第2話 今度は、従いません
「お断りいたします」
その言葉が落ちた瞬間、ベルナール伯爵邸の執務室から音が消えたように感じられた。
窓の外では午後の穏やかな風が庭木の枝を揺らし、どこか遠くから鳥の声も聞こえている。磨き上げられた机も、壁一面を埋める本棚も、深い色合いの絨毯もエレノアの記憶にあるものと何一つ変わっていないのに、机を挟んで向かい合う父ロベルトだけは、娘が何を口にしたのか理解できないような顔をしていた。
エレノアもまた、自分の言葉が現実になったことを確かめるように、膝の上で両手を握っていた。
(言った。本当に、断ったんだ)
十五歳だったころの自分には、一度もできなかったことだった。
父から告げられた婚約話を疑うこともなく受け入れ、第二王子の婚約者に選ばれたことを喜んだ。父に認めてもらえたような気がして、これからもっと頑張れば自分にも居場所ができるかもしれないとさえ思っていた。
その三年後、自分が罪人として処刑台へ立つことになるとも知らずに。
「……今、何と言った?」
ロベルトの低い声に、エレノアの肩がびくりと揺れた。
身体の奥へ染み込んだ習慣というものは、時間を遡ったくらいでは消えてくれないらしい。父の声が低くなっただけで背筋が強張り、喉が狭くなって、次に何を言えば怒られずに済むのかを無意識に探してしまう。
(謝らなくちゃ)
そんな言葉まで反射的に浮かび、エレノアは唇を開きかけた。
けれど、その瞬間に脳裏を過ったのは、三年後の中央広場だった。
両手には冷たい鉄枷があり、周囲からは人殺しと罵られている。その先ではレオナードがミレーヌの肩を抱き、自分を見ることすら拒絶するように彼女を庇っていた。
そして父は、処刑されようとしている娘と一瞬だけ目を合わせたあと、何も言わずに視線を逸らした。
(ここで謝って、言うことを聞いたら、また同じ道へ戻るだけ)
心臓は痛いほど鳴っていた。それでもエレノアは震えそうになる息をゆっくり吐き、父から目を逸らさないように顔を上げた。
「第二王子殿下との婚約は、お受けいたしませんと申し上げました」
一度目よりも、はっきり言えた。
ロベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「理由を聞こう」
怒鳴られなかったことに安堵するどころか、その静かな声の方がエレノアには恐ろしく感じられた。父が本当に機嫌を損ねたときほど、最初は声を荒らげないことを知っているからだ。
「私は、第二王子殿下との婚姻を望んでおりません」
「理由になっていない」
「私にとっては理由です」
答えながら、エレノアは机の上に置かれた書状へ視線を向けた。
ヴァレンティア皇室からベルナール伯爵家へ届けられた、第二王子レオナードとの婚約に関する打診。その書状を一度目の人生では胸を高鳴らせながら見つめていたことまで、今では遠い昔の出来事のように思える。
ロベルトは呆れたように息を吐いた。
「相手は第二王子殿下だぞ。皇帝陛下の御子であり、ヴァレンティア皇室に連なるお方だ。伯爵家の娘がそのような縁談をいただくことが、どれほど名誉なことか分かっているのか?」
「分かっております」
「ならば何が不満だ」
「不満があるから断るのではありません。私は殿下との婚姻を望んでいないのです」
自分でも驚くほど、その言葉は静かに出た。
もちろん、本当の理由は言えない。
三年後にレオナードが自分を見捨てるから。
ミレーヌと深い関係になり、自分が二人を毒殺しようとしたという冤罪を信じるから。
最後には公開処刑されるから。
そんな話を今ここでしても、ロベルトが信じるはずがない。
けれど、未来を説明できないからといって、婚約を受け入れなければならない理由にはならないはずだった。
「お父様は、この婚約を望んでいらっしゃるのですね」
「当然だ」
返事には一瞬の迷いもなかった。
「第二王子殿下との縁が結ばれれば、ベルナール家は皇室との繋がりを持つことになる。お前にとっても、これ以上の縁談など望めまい」
