第85話 封じられた頁を開くための約束と、秋の午後に見つけた小さな手がかり
王宮へ問い合わせを発送した翌朝、ロシュフォール家の庭園には、秋らしい澄んだ空気が満ちていた。
夜のあいだに風が吹いたらしく、窓から見える園路には黄色い葉がいくつも落ちている。庭師たちがまだ手入れを始めていない場所では、石畳の縁に葉が寄り集まり、朝日を受けて柔らかな金色に輝いていた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、しばらくその景色を眺めていた。
昨日、叔父アルフォンスが王宮へ送ったのは、婚約についての最終的な返答ではない。
父ロベルトが送った受諾の返書と、自分自身の拒否意思をどのような形式で王宮へ伝えるべきか。その手続きを確かめるための問い合わせだった。
自分で書いた三つの文章は、まだ署名のない下書きのままである。原本はアルフォンスが保管し、内容を照合した控えは自室の文書入れに収めてある。
(昨日、問い合わせが送られたのね。王宮へ届くのは、いつになるのかしら)
そう考えた途端、胸の奥に小さな緊張が生まれた。
王宮という場所は、エレノアにとって、単なる遠い建物ではない。
かつての人生で、自分の言葉が届かなかった場所。無実を訴えても聞き入れられず、最後には命を奪われることになった場所でもある。
あの記憶を思い出すたび、冷たい石の感触と、周囲から向けられた視線が蘇る。
けれど、今朝のエレノアは、そこで思考を止めなかった。
(問い合わせを送ったからといって、すぐに何かが決まるわけではないわ。私が書いた下書きも、まだ送られていない。それなら、今日は今日のことを考えましょう)
窓辺から視線を移すと、壁際の棚には桃色の野薔薇の刺繍が飾られていた。
母アデラインが使っていた古い木枠に、自分で刺した花を収めたものだ。
昨日、マルタとリディアが敷物や棚の安定を確かめ、窓辺から移してくれた。
朝の光が直接当たる場所ではなくなったため、桃色の糸は以前より落ち着いて見える。それでも、花びらの重なりや細かな針目は、部屋の明るさが増すにつれて少しずつ浮かび上がっていた。
エレノアは寝台から降り、棚の前へ近づいた。
「お母様の木枠も、こちらの方が落ち着くかしら」
誰に聞かせるでもなく呟き、そっと微笑む。
答えが返ってくることはない。
けれど、母が使っていたものを大切にしながら、自分の作品を飾ることができる。それだけでも、以前の人生では得られなかった穏やかな時間だった。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「おはよう、リディア。ええ、起きているわ。今朝は少し冷えるわね」
入室したリディアは、用意した衣装を椅子へ掛け、窓の外へ目を向けた。
「昨夜は風が強かったようでございます。庭園にも落ち葉が増えておりますね。今日はお部屋でも寒くならないよう、少し厚手のお召し物をご用意いたしました」
「ありがとう。ちょうど、そうした方がよいと思っていたところなの」
エレノアは衣装へ目を向け、それから机の上に置かれた青い花の刺繍を見た。
昨日は花びらの濃淡を少し進めたものの、まだ完成には遠い。
庭園の絵も同じだった。
雨上がりに見た石畳の色や、重なり合う枝の形は描き加えたが、曲がり角の先は白いままである。
「今日は、午前中に刺繍を進めようかしら。庭園の絵は、石畳の修繕が終わってから続きを描きたいの」
「それがよろしいかもしれませんね。ギュスターヴも、まだあちらの道は通らないようにと申しておりました」
リディアは衣装を整えながら、少し考えるような表情を見せた。
「それから、お嬢様。昨日、マルタがエレーヌ様とお話ししていたようでございます」
「エレーヌと?」
「はい。以前からご相談なさっていた衣類の記録について、保管場所や立会いの準備を確認していたそうです。ただ、詳しいことは私もまだ伺っておりません」
エレノアは思わず顔を上げた。
衣類に関する記録。
それは、ベルナール家から移された資料の中にあった、「エレノア衣類」と記された束のことだろう。
最初の二枚を確認したあと、残りは封じられたままになっている。
その中に何が書かれているのかは、まだ誰にも分からない。
「そうなのね……。では、準備が少し進んだのかもしれないわ」
「その可能性はございます。ただ、開封の日が決まったとは聞いておりませんので、まずはマルタへ確認いたしましょうか」
エレノアは頷いた。
「ええ、お願いするわ。でも、急いでいただく必要はないと伝えてね。大切な記録だから、きちんと準備してから確かめたいの」
リディアは柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。お嬢様のお考えも、そのようにお伝えいたします」
エレノアは衣装へ袖を通しながら、胸の奥に生まれた期待を静かに落ち着かせた。
母の遺品や、自分の幼い頃の衣類について、分からないことはまだ多い。
だからこそ、封じられた頁を早く見たいという気持ちはある。
けれど、早く知りたいという思いだけで、大切な記録を傷めてしまっては意味がない。
