第88話 王宮から届いた返書と、封じられた記録を前にした私の決意
秋の朝は、昨日よりも少し冷たかった。
窓の外に広がる庭園では、色づいた木々の枝が弱い風に揺れている。昨夜のうちに落ちたらしい葉が石畳の端へ集まり、庭師たちが朝の作業を始める前の園路には、まだ静けさが残っていた。
エレノアは寝台の上で目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。
明日の午後、これまで封じられていた衣類の記録を開く予定になっている。
最初の二枚を確認したときから、残りの頁には何が書かれているのだろうと考えてきた。しかし、開封の日が近づくにつれて、その気持ちは単純な期待だけではなくなっていた。
(もし、お母様のことが何も書かれていなかったら……私は、がっかりしてしまうのかしら)
そんな考えが浮かび、エレノアは小さく息を吐いた。
昨日、手帳へ書き留めた言葉を思い出す。
知りたいことが書かれていなくても、資料を責めない。
自分で書いた言葉なのに、実際にそうできるかどうかは分からない。それでも、あらかじめ心に留めておくことで、少しは落ち着いて向き合える気がした。
エレノアは寝台から降りると、肩掛けを羽織って窓辺へ歩み寄った。
庭園の南側には、昨日も眺めた青紫の花が咲いているはずだった。ここからは花壇の細かな様子まで見えないが、あの小さな花びらが朝の光の中でどのような色をしているのか、想像するだけで少し気持ちが和らぐ。
机の上には、未完成の青い花の刺繍が置かれていた。
昨日、新しく作った試し縫いの布も、その隣に収めてある。青を中心に、ほんの少し紫を混ぜた花びらは、窓から入る光の下では柔らかな色合いに見えた。
エレノアはそれを手に取ろうとして、ふと動きを止めた。
今日は、明日のために落ち着いて過ごそうと決めていた。
けれど、何もしないまま一日を待つのは、かえって難しいかもしれない。
(だったら、できることを少しずつ進めればいいのよね。刺繍をするのも、庭園を歩くのも、私が自分で選んでよいことなのだから)
そう考えたところで、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。もう起きているわ。どうぞ入ってちょうだい」
リディアが入室すると、エレノアは窓辺から振り返った。
彼女はいつものように丁寧な礼をしたあと、用意してきた衣装を見せてくれた。今日は昨日よりも厚手の生地が使われており、袖口には細い飾り紐が縫い込まれている。
「今朝は冷え込んでおりますので、こちらをご用意いたしました。お庭へ出られる場合には、さらに肩掛けをお使いくださいませ」
「ありがとう。今日は少しだけ庭園へ行きたいと思っているの。でも、明日のこともあるから、長く外にいるつもりはないわ」
「承知いたしました。では、お昼前の暖かい時間がよろしいかもしれませんね」
リディアは衣装を整えながら、机の上の刺繍へ目を向けた。
「昨日の試し縫いも、綺麗に仕上がりましたね。今朝の光では、また少し違う色に見えます」
「そうなの。昨日の夕方には紫が少し強いと思ったのに、今朝は青の方が目立つわ。糸の色を決めるのは、思っていたより難しいのね」
エレノアが微笑むと、リディアも穏やかな表情になった。
「けれど、お嬢様はその時間を楽しんでいらっしゃるように見えます」
「ええ。失敗しても、試し縫いならやり直せるもの。少しずつ好きな色へ近づけていくのが楽しいのよ」
口にしてから、エレノアは自分の言葉を静かに受け止めた。
やり直せる。
その言葉には、以前の自分なら思い浮かべることもできなかった重みがある。
過去の人生を取り戻すことはできない。けれど、今の人生では、まだ選び直せることがある。
少なくとも、自分の意思を何も伝えないまま、第二王子との婚約を受け入れるつもりはなかった。
リディアが髪を整え終えると、エレノアは鏡の中の自分へ目を向けた。
十五歳の少女が、そこにいる。
以前の人生を知っているのは自分だけだという事実は、今も変わらない。
それでも、この少女がこれからどのように生きるのかは、まだ決まっていなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、すでにオーギュストとマルグリットが揃っていた。
エレノアが挨拶すると、祖母は柔らかな笑みを浮かべ、隣の席へ座るよう促してくれた。
「おはよう、エレノア。昨夜はよく眠れましたか」
「はい、お祖母様。少し明日のことを考えましたけれど、眠れなくなるほどではありませんでした」
「それならよかったわ。今日はあまり予定を詰め込まず、ゆっくり過ごしてくださいね」
マルグリットの声には、さりげない気遣いが込められていた。
エレノアは頷き、温かな飲み物を口にした。
やがてセドリックとアルフォンスも席に着き、朝食が始まった。
最初に話題になったのは、庭園の冬支度だった。
ギュスターヴたちが寒さに弱い植物の保護を進めており、屋敷に近い花壇では、枯れた枝を取り除く作業も始まっているという。
ただし、東寄りの園路にある石畳の曲がり角については、まだ修繕の判断が出ていなかった。
「石の下の土を確認しているところだそうだよ。表面だけを直しても、下が不安定なら危ないからね」
オーギュストの説明に、エレノアは頷いた。
「はい。あちらへは近づかないようにしています。昨日も南側の安全な道を通りました」
「それなら安心だ。庭園を楽しむことまで控える必要はないけれど、危険な場所は避けておくれ」
祖父の言葉は穏やかだった。
エレノアは礼を述べ、パンを小さく切り分けた。
そのとき、アルフォンスが手元の書類から顔を上げた。
「エレノア。王宮への問い合わせについては、今朝の時点ではまだ返答を確認できていない。ただ、今日も届いた書簡を確認することになっているから、何かあれば知らせるよ」
「ありがとうございます、叔父様」
エレノアは静かに答えた。
王宮へ送ったのは、婚約を正式に拒否する返書ではない。
自分の意思をどのような形式で提出できるのか、その手続きを尋ねるための問い合わせだった。
