第1話 私を処刑した第二王子
帝都セレディアの中央広場には、朝から重たい雲が垂れ込めていた。
秋の冷たい風が石造りの建物の間を抜け、広場を埋め尽くした人々の外套や帽子を揺らしている。普段なら商人の呼び声や馬車の車輪、行き交う人々の笑い声が絶えない場所だったが、今日ばかりは違った。
人々の視線は、広場の中央に設けられた一つの場所へ集まっている。
高く組み上げられた、公開処刑のための刑台。
そして、その刑台へ続く道の先から、帝国兵に囲まれた一台の護送馬車が近づいていた。
「来たぞ」
誰かが声を上げた。
広場の空気が変わった。
「反逆者だ」
「第二王子殿下を殺そうとした女だろう?」
「妹まで殺そうとしたそうじゃないか」
ざわめきが波のように広がっていく。
馬車の中まで届く声を聞きながら、エレノア・ベルナールは膝の上に置いた両手を見つめていた。
手首には重い鉄の枷が嵌められている。
少し動かすだけで金属が擦れ、冷たさが肌へ食い込んだ。
十八歳。
それが、今日で終わる自分の人生の長さだった。
(……怖い)
エレノアは指先を握った。
爪が掌へ食い込んでも、震えは止まらなかった。
(死にたくない)
裁判で死刑を言い渡された日から、何度も覚悟しようとした。
もう助からない。
泣いても変わらない。
誰も自分を信じてくれない。
だったらせめて、最後くらいはベルナール伯爵令嬢として恥ずかしくない姿でいよう。
そう思っていた。
けれど、刑台が近づくにつれて、そんな覚悟は簡単に崩れていった。
(嫌……)
喉の奥が詰まる。
(死にたくない。まだ死にたくない)
馬車の鉄格子越しに、中央広場の建物が流れていく。
何度も通った場所だった。
かつては馬車の窓から眺めていた街並みを、今日は罪人として見ている。
しかも、犯してもいない罪によって。
異母妹ミレーヌ・ベルナールに対する殺害未遂。
第二王子レオナード・ヴァレンティアに対する殺害未遂。
皇族の命を害そうとしたことで加えられた反逆罪。
それが、エレノアを今日ここへ連れてきた罪状だった。
(私はやっていない)
それだけは何度でも言える。
(ミレーヌを殺そうとしていない。レオナード殿下だって……)
けれど、誰も信じなかった。
証拠があると言われた。
証人もいると言われた。
どれほど否定しても、言い逃れだと切り捨てられた。
無実を訴える声は、日に日に小さくなっていった。
最後には、自分自身でさえ同じ言葉を繰り返すことに疲れていた。
馬車の外から、また罵声が聞こえた。
「人殺し!」
「恥を知れ!」
エレノアは肩を震わせ、俯いた。
(……違う)
言い返したところで届かない。
だから、心の中だけで呟く。
(私は、誰も殺していない)
やがて護送馬車が止まった。
車輪が石畳を軋ませ、完全に動かなくなる。
扉の向こうから鍵を外す音が聞こえた。
それだけで心臓が跳ね上がった。
逃げたい。
どこへでもいい。
ここではない場所へ。
けれど両手には枷があり、馬車の外には武装した兵士がいる。
逃げ道など最初から存在しない。
扉が開いた。
冷たい風が車内へ吹き込んでくる。
「降りろ」
兵士の声だった。
エレノアは動けなかった。
開かれた扉の向こうに、刑台が見える。
遠くから見ていたときより、ずっと高かった。
そこへ上がれば、広場のどこからでも自分が見えるだろう。
自分が殺される瞬間を、誰もが見られる。
(あそこに……)
息が浅くなる。
(私は、あそこに上がるの?)
