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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 叔父様は、見過ごさない


 その日の夕刻、セドリック・ロシュフォールが屋敷へ戻ったとき、玄関広間にはすでに家令が待っていた。


「お帰りなさいませ、セドリック様」


「ああ。ただいま」


 外出用の上着を従僕へ預けながら、セドリックは家令の顔を見る。


 普段と変わらない。


 少なくとも、表情だけなら。


 けれど十八年間この屋敷で育ってきたセドリックには、長く仕えている家令の僅かな違いくらいは分かった。


「何かあった?」


「旦那様がお待ちです」


「父上が?」


「お戻りになりましたら、すぐ執務室へお越しいただくようにと」


 セドリックの表情から柔らかさが消えた。


「分かった。着替えは後にする」


「お願いいたします」


 家令が道を空ける。


 セドリックはそのまま廊下を進んだ。


 父アルフォンスが、帰宅したらすぐ来いと命じること自体は珍しくない。公爵家の後継者であるセドリックは、すでに領地経営や社交上の案件について父から意見を求められることも増えている。


 けれど、今日の家令の様子は仕事の話だけではないように見えた。


 執務室の前へ着き、扉を叩く。


「父上。セドリックです」


「入れ」


 いつもより低い声だった。


 セドリックは扉を開けた。


 アルフォンスは机の向こうに座っていた。


 書類がいくつか広げられている。


 けれど仕事をしていたようには見えない。


 机の中央に、一通の手紙が置かれていた。


「座れ」


「はい」


 向かいの椅子へ腰を下ろす。


「何かありましたか?」


「これを読め」


 アルフォンスが手紙を差し出した。


 セドリックは受け取る。


 まず宛名を見る。


 そして差出人を見た瞬間、目が止まった。


「……エレノア?」


「ああ」


 セドリックが顔を上げる。


「エレノアから、父上に?」


「今日届いた」


「ベルナール家から使者が来たんですか?」


「違う」


 アルフォンスの声がさらに低くなる。


「市場の商会を経由して届いた」


 セドリックの眉が寄った。


「商会?」


「ベルナール家の買い出しをしていた使用人が、ロシュフォール家と取引のある商会へ持ち込んだらしい。商会が今日の納品に合わせて持ってきた」


「……どうしてそんな回りくどいことを」


「読めば分かる」


 セドリックは便箋へ視線を落とした。


 読み進める。


 最初は静かだった。


 けれど途中から、その指が少しずつ強く紙を持つようになった。


 第二王子との婚約話。


 エレノア自身は望んでいない。


 父へ拒絶を伝えた。


 それでもロベルトは受諾の返書を出すと言った。


 外出を制限される。


 書簡も確認される。


 そして最後。


 ――どうか、私を助けてください。


 セドリックはしばらく顔を上げなかった。


「……いつからですか」


「何がだ」


「いつから、こんな状況だったんですか」


「分からない」


 アルフォンスは即答した。


「だから調べている」


 セドリックが手紙を机へ戻す。


 その動きは静かだった。


 けれど、表情には明確な怒りがある。


「迎えに行きましょう」


「俺も最初はそう思った」


「最初は?」


「今すぐベルナール家へ行って、エレノアを連れて帰るつもりだった」


「なら――」


「それをやって、ロベルトに拒否されたらどうする」


 セドリックの言葉が止まった。


 アルフォンスは腕を組む。


「エレノアはまだベルナール伯爵家の娘だ。俺たちが叔父と従兄だからといって、本人を勝手に連れ出せるわけじゃない」


「本人が助けを求めています」


「分かっている」


「なら」


「分かっているからこそ、失敗できないと言っている」


 強い言葉だった。


 セドリックは黙る。


 アルフォンスも声を荒らげたことに気づいたのか、一度息を吐いた。


「すまない」