その違いを、エレノアは何度も確かめている。
叔父が保管している三文の声明も、まだ署名していない。
(返事が来れば、少なくとも次に何をすればよいのか分かるかもしれない。でも、王宮が私の望む答えを返してくれるとは限らないのよね)
胸の奥に小さな緊張が生まれた。
その表情に気づいたのか、セドリックが穏やかに声をかけた。
「エレノア、今日は明日の準備だけでなく、自分の好きなことにも時間を使うといいよ。ずっと書類のことを考えていたら、疲れてしまうからね」
「はい、お兄様。午前中は庭園へ行って、午後は刺繍をしようと思っています」
「それはいいね。明日のために気持ちを整えるのも、大切な準備だと思うよ」
セドリックはそう言って微笑んだ。
エレノアも小さく笑みを返したが、王宮からの返答については、その後もしばらく頭の片隅に残っていた。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、エレノアはリディアとともに南側の庭園を歩いていた。
日差しは朝よりも暖かくなり、肩掛けの下には心地よい温もりが感じられる。石畳の上には乾いた落ち葉が散っていたが、通路は歩きやすく整えられていた。
青紫の花壇へ着くと、エレノアは足を止めた。
昨日と同じ花が、今日は明るい日差しを受けて咲いている。
花びらの縁には青みがあり、中心へ近づくほど、わずかに紫が混ざって見えた。
「やっぱり、昨日とは少し違うわ」
エレノアは持参した小さな素描帳を開いた。
昨日書き加えた色の覚え書きと見比べながら、今日の光について短く記していく。
リディアは隣で待ちながら、花壇の向こうにある木々へ目を向けた。
「日差しが強くなると、花びらの薄い部分が透けて見えますね。お部屋の中で糸を眺めるときとは、また印象が違いそうです」
「ええ。だから、今日は糸の色を決めるのではなく、花を見たときの印象だけ覚えておこうと思うの」
エレノアは微笑み、素描帳を閉じた。
そのとき、少し離れた場所から庭師の声が聞こえてきた。
見ると、ギュスターヴ・メルシエが若い庭師と話をしている。二人は園路脇の植え込みを確認していたが、エレノアたちに気づくと作業の手を止め、丁寧に礼をした。
「エレノア様、おはようございます。こちらへお越しでしたか」
「おはようございます、ギュスターヴ。青紫の花を見に来たの。今日も綺麗に咲いているわね」
「ありがとうございます。そちらは寒さが厳しくなるまでは、もう少し楽しめると思います。ただ、花の状態を見ながら手入れを進めておりますので、日によって少し様子が変わるかもしれません」
ギュスターヴは穏やかに答えた。
エレノアは花壇へ目を向け、それから思い出したように尋ねた。
「東寄りの園路は、まだ調べているところなのよね」
「はい。石の継ぎ目が持ち上がっている場所について、下の土の状態を確認しております。雨のあとに水が残りやすいところでもございますので、急いで石だけを直すより、原因を確かめた方がよいと考えております」
「そうなのね。安全に歩けるようになるまで、あちらへは行かないわ」
「ありがとうございます。今お使いの南側の道は、通常どおり通っていただけます」
ギュスターヴは安心したように頷いた。
エレノアは礼を述べ、再び花壇へ目を向けた。
そこで、ふと気になったことがあった。
「ギュスターヴ、冬になると、この花壇はどうなるのかしら」
「花が終わったあと、株の状態を見ながら整える予定です。春に向けて土を休ませる場所もございますが、すべてを一度に植え替えるわけではありません」
「そうなのね。今咲いている花がなくなるのは少し寂しいけれど、次の季節の準備も必要なのね」
ギュスターヴは柔らかく微笑んだ。
「庭は、いつも同じ姿ではございませんから。ですが、季節ごとに楽しめるものはございますよ」
その言葉を聞き、エレノアは庭園を見回した。
夏の盛りには鮮やかだった緑が、今は黄色や赤茶色へ変わっている。
咲いている花の数は減ったが、落ち葉の色や枝の形にも、秋ならではの美しさがあった。
(変わることは、必ずしも失うことだけではないのね)
そう考えたエレノアは、ギュスターヴへ礼を述べ、リディアとともに屋敷へ戻ることにした。
帰り道では、足元の石畳を確かめながら、ゆっくりと歩いた。
屋敷の窓が見えてきた頃、エレノアはふと立ち止まった。
玄関へ続く道の向こうで、見慣れた使用人が一人、やや急ぎ足で本館へ向かっている。
手には、薄い書簡の束があった。
エレノアは何気なくその姿を見送り、再び歩き始めた。
その時点では、その書簡の中に、自分が待っていた返答が含まれているとは知らなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、アルフォンスの執務室には、王宮から届いた一通の書簡が置かれていた。
封筒には、王宮の儀礼担当部署を示す印がある。
アルフォンスは封の状態を確かめたあと、慎重に開封した。
中には、先日送った問い合わせへの回答が収められていた。
彼は最初から最後まで一度読み、それからもう一度、重要な箇所へ目を通した。
内容は、すべての疑問に明確な答えを与えるものではなかった。
しかし、これまで分からなかった手続きについて、いくつかの点が示されている。
アルフォンスは紙を机へ置き、しばらく考え込んだ。
その後、手元の控えを取り出し、送付した問い合わせと回答を照らし合わせていった。
ロシュフォール家から事情を説明する書簡を提出すること自体は、受け付けられる。
ただし、ベルナール家から送られた婚約受諾の返書と、当事者本人の意思が一致していないという問題については、本人の意思を示す文書を別に添えることが望ましいとされていた。
その文書には、本人の署名が必要になる。
さらに、提出された文書は、儀礼担当部署において受理されたのち、必要な確認のために関係部署へ回される可能性がある。
ただし、誰が最終的に閲覧するのか、第二王子本人の目に触れる可能性があるのかについては、個別の保証を与えられないという回答だった。
アルフォンスは、その部分をもう一度読み返した。