「降りろ」
もう一度促された。
エレノアは震える脚へ力を入れた。
立ち上がった瞬間、膝が崩れそうになる。
兵士に腕を支えられ、馬車を降りた。
途端に、広場の音が全身へ押し寄せてきた。
「人殺し!」
「反逆者!」
「第二王子殿下に謝れ!」
四方から声が飛んでくる。
どこを見ても人、人、人。
老人もいる。
若者もいる。
母親に連れられた子供までいた。
その全員が、エレノアを見るために集まっている。
ある者は怒りを露わにし、ある者は好奇心を隠そうともせず、ある者は恐ろしいものを見るような目で彼女を見つめていた。
(こんなに……)
足が竦む。
(こんなにたくさんの人が、私が死ぬところを見るの?)
胸が締めつけられた。
兵士に促され、一歩踏み出す。
何かが足元へ飛んできた。
熟れすぎた果実が石畳にぶつかり、潰れる。
酸っぱい匂いが鼻を刺した。
兵士たちは止めなかった。
エレノアも何も言わなかった。
ただ刑台へ向かって歩く。
一歩進むたび、鉄の枷が音を立てる。
じゃらり。
じゃらり。
その音が、自分が罪人であることを何度も突きつけてくるようだった。
(違う)
エレノアは唇を噛んだ。
(私は罪人じゃない)
それでも。
周囲の人々にとって、自分はすでに罪人なのだ。
判決が下された。
皇帝の名のもとに処刑が決められた。
ならば彼らにとって、エレノアが本当にやったかどうかなど問題ではない。
刑台へ続く階段が近づいてきた。
そのときだった。
エレノアの視界の端に、広場の一角へ設けられた観覧席が入った。
皇族や高位貴族のために用意された場所。
そこに見覚えのある姿があった。
「……お父様」
声にならないほど小さな音が漏れた。
ロベルト・ベルナール。
エレノアの実の父。
父は正装していた。
娘が処刑される日だというのに、その姿にはほとんど乱れがない。
エレノアの足が止まりかけた。
兵士に背中を押されても、視線だけは父から離せなかった。
(お父様)
助けてほしい。
そんなことを願う段階は、とうに過ぎている。
父は裁判でも自分を庇わなかった。
ベルナール伯爵家は事件に関与していない。
エレノア個人が起こした事件だ。
そう主張し、自分と家を切り離した。
それでも。
(最後くらい……)
心の奥に残っていた幼い自分が、縋ってしまう。
(私を見て)
父の視線が動いた。
一瞬だけ、エレノアと目が合った。
心臓が大きく鳴る。
けれど。
ロベルトは何も言わなかった。
眉一つ動かさず、静かに視線を逸らした。
「……っ」
息が詰まった。
(そう)
胸の奥が冷たくなっていく。
(最後まで、そうなのね)
父の隣には、ヴァレリアがいた。
黒を基調としたドレスをまとい、白い布で目元を押さえている。
肩を小さく震わせる姿だけを見れば、義理とはいえ娘の処刑を悲しむ母親に見えるだろう。
実際、周囲の貴族の中にはヴァレリアへ同情するような視線を向けている者もいた。
エレノアは何も感じなかった。
今さら、あの女の涙を信じるほど幼くない。
けれど。
その少し先へ視線を向けた瞬間。
エレノアの足が完全に止まった。
「歩け」
兵士に促されても、すぐには動けなかった。
ミレーヌがいた。
淡い水色のドレスに身を包んだ異母妹。
顔色は少し悪く見えた。
事件で命を狙われた被害者として、この場にいるのだろう。
けれどエレノアが動けなくなった理由は、ミレーヌではなかった。
その隣。
いや。
ミレーヌを腕の中へ抱き寄せるようにして立つ男。
レオナード・ヴァレンティア。
第二王子。
つい少し前まで、エレノアの婚約者だった男。
ミレーヌの肩を抱く彼の腕を見た瞬間、周囲の音が遠ざかった。
(……あ)
ミレーヌがレオナードの胸元へ身を寄せている。
細い指が彼の上着を掴み、その身体が小さく震えていた。
レオナードはそんな彼女の背中へ手を添え、何かを囁く。
声までは届かない。
それでも表情は見えた。
優しかった。
ひどく、優しい顔だった。
(どうして……)
胸が痛い。
(どうして、そんな顔をするの?)
