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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第87話 封じられた記録を開く前に、私が確かめておきたいこと


 朝の光が窓硝子を通して差し込み、エレノアの寝室に穏やかな明るさを広げていた。


 昨夜のうちに風が弱まったらしく、庭園の木々はほとんど揺れていない。遠くでは庭師たちが落ち葉を集めており、時折聞こえてくる箒の音が、静かな朝の空気に溶け込んでいた。


 エレノアは寝台の上でゆっくりと身を起こし、窓の向こうに広がる秋の庭園を眺めた。黄色く色づいた葉の間から淡い青空が見え、昨日よりも少しだけ冷たくなった空気が、季節の移ろいを感じさせている。


(衣類の記録を開く日まで、あと二日なのね。日程が決まる前は、いつになるのか分からなくて落ち着かなかったけれど、こうして日にちが決まると、今度は何が書かれているのか気になってしまうわ)


 胸の奥には、期待と緊張が入り混じっていた。


 母アデラインの遺品や、自分の衣類について調べ始めてから、すでに多くのことが分かっている。しかし、それらは必ずしも一つの答えにつながっているわけではなかった。


 幼い頃に着ていた衣装の記録には、不明な点が残されている。


 二十七着のうち、八着について所在が分からなくなっていた。そのうち三着は、異母妹ミレーヌのために仕立て直されたことが判明しているものの、残る五着の行方はまだ分かっていない。


 母が使っていた、野薔薇の彫刻が施された濃い色の木箱も見つかっていなかった。


 東側の衣装棚から西側の保管場所へ移され、その後、継母ヴァレリアの指示で本館へ運ばれたところまでは、記録や証言を通して確認されている。けれど、そこから先については、確かな行き先が分からない。


 それぞれの調査で少しずつ情報は増えているのに、肝心な部分がまだつながらない。


 エレノアは寝台から降りると、薄い上着を肩に掛け、机の前へ歩み寄った。


 昨日、衣類の記録を開く予定日を書き加えた手帳が、文書入れの隣に置かれている。


 その表紙へ指先を添えたところで、エレノアはふと考え込んだ。


(私は、残りの頁に何が書かれているのか知りたいと思っている。でも、何を確かめたいのか、自分の中でもう少し整理しておいた方がいいのかもしれないわ)


 資料を開く当日は、エレーヌ・フォシェが紙の状態を確認しながら作業を進めることになっている。


 エレノア自身も立ち会うが、資料を直接扱う役目ではない。読み取れたことや疑問に思ったことを記録し、必要があれば質問する予定だった。


 だからこそ、今のうちに自分の疑問を整理しておきたかった。


 エレノアが椅子へ腰を下ろしたところで、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。


「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」


「おはよう、リディア。どうぞ入ってちょうだい」


 リディアは丁寧に礼をして入室すると、エレノアが机の前に座っていることに気づき、穏やかに微笑んだ。


「今朝はお早いのですね。何かお調べになっていたのでしょうか」


「まだ何も書いていないのだけれど、明後日のことを考えていたの。衣類の記録を開く前に、私が知りたいことを整理しておこうと思って」


 エレノアは手帳を持ち上げ、リディアへ見せた。


「当日になってから慌ててしまうより、今のうちに考えておいた方がよい気がするの」


 リディアは手帳へ目を向け、静かに頷いた。


「よろしいお考えかと存じます。ただ、あまり根を詰めすぎないようになさってくださいませ。まだ二日ございますし、エレーヌも必要な準備を進めておりますから」


「ええ。今日は少し書き留めるだけにするわ。分からないことを全部解決しようとしても、今は資料を開いていないのだから、答えは出ないものね」


 そう答えると、エレノアは手帳を閉じた。


 リディアが用意してくれた衣装は、落ち着いた淡い色のものだった。袖口には控えめな刺繍が施され、秋の屋敷で過ごすにはちょうどよい厚さがある。


 支度を手伝ってもらいながら、エレノアは鏡に映る自分の姿を見つめた。


 十五歳の自分。


 かつて十八歳で命を失ったときの記憶を持ちながら、再びこの年齢から生きている。


 あの日、処刑台へ向かう前に感じた恐怖も、誰にも信じてもらえなかった苦しさも、忘れたわけではない。


 けれど、今の自分には、あの頃にはなかった時間がある。


 そして、話を聞いてくれる人々がいる。


「リディア、今日は朝食のあと、少し手帳を整理したいの。それから、時間があれば庭園の花も見に行きたいわ」


「承知いたしました。庭園へお出かけになる際には、少し厚手の肩掛けをご用意いたしますね。今朝は冷え込んでおりますので」


 リディアは髪を整えながら答えた。


 エレノアは鏡越しに微笑んだ。


「ありがとう。昨日試した糸の色も、もう一度見比べてみたいの」


 リディアは嬉しそうに頷き、最後に髪飾りの位置を確かめた。


 支度が終わる頃には、窓から差し込む光も少し強くなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、マルグリットが庭園の冬支度について話していた。


