第4話 届いた助けの声
エレノアが目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む朝の光は、すでに部屋の床を淡く照らしていた。
目を開けてからしばらくのあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。柔らかな寝台も、見慣れた天井も、窓辺に置かれた小さな机も十五歳まで暮らしてきた自室のものなのに、十八歳まで生きて処刑された記憶を持つエレノアには、どこか遠い昔の部屋のように感じられた。
身体を起こすと、昨日一日の出来事がゆっくり蘇る。
時の神霊クロノアによって三年前へ戻されたこと。
父ロベルトから第二王子レオナードとの婚約話を告げられ、それを拒絶したこと。
自分の身体に残っていた痣を改めて見たこと。
そして、亡き母アデラインの弟であるロシュフォール公爵アルフォンスへ、自分を助けてほしいと書いたこと。
(手紙……)
胸元へ手を置きかけ、途中で止めた。
そこにはもうない。
昨日、マーサへ託したのだから。
信じたいからではなく、自分でマーサを信じると決めて渡した手紙だった。
けれど一晩経ってみれば、別の不安が生まれている。
(ちゃんと屋敷を出られたのかしら)
マーサの甥は、早朝に食材の仕入れへ出ると言っていた。
もう出たのか。
門で止められなかったのか。
誰かに手紙を見つけられていないか。
考え始めると、胸が落ち着かない。
「クロノア」
『いるわよ』
窓辺から声がした。
淡い銀色の光が集まり、小さな人の姿になる。
「……ずっとそこにいたの?」
『少し前から』
「起こしてくれてもよかったのに」
『眠っていたから』
「今日の朝は大事なのよ」
『人間は眠らないと具合が悪くなるでしょう?』
もっともなことを言われ、エレノアは言葉に詰まった。
それでも気になるものは気になる。
「マーサは?」
『手紙なら屋敷を出たわ』
エレノアの動きが止まった。
「……本当に?」
『ええ。近くにいたから、少しだけ分かったの。荷車に乗って出ていった人が持っていたわ』
「マーサの甥ね」
『たぶん』
胸の奥が大きく鳴った。
届いたわけではない。
まだベルナール伯爵邸から出ただけ。
市場の商会へ渡せるかも分からず、その先でロシュフォール公爵家まで運んでもらえる保証もない。
それでも。
「屋敷を出たんだ……」
声にした途端、身体から少しだけ力が抜けた。
自分が書いた言葉が、父の許可を受けずにこの家の外へ出た。
ヴァレリアにも知られずに。
自分の意思で。
(マーサ……約束を守ってくれた)
昨日、自分は怖かった。
手紙を渡した直後には、取り返したいとすら思った。
それでもマーサは、エレノアが預けた信頼を今のところ裏切っていない。
その事実が、胸の奥を温かくした。
『泣くの?』
「泣かないわよ」
『目が潤んでいるけれど』
「朝だからよ」
『人間は朝になると泣くの?』
「クロノアは、もう少し人間について学んだ方がいいと思う」
『長く見ているけれど、あなたたちは分からないことばかりよ』
エレノアは思わず笑った。
ほんの小さな笑いだった。
けれど昨日より自然に笑えた気がした。
そのとき、扉が叩かれた。
「エレノアお嬢様。お目覚めでしょうか」
侍女の声だった。
エレノアが返事をするより先に、クロノアの姿が淡い銀光へ変わり、空気へ溶けるように消えていく。
「起きているわ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、昨日廊下でエレノアへ声をかけた若い侍女だった。
洗面用の水を運び、朝の身支度を手伝うために来たらしい。
「お着替えをお手伝いいたします」
「ええ」
エレノアは寝台から下りた。
侍女が衣装棚から今日のドレスを取り出す。
その手がエレノアの寝間着へ伸びようとして。
身体が強張った。
「……お嬢様?」
侍女が動きを止める。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
右腕を見られる。
そう思っただけで、喉が詰まった。
袖の下には、昨日自分で確認した痣がある。
紫色のもの。
薄い黄色へ変わったもの。
これまでの自分は、それを見られないようにすることを当たり前だと思っていた。
(どうして私は、隠さなきゃいけないと思っていたんだろう)
知られたら困る。
知られたら怒られる。
そう思っていた。
けれど、誰に怒られるのか。
なぜ自分が怒られなければならないのか。
そこまで考えようとすると、記憶の奥で何かがざわついた。
「今日は……自分で着替えるわ」
エレノアは言った。
「ですが」
