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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 開かれる日を待つ記録と、私の名前で残したい言葉


 秋の朝は、少しずつ冬の気配を帯び始めていた。


 ロシュフォール家の庭園では、夜のあいだに落ちた葉が石畳の端へ寄り集まり、まだ低い位置にある朝日を受けて淡く輝いている。窓を閉めていても、庭師たちが落ち葉を集める箒の音が遠くから聞こえ、静かな屋敷の中に一日の始まりを知らせていた。


 エレノアは寝台から起き上がると、肩に掛けた薄い上着の前を合わせながら窓辺へ向かった。昨日よりも空気が冷えているようで、硝子越しに見える庭園の色まで、少し澄んで感じられる。


 壁際の棚には、桃色の野薔薇の刺繍が飾られていた。


 母アデラインが使っていた古い木枠に収めた、自分自身の作品である。窓辺から移してもらってからは、朝日が直接当たることもなくなり、花びらを重ねた糸の色が穏やかに見えるようになった。


 エレノアは棚の前に立ち、木枠の縁へそっと視線を落とした。


(お母様が使っていたものを、こうして私も使っているのね。お母様がどんな気持ちで刺繍をしていたのかは分からないけれど、私もこの時間が好きになってきたわ)


 幼い頃、母の隣で針仕事を眺めていた記憶はある。


 けれど、そのときに聞いた言葉のすべてを覚えているわけではなかった。母がどの色を選び、どのような花を作ろうとしていたのか、今になって知りたいと思っても、確かめられないことは多い。


 それでも、分からないことばかりを数えるのではなく、自分の手で作ったものを大切にする時間があってもよいのだと思えるようになっていた。


 机の上には、まだ完成していない青い花の刺繍が置かれている。


 昨日の夕方、庭園で見つけた紫がかった青い花を思い出し、エレノアはその隣に置いた小さな素描へ目を向けた。夕日を受けた花びらの縁を、忘れないうちに描き留めたものだった。


 青い糸だけで表現していた花に、少し紫を加えてみたい。


 そう考えてはいるものの、今ある刺繍をすぐに縫い直すつもりはなかった。別の布で色を確かめ、納得できた場合にだけ取り入れようと思っている。


 そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。


「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」


「おはよう、リディア。どうぞ入ってちょうだい」


 リディアは衣装を抱えて入室すると、窓の外を一度確かめ、用意していた厚手の肩掛けを椅子の背へ掛けた。


「今朝は昨日より冷え込んでおりますので、こちらもご用意いたしました。午後になれば少し暖かくなるかもしれませんが、屋敷の廊下は風が通りますから」


「ありがとう。ちょうど、今朝は少し寒いと思っていたの」


 エレノアが微笑むと、リディアも穏やかに表情を和らげた。


 支度を手伝ってもらいながら、エレノアは昨日の午後に話し合った衣類の記録について思い返していた。


 「エレノア衣類」と記された束は、最初の二枚を確認したあと、残りの頁が封じられたままになっている。


 その内容を確かめるため、エレーヌ・フォシェを中心として、資料の状態を傷めない開封方法が検討されていた。


 昨日は、立ち会う人々の役割や、途中で作業を止める条件について話し合った。


 数日後の午後が候補として挙がったものの、作業場所の最終確認が終わっていないため、まだ正式な日程にはなっていない。


「リディア、エレーヌたちは、今日も資料を開くための準備をしているのかしら」


 髪を整えていたリディアは、櫛を動かす手を少し緩めた。


「はい。マルタからは、作業に使う部屋の確認を進めると聞いております。ただ、今朝の時点で日程が決まったというお話は、まだ伺っておりません」


「そうなのね。昨日、みんなで相談できたから、少し気持ちが落ち着いたの。いつ開くのか分からないまま待っていたときよりも、今は準備が進んでいることを感じられるわ」


 リディアは鏡越しにエレノアの表情を確かめた。


「お嬢様がご自身でも手帳をご用意なさったことを、マルタも喜んでおりました。確認した内容を整理するおつもりなのだと、感心していたようでございます」


「そんなに立派なものではないのよ。まだ、日付や立会人を書く欄を作っただけなの。でも、何が分かったのかをあとから確かめられるようにしたいと思ったの」


 エレノアは少し照れながら答えた。


 昨日作った手帳の頁には、確認した日、立ち会った人、実際に開いた範囲、読み取れたこと、まだ分からないことという五つの項目が並んでいる。


 そこへ何を書き込むことになるのかは、まだ分からない。


 けれど、分からないまま待つことと、分からないことを確かめる準備をして待つことは、同じではなかった。


 支度が終わると、エレノアは机の文書入れへ視線を向けた。


 そこには、王宮へ提出する可能性がある、自分の意思を記した文章の控えも収められている。


 第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないこと。


 父ロベルトが送った受諾の返書について、事前に同意していなかったこと。


 そして、ベルナール家からの返書と、自分自身の意思を同じものとして扱わないでほしいこと。


 その三つを、エレノアは自分の言葉で書いた。


 ただし、まだ署名はしていない。


 原本はアルフォンスが保管しており、王宮へ送られたわけでもなかった。


(あの文章も、いつかは自分の名前を添える日が来るのかもしれないわ。でも、誰が読むのか、どのように扱われるのかを知らないまま署名することは、やはりできない)


 エレノアは文書入れから手を離し、鏡の前へ戻った。


 王宮からの返答を待つあいだにも、自分で考え、確かめられることはある。


 今朝は、そのことを忘れずに過ごしたかった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、庭園の落ち葉についてマルグリットが話していた。