「……やはり、そこは明確に約束できないか」
小さく呟き、椅子の背へ身を預けた。
エレノアが特に気にしていたことだった。
彼女は第二王子との婚約を望んでいない。
その意思を王宮へ伝えることは必要だが、自分の書いた文章が誰の目に触れるのかを、強く不安に思っている。
アルフォンスには、その理由のすべてが分かるわけではなかった。
これまで第二王子と直接会ったことのない少女が、なぜそこまで恐れているのか。
その疑問は残っている。
しかし、分からないからといって、本人の不安を軽く扱うつもりはなかった。
アルフォンスは書簡を机へ置き、別の紙を取り出した。
まず、王宮から届いた回答の要点を整理する。
そのうえで、何が確定しており、何がまだ決まっていないのかを区別した。
今回の回答は、婚約の成立を告げるものではない。
また、エレノアの拒否を認める最終判断でもない。
あくまで、本人の意思を文書として提出する場合の手続きについて示されたものだった。
それでも、これまで曖昧だった部分が少し明らかになったことは確かである。
アルフォンスは書き終えた紙を確認すると、呼び鈴を鳴らした。
使用人が入室するのを待ち、落ち着いた声で伝える。
「セドリックに、都合がよければ執務室へ来るよう伝えてくれるかな。それから、エレノアにも午後の時間を少しいただきたいと知らせてほしい。ただし、急がせる必要はないよ」
「承知いたしました」
使用人が礼をして退出すると、アルフォンスはもう一度王宮の書簡へ目を向けた。
知らせなければならないことがある。
けれど、その知らせ方も大切だった。
エレノアが自分の意思で判断できるよう、必要な情報を隠さず伝えたい。
アルフォンスはそう考えながら、書簡と控えを整理した。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアは自室で刺繍道具を広げていた。
今日も青い花の刺繍を進めるつもりだったが、まだ紫の糸を本番の布へ使うかどうかは決めていない。
昨日作った試し縫いを並べ、今朝見た花の色を思い出しながら、どの組み合わせが自分の好みに近いのか考えていた。
そのとき、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、アルフォンス様からお知らせがございます。午後のお時間を少しいただきたいとのことです」
エレノアは針を持つ手を止めた。
「叔父様から?」
「はい。王宮からの書簡について、お話ししたいことがおありだそうです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く跳ねた。
エレノアはゆっくりと針を針山へ戻した。
「……王宮から、返事が届いたのね」
「そのように伺っております。ただ、詳しい内容までは私も存じません」
リディアは落ち着いた声で答えた。
エレノアは頷いたものの、すぐには立ち上がれなかった。
王宮からの返事。
待っていたはずのものが届いたというだけで、心が大きく揺れている。
(落ち着いて。まだ、何が書かれているのか分からないわ。婚約が決まったという知らせとは限らない。叔父様が送ってくださったのは、手続きについての問い合わせだったのだから)
エレノアは自分へ言い聞かせた。
それでも、第二王子レオナードの名前が頭に浮かぶと、指先が冷たくなる。
かつて、自分の処刑へとつながった婚約。
あの人と再び関わることだけは避けたい。
その思いは、今も変わっていなかった。
リディアはエレノアの様子を見て、静かに尋ねた。
「少しお時間を置かれますか。アルフォンス様も、急ぐ必要はないとおっしゃっていました」
エレノアは顔を上げた。
リディアの表情には、急かすような様子はない。
そのことが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「ありがとう。少しだけ、お茶をいただいてから伺いたいわ」
「承知いたしました。温かいものをご用意いたしますね」
リディアは丁寧に頷いた。
エレノアは机の上の刺繍へ目を向けた。
途中まで縫われた青い花は、何も知らないまま、静かにそこにある。
自分の好きな色を選ぶために、何度も試してきた花。
その姿を見つめているうちに、エレノアは小さく息を吐いた。
(私は、今日も自分で選んでよいのよね。返事を聞いたからといって、その場で何かを決めなければならないわけではないはずだわ)
そう考えると、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはリディアに付き添われ、アルフォンスの執務室へ向かった。
扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。
リディアが心配そうに目を向けたが、エレノアは小さく頷いた。
「大丈夫よ。ありがとう」
ノックをすると、室内からアルフォンスの声が返ってきた。
「どうぞ」
扉を開けると、アルフォンスとセドリックが待っていた。
机の上には数枚の書類が整えられている。
エレノアが挨拶すると、アルフォンスは穏やかな表情で椅子を勧めた。
「来てくれてありがとう、エレノア。急に呼んでしまってすまないね」
「いいえ、叔父様。王宮から返事が届いたと伺いました」
「ああ。先日送った手続きについての問い合わせに、回答が届いたよ。まず最初に伝えておくけれど、これは婚約についての最終的な判断ではない。君の婚約が決まったという知らせでもないから、その点は安心して聞いてほしい」
エレノアは思わず息を吐いた。
胸の奥にあった緊張が、ほんの少し和らぐ。
「……はい。ありがとうございます」
アルフォンスは書簡を手元へ引き寄せた。
「今回、王宮から示されたのは、君自身の意思をどのように文書として提出できるかという手続きだ。ロシュフォール家から事情を説明する書簡を送ることは可能だと回答されている」
エレノアは真剣な表情で頷いた。
「では、叔父様から、私が婚約を望んでいないことを伝えていただくことはできるのですね」