エレノアはそのことを、以前よりもよく理解していた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、まず庭園の修繕について話があった。
オーギュストによれば、ギュスターヴは東寄りの園路にある石畳の浮きを引き続き調べており、周囲の石まで動かさずに済む方法を検討しているという。
「石の下の状態がまだ十分に分かっていないそうだ。今日も通行を避けてもらうことになるけれど、ほかの道は問題なく使えるからね」
エレノアは頷いた。
「はい、お祖父様。あちらへは、修繕が終わってから伺います。昨日も絵を描きながら、まだ見ていない場所を想像だけで描くのはやめておこうと思ったのです」
「それはよい考えだね。実際に見る日を楽しみに取っておくのも、悪くないだろう」
オーギュストは穏やかに微笑んだ。
マルグリットは温かな飲み物を手に取りながら、エレノアへ顔を向けた。
「庭園は、少しずつ冬の支度に入りますからね。修繕が終わる頃には、また違う色になっているかもしれませんよ」
「そうですね。今の絵を描き終える前に、葉が全部落ちてしまうかもしれません」
エレノアがそう答えると、セドリックが小さく笑った。
「それなら、今の景色と、葉が落ちたあとの景色を別々に描くこともできそうだね。エレノアなら、同じ道でも違うところを見つけるだろうから」
「お兄様、それでは絵が二枚になってしまいます」
「二枚描いてはいけないという決まりはないよ」
穏やかなやり取りに、食卓へ小さな笑いが広がった。
エレノアも微笑みながら、温かい飲み物を口にした。
その後、アルフォンスが王宮への問い合わせについて簡単に報告した。
「昨日発送した文書については、送付の記録を残してあるよ。今朝の時点で新しい連絡は届いていないけれど、そもそも返事を期待するには早すぎるからね」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。昨日、送ってくださったことを教えていただけただけで十分です。私の下書きも、まだ叔父様がお預かりくださっているのですよね」
「そのとおりだよ。君が書いた原本は、ほかの文書とは区別して保管している。昨日の問い合わせには添えていないし、正式な返答もまだ発送していない」
アルフォンスは一つずつ確かめるように答えた。
エレノアは安心して微笑んだ。
「ありがとうございます。では、王宮からの説明を待つあいだに、私もほかのことを進めたいと思います」
「もちろんだよ。君の暮らしが、王宮からの返事だけで決まってしまう必要はないからね」
その言葉を聞いたマルグリットは、エレノアへ優しい視線を向けた。
「そういえば、衣類の記録について、エレーヌとマルタが準備を進めているそうですよ。今日、二人からお話を聞いてみてはどうかしら」
エレノアは思わず背筋を伸ばした。
「お祖母様、もう準備が進んでいるのですか」
「ええ。ただし、まだ封を開く段階ではありません。どうすれば資料を傷めずに確認できるか、相談しているところだそうです」
エレノアは頷いた。
「それなら、ぜひお話を聞きたいです。私も、どのように確認するのか知っておきたいので」
アルフォンスは少し考え、口を開いた。
「午後なら、私も時間を取れると思う。エレーヌたちの準備状況を聞いて、立会いの日程について相談してみようか」
その言葉に、エレノアの胸が小さく高鳴った。
まだ開封するわけではない。
けれど、いつまでも漠然と待っているだけだった資料について、具体的な準備を考えられるのかもしれない。
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアは丁寧に答えた。
セドリックも彼女へ顔を向けた。
「僕も同席する予定だったね。午後の時間が決まったら教えてもらえるかな」
「もちろんだよ。エレノアが希望していた立会いの形を、できるだけ整えたいと思っている」
アルフォンスの返事を聞き、エレノアは静かに息を吐いた。
封じられた記録へ近づくことは、少し怖い。
そこに何が書かれているのか、まだ分からないからだ。
それでも、知りたいと思う気持ちは変わらなかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めていた。
机の上には、薄い青と濃い青の糸が分けて置かれている。針を通すたび、花びらの縁に少しずつ色が重なり、平らだった部分に柔らかな陰影が生まれていった。
母アデラインが残したという青い花の刺繍は、今も見つかっていない。
以前に見つけた「青い花を作りたい」という書き付けには母の名前があったものの、日付は読み取れず、それがどの作品を指しているのかも分からない。
だから、エレノアが今作っている刺繍は、母の作品を再現したものではなかった。
自分が美しいと思った色を選び、自分の手で作っている花だ。
エレノアは針を止め、少し離れたところから布を眺めた。
「リディア、この花びらの端、もう少し濃くした方がよいかしら」
リディアは傍らへ近づき、布へ触れないようにして目を凝らした。