 南側の花壇では、季節の花を残しながら冬へ向けた手入れを進めているらしい。まだ色づいている花もあるため、庭師たちは急いですべてを片づけるのではなく、状態を見ながら少しずつ作業しているという。


「昨日、エレノアが見つけた青紫の花も、もうしばらく楽しめるとよいですね」


 マルグリットがそう言うと、エレノアは嬉しそうに顔を上げた。


「はい、お祖母様。昨日は夕方に見たので、今度は昼間の色も確かめてみたいと思っています。同じ花でも、光によって違って見えるのが面白くて」


「それなら、晴れた日の午前と午後で比べてみてもよいかもしれませんね。花を摘まずとも、見た色を描き留めておけば、あとから違いを楽しめるでしょう」


 マルグリットは柔らかく微笑んだ。


 エレノアは頷きながら、昨夜の素描を思い出した。


「そうしてみます。刺繍に使う色も、すぐには決めず、何度か見てから考えたいです」


 セドリックはその話を聞き、少し楽しそうに口を開いた。


「エレノアの手帳が、また一冊増えるかもしれないね。庭園の絵のための覚え書きに、衣類の記録を確認するための手帳、それから刺繍の色を試すための紙まであるんだから」


「お兄様、全部を一冊にまとめたら、何がどこに書いてあるのか分からなくなってしまいます」


「それは確かにそうだね。僕も仕事の記録と私的な覚え書きを一緒にしてしまったら、あとで探すのが大変になりそうだ」


 セドリックが笑うと、エレノアもつられて微笑んだ。


 以前なら、こうした何気ない会話の中でも、自分の考えを口にする前にためらっていたかもしれない。


 けれど今は、庭園で見た花の色について話すことも、何かを調べたいと伝えることも、自然にできるようになっていた。


 朝食が進んだ頃、アルフォンスがエレノアへ顔を向けた。


「昨日の衣類の記録について、今日、エレーヌが作業場所の最終確認をする予定だよ。問題がなければ、候補に挙がっていた午後を正式な日程にできるかもしれない」


 エレノアは持っていた食器を静かに置いた。


「本当ですか、叔父様。それでは、今日のうちに開封の日が決まる可能性があるのですね」


「そうだね。ただし、場所や資料の保管状態に問題がなかった場合の話だよ。急いで日程を決めるより、必要な準備が整っているかを優先したいと思っている」


 アルフォンスは穏やかに説明した。


「それから、王宮への問い合わせについては、今朝も新しい連絡は届いていない。発送した文書の控えと送付記録はこちらで保管しているから、君が改めて心配する必要はないよ」


 エレノアは小さく息を吐いた。


「ありがとうございます。王宮からの返事は、もう少し待つことになるのですね」


「そうなるだろうね。手続きについて問い合わせたのだから、向こうにも確認する時間が必要だろう。返事が届くまでは、君が書いた声明を送ることも、正式な返答を発送することも考えていない」


 その言葉を聞き、エレノアの肩からわずかに力が抜けた。


 自分が知らないあいだに、署名のない文章が王宮へ送られてしまうことはない。


 アルフォンスは、これまで交わした約束を守ってくれている。


 それを確かめられることが、今のエレノアにとって大きな安心につながっていた。


 オーギュストは二人のやり取りを静かに聞いてから、口を開いた。


「エレノア、王宮から返事が来たときには、アルフォンスだけで判断せず、君にも説明するつもりだよ。分からないことがあれば、遠慮なく尋ねてほしい」


「はい、お祖父様。私も、きちんと理解してから考えたいと思っています」


 エレノアは丁寧に答えた。


 その返事を聞いたマルグリットは、穏やかな表情で飲み物を手に取った。


 食卓には再び日常の話題が戻り、庭園の冬支度や、午後の予定について会話が続いた。


 王宮の問題は、まだ何一つ解決していない。


 けれど、その問題だけがエレノアの一日を占めるわけではなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の遅い時間、屋敷の記録を管理する部屋では、エレーヌ・フォシェが作業場所の確認を進めていた。


 普段から古い書類を扱うために使われている机の上には、余計な物を置かず、必要な筆記具だけが端へまとめられている。窓には薄い布が掛けられ、外から入る光を和らげていた。


 マルタは机の周囲を歩きながら、立会人が座る位置を確かめていた。


「エレーヌ、こちら側へ椅子を置けば、エレノア様にも資料が見えやすいでしょうか」


「ええ。ただ、実際に紙を扱う者の手元へ近づきすぎないようにしたいですね。頁の状態によっては、机の中央を広く使う必要がありますから」


 エレーヌは机の縁へ目を向け、椅子を少し後ろへ引いた。


 昨日の相談では、エレーヌが資料を扱い、マルタが作業の進み方を記録する案が挙がっていた。


 リディアはエレノアの側に付き、アルフォンスとセドリックは確認内容を共有する立会人となる。


 ただし、実際の作業では、紙の状態に応じて役割を調整する必要があるかもしれない。


 エレーヌは、その余地を残しておきたいと考えていた。


「資料を開いたあと、もし頁が大きく広がるようであれば、この机だけで足りるでしょうか」


 マルタの問いに、エレーヌは机の幅を確かめた。


「今のところ、残りの頁数が分かりませんから、必要な広さを正確に見積もることはできません。ただ、最初から別の資料を並べなければ、十分な余裕はあります。もし途中で広さが足りなくなった場合は、無理に作業を続けず、いったん止めるべきでしょう」