 南側の花壇では、まだ花を咲かせている株を残しながら、寒さに弱い植物の保護を進めているという。庭師たちは天候を見ながら作業しており、花壇の一部では土を整える準備も始まっていた。


「エレノアが気に入っている青紫の花も、もうしばらく楽しめそうですよ」


 マルグリットがそう言うと、エレノアは顔を上げた。


「本当ですか、お祖母様。それなら、今日も少し見に行きたいです。昨日は午後の光で眺めたので、今度は午前中の色も確かめてみたいと思っています」


「ええ、よいと思います。ただし、庭園の東寄りの園路には近づかないようにしてくださいね。石畳の状態については、まだ確認が続いていると聞いていますから」


「はい。あの曲がり角は避けて、屋敷に近い道を通るつもりです」


 エレノアが答えると、オーギュストも頷いた。


「ギュスターヴたちが、石の下の土の状態を調べているところだよ。見た目だけを整えても、下が安定していなければ同じことが起こるかもしれないからね」


「そうなのですね。では、修繕が終わるまでは、あちらへ行かないようにします」


 エレノアは素直に答えた。


 危険な場所へ近づかなくても、庭園には歩ける道がいくつもある。


 今は安全な場所から季節の変化を楽しむだけで十分だった。


 しばらくして、アルフォンスがエレノアへ顔を向けた。


「明後日の衣類の記録についてだけれど、エレーヌから準備の進み具合を報告してもらっているよ。今のところ、予定を変更する必要はなさそうだ」


 エレノアは静かに頷いた。


「ありがとうございます、叔父様。私も、当日までに自分の疑問を整理しておこうと思っています」


「それはよいことだね。ただ、記録を開く前に答えを決めてしまわないように気をつけてほしい。何が書かれているのかは、まだ誰にも分からないのだから」


 アルフォンスは穏やかな声で続けた。


「君が確かめたいことを整理するのは大切だけれど、資料の内容が予想と違っていても、そのまま受け止められるようにしておこう」


 エレノアは少し考えてから頷いた。


「はい。私も、そうしたいと思っています。昨日、手帳に『まだ分からないこと』を書く欄を作ったのですが、そこへ何も書かずに済むとは思っていません」


 セドリックがその言葉に微笑んだ。


「それなら、当日も落ち着いて確認できそうだね。分からないことが残るのは、必ずしも悪いことではないよ。どこまで確認できたのかが明らかになれば、次に調べるべきことも整理しやすくなるから」


「お兄様、私も昨日から、少しずつそう考えられるようになってきました」


 エレノアは微笑んだ。


 その表情を見たマルグリットは、安心したように目を細めた。


「無理をせず、皆で確かめていきましょう。エレノア一人で抱え込む必要はありませんよ」


「はい、お祖母様」


 エレノアは丁寧に答えた。


 朝食が終わる頃、アルフォンスはもう一つの問題についても説明した。


「王宮への問い合わせについては、今朝の時点でも返事は届いていないよ。何か連絡があれば、これまでの約束どおり、君にも知らせるつもりだ」


「ありがとうございます。私も、返事が届くまでは待とうと思っています」


 エレノアは静かに頷いた。


 第二王子との婚約を拒否する意思は、変わっていない。


 ただし、その意思を王宮へ正式に伝えるための手続きについては、まだ確認が必要だった。


 自分で書いた三つの文章も、署名のない下書きのままである。


 焦りが消えたわけではないが、叔父が約束を守ってくれていることを、エレノアは信じていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食後、エレノアは自室へ戻り、机の上に手帳を広げた。