「今のままでも綺麗でございますが、こちらの重なりだけ少し濃くすると、奥にある花びらとの違いが分かりやすくなるかもしれません」
「そうね。全部を同じ濃さにするより、重なっているところだけ変えた方がよさそうだわ」
エレノアは糸を選び直し、慎重に針を通した。
しばらくして、廊下から控えめな足音が近づいた。
リディアが扉へ向かうと、そこにはマルタが立っていた。
「エレノア様、お時間を少しいただいてもよろしいでしょうか。午後の資料確認について、アルフォンス様からご相談の場を設けるようにとお話がございました」
エレノアは刺繍枠を机へ置いた。
「もちろんです。何か決まったことがあるのでしょうか」
「まだ開封の日を決めたわけではございません。ただ、エレーヌが保管方法について確認を進めておりますので、今日の午後、準備の状況をご説明できるかと存じます」
マルタは丁寧に答えた。
「立会いについても、お嬢様が以前ご希望なさった方々へ、改めて都合を確認することになると思います」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます。私も、どのように準備していただいているのか知りたいです」
マルタは穏やかに微笑んだ。
「承知いたしました。それでは、昼食のあと、エレーヌとともにお伺いいたします」
マルタが退出すると、エレノアはしばらく扉を見つめていた。
資料を開く準備が、少しずつ進んでいる。
そのことが嬉しい反面、胸の奥には落ち着かない気持ちもあった。
「エレノア衣類」と記された束には、最初の二枚以外にどのような頁があるのだろう。
幼い頃に着ていた衣装についての記録なのか。
それとも、今も行方が分からない衣類について、何か手がかりが残っているのだろうか。
エレノアはそこで考えるのをやめた。
(まだ見ていないのだから、何が書かれているかは分からないわ。期待しすぎて、書かれていないことまで見つけたつもりにならないようにしなくては)
彼女は再び刺繍枠を手に取った。
糸を通すたび、少しずつ花の形が整っていく。
その確かな手触りに意識を向けることで、午後までの時間を穏やかに過ごそうと思った。
◇ ◇ ◇
同じ頃、屋敷の記録を管理する部屋では、エレーヌ・フォシェが資料の保管状況を確認していた。
机の上には、開封手順についてまとめた覚え書きが置かれている。
問題となっている「エレノア衣類」の束は、まだ封じられたまま保管されていた。
最初の二枚を確認したときの記録は別に残されているが、それ以降の頁については、内容も枚数も確かめられていない。
エレーヌは保管箱の位置を確認し、手元の記録と照らし合わせた。
箱の外側には、資料を識別するための管理上の書き付けがある。
しかし、それは中身のすべてを説明するものではない。
特に、束に付された「エレノア衣類」という文字については、誰が、いつ、どのような目的で記したものなのか、まだ分かっていなかった。
エレーヌはその点を覚え書きへ記した。
そこへマルタが入室した。
「エレーヌ、午後の相談について、エレノア様にもお伝えしてまいりました。ご本人も、準備の状況をお聞きになりたいとのことでございます」
「ありがとうございます。では、今日のうちに、立会いの方法についてお話しできそうですね」
エレーヌは手元の紙を整えた。
マルタは保管箱へ目を向けた。
「資料の状態はいかがでしょうか」
「外側から確認できる範囲では、前回の保管記録と大きく異なる点は見当たりません。ただし、封じられた部分の状態は、実際に開くときでなければ分かりません」
エレーヌは慎重に答えた。
「ですから、開封する前に、作業する場所と記録の取り方を決めておきたいのです。途中で傷みが見つかった場合には、そこで作業を止めることも考えておかなければなりません」
マルタは頷いた。
「立ち会う人数が多すぎても、作業の邪魔になるかもしれませんね」
「ええ。ただ、エレノア様が立会いを希望なさった方々には、それぞれ理由があるのでしょう。全員が同じように資料へ近づく必要はありませんから、役割を分ける方法もあると思います」
エレーヌは覚え書きをマルタへ示した。
資料を実際に扱う者。
頁の状態や順番を記録する者。
確認された内容を読み上げ、記録との違いを確かめる者。
そして、エレノア本人が無理なく内容を確認できるよう支える者。
それぞれの役割を整理しておけば、立会いの人数が増えても混乱を避けられるかもしれない。
マルタは紙を読み進め、静かに頷いた。
「リディアには、エレノア様のお側についてもらうのがよさそうですね。ご本人が途中で休みたいとおっしゃった場合にも、すぐ対応できますから」
「私も、そう考えています。資料を扱う作業と、ご本人への配慮は、分けておいた方がよいでしょう」
エレーヌは少し考え、続けた。
「ただし、今日はまだ役割を決定するつもりはありません。アルフォンス様やセドリック様のご都合もありますし、何よりエレノア様のお考えを確かめたいのです」
マルタは頷いた。
「では、午後はその点を中心にお話しいたしましょう」