ミレーヌが顔を上げた。
レオナードと視線を合わせる。
彼が何かを言う。
ミレーヌが僅かに頷き、再び彼の胸へ顔を寄せた。
そしてレオナードは、その肩をさらに強く抱き寄せた。
エレノアの唇が震えた。
(その場所は……)
言葉が浮かぶ。
(その場所は、私のものだったはずなのに)
そう思った直後、自分で否定した。
(……違う)
笑いたくなった。
泣きたくもなった。
(最初から、私のものだったことなんて、一度もなかった)
三年間。
十五歳で婚約してから、今日まで。
レオナードの婚約者として生きてきた。
それだけでよかった。
そう思おうとしてきた。
婚約が決まったころ、一度だけレオナードから小さな髪飾りを贈られたことがある。
『君には、こういうものが似合うと思った』
そんな何気ない言葉が嬉しかった。
帰宅してからも何度も箱を開けた。
鏡の前で髪へ当ててみた。
いつか、この人と本当の家族になれるのかもしれない。
そんな未来を夢見た。
それだけの記憶が一瞬だけ蘇り、すぐに目の前の光景へ塗り潰される。
レオナードの腕の中にいるのは、自分ではない。
(私、馬鹿だったのね)
目の奥が熱くなる。
(ずっと……馬鹿だった)
レオナードが顔を上げた。
その視線がエレノアを捉える。
目が合った。
エレノアの喉が震えた。
あの日の記憶が蘇る。
捕らえられ、連れていかれる直前。
エレノアは一度だけ彼へ縋った。
『殿下。お願いです。私の話を聞いてください』
レオナードは冷たい目で自分を見ていた。
『私はやっておりません。本当に、何も……』
『ミレーヌは死にかけた』
その一言に、息が止まった。
『でも、私は――』
『もういい』
『殿下……』
『連れていけ』
それだけだった。
三年間の終わりは、あまりにも短かった。
目の前のレオナードが眉を寄せた。
そして。
ミレーヌを、自分の身体で庇うように抱き寄せた。
エレノアから守るように。
「……あ」
小さな声が漏れた。
涙が頬を伝った。
(私が、怖いの?)
もう何も持っていない。
両手には枷。
周囲には兵士。
これから殺される。
それでも彼は、エレノアからミレーヌを守った。
(本当に……私がミレーヌを殺そうとしたと思っているのね)
胸の中に最後まで残っていた何かが、音もなく崩れていく。
(私たちは、三年間も婚約者だったでしょう?)
毎月のように顔を合わせた。
手紙も送った。
公務にも付き添った。
彼の好みを覚えた。
彼に恥をかかせないよう努力した。
(それでも、何も伝わっていなかったの?)
エレノアは泣きながらレオナードを見つめた。
(たった一度でよかった)
自分の言葉を信じてほしかった。
(皆が私を疑っても、あなたにだけは……)
無理な願いだった。
レオナードはミレーヌの肩を抱いたまま、エレノアから視線を逸らした。
(ああ……)
分かってしまった。
(私が死んだあと、あの人の隣にいるのはミレーヌなんだ)
父も。
ヴァレリアも。
ミレーヌも。
レオナードも。
エレノアがいなくなれば、困らないのだろう。
むしろ、すべてが丸く収まるのかもしれない。
(私がいなくなれば……みんな幸せなの?)
そんな考えが浮かび、胸がひどく苦しくなった。
自分は何のために生きてきたのだろう。
「歩け」
兵士の声に現実へ戻される。
エレノアは刑台への階段を上がり始めた。
一段。
また一段。
階段を上るほど、広場を埋め尽くす人々が見えるようになる。
誰も助けてくれない。
誰も止めない。
やがて最後の一段を上がり、エレノアは刑台へ立った。
風が強かった。
囚人服の裾が揺れる。
髪が頬へ張りついた。
処刑台の中央に立つと、群衆のざわめきが一段と大きくなった。
エレノアは思わず一歩後ずさりしそうになった。
逃げられない。
分かっている。
それでも身体は、生きようとしていた。
(怖い)
指先が震える。
(死にたくない)
執行官が前へ出た。
手には巻物がある。
「エレノア・ベルナール」
名前を呼ばれた。
広場のざわめきが少しずつ収まる。
「ベルナール伯爵ロベルト・ベルナールが長女。第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下の元婚約者」
元婚約者。
その言葉に、エレノアの胸が痛んだ。
「異母妹ミレーヌ・ベルナール嬢への殺害未遂、ならびに第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下への殺害未遂。皇族の生命を害し、帝国の秩序を脅かした反逆の罪により――」
(違う)
エレノアは目を閉じた。
(私はやっていない)
執行官の声は続く。
けれど、その先はほとんど耳に入らなかった。
(何度言えば、信じてもらえたの?)
