第3話 この手紙を、叔父様へ
机の上に置かれた一通の手紙を前に、エレノアは長いあいだ動けずにいた。
窓から差し込んでいた午後の日差しはすでに傾き始め、磨かれた床には窓枠の細長い影が伸びている。ベルナール伯爵邸では夕食の支度が始まったらしく、閉ざした扉の向こうから使用人たちの足音や、遠くで食器を重ねる小さな音が聞こえていた。
いつもなら気にも留めなかったはずの生活音だった。
けれど今は、誰かが部屋の前を通るたびに肩へ力が入り、その足音が自分の扉の前で止まらないかと耳を澄ませてしまう。
父ロベルトは言った。
当面の外出を禁じること。エレノアが外へ出す書簡も、外から届いた書簡も確認すること。そして来客についても、父の許可なく会うことは認めないこと。
さらに明日の朝には、ヴァレンティア皇室へ第二王子レオナードとの縁談を受諾する返書を出すという。
(明日の朝まで……)
エレノアは折り畳んだ手紙へ、そっと指先を置いた。
宛先は、ロシュフォール公爵アルフォンス。
亡き母アデラインの弟であり、エレノアにとっては叔父にあたる人物だ。
手紙には、長々と事情を書かなかった。
突然の手紙を詫び、自分が困っていることを伝え、最後にはずっと口にすることのできなかった言葉を書いた。
――私を、助けてください。
たったそれだけの言葉を書くために、どれほど勇気が必要だったのだろう。
それなのに。
(書いただけでは、何も変わらない)
相手へ届かなければ、ただの紙だ。
ロベルトの手に渡れば、むしろ自分を追い詰める証拠になるかもしれない。
『普通に使用人へ頼むのは難しそうね』
机の端に腰掛けていたクロノアが、手紙を覗き込みながら言った。
淡い銀色の光をまとった神霊は、エレノアが視線を向けると小さく首を傾げた。
「……何かいい方法を知らない?」
『知らないわ』
「少しくらい考えてから答えてくれてもいいでしょう?」
『考えても知らないものは知らないもの。私は時を見守る神霊であって、ベルナール伯爵家の使用人事情を把握している神霊ではないわ』
「それは、そうだけれど……」
エレノアは思わず小さく息を吐いた。
時間を三年も遡らせてもらった相手に、屋敷から手紙を出す方法まで考えてほしいというのは、さすがに求めすぎなのだろう。
それでも、こうして誰かと話しながら考えられるだけで、一人きりだったころとは違った。
「自分で屋敷を出るのは難しいわ」
『こっそり抜け出すのは?』
「見つかったら、今より厳しく監視されると思う。それに、夜のセレディアを一人で歩いたことなんてないもの」
帝都セレディアで暮らしてきたとはいえ、伯爵令嬢であるエレノアが一人で自由に街を歩いた経験などほとんどない。ロシュフォール公爵邸までの正確な道順も分からず、屋敷の門には門番もいる以上、衝動的に抜け出すのはあまりにも危険だった。
何より、一度失敗すれば次はない。
父に逃亡を疑われれば、部屋から出ることすら許されなくなる可能性がある。
(焦ってはいけない。でも、時間もない)
慎重にならなければならないのに、明日の朝には父の返書が出る。
相反する二つの条件に挟まれ、エレノアは椅子の背へ身体を預けた。
「誰か……」
『何?』
「誰か一人くらい、いないかしら」
父にもヴァレリアにも知られず、自分の手紙を屋敷の外へ持ち出してくれる人。
信用できる人。
そう考えた途端、胸の奥が冷たくなった。
(信用できる人……)
その言葉そのものが、今のエレノアにはひどく重かった。
一度目の人生で、彼女は人を信じた。
父を信じた。
婚約者だったレオナードを信じた。
ベルナール家で働く使用人たちについても、少なくとも自分を陥れるような者たちではないと思っていた。
けれど最後には、誰もエレノアを救わなかった。
裁判では証人がいると言われた。
自分が命じたのだと。
自分が企てたのだと。
自分が罪を犯したのだと。
違うと何度訴えても、その声より証拠と証言の方が重く扱われた。
誰がどのような理由で自分に不利な言葉を口にしたのか、今もすべては分からない。それでも、人の言葉一つで自分が死刑台まで追いやられたという事実だけは、あまりにも鮮明に残っていた。
(誰かに頼るのが、怖い)
手紙を託した相手が裏切ったら。
その人が父へ渡したら。
ヴァレリアへ告げたら。
考えれば考えるほど、誰にも渡さない方が安全なように思えてくる。
『エレノア?』
「……ごめんなさい。考えていたの」
エレノアは両手を組み、記憶を探った。
十八歳まで生きた自分の記憶と、十五歳の身体に残る日常の記憶。その二つを焦らず重ねていく。
屋敷には大勢の使用人がいる。
しかし、今のエレノアと親しい者はほとんどいない。
母アデラインが亡くなってから、エレノア付きだった使用人は少しずつ減っていった。
配置換え。
退職。
ほかの仕事へ回すため。
父やヴァレリアからそう説明され、そのたびにエレノアは「そういうものなのだ」と受け入れてきた。
(最後まで私のことを気にしてくれていた人……)
一人の女性の顔が浮かんだ。
茶色の髪をきっちりまとめ、少し厳しそうな顔をしている侍女。
「マーサ……」
『知っている人?』
「昔、私付きだった侍女よ」
名前を口にすると、途切れていた記憶が少しずつ繋がっていった。
幼いころ、髪を結ってくれた。
熱を出した夜には何度も額の布を替えてくれた。
母が亡くなり、泣き方すら分からなくなっていたころ、何も言わず隣へ座ってくれたこともあった。
そして、もっと後。
『お嬢様、お食事は召し上がりましたか?』
『食べたわ』
『本当に?』
心配そうな目。
別の日には。
『お嬢様。その腕はどうなさいました?』
『転んだの』
『……本当に、転ばれたのですか?』
あのときの自分は笑ったはずだ。
大丈夫。
何でもない。
心配しなくていい。
いつものように、そう答えた。
(マーサは、気づいていたの?)