「説明することはできる。ただし、それだけで君本人の意思を示したことになるとは限らない。王宮は、当事者本人の署名がある文書を添えることが望ましいと回答しているよ」
その言葉を聞き、エレノアは膝の上で両手を重ねた。
署名。
自分が書いた三つの文章へ、正式に名前を記すことになるかもしれない。
それは、自分の意思を明らかにするために必要なことだと理解できた。
けれど、同時に不安もあった。
「……私が書いた声明を、使うことはできるのでしょうか」
アルフォンスは頷いた。
「今の文面を候補として検討することはできると思う。ただし、王宮がその三文の内容を個別に承認したわけではない。正式に提出する前に、必要な記載事項や添付の形式をもう一度確認したい」
エレノアはその説明を聞き、少し考えた。
「では、まだ署名する段階ではないのですね」
「ああ。少なくとも、今日ここで署名を求めるつもりはないよ。君にも文面を読み直してもらい、何を提出するのかを十分理解したうえで判断してほしい」
その言葉に、エレノアは静かに頷いた。
セドリックも隣から口を開いた。
「君が書いた文章は、君自身の意思を表すためのものだからね。誰かが勝手に書き換えたり、君の知らないうちに提出したりすることはしないよ」
「ありがとうございます、お兄様」
エレノアは小さく微笑んだ。
しかし、まだ聞かなければならないことがあった。
それは、王宮からの返事が届く前から、ずっと気にしていたことだった。
「叔父様……もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
アルフォンスは穏やかに答えた。
エレノアは一度視線を落とし、それから顔を上げた。
「私が書いた声明は、王宮へ提出したあと、どなたが読むことになるのでしょうか。以前もお尋ねしましたけれど……第二王子殿下が目にされる可能性について、何か分かりましたか」
室内が静かになった。
アルフォンスはすぐに答えず、手元の書簡へ目を向けた。
エレノアはその様子を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
望んでいた答えではないのかもしれない。
そう思ったところで、アルフォンスが静かに口を開いた。
「その点については、明確な保証を得られなかった。王宮の回答では、提出された文書は儀礼担当部署で受理されたあと、必要に応じて関係部署へ回される可能性があるとされている」
エレノアは息を止めた。
「……では、第二王子殿下が読むことも、あるのでしょうか」
「可能性がないとは言い切れない。ただし、必ず読まれると決まっているわけでもない。今回の回答から分かるのは、閲覧する人物をこちらで限定する保証は得られていない、というところまでだよ」
アルフォンスは言葉を選びながら説明した。
エレノアは膝の上の手を強く握りそうになり、意識して指先の力を緩めた。
レオナードが、自分の拒否を知るかもしれない。
それは避けたいことだった。
しかし、婚約を拒否する以上、第二王子本人がその事実を知る可能性を完全になくすことは難しいのかもしれない。
(あの人に、私の言葉を読まれるかもしれない……)
過去の記憶が、胸の奥で不意に揺れた。
冷たい視線。
自分の言葉が届かなかった時間。
最後まで、誰も信じてくれなかった恐怖。
エレノアはそれらを押し込めるように、ゆっくりと息を吸った。
ここは、あのときの王宮ではない。
目の前にいるのは、話を聞いてくれる叔父と従兄だ。
そして、今はまだ何も決まっていない。
「……叔父様」
「うん」
「私は、第二王子殿下との婚約を望んでおりません。その気持ちは、返事を聞いても変わりません」
エレノアは慎重に言葉を続けた。
「ただ、私が書いた文章をどなたが読むのか分からないというのは、やはり怖いです。だからといって、何も伝えないままでいることも、したくありません」
アルフォンスは黙って耳を傾けていた。
エレノアは一度唇を結び、それから続けた。
「私は、私自身の意思が記録に残ることを望んでいます。でも、そのために何が必要なのか、どのような形で提出されるのかは、きちんと知っておきたいのです」
言い終えると、胸の奥にあった緊張が少しだけ和らいだ。
自分の考えを、途中で遮られずに伝えることができた。
アルフォンスは静かに頷いた。
「分かったよ。君の希望は、十分に理解したつもりだ。提出する文書の内容と手続きについて、確認できるところは確認しよう。ただし、王宮側の閲覧範囲について、こちらが保証できない部分が残ることも、隠さず伝える」
「はい。それでお願いいたします」
エレノアは答えた。
セドリックが穏やかな声で続けた。
「エレノア、今日分かったことは、君が本人の意思を示す文書を提出できる可能性があるということだよ。でも、提出しただけで婚約に関する問題がすべて解決するわけではない。その先の扱いについては、まだ王宮の判断を待つ必要がある」
「はい、お兄様。そこは、私も忘れないようにします」
エレノアは頷いた。
アルフォンスは机の上に置いた控えを取り上げた。
「それから、もう一つ大切な点がある。君の署名には、現在の正式な姓を使う必要があるだろう。ロシュフォール家への養子縁組は、まだ手続きが完了していないからね」
エレノアは静かに頷いた。
「……ベルナール、ですね」
「ああ。君がどの家に身を寄せているかということと、法的な身分は別の問題だ。そこは混同しないようにしよう」
エレノアは自分の手元へ目を落とした。
ベルナール。
その姓には、複雑な思いがある。
父ロベルトが、自分の意思を確かめないまま第二王子との婚約受諾の返書を送った。
その家の名を、今も自分は名乗っている。
けれど、だからといって、その家から送られた返書が自分の意思になるわけではない。
エレノアは顔を上げた。
「分かりました。正式な書類には、今の私の名前を使います。でも、その名前で書くからこそ、私自身の意思であることを明らかにしたいです」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「うん。その考えでよいと思うよ」