分からない。
百回ならよかったのだろうか。
千回なら。
(どうして……)
涙が滲む。
(どうして誰も、私の言葉を聞いてくれなかったの?)
「――以上の罪により、皇帝陛下の御名のもと、死刑を執行する」
宣告が終わった。
広場のあちこちから声が上がる。
執行官がエレノアへ向き直った。
「最後に申し開きはあるか」
その問いに、エレノアはしばらく答えられなかった。
今さら何を言えばいいのだろう。
無実だと言った。
何度も。
何度も。
そのたびに否定された。
もう疲れた。
それでも。
エレノアは顔を上げた。
レオナードを見る。
彼もこちらを見ていた。
その腕の中には、まだミレーヌがいる。
「……レオナード殿下」
声が震えた。
広場が少し静かになる。
「私は……あなたを殺そうとしてなどおりません」
レオナードの表情は変わらない。
「ミレーヌもです。私は、誰も殺そうとしておりません」
群衆から小さなざわめきが起こる。
エレノアは枷のついた手を握った。
「もう、信じていただけないことは分かっています」
喉が痛い。
涙で視界が滲む。
「それでも……最後くらい、本当のことを言わせてください」
エレノアは一度息を吸った。
「私は、無実です」
沈黙。
ほんの一瞬。
その言葉だけが広場へ残った。
次の瞬間。
「まだ言うのか!」
「見苦しいぞ!」
「被害者の前で!」
罵声が飛んだ。
エレノアの肩が震える。
けれど、もう言い返さなかった。
ただレオナードを見る。
(何か言って)
まだ期待している自分がいた。
(お願い)
愚かだと分かっている。
(最後だから)
レオナードの唇が僅かに動いた。
けれど声は聞こえなかった。
彼はエレノアへ何も言わず、ミレーヌの肩を抱いたままだった。
それが答えだった。
エレノアはゆっくり目を伏せた。
(……そう)
もういい。
兵士が近づいてくる。
処刑の準備が進められる。
その気配を感じた途端、諦めたはずの身体が激しく震え始めた。
「……っ」
息ができない。
(嫌)
怖い。
(嫌よ)
死にたくない。
(お願い)
誰に願っているのかも分からない。
(助けて)
兵士の手が肩へ触れた瞬間、エレノアはびくりと身体を震わせた。
「待って……」
声が漏れた。
兵士の動きは止まらない。
「お願い……」
涙が次々と零れた。
「死にたくない……」
広場の空気が僅かに変わった。
罵声の一部が止まる。
それまで反逆者としてエレノアを見ていた者の中にも、目の前の少女が十八歳に過ぎないことを今さら思い出した者がいたのかもしれない。
しかし誰も動かなかった。
判決は覆らない。
処刑も止まらない。
「死にたくない……っ」
エレノアはもう一度言った。
伯爵令嬢としての体面も。
第二王子の元婚約者としての誇りも。
何もかもどうでもよかった。
(まだ生きたい)
その思いだけが残った。
(私、まだ十八歳なのに)
何も知らない。
何もできていない。
自分が何を好きなのかさえ、よく分からない。
(もっと生きたかった)
誰かと笑いたかった。
好きなものを見つけたかった。
行ったことのない場所へ行ってみたかった。
誰かに命じられたからではなく、自分で何かを選んでみたかった。
(私として、生きてみたかった)
それなのに。
どうしてこんな場所で死ななければならないのだろう。
エレノアは顔を上げた。
最後に目に入ったのは、やはりレオナードだった。
ミレーヌを抱いている。
彼女を守るように。
(覚えているわ)
涙に濡れた視界の中で、その光景だけが妙にはっきりしていた。
(この光景を、私は忘れない)
自分を信じなかった男。
自分を見捨てた婚約者。
そして、自分が処刑される瞬間まで異母妹を抱きしめていた第二王子。
(あなたがミレーヌを抱きしめていたことを)
父を見る。
こちらを見ていない。
(お父様が最後まで私を見てくださらなかったことも)
ヴァレリアを見る。
白い布で目元を押さえている。
(あなたが泣いていたことも)
そしてミレーヌ。
(あなたがあの人の腕の中にいたことも)
全部。
(忘れない)
エレノアは目を閉じた。
直後。
処刑が執行された。
激しい衝撃。
痛み。
恐怖。
そして――すべてが消えた。
◇ ◇ ◇
何もなかった。
光もない。
音もない。
風もない。
エレノアは自分がどこにいるのか分からなかった。
そもそも、自分というものがまだ存在しているのかさえ分からない。
(……私)
考えることはできた。
(死んだの?)