 窓から入る光が紙の上へ落ち、昨日書き加えた予定がはっきりと見える。


 明後日の午後。


 エレーヌ、マルタ、リディア、アルフォンス、セドリック、そして自分。


 立ち会う人々の名前を確かめたあと、エレノアは新しい頁を開いた。


 そこには、当日確認したいことを書き留めるつもりだった。


 しかし、いざ筆を持つと、何から書けばよいのか少し迷ってしまった。


 衣装の所在。


 記録を書いた人物。


 衣類が移された時期。


 母の遺品との関係。


 思いつくことはいくつもあるが、それらがすべて封じられた頁に書かれているとは限らない。


 エレノアはしばらく考え、最初にこう記した。


『記録に書かれている日付を確かめる。』


 次に、少し間を置いて書き加えた。


『衣類の名称や数が記されている場合は、既に分かっている記録と照らし合わせる。』


 さらに、三つ目の項目を書こうとして手を止めた。


 誰が記録したのか。


 それを知りたい気持ちは強い。


 けれど、記録の中に名前があったとしても、その人物が実際に衣類を扱ったとは限らない。


 以前確認した帳簿では、記録した人物と内容を確かめた人物の欄が、途中からまとめられていた。


 そこに記されていた「ロラン」という姓も、誰を指すのか明らかになっていない。


 ベアトリス・ロランという人物の名前を知っているからといって、同じ姓だけで本人だと決めることはできない。


(名前が書かれていたら、その人が何をしたのかまで分かると思ってしまいそう。でも、書いた人と運んだ人、確かめた人は、同じとは限らないのよね)


 エレノアは筆先を整え、三つ目の項目を書いた。


『名前や署名がある場合は、その人物がどの役割で記されているのかを確認する。役割が分からない場合は、分からないまま記録する。』


 書き終えると、少しだけ安心した。


 それは、誰かを疑うための項目ではない。


 記録を正しく理解するために、必要なことだった。


 続けて、エレノアは四つ目の項目を考えた。


 「エレノア衣類」と記された束の表題。


 その文字を誰が書いたのか、いつ書いたのかは、まだ分かっていない。


 残りの頁を開けば手がかりが見つかるかもしれないが、何も分からない可能性もある。


 エレノアはそのことを踏まえ、次のように記した。


『表題と本文の文字について、同じ人物が書いたと確認できる根拠があるかを確かめる。』


 ただし、筆跡だけを見て素人が判断することはできない。


 エレーヌに確認してもらい、必要であれば専門家へ相談することになるだろう。


 そこまで考えたところで、エレノアは筆を置いた。


 まだ書きたいことはある。


 けれど、これ以上増やすと、当日になって自分の疑問ばかりを追いかけてしまいそうだった。


 資料に何が書かれているのかを確かめることが、何より先なのだ。


「……まずは、これくらいでよいかしら」


 小さく呟いたところで、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。


「エレノア様、お茶をお持ちいたしました。少しお休みになりませんか」


「ありがとう、リディア。ちょうど一段落したところなの」


 リディアが入室すると、エレノアは手帳を閉じずに机の端へ寄せた。


 温かいお茶の香りが部屋に広がり、窓辺の小さな卓へ湯気が立ち上る。


 リディアは茶器を整えながら、机の上の手帳へ目を向けた。


「確認なさりたいことは、まとまりましたか」


「ええ、少しだけ。でも、書いているうちに、知りたいことと、今の段階で確かめられることは違うのだと思ったわ」


 エレノアは椅子から立ち上がり、窓辺へ移動した。


「例えば、母の木箱がどこにあるのかは知りたいけれど、衣類の記録にそのことが書かれているとは限らないでしょう? だから、何でも一つの資料で分かると思わないようにしたいの」


 リディアはお茶を注ぎながら頷いた。


「そうでございますね。ですが、別々に見えていた記録が、あとから関係していると分かることもあるかもしれません。今は、どちらとも決めずにおくのがよろしいのでしょう」


「そうね。もし関係がなかったとしても、それはそれで確かめたことになるのだと思うわ」


 エレノアは湯気の立つ茶器を両手で包み、ゆっくりと口をつけた。


 温かな飲み物が喉を通ると、少し緊張していた肩の力が抜けていく。


 窓の外では、庭園の木々が淡い日差しを受けていた。


「リディア、午後には刺繍もしたいの。昨日試した紫の糸を、もう一度見比べてみようと思っているわ」


「承知いたしました。試し縫いの布は、昨日のまま保管しております。お使いになるときにお持ちいたしますね」


 リディアは穏やかに答えた。


 エレノアは微笑み、もう一口お茶を飲んだ。


 調査のことを考える時間も大切だが、それだけで一日を終えたくはなかった。


 自分の好きなことを楽しみながら、必要なことを一つずつ進めていきたい。


 そう思えるようになったことが、今のエレノアには嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、ロシュフォール家の記録管理室では、エレーヌ・フォシェとマルタが開封当日の準備を確認していた。


 机の上には、作業手順をまとめた紙が置かれている。


 エレーヌはその内容を読み返しながら、必要な項目へ小さな印を付けていた。


「資料の外側の状態を記録してから、封の状態を確認する。開封する前に、立会人全員へ現在の状態を説明する。ここまでは昨日の確認どおりですね」


 マルタは頷き、手元の覚え書きを確かめた。


「はい。それから、頁を開いた場合は、順番を記録し、読める文字と読めない文字を区別することになっています。傷みが見つかった場合は、その場で作業を止めることも確認済みです」