エレノアは小さく息を吐いた。
自分の名前を、誰かに利用されるためではなく、自分の意思を示すために使いたい。
その思いは、今までよりもはっきりしていた。
◇ ◇ ◇
話し合いは、それからもしばらく続いた。
アルフォンスは王宮から届いた書簡のうち、エレノアに関係する部分を一つずつ説明してくれた。
ロシュフォール家から事情を説明する書簡を送ることはできる。
本人の意思を示す文書には署名が求められる。
提出された文書がどの範囲まで回されるかについては、保証がない。
そして、今回の回答は婚約の成立や拒否についての最終判断ではない。
エレノアは説明を聞きながら、疑問に思ったことを尋ねた。
「叔父様、私が署名する文書は、以前書いた三つの文章だけでもよいのでしょうか。それとも、日付や宛先なども必要になるのでしょうか」
「その点は、正式な提出用の形に整える必要があると思う。本文そのものを変える必要があるかどうかも含めて、確認しよう」
「では、今の三つの文章は、まだ下書きとして保管しておいていただけますか」
「もちろんだよ。君の許可なく署名を加えたり、提出したりすることはない」
エレノアは安心したように頷いた。
「ありがとうございます。私も、もう一度控えを読み直したいと思います」
アルフォンスは机の上の書類を整えた。
「それなら、今日のところは、王宮からの回答を確認できたというところまでにしよう。提出用の文書を作るとしても、急いで今日中に仕上げる必要はない」
セドリックも頷いた。
「明日は衣類の記録を開く予定だからね。エレノアに二つの大切なことを同時に考えさせるのは、負担が大きいと思う」
エレノアは二人を見比べた。
確かに、明日は長く待っていた記録の開封が予定されている。
王宮から返事が届いたことで、今すぐ何かを決めなければならないような気持ちになっていた。
けれど、実際にはまだ確認すべきことが残っている。
今ここで署名をしなければならないわけではない。
「……はい。今日は、返事の内容を理解するところまでにしたいと思います」
エレノアは静かに答えた。
「明日の記録も、きちんと確かめたいので。王宮への文書については、そのあとで改めて考えさせてください」
「分かったよ。そのようにしよう」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
エレノアは深く頭を下げた。
「叔父様、お兄様。今日も私の話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「礼を言う必要はないよ、エレノア。君自身に関わることなのだから、君の考えを聞くのは当然のことだ」
アルフォンスの言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の人生では、自分に関わることほど、自分の知らないところで決められていた。
今は、少なくともここでは違う。
エレノアはその違いを大切にしながら、執務室をあとにした。
◇ ◇ ◇
エレノアが退出したあと、アルフォンスはしばらく扉の方を見つめていた。
セドリックもすぐには席を立たず、机の上に置かれた王宮からの書簡へ目を向けている。
「父上。エレノアは、やはり第二王子殿下が文書を読むことを強く気にしていますね」
セドリックが静かに言うと、アルフォンスは頷いた。
「ああ。理由をすべて聞けているわけではないけれど、本人にとって大きな不安なのだろう」
「まだ直接お会いしたことがないはずなのに、あそこまで恐れているのは気になります。ただ、無理に理由を尋ねても、エレノアを追い詰めるだけかもしれません」
セドリックの声には、心配がにじんでいた。
アルフォンスは書簡を丁寧に畳み、封筒の上へ置いた。
「そうだね。今、私たちがすべきことは、理由を聞き出すことではない。彼女が望まない婚約を受け入れさせられないよう、必要な手続きを確かめることだ」
セドリックは頷いた。
「今回の回答で、少なくとも本人の意思を文書として提出する道筋は見えてきましたね」
「ただし、提出すれば必ず望む結果になるという保証はない。そこは慎重に考えなければならないよ」
アルフォンスは落ち着いた声で続けた。
「ベルナール家から受諾の返書が送られたことは、すでに王宮側も把握している。その一方で、当事者本人が受諾を望んでいないという事情も、明確に伝える必要がある」
「ええ。父親の返書と、娘本人の意思を同じものとして扱われないようにすることが大切ですね」
セドリックはそう答えた。
アルフォンスは手元の控えへ目を落とした。
エレノアが書いた三文の声明。
その文章は、簡潔でありながら、本人の意思を明確に示している。
婚約を望んでいないこと。
受諾の返書が送られたことを、あとから知らされたこと。
そして、父親の返書と自分自身の意思を同一視しないでほしいという願い。
どれも、彼女が自分で考えて書いた言葉だった。
「文面を整える必要があるとしても、彼女の意思を曖昧にするような修正は避けたいね」
アルフォンスがそう言うと、セドリックも静かに頷いた。
「エレノアが以前、『現時点で』という表現を嫌がったことも忘れないようにしたいです。あれでは、今は望んでいないだけで、将来は受け入れる可能性があるように読めてしまいますから」
「ああ。彼女が何を拒否しているのか、そこを勝手に変えてはいけない」
アルフォンスは答えた。
執務室には、しばらく静かな時間が流れた。
やがてセドリックが顔を上げた。
「父上、明日の衣類の記録については、予定どおりでよいでしょうか」
「今のところ、変更する理由はないと思う。エレーヌたちの準備も整っている。ただし、エレノアが今日の知らせで疲れているようなら、無理に進めるべきではないね」
「僕も、明日の朝に様子を見てみます。本人が望むなら予定どおり進め、負担が大きければ延期も考えましょう」
アルフォンスは頷いた。
明日開く予定の資料には、何が記されているのか分からない。
王宮からの回答と同じように、望む答えが得られるとは限らない。
それでも、エレノアが自分の意思で向き合えるよう、支えることはできる。