「ごめんなさい。今は、一人で着替えたいの」
大丈夫だからではない。
自分がそうしたいから。
昨日までなら、きっと「大丈夫だから」と言っていた。
その小さな違いに、エレノア自身が気づいた。
侍女は戸惑った様子だったが、無理に手伝おうとはしなかった。
「承知いたしました。では、廊下でお待ちしております。何かございましたらお呼びください」
「ありがとう」
扉が閉まる。
エレノアはしばらく、その扉を見つめていた。
(あの人は何もしていない)
ただ着替えを手伝おうとしただけ。
それなのに身体が勝手に怖がった。
こんな自分が、本当に普通に暮らせるようになるのだろうか。
不安になりかけて、昨日のマーサを思い出した。
自分が身体を引いたとき、彼女はそれ以上近づかなかった。
今の侍女も、自分が一人で着替えたいと言えば部屋から出てくれた。
(急がなくてもいいのかもしれない)
できないことがある。
怖いこともある。
それを無理に今日すべて克服しなくてもいい。
エレノアは一人で寝間着を脱ぎ、ゆっくりとドレスへ袖を通した。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、すでにロベルトとヴァレリアがいた。
エレノアが席へ着いて間もなく、ミレーヌも食堂へ入ってくる。
「おはようございます、お父様」
「ああ」
「おはよう、エレノア」
「おはようございます」
ヴァレリアは昨日と変わらず、穏やかに微笑んでいる。
艶やかな赤褐色の髪も、朝から隙なく整えられた装いも、伯爵夫人として申し分なく見える。
エレノアは自分の席へ座った。
パンと卵、薄く切られた肉、温かな飲み物が並べられていく。
目の前のパンへ手を伸ばしかけたところで、妙な考えが浮かんだ。
(食べていいのよね)
自分で驚いた。
家族全員が揃っている。
使用人たちも見ている。
だから今は、自分の前にも同じように食事が用意されている。
けれど普段の朝はどうだった。
家族が揃わない昼は。
ヴァレリアとミレーヌが外出していた日は。
思い出そうとすると、記憶の奥に何かが引っかかる。
「エレノア」
父の声に、思考が途切れた。
顔を上げる。
「昨日の話だが、考え直したか?」
来た。
身体が僅かに緊張する。
「いいえ」
答えは変わらない。
ロベルトの眉間に皺が寄った。
「一晩経ってもか」
「はい」
「昨日あれだけ話したというのに、まだ理解できないらしいな」
低い声を聞くだけで、謝らなければならないような感覚が込み上げる。
エレノアは膝の上で手を握った。
「理解したうえで、お断りしています」
「あなた」
ヴァレリアが穏やかに割って入る。
「朝からそんな怖い顔をなさらないで。エレノアも余計に頑なになってしまいますわ」
ロベルトを宥めるように微笑んだあと、今度はエレノアへ優しい顔を向けた。
「エレノア。昨日も言ったけれど、あなたが不安になる気持ちは分かるのよ」
「私は、不安だから断っているわけではありません」
「ええ、そう言っていたわね」
否定されなかったことが、かえって警戒心を強くした。
「でも、十五歳のあなたには、まだ分からないこともあるでしょう? 第二王子殿下とのご縁が、あなたにとってどれほど素晴らしいものなのか」
怒鳴らない。
命令もしない。
それでも結論は父と同じだった。
エレノアの意思は、まだ世間を知らない少女の未熟な判断として扱われている。
「分からないから断っているのではありません」
「では、どうして?」
柔らかな問い。
エレノアはヴァレリアを見た。
理由を聞き出そうとしている。
父も昨日、自分へ誰かが何かを吹き込んだのではないかと疑っていた。
ここで余計なことを話す必要はない。
「私が望んでいないからです」
昨日と同じ答えを返した。
ヴァレリアの笑顔は崩れない。
「それだけ?」
「はい」
「そう……」
ヴァレリアは何かを考えるように、ゆっくりとカップへ口をつけた。
その仕草まで優雅だった。
(この人は、お父様とは違う)
ロベルトは権限をそのまま使う。
命令し、従わせようとする。
ヴァレリアは違う。
相手の言葉を聞く。
そして聞いたうえで、その言葉の意味を少しずつ自分に都合のいいものへ置き換えていく。
一度目の人生では、その違いすらよく分かっていなかった。
「それで」
ロベルトがナプキンを置いた。
「返書は予定通り出す」
エレノアの胸が強く鳴った。
「……今朝ですか?」
「ああ」
「私が断っていても?」
「昨日話した通りだ。ベルナール家として、この縁談を断る理由はない」
止められない。
少なくとも今は。
父の返書は、おそらく自分の手紙より先に皇室側へ届く。
悔しい。
怖い。
けれど昨日までのような、何もできないという絶望だけではなかった。