「では、私が望んでいるかどうかは関係ないのですか?」
問いかけた瞬間、ロベルトの表情が変わった。
エレノア自身も、胸の奥が大きく震えるのを感じていた。これまで父に、自分の意思について尋ねたことなど一度もなかったからだ。
伯爵家の娘なのだから従うもの。
父が決めたことなのだから間違っていない。
それを疑うという発想すら、一度目の自分にはなかった。
「……貴族の婚姻を何だと思っている」
ロベルトはしばらく娘を見たあと、重々しく口を開いた。
「平民の若者がする恋愛とは違う。家と家を結び、互いに利益をもたらすためのものだ。お前もベルナール伯爵家の娘として生まれた以上、それに応じた責任を負っている」
「それは理解しております」
「理解している人間が、皇族との婚約を嫌だから断るなどと言うものか」
「私は嫌だとは申し上げておりません。望んでいないと申し上げています」
「同じことだ!」
突然、ロベルトの手が机を叩いた。
硬い音が執務室へ響いた瞬間、エレノアの身体は考えるより先に動いていた。肩を竦め、片腕を胸元へ寄せるようにして、飛んでくるかもしれない何かから身を守ろうとしてしまう。
息が止まり、視線が父の右手へ吸い寄せられた。
けれどロベルトは机の向こう側にいる。椅子から立ち上がってすらいない以上、その手がエレノアへ届くはずもなかった。
「……何をしている?」
怪訝そうな声をかけられ、自分がどんな姿勢を取っているのかに気づいた。
エレノアは慌てて腕を下ろした。
「いえ……申し訳ありません」
謝罪が口から出てから、胸の奥へ鈍い痛みが走った。
(また謝った)
何もしていない。
父が机を叩いた音に驚いただけなのに、どうして自分が謝っているのだろう。
同時に、右の上腕がじくりと疼いた気がした。ドレスの袖に隠れている場所には、この十五歳の身体が昨日まで受けてきたものがまだ残っている。
誰の手によるものだったのか。
何があったのか。
記憶の端に浮かびかけたものを、エレノアは今は追わなかった。
「今日はどうしたというのだ。先ほどから妙なことばかり言って」
ロベルトは娘がなぜ身体を庇ったのか追及することもなく、苛立ったように椅子へ深く座り直した。
それが、なぜかエレノアにはひどく悲しかった。
(気づかないんだ)
自分の娘が、大きな音を聞いただけで殴られることを恐れるような反応をした。
それを見ても、父は疑問に思わない。
あるいは、深く考えるほどのことではないと思っている。
どちらなのかは分からなかった。
けれど今、確かめたいとも思わなかった。
「お前はまだ十五歳だ」
ロベルトの声が再び聞こえ、エレノアは顔を上げた。
「世の中のことを何も知らない。今は突然の話に驚いて、くだらない考えを起こしているだけだろう」
「違います」
「違わない」
「私自身が望んでいないと言っているのです」
「だから、それをお前が決めることではないと言っている」
エレノアは言葉を失った。
ロベルトは机の上の書状へ手を置き、娘へ冷たい視線を向ける。
「勘違いするな、エレノア。私はお前に婚約してもよいかと許可を求めるために、ここへ呼んだのではない」
胸の奥が冷えていく。
「……では、何のために?」
「決まったことを知らせるためだ」
「まだ決まってはいないはずです」
エレノアはすぐに返した。
「先ほど、お父様は『婚約について正式に話を進めることになった』と仰いました。すでに成立している婚約であれば、そのような言い方はなさらないはずです」
ロベルトの目が鋭くなる。
「何が言いたい」
「皇帝陛下から婚姻を命じられたわけではなく、皇室から縁談として打診を受けた段階なのでしょう?」
一度目の人生で身につけた知識が、ようやく役に立った。
第二王子の婚約者になってから、皇室へ嫁ぐ者として相応しくあれと、礼法から宮廷慣習、貴族間の婚姻手続きまで嫌というほど学ばされた。十五歳の自分にはなかった知識だが、十八歳まで生きたエレノアの中には残っている。