答える者はいない。
暗闇だけが広がっている。
処刑台の光景が、意識の奥に残っていた。
群衆。
父。
ヴァレリア。
ミレーヌ。
レオナード。
(死んだんだ)
理解した途端、不思議なほど静かな気持ちになった。
もう痛くない。
怖くもない。
何もされない。
(終わったのね)
全部。
(やっと……終わった)
そう思ったはずなのに。
胸などないはずなのに、ひどく苦しかった。
(でも……)
生きたかった。
その思いだけが消えない。
(私、やってないのに)
死んでもなお、それだけが悔しかった。
(誰も信じてくれなかった)
自分の人生が、嘘によって終わった。
罪人として。
反逆者として。
人殺しとして。
(違うのに)
何度否定しても届かなかった。
(本当に……私じゃないのに)
『知っているわ』
声がした。
エレノアの意識が震えた。
(……誰?)
暗闇の遠くに、小さな光が生まれた。
銀色にも淡い青にも見える、不思議な光。
それがゆっくり近づいてくる。
光の中に、人の姿が浮かび上がった。
女性のようにも見える。
けれど、その姿はどこか曖昧で、人間とは違うものだと直感した。
『あなたは、やっていない』
もう一度、声が届いた。
エレノアは何も言えなかった。
『ミレーヌを殺そうとしていない』
光が近づく。
『レオナードを殺そうともしていない』
(……え?)
『あなたは無実よ、エレノア』
その言葉を聞いた瞬間。
エレノアの中で、何かが崩れた。
(本当に?)
『ええ』
(本当に……私じゃないって分かってくれるの?)
『分かっている』
(私、やってないの)
『知っているわ』
(本当に、やってないの……!)
『ええ』
エレノアは泣いた。
涙などないはずなのに、自分が泣いていることだけは分かった。
(誰も信じてくれなかった)
『うん』
(何度言っても、誰も……!)
『そうね』
(怖かった)
『うん』
(死にたくなかった……!)
光の中の存在は、すぐには答えなかった。
ただそこにいた。
疑わない。
否定しない。
責めない。
それだけだった。
それだけなのに。
(私……生きたかった)
初めて、誰かの前で言えた。
(まだ、生きたかったの……)
『エレノア』
優しい声がした。
『なら、もう一度生きる?』
泣いていた意識が止まった。
(……え?)
『もう一度、生きてみる?』
意味が分からない。
(そんなこと……)
『できるわ』
光の中の存在が、ゆっくりと手を差し出した。
『私の名はクロノア』
(クロノア……)
『時を見守る神霊』
神霊。
古い物語の中でしか聞いたことのない存在。
人間が呼び出すことも、使役することもできない。
本当に存在するのかすら分からない、世界の理の外側にいるもの。
(どうして……)
『今は、すべてを理解しなくていい』
クロノアの声は静かだった。
『一度だけなら、あなたの時間を戻せる』
(時間を……?)