(私の手紙も、もう外にある)
自分には、父の知らない道が一本ある。
今はそれを守る。
「それから、今日からしばらく、お前には自室を中心に過ごしてもらう」
エレノアは顔を上げた。
「昨日は、外出を禁じるというお話だったはずです」
「考えを改めるまでだ」
「屋敷の中まで制限なさるのですか?」
「昨日、使用人区画を歩いていたそうだな」
息が止まりかけた。
最初にマーサの顔が浮かぶ。
けれど表情に出してはいけない。
「少し歩いていただけです」
「お前があちらへ行く理由はない」
「屋敷の中を歩くことにも、理由が必要なのですか?」
「今のお前にはな」
ロベルトは冷たく言った。
「誰かと話したのか?」
心臓が大きく鳴る。
エレノアは父を見る。
「使用人とは、何人かすれ違いました」
「それだけか?」
嘘をつかなければならない。
そう思った瞬間、喉が狭くなる。
一度目の人生で、自分は嘘をついていないと何度訴えても信じてもらえなかった。
今度は、自分から父へ嘘をつく。
罪悪感がないわけではない。
けれど。
(マーサを守る)
そして自分の未来を守る。
「はい。それだけです」
ロベルトはしばらくエレノアを見つめていた。
視線を逸らしたくなる。
それでも耐えた。
「今後は用もなく使用人区画へ行くな」
「……分かりました」
従ったわけではない。
今ここで争わないと決めただけ。
その違いを、自分だけは知っている。
「返書を」
ロベルトが傍らに控えていた執事へ命じた。
「かしこまりました」
執事が頭を下げ、食堂を出ていく。
エレノアの指先が冷たくなる。
(行ってしまう)
自分は婚約を望んでいる。
ベルナール家は喜んで縁談を受ける。
そんな、自分の意思とは正反対の返事が。
追いかけたい。
取り上げたい。
破り捨てたい。
けれど、今ここで一通を破いたところで、父は別の書状を書くだけだ。
父の考えが変わらない限り、紙を一枚止めても何も終わらない。
(今は耐える)
膝の上で強く握っていた手を、ゆっくり開く。
爪が掌へ食い込んでいた。
「お姉様」
ミレーヌの声がした。
「大丈夫?」
また、その言葉。
エレノアは顔を上げる。
「ええ」と答えかけて、止まった。
大丈夫ではない。
なのに、どうして大丈夫と言わなければならないのだろう。
「……大丈夫ではないわ」
食卓が静かになった。
ミレーヌが目を瞬かせる。
「え?」
「自分が嫌だと言っている婚約を、勝手に受けると返事されるのだから。私は大丈夫ではないわ」
声は僅かに震えていた。
それでも言えた。
ロベルトの顔が険しくなる。
ヴァレリアは微笑みを保ったまま、エレノアをじっと見ている。
「でも、ここで同じ話を繰り返しても、お父様は聞いてくださらないのでしょう?」
「エレノア」
「ですから、これ以上は申しません」
父を見た。
「ただ、私が納得したとは思わないでください」
それだけ告げ、エレノアは再び食事へ視線を戻した。
心臓は激しく鳴っている。
怖い。
それでも。
(大丈夫じゃないって、言えた)
昨日までなら飲み込んでいた言葉だった。
その様子を、ヴァレリアだけが何も言わずに見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇
同じころ。
帝都セレディアの朝市へ向かう石畳の道を、一台の小さな荷車が走っていた。
御者台に座る若い使用人は、手綱を握りながら、何度目か分からないほど上着の胸元を意識している。
そこには一通の手紙が隠されていた。
今朝、叔母のマーサから預かったものだ。
ロシュフォール公爵家へ届けてほしい。
詳しい事情は聞いていない。
ただ、いつもは冷静な叔母が何度も念を押した。
なくさないこと。
人前では取り出さないこと。
ベルナール家の者から尋ねられても、この手紙について話さないこと。
そして必ず、ロシュフォール公爵家と取引のあるラング商会へ持っていくこと。
(何なんだよ、この手紙……)
理由は分からない。
けれど、マーサがあれほど真剣な顔をしているところを見れば、軽く扱う気にはなれなかった。
荷車が大通りへ差しかかる。
朝のセレディアには、すでに多くの人が行き交っていた。店を開ける商人、荷物を運ぶ職人、勤め先の屋敷へ向かう使用人たちが行き交い、馬車の車輪が石畳を鳴らしている。
いつもと同じ朝だ。
だからこそ、若者も少しずつ緊張を忘れかけていた。
「おい!」
突然、後ろから声が飛んできた。
「そこの荷車、待て!」
若者の背筋が強張った。
反射的に手綱を引く。
馬が小さく嘶き、荷車が止まった。
振り返る。
ベルナール伯爵家の紋章が入った小型馬車が、後ろから近づいてきていた。
(まさか、見つかった?)