「そうですね。特に、頁同士が貼りついている場合には、無理に剥がしてはいけません。文字を読むことよりも、資料を傷めないことを優先します」


 エレーヌは落ち着いた声で説明した。


 古い紙は、見た目に問題がなくても、折り目や端の部分が弱くなっていることがある。


 封じられた部分については、実際に状態を確かめるまで、どのような処置が必要になるのか分からない。


 そのため、当日の予定はあくまで開封を試みるためのものであり、残りの頁をすべて確認できると決まったわけではなかった。


 マルタは記録用の紙を整えながら、少し考えた。


「エレノア様は、ご自身でも手帳をご用意なさっているそうですね。作業中に質問があった場合、どの段階でお答えするのがよろしいでしょうか」


 エレーヌはしばらく考え、机の上の手順書へ目を向けた。


「資料の状態を確かめている最中は、まず作業を優先する必要があります。ただ、質問を後回しにしたことで何を尋ねたかったのか分からなくならないよう、必要なら一度作業を止めましょう」


「では、エレノア様が気になる点をお話しになった場合、私がその内容も記録いたします。すぐに答えられない場合は、質問として残しておけばよいですね」


「ええ。質問があったことと、その質問に答えが出たことは別ですから、そこも分けて記録しましょう」


 エレーヌは頷いた。


 マルタはその言葉を書き留めたあと、少し表情を和らげた。


「エレノア様は、以前よりもご自分のお考えをはっきりお話しになるようになりましたね。昨日も、資料が傷んでいた場合には無理に開かないでほしいと、ご自身からおっしゃっていました」


 エレーヌは手を止め、静かに微笑んだ。


「ええ。あの方にとっては、知りたいことを知る機会ですから、早く確認したいお気持ちもあるでしょう。それでも、資料を大切に扱うことを優先なさったのは、よいことだと思います」


 マルタは頷いた。


 彼女たちが扱う記録は、単なる古い紙ではない。


 そこには、かつて誰かが書き留めた事実や、今となっては確かめることの難しい出来事が残されている可能性がある。


 しかし、書かれている内容がすべて正しいとは限らず、記録が残っていないことにも、さまざまな理由が考えられる。


 だからこそ、資料そのものを大切にしながら、内容を慎重に読み取る必要があった。


「エレーヌ、当日は、最初の二枚についても改めて確認するのでしょうか」


 マルタが尋ねると、エレーヌは頷いた。


「はい。ただし、すでに確認した内容を最初から調べ直すという意味ではありません。残りの頁とのつながりを考えるために、既存の記録を参照できる状態にしておきたいのです」


 エレーヌは別の紙を取り上げた。


「最初の二枚については、確認済みの内容があります。新たに開く部分と混同しないよう、どこまでが以前に確認した情報で、どこからが今回新しく確認した情報なのかを明確にしましょう」


「承知いたしました。それなら、記録用紙にも区別を設けておきます」


 マルタは丁寧に書き加えた。


 エレーヌは手順書を閉じ、机の上を見回した。


 準備は少しずつ整っている。


 けれど、資料の中身については、まだ何も分かっていない。


 エレーヌはそのことを忘れないよう、最後の確認欄へ小さく印を付けた。


     ◇ ◇ ◇


 昼食後、エレノアはセドリックと屋敷の小さな談話室で話をしていた。


 窓際には二脚の椅子が置かれ、その間の卓には温かい飲み物が用意されている。


 外からは庭園の木々が見え、時折、落ち葉が風に乗って舞い落ちていた。


「エレノア、今朝は衣類の記録について手帳を整理していたんだって?」


 セドリックが穏やかに尋ねると、エレノアは頷いた。


「はい、お兄様。明後日になってから慌てないように、確かめたいことを書き留めてみました。でも、書いているうちに、質問が増えすぎてしまいそうになって」


 エレノアは少し困ったように微笑んだ。


「だから、今のところは四つだけにしておきました。日付、衣類の名称や数、記録した人の役割、それから表題と本文の文字についてです」


 セドリックは興味深そうに頷いた。


「なるほど。どれも、資料の内容を確かめるうえで大切なことだと思うよ。特に、記録した人の役割を区別しようとしているのは、以前の帳簿のことを踏まえているんだね」


「はい。『ロラン』という名前についても、まだ誰を指しているのか分かっていませんから。同じ姓だからというだけで、決めつけないようにしたいのです」


 エレノアは真剣な表情で答えた。


 セドリックはその様子を見つめ、静かに微笑んだ。


「君がそう考えているなら、当日も落ち着いて記録を読めると思う。ただ、ひとつ覚えておいてほしいことがあるんだ」


「何でしょうか、お兄様」


「資料に書かれている内容を、すぐに今までの疑問へ結びつけなくてもよいということだよ。例えば、衣類の数が記されていたとしても、それだけで現在の所在が分かるとは限らない。逆に、何かの移動記録が見つかったとしても、そのあとどうなったのかは別に確かめる必要があるかもしれない」