「では、そのことも手順へ加えておきます。開いた頁を重ね直す必要がある場合にも、順番が分からなくならないようにしたいですね」


 マルタは手元の覚え書きへ書き加えた。


 エレーヌは頷き、次に窓の位置を確かめた。


 強い風が吹き込むことは避けたいが、部屋を暗くしすぎても細かな文字が読みにくくなる。


 光の具合を確かめるため、エレーヌは窓の布を少し動かし、机の上へ落ちる明るさを見比べた。


「この位置なら、紙へ直接強い光が当たることはなさそうです。ただ、当日の天候によっても変わりますから、作業を始める前にもう一度確認しましょう」


 マルタは頷きながら、室内を見回した。


「エレノア様が途中でお休みになる場合には、隣の部屋をご利用いただくこともできますね。資料を置いたまま人の出入りが増えるのは避けたいですから、休憩する場所を分けておく方がよいかもしれません」


「そうですね。資料の状態を保つことと、ご本人が落ち着いて確認できることは、どちらも大切です」


 エレーヌは覚え書きを閉じると、保管箱が置かれた棚へ目を向けた。


 問題の束は、まだ封じられたままである。


 最初の二枚を確認した際の記録は残っているが、それより先の頁については、何枚あるのかさえ分からない。


 束に付された「エレノア衣類」という表題も、誰が書いたものなのか判明していなかった。


 エレーヌは、その不明な部分を不明なまま扱うことの重要性を、改めて感じていた。


 古い記録は、そこに書かれた文字だけでなく、書かれていないことによっても人を迷わせる。


 読み取れない文字を推測で補えば、あとからそれが事実であるかのように扱われてしまうかもしれない。


 その危険を避けるためにも、最初の確認を慎重に進める必要があった。


「マルタ、作業場所については、今のところ大きな問題はなさそうです。保管箱の外側の状態も、前回の記録と照らし合わせて確認しておきましょう」


「承知いたしました。では、その確認が済みましたら、アルフォンス様へご報告いたします」


 二人は保管箱の外側を慎重に確かめ、管理上の記録と見比べた。


 箱の位置や外側から見える状態について、以前の記録と明らかに異なる点は見当たらなかった。


 ただし、それは中の紙が傷んでいないことを意味するわけではない。


 エレーヌはその区別を覚え書きへ明記した。


 そして、最後にもう一度、封じられた束へ目を向けた。


(開いてみなければ分からないことはある。けれど、開く前に確かめられることを残さず確かめておくのが、私の役目なのでしょう)


 エレーヌはその思いを胸に、準備の結果をアルフォンスへ報告するための紙を整えた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、エレノアは自室で小さな布へ針を通していた。


 昨日見た花の色を試すため、リディアに頼んで紫がかった糸をいくつか用意してもらったのである。


 机の上には、青い花の刺繍とは別に、試し縫い用の布が広げられていた。


 エレノアはまず、濃い青の糸で短い花びらの輪郭を作り、その隣へ紫を少し重ねてみた。


 針を抜くたびに布がわずかに動き、二つの色が少しずつ形を作っていく。


 しかし、最初に試した紫は、思っていたよりも強く見えた。


「……少し、はっきりしすぎているかしら」


 エレノアは針を止め、布を少し離して眺めた。


 夕方の庭園で見た花は、青と紫の境目がもっと柔らかかったように思う。


 もちろん、記憶している色が正確とは限らない。


 だからこそ、今の刺繍へすぐに取り入れず、試してみることにしたのだった。


「リディア、こちらの紫は綺麗だけれど、昨日の花とは少し違う気がするの」


 リディアは布へ目を向け、しばらく考えた。


「そうでございますね。昨日のお花は、光の当たるところだけ少し紫に見えていたように思います。こちらは色が均一ですので、少し印象が違うのかもしれません」


「なるほど……。それなら、全部を紫にするのではなく、青い糸の間へ少しだけ入れてみたらどうかしら」


 エレノアは別の場所へ針を通し、今度は濃い青の糸を多めに使いながら、紫をわずかに混ぜてみた。


 すると、最初の試し縫いよりも落ち着いた色合いになった。


 それでも、夕方に見た花と同じとは言い切れない。


 エレノアは二つを並べて眺め、少し考え込んだ。


「同じ糸を使っていても、重ね方でこんなに違って見えるのね」


「はい。お嬢様が以前、薄い青と濃い青を試されたときも、重ねる場所によって印象が変わっておりました」


 リディアは穏やかに答えた。


 エレノアは微笑み、針を布へ置いた。


「今日は、この二つを残しておくわ。どちらを使うかは、もう少し考えてからにしたいの」


 その言葉を聞いたリディアは、試し縫いの布を傷めないよう、小さな台の上へ置いた。


 エレノアは机の上にある未完成の青い花の刺繍へ目を向けた。


 自分が作っている花は、母の作品を再現したものではない。


 母がどのような青を好み、どんな花びらを描こうとしていたのか、今も分からないからだ。


 けれど、分からないことがあるからといって、自分で色を選ぶことまで諦める必要はなかった。


 エレノアはそのことを、少しずつ理解していた。


 しばらくして、廊下から足音が近づき、扉の向こうでマルタの声がした。


「エレノア様、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ」


 リディアが扉を開けると、マルタは丁寧に礼をして入室した。


「衣類の記録について、エレーヌによる作業場所の確認が終わりました。アルフォンス様へも報告いたしましたので、午後に日程のご相談をさせていただければと存じます」


 エレノアは思わず背筋を伸ばした。


「それでは、準備に問題はなかったのですか」


「現時点で確認できる範囲では、大きな問題は見つかっておりません。ただし、封じられた部分の状態は、実際に開くときでなければ分かりませんので、その点は当日も慎重に確認することになります」