心臓が大きく鳴る。
叔母から手紙を預かったところを誰かに見られていたのか。
屋敷を出たあとで、エレノアの手紙がないことに気づいたのか。
何も知らないはずなのに、最悪の想像ばかりが浮かぶ。
逃げるわけにはいかない。
ここで荷車を走らせれば、それだけで怪しまれる。
若者は御者台に座ったまま、馬車が隣へ止まるのを待った。
「朝から悪いな」
降りてきたのは、ベルナール伯爵家で働く年嵩の従僕だった。
顔を知っている。
それだけに緊張が増した。
「旦那様から急ぎの使いを頼まれてな。市場へ行くんだろう?」
「は、はい」
「これも途中で出しておいてくれ」
差し出されたのは、きちんと封蝋された書状だった。
若者は受け取る前に一瞬だけ見つめる。
「どちらへ?」
「皇室関係の使者へ渡すものだ。市場へ入る手前に、いつも伯爵家の書簡を預ける取次所があるだろう」
「分かりました」
「なくすなよ。旦那様からの大事な返書だ」
大事な返書。
その言葉に、若者は無意識に胸元を意識した。
叔母から預かった手紙。
そして今、ロベルトから預かった書状。
二通の手紙が、同じ朝、同じ荷車でベルナール伯爵邸の外へ運ばれることになった。
一方は家の名を背負い、堂々と皇室側へ届けられる。
もう一方は、誰にも知られないよう上着の内側へ隠されている。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
若者はロベルトの書状を荷物袋へ入れた。
従僕が馬車へ戻ろうとして、ふと振り返る。
「そういえば」
背中へ冷たい汗が流れた。
「今日はずいぶん上着が膨らんでいるな」
「……え?」
胸元を見られている。
手紙がある。
「何か入れているのか?」
一瞬、言葉が出なかった。
ここで慌てれば怪しまれる。
若者は無理に胸元へ触れず、できるだけ普段通りの声を作った。
「叔母さんに買い物の覚え書きを押し込まれたんですよ。石鹸だの糸だの、忘れるとうるさいんで」
「ああ、マーサか」
従僕が苦笑する。
「あの人は細かいからな」
「本当ですよ」
笑ってみせる。
喉が引きつっている気がした。
けれど従僕は、それ以上興味を示さなかった。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
馬車が離れていく。
姿が見えなくなるまで、若者は荷車を動かさなかった。
やがて大きく息を吐く。
「……心臓に悪いって」
上着の上から胸元へ触れる。
ある。
見つかっていない。
それでも、少し返事を間違えていたらどうなっていたのかと思うと、手のひらに汗が滲んだ。
若者はもう一度手綱を握った。
今度は、胸元の手紙を意識しないようにして荷車を走らせた。
◇ ◇ ◇
朝市へ着いてからも、すぐにラング商会へ向かうことはしなかった。
普段と違う順番で店を回れば、帰宅後に誰かから尋ねられたとき不自然になるかもしれない。
まず野菜。
次に肉。
パン。
マーサから頼まれていた石鹸や細かな日用品。
そして市場へ入る手前の取次所へ立ち寄り、ロベルトから預かった書状を差し出す。
「ベルナール伯爵様からです」
「承りました」
係の男は封蝋を確認すると、それ以上何も尋ねず書状を受け取った。
あまりにも簡単だった。
エレノアの意思を無視して書かれた受諾の返書は、何の障害もなく先へ進んでいく。
一方、若者の上着の内側には、もう一通の手紙が残っている。
誰にも知られてはいけない手紙。
市場での用事を一通り済ませたあと、若者はようやくラング商会へ向かった。
店内にはすでに数人の客がいる。
(ここで出していいのか?)