「正式な勅命でないのなら、ベルナール家側から辞退することは可能なはずです」
ロベルトはしばらく何も言わなかった。
その沈黙だけで、エレノアには自分の推測が正しいと分かった。
「……ずいぶんと妙な知恵をつけたものだな」
「必要なことを申し上げているだけです」
「誰から聞いた?」
「誰からも聞いておりません」
「では、なぜ十五のお前がそのようなことを知っている」
答えられない。
エレノアは一瞬だけ言葉に詰まったが、やがて静かに答えた。
「これまで教えていただいたことから、考えました」
「お前が?」
「はい」
疑いの眼差しが向けられる。
エレノアは耐えた。
時間を遡ったことだけは、知られるわけにはいかない。
しばらく続いた沈黙のあと、ロベルトは鼻から息を吐いた。
「まあいい。どこで聞きかじったか知らんが、そんなものは意味を持たない」
「どういう意味ですか?」
「明日の朝、先方へ受諾の返書を出す」
エレノアは息を呑んだ。
「お待ちください」
「待つ必要はない」
「私はお断りすると、先ほどから申し上げています」
「それはお前の意向だ」
「私の婚姻です!」
思わず声が大きくなった。
ロベルトの顔が険しくなる。
エレノアは怖さを覚えたが、もう言葉を引っ込めることはできなかった。
「結婚するのは私です。第二王子殿下の婚約者になるのも、いずれ殿下の妻になるのも私なのに、どうして私の意向が関係ないのですか?」
「お前がベルナール家の娘だからだ」
ロベルトは即答した。
その言葉には、疑問を差し挟む余地など一切ないようだった。
「お前をここまで育てたのはベルナール家だ。衣食住を与え、伯爵令嬢としての教育を受けさせ、身分に相応しい生活をさせてきた。その恩恵を受けながら、家のために何かを求められた途端、自分の人生だから好きにさせろなどという理屈が通ると思うな」
エレノアは黙って父を見つめた。
(身分に相応しい生活……)
その言葉だけが、妙に耳へ残った。
今朝、自分は何を食べただろう。
昨日は。
袖の下にある痣は。
考え始めると、胸の奥がざわついた。
けれど今は、それを父へ訴えることができなかった。何から話せばいいのかさえ分からないほど、自分にとって当たり前になりすぎていたからだ。
「明日の返書には、ベルナール家として謹んでお受けすると記す」
ロベルトは続けた。
「お前も大変光栄に思っていると伝えておこう」
「やめてください」
エレノアは思わず立ち上がった。
「私はそんなことを思っていません。私が喜んでいるなどと、勝手に伝えないでください」
「座りなさい」
「ですが――」
「座れ、エレノア」
低く命じられ、身体が硬直する。
すぐに従いそうになった自分へ気づき、エレノアは唇を噛んだ。
それでも立ち続ける。
脚が震えている。
「……嫌です」
「何?」
「今は、座りません」
ロベルトが目を見開いた。
その表情を見た瞬間、エレノアは自分がどれほど父の想定から外れたことをしているのか理解した。
父の命令に従わない。
ただそれだけのことが、この家では異常なのだ。
「ずいぶんと反抗的になったものだな」
ロベルトがゆっくり立ち上がった。
エレノアの身体が強張る。
父が机の横を回り込んでくる。
一歩。
また一歩。
距離が縮まるたび、心臓が速くなる。
(怖い)
逃げたい。
けれど足が動かなかった。
ロベルトはエレノアの目の前まで来ると、見下ろすようにして立った。
「誰かがお前に余計なことを吹き込んでいるのなら、今のうちに言え」
「誰もいません」
「本当か?」
「はい」
「ヴァレリアでも、ミレーヌでもないのだな」
「違います」
ロベルトは娘の顔を探るように見つめたあと、静かに告げた。
「ならば、なおさら頭を冷やす必要があるようだ」
嫌な予感がした。
「今日から当面、お前が私の許可なく屋敷の外へ出ることを禁じる」
「……え?」
「社交も必要ない。外出の予定があるなら、すべて取り消せ」