 マルタは落ち着いた声で答えた。


「アルフォンス様は、昨日候補に挙がった日程で皆様のご都合を最終確認したいとお考えです。エレノア様にも、ご予定とお気持ちをお伺いするようにとのことでございました」


 エレノアは少しだけ考えた。


 昨日までは、開封の日が近づいているという実感があっても、まだ候補にすぎなかった。


 けれど、今日の話し合いで日程が決まれば、いよいよ自分の目で残りの頁を確かめる日が近づくことになる。


 胸の奥に期待が生まれる一方で、知らない内容へ向き合うことへの緊張もあった。


「……私は、その日で大丈夫です。昨日、皆様とお話しして、どのように確かめるのかを理解できましたから」


 エレノアはマルタへ顔を向け、丁寧に続けた。


「ただ、もし当日になって資料の状態が悪かったら、無理に開かないという約束は、そのままにしていただきたいです」


 マルタは穏やかに微笑んだ。


「もちろんでございます。その点は、エレーヌも特に大切にしております。お嬢様のお考えも、アルフォンス様へお伝えいたします」


 エレノアはほっとしたように頷いた。


 マルタが退出したあと、彼女は机の上の試し縫いへ視線を戻した。


 青と紫の糸が、小さな布の上で静かに重なっている。


 色を確かめることと、古い記録を確かめることは、まったく違う。


 けれど、見ていないものを想像だけで決めず、実際に確かめてから考えるという点では、どこか似ているようにも思えた。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアはアルフォンスの執務室へ招かれた。


 室内にはアルフォンスとセドリックが待っており、机の上にはエレーヌからの報告書と、立会人の予定をまとめた紙が置かれている。


 窓から入る秋の光は穏やかで、壁際の書棚には細い影が落ちていた。


「エレノア、来てくれてありがとう。マルタから話を聞いたと思うけれど、今日は開封の日程を正式に決められるかどうか、確認したいと思っているんだ」


 アルフォンスは椅子を勧めながら説明した。


 エレノアが席に着くと、セドリックも机の上の紙へ目を向けた。


「エレーヌからは、作業場所について大きな問題は見つからなかったと報告を受けているよ。僕も予定を確認したけれど、候補に挙がっていた午後なら立ち会える」


 エレノアは二人の顔を見比べた。


「ありがとうございます。私も、その日でしたら大丈夫です」


 アルフォンスは頷き、手元の予定表を確かめた。


「では、今日から三日後の午後を、開封の予定日としよう。エレーヌ、マルタ、リディア、私、セドリック、そして君が立ち会う形で準備を進める。ただし、当日の資料の状態によっては、開封を延期したり、途中で作業を止めたりする可能性があることは、変わらないよ」


 エレノアは静かに息を吸った。


 三日後。


 これまで漠然と待っていた日が、初めて具体的な予定として示された。


 胸の奥に小さな緊張が走ったが、それ以上に、自分で確かめる機会が近づいていることを実感した。


「はい、叔父様。そのようにお願いいたします。私も、手帳を用意しておきます」


 アルフォンスは穏やかに微笑んだ。


「ありがとう。エレーヌには、今日決めた日程を正式に伝えておくよ。作業を始める前には、昨日話し合った約束をもう一度全員で確認しよう」


 セドリックも頷いた。


「僕も、当日までに記録の取り方を確認しておくよ。エレノアが気になることを見つけたときに、事実と推測を分けて整理できるようにしたいからね」


 エレノアは従兄へ微笑んだ。


「ありがとうございます、お兄様。でも、私も自分で考えてみたいので、分からないことがあったら、そのときに教えてください」


「もちろんだよ。僕が先に答えを決めてしまっては、君が自分で確かめる意味が薄れてしまうからね」


 その返事に、エレノアは安心したように頷いた。


 アルフォンスは日程を記した紙を整え、少し表情を改めた。


「それから、もう一つ君に伝えておきたいことがある。王宮への問い合わせについてだよ」


 エレノアの指先が、膝の上でわずかに動いた。


 朝食の時点では、王宮からの返事は届いていなかった。


 その後に何か連絡があったのだろうか。


 エレノアは胸の奥の緊張を感じながら、叔父の言葉を待った。


「新しい回答が届いたわけではないんだ。ただ、こちらから送った文書について、今後どのように記録を確認するか、家の中で整理しておこうと思ってね」


 アルフォンスは落ち着いた声で続けた。


「送付した日と文書の控えは残してある。今後、王宮から回答が届いた場合には、受け取った日と文書の内容を確認して、君へ説明する。そのうえで、正式な返答をどうするか相談するつもりだよ」


 エレノアは静かに頷いた。


「それなら、私が知らないうちに返答が送られることはないのですね」


「そのとおりだよ。君が書いた三つの文章についても、まだ署名のない下書きとして保管している。王宮へ送るかどうかも、どのような形で送るかも、今は決まっていない」


 アルフォンスは明確に答えた。


 その言葉を聞き、エレノアはようやく肩の力を抜いた。


 叔父は、何度も同じ約束を確認してくれている。


 それが単なる慰めではなく、実際の文書の扱いにも反映されていることが嬉しかった。


 しかし、胸の奥には、もう一つ気になっていることがあった。


「叔父様……少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 エレノアが声をかけると、アルフォンスはすぐに頷いた。