二人は必要な覚え書きをまとめ、相談の準備を進めた。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアはリディアとともに小さな応接室へ向かった。
部屋にはアルフォンスとセドリックが先に着いており、机の上には何枚かの紙が置かれていた。
しかし、封じられた衣類の束そのものは運び込まれていない。
エレノアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
今日は開封する日ではない。
その準備について話し合う日なのだ。
「エレノア、来てくれてありがとう。今日は、衣類の記録を確認するための準備について相談しようと思っているよ」
アルフォンスは穏やかに声をかけた。
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアが席に着くと、ほどなくしてエレーヌとマルタが入室した。
二人は丁寧に礼をし、机の上へ準備の覚え書きを広げた。
エレーヌが最初に口を開いた。
「エレノア様、本日は、封じられた頁を開く前に確認しておきたいことをご説明いたします。まず申し上げますが、資料そのものはまだ開いておりません。最初の二枚より先については、内容も枚数も確認できていない状態でございます」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。そのことは、私も覚えています」
「ありがとうございます。今後の確認では、まず封じられた部分の状態を確かめ、開封できると判断した場合にのみ作業を進めることを考えております」
エレーヌは覚え書きの最初の項目を示した。
そこには、資料を扱う前に保管状態を記録することが書かれていた。
封の位置。
紙の外側に見える傷み。
束の置かれ方。
そして、前回の保管記録と異なる点がないか。
エレノアは一つずつ読み進めた。
「エレーヌ、封を開く前にも、こんなに確認することがあるのですね」
「はい。開いたあとでは、元の状態を確かめられなくなる部分もございますから。何かを見つけることだけでなく、どのような状態で見つかったのかを残しておくことも大切なのです」
エレノアはその説明を聞き、静かに考えた。
母の遺品について調べ始めた頃は、何が書かれているのか、何が入っているのかばかり気にしていた。
けれど、今は少し違う。
物がどこにあったのか。
誰がいつ確認したのか。
そのとき、どのような状態だったのか。
そうした情報も、あとから事実を確かめるために必要なのだと分かってきた。
「……それなら、私も開く前の状態を見ておきたいです。あとから、どのような封だったのか分からなくならないように」
エレーヌは頷いた。
「もちろんでございます。作業を始める前に、皆様へ外側の状態をご確認いただく予定です。ただし、資料を直接扱うのは、できるだけ限られた者にしたいと考えております」
エレノアは少し考えた。
「それは、紙を傷めないためでしょうか」
「そのとおりです。多くの方が順番に触れますと、意図せず紙を折ったり、頁の順序を変えてしまったりする可能性がございますから」
アルフォンスは説明を聞き、静かに頷いた。
「エレノア、以前、君は立会いを希望する人として、エレーヌ、マルタ、リディア、私、それからセドリックの名前を挙げていたね。その希望は、今も変わらないかな」
エレノアは叔父へ顔を向けた。
「はい。できれば、その皆様にいていただきたいです。でも、全員が資料に触れる必要はないと思います」
少し考えてから、彼女は続けた。
「私が内容を読むとき、分からないことがあれば教えていただきたいですし、あとから記録を確かめるときにも、同じ場で何を見たのか覚えていてくださる方がいれば安心できると思うのです」
セドリックはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「それなら、立ち会う人と、実際に資料を扱う人の役割を分けるのがよさそうだね。僕は記録を確認する側でも構わないよ」
マルタも静かに口を開いた。
「私は、頁の順序や作業の進み方を記録するお手伝いができるかと存じます。リディアには、エレノア様のお側についていただくのがよろしいでしょう」
リディアは頷いた。
「はい。お嬢様が途中でお疲れになったときには、すぐにお休みいただけるようにいたします」
エレノアは皆の顔を見回した。
自分が希望した人々が、ただその場に集まるだけではなく、何のために立ち会うのかを考えてくれている。
そのことが嬉しかった。
「ありがとうございます。皆様が一緒にいてくださるなら、私も落ち着いて確かめられると思います」
エレーヌは微笑み、次の項目へ話を進めた。
「もう一つ、大切なことがございます。実際に頁を開いたとき、もし紙が貼りついていたり、破れそうになっていたりした場合には、無理に続きを確認しないことにしたいのです」
エレノアは少し驚いた。
「途中で、やめるのですか」
「はい。内容が気になっても、紙を傷めてしまえば、あとから確かめられなくなるかもしれません。必要であれば、保存方法に詳しい方へ相談することも考えます」