エレノアは目を見開いた。
「どうしてですか?」
「妙な考えを持ったまま外で余計なことをされては困るからだ」
「私は何も――」
「それから、お前宛てに届く書簡と、お前が外へ出す書簡はすべて確認する」
今度こそ言葉を失った。
「誰が……確認するのですか?」
「私かヴァレリアだ。必要なら使用人にも申しつけておく」
エレノアの胸が冷たくなる。
「そんな……」
「来客も同じだ。お前が個人的に誰かと会うことは当面認めない」
「お父様、それは――」
「明日、皇室へ返書を出す。それまで自室で自分の立場をよく考えろ」
「待ってください!」
エレノアは声を上げた。
「それでは、私には何もできないではありませんか!」
ロベルトは僅かに眉を寄せた。
「何をする必要がある?」
その問いに、エレノアは息を詰まらせた。
あまりにも自然な口調だった。
娘が自分で何かを選ぶ必要など、最初からないと思っている。
父が決める。
ベルナール家が決める。
エレノアはそれに従えばいい。
それがロベルトにとっては当然なのだ。
(断れば終わると思っていた)
時間を戻してもらった。
婚約が成立する前へ戻った。
だから「嫌です」と言えば、未来を変えられるのだと思っていた。
(違う)
目の前にいる父は、エレノアが断ったことそのものを認めていない。
(この人は、私が頷くまで、私が断ったことにしないんだ)
背筋に寒気が走った。
もし明日、父が皇室へ受諾の返書を出したらどうなる。
ベルナール伯爵家は縁談を喜んで受けた。
エレノア本人も光栄に思っている。
そういう話として進んでいく。
本人である自分だけが違うと言っても、その声が外へ届かなければ意味がない。
外出を禁じられた。
手紙も確認される。
来客も制限される。
(閉じ込められる)
鉄格子も、枷もない。
けれど処刑前に入れられていた牢が一瞬だけ頭を過り、エレノアの呼吸が浅くなった。
「……私が最後まで嫌だと言ったら?」
震える声で尋ねた。
ロベルトは娘を見下ろしたまま、僅かに眉を寄せた。
「そのうち理解する」
「理解しなかったら?」
「エレノア」
「私は、殿下とは結婚しません」
喉が震える。
それでも言った。
「明日になっても、一月後でも、私は同じことを言います」
ロベルトの目に明確な苛立ちが浮かんだ。
「ならば、理解するまでこの屋敷で考えればいい」
その言葉で、エレノアは悟った。
父は折れない。
自分を説得するつもりですらない。
従うまで待てばいいと思っている。
エレノアには金も権力もなく、十五歳の伯爵令嬢という立場では父の庇護から簡単には離れられない。それをロベルト自身が誰より理解しているのだ。
「……分かりました」
エレノアは静かに答えた。
ロベルトの表情が僅かに緩んだ。
「ようやく分かったか」
「いいえ」
エレノアは首を横へ振った。
「お父様が私の話を聞くつもりがないということが、分かりました」
ロベルトの顔から表情が消える。
怖かった。
それでも、今度は謝らなかった。
「失礼いたします」
「待ちなさい」
呼び止められたが、エレノアは扉の前まで歩いた。
「明日の朝までに考えを改めろ」
背中へ父の声が届く。
「これは、お前のためでもある」
扉へ置いた指が一瞬だけ止まった。
(私のため)
処刑場で、こちらから目を逸らした父の顔を思い出す。
あの未来を知っている自分には、もうその言葉へ縋ることはできなかった。
「私のためかどうかは、私が決めます」
振り返らずに答え、エレノアは執務室を出た。
◇ ◇ ◇
扉が閉まった途端、全身から力が抜けた。
エレノアは廊下の壁へ手をつき、何度かゆっくり呼吸を繰り返した。手の震えは止まらず、膝にも上手く力が入らない。それでも父の前で倒れず、最後まで自分の意思を口にできたことだけは確かだった。
(怖かった。でも、言えた)
それで何かが解決したわけではない。
むしろ状況は悪くなった。