叔母は、公爵家との取引を任されている者へ直接渡せと言っていた。
けれど誰がその人物なのか、若者には分からない。
「いらっしゃい」
帳場にいた男が声をかけてきた。
「何をお探しで?」
「あの……ロシュフォール公爵家へ、品物を納めていますよね?」
男の表情が僅かに変わった。
「何の用だ?」
「次の納品はいつですか?」
「どうしてそんなことを聞く」
警戒されている。
当然だった。
伯爵家の使用人が突然やってきて、公爵家への納品予定を尋ねているのだから。
「届けてほしいものがあって」
「うちは郵便屋じゃないぞ」
「分かっています。でも――」
「公爵家に用があるなら、正式に使者を出せばいいだろう」
それができないから来た。
けれど、それを説明するわけにはいかない。
「お願いします」
「何をだ?」
若者は周囲を確認した。
客がいる。
店員もいる。
ここで手紙を取り出すこと自体が怖くなった。
「少し、人のいないところで話せませんか?」
商会の男の警戒がさらに強くなった。
「ますます怪しいな」
「……そうですよね」
自分でもそう思う。
男はしばらく若者を見たあと、ため息をついた。
「そこで待ってろ」
奥へ消え、しばらくして五十歳ほどの男を連れて戻ってきた。
「主人だ」
「私がラングだ。ロシュフォール公爵家へ届けたい物があるそうだな」
「はい」
「誰からだ?」
答えに詰まる。
「……言えません」
「なら預かれん」
即答だった。
若者の胸が沈む。
「待ってください」
「身元も分からない人間から預かった物を、公爵家へ持ち込めると思うのか? 中身が危険な物だった場合、責任を負うのはこちらだ」
もっともだった。
反論できない。
それでも、ここで引き返せば叔母の頼みを果たせない。
「危険な物じゃありません。手紙です」
「誰からの?」
「それは……」
若者は迷った。
できるだけ話すなと言われている。
けれど届けるために必要なら、何かを見せなければならない。
「せめて、これを見てください」
周囲に人がいないことを確認してから、初めて上着の内側へ手を入れた。
手紙を取り出す。
ラングが受け取った。
宛名を見る。
「ロシュフォール公爵アルフォンス閣下……」
そこまでは表情が変わらなかった。
手紙を裏返す。
差出人を見る。
ラングの指が止まった。
「……エレノア・ベルナール?」
若者は黙っている。
「ベルナール伯爵家の令嬢か?」
「俺は中身を知りません」
「本人から預かったのか?」
「それも言えません」
本人とは会っていない。
嘘ではなかった。
ラングが眉を寄せる。
「では、ベルナール伯爵はこの手紙のことを知っているのか?」
若者は答えられなかった。
答えないこと自体が、答えになったのかもしれない。
ラングの表情が変わった。
「……厄介なものを持ってきたな」
「お願いします」
若者は頭を下げた。
「公爵様本人じゃなくてもいいんです。公爵家の人へ渡してください。本当に大切なものだと言われたんです」
「誰に?」
「それは……」
口を閉じる。
ラングはそれ以上追及しなかった。
代わりに、手紙をもう一度確認した。
「今日の昼過ぎ、公爵家へ納品がある」
若者が顔を上げる。
「ただし、こちらも中身の保証はできない。公爵家の使用人へ、こういう経路で預かったと正直に説明する。それでも受け取ってもらえなければ、持ち帰るぞ」
「それで構いません」
「本当にいいんだな?」
「お願いします」
若者は深く頭を下げた。
手紙が、また一人の手へ渡る。
店を出たあと、何度も振り返りたくなった。
けれど振り返らなかった。
叔母が自分を信じて預けた。
なら今度は、自分が商会へ託すしかない。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎたころ。
ロシュフォール公爵邸の搬入口へ、ラング商会の荷馬車が入った。
広い敷地の奥には、落ち着いた灰白色の石造りの館が建っている。華美な装飾で権威を誇示するというより、長い年月を積み重ねてきた家の重みそのものが、建物へ染み込んでいるような屋敷だった。
商会の者たちは、いつも通り納品を始めた。
布地。
香辛料。
保存の利く食材。
注文書と品物を照合し、公爵家の使用人が一つずつ確認していく。
すべてが終わりかけたところで、ラング商会の男が声をかけた。
「もう一つ、お預かりしているものがあります」