胸の奥がざわつく。
思い返せば、彼女は何度もエレノアへ尋ねていた。
食事は足りているのか。
眠れているのか。
身体の具合は悪くないのか。
何か困っていることはないのか。
けれどエレノアは、何を聞かれても大丈夫だと答えていた。
「マーサは……今もいるはず」
一度目の人生のこの時期なら、まだベルナール伯爵邸で働いていた。
ただし、すでにエレノア付きではない。
(どうして外されたんだっけ……)
記憶は曖昧だった。
ある日突然、ヴァレリアから配置を変えたと聞かされた。その後も屋敷の中で何度か姿を見た記憶はあるが、いつの間にか完全に見かけなくなった。
一度目のエレノアは、そのことすら深く考えなかった。
使用人の配置を決めるのは屋敷を取り仕切る者たちであり、自分が口を挟んではいけないと思っていたからだ。
『探してみる?』
「……ええ」
答えてから、エレノアはすぐに首を振った。
「でも、待って」
『何?』
「昔、優しくしてくれたからって、今も信用できるとは限らないわ」
自分で口にした言葉に胸が痛んだ。
マーサを疑いたいわけではない。
それでも、大切な手紙を預けるとなれば話は別だった。
「もしマーサが今はヴァレリアの指示を受けていたら、この手紙はそのままお父様へ渡るかもしれない。そうなったら、もう二度と外へ連絡できなくなる可能性もあるわ」
『そうね』
「……否定してくれないのね」
『私にはマーサという人の心は分からないもの』
「あなたでも?」
『言ったでしょう。私は心を読めないわ』
エレノアは目を伏せた。
少しだけ、クロノアに「大丈夫、その人なら信じられる」と言ってほしかったのかもしれない。
そう言ってもらえれば、自分で決めずに済む。
もし間違っても、自分の判断ではなかったと思える。
そこまで考えて、エレノアは気づいた。
(また、誰かに決めてもらおうとしてる)
一度目と同じだった。
父が決める。
家が決める。
婚約者が決める。
最後には裁判官たちが、自分の人生の終わりまで決めた。
二度目の人生では自分で選ぶと決めたはずなのに、失敗するのが怖くなった途端、正解を誰かに教えてほしいと思っている。
『絶対に裏切らない人を探しているの?』
クロノアの問いに、エレノアは顔を上げた。
「……できれば」
『そんなこと、どうやって確かめるの?』
「分からない」
『なら、あなたが見たものから選ぶしかないんじゃない?』
簡単な言葉だった。
けれど、その言葉はエレノアの胸へ長く残った。
絶対に正しい選択だと分かってから動くことなどできない。
未来を知っているようでいて、エレノアが知っているのは一度目に起きたことだけだ。今度の人生では、すでに自分が違う選択を始めている以上、明日から先が同じになる保証などどこにもない。
(自分で見て、自分で決める)
それしかない。
怖さは消えなかった。
それでもエレノアは椅子から立ち上がった。
「マーサを探してみるわ」
『手紙を渡すの?』
「まだ決めない。まず会って、話してみる」
そのくらいならできる。
相手を見てから考える。
それも、自分で選ぶための一歩なのだと思った。
エレノアは手紙をさらに小さく折り畳み、ドレスの内側へ慎重にしまった。
◇ ◇ ◇
部屋を出ると、屋敷の空気はいつもと変わらないように見えた。
夕食前の忙しい時間帯で、使用人たちはそれぞれの仕事に追われている。厨房へ食材を運ぶ者、食堂を整える者、廊下の燭台を確認する者が行き交い、エレノアへ気づけば形式通りに頭を下げた。
けれど今は、その一つ一つの視線が気になる。
(もう、お父様から話が回っているのかしら)
分からない。
ただ自分が疑心暗鬼になっているだけかもしれない。
それでも父から命令が出れば、この中の誰かが自分の行動を報告する役目を負うことになる。そう考えると、幼いころから暮らしてきた屋敷なのに、急に知らない場所を歩いているような心細さを覚えた。
「エレノアお嬢様」
背後から呼ばれ、心臓が大きく跳ねた。
振り返ると、若い侍女が立っている。
「どちらへ?」
ただ尋ねただけなのか。
父から見張るよう言われているのか。
エレノアには判断できない。
「少し歩いているだけよ。ずっと部屋にいたから」
「左様でございますか」
侍女はそれ以上追及せず、丁寧に頭を下げて別の方向へ去っていった。
その背中が角を曲がるまで見送ってから、エレノアは自分が息を詰めていたことに気づいた。
(こんなことまで疑ってしまう)
誰かに声をかけられただけで、敵か味方かを考えてしまう。