エレノアはしばらく黙っていた。
封じられた頁を開く日を、ずっと待っていた。
もし、ようやくその日が来たのに途中で止めなければならなくなったら、きっと残念に思うだろう。
けれど、傷んだ紙を無理に開き、大切な文字を失ってしまう方が、もっと悲しい。
「……分かりました。もし傷んでいるところがあったら、無理に開かないでください。私も、その方がよいと思います」
エレーヌは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。そのお考えを、作業の前提として記しておきます」
アルフォンスはエレノアへ穏やかな視線を向けた。
「君が途中で確認をやめたいと思った場合も、同じように止めて構わないよ。資料の状態だけでなく、君自身の気持ちも大切だからね」
エレノアは頷いた。
「はい。でも、できるだけ自分の目で確かめたいと思っています。もし辛くなったら、そのときはきちんとお伝えします」
セドリックは小さく微笑んだ。
「それでいいと思うよ。最初から最後まで一度に見なければならないわけではないからね」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
◇ ◇ ◇
話し合いが進むにつれて、開封のために必要な準備が少しずつ整理されていった。
作業する机は、十分な広さがあり、資料を広げてもほかの物と混ざらない場所を選ぶこと。
窓からの強い光や風が直接当たらないようにすること。
頁の順番を変えず、確認した内容をその場で記録すること。
そして、開封したという事実と、そのとき確認できたことを、後から区別できる形で残すこと。
エレノアは覚え書きを読みながら、一つの項目へ目を留めた。
「エレーヌ、こちらに『記載内容の確認と解釈を分ける』とありますけれど、どういう意味でしょうか」
エレーヌは指された部分を見て、丁寧に答えた。
「たとえば、ある頁に衣装の名前や日付が書かれていたといたします。その場合、まずは何という文字が書かれているかを記録いたします。しかし、その衣装が実際に誰へ渡されたのか、何のために使われたのかまでは、記載だけで分からないこともございます」
エレノアは頷いた。
「書かれていることと、そこから考えられることは、違うのですね」
「はい。推測が必要な場合には、推測であると分かるようにしておきたいのです」
エレノアはしばらく考えた。
ベルナール家の帳簿に記されていた「ロラン」という姓を思い出す。
その文字が存在することは確かでも、誰を指しているのかは、まだ分かっていない。
ベアトリス・ロランと同じ姓だからといって、彼女の名前だと決めつけることはできない。
以前の問い合わせでも、その点は明らかにならなかった。
「……ほかの帳簿でも、同じことがありましたね。名前が似ていても、誰のことなのか分からない場合があるのですもの」
アルフォンスは頷いた。
「そうだね。今回の資料でも、見つかった言葉だけで結論を急がないようにしよう」
エレノアは静かに微笑んだ。
「はい。私も、気をつけたいと思います」
そこでマルタが、もう一枚の紙を机へ置いた。
「立会いの日程についてでございますが、皆様のご予定を確認したところ、数日後の午後であれば、必要な方々が揃う見込みでございます」
エレノアは顔を上げた。
「数日後、ですか」
「はい。ただし、エレーヌによる作業場所の最終確認がまだ残っております。また、当日の資料の状態によっては、開封を延期する可能性もございます」
アルフォンスは覚え書きへ目を向けた。
「私も、その日の午後なら時間を取れる。セドリックはどうかな」
「僕も大丈夫です。ほかの予定は調整できます」
セドリックは答えた。
リディアも頷いた。
「私も、お嬢様のお側におります」
エレノアは皆の言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
まだ正式な日程が確定したわけではない。
けれど、これまで遠く感じられていた開封の日が、具体的な予定として考えられるところまで来ている。
「ありがとうございます。私も、その日の午後でしたら大丈夫です」
エレーヌは頷いた。
「では、作業場所と資料の保管状態を最終確認したうえで、改めて日程をお知らせいたします。今日の段階では、候補日として記録しておきます」
エレノアは静かに頷いた。
そこで、ふと気になることがあった。
「叔父様、資料を開いたあと、そこに何が書かれていたのかは、どのように残すのでしょうか」
アルフォンスはエレーヌへ目を向けた。
エレーヌは覚え書きを確かめ、答えた。
「読み取れた文字を写し、頁ごとに記録する予定でございます。ただし、読めない部分があれば、無理に補わず、読めないことをそのまま残します」
「では、あとから読み返したときにも、何が確かめられたのか分かるのですね」
「そのようにしたいと考えております。もっとも、資料の状態によっては、予定どおりに進められない場合もございますので、当日の判断が必要になります」
エレノアは頷いた。
そして、少しだけ考えてから口を開いた。