明日の朝には皇室へ受諾の返書が出される。さらに外出を禁じられ、書簡も来客も監視されることになった以上、このまま何もしなければ一度目と同じ婚約が成立する可能性は高い。
(私が嫌だと言うだけでは、足りないんだ)
自分には選ぶ権利があると思っても、父がその権利を認めない。
ならば、父が認めてくれる日を待っていてはいけない。
エレノアは壁から手を離し、自室へ向かって歩き始めた。
廊下の途中ですれ違った使用人たちが、いつもと変わらぬ様子で頭を下げる。けれど、父から命令が出れば、この中の誰もが自分の行動を見張る側へ回るのかもしれないと思うと、見慣れた屋敷が急に知らない場所のように感じられた。
「お姉様?」
階段へ差しかかったところで、聞き覚えのある声がした。
エレノアの足が止まる。
階段の上に立っていたのは、蜂蜜色の髪を柔らかく結った少女だった。淡い色のドレスに身を包み、大きな瞳でこちらを見つめている。
十五歳のミレーヌ・ベルナール。
処刑の日、レオナードの腕の中にいた異母妹だった。
「……ミレーヌ」
名前を呼んだだけで、記憶が現在へ重なりそうになる。
けれどエレノアは唇を結び、目の前にいる十五歳の少女と、三年後の処刑場にいた彼女を無理に同じ光景へ押し込まないようにした。
「どうしたの、お姉様? お顔が真っ青よ」
ミレーヌは心配そうに眉を下げ、階段を数段下りてきた。
「お父様に叱られたの?」
「少し話をしただけよ」
「そうなの? でも、本当に顔色が悪いわ」
ミレーヌが手を伸ばす。
その指先が右腕へ近づいた瞬間、エレノアの身体が強張った。
「触らないで」
思ったより強い声が出た。
ミレーヌの手が途中で止まる。
「……え?」
周囲にいた使用人が、二人の様子をちらりと窺った。
エレノアも自分の声に驚いていたが、右腕には先ほどから鈍い痛みが残っている。袖の下に何があるのかを思い出すと、今は誰にも触れられたくなかった。
「ごめんなさい、お姉様。私、何かした?」
ミレーヌは傷ついたような表情を浮かべた。
エレノアはその顔を見つめた。
何をされたのか。
何をされてきたのか。
記憶の奥には答えがあるはずなのに、一度に掘り返そうとすると息苦しさの方が先に込み上げてくる。
「……疲れているの。今は一人にして」
「でも――」
「お願い」
声を荒らげることはしなかった。
ミレーヌはしばらく何か言いたそうにしていたが、やがてゆっくり手を下ろした。
「分かったわ。ゆっくり休んでね、お姉様」
「ええ」
エレノアはその横を通り過ぎた。
背中へ視線を感じたが、振り返らなかった。
自室へ入ると、すぐに扉を閉める。
鍵をかけたところで、ようやく肩から力が抜けた。
部屋の中を見渡す。
一度目の人生では当たり前だと思っていたが、伯爵家の長女が使う部屋として考えれば決して広くはない。家具も必要最低限で、衣装棚に収められているドレスの数も、同じ伯爵家の娘であるミレーヌよりずっと少なかったはずだ。
(これも、私は何とも思っていなかった)
いつからだろう。
母が亡くなって。
ヴァレリアとミレーヌが屋敷へ来て。
少しずつ変わっていった。
けれど今は、すべてを思い出す必要はない。
エレノアはベッドへ腰を下ろし、右腕の袖へ手をかけた。
少し迷ってから布を捲る。
上腕には、紫色の痣が残っていた。
一つだけではない。
薄く黄色へ変わりかけているものもあれば、まだ色の濃いものもある。どれも普通にドレスを着ていれば外から見えない位置にあり、それを見た瞬間、エレノアは自分でも分からないほど静かな気持ちになった。
(この身体にとっては、全部つい最近のことなんだ)
十八歳の自分には三年前の出来事でも、今の身体は違う。
昨日までの痛みを覚えている。
だから父が机を叩いただけで身体を庇った。
ミレーヌの手が近づいただけで避けた。
(大したことじゃない)
そう考えかけた。
昔から何度も自分へ言い聞かせてきた言葉だった。
けれど、今度は最後まで続かなかった。
(……本当に?)