自分は思っていた以上に、人を信じることが怖くなっているらしい。
それでも歩かなければ何も変わらない。
マーサが今どこで働いているのか、記憶は曖昧だった。
ただ、昔から衣類やリネン類の管理を得意としていたことは覚えている。エレノア付きから外されたあと、そちらの仕事へ回されたような記憶もあった。
使用人区画に近い廊下へ進むと、次第に洗い上げた布の匂いが漂ってくる。
開いた扉の向こうでは、数人の使用人がシーツやタオルを畳んでいた。
その中に、記憶にある姿を見つける。
「……マーサ」
一人の女性が振り返った。
茶色の髪を後ろできっちりとまとめ、地味な使用人服を着ている。十八歳だったエレノアの記憶より三年若いが、間違えるはずがなかった。
「……エレノアお嬢様?」
マーサの目が大きくなる。
手にしていた布を近くの台へ置き、すぐにこちらへ歩いてきた。
「どうしてこちらへ?」
驚いている。
けれど、その声には心配も混じっていた。
それだけでエレノアの胸が少し苦しくなる。
(本当に、いた)
三年前なのだから当然だった。
それでも、一度目の人生でいつの間にか自分の前から消えてしまった人が、今はまだここにいる。
「少し……話がしたくて」
「私と、でございますか?」
「ええ」
マーサはさらに驚いたようだった。
周囲の使用人たちも、作業を続けながらこちらを気にしている。
ここでは話せない。
エレノアが視線を動かしたことに気づいたのか、マーサも周囲を確認した。
「では、少々場所を移しましょう」
マーサは声を落とし、エレノアを廊下へ促した。
少し歩いた先に、小さな物置部屋がある。中に誰もいないことを確認してからエレノアを通し、自分も入ったが、扉は完全には閉めず僅かに隙間を残した。
密室で伯爵令嬢と使用人が長時間話していたと知られる方が不自然なのだろう。
その判断を見て、エレノアは僅かに肩の力を抜いた。
「それで、どうなさいました?」
マーサが尋ねる。
エレノアはすぐには答えなかった。
目の前の女性を見る。
本当に信用していいのだろうか。
手紙を渡していいのだろうか。
もし間違えたら。
「お嬢様?」
マーサが心配そうに眉を寄せた。
「お顔の色が優れません。どこかお身体の具合でも?」
「……大丈夫よ」
反射的に答えた。
するとマーサの表情が、ほんの少しだけ曇った。
「また、そのように仰るのですね」
エレノアは目を瞬かせた。
「……また?」
「失礼いたしました」
マーサはすぐに頭を下げる。
「余計なことを申し上げました」
「待って」
エレノアは思わず呼び止めた。
「どういう意味?」
「それは……」
「教えて」
マーサは迷っていた。
やがて廊下の様子を確認してから、さらに声を落とす。
「お嬢様は以前から、何をお尋ねしても『大丈夫』としか仰いませんでしたから」
胸の奥が僅かに痛んだ。
「お食事を召し上がっていないように見える日も、お顔色が悪い日も、腕を庇っていらっしゃった日も。私がお尋ねすると、いつも大丈夫だと仰っていました」
エレノアは言葉を失った。
(気づいていたんだ)
少なくとも、何かがおかしいとは思っていた。
「どうして……」
声が掠れた。
「どうして、それ以上何も聞かなかったの?」
マーサが驚いた顔をする。
エレノアは自分の言葉が責めるように聞こえたことに気づき、慌てて首を振った。
「違うの。責めたいわけじゃない。ただ、私……覚えていなくて」
「分かっております」
マーサは静かに答えた。
少し考えてから、ゆっくりと言葉を続ける。
「聞きました。何度も」
エレノアは息を止めた。
「ですが、お嬢様は何もないと仰いました。それでも気になって、もう少し様子を見ようとしていたのですが……そのころ、私がお嬢様付きの役目を外されました」
「え?」
「奥様から、配置を変えるようお話がございました」
「ヴァレリアが?」
マーサはすぐには答えなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
「表向きは、私の経験をリネン管理へ活かすためとのことでした。旦那様からも正式に配置換えを命じられましたので、使用人である私には従うほかありませんでした」
「お父様も知っていたの?」
「配置換えについては、はい」
エレノアは近くの棚へ手をついた。
昔の記憶が、ほんの少し形を変えていく。
マーサは自分から離れていったのではなかった。
配置を変えられた。
しかも、エレノアの食事や怪我を気にし始めたころに。
(じゃあ、ほかの人たちも……?)