年嵩の使用人が顔を上げた。
「注文外の品でしょうか?」
「いえ。手紙です」
差し出された封書を見て、使用人の表情が警戒へ変わる。
「当家への?」
「アルフォンス公爵閣下宛てです」
「どちらから預かられました?」
「ベルナール伯爵家の使用人から、としか申し上げられません」
「伯爵家の正式な使者ですか?」
「いいえ」
使用人の目が鋭くなった。
「では、お預かりできません」
商会の男が困った顔をする。
「そう仰ると思いました」
「公爵閣下宛ての私信を、身元も経路も不明なままお通しすることはできません。ベルナール伯爵家からの正式な書簡でしたら、先方から改めて使者を――」
「差出人だけでも確認していただけませんか」
使用人の言葉が止まる。
「差出人?」
「私も最初は断るつもりでした。ただ、その名前を見てしまったものですから」
商会の男が手紙を裏返した。
年嵩の使用人が視線を落とす。
「……エレノアお嬢様?」
声が変わった。
手紙を手に取り、もう一度確認する。
エレノア・ベルナール。
その名前を、この屋敷で知らない者はほとんどいない。
亡きアデライン・ロシュフォールの一人娘。
現在の公爵アルフォンスにとって、たった一人の姪。
「これを、どこで?」
「今朝、ベルナール家の買い出しをしている若者が店へ持ってきました。伯爵家が知っているのかと尋ねましたが、答えませんでした」
使用人の表情がさらに険しくなる。
正式な使者ではない。
買い出しの使用人。
商会を経由。
公爵本人宛て。
普通に考えれば、あまりにも不自然だった。
伯爵令嬢が叔父へ手紙を書くのなら、ベルナール家から正式な使者を立てればいい。
それができない事情があるのだとしたら。
「少々お待ちください」
使用人は近くにいた若い従僕を呼んだ。
「家令を呼びなさい」
「ただいま」
数分後。
公爵家の家令が現れた。
事情を聞き、手紙を確認する。
差出人を見た瞬間、その顔から表情が消えた。
「封は?」
「我々は触れておりません」
「商会へ持ち込まれた時点では?」
「すでにこの状態でした」
家令は封を慎重に確認した。
正式なベルナール伯爵家の紋章は使われていない。
あくまで個人からの私信だ。
「旦那様へお持ちする」
年嵩の使用人が頷いた。
「この件について、ベルナール伯爵家へ確認を入れますか?」
商会の男が尋ねる。
家令は一瞬考えた。
そして首を振る。
「いたしません」
「よろしいので?」
「エレノアお嬢様が正式な経路を使わず、これほど迂回して手紙を送られた理由が分からないからです」
何の事情もなければ、それでいい。
けれど、もしベルナール伯爵家へ知られたくない理由があるのなら。
確認の連絡を入れること自体が、エレノアを困らせる可能性がある。
「この手紙が当家へ届いたことは、当面ほかへ漏らさないようお願いいたします」
家令の言葉に、商会の男は表情を引き締めた。
「承知しました」
こうして、ベルナール伯爵邸の一室で書かれた手紙は、ようやくロシュフォール公爵家の内部へ入った。
けれど、まだ終わってはいない。
家令は手紙を持ち、長い廊下を歩いていく。
一歩進むごとに、差出人の名前が重く感じられた。
エレノア・ベルナール。
亡きアデラインの娘。
長いあいだ、この屋敷へ自分から連絡を寄越すことのなかった少女。
その少女が突然、家の目を避けるような経路で叔父へ手紙を送ってきた。
家令は執務室の扉を叩いた。
「旦那様」
「入れ」
中から声がする。
扉を開けると、机の向こうで書類を確認していたアルフォンス・ロシュフォールが顔を上げた。
「どうした?」
「お届け物がございます」
「誰からだ?」
家令は僅かに間を置いた。
「……エレノアお嬢様からでございます」
アルフォンスの手が止まった。
「誰からだと?」
「ベルナール伯爵家のエレノアお嬢様です」
執務室の空気が変わった。
「こちらが、そのお手紙です」
家令が差し出す。
アルフォンスは立ち上がるような勢いで手紙を受け取った。
「どうして、エレノアから……」
宛名を見る。
間違いない。
自分宛てだ。
裏返し、姪の名前を確かめる。
「どうやって届いた?」
「ラング商会を経由しております」
「商会?」
アルフォンスの眉が寄る。
家令は把握している経路を説明した。
ベルナール家の買い出しをしていた若者が市場の商会へ持ち込んだこと。
正式な使者ではなかったこと。