『あなたが十五歳だったころへ』
エレノアの意識が揺れた。
『あなたの父が、第二王子レオナードとの婚約話を持ってきた日』
その名前を聞いた瞬間。
(嫌……!)
処刑台が蘇った。
ミレーヌを抱きしめるレオナード。
自分を見る冷たい瞳。
(嫌よ)
恐怖が一気に戻ってくる。
(もう嫌)
『エレノア』
(また同じことになる)
『同じ道を歩く必要はない』
(でも……!)
『婚約しなければいい』
エレノアの思考が止まった。
(……え?)
『レオナードとの婚約を断ればいい』
あまりにも簡単に言われた。
(そんなこと……できるの?)
『選ぶのはあなたよ』
クロノアはそれ以上、答えを押しつけなかった。
エレノアは黙り込む。
十五歳。
あの日。
父から第二王子との婚約話を聞いた自分は、断るという発想すら持っていなかった。
父が決めたことだから。
伯爵令嬢だから。
そういうものだと思っていた。
『エレノア』
クロノアが呼ぶ。
『戻りたくないなら、それでもいい』
意外な言葉だった。
『あなたはもう十分苦しんだもの』
エレノアは何も言えない。
『だから、私が決めることではない』
差し出された手は、そのままだった。
『あなたが選んで』
(私が……)
選ぶ。
その言葉が妙に胸へ残った。
一度目の人生で、自分はどれだけのものを選んだだろう。
ほとんど思い出せない。
気づけば決められていた。
求められるままに従った。
そして最後には、犯してもいない罪まで決められた。
(嫌)
小さな感情が生まれた。
(そんなの、嫌)
死ぬ直前に思った。
自分として生きてみたかった、と。
その機会が。
本当にもう一度与えられるのなら。
(怖い)
それでも怖かった。
もう一度父を見るのも。
ヴァレリアを見るのも。
ミレーヌを見るのも。
レオナードを見るのも。
全部怖い。
けれど。
(このまま終わりたくない)
別の感情が、恐怖の中から顔を出す。
(私、何もしてない)
なのに罪人として殺された。
(返して)
父に。
ヴァレリアに。
ミレーヌに。
レオナードに。
誰に向けた言葉なのか分からない。
(私の人生を返して)
十八年しかなかった。
その十八年さえ、自分のものだったとは思えない。
(返してよ)
悔しかった。
初めて、はっきりと怒りを感じた。
(私の人生なのに……!)
クロノアの手が、すぐそこにある。
エレノアは恐る恐る、自分の手を伸ばした。
触れる直前、もう一度だけ迷った。
(また傷つくかもしれない)
当然だ。
二度目なら必ず幸せになれる保証などない。
けれど。
(それでも)
処刑台で死ぬ自分を思い出す。
(今度は、私が決めたい)
エレノアの指がクロノアの手へ触れた。
『決めたのね』
(うん)
エレノアは答えた。
(戻りたい)
『分かった』
(でも……)
『何?』
(もう、あの人の婚約者にはならない)
クロノアが微笑んだように見えた。
『ええ』
(絶対に)
『それも、あなたが決めることよ』
光が強くなる。
エレノアの意識を包み込んでいく。
『一つだけ覚えておいて』
(なに?)