疑問が浮かぶ。
母が亡くなったあと、自分の周囲から少しずついなくなった使用人たち。
偶然だったのか。
それとも。
今はまだ答えを出せない。
マーサが心配そうに一歩近づいた。
「お嬢様、本当にどうなさったのですか?」
エレノアは反射的に身体を引きかけた。
その瞬間、マーサは動きを止めた。
近づいてこない。
腕を掴まない。
理由を問い詰めることもしない。
「……申し訳ございません」
むしろマーサの方が一歩下がった。
「驚かせてしまいましたね。ここにおりますから、どうかお嬢様のお話しできる範囲でお聞かせください」
エレノアはその姿を見つめた。
右腕へミレーヌの手が伸びてきたとき、自分は反射的に「触らないで」と言った。
父が机を叩いたときには、殴られると思って身体を庇った。
マーサは今、そのどちらもしなかった。
エレノアが退いたことに気づいて、自分から距離を取った。
(この人なら……)
そう思った直後だった。
胸の奥から、別の声が湧き上がる。
(本当に?)
エレノアの指が、ドレスの内側へ隠した手紙へ触れた。
これを渡せば、もう自分だけの問題ではなくなる。
「マーサ」
「はい」
「もし私が……この屋敷の外へ、誰にも知られず手紙を出したいと言ったら」
マーサの目が僅かに動いた。
「どちらへ送られるお手紙でしょうか」
軽々しく「できます」と答えない。
それもまた、エレノアには不思議と安心できる反応だった。
「ロシュフォール公爵家よ」
マーサの目が見開かれた。
「……アデライン様の?」
「ええ。叔父様へ届けたいの」
「アルフォンス公爵閣下へ……」
母の名前を聞いた瞬間、マーサの表情に懐かしさと悲しさが混ざった。
エレノアはその変化を見逃さなかった。
「今日、お父様から第二王子殿下との婚約について話をされたの」
「第二王子殿下と?」
「私は断ったわ」
マーサは明らかに驚いた。
けれど、途中で口を挟むことはなかった。
「お父様は明日の朝、皇室へ受諾の返書を出すそうよ。私が望んでいないと言っても、私の意向は関係ないと仰った。それだけではなく、外出も禁じられたし、私が出す手紙も確認すると言われたわ」
執務室でのやり取りを思い出し、声が僅かに震えた。
「私、このままでは……」
処刑台が頭を過る。
冷たい風。
罵声。
レオナードの腕の中にいたミレーヌ。
エレノアは一度目を閉じ、今いる物置部屋の空気をゆっくり吸い込んだ。
未来のことは言えない。
けれど、今の自分の気持ちは言える。
「このままでは、自分の人生を自分で何一つ決められなくなると思ったの」
マーサは黙って聞いていた。
「だから、叔父様へ助けを求めたい。私を受け入れてくださるかは分からないし、もう私のことなど覚えていないかもしれない。それでも、今の私がどういう状況にいるのかだけでも知ってほしいの」
「……お嬢様」
「父にも、ヴァレリアにも知られずに、この手紙を屋敷の外へ出す方法はある?」
長い沈黙が落ちた。
遠くから食器の触れ合う音が聞こえてくる。
マーサはすぐには答えなかった。
その慎重さが、今のエレノアにはむしろありがたかった。
「一つ、方法がございます」
やがてマーサが言った。
エレノアは顔を上げる。
「明日の早朝、食材の仕入れに出る者がおります。私はリネン管理のほか、使用人用の消耗品について確認を任されることがありますので、買い出しの者へ指示を出すこともございます」
「その人に頼めるの?」
「その中に、私の甥がおります。幼いころから知っている子ですから、事情をすべて話さずとも、私から頼めば余計な詮索はしないでしょう」
「ロシュフォール公爵邸まで行ってもらえる?」
「それは難しいかと」
マーサはすぐに否定した。
「市場へ行くはずの者が公爵邸へ向かえば、戻りが遅くなります。万一行き先を確認されれば、不自然です」
「では……」
「市場には、ロシュフォール公爵家へ品物を納めている商会があるはずです。その商会を通じ、公爵家の使用人へ直接渡すよう頼むことならできるかもしれません」
確実ではない。
途中に何人もの人間を挟む。
失敗する可能性もある。
それでも、初めて見えた道だった。
エレノアはドレスの内側へ手を入れた。
折り畳んだ手紙へ指が触れる。
取り出しかけて。
止まった。
「……お嬢様?」
マーサが不思議そうに見る。
エレノアは答えられなかった。
先ほどまで、マーサを探しさえすれば何とかなるかもしれないと思っていた。
実際に会って、昔と変わらず自分を心配してくれていたことも知った。
配置換えがマーサ自身の意思ではなかったことも分かった。
それなのに。
手紙を渡すことが、怖い。
(もし、これをお父様へ持っていかれたら?)