「いえ」


「俺だって、今すぐ行きたい」


 アルフォンスは机の上の手紙を見る。


「だが、俺が怒鳴り込んで、ロベルトが『娘は渡さない』と言ったらどうする。エレノアが助けを求めたことだけが露見して、俺たちは何もできず帰ることになるかもしれない」


 その先を言われなくても、セドリックには分かった。


 残されるのはエレノアだ。


 外へ助けを求めたことを知られた状態で。


「……それは駄目ですね」


「ああ」


 セドリックは背もたれへ身体を預けた。


 感情を抑えるように、ゆっくり息を吐く。


「では、何が分かっていますか?」


「まだほとんど何も」


「父上が調べさせている?」


「家令に動いてもらっている。ベルナール家の最近の様子、エレノアについて、それから第二王子との縁談がどこまで進んでいるのか」


「祖父上と祖母上には?」


「まだ話していない」


 セドリックが僅かに眉を上げた。


「意外ですね」


「父上に言えば、その場で馬車を出せと言う」


「でしょうね」


「母上なら止めると思うか?」


「一緒に乗ると思います」


「俺もそう思う」


 ほんの一瞬だけ、親子の間に苦笑が浮かんだ。


 けれどすぐ消えた。


 セドリックはもう一度手紙を手に取った。


「エレノアが自分から父上へ手紙を書いたのは、久しぶりですよね」


「ああ」


「どのくらいです?」


「直接届いたものなら……」


 アルフォンスが考える。


「何年だろうな」


 言葉にした途端、その長さが重くなる。


 アデラインが亡くなったあとも、最初のうちは交流があった。


 エレノアも幼かった。


 ロシュフォール家へ遊びに来たこともある。


 けれどヴァレリアとミレーヌがベルナール家へ入ってから、少しずつ変わった。


 面会の機会が減った。


 手紙の返事も短くなった。


 やがて、ほとんど来なくなった。


「覚えています」


 セドリックが言った。


「何を?」


「昔、エレノアに誕生日の贈り物を送ったことがあります」


 アルフォンスが息子を見る。


「青い髪飾りだったか?」


「はい」


 セドリックは少しだけ懐かしそうに目を細めた。


「エレノアが小さいころ、青いものが好きだったでしょう」


「姉上のドレスを見て、青が綺麗だと言っていたな」


「それで選びました」


 十代前半だったセドリックが、自分で店を何軒も見て回って選んだ。


 高価すぎれば気を遣わせる。


 子供っぽすぎても喜ばれない。


 随分悩んだことを覚えている。


「返事が来ました」


「……ああ」


「でも、変だった」


 アルフォンスが眉を寄せる。


「何が?」


「短かったんです」


「礼状なら普通だろう」


「昔のエレノアは、もっと書く子でした」


 セドリックは静かに続ける。


「小さいころ、僕が本を送ったら、『ここが面白かった』『この人が好きだった』って、便箋を何枚も使って返してきたでしょう」


「そうだったな」


「でも、あの髪飾りのときは『素敵な贈り物をありがとうございました。お気持ちだけ頂戴いたします』だった」


 アルフォンスが黙る。


「髪飾りは戻ってきたか?」


「いいえ」


「なら受け取ったんじゃないのか」


「そう思っていました」


 セドリックは手紙を見る。


「でも、そのあと一度も着けているところを見ていません」


 些細なことだった。


 当時は。


 好みが変わったのだろう。


 別の髪飾りを気に入っていたのかもしれない。


 そもそも会う機会が減ったのだから、自分たちの知らないところでは使っていたかもしれない。


 いくらでも説明できた。


「父上」


「何だ」


「僕たちは、何度『そういうものだ』と思ってきたんでしょうね」


 アルフォンスは答えなかった。


 答えられなかった。


 面会を断られた。


 そういうものだと思った。


 返事が短くなった。


 年頃なのだと思った。


 贈り物への反応が薄くなった。


 好みが変わったのだと思った。


 ロベルトから、母方の家との関わりを減らしたいと言われた。


 新しい家族へ馴染むためなのだと思おうとした。