アルフォンスはそう考えながら、王宮から届いた書簡を保管するための書類入れへ収めた。
◇ ◇ ◇
自室へ戻ったエレノアは、しばらく窓辺の椅子に座っていた。
リディアが温かいお茶を用意してくれたが、最初のうちは茶器へ手を伸ばす気持ちになれなかった。
王宮からの回答。
本人の署名が必要になること。
自分の文章が、誰の目に触れるのか保証されないこと。
それらの言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
(私が書いた言葉を、レオナード殿下が読むかもしれない……)
胸の奥が冷たくなる。
しかし、エレノアはその不安を、無理に消そうとはしなかった。
怖いものは怖い。
その気持ちをなかったことにしても、何も解決しない。
けれど、怖いからといって、自分の意思を伝えずにいることもできなかった。
エレノアは机へ歩み寄り、文書入れから一通の封筒を取り出した。
そこには、自分が書いた三文の声明の、照合済みの控えが収められている。
原本はアルフォンスが保管しているため、ここにあるのはあくまで控えだった。
エレノアは封筒を開き、紙を丁寧に広げた。
『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』
最初の一文を、ゆっくりと読み返す。
何度読んでも、その意思は変わらない。
次の文章には、ベルナール家から受諾の返書が送られたことを、あとから知らされたと書いてある。
そして、自分は返書が送られる前に、婚約を受け入れる意思を示していない。
最後の文章には、父親の返書と自分の意思を同じものとして扱わず、婚約を望んでいないことを記録の上でも明らかにしてほしいと記されていた。
エレノアは三つの文章を読み終え、しばらく紙を見つめた。
短い文章だった。
けれど、書き上げるまでには何度も考えた。
誰かを非難するためではなく、自分の意思を正しく伝えるための言葉を選んだ。
だからこそ、簡単に書き換えたくはなかった。
「……私は、この文章を大切にしたいわ」
小さく呟くと、隣にいたリディアが静かに顔を向けた。
「エレノア様が、ご自身でお考えになった文章ですものね」
「ええ。王宮へ提出するために必要な形へ整えることはあるかもしれないけれど、婚約を望んでいないという気持ちは、曖昧にしたくないの」
エレノアは紙を丁寧に持ち直した。
「それに、私が書いたものなのだから、私が納得してから署名したいわ。誰かに言われたからではなく、自分で決めたこととして残したいの」
リディアは穏やかに頷いた。
「それがよろしいと存じます。アルフォンス様も、今日は署名を求めるつもりはないとおっしゃっていたのでしょう?」
「ええ。明日の記録を確かめたあとで、改めて考えることになったわ」
エレノアは紙を封筒へ戻した。
その動作を終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
王宮からの回答によって、問題が解決したわけではない。
けれど、これまで分からなかった手続きの一部は明らかになった。
それは確かな前進だった。
エレノアは封筒を文書入れへ戻し、机の上の刺繍へ目を向けた。
「リディア、少し刺繍をしてもいいかしら。今日はもう書類のことを考え続けるより、手を動かしていたいの」
「もちろんでございます。糸と針をお持ちいたしますね」
リディアは微笑んだ。
エレノアは窓辺へ移動し、未完成の青い花の刺繍を手に取った。
今日は紫の糸を加えず、すでに選んである青の部分を少しだけ進めることにした。
細い針を布へ通し、丁寧に糸を引く。
小さな花びらの輪郭が、少しずつ整っていく。
刺繍をしている間も、王宮のことが頭から完全に消えるわけではなかった。
それでも、針の動きへ意識を向けていると、考えが同じ場所を巡り続けることは少なくなった。
エレノアは途中で手を止め、布を少し離して眺めた。
昨日までより、花びらの形がわずかにはっきりしている。
ほんの少しの変化だった。
けれど、自分の手で進めたことが分かる。
(全部を一度に完成させなくてもいいのよね)
エレノアは静かに微笑んだ。
刺繍も、記録の調査も、王宮への返答も。
それぞれに必要な時間がある。
今は、その時間を自分の意思で使っていきたいと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
祖母は窓際の椅子に腰掛け、読みかけの本を閉じたところだった。
エレノアが挨拶すると、マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「いらっしゃい、エレノア。今日は庭園の花を見に行けましたか」
「はい、お祖母様。午前中に少しだけ見てきました。昨日より日差しが強かったので、花びらの青が綺麗に見えました」
「それはよかったわ。刺繍の色を考える参考になりそうですね」
「ええ。今日は青い糸の部分だけ少し進めました。紫を使うかどうかは、まだ決めていないのです」
エレノアは微笑んだ。
マルグリットはその様子を見つめ、それから穏やかに尋ねた。
「アルフォンスから、王宮の返事が届いたと聞きました。お話はできましたか」
「はい。手続きについて、いくつか分かったことがありました」
エレノアは椅子へ腰を下ろした。
祖母にどこまで話そうか少し考えたあと、自分が理解した範囲で説明した。
本人の署名がある文書を添えることが望ましいとされたこと。
ロシュフォール家から事情を説明する書簡を送れること。
しかし、提出した文章を誰が読むのかについては、保証が得られなかったこと。
マルグリットは途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いてくれた。
「……そうでしたか。エレノアにとって、安心できることばかりではなかったのですね」
「はい。でも、何も分からないままではなくなりました」
エレノアは静かに答えた。
「怖い気持ちはあります。それでも、私は婚約を望んでいないことを伝えたいのです。だから、必要なことを確かめながら進めようと思っています」
マルグリットはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「あなたがそう考えていることを、私は大切にしたいと思います」
祖母の声は柔らかかった。
「ただ、怖いと思う気持ちまで、無理に押し込めなくてもよいのですよ。何かを決めるときに不安があるのなら、その不安も含めて話してよいのです」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます、お祖母様」
マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「あなたのお母様も、自分で納得してから物事を決めたい人でした。もちろん、何でも一人で決めていたわけではありません。迷ったときには相談し、考えを聞いてから、最後に自分の気持ちを確かめていましたよ」
エレノアは顔を上げた。
「お母様も、そうだったのですか」
「ええ。刺繍の糸を選ぶような小さなことでも、気に入らなければ何度も並べ直していました。人の意見を聞くことはありましたけれど、最後には自分が好きだと思える色を選んでいましたね」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
エレノアは思わず、自分の手元へ目を落とした。
今日も、青と紫の糸を何度も見比べていた。
母と同じものを作っているわけではない。
それでも、色を選ぶ時間を楽しんでいた母の姿を想像すると、嬉しくなった。
「私も、今作っている花は、自分の好きな色で完成させたいです」
「それがよいと思いますよ。アデラインがどんな色を選んだのかを知ることも大切ですが、エレノア自身が何を好きだと思うのかも、同じくらい大切ですから」
祖母の言葉が、静かに胸へ残った。
エレノアはしばらく考え、それから小さく頷いた。
「はい。私、自分の好きなものを、少しずつ増やしていきたいです」
マルグリットは嬉しそうに目を細めた。
窓の外では、夕方の光が庭園の木々を柔らかく照らしている。
二人はそのあと、花壇の冬支度や、屋敷で過ごす冬の日々について穏やかに話した。
王宮のことを忘れたわけではない。
けれど、今この時間まで不安だけで埋め尽くす必要はないのだと、エレノアは感じていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食では、明日の衣類の記録について、最後の確認が行われた。
アルフォンスによれば、エレーヌとマルタが作業場所を整え、必要な記録用紙も準備しているという。
資料を収めた箱の外側については、すでに状態を確認している。
しかし、封じられた束の内部については、まだ調べていない。
そのため、明日の午後に予定どおり作業を始められたとしても、すべての頁を開けるとは限らなかった。
「資料が傷んでいる場合には、無理に進めず、その場で作業を止めることになるよ」
アルフォンスが説明すると、エレノアは頷いた。
「はい。私も、その方がよいと思っています。読めることよりも、資料を傷めないことを優先したいです」
エレーヌが直接扱うこと、マルタが記録を担当すること、リディアがエレノアに付き添うことも、予定どおりだった。
セドリックとアルフォンスも立ち会う。
エレノアは一人で資料へ向き合うわけではない。
そのことが、今は心強かった。
「エレノア、明日は午後からの予定だから、午前中はゆっくり過ごすといいよ」
セドリックがそう言うと、エレノアは微笑んだ。
「はい、お兄様。朝から手帳を読み返しすぎないようにします」
「それは少し難しそうだね」
セドリックが冗談めかして言うと、エレノアは思わず笑ってしまった。
「……そうですね。気になってしまうと思います。でも、全部覚えようとするのではなく、必要なときに手帳を見ればよいのですものね」
「そのとおりだよ。君が質問を忘れてしまったとしても、そこで調査が終わるわけではないからね」
セドリックは穏やかに答えた。
マルグリットも微笑んだ。
「明日は、何が分かるかを楽しみにしながらも、無理をせずに過ごしましょう」
「はい、お祖母様」
エレノアは頷いた。
食事が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
屋敷の中には灯りがともり、廊下には柔らかな光が広がっている。
エレノアは家族へ挨拶をして、自室へ戻った。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは机の上に二冊の手帳を並べていた。
一冊は、明日の衣類の記録を確認するためのもの。
もう一冊は、日々の出来事を書き留める日記帳だった。
まず、衣類の記録用の手帳を開く。
そこには、明日の予定日と、立ち会う六人の名前が記されている。
日付。
立会人。
開いた範囲。
読めた内容。
まだ分からないこと。
以前決めた五つの項目を、エレノアはゆっくりと確かめた。
そのあと、昨日書き加えた四つの質問にも目を通した。
日付や衣類の名称、記録した人物の役割、表題と本文の文字。
どれも、今の自分が確かめたいことだった。
しかし、実際に資料を開いたときには、予想していなかった内容が見つかるかもしれない。
エレノアは新しい質問を書き足す代わりに、余白を十分に残しておくことにした。
(何が書かれているか分からないのだから、今から全部を決めておく必要はないわ)
そう考えると、少し気持ちが楽になった。
次に、日記帳を開いた。
今日の出来事を書き留めるため、筆を取る。
『今日は、王宮から手続きについての返事が届きました。ロシュフォール家から事情を説明する書簡を送ることはでき、私自身の意思を示す文書には署名が必要になると分かりました。』
エレノアは一度筆を止め、説明を思い出しながら続きを書いた。
『ただし、私の文章が誰の目に触れるのかについては、保証がありませんでした。第二王子殿下が読む可能性も否定できないと聞き、怖いと思いました。』
そこまで書くと、胸の奥が少し苦しくなった。