ベルナール伯爵本人が把握しているのか尋ねられても、その若者は答えなかったこと。
そして商会が、公爵家への納品に紛れる形で持ってきたこと。
話を聞くほど、アルフォンスの表情が険しくなっていった。
「……ロベルトを通していないのか」
「その可能性が高いかと」
アルフォンスは手紙を見た。
普通ではない。
姪が自分へ近況を知らせたいだけなら、こんなことをする必要はない。
「開けるぞ」
誰に言うでもなく呟き、封を切る。
便箋を広げる。
読み始めたアルフォンスの表情が、少しずつ変わっていった。
突然の手紙を詫びる言葉。
長いあいだ連絡を取っていなかったことへの戸惑い。
第二王子との婚約話が持ち上がっていること。
自分はその婚約を望んでいないこと。
父へ断ったが、聞き入れてもらえなかったこと。
外出を制限され、今後は手紙も確認されると言われたこと。
そして最後。
――叔父様。
――どうか、私を助けてください。
アルフォンスの手が止まった。
「……助けて?」
声が低くなる。
もう一度読む。
読み間違いではない。
姪が。
十五歳の姪が。
自分へ助けを求めている。
しかも、家の正式な経路を使うことすらできず、使用人と商会を経由して。
「どういうことだ……」
アルフォンスの顔から、それまでの落ち着きが消えていく。
幼いころのエレノアを思い出した。
『叔父様、下ろして』
『嫌だ』
『お母様ー!』
『アルフォンス! エレノアが困っているでしょう!』
『姉上の娘なんだから、可愛いに決まってるだろう!』
姉に叱られた。
エレノアには困った顔をされた。
それでも、会うたびに構わずにはいられなかった。
姉によく似た髪。
少しだけ違う瞳。
小さな手。
その姪が、助けてと書いている。
「……姉上」
アルフォンスの声が掠れた。
「俺は、何を見落としていた?」
返事をする者はいない。
姉はもういない。
アデラインが亡くなったあと、ベルナール家との交流は少しずつ途絶えた。
こちらから贈り物を送っても返事が減った。
面会を申し込んでも、都合が悪いと断られることが増えた。
やがてロベルトから、娘は新しい家庭へ馴染もうとしているため、母方の家が頻繁に関わることは本人のためにならないと言われた。
エレノア自身の名で、今はそっとしてほしいという趣旨の短い手紙が届いたことさえある。
アルフォンスは納得していなかった。
父オーギュストも、母マルグリットも心配していた。
それでも無理に押しかければ、ベルナール家で暮らすエレノアの立場を悪くするのではないかと考えた。
だから、距離を置いた。
(あれは、本当にエレノアの意思だったのか?)
初めて疑問が生まれた。
今届いた手紙は、家に知られないように送られてきた。
なら、以前届いたものは。
アルフォンスは椅子を蹴るように立ち上がった。
「馬車を用意しろ」
家令が僅かに目を見開く。
「旦那様?」
「ベルナール家へ行く」
「今からでございますか?」
「今からだ。エレノアを――」
言いかけて。
アルフォンスは止まった。
手紙を見る。
外出を制限されている。
手紙も確認される。
その状況で、アルフォンスが突然ベルナール家へ乗り込めばどうなる。
ロベルトはすぐ気づく。
エレノアが外へ助けを求めたのだと。
そしてアルフォンスが、そのまま姪を連れ帰れる保証はない。
エレノアは今も法的にはベルナール伯爵家の娘だ。
感情だけで押しかけ、ロベルトに拒絶されたあと自分だけ帰ることになれば、残されるのはエレノアだ。
「……待て」
自分で命じ、自分で止める。
アルフォンスは額へ手を当てた。
今すぐ迎えに行きたい。
姪をこの目で確認したい。
けれど。
(俺が安心するために動くんじゃない)
助けを求めたエレノアを、本当に助けるために動かなければならない。
「先触れは出すな。馬車もまだいい」
「承知いたしました」
家令は理由を尋ねなかった。
「まず状況を確認する」
アルフォンスは顔を上げた。
「ベルナール家の最近の様子を調べろ。特にエレノアについてだ」
「どの程度まで?」
「可能な限り。ただし、こちらが調べているとベルナール家に悟られるな」
「かしこまりました」
「第二王子との縁談についても確認しろ。皇室側からの正式な命令なのか、打診の段階なのか。ロベルトがすでに返書を出している可能性もある」
「そちらも手配いたします」
アルフォンスは頷いた。
胸の中の焦りは消えない。