 エレノアは静かに頷いた。


「そうですね。私、何か一つ分かったら、ほかのことも全部つながるような気がしてしまうことがあります」


 セドリックは穏やかに答えた。


「それは自然なことだと思うよ。長く分からなかったことを調べていると、手がかりが見つかっただけでも嬉しくなるからね。でも、その嬉しさと、実際に確認できたことは分けておく方がよいと思う」


 エレノアは少し考え込んだ。


 母の木箱について、庭師ギュスターヴが似た箱を運ぶ使用人を見かけたという話を聞いたときも、そうだった。


 その使用人が誰だったのかは、まだ確定していない。


 赤みがかった茶色の髪という特徴があったとしても、それだけでナタリー・グレイだと断定することはできない。


 自分が知りたい答えに近づいたように感じると、つい先を急ぎたくなる。


 けれど、そこで推測を事実として扱ってしまえば、あとから別の情報が見つかったときに、かえって混乱してしまうかもしれない。


「お兄様、私、当日は手帳の『まだ分からないこと』の欄も大切にしたいと思います」


 エレノアは顔を上げ、静かに続けた。


「何かが書かれていても、それだけでは分からないことがあるでしょうから。分からないことを無理に埋めるのではなく、そのまま残しておきたいのです」


 セドリックは嬉しそうに微笑んだ。


「それがよいと思うよ。僕も、確認できたことと推測したことを分けて記録するつもりだ。あとから見直したときに、どこまでが確かな情報なのか分かるようにしておきたいからね」


 エレノアは安心したように頷いた。


 しばらく二人は、窓の外に広がる庭園を眺めていた。


 黄色い葉が一枚、風に乗って石畳の上へ落ちる。


 その様子を見ているうちに、エレノアはふと思い出したことがあった。


「お兄様、以前、お母様が作られた小さな刺繍の袋を見せてくださいましたよね」


 セドリックは少し驚いたように顔を上げた。


「ああ、叔母上が僕のために作ってくださった袋のことだね。どうかしたのかい?」


「いいえ、ただ……あのとき、刺繍の色がとても綺麗だと思ったのを思い出したのです。私も今、青い花の刺繍を作っているので、糸の色について考えることが増えて」


 エレノアは少し照れたように微笑んだ。


「お母様の作品を真似したいわけではないのですが、どんな色を選んでいらっしゃったのか、もっと知りたくなってしまって」


 セドリックは穏やかな表情で頷いた。


「叔母上は、色を選ぶときに楽しそうになさっていた記憶があるよ。僕が小さかった頃のことだから、詳しいことまでは覚えていないけれどね」


「そうなのですね」


 エレノアは嬉しそうに目を細めた。


 母のことを知る人から話を聞くたび、失われた時間の中に、まだ知らなかった母の姿があることを感じる。


 けれど、その記憶を無理に引き出そうとは思わなかった。


 セドリックにとっても、幼い頃の大切な思い出なのだ。


「ありがとうございます、お兄様。私、今作っている花も、自分の好きな色で完成させたいと思っています」


「それがよいと思うよ。叔母上も、君が楽しんで作ることを喜んでくださるんじゃないかな」


 セドリックはそう言って微笑んだ。


 エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 母が実際にどう思うのかを知ることはできない。


 けれど、従兄が自分の刺繍を温かく見守ってくれていることが、今は嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後の遅い時間、エレノアはリディアとともに庭園へ出た。


 空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。屋敷の近くを通る園路は乾いており、歩くたびに落ち葉が小さな音を立てた。