想像しただけで、指が冷たくなる。
ロベルトは怒るだろう。
今以上に行動を制限される。
ヴァレリアにも知られる。
ロシュフォール公爵家へ助けを求めようとした事実そのものが、次に逃げる道を塞ぐための材料にされるかもしれない。
そして何より。
(もし、マーサまで私を裏切ったら……)
それが怖かった。
方法を失うことだけではない。
幼いころに優しくしてくれた記憶まで、信じられなくなることが怖かった。
一度目の人生で、エレノアは何度も同じ痛みを味わった。
父なら最後には娘を信じてくれると思っていた。
信じてくれなかった。
三年間婚約者として過ごしたレオナードなら、せめて自分の話くらい聞いてくれると思っていた。
彼は「もういい」と言った。
それまで積み重ねてきた時間が、何の意味もなかったかのように。
だから今度は、誰も信じなければいい。
そんな考えが、胸の奥へ忍び込む。
誰にも頼らない。
誰にも弱いところを見せない。
誰にも自分の人生を預けない。
そうすれば、少なくとも裏切られることはない。
(でも……)
処刑前の牢で過ごした時間を思い出した。
冷たい壁。
閉ざされた扉。
何を言っても信じてもらえず、誰も来ないまま処刑の日を待っていた自分。
あのときエレノアが何より欲しかったのは、たった一人でも自分の言葉を信じてくれる人だった。
(今度の人生でも、私は一人になるの?)
裏切られるのが怖いから。
傷つきたくないから。
そうやって差し出された手まで拒絶して、すべて一人で抱えるのか。
それは違うと思った。
少なくとも、自分が望んでいた二度目の人生は、そんなものではない。
エレノアは目の前にいるマーサを見た。
未来は分からない。
人の心も見えない。
だからこそ、過去に自分が見たものを一つずつ思い返す。
母が生きていたころ、マーサはいつも自分のそばにいた。
母が亡くなったあとも、すぐに離れたわけではない。
食事をしているかと聞いた。
顔色を気にした。
腕の怪我を尋ねた。
何度「大丈夫」と答えても、心配そうな目をしていた。
そして、エレノアの異変へ踏み込もうとしたころに配置を外された。
今も、エレノアが身体を引いた瞬間、自分から距離を取った。
手紙の送り先も確認せずに安請け合いしなかった。
公爵邸まで直接届けることが難しい理由も隠さず話した。
絶対に信用できるという証拠ではない。
けれど。
(これは、私が見たこと)
父から聞いた話ではない。
ヴァレリアに教えられたことでもない。
クロノアから未来の答えを与えられたわけでもない。
エレノア自身が見て、聞いて、覚えていることだった。
(私は、この人をどう思っている?)
そこまで考えて、ようやく自分へ問いかけた。
誰かが正しいと言っているからではない。
絶対に裏切らないという保証があるからでもない。
自分は、マーサをどう思うのか。
答えはすぐに出た。
(信じたい)
その言葉を胸の中で口にすると、まだ何かが足りないように感じた。
信じたい。
けれど、怖い。
だから保証が欲しい。
それでは結局、誰かに正解を与えてもらうまで動けない。
エレノアは小さく息を吸った。
(違う)
今度は、はっきり思う。
(私は、マーサを信じる)
信じられると証明されたからではない。
自分でそう決める。
間違う可能性もある。
その結果、また傷つくかもしれない。
それでも、自分が見てきたものを信じ、自分の判断で誰かを選ぶ。
それこそが、自分の人生を選ぶということなのかもしれない。
エレノアはドレスの内側から手紙を取り出した。
「マーサ」
「はい」
「私……あなたを信じるわ」
マーサの目が僅かに見開かれた。
エレノアは自分でも驚くほど真っ直ぐに、その目を見返した。
「怖いの。この手紙を渡して、お父様のところへ持っていかれたらどうしようって考えているし、ヴァレリアに知られたらどうしようとも思っている」
「お嬢様……」
「あなたを疑いたいわけじゃない。でも私、誰かを信じることそのものが怖くなっているみたい」
マーサは何も言わなかった。
自分は絶対に裏切らないと、軽々しく約束することもしない。
ただ、エレノアが続きを話すのを待っている。
その姿を見て、エレノアは最後に一度だけ手紙へ視線を落とした。
「それでも、あなたに託したい」
震える手を伸ばす。
「お願い。この手紙を叔父様へ届けて」
マーサはすぐには受け取らなかった。
エレノアの顔を見つめ、その決意を確かめるように僅かな間を置いてから、両手を差し出した。
「承知いたしました」
手紙が自分の指から離れた。
その瞬間、取り戻したくなるほど強い恐怖が胸を走った。
もう自分には、この先のすべてを管理することはできない。
マーサがどうするのか。
その甥がどう動くのか。
商会の人間が本当に届けてくれるのか。
それを完全に確かめる術はない。
(これが、託すっていうことなんだ)