 一つ一つなら、不自然ではなかった。


 けれど今。


 助けてください。


 その一文を前に並べ直せば。


「……俺たちは、都合よく考えすぎたのかもしれないな」


 アルフォンスが呟く。


 セドリックは否定しなかった。


 だからといって、過去を悔やむだけでは何も変わらない。


「これからどうしますか?」


「まず、エレノア本人と話す」


「どうやって?」


「それを考えている」


 アルフォンスは椅子から立ち、窓辺へ歩いた。


「ベルナール家へ正式に訪問を申し込めば、ロベルトに警戒される。エレノアだけを外へ呼び出すのも、今の状況では難しい」


「手紙を返すのは?」


「書簡を確認すると言われているらしい」


「同じ経路を使う?」


「できれば避けたい」


 アルフォンスは振り返った。


「向こうの使用人が危険を冒してくれた可能性がある。こちらから何度も同じ道を使えば、その者が見つかる」


 セドリックは頷いた。


 誰なのかはまだ分からない。


 けれど、その人物がいなければエレノアの声は届かなかった。


「では、自然にベルナール家と接触できる理由を作る必要がありますね」


「ああ」


 アルフォンスは少し考える。


「しかも、エレノア本人がいる場所で」


「……社交上の招待?」


「外出を止められている」


「なら、こちらから?」


「それも警戒される」


 二人の間に沈黙が落ちた。


 助けを求める声は届いた。


 けれど、そこから本人の手を取るまでには、まだ距離がある。


「父上」


「何だ?」


「一つ確認したいんですが」


 セドリックの表情が変わった。


「エレノアは、どうしてそこまで第二王子との婚約を嫌がっているんでしょう」


 アルフォンスも同じことを考えていた。


「分からない」


「殿下と何かあった?」


「この時点で、まともに交流しているとは思えない」


「では、単純に望んでいないだけ?」


「それでも十分な理由だ」


「もちろんです」


 セドリックはすぐに答えた。


「ただ、手紙の送り方が普通ではない。単に結婚したくないというだけなら、ここまで切迫するでしょうか」


 アルフォンスの目が鋭くなる。


 確かにそうだった。


 十五歳の少女が、父に反対された。


 それだけなら叔父へ相談することはあるかもしれない。


 けれど家に知られないよう、使用人と商会を経由してまで「助けて」と送るだろうか。


「婚約だけじゃない可能性がある、と?」


「分かりません」


 セドリックは慎重に答えた。


「でも、決めつけない方がいいと思います」


「ああ」


 まだ何も知らない。


 虐待のことも。


 食事のことも。


 エレノアの身体に残る痣のことも。


 知らないからこそ、勝手に答えを作ってはいけない。


「まず本人に聞く」


 アルフォンスは言った。


「エレノアが話したいことだけでいい。俺たちの想像で決めない」


「はい」


 セドリックは手紙を丁寧に机へ戻した。


 その目が最後の一文へ向く。


「それでも」


「何だ?」


「助けてほしいということだけは、間違いないですね」


 アルフォンスも同じ一文を見る。


「ああ」


 それだけは疑わない。


「だから助ける」


 短い言葉だった。


 けれど、そこに迷いはなかった。


        ◇ ◇ ◇


 ベルナール伯爵邸では、エレノアにとって長い午後が続いていた。


 自室を中心に過ごすよう言われた以上、昨日のように自由に使用人区画へ向かうことはできない。


 マーサとも会えない。


 手紙が届いたかも分からない。


 アルフォンスが読んだかどうかも、もちろん分からない。


 だから、待つしかない。


(待つのって、こんなに長かったかしら)


 窓辺で本を開いているものの、同じ行を何度も読み直していた。


 文字は目に入る。


 意味が頭に残らない。


 父の返書はもう出た。


 皇室側へ届けば、縁談はさらに先へ進む。


 自分の手紙が届いていたとしても、叔父がすぐ動けるとは限らない。


 そもそも。


(本当に、助けてくれるのかな)


