集まった。
クロノアが姿を現す。
『届いたのね』
「うん」
エレノアは泣きながら笑った。
「叔父様が、受け取ったって」
『よかったわね』
「うん」
もう一度頷く。
「返事はいらないって」
『そう』
「何もしなくていいって。危ないことをして返事をしなくても……もう届いてるって」
言葉にするたび、安心が現実になっていく。
クロノアは何も急かさなかった。
エレノアが落ち着くまで、机の端へ座っている。
しばらくして、涙が少し収まった。
「でも、ヴァレリアは疑ってる」
『気づいたの?』
「手紙のことまでは知らないと思う。でも、叔父様の言葉を気にしてた」
エレノアは目元を拭う。
「気をつけないと」
『うん』
「マーサにも、まだ会わない」
『それもあなたが決めたのね』
「うん」
昨日までなら、不安になるたびクロノアへ正解を聞いていた。
今も聞きたくなる。
けれど少しずつ、自分で決められることが増えている。
エレノアは箱へ視線を戻した。
「それにしても……」
『何?』
「好きな色って、どうやって決めるの?」
クロノアが瞬きをする。
『好きなものを選べばいいんじゃない?』
「その好きなものが分からないの」
『難しいのね、人間は』
「私も今、そう思ってる」
エレノアは少し笑った。
淡い青のリボンを持ち上げる。
綺麗だと思う。
けれど、昔好きだったから今も好きだと決めなくていい。
薔薇色も綺麗。
若草色も嫌いではない。
薄紫も落ち着く。
「今日は決めない」
『そうなの?』
「うん」
リボンを元へ戻す。
「だって、今すぐ決めなくていいって言われたから」
そう言ってから、エレノアは少しだけ嬉しくなった。
選ばないことも、自分で選べる。
そんな当たり前のことを、十五歳になった二度目の人生で初めて知った気がした。
◇ ◇ ◇
一方。
ベルナール伯爵邸を出たロシュフォール家の馬車の中で、家令は窓の外を眺めていた。
屋敷が見えなくなったところで、ようやく小さく息を吐く。
エレノアには会えた。
伝言も伝えられた。
しかし。
(随分、お変わりになった)
幼いころのエレノアしか知らない。
それでも違和感はあった。
顔色は極端に悪くない。
衣服もきちんとしている。
目立つ傷も見えなかった。
伯爵令嬢として表面上は何もおかしくない。
だからこそ、気になった。
家令が入室したとき、エレノアはまずヴァレリアを見た。
贈り物を前にしても、すぐ手を伸ばさなかった。
好きな色を選んでいいと伝えたとき、喜ぶより先に困惑した。
そして何より。
今決めなくてもいいと言ったときの顔。
まるで、選ばなくても怒られないことに驚いているようだった。
(考えすぎかもしれない)
家令は自分へ言い聞かせる。
アルフォンスからも命じられている。
想像で決めつけるな。
本人が話していないことを、こちらで勝手に作るな。
だから、見たことだけを伝える。
それでいい。
馬車がロシュフォール公爵邸へ到着したのは、昼前だった。
家令が執務室へ入ると、アルフォンスとセドリックが揃って待っていた。
「どうだった」
アルフォンスが、挨拶より先に尋ねる。
「エレノアには会えたのか?」
「はい」
家令が答える。
アルフォンスの肩から、僅かに力が抜けた。
セドリックも息を吐く。
「伝言は?」
「お伝えできました」
「反応は」
家令は少し考えた。
「泣きそうなお顔をされました」
アルフォンスの表情が止まる。
「……そうか」
「ただし、伯爵夫人が同席しておりましたので、お嬢様は何も仰いませんでした」
「ヴァレリアが」
「はい」
セドリックが眉を寄せる。
「父親は?」
「ロベルト伯爵は同席しておりません」
「贈り物は渡せたか?」
「はい。最終的には、お嬢様のお手元へ置かれることになりました」
「最終的には?」
アルフォンスが聞き返す。
家令は、ヴァレリアが一度預かろうとしたこと。
エレノアが自分への贈り物だから部屋へ置きたいと主張したこと。
ヴァレリアが最後には認めたことを説明した。
セドリックは黙って聞いていた。
「ほかには」
アルフォンスが尋ねる。
「何か気になったことはあるか」
「ございます」
家令は慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、私の推測は交えず、見たことだけを申し上げます」
「それでいい」
「お嬢様は、贈り物の色をお選びくださいと申し上げた際、かなり長く迷っておられました」
「選択肢が多すぎたか?」
セドリックが尋ねる。
「それもあるかもしれません。しかし、私には……」
家令は一度言葉を止めた。
「選ぶことそのものに、戸惑っておられるように見えました」
部屋が静かになる。
「今決めなくても構わないと申し上げたところ、とても驚いておられました」
セドリックの表情から柔らかさが消えた。
「それだけです」
家令は付け加える。
「それ以上は分かりません」
「十分だ」
アルフォンスが低く答える。
決めつけない。
けれど忘れない。
手紙。
外出と書簡の制限。
秘密の経路。
そして、選ぶことへの戸惑い。
一つ一つを別々のものとして見ることもできる。
まだ繋げるには早い。
だからこそ。
「次だ」
アルフォンスが顔を上げる。
「エレノア本人に、誰にも聞かれず話せる機会を作る」
「どうします?」
セドリックが尋ねる。
アルフォンスはすぐには答えなかった。
感情だけで動けば、またエレノアを危険へ晒す。
けれど慎重になりすぎて、助けを求めた少女をいつまでもあの家へ置くつもりもない。
「もう少しだけ確認する」
アルフォンスは机の上に置いたエレノアの手紙へ視線を落とした。
「だが、長くは待たない」
十五歳の少女が、自分から助けてほしいと言った。
その重さを、今度こそ大人の都合で軽く扱ってはいけない。
「エレノアが自分の口で話せる場所を作る」
アルフォンスは静かに言った。
「そして、あの子が帰りたくないと言うなら――」
一度言葉を切り、セドリックを見る。
「今度こそ、帰さない」
そのころエレノアはまだ、自室の机に並べた色とりどりのリボンを眺めていた。
どれを選ぶかは決めていない。
明日決めるかもしれないし、もっと先になるかもしれない。
それでいい。
自分の声は、もう届いている。
そして今度は、自分が何を好きなのか、何を嫌だと思うのか、どこへ行きたいのか。
一つずつ、自分で選び直していけばいい。
閉じられていたエレノアの世界に差し込んだものは、まだ細い光にすぎなかった。
けれどその光の向こうでは、彼女を迎えるための道が、確かに作られ始めていた。