自分ではない誰かを信じる。
それは、自分の手を離れたものまで支配しようとしないことでもあるのかもしれない。
エレノアは空になった自分の手を見つめた。
怖さは消えていない。
けれど、後悔はしていなかった。
「お嬢様」
「何?」
マーサが手紙を大切そうに持ったまま、静かに口を開いた。
「もしこのことが旦那様や奥様に知られれば、私はおそらくこの屋敷にはいられません」
エレノアは顔を上げた。
胸の奥へ冷たいものが落ちる。
「……だったら駄目よ」
反射的に手を伸ばした。
「返して。あなたにそこまでさせられない」
「最後までお聞きください」
マーサは手紙を奪われないよう隠すこともせず、穏やかに続けた。
「それでも、私は届けます」
「どうして……?」
「昔、一度だけ、もっと何かできたのではないかと後悔したことがございます」
マーサの声に、僅かな痛みが混じる。
「アデライン様がお亡くなりになったあと、お嬢様の様子がおかしいと気づいておりました。それでも私は使用人でしたから、主人の家庭へどこまで踏み込んでよいのか分からなかった。お嬢様自身も大丈夫だと仰っていましたし、配置を外されてからは、なおさら何もできなくなりました」
マーサは一度目を伏せた。
「それでも、ずっと気になっておりました」
「……私のことが?」
「はい」
あまりにも簡単な返事だった。
だからこそ、胸の奥深くまで届いた。
一度目の人生で、自分は誰からも必要とされていないと思っていた。
母は死んだ。
父には見てもらえなかった。
最後には婚約者からも捨てられた。
けれど、自分の知らないところで気にかけてくれていた人がいた。
「お嬢様が今、ご自分から助けを求めようとなさっているのでしたら」
マーサは手紙を胸元へ寄せた。
「今度は、その手を見なかったことにはしたくありません」
視界が滲んだ。
エレノアは慌てて俯きかけたが、今度は隠さなかった。
「……ありがとう」
声が震える。
「ありがとう、マーサ」
「まだ届いておりませんよ」
少しだけ困ったようにマーサが笑った。
その言葉に、エレノアも涙を拭いながら僅かに笑った。
「そうね」
「必ず届くとは申し上げられません。途中で危険だと判断した場合には、持ち帰ることもございます」
「それでいいわ」
無責任に「必ず」と言わないことが、今は嬉しかった。
絶対ではない。
それでも一緒に方法を考えてくれる。
それで十分だった。
「それから、お嬢様。今夜は普段と違うことをなさらないでください」
「普段と?」
「旦那様がお嬢様の行動を気にしておられるのでしょう。でしたら、急に使用人へ何かを尋ねたり、屋敷の中を歩き回ったりすれば、それだけで疑われる可能性があります」
エレノアはここまで来た自分の行動を思い返した。
「……もう十分、普段と違うことをしてしまったわ」
「ですから、これ以上です」
マーサの返答に、エレノアは素直に頷いた。
「分かった。部屋へ戻る」
「それがよろしいかと。明日の朝まで、私からお嬢様へ話しかけることもしない方がよいでしょう」
「ええ」
「何かございましたら、こちらで方法を考えます」
エレノアはもう一度頷き、物置部屋を出ようとした。
けれど扉の前で足が止まる。
「マーサ」
「はい」
「私、昔……あなたがいなくなったとき、嫌われたんだと思っていた」
マーサの目が大きく見開かれた。
「そんなことは――」
「今は違ったと分かったわ」
エレノアは小さく笑った。
「それだけ、伝えたかったの」
マーサはしばらく何も言わなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「お嬢様を嫌ったことなど、一度もございません」
その言葉を胸に、エレノアは物置部屋を出た。
◇ ◇ ◇
自室へ戻る途中、エレノアはできるだけ普段通りに歩いた。
走らない。
何度も後ろを確認しない。
誰かとすれ違えば、いつものように軽く頷く。
それでも胸の中では、先ほどの出来事が何度も繰り返されていた。
(渡したんだ)
もう手紙は自分の手元にはない。
怖い。
それでも、不思議なほど胸の奥が軽かった。
部屋へ戻って扉を閉めると、クロノアが窓辺に浮かんでいた。
『渡したのね』
「ええ」
『信じられた?』
エレノアは少し考えた。
「……未来まで信じられるかは、分からない」
『そう』
「でも、マーサを信じることにした」
クロノアがエレノアを見る。
「変かしら」
『どうして?』
「だって、裏切られない証拠なんてないもの」
『そんなものがなければ信じてはいけないの?』
エレノアは答えなかった。
やがて、自分の手を見下ろす。
「違うみたい」
人を信じるということは、未来を保証してもらうことではない。
少なくとも今の自分には、そう思えた。
「怖くても、自分で見て、自分で考えて、それでもこの人に託したいと思ったから渡したの」