 考えないようにしていた不安が顔を出す。


 昨日までは、手紙を外へ出すことだけで精一杯だった。


 出たと分かれば、今度は届いてほしくなった。


 届けば、助けてほしいと思う。


 そして助けてくれるかもしれないと思えば、今度は断られたときが怖くなる。


『また難しい顔をしている』


 声がした。


 クロノアが机の上に現れている。


「考え事よ」


『ずっと同じところを読んでいるけれど』


 エレノアは本を見る。


 確かに、しおりを挟んだ場所からほとんど進んでいない。


「……読めてないわね」


『叔父様のこと?』


「ええ」


 エレノアは本を閉じた。


「迷惑だったらどうしようって」


『どうして迷惑なの?』


「突然、何年もまともに連絡していなかった姪から、助けてくださいなんて言われたのよ?」


『でも助けてほしいのでしょう?』


「ほしいけど……」


『なら書いたことは間違っていないんじゃない?』


「人間には、いろいろあるのよ」


『だから人間は難しいのね』


「そういうこと」


 少し笑う。


 そのとき。


 扉が叩かれた。


「エレノア。入ってもいいかしら」


 笑みが消えた。


 ヴァレリア。


「……はい」


 クロノアがすぐに姿を消す。


 扉が開いた。


 ヴァレリアは一人だった。


 使用人も連れていない。


「少しお話ししましょう?」


「何についてですか?」


「そんなに警戒しないで」


 柔らかく笑いながら部屋へ入ってくる。


 エレノアは椅子から立ち上がった。


「警戒などしていません」


「あら、そう?」


 ヴァレリアは部屋を見回した。


 机。


 本。


 窓辺。


 衣装棚。


 その視線が何を探しているのか分からない。


 エレノアの背中へ緊張が走る。


(手紙はもうない)


 分かっている。


 それでも、見つかってはいけないものを探されているような気持ちになる。


「座っていいかしら?」


「どうぞ」


 ヴァレリアがソファへ座る。


 エレノアも少し離れた椅子へ腰を下ろした。


「昨日から、あなたの様子が随分違うでしょう?」


 いきなり核心に近いところへ来た。


「そうでしょうか」


「ええ」


 ヴァレリアは微笑む。


「お父様に逆らうなんて、今までほとんどなかったもの」


 エレノアは答えない。


「第二王子殿下との縁談が、それほど嫌?」


「はい」


「理由を聞いても?」


「朝もお話ししました」


「望んでいないから、でしょう?」


「はい」


「でも、昨日話を聞くまでは、あなたは第二王子殿下とほとんど関わりがなかったはずよ」


 エレノアの指が僅かに動く。


 ヴァレリアはそれを見ていた。


「それなのに、随分はっきり嫌がるのね」


(探られてる)


 誰かから何かを聞いたのではないか。


 何かを知っているのではないか。


 父とは違う方法で、ヴァレリアはそこを探している。


「知らない方との婚姻を望まないのは、それほど不思議ですか?」


「貴族の娘なら珍しいことではないわ」


「珍しいからといって、私が望まなければならない理由にはなりません」


「そうね」


 ヴァレリアはあっさり認めた。


 そのうえで、さらに続ける。


「誰か、好きな方でもできた?」


「いいえ」


「では、誰かに何か言われたの?」


「誰にですか?」


「例えば……」


 ヴァレリアは少し考えるように間を置いた。


「ロシュフォール家の方とか」


 心臓が跳ねた。


 エレノアは表情を動かさないよう努めた。


「どうして叔父様たちが出てくるのですか?」


「だって、あなたのお母様のご実家でしょう?」


 ヴァレリアは穏やかに笑っている。


「最近、連絡でもあったのかと思って」


「ありません」


 これは嘘ではない。


 エレノアの方から送っただけだ。


「そう」


 ヴァレリアはじっとエレノアを見る。


 数秒。


 その沈黙が長く感じられた。


「なら、いいの」


「何がですか?」


「何でもないわ」


 ヴァレリアは立ち上がった。


 帰るのかと思った。


 けれどエレノアの横を通り過ぎるとき、足を止める。


「ただね、エレノア」


「はい」


「家族に隠し事はしない方がいいわ」


 背筋に冷たいものが走った。


「隠し事?」


「一般論よ」


 ヴァレリアが笑う。


「あなたは素直な子だもの。変なことを考えるはずがないでしょう?」


 エレノアはその笑顔を見上げた。


 一度目なら。


 きっと、怖くなってすべて話していた。


 自分は何もしていない。


 隠していない。


 疑わないで。


 そうやって必死に潔白を証明しようとしたかもしれない。


 けれど今は。


「そうですね」


 それだけ答えた。


 ヴァレリアの目が、ほんの少し細くなる。


「では、ゆっくり休みなさい」


「お気遣いありがとうございます」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 完全に聞こえなくなるまで、エレノアは動かなかった。