エレノアは筆を置き、しばらく目を閉じた。
あの人の顔を、今の自分はまだ見ていない。
けれど、以前の人生で見た姿は、忘れられない。
自分の言葉が届かなかった記憶。
婚約者として過ごした日々の中で、少しずつ失っていったもの。
最後に待っていた、取り返しのつかない結末。
それらは、今も心の奥に残っている。
(私は、もう二度とあの道を歩きたくない)
エレノアは静かに目を開けた。
机の上には、今の自分が書いた日記帳がある。
窓の向こうには、ロシュフォール家の庭園が広がっている。
そして、この屋敷には、自分の話を聞いてくれる人々がいる。
以前と同じ道を歩かなければならない理由は、どこにもない。
エレノアは再び筆を取り、続きを書いた。
『それでも、私は婚約を望んでいないという意思を変えるつもりはありません。怖い気持ちがあっても、自分の言葉を大切にしたいと思っています。今日は署名せず、正式な文書については改めて確認することになりました。』
書き終えると、少しだけ安心した。
今日の自分が何を知り、何を感じ、何を決めたのか。
それを自分の言葉で残すことができた。
エレノアは日記帳を閉じ、机の上の文書入れへ目を向けた。
そこには、三文の声明の控えが収められている。
まだ署名はしていない。
正式な婚約拒否の返書も、王宮へ送っていない。
けれど、自分が婚約を望んでいないという気持ちは、最初から変わっていなかった。
エレノアは静かに息を吐いた。
そのとき、壁際の棚に飾られた桃色の野薔薇の刺繍が目に入った。
母が使っていた古い木枠に、自分で作った花を収めたものだ。
棚へ移してからも、毎日目に入る場所に置かれている。
エレノアは椅子から立ち上がり、その前へ歩み寄った。
灯りの下で見る野薔薇は、昼間よりも少し落ち着いた色に見える。
「お母様……明日、いよいよ記録を開くことになりました」
エレノアは小さな声で呟いた。
「何が書かれているのか、まだ分かりません。私の衣類のことが分かるかもしれませんし、何も新しいことは見つからないかもしれません。でも、皆様と一緒に、きちんと確かめたいと思っています」
静かな部屋には、返事はない。
それでも、エレノアはしばらく刺繍を眺めていた。
母の遺品を探すこと。
自分の過去を確かめること。
そして、これからの人生を自分で選ぶこと。
それらは別々のことのようでいて、今のエレノアの中では少しずつつながっていた。
母の残したものを知りたいと思うのは、失った時間を大切にしたいからだ。
自分の衣類について調べたいと思うのは、知らないうちに扱われていたものを、きちんと確かめたいからだ。
婚約を拒否したいと思うのは、これからの人生を、誰かの都合だけで決められたくないからだ。
どれも、自分にとって大切なことだった。
エレノアはそっと微笑んだ。
「明日、どんなことが分かっても、私は私のままでいたいです」
その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった緊張が少しだけ和らいだ。
明日の記録に何が書かれているのかは、まだ分からない。
それでも、自分がどう向き合いたいのかは、少しずつはっきりしてきた。
◇ ◇ ◇
就寝の支度を整えるため、リディアが部屋へやって来たのは、それからしばらくしてからだった。
エレノアは机の上の手帳を閉じ、刺繍道具を片づけていた。
「エレノア様、明日お持ちになる手帳は、こちらでよろしいでしょうか」
リディアが尋ねると、エレノアは頷いた。
「ええ。その手帳を持っていきたいわ。今日、もう一度確認したけれど、書き加えることはあまりなかったの」
「承知いたしました。明日の午後、お出かけになる前にお渡しいたしますね」
リディアは手帳を丁寧に整え、机の端へ置いた。
エレノアはその様子を見ながら、ふと思い出したことを尋ねた。
「リディア、明日はあなたも一緒にいてくれるのよね」
リディアは少し驚いたように顔を上げ、それから穏やかに微笑んだ。
「もちろんでございます。予定どおり、お嬢様のお側に控えさせていただきます」
「……ありがとう」
エレノアは小さく答えた。
その声には、自分でも思っていた以上に安堵が込められていた。
リディアは優しく頷いた。
「何か気になることがございましたら、遠慮なくお申しつけくださいませ。資料を確認している間も、お疲れになったら休んでいただいて構いませんから」
「ええ。そうするわ」
エレノアは微笑んだ。
リディアが寝台を整えている間、エレノアは窓の外へ目を向けた。
庭園には月明かりが落ち、木々の影が静かに伸びている。
明日の午後。
封じられた衣類の記録を開く予定の日が、ついに訪れる。
そこには、これまで知らなかったことが残されているかもしれない。
あるいは、期待していた答えが何も見つからないかもしれない。
どちらであっても、今はまだ分からない。
けれど、分からないからこそ、確かめる意味がある。
エレノアは寝台へ腰を下ろし、静かに息を吐いた。
今日、王宮から届いた返事によって、婚約を拒否するための手続きも少しだけ前へ進んだ。
本人の署名が必要になること。
ロシュフォール家から説明を送れること。
そして、提出した文章を誰が読むのかについては、まだ保証がないこと。
望んでいた答えばかりではなかった。
それでも、知らなかったことを知ることができた。
明日開く記録についても、きっと同じなのだろう。
自分に都合のよい答えだけを探すのではなく、そこに残されているものを、そのまま確かめる。
そして、分かったことと分からないことを、一つずつ分けていく。
(私は、もう誰かの言葉だけで自分の人生を決めたくない。だからこそ、自分の目で確かめて、自分で考えたいの)
エレノアは胸の奥で、静かにそう思った。
リディアが灯りを少し落とし、就寝の挨拶をして退出する。
部屋には、穏やかな暗さが広がった。
エレノアは寝台へ身を横たえ、ゆっくりと目を閉じた。
明日、何が待っているのかは分からない。
けれど、今の自分は一人ではない。
そのことを胸に抱きながら、エレノアは静かな秋の夜へ、少しずつ意識を沈めていった。