『なら、それがあなたの選択ね』
「……ええ」
胸の奥へ、その言葉が静かに落ちる。
自分で選んだ。
結果はまだ分からない。
けれど、自分で選んだことだけは確かだった。
◇ ◇ ◇
夕食の時間になると、使用人がエレノアを呼びに来た。
食堂へ向かう間、別の緊張が胸へ広がっていく。
父と再び顔を合わせる。
そして、ヴァレリアもいる。
食堂の扉が開かれると、すでに三人は席についていた。
「遅いわよ、エレノア」
最初に声をかけてきたのはヴァレリアだった。
艶やかな赤褐色の髪を美しく結い上げ、伯爵夫人として隙のない装いをしている。かつて高級娼婦として富裕層や貴族たちを相手にしていた彼女は、人からどう見られるかという点においては非常に優れていた。
笑顔も柔らかい。
声も優しい。
知らない人間が見れば、娘を気遣う美しい伯爵夫人にしか見えないだろう。
「申し訳ありません」
習慣で謝罪してから、エレノアは自分の席へ向かった。
今は、わざわざ訂正しない。
父との対決を経て、少しだけ分かったことがある。
反論しないことと、従うことは同じではない。
必要なときまで黙ることも、自分で選べる。
「お姉様、もう具合はいいの?」
向かい側のミレーヌが心配そうに尋ねる。
「ええ。少し休んだから」
「よかった。さっきは本当に顔色が悪かったもの」
柔らかく笑う。
その笑顔だけを見れば、姉を心配する妹にしか見えない。
食事が運ばれてきた。
温かなスープに焼いた肉、付け合わせの野菜とパンが並べられる。
エレノアは目の前の料理を見つめた。
(こんなにあったかしら)
家族全員が揃う夕食では、体裁を整えるためにきちんとした料理が並んでいたような記憶がある。
問題は、それ以外だった。
朝。
昼。
家族が揃わない日。
そのとき自分が何を食べていたのか。
思い出そうとしたところで、ヴァレリアの声がした。
「あなた、旦那様にずいぶん困ったことを言ったそうね」
エレノアの手が止まる。
ロベルトを見ると、父は何も言わずワインへ口をつけていた。
「第二王子殿下との婚約を嫌がっているとか。せっかくの名誉なお話なのに、どうしたの?」
「望んでいないからです」
エレノアは静かに答えた。
「まあ」
ヴァレリアが目を丸くする。
その反応すら、どこか計算されているように見えた。
「そんなことを言って。殿下にお会いすれば、きっとお気持ちも変わるわ」
(変わらない)
エレノアは心の中だけで答えた。
会ったからこそ知っている。
三年間。
十分すぎるほど。
「今は突然のお話で驚いているだけなのでしょう。女の子ですもの、結婚と聞けば不安になることもあるわ」
ヴァレリアはロベルトへ柔らかく微笑んだ。
エレノアが明確に拒絶したという話を、いつの間にか「結婚に不安を感じている十五歳の少女」の話へ置き換えている。
(こうやって、この人は人の言葉を変えるんだ)
エレノアは初めて、それを意識して見た。
「違います」
ヴァレリアを見る。
「私は不安だから断っているのではありません」
「エレノア」
ロベルトの声が低くなった。
その声だけで身体が強張りかける。
けれど、ドレスの下に隠れた手を握り、呼吸を整えた。
明日の朝にはマーサが動く。
今ここでヴァレリアと争っても、何も得られない。
「……食事中に申し訳ありません」
そう言って、エレノアは自分から話を切った。
ヴァレリアの口元が僅かに緩んだ。
以前なら、その笑みに負けたような悔しさを覚えただろう。
けれど今は違う。
(好きに思えばいい)
自分はもう、父にもヴァレリアにも知らせていない道を一つ作った。
だから今は、黙ることを選べる。
「でも、お姉様」
ミレーヌが口を開いた。
「第二王子殿下のお妃様になれるかもしれないなんて、すごいことよね」
無邪気な声だった。
「私だったら、きっと嬉しくて眠れないわ」
エレノアの指先が僅かに止まった。
三年後。
レオナードの腕の中にいたミレーヌが脳裏を過る。
あの光景を完全に消すことはできない。
けれど、目の前にいるのは十五歳のミレーヌだ。
エレノアはゆっくり顔を上げた。
「そう」
「ええ。だって皇子様よ? お姉様は昔からそういうことにあまり興味がないけれど――」
「なら、あなたには嬉しいお話なのでしょうね」
ミレーヌが瞬きをした。
「え?」
「でも、私はあなたではないわ」
声を荒らげたわけではない。
責めてもいない。
ただ、自分と妹を分けただけだった。
ミレーヌは何を言われたのか理解できないような顔をしている。
ヴァレリアも、僅かに目を細めた。
エレノアはそれ以上続けず、スープへ匙を入れた。
短い沈黙の中で、自分の胸に生まれた感覚を確かめる。
妹が欲しいものを、自分まで欲しがる必要はない。
父が望むものを、自分も望む必要はない。
ヴァレリアが幸せだと言う人生を、自分まで幸せだと思わなくてもいい。
そんな当たり前のことを、十五歳へ戻った今になって、一つずつ覚え直している。