 エレノアは肩掛けの前を軽く押さえながら、昨日見た青紫の花壇へ向かった。


 東寄りの曲がり角は避け、屋敷の南側へ続く安全な道を選んでいる。


 花壇の近くまで来ると、エレノアは足を止めた。


 昨日は午後の光の中で見た花が、今日は薄い雲を通した柔らかな明るさの下に咲いている。


「……やっぱり、少し違って見えるわ」


 エレノアは小さく呟き、持ってきた素描を開いた。


 昨日描いた花びらの縁には、紫を少し加えている。


 しかし、今目の前にある花は、青の方が強く見えた。


 リディアも隣から花壇を眺めた。


「今日は光が柔らかいので、昨日ほど紫が目立たないのかもしれませんね」


「そうね。でも、花びらの中心には少し紫があるように見えるわ。昨日試した糸のうち、青を多くした方が近いかもしれない」


 エレノアは素描の余白へ、今日見た色について書き加えた。


 花びらの外側は青が強い。


 中心に近い部分には、わずかに紫が混ざって見える。


 ただし、光の当たり方によって印象が変わる。


 書き終えると、エレノアは少し離れた場所から花壇全体を眺めた。


 小さな花は、周囲の葉の色とも調和している。


 花びらだけを見ていると気づかなかったが、緑の濃淡や土の色によっても、青紫の印象が変わるようだった。


「刺繍では、花だけでなく周りの色も考えた方がよいのかしら」


 エレノアが呟くと、リディアは少し考えた。


「お嬢様が作っていらっしゃる青い花は、まだ周囲の部分を決めておられませんでしたね。完成させる前に、どのように見せたいのか考えてみるのもよろしいかもしれません」


「そうね。でも、今は花びらの色を決めるところまでにしておこうと思うの。あれもこれも一度に考えると、何を作りたいのか分からなくなってしまいそうだから」


 エレノアは微笑んだ。


 リディアも穏やかに頷いた。


 二人はしばらく花壇を眺めたあと、屋敷へ戻ることにした。


 帰り道、エレノアは少し離れた場所にある古い木々へ目を向けた。


 以前、母と自分が描かれた庭園画について調べたとき、南側の石の腰掛けや、西側の古い菩提樹の近くを訪れたことがあった。


 けれど、絵が描かれた場所は、まだ特定できていない。


 庭園画の裏には、「庭園にて アデラインとエレノア」という言葉が残されていた。


 誰が描いたのか、いつ描かれたのかも分からない。


 専門家へ相談する準備は進んでいるものの、まだ実際に調べてもらったわけではなかった。


(あの絵についても、いつかもう少し分かる日が来るのかしら。お母様と私が一緒にいた場所を知ることができたら、きっと嬉しいと思うわ)


 エレノアはそう考えながらも、すぐに結論を求めることはしなかった。


 今は、衣類の記録を確かめる日が近づいている。


 庭園画については、専門家への相談が進むのを待ちながら、今ある記録を大切にしておけばよい。


 エレノアは小さく息を吐き、リディアと並んで屋敷へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアは自室で刺繍の試し縫いを続けていた。


 机の上には、昨日作った二種類の青紫の試し縫いが並べられている。


 一つは紫が強く、もう一つは青を多く使ったものだった。


 今日、庭園で見た花の印象に近いのは、後者の方である。


 しかし、エレノアはそれをそのまま本番の刺繍へ使うのではなく、もう一つ小さな試し縫いを作ってみることにした。


 濃い青の糸を中心に、紫をほんの少しだけ混ぜる。


 針を動かすたび、布の上に小さな花びらの形が現れていく。


 エレノアは途中で何度か手を止め、少し離れた位置から色を確かめた。


 近くで見ると紫の糸がはっきり分かるが、離れると青の中へ自然に溶け込んで見える。


「……今度は、少し近づいたかしら」


 エレノアは布を持ち上げ、窓から入る夕方の光に当ててみた。


 すると、昼間に見たときよりも紫が少し強く感じられた。


 その変化が面白く、思わず微笑んでしまう。


 リディアは隣で糸を整えながら、穏やかに声をかけた。


「先ほどの試し縫いよりも、色が柔らかく見えますね。お嬢様が今日ご覧になったお花に、少し近いように思います」


「私もそう思うわ。でも、もう少し考えてから本番の刺繍へ使いたいの。せっかくここまで作ったのだから、納得できる色を選びたいもの」


 エレノアは微笑み、試し縫いを机の上へ置いた。


 青い花の刺繍は、まだ完成していない。


 昨日までに縫った部分へ、今日の紫を加えたわけでもなかった。


 けれど、色を試す時間そのものが楽しかった。


 母の作品を探すことと、自分の作品を作ること。


 どちらも大切だが、同じものではない。


 エレノアはその違いを感じながら、針を丁寧に収めた。


 窓の外では、夕日が庭園の木々を淡く照らしている。


 その光を眺めているうちに、エレノアはふと、今朝書いた手帳のことを思い出した。


 衣類の記録について、四つの疑問を書き留めた。


 けれど、もう一つ大切なことがあるように思えた。


 エレノアは刺繍道具を整えると、机の引き出しから手帳を取り出した。


 新しく書き加えたいのは、資料の中身についての質問ではない。


 自分が当日、どのような気持ちで記録へ向き合いたいのかということだった。


 しばらく考えたあと、エレノアは頁の下へ小さく書き加えた。


『知りたいことが書かれていなくても、資料を責めない。書かれていることを、まずそのまま確かめる。』


 書き終えた文字を見つめ、エレノアは静かに息を吐いた。


 資料は、誰かが自分のために答えを用意してくれたものではない。


 過去に書かれた記録が、今の自分の疑問へすべて答えてくれるとは限らない。


 それでも、そこに残されているものを確かめることには意味がある。


(私は、何かを見つけたいと思っている。でも、見つからなかったからといって、今まで調べてきたことが無駄になるわけではないのよね)