「それなら、私も、見て気になったことを別の紙へ書いてもよろしいでしょうか。記録そのものと混ざらないようにしたいのです」
エレーヌは穏やかに微笑んだ。
「もちろんでございます。むしろ、確認した事実と、お嬢様があとから調べたいと思われたことを分けて残しておくのは、よい方法だと思います」
アルフォンスも頷いた。
「君がこれまで作ってきた覚え書きと同じようにすればいい。分かったことと、まだ分からないことを分けておけば、あとから確認しやすくなるだろう」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。それなら、私も小さな手帳を用意しておきます」
話し合いは、そこでひとまず終わりとなった。
封じられた束は、今日も開かれなかった。
中身について新しい事実が見つかったわけでもない。
けれど、誰が立ち会い、何を記録し、どのような場合に作業を止めるのか。
その大切な約束が、少しずつ形になっていた。
◇ ◇ ◇
応接室を出たあと、エレノアはセドリックとともに廊下を歩いていた。
リディアは少し後ろから付き添っている。
窓の外では、午後の光を受けた木々が静かに揺れていた。
エレノアはしばらく黙って歩いていたが、やがて従兄へ顔を向けた。
「お兄様、今日はありがとうございました。お兄様も、立会いのためにご予定を調整してくださるのですね」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだよ。以前から一緒に確認すると話していたからね。それに、僕も記録の扱いについて知っておきたいと思っているんだ」
「でも、お兄様にはほかのお仕事もあるでしょう?」
「あるけれど、調整できないほどではないよ。それに、立ち会うと決めた以上、きちんと準備しておきたいからね」
エレノアは少し考えた。
「……私、少し怖いのです」
セドリックは歩く速さを落とした。
「資料を見ることが?」
「はい。何が書かれているのか知りたいのに、もし思っていたことと違う内容だったらどうしよう、と考えてしまうのです」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
幼い頃の衣類。
母の遺品。
ベルナール家で失われたもの。
それらについて調べるたび、エレノアは、自分が知らなかった事実に出会ってきた。
けれど、見つかった記録が必ずしも答えを示してくれるわけではない。
かえって疑問が増えることもあった。
「最初の二枚を見たときも、これで何か分かるかもしれないと思ったのです。でも、まだ確かめられないことがたくさん残っていて……」
セドリックは静かに頷いた。
「そうだね。記録を一つ見つけたからといって、すべてが分かるわけではない」
エレノアは従兄へ顔を向けた。
「お兄様は、残りの頁に何が書かれていると思いますか」
セドリックは少し考えた。
「僕にも分からないよ。衣類についての記録が続いているかもしれないし、別の内容が含まれている可能性もある。ただ、今の段階で決めつけない方がいいと思う」
エレノアは静かに頷いた。
「……そうですね」
「でも、何が書かれていても、確認した事実を一つずつ整理することはできる。すぐに答えが出なくても、次に何を調べるべきか分かる場合もあるだろう」
セドリックは穏やかに続けた。
「それに、何も新しいことが分からなかったとしても、確認したという事実は残るよ。少なくとも、見ていないものについて想像し続ける必要はなくなるからね」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
封じられた頁の向こうに、必ず望んでいる答えがあるとは限らない。
けれど、開いて確かめなければ、何があるのかも分からない。
その違いは、大きいように思えた。
「ありがとうございます、お兄様。私、少し気持ちが落ち着きました」
セドリックは微笑んだ。
「それならよかった。開封の日が決まったら、また一緒に準備を確認しよう」
エレノアは頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
二人は廊下の曲がり角で別れ、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアは机の上に小さな手帳を広げていた。
先ほどの話し合いを忘れないうちに、確認しておきたいことを書き留めるためだ。
最初に、資料の名前を記した。
『エレノア衣類』
その下へ、現在分かっていることを整理していく。
最初の二枚は、すでに確認したこと。
それより先は、まだ封じられていること。
残りの頁数も内容も、分かっていないこと。
束の表題を誰が書いたのか、いつ記したのかも不明であること。
エレノアは一つずつ書き終えると、少し離れたところから紙を眺めた。
文字にしてみると、まだ分からないことが思っていた以上に多い。
けれど、それは今まで何もしてこなかったという意味ではなかった。
むしろ、何が分からないのかを、以前よりはっきり区別できるようになったのだと思う。
「リディア、私、今日の話し合いで少し安心したわ」