「もちろんだよ。何でも聞いてほしい」


 エレノアは膝の上で重ねた手を見つめ、それからゆっくり顔を上げた。


「私が書いた文章は、王宮へ送ることになった場合、誰が読むのかを確かめていただくことになっていましたよね」


「ああ。その点も問い合わせに含めているよ。ただし、誰が閲覧する可能性があるのか、どこまで具体的に教えてもらえるかは、まだ分からない」


 アルフォンスは慎重に答えた。


 エレノアは頷いたものの、すぐには次の言葉を口にできなかった。


 第二王子レオナード。


 その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥に冷たいものが広がる。


 かつての人生で、自分を処刑へ追いやった人物。


 あの人の前で何を訴えても、最後には聞き入れられなかった。


 その記憶を、今ここで説明することはできない。


 けれど、自分が書いた言葉が、どのような形でレオナードの目に触れる可能性があるのかを知らないまま署名することも、できなかった。


「……もし、殿下が私の文章を読むことになるのなら、そのことを知っておきたいのです」


 エレノアは声を震わせないように気をつけながら、言葉を続けた。


「私は、婚約を望んでいないという意思を、きちんと伝えたいと思っています。でも、どのような方々がその文章を見るのか、分からないままでは不安なのです」


 アルフォンスはすぐに返事をせず、エレノアの表情を静かに見つめた。


 彼には、姪が第二王子の名を聞くたびに見せる緊張の理由が分からない。


 まだ直接会っていない相手に対して、なぜこれほど強い拒絶を示すのか。


 疑問はあった。


 けれど、その理由を無理に聞き出すことが、今のエレノアのためになるとは思えなかった。


「分かったよ。君がその点を大切に考えていることは、きちんと受け止めている」


 アルフォンスは穏やかな声で答えた。


「ただ、王宮の記録がどの範囲まで閲覧されるのか、私にも今は断言できない。だからこそ、確認できるところは確認したいと思っているんだ。分からないことを、分かったように説明するつもりはないよ」


 エレノアはその言葉を聞き、ゆっくりと息を吐いた。


「ありがとうございます。私も、必ずすべてが分かるとは思っていません。ただ、知らないことを知らないままにして、急いで署名するのは避けたいのです」


 セドリックは二人のやり取りを静かに聞いていたが、そこで穏やかに口を開いた。


「エレノアが自分の名前を書く以上、その文章がどのように扱われるのかを知りたいと思うのは自然なことだよ。すぐに答えが出なくても、確認する意味はあると思う」


 エレノアは従兄へ顔を向けた。


「お兄様も、そう思ってくださいますか」


「もちろんだよ。書いた文章の内容だけでなく、誰の意思として残されるのかも大切だからね」


 セドリックは少し考え、続けた。


「それに、君は父君が送った返書について、事前に同意していなかったと伝えようとしているんだろう。だからこそ、今度は君自身が納得した形で言葉を残すべきだと思う」


 その言葉に、エレノアの胸が静かに熱くなった。


 かつての人生では、自分の知らないところで話が進み、気づいたときには逃れられない立場へ追い込まれていた。


 今は違う。


 叔父も従兄も、自分の意思を確かめようとしてくれている。


 その違いを感じるたび、嬉しさと同時に、失った時間への痛みも胸の奥へ蘇った。


(私は、あの頃のように誰かが決めたことを受け入れるだけではいたくない。自分の名前で何かを伝えるのなら、何を伝えるのかも、その言葉がどう扱われるのかも、できるだけ自分で確かめたい)


 エレノアは小さく頷き、アルフォンスへ顔を向けた。


「叔父様、王宮から返事が届いたら、私にも読ませていただけますか。難しいところは、説明していただきたいのです」


「もちろんだよ。君が理解できるよう、一緒に確認しよう」


 アルフォンスは穏やかに答えた。


 その約束を聞き、エレノアはようやく自然に微笑むことができた。


     ◇ ◇ ◇


 エレノアが執務室を出たあと、アルフォンスはしばらく机の上の文書を見つめていた。


 セドリックは窓際に立ち、庭園へ視線を向けている。


 外では風が少し強くなり、黄色い葉が数枚、石畳の上を転がっていた。


「父上ではなく、叔父上にこうして何度も確認しなければならないことを、エレノアはどう感じているのでしょうね」


 セドリックは静かに口を開いた。


 アルフォンスは顔を上げ、少し考えた。


「少なくとも、今のあの子は、自分の知らないところで何かが決まることを強く恐れているように見えるね。だからこそ、私たちが何をしているのかを、できるだけ伝える必要があると思っている」


 セドリックは頷いた。


「僕もそう思います。ただ、殿下の名前を聞いたときの様子は、少し気になりました。婚約を望んでいないというだけでは説明できないほど、緊張しているように見えることがあります」