答えは出ない。
エレノアはそっと袖を戻した。
そのときだった。
『痛そうね』
「――っ!」
突然聞こえた声に、エレノアは勢いよく顔を上げた。
誰もいないはずの机の上に、小さな銀色の光が浮かんでいる。淡い光はゆっくり形を作り、やがて人の姿に近い輪郭へ変わった。
「クロノア……?」
『ええ』
時の神霊は何事もなかったように答えた。
暗闇で出会ったときとは違い、今は半透明の姿で机の端へ腰掛けるようにしている。
エレノアはしばらく呆然と見つめたあと、胸元へ手を当てた。
「驚かせないで。心臓が止まるかと思ったわ」
『一度止まったでしょう』
「……そういう冗談を言うの?」
『今のは冗談だったの?』
どうやら本気で分かっていないらしい。
エレノアは思わず息を吐き、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「戻ってから呼んでも返事がなかったから、もう会えないのかと思った」
『時間を三年も巻き戻した直後よ。少しくらい休ませて』
「神霊も疲れるのね」
『だから、何度もできないと言ったでしょう』
クロノアの返事を聞きながら、エレノアの口元が僅かに緩んだ。
処刑されてから、まだどれほどの時間も経っていない。父と対峙し、ミレーヌにも会ったばかりなのに、こうして一瞬でも笑えたことが自分でも不思議だった。
『それより』
クロノアの視線が右腕へ向く。
『それ、痛い?』
エレノアは袖の上から腕を押さえた。
「少しだけよ」
『誰にやられたの?』
「……」
すぐには答えられなかった。
記憶を辿れば分かる。
けれど今は、その記憶へ手を伸ばしたくない。
「大したことではないわ」
『そう』
それだけだった。
エレノアは目を瞬かせる。
「聞かないの?」
『今は話したくないのでしょう?』
「……ええ」
『なら、話したくなったら話せばいいわ』
クロノアは勝手に袖を捲ろうとも、事情を問い詰めようともしなかった。
それがエレノアには少し不思議だった。
「クロノア」
『何?』
「私、断ったわ」
『聞いていた』
「でも、駄目だった」
『婚約することになったの?』
「まだよ。でもお父様は、明日の朝には受諾の返書を出すと言っているわ」
エレノアは今日あったことを話した。
外出を禁じられたこと。
書簡を確認すると言われたこと。
来客も制限されること。
話し終わるまで、クロノアは口を挟まなかった。
「私、断れば変えられると思っていたの」
エレノアは膝の上へ視線を落とした。
「でも違った。お父様は、私が断ったことそのものを認めてくださらない。この家にいる限り、何度嫌だと言っても、最後にはお父様が決めてしまう」
『それで、どうするの?』
答えを教える言い方ではなかった。
エレノア自身へ選ばせる問いだった。
「……分からない」
正直に答えた。
ただし、一つだけ分かっている。
「ここにいたままでは駄目だと思う」
口にすると、その考えが少しずつ形を持った。
婚約を断るだけでは足りない。
ロベルトの娘として、この屋敷で父の支配下にいる限り、自分の意思はいつでも無視される。
(ここから出なければ、私の人生は変わらない)
そう考えたとき、一人の女性の顔が記憶に浮かんだ。
柔らかく笑う母。
アデライン。
そして母の向こう側に、長いあいだ考えないようにしていた人々がいる。
「……ロシュフォール公爵家」
呟いた。
『あなたのお母様の実家ね』
「ええ」
母の父母であるオーギュストとマルグリット。
そして母の弟で、現在のロシュフォール公爵であるアルフォンス。
その息子、セドリック。
母が亡くなってから、交流はほとんど途絶えている。
「叔父様……」
名前を口にすると、ぼんやりした記憶が蘇った。
まだ幼かったころ。
母が生きていたころ。
『エレノア! 今日も可愛いな!』
突然抱き上げられ、驚いた自分。
『アルフォンス、エレノアが驚いているでしょう』
母が困ったように笑っている。
『姉上の娘なんだから可愛いに決まってるだろう!』
明るい声だった。
嫌われていた記憶はない。
むしろ会うたびに構われ、何かしら贈り物を持たされた気がする。
祖父母からも誕生日や季節の節目には贈り物が届いていた。
それが母の死後、いつの間にかなくなった。
(どうして私は、不思議に思わなかったんだろう)
いや。
幼いころは不思議に思ったはずだ。
けれど父から、公爵家にも事情があるのだと言われた。
母が亡くなれば、嫁いだ娘の子供までいつまでも気にかけるものではないのだと説明され、そういうものなのだと自分を納得させた。
「クロノア」
『何?』
「一度目の人生で、私が処刑されるとき……ロシュフォール公爵家の人たちは、何をしていたの?」
クロノアがすぐには答えなかった。
エレノアの胸がざわつく。
「知っていることがあるの?」
『少しだけ』
「教えて」
『私は人間社会のすべてを見られるわけではないし、誰がどこで何をしたかまで完全には知らない。それでも――』
クロノアはそこで一度言葉を切った。
『ロシュフォール公爵家が、あなたの処刑を黙って受け入れていたわけではない。それだけは知っている』
エレノアは息を止めた。
「……え?」
『何をしようとしたのか、それがどうしてあなたへ届かなかったのかまでは、私にも分からないわ』
「でも……」
一度目の人生では誰も来なかった。
裁判でも。
牢獄でも。
処刑の日にも。
だからエレノアは、自分は母の実家からも忘れられたのだと思っていた。
(違ったの?)