◇ ◇ ◇
その夜、エレノアはなかなか眠れなかった。
ベッドへ横になっても、明日のことばかり考えてしまう。
父の返書は朝に出される。
マーサの甥も、早朝には市場へ向かうという。
自分の手紙は市場の商会を経由する以上、ロシュフォール公爵家へ届くまで時間がかかるだろう。
父の返書を止めるには、間に合わないかもしれない。
けれど、縁談を受けると返事をしただけで、その瞬間に婚姻が成立するわけではない。
まだ時間はある。
少なくとも、そう信じて動くしかない。
「クロノア」
暗闇の中で小さく呼ぶ。
『起きてるわよ』
部屋の隅に、淡い銀色の光が浮かんだ。
「神霊も眠るの?」
『眠ることもあるわ』
「曖昧ね」
『人間と同じではないもの』
その声を聞くだけで、少し安心する。
エレノアは布団の中で横を向いた。
「叔父様、来てくれると思う?」
クロノアはすぐには答えなかった。
『分からない』
「そうよね」
分かっていた。
それでも聞きたかった。
『でも』
「何?」
『あなたが手紙を出さなかった一度目とは、もう違うわ』
エレノアは暗闇の中で目を開いた。
一度目の人生では、ロシュフォール公爵家へ助けを求めなかった。
求めようとも思わなかった。
だから、これから起こることはエレノアの記憶にはない。
クロノアにも答えは分からない。
(未来は、もう決まっていない)
それは怖い。
けれど同時に、希望でもある。
「私ね」
『うん?』
「マーサに手紙を渡したとき、本当に怖かった」
『見ていたわ』
「取り返そうかと思ったくらい」
『それでも渡した』
「ええ」
エレノアは自分の胸へ手を置いた。
「信じるって、もっと安心できることだと思っていた」
父を信じていたころ。
レオナードを信じていたころ。
疑うことすら知らなかった。
今は違う。
「怖くても、信じることはできるのね」
『あなたはそうしたわ』
「……うん」
小さく答える。
今日一日だけで、あまりにも多くのことがあった。
処刑された。
時間を戻った。
父へ逆らった。
ミレーヌを拒んだ。
自分の身体に残る痣を見た。
助けてほしいと手紙を書いた。
そして、その手紙を誰かへ託した。
どれも一度目の人生ではできなかったことだった。
「怖いけど……少しだけ、嬉しい」
『どうして?』
「自分で決めたから」
それが正しい選択だったかどうかは、まだ分からない。
それでもエレノアは、その答えを誰かから与えられるのではなく、自分で確かめていきたいと思った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
まだセレディアの空が薄青く、伯爵邸の家族が眠っている時間。
使用人用の裏口では、すでに一日の仕事が始まっていた。
厨房で使う食材を仕入れるため、小さな荷車へ空の籠がいくつも積み込まれている。馬が白い息を吐き、早朝の冷たい空気の中で蹄を鳴らした。
「今日は布用の石鹸も忘れないでおくれ」
マーサはいつもと変わらない声で、一人の若い使用人へ声をかけた。
「分かってるよ、叔母さん」
「それから」
誰にも見られていないことを確かめてから、マーサは小さく折り畳まれた手紙を差し出した。
「これをお願いしたい」
若者が眉を上げる。
「手紙?」
「市場のラング商会へ持っていって。ロシュフォール公爵家へ届けてほしいと頼むんだ」
「公爵家?」
驚いて声を上げかけた甥へ、マーサはすぐ人差し指を立てた。
「声が大きいよ」
「ご、ごめん。でも、どうして叔母さんが公爵家に?」
「聞かないでおくれ」
マーサは手紙を握ったまま、真剣な顔で甥を見る。
「これは、私にとってとても大切な頼まれものなんだ。できれば商会の主人か、公爵家との取引を任されている人へ直接渡してほしい」
「分かった」
「なくさないでおくれよ」
「子供じゃないんだから」
若者は苦笑しながら手紙を受け取り、上着の内側へ丁寧にしまった。
マーサはその場所を確認してから、ようやく手を離した。
やがて荷車が動き出す。
裏門が開き、いつものように市場へ向かう荷車がベルナール伯爵邸の敷地から出ていった。
門番は荷台を一瞥しただけだった。
毎朝繰り返される光景だったからだ。
誰も止めない。
誰も、その若い使用人の上着の内側にあるものを知らない。
やがて門が閉じた。
マーサはその場に立ったまま、遠ざかっていく荷車を見送った。
一方、そのころ。
自室のベッドで浅い眠りから目を覚ましたエレノアは、まだ何も知らなかった。
自分が震える手で書いた手紙が、すでにベルナール伯爵邸の門を越えたことを。
自分が初めて、自分の意思で信じると決めた相手が、その信頼へ応えたことを。
そして。
ロベルトも、ヴァレリアも知らないところで。
一度目の人生には存在しなかった道が、確かにロシュフォール公爵家へ向かって伸び始めていた。