 アルフォンスはすぐには答えなかった。


 姪が第二王子との婚約を拒んでいることは、以前から明らかだった。


 しかし、その拒絶の理由について、彼女がすべてを語っているわけではない。


 アルフォンス自身も、その理由を知らない。


「何か、私たちに話していない事情があるのかもしれないね」


 やがて、アルフォンスは静かに答えた。


「けれど、だからといって、今すぐ理由を聞き出す必要はないと思う。少なくとも、婚約を望んでいないという意思は、あの子自身の言葉ではっきり示されているのだから」


 セドリックは窓から視線を戻した。


「そうですね。理由を説明できなければ拒否する意思を認めない、ということにはしたくありません」


「私も同じ考えだよ。必要な手続きは確認するけれど、あの子が望まないことを、本人の知らないところで進めるつもりはない」


 アルフォンスは机の引き出しへ目を向けた。


 そこには、エレノアが自分の手で書いた、署名のない声明の原本が保管されている。


 文章は短い。


 しかし、その短い文章を書くまでに、彼女がどれほど考えたのかを、アルフォンスは知っていた。


 最初の文案にあった「現時点で」という言葉を、エレノアは受け入れなかった。


 一時的に婚約を望んでいないのではなく、婚約そのものを望んでいない。


 その違いを、彼女は自分の言葉で明確にしたのだ。


「セドリック、王宮からの返事が届くまでは、あの文章を今のまま保管しておこう。必要になったときには、必ずエレノア本人へ確認する」


「はい。僕も、その方がよいと思います」


 セドリックは頷いた。


 アルフォンスは手元の書類を整え、衣類の記録についての予定表を取り上げた。


 王宮の問題と、母の遺品や衣類の調査。


 どちらもエレノアにとって大切なことだが、性質は異なっている。


 だからこそ、二つを混同せず、それぞれ必要な手続きを進めることが重要だった。


 アルフォンスは三日後の午後に印を付け、エレーヌへ正式な日程を伝えるための指示を書き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアはリディアとともに、屋敷の南側に近い園路を歩いていた。


 東寄りの曲がり角にある石畳は、まだ修繕が終わっていないため、今日もその道へは近づかない。


 代わりに、昨日青紫の花を見つけた花壇の近くまで足を運ぶことにした。


 午後の光は少し傾いていたが、昨日ほど赤みを帯びてはいなかった。


 エレノアは花壇の前で足を止め、小さな花へ目を向けた。


「リディア、昨日より青く見えるわ」


 リディアも隣へ並び、花びらを眺めた。


「本当でございますね。昨日は夕日が当たっていたので、紫が強く見えたのかもしれません」


「そうね。でも、花びらの中心には、やはり少し紫が混ざっているように見えるわ」


 エレノアは持ってきた小さな紙へ、色の違いを書き留めた。


 昨日は夕方の光の中で見た花。


 今日は、それより少し早い時間に見た花。


 同じ場所に咲いていても、光の当たり方によって印象が変わる。


 そのことが面白かった。


「今朝、紫の糸を少し試してみたのだけれど、思っていたよりも色が強く出たの。今日の花を見ると、青を多くした方が近いかもしれないわ」


 エレノアは紙へ視線を落としながら続けた。


「でも、まだ決めないでおこうと思うの。明るい時間と夕方でこんなに違って見えるなら、もう少し見比べてからでも遅くないもの」


 リディアは穏やかに微笑んだ。


「お嬢様が楽しそうに色を選んでいらっしゃるのを見ると、私も嬉しくなります。以前より、刺繍をなさる時間が増えましたね」


 エレノアは少し驚いて顔を上げた。


「そうかしら」


「はい。初めの頃は、針を持つときにも少し緊張していらっしゃいましたが、最近はご自分で色を試したり、気になるところを考えたりなさっています」


 リディアの言葉を聞き、エレノアは手元の紙へ目を落とした。


 確かに、最初は母の木枠を使うことにもためらいがあった。


 大切なものを傷めてしまうのではないか。


 自分が作る花は、母の作品に比べて見劣りするのではないか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど、今は違う。


 上手に作ることだけが目的ではなく、色を選び、少しずつ形にしていく時間そのものが好きになっていた。


「……そうね。私、刺繍をしていると落ち着くの。考えなければならないことが多い日でも、針を動かしているあいだは、目の前の花に集中できるから」


 エレノアは微笑み、花壇へ視線を戻した。


「それに、今作っている青い花は、私が選んだ色で作っているのよね。お母様の作品とは違うけれど、それでも大切にしたいと思っているわ」


 リディアは静かに頷いた。


「きっと、完成したときには、お嬢様にとって大切な作品になると思います」


 エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 花壇の向こうでは、庭師たちが落ち葉を集めている。


 遠くから箒の音が聞こえ、風が吹くたびに枝先の葉が揺れた。


 その穏やかな景色を眺めていると、昼間に感じた王宮への不安が、少しだけ遠ざかるようだった。


 エレノアは小さな紙を丁寧に持ち直し、リディアへ顔を向けた。


「そろそろ戻りましょうか。今日は、色の違いを確かめられただけでも十分だわ」


「はい。日が傾くと冷えてまいりますので、ちょうどよろしいかと存じます」


 二人は花壇を離れ、屋敷へ向かって歩き始めた。


 その途中、エレノアはふと足を緩めた。


 遠くに見える庭園の木々は、上の枝から少しずつ葉を落としている。


 昨日まであった色が、今日は少し変わっている。


 けれど、それは失われていくだけの変化ではなかった。


 季節が進むにつれて、枝の形や光の入り方も変わっていく。


 今まで見えなかったものが、葉の落ちたあとに見えることもあるのだろう。


(記録を開く日も、そうなのかもしれないわ。何かを知ることで、今まで見えなかったことが見えるようになるかもしれない。でも、何が見えるのかは、まだ分からないのよね)