傍らで布を整えていたリディアが顔を上げた。
「どのようなことでございましょうか」
「資料を開くとき、何を確かめるのかを、先に考えておけることよ。今までは、開けば何か分かるかもしれないとばかり思っていたの。でも、何が書かれているか分からなくても、確かめ方は決められるのね」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「そうでございますね。エレーヌも、資料を傷めずに確認するため、ずいぶん慎重に準備しているようでございます」
「ええ。私も、皆様が考えてくださったことを大切にしたいわ」
エレノアは手帳へ視線を戻した。
そして、もう一つの項目を書き加えた。
『見つかったことと、そこから考えたことを分ける。』
その文字を見つめながら、エレノアは静かに頷いた。
自分が知りたいことと、実際に確かめられることは、必ずしも同じではない。
だからこそ、二つを混同しないようにしたかった。
手帳を閉じようとしたとき、リディアが机の端へ目を向けた。
「エレノア様、先ほどの庭園の絵ですが、こちらへ置いておいてもよろしいでしょうか。窓からの風が強くなりましたので、紙が動かないようにしたいのです」
「ええ、お願いするわ。今日は少し風があるものね」
リディアは描きかけの絵を持ち上げ、机の奥へ移した。
そのとき、下に重ねていた小さな覚え書きが一枚、姿を現した。
「あら、こちらは先日のお散歩のときの紙ですね」
エレノアは顔を上げた。
それは、雨上がりの庭園を歩いた日に、石畳や落ち葉の様子を書き留めた紙だった。
「ええ。濡れた石の色や、葉の縁の色を覚えておきたくて描いたの」
エレノアは紙を受け取り、懐かしい気持ちで眺めた。
簡単な線で描かれた石畳。
濃い色をつける場所についての短い書き付け。
そして、緑から黄色へ変わりかけた葉の輪郭。
完成した絵とは呼べないほど小さな覚え書きだったが、見ていると、その日の湿った土の香りまで思い出せるようだった。
「この葉、今頃はもっと黄色くなっているかもしれないわね」
「そうかもしれません。庭園の木々も、毎日少しずつ色が変わっておりますから」
エレノアは紙の端を見つめた。
そこには、落ち葉の輪郭を描いたときに書き添えた短い言葉があった。
『端は黄色。中央には緑が残る。濡れたところは濃く見える。』
自分で書いた文字だった。
ほんの数日前のことなのに、そのとき何を見ていたのかが、はっきりと思い出せる。
(小さなことでも、書いておくと忘れずにいられるのね)
エレノアはその紙を、庭園の絵と一緒に保管することにした。
そして、ふと別のことを思いついた。
「リディア、資料を開く日に使う手帳も、今日のこの紙のように、あとから見返して分かるものにしたいわ」
「それでしたら、確認した日や、どなたとご一緒だったかも書いておかれるとよろしいかもしれませんね」
エレノアは顔を上げた。
「そうね。何を見たかだけでなく、いつ見たのかも大切だわ」
彼女は手帳をもう一度開き、最初の頁へ小さな欄を作った。
確認した日。
立ち会った人。
実際に開いた範囲。
読み取れたこと。
まだ分からないこと。
その五つを、順番に記していく。
エレノアは書き終えると、少しだけ微笑んだ。
封じられた頁を開く日が来ても、すべてを覚えていられるとは限らない。
けれど、こうして準備しておけば、あとから落ち着いて確かめることができるだろう。
◇ ◇ ◇
その頃、アルフォンスの執務室では、午後の話し合いで決まったことが整理されていた。
机の上には、エレーヌが用意した手順の覚え書きと、立会いの候補日について記した紙が置かれている。
アルフォンスは一つずつ確認し、必要な事項を書き加えていた。
そこへオーギュストが訪れた。
「衣類の記録について、今日は話し合いができたそうだね」
「はい、父上。開封の手順と、立会いの役割について整理しました。数日後の午後を候補にしていますが、まだ正式には決めていません」
アルフォンスは覚え書きを父へ差し出した。
オーギュストは静かに読み進めた。
「なるほど。資料の状態によっては、途中で作業を止めることも考えているのだね」
「はい。エレーヌから、その必要性について説明がありました。エレノアも納得していましたよ」
アルフォンスは少しだけ微笑んだ。
「最初は、途中で止めることに驚いたようでしたが、無理に開いて紙を傷める方が困ると、自分で考えてくれました」
オーギュストは穏やかに頷いた。
「そうか。あの子も、少しずつ記録の扱いに慣れてきたのだね」
「ええ。ただ、慣れたからといって、気持ちの負担がなくなるわけではないでしょう。中身については、まだ何も分かっていませんから」
アルフォンスは机の上の紙へ目を向けた。
衣類の記録については、すでにいくつもの疑問が残っている。
二十七着あったはずの衣装のうち、所在が確かめられていない八着。
そのうち三着については、ミレーヌのために仕立て直されたことが分かっているが、残る五着の行方は不明だ。
仕立屋アニエス・モローが納めた衣装の受渡し記録についても、ベアトリスからナタリーへ引き継がれたあと、最終的に誰が受け取ったのか確かめられていない部分がある。