それでも、その焦りをそのまま行動へ変えてはいけない。
「それから、この手紙が届いた経路も調べろ。商会へ持ち込んだ者が誰なのか、誰から預かったのか。ただし、その者たちを危険に晒すな」
「承知いたしました」
「必要な者以外には話すな」
「はい」
「セドリックは?」
「本日は午前から外出されておりますが、夕刻にはお戻りになる予定です」
「戻ったら、すぐ俺のところへ来させろ」
「かしこまりました」
家令が退室しようとする。
「待て」
アルフォンスが呼び止めた。
「父上と母上には……まだ話すな」
家令が僅かに目を見開いた。
先代公爵オーギュストと先代公爵夫人マルグリット。
二人が孫娘同然のエレノアをどれほど心配していたか、アルフォンスも知っている。
「状況が分かってから俺が話す。今伝えれば、父上はその場でベルナール家へ行きかねないし、母上も止めないだろう」
「……私も、その可能性が高いかと存じます」
「だろう?」
ほんの一瞬だけ、昔のアルフォンスらしい表情が戻った。
しかしすぐに消える。
「今はエレノアを最優先にする」
「承知いたしました」
家令が部屋を出ていった。
一人になったアルフォンスは、再び手紙を広げた。
何度読んでも、最後の一文で目が止まる。
どうか、私を助けてください。
「遅すぎたなら……すまない」
誰にも届かない声だった。
それでも、今度は手紙から目を逸らさなかった。
「でも、もう見落とさない」
◇ ◇ ◇
同じ日の午後。
ベルナール伯爵邸の自室で、エレノアは窓の外を眺めていた。
父の返書はすでに出された。
自分の手紙も屋敷を出た。
どちらが今どこにあるのか、エレノアには分からない。
クロノアにも、遠く離れた場所で起きていることを何でも見通す力はない。
「届いたかしら」
『分からないわ』
「……そうよね」
何度目か分からない会話だった。
それでも聞いてしまう。
窓枠へ指を置く。
(叔父様)
幼いころの記憶にいる人。
自分を抱き上げ、母に叱られ、それでも楽しそうに笑っていた人。
あの人が今、自分をどう思っているのかは分からない。
もう忘れているかもしれない。
迷惑だと思うかもしれない。
助けてほしいなどと突然言われても困るかもしれない。
不安は、考えればいくらでも出てくる。
けれど。
昨日、マーサを信じると決めた。
そしてマーサは、少なくとも約束通り手紙を屋敷の外へ出してくれた。
なら今度は、叔父へ託した言葉がどう受け止められるのかを待つしかない。
待つことと、何もしないことは違う。
自分にできることを考えながら、返事を待つ。
「私、前より欲張りになったみたい」
『どうして?』
「昨日は、手紙が屋敷を出てくれればそれでいいと思っていたの」
エレノアは少しだけ笑った。
「今は、早く届いてほしいと思ってる。それで……できれば、叔父様に来てほしい」
『いいんじゃない?』
「いいの?」
『何かを望むのは悪いことなの?』
エレノアは答えられなかった。
一度目の人生では、望むことそのものを少しずつ諦めていった。
欲しいと言えば我儘だと思われる。
嫌だと言えば迷惑をかける。
助けてと言えば誰かを困らせる。
だから何も言わない方がいい。
何も望まない方が傷つかない。
そう思うようになった。
けれど今は。
(来てほしい)
はっきりと思った。
(叔父様。私を迎えに来て)
それは、誰かに人生を丸ごと任せる願いではない。
この家を出るために。
自分の人生を取り戻すために。
今の十五歳の自分だけでは足りない力を、貸してほしい。
「助けてもらっても……いいのよね」
エレノアが呟く。
クロノアは少しだけ首を傾げた。
『あなたは助けてほしいのでしょう?』
「うん」
『なら、いいんじゃない?』
あまりにも単純な答えだった。
けれど今のエレノアには、そのくらいの言葉の方がありがたかった。
窓の向こうに広がる空を見上げる。
同じ空の下。
エレノアがまだ知らない場所で。
自分が震える手で書いた一通の手紙は、幾人もの手を渡っていた。
一度はベルナール家の従僕に見つかりかけ。
市場では受け取りを拒まれかけ。
ロシュフォール公爵邸の入口でも止められた。
それでも。
エレノアが初めて自分の意思で外へ向けて発した「助けて」という声は、もう届いている。
そして、その声を受け取った叔父は。
今度こそ姪の手を離さないために、静かに動き始めていた。