 エレノアはその思いを胸に、屋敷へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席では、三日後の午後に衣類の記録を開く予定が正式に決まったことが話題になった。


 エレノアは、アルフォンスから説明された内容をオーギュストとマルグリットへ伝えた。


「エレーヌが作業場所を確認してくださったので、三日後の午後に皆様と一緒に資料を確かめることになりました。ただし、紙が傷んでいた場合には、無理に開かないことになっています」


 マルグリットは静かに頷いた。


「そうですか。日程が決まったのですね。準備が整ってきたことは嬉しいですが、当日は無理をしないでくださいね」


「はい、お祖母様。私も、そのつもりです」


 エレノアは丁寧に答えた。


 オーギュストは少し考え、穏やかな声で続けた。


「記録を確認する日は、どうしても気持ちが落ち着かなくなるかもしれないね。けれど、何かを見つけなければならないと考えすぎる必要はないよ。まずは、残されているものを確かめることが大切なのだから」


 エレノアは祖父へ顔を向けた。


「はい。私も、そう考えたいと思っています。残りの頁に何が書かれているのかは、まだ分かりませんから」


 アルフォンスは頷いた。


「当日は、エレーヌが作業を進める前に、確認する範囲や記録方法をもう一度説明する予定だよ。君が途中で休みたいと思った場合にも、遠慮なく伝えてほしい」


「ありがとうございます、叔父様」


 エレノアは微笑んだ。


 セドリックはその様子を見ながら、少し柔らかな声で口を開いた。


「エレノアは、昨日から自分でも記録用の手帳を準備しているんだよね。今日、日程が決まったことも書き加えるのかな」


「はい、お兄様。忘れないように書いておこうと思っています。それから、当日に持っていくものも、今のうちに確認しておきたいです」


 エレノアは少し考え、続けた。


「でも、資料を扱うための道具はエレーヌが用意してくださるのでしょう? 私は手帳と筆記具だけでよいのかしら」


 アルフォンスは頷いた。


「そうだね。資料を扱うために必要なものは、エレーヌたちが準備する。君は、自分の覚え書きに使うものだけ用意しておけば十分だよ」


 エレノアは安心したように微笑んだ。


「それなら、今夜のうちに確認しておきます」


 マルグリットは孫娘の表情を見つめ、穏やかに口を開いた。


「エレノア、準備をすることは大切ですが、今夜はゆっくり休むことも忘れないでくださいね。三日後まで、まだ時間はあるのですから」


「はい、お祖母様。今日は手帳を少し整えたら、早めに休もうと思います」


 その返事を聞き、マルグリットは安心したように微笑んだ。


 夕食の席には、その後も穏やかな会話が続いた。


 庭園の冬支度や、屋敷の中で使う厚手の布の準備について話しているうちに、エレノアの胸にあった緊張も少しずつ和らいでいった。


 衣類の記録を開く日は決まった。


 けれど、その日が来るまで、毎日の暮らしを止めてしまう必要はない。


 エレノアはそのことを、家族との食事の中で改めて感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に小さな手帳を広げた。


 窓の外では風が弱まり、庭園の木々が静かに揺れている。


 壁際の棚には、桃色の野薔薇の刺繍が飾られていた。


 机の上には、未完成の青い花の刺繍と、今日試した青紫の糸の布が置かれている。


 エレノアは椅子へ腰を下ろすと、まず衣類の記録についての頁を開いた。


 昨日作った五つの欄は、そのまま残してある。


 確認した日。


 立ち会った人。


 実際に開いた範囲。


 読み取れたこと。


 まだ分からないこと。


 エレノアはそれらを一つずつ確かめ、頁の上部へ新しく決まった予定を書き加えた。


『三日後の午後、衣類の記録を確認する予定。資料の状態によっては、開封を延期、または途中で中止する。』


 その下へ、立会人として予定されている人々の名前を記した。


 エレーヌ・フォシェ。


 マルタ。


 リディア。


 アルフォンス。


 セドリック。


 そして、自分自身。


 エレノアは最後の名前を書き終え、しばらくその文字を見つめた。


 自分が立ち会うことは、初めから決まっていた。


 けれど、こうして名前を並べてみると、誰かに任せきりにするのではなく、自分自身も確かめる側にいるのだと実感できた。


(私が知りたいことなのだから、私も自分の目で確かめたい。でも、分からないことがあったら、皆様に教えていただけばいいのよね)


 エレノアは静かに頷き、手帳を閉じた。


 その隣には、王宮へ提出する可能性がある声明の控えを収めた文書入れがある。


 彼女はしばらく迷ったあと、文書入れを開き、照合済みの控えを取り出した。


 紙には、自分が書いた三つの文章が丁寧に写されている。


 第二王子との婚約を望んでいないこと。


 父の返書が送られる前に、受諾の意思を示していないこと。


 そして、父の返書と自分の意思を同じものとして扱わないでほしいこと。


 エレノアは一行ずつ読み返した。


 そこに書かれているのは、誰かに命じられて選んだ言葉ではない。


 自分で考え、何度も確かめた末に書いた文章だった。


 それでも、まだ署名はない。


 王宮がどのような形式を求めるのか、誰がその文章を読む可能性があるのか、分からないことが残っているからだ。


 エレノアは紙の下部へ視線を落とした。


 もし署名することになれば、そこにはエレノア・ベルナールという名前を書くことになるのだろう。


 ロシュフォール家へ迎え入れられるための手続きは進んでいるが、まだ正式に完了していない。


 今の自分は、法的にはベルナール家の娘である。


 その事実が、時折胸の奥へ重くのしかかる。


 父ロベルトが、自分の同意を得ないまま婚約受諾の返書を送ったことも、変わらない。


 けれど、その名前を持っているからといって、父の意思と自分の意思が同じになるわけではない。


(私は、まだベルナールという名前を名乗っている。でも、その名前で書く言葉まで、お父様のものになるわけではないわ)