 やがて。


「……怖かった」


 小さく呟いた。


 銀色の光が現れる。


『よく話さなかったわね』


「話しそうになった」


『そうなの?』


「叔父様って言われた瞬間、全部知られているのかと思った」


 エレノアは自分の胸を押さえた。


 心臓がまだ速い。


「でも、知らないから聞いたのよね」


『たぶん』


「私の反応を見ていた」


 そこまで言って、エレノアは気づく。


「……あの人、私を疑ってる」


 婚約を突然拒否した。


 父へ反論するようになった。


 昨日は使用人区画へ行った。


 ヴァレリアから見ても、変化が急すぎる。


(気をつけないと)


 マーサに会いに行くことはできない。


 少なくとも今は。


 自分が疑われれば、マーサまで調べられるかもしれない。


「クロノア」


『何?』


「私、何もしない方がいいのかしら」


『それを私に決めてもらいたい?』


 エレノアは口を閉じた。


 昨日と同じだった。


 正解が欲しくなる。


 失敗したくないから。


 けれどクロノアは答えを与えない。


「……ううん」


 エレノアは首を振った。


「自分で考える」


『うん』


「今はマーサへ近づかない。手紙のことも聞かない。普段通りにする」


 少し考える。


「でも、何もしないわけじゃない」


『何をするの?』


「覚えておく」


『何を?』


「今日言われたこと。昨日お父様に言われたこと。私がどこへ行って、誰と話して、何を制限されたのか」


 クロノアが首を傾げる。


「叔父様に会えたとき、ちゃんと説明できるようにする」


 それなら、この部屋からでもできる。


 誰かに見つかる形で記録を残すのは危険かもしれない。


 けれど自分の頭の中で整理することはできる。


「私、今まで自分に起きたことを、すぐ『大したことじゃない』って思うようにしていたから」


 昨日見た痣を思い出す。


 食事。


 父の言葉。


 ヴァレリアの言葉。


「今度は、なかったことにしない」


 声は小さかった。


 それでも、自分へ言い聞かせるようにはっきり口にした。


        ◇ ◇ ◇


 ロシュフォール公爵邸では、夜になってもアルフォンスとセドリックが執務室に残っていた。


 家令から最初の報告が入ったからだ。


「皇室側からベルナール伯爵家へ正式な婚約命令が下った事実は、現時点では確認できません」


 その言葉に、アルフォンスの目が鋭くなる。


「では、やはり打診の段階か」


「その可能性が高いかと存じます。ただし、縁談そのものが皇室側の意向を含んでいることは間違いないようです」


「今日、ロベルトから返書が出た形跡は?」


「ございます」


 アルフォンスとセドリックが同時に家令を見る。


「午前中、ベルナール伯爵家から皇室関係の取次へ書状が渡っております。内容までは確認できておりません」


「エレノアの手紙と同じ朝か」


 アルフォンスが呟く。


 一方では父が娘の婚約を進めるために返事を送り。


 一方では娘が、その父に知られないよう叔父へ助けを求めた。


「急いだ方がいいですね」


 セドリックが言った。


「ああ。ただし、まだ突っ込まない」


 アルフォンスは立ち上がり、机の上に広げた情報へ目を落とす。


「正式な婚約が成立していないなら、まだ止められる余地はある」


「どうします?」


 アルフォンスはすぐには答えなかった。


 しばらく考え。


 やがて顔を上げる。


「明日、ベルナール家へ使者を出す」


 セドリックが眉を上げた。


「訪問を申し込むんですか?」


「いや」


 アルフォンスは首を振る。


「エレノアへ、誕生日の贈り物を届ける」


「誕生日?」


「少し早いが構わん」


 セドリックが父の意図を考える。


 そして気づいた。


「ロシュフォール家から姪へ贈り物をするだけなら、不自然ではない」


「ああ」


「使者を屋敷へ入れられる」


「エレノア本人へ渡すよう求める」


「ロベルトが拒否したら?」


「それも情報になる」


 アルフォンスの表情は冷静だった。