 エレノアは手帳を閉じ、そっと表紙を撫でた。


 明後日、どのような頁を見ることになるのかは分からない。


 けれど、今の自分なら、以前よりも落ち着いて向き合える気がした。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席では、エレノアが庭園で見た花の色について話した。


 マルグリットは楽しそうに耳を傾け、季節によって花の色が違って見えることや、庭園の木々の葉が落ちることで光の入り方が変わることを教えてくれた。


「同じ場所でも、春と秋ではずいぶん印象が違うものですよ。お母様も、庭園の色が変わることを楽しんでいました」


 マルグリットがそう言うと、エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


「お母様も、そうだったのですね。私も最近、同じ花を何度か見に行くのが楽しくなってきました」


「それはよいことですね。急いで何かを見つけようとしなくても、何度も眺めるうちに気づくことがありますから」


 マルグリットは穏やかに答えた。


 エレノアはその言葉を聞き、今日の手帳へ書き加えた一文を思い出した。


 知りたいことが書かれていなくても、資料を責めない。


 庭園の花と古い記録は違う。


 けれど、目の前にあるものをよく見て、そこから何が分かるのかを考えることは、どちらにも通じるように思えた。


 食事が進む中、オーギュストがアルフォンスへ声をかけた。


「衣類の記録について、明後日の準備は順調なのだね」


「ああ、父上。エレーヌとマルタが手順を確認しているところです。資料の状態によっては途中で止めることもありますが、現時点では予定どおり進められる見込みです」


 アルフォンスは落ち着いた声で答えた。


 オーギュストは頷き、エレノアへ顔を向けた。


「エレノア、当日は無理をしないことが大切だよ。何か気になることがあれば、その場で尋ねてよいし、疲れたら休んでも構わない」


「はい、お祖父様。皆様と一緒に確かめることができるので、安心しています」


 エレノアは丁寧に答えた。


 セドリックはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。


「エレノアは今日、自分でも質問を整理していたんだよね。僕も当日は記録を確認するつもりだけれど、何か気になることがあれば遠慮なく話してほしい」


「ありがとうございます、お兄様。私も、分からないことがあったら相談させていただきます」


 エレノアは微笑んだ。


 そのやり取りを聞いていたマルグリットは、少し安心したように目を細めた。


 夕食の席には、穏やかな空気が流れていた。


 大切な調査を控えているとはいえ、家族との食事が特別な緊張に包まれることはなかった。


 エレノアはそのことが嬉しかった。


 調べなければならないことがある日も、心配なことが残っている日も、こうして一緒に食事をし、何気ない話をすることができる。


 それは、以前の人生では当たり前ではなかった時間だった。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に日記帳を広げた。


 窓の外では風が静まり、庭園の木々が月明かりの下に淡い影を落としている。


 壁際の棚には、桃色の野薔薇の刺繍が飾られていた。


 机の上には、未完成の青い花の刺繍と、今日新しく試した青紫の糸の布が並んでいる。


 エレノアはそれらを眺めてから、日記帳へ筆を走らせた。


『今日は、明後日に開く予定の衣類の記録について、自分が確かめたいことを整理しました。日付や衣類の名称、記録した人の役割、表題と本文の文字について、確認できることがあれば確かめたいと思っています。』


 少し間を置き、続きを書いた。


『ただし、残りの頁に何が書かれているのかは、まだ分かりません。私が知りたいことが書かれていない可能性もあります。それでも、残されている記録を大切に扱い、実際に確認できたことを一つずつ残していきたいです。』