 エレノアは紙を持つ指先へ少し力を込めた。


 かつての人生では、自分の名前が書かれた書類を前にしても、その内容を変えられないことがあった。


 周囲の人々は、すでに決まったこととして話を進め、エレノアが何を望んでいるのかを尋ねようとしなかった。


 その記憶を思い出すと、胸の奥に冷たいものが広がる。


 けれど、今は叔父が原本を預かり、王宮への問い合わせを送ったうえで、返事を待ってくれている。


 自分が理解できるまで署名を急がせないと約束してくれた。


 その違いを思うと、エレノアの呼吸は少しずつ落ち着いていった。


 彼女は声明の控えを丁寧に文書入れへ戻した。


 まだ、王宮へ送る日ではない。


 だから、今夜はこれ以上考えすぎずにおこうと思った。


 エレノアは日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。


『今日は、衣類の記録を開く日が決まりました。三日後の午後に、皆様と一緒に残りの頁を確かめる予定です。ただし、紙が傷んでいる場合には無理に開かないことになっています。私は、何が書かれているのか知りたいと思っていますが、記録を傷めないことも大切にしたいです。』


 筆を置き、少し考えてから続きを書いた。


『王宮からの返事は、まだ届いていません。叔父様は、私が書いた文章を今も下書きとして保管してくださっています。誰が読むのか、どのように扱われるのかを確かめてから、署名について考えるつもりです。』


 エレノアはその文章を読み返した。


 衣類の記録と、王宮へ伝える言葉。


 どちらも、まだ結論が出ていない。


 けれど、今日一日で、それぞれ少しずつ前へ進んだ。


 衣類の記録については、開封の日程が決まった。


 王宮の問題については、返事が届いたときに自分も説明を受け、理解してから判断するという約束を改めて確かめられた。


 エレノアは日記帳へ、もう一つ書き加えた。


『庭園では、昨日見た青紫の花を、少し違う時間に眺めました。同じ花でも、光によって色が変わって見えます。刺繍にはまだ使っていませんが、試した糸を残して、もう少し考えてみようと思います。』


 書き終えると、エレノアは小さく微笑んだ。


 今日の一日には、大きな事件が起きたわけではない。


 王宮からの回答もなく、封じられた頁を開いたわけでもなかった。


 それでも、自分の意思を確かめながら、少しずつ準備を進めることができた。


 以前の人生では、何かが決まるたびに、自分の手から未来が離れていくような感覚があった。


 けれど、今は違う。


 まだ分からないことがあっても、そのことを認め、確かめるための時間を持つことができる。


 誰かが答えを与えてくれるのを待つだけではなく、自分で考え、尋ね、納得してから選ぶことができる。


 エレノアは日記帳を閉じ、机の上の青い花の刺繍へ目を向けた。


 まだ完成していない花びらには、これからどの色を重ねるのか決まっていない部分がある。


 けれど、それを急いで埋める必要はなかった。


 明日、もう一度庭園の花を見てもよい。


 別の糸を試してもよい。


 今の色のままにすることを選んでもよい。


 どの選択をするにしても、自分が納得して決められることが大切なのだと思った。


 エレノアは刺繍枠をそっと整え、針を安全な場所へ収めた。


 壁際の棚では、桃色の野薔薇が静かに咲いている。


 母の木枠に収められたその花を眺めていると、胸の奥へ穏やかな温かさが広がっていった。


「お母様……私、少しずつですが、自分で決められるようになってきた気がします」


 小さく呟いた言葉は、静かな部屋の中へ溶けていった。


 答えが返ってくることはない。


 けれど、エレノアはそれでよかった。


 母がどのような言葉を返してくれたのか、想像だけで決めつける必要はない。


 今の自分が感じていることを、大切にすればよいのだと思った。


 やがてリディアが就寝の準備を整えに来ると、エレノアは日記帳を所定の場所へ戻し、椅子から立ち上がった。


「リディア、今日はもう休むことにするわ。三日後のことを考えると少し緊張するけれど、今夜はよく眠れそうな気がするの」


 リディアは穏やかに微笑んだ。


「それは何よりでございます。準備も進んでおりますし、当日も皆様がお側にいらっしゃいます。今夜はどうぞ、ゆっくりお休みくださいませ」


 エレノアは頷き、寝台へ向かった。


 窓の外では、夜風が庭園の枝を静かに揺らしている。


 封じられた頁を開く日まで、あと三日。


 王宮からの返事がいつ届くのかは、まだ分からない。


 けれど、どちらについても、今の自分にできることを一つずつ進めている。


 エレノアは寝台へ身を横たえ、静かに目を閉じた。


 胸の奥には、期待と不安が入り混じっていた。


 それでも、以前のように、ただ何かが起こるのを恐れて待つだけではなかった。


 自分の名前で残す言葉も、自分の目で確かめる記録も、誰かに急かされるのではなく、自分が納得できる形で向き合いたい。


 その思いを胸に抱きながら、エレノアは穏やかな眠りへと落ちていった。

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