まだ分からない。
クロノア自身も、すべては知らないと言っている。
期待して、また捨てられるのは怖かった。
けれど何もしなければ、明日の朝には皇室へ受諾の返書が出される。
エレノアは机へ向かった。
一枚の便箋を取り出し、ペンを握る。
『書くの?』
「ええ」
アルフォンスへ。
現在のロシュフォール公爵へ。
亡き母の弟へ。
「助けてほしいと、伝えてみる」
言葉にすると手が震えた。
誰かに助けを求めることは、父へ逆らうこととはまた違う怖さがあった。
迷惑ではないだろうか。
断られないだろうか。
今さら姪だと言われても困ると思われないだろうか。
それでも、何も伝えなければ答えすら分からない。
エレノアは便箋へ文字を書き始めた。
形式を整えながらも、取り繕いすぎないようにする。
長い挨拶を書き連ねるのではなく、本当に伝えたいことを書く。
突然のお手紙をお許しください。
お話ししたいことがあります。
どうか、私を助けてください。
そこまで書いたところで、エレノアの手が止まった。
「……あ」
『どうしたの?』
父の言葉を思い出した。
――お前宛てに届く書簡と、お前が外へ出す書簡はすべて確認する。
エレノアは書きかけの手紙を見つめた。
(これを、どうやって届けるの?)
いつものように使用人へ渡せば、父のところへ持っていかれる可能性が高い。
ヴァレリアに渡れば、なおさら何が起きるか分からない。
外出も禁じられた。
来客も制限される。
しかも明日の朝には、父が皇室へ受諾の返書を出す。
時間はほとんどない。
『困った?』
クロノアが尋ねた。
「……ええ」
エレノアは正直に答えた。
けれど、便箋を破ろうとはしなかった。
むしろ大切に折り畳む。
その手紙を両手で包み込みながら、ゆっくり息を吐いた。
(考えよう)
怖いからといって、もう諦めるつもりはなかった。
(誰かいるはず)
父やヴァレリアを通さずに、この手紙を屋敷の外へ持ち出せる人。
自分が頼める人。
あるいは。
(誰もいないなら、別の方法を探す)
一度目の人生では、父の命令を覆す方法など考えもしなかった。
けれど今は違う。
エレノアは折り畳んだ手紙を胸元へ寄せた。
明日の朝まで。
それが最初の期限だった。
第二王子との婚約を断るだけでは、自分の人生を取り戻せない。
父が自分の意思を認めないのなら、この家の中で認めてもらえるまで待ち続けるつもりもなかった。
(私は、ここから出る)
まだ方法は分からない。
ロシュフォール公爵家が本当に自分を受け入れてくれるのかも分からない。
それでも、処刑台へ続いていた道へ黙って戻るより、ずっといい。
(今度は、自分で助けを求める。そして、自分でここから出る方法を探す)
窓の外では、午後の日差しが少しずつ傾き始めていた。
エレノアは手の中の手紙を見つめる。
十五歳の少女が書いた、たった一通の手紙。
それはまだ、屋敷の外へ出る方法すら見つかっていない。
けれど一度目の人生では最後までできなかったことを、エレノアはすでに始めていた。
誰かに救われるのを、ただ待つのではない。
自分から、助けてほしいと手を伸ばすことを。