 エレノアは筆を置き、書いた文章を読み返した。


 今日一日で、衣類の記録に関する新しい事実が判明したわけではない。


 母の木箱も見つかっていない。


 行方の分からない衣装についても、新しい情報は得られていない。


 王宮からの返事も、まだ届いていなかった。


 それでも、自分の中で少し整理できたことがある。


 何かを調べるとき、知りたい答えを先に決めてしまわないこと。


 記録に書かれていることと、自分が考えたことを分けること。


 分からないことを、無理に埋めようとしないこと。


 それらは、今後も大切にしていきたい考え方だった。


 エレノアは日記帳へ、もう一つ書き加えた。


『庭園では、青紫の花を今日も眺めました。昨日とは光の当たり方が違い、青が少し強く見えました。刺繍のために新しい試し縫いを作りましたが、まだ本番の布には使っていません。もう少し考えてから決めたいと思います。』


 書き終えると、エレノアは小さく微笑んだ。


 自分の意思で色を選ぶこと。


 自分の目で記録を確かめること。


 自分の言葉で婚約を拒否すること。


 どれも大きさは違うが、自分で考え、納得してから選ぶという点では同じだった。


 エレノアは文書入れへ視線を向けた。


 そこには、王宮へ提出する可能性がある声明の控えが収められている。


 原本はアルフォンスが保管しており、まだ署名はされていない。


 王宮からの返事が届くまでは、正式な返答を送る予定もなかった。


 その状態を確認すると、エレノアは文書入れへ手を伸ばさず、日記帳を閉じた。


(私は、婚約を望んでいない。その気持ちは変わらないわ。でも、だからといって、手続きを確かめずに急ぐ必要はないのよね)


 エレノアは静かに息を吐いた。


 かつての人生では、自分の意思が置き去りにされることが多かった。


 何かが決まったあとで知らされ、異議を唱えても聞き入れてもらえない。


 その繰り返しの中で、いつしか自分の言葉には意味がないのではないかと思うようになっていた。


 けれど、今は違う。


 叔父は、自分が書いた文章を大切に保管してくれている。


 祖父母も、従兄も、自分が何を望んでいるのかを尋ねてくれる。


 リディアは、毎日の小さな変化に気づき、必要なときにそっと支えてくれる。


 その一つ一つが、エレノアにとって大切だった。


 エレノアは椅子から立ち上がり、壁際の棚へ歩み寄った。


 桃色の野薔薇の刺繍は、柔らかな灯りの下で穏やかな色を見せている。


 母が使っていた古い木枠には、今、自分が作った花が収められている。


 それを眺めていると、胸の奥に静かな温かさが広がった。


「お母様……明後日、衣類の記録を開くことになりました」


 エレノアは小さな声で呟いた。


「何が書かれているのかは、まだ分かりません。でも、私、きちんと確かめたいと思っています。お母様のことも、私自身のことも、分からないままにしたくないのです」


 言葉は静かな部屋の中へ溶けていった。


 返事があるわけではない。


 けれど、エレノアはしばらく刺繍を眺め、その場に立っていた。


 母が残したものを探すことは、失った時間を取り戻すこととは違う。


 どれほど調べても、母と過ごした日々をそのまま取り戻すことはできない。


 それでも、知らなかったことを知り、忘れかけていた記憶へ触れることはできるかもしれない。


 そして、自分自身がこれからどのように生きたいのかを考えることもできる。


 エレノアは木枠へ触れず、そっと一歩下がった。


 そのとき、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。


「エレノア様、就寝のお支度を整えに参りました」


「ええ、どうぞ入ってちょうだい」


 リディアが入室すると、エレノアは穏やかに微笑んだ。


「今日は少し考えることが多かったけれど、手帳を整理できてよかったわ。明日は、あまり根を詰めずに過ごそうと思っているの」


 リディアは安心したように頷いた。


「それがよろしいかと存じます。明後日の準備は皆様で進めておりますし、お嬢様もご自身でできることをなさっています。明日は少しゆっくりお過ごしになってくださいませ」


「ありがとう、リディア。そうするわ」


 エレノアは微笑み、寝台へ向かった。


 窓の外では、秋の夜が静かに深まっている。


 封じられた衣類の記録を開く日まで、あと二日。


 王宮からの返事は、まだ届いていない。


 母の遺品についても、分からないことは数多く残されている。


 けれど、今夜のエレノアは、それらすべてを一度に解決しようとは思わなかった。


 明日は明日のできることをする。


 そして、明後日には、皆と一緒に記録へ向き合う。


 その日がどのようなものになるのかは、まだ分からない。


 それでも、自分の目で確かめ、自分の言葉で考えることを忘れずにいたい。


 エレノアは寝台へ身を横たえ、静かに目を閉じた。


 胸の奥には、少しの緊張が残っている。


 けれど、その緊張は、以前の人生で感じていた逃げ場のない恐怖とは違っていた。


 これから何が分かるのかを知らないまま、それでも自分の意思で向き合おうとしている。


 その思いを胸に抱きながら、エレノアは穏やかな眠りへと落ちていった。

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