『私が時間そのものへ大きく干渉できるのは、これが最初で最後』
エレノアはクロノアを見る。
『もう一度やり直すことはできない』
(……分かった)
『なら、行きなさい』
光がさらに強くなる。
『今度の人生は――あなたが選んで』
暗闇が白く染まった。
◇ ◇ ◇
「――エレノア」
男の声がした。
その瞬間、エレノアは大きく息を吸った。
「……っ!」
肺へ空気が入る。
心臓が激しく脈打っている。
身体がある。
温かい。
エレノアは目を見開いた。
最初に見えたのは、磨かれた木製の机だった。
その上に書類が置かれている。
窓から午後の日差しが差し込み、絨毯の上へ四角い光を落としていた。
紅茶の香り。
壁に掛けられた絵。
重厚な本棚。
(ここ……)
知っている。
忘れるはずがない。
ベルナール伯爵邸。
父の執務室。
エレノアは自分の両手を見た。
鉄の枷がない。
恐る恐る手首へ触れる。
何もない。
(戻った)
震える指を頬へ当てる。
温かい。
皮膚の感触がある。
息をすれば胸が動く。
(生きてる)
心臓が鳴っている。
(私……生きてる)
「エレノア」
再び名前を呼ばれた。
身体が強張った。
ゆっくり顔を上げる。
机の向こうにロベルトが座っていた。
父。
処刑の日、自分から目を逸らした男。
今はあの日より若い。
それだけで、クロノアの言葉が現実だったのだと理解する。
「先ほどから何をぼんやりしている」
不機嫌そうな声。
その声を聞いただけで、身体が反応した。
肩に力が入る。
背筋が固くなる。
(怒らせた)
反射的に謝ろうとして、エレノアは息を止めた。
(……違う)
自分はもう、一度死んだ。
目の前の父が最後に何をしたのか知っている。
「大事な話をしているのだぞ」
ロベルトは苛立ったように息を吐き、机の上に置かれた書状へ手を伸ばした。
その書状を見た瞬間、エレノアの背筋に冷たいものが走った。
知っている。
覚えている。
この日。
この部屋。
この書状。
(本当に……あの日なのね)
ロベルトは娘の異変に気づかない。
むしろ、これから告げる話を誇らしく思っているのか、口元には僅かな笑みさえ浮かんでいた。
「喜べ、エレノア」
その言葉も覚えている。
十五歳だった自分は、このあと何を言われるのか知らなかった。
だから驚いた。
そして父から認めてもらえたような気がして、少し嬉しくさえ思った。
今は違う。
「お前と第二王子レオナード殿下との婚約について、正式に話を進めることになった」
エレノアの耳から、一瞬だけ音が消えた。
処刑台が見える。
群衆がいる。
父が目を逸らす。
ミレーヌがいる。
そして。
レオナードが、彼女を抱きしめている。
『連れていけ』
冷たい声が蘇る。
エレノアの指先が震えた。
「第二王子殿下からのお話だ。ベルナール伯爵家にとって、これ以上ない名誉だろう」
ロベルトは続けている。
けれどエレノアには、ほとんど聞こえていなかった。
(嫌)
恐怖が込み上げる。
(嫌よ)
一度目なら、従った。
父が決めたから。
伯爵家のためだから。
断るなど考えもしなかった。
でも。
(今度は違う)
クロノアの言葉を思い出す。
『選ぶのはあなたよ』
エレノアは膝の上で手を握った。
怖い。
父に逆らうことが。
このあと何をされるのか分からないことが。
それでも。
(私は、知っている)
この婚約の先に何が待っているのか。
三年後。
十八歳。
公開処刑。
(絶対に嫌)
エレノアは顔を上げた。
ロベルトを見る。
「どうした?」
父が怪訝そうに眉を寄せた。
「嬉しすぎて声も出ないか?」
一度目の自分なら、きっと笑った。
父に褒められたくて。
いい娘だと思われたくて。
けれど。
(もう、あなたに愛されるために死ぬのは嫌)
エレノアは息を吸った。
胸の奥では、心臓が激しく鳴っている。
それでも、目を逸らさなかった。
「お父様」
「なんだ」
エレノアは唇を開く。
自分の人生で初めて、自分の未来を自分で選ぶために。
「そのお話――」
ほんの僅かに声が震えた。
それでも最後まで言い切った。
「お断りいたします」
ロベルトの表情が止まった。
部屋の空気まで凍りついたようだった。
窓の外では、何も知らない鳥の声がしている。
エレノアは父を見つめたまま、ゆっくりと拳を握った。
(もう二度と)
処刑台の上で死んだ自分を思い出す。
(あなたたちの望むようには生きない)
十八歳で処刑されたエレノア・ベルナールの人生は、確かに一度終わった。
そして今。
十五歳のエレノアの、二度目の人生が始まった。