「普通なら、母方の叔父から姪への贈り物を拒む理由はない。本人に会わせない理由もな」


 セドリックの目が細くなる。


「使者は誰を?」


「家令」


 家令本人が僅かに目を上げた。


「私が参ります」


「頼む」


「何を確認いたしましょう」


 アルフォンスは少し考えた。


「まず、エレノア本人に会えるか」


「はい」


「会えたなら、顔色。受け答え。周囲に誰がいるか。本人が自由に話せる状況か」


「承知いたしました」


「ただし」


 アルフォンスの声が低くなる。


「探るような真似はするな」


「と申しますと?」


「エレノアを怖がらせるな。何かあるのかと無理に聞くな。あの子が話さなければ、それでいい」


 手紙に書かれている以上のことを、自分たちは知らない。


 だから、無理に聞き出さない。


「それと、返事を求めるな」


「かしこまりました」


「こちらが手紙を受け取ったと、本人だけに分かるよう伝えられれば十分だ」


 セドリックが父を見る。


「どうやって?」


 アルフォンスは机の上にあるエレノアの手紙へ目を落とした。


 少し考えてから言う。


「言葉は一つでいい」


「何と?」


「――叔父様は、お嬢様のお声を確かに受け取りました、と」


 セドリックの表情が僅かに緩んだ。


「それなら、エレノアには分かりますね」


「ああ」


 助ける。


 迎えに行く。


 待っていろ。


 そんな約束はまだできない。


 状況が分からないまま、軽々しく安心させることもしたくない。


 それでも。


 声は届いた。


 無視していない。


 一人ではない。


 それだけは伝えたい。


「贈り物はどうします?」


 セドリックが尋ねる。


「適当に用意するわけにもいかないだろう」


「お前が選べ」


「僕が?」


「昔も選んだだろう」


「……青い髪飾り」


「ああ」


 セドリックは少し考えた。


 そして首を振る。


「今度は、僕が勝手に色を決めるのはやめます」


 アルフォンスが息子を見る。


「どういう意味だ?」


「エレノアが今、何色を好きなのか知らないでしょう」


 その言葉に、アルフォンスは黙った。


「だったら、選べるものにしましょう」


「選べるもの?」


「布地か、リボンか。何種類か用意して、本人に好きなものを選んでもらう」


 セドリックは静かに続ける。


「せっかくですから、エレノアが自分で選べる贈り物にしたいです」


 アルフォンスはしばらく息子を見ていた。


 やがて、小さく頷く。


「そうしよう」


 それが今のエレノアにとってどれほど大きな意味を持つのか。


 二人はまだ知らない。


 何を食べるか。


 何を着るか。


 どこへ行くか。


 誰と結婚するか。


 長いあいだ、自分で選ぶことを許されなかった少女にとって。


 好きな色を自分で選んでいいと言われることが、どれほど戸惑うことなのかを。


「明日の朝、用意します」


 セドリックが立ち上がる。


「ああ」


「父上」


「何だ?」


 扉へ向かいかけたセドリックが振り返った。


「エレノアを連れて帰れたら」


 アルフォンスが息子を見る。


「今度こそ、ちゃんと聞きましょう」


「何をだ?」


「本人が、どうしたいのか」


 アルフォンスは答えなかった。


 机の上の手紙へ視線を落とす。


 どうか、私を助けてください。


 これまでの自分たちは、エレノアのためだと思いながら、結局は大人たちの判断で距離を置いた。


 だから次は。


「ああ」


 アルフォンスは頷いた。


「それだけは、絶対に忘れない」


 翌朝。


 ロシュフォール公爵家からベルナール伯爵家へ、一つの贈り物が届けられることになる。


 それはまだ、エレノアを屋敷から救い出すための決定的な一手ではない。


 けれど。


 閉じられようとしていた少女の世界へ、外から初めて返される答えだった。


 ――あなたの声は、届いている。


 そのことを伝えるための、小さな一歩だった。

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