しかし、封じられた「エレノア衣類」の束が、そうした疑問へ答えてくれるとは限らなかった。
アルフォンスはそのことを、十分に理解していた。
「父上、今回の開封で何か新しい記載が見つかったとしても、それだけで衣装の行方を決めつけないようにしたいと思っています」
「そうだね。資料が一つ増えたからといって、必ずしも事実が一つに定まるわけではない」
オーギュストは静かに答えた。
「むしろ、これまでの記録と食い違う部分が出てくる可能性もある。そのときに、どちらかを急いで正しいと決めないことが大切だろう」
アルフォンスは頷いた。
「はい。その点も、エレーヌと確認しておきます」
オーギュストは覚え書きを机へ戻した。
「それから、王宮への問い合わせについては、今日何か動きがあったのかい」
「いいえ。発送したばかりですから、まだ新しい連絡はありません。正式な返答の文案も、昨日から大きく変えていません」
「それでよいと思うよ。今は、必要な説明を待ちながら、こちらで確認できることを整えておけばいい」
アルフォンスは静かに頷いた。
王宮への問い合わせと、衣類の記録の確認。
二つは異なる問題だった。
けれど、どちらにも共通していることがある。
エレノア本人の知らないところで、結論を先に決めないこと。
分からないことを、分かったこととして扱わないこと。
そして、後から確かめられるよう、手続きを記録に残すこと。
アルフォンスはその考えを胸に、机の上の書類を丁寧に重ねた。
◇ ◇ ◇
夕方になると、庭園の木々は柔らかな橙色の光に包まれた。
エレノアはリディアとともに、屋敷に近い園路を少しだけ歩いていた。
東寄りの曲がり角へ続く道は、まだ通行を避けるようにしてある。
そのため、今日は屋敷の南側に近い、よく手入れされた道を選んだ。
遠くには庭師たちの姿が見える。
落ち葉を集める音と、風に揺れる枝の音が重なり、庭園には静かな秋の気配が漂っていた。
エレノアは歩く速さを落とし、木々の葉を眺めた。
「リディア、あちらの木を見て。上の方はもう黄色いのに、下の枝にはまだ緑が残っているわ」
「本当でございますね。陽の当たり方によって、色づく速さが違うのでしょうか」
「そうかもしれないわ。でも、私にはまだよく分からないから、今度ギュスターヴに尋ねてみようかしら」
エレノアは微笑みながら、手にした小さな紙へ木の輪郭を描いた。
今日は完成した絵を描くつもりではない。
あとから思い出せるよう、気になった形や色を記しておきたかった。
そのとき、少し離れた花壇の縁で、風に揺れる小さな花が目に入った。
紫がかった青い花だった。
以前にも庭園で似た色の花を見たことがある。
けれど、夕方の光の中では、花びらの端が少し赤みを帯びて見えた。
エレノアは足を止めた。
「……綺麗ね」
リディアも花へ目を向けた。
「青い花の刺繍に使っていらっしゃる色と、少し似ておりますね」
「ええ。でも、こちらの方が紫に近いかもしれないわ。青い糸だけでは、この色にはならないのね」
エレノアは花へ近づきすぎないようにしながら、色を確かめた。
花びらの中心は濃い青に見える。
その外側には、わずかに紫が混ざっているようだった。
さらに、夕日が当たる縁だけが、柔らかく明るく見えている。
エレノアは紙の端へ、小さな花の輪郭を描いた。
「この色、あとで刺繍にも使ってみたいわ。でも、今の花を全部変えるのではなくて、少しだけ試してみようかしら」
「それなら、別の布で色を確かめてからにするとよろしいかもしれませんね」
リディアの言葉に、エレノアは頷いた。
「そうね。今の刺繍も、少しずつ色を選んで作ってきたのだもの。急に変えてしまうより、試してから決めたいわ」
エレノアはもう一度花を眺めた。
その色は、母の青い花の刺繍がどのようなものだったのかを教えてくれるわけではない。
けれど、自分が作っている花に、新しい色を加えるきっかけにはなるかもしれなかった。
それだけで、十分に嬉しい発見だった。
やがて風が少し冷たくなり、リディアが声をかけた。
「エレノア様、そろそろお戻りになりませんか。日が傾いてまいりましたので、冷えてしまうかもしれません」
「ええ、そうね。今日はこの花を見られただけでも、来てよかったわ」
エレノアは紙を丁寧に折らずに持ち、屋敷へ戻ることにした。
庭園の奥には、まだ行けない道がある。
けれど、歩ける場所にも、知らなかった景色が残っていた。
そのことが、今のエレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、衣類の記録について話し合ったことが、オーギュストとマルグリットにも伝えられた。
エレノアは、まだ開封の日が正式に決まったわけではないことを説明したうえで、準備が進んでいることを話した。
「エレーヌが、紙を傷めないようにする方法を考えてくださっているのです。もし途中で傷んでいるところが見つかったら、無理に開かないことにもなりました」
マルグリットは静かに頷いた。
「それは大切なことですね。古い紙は、見た目よりも傷みやすい場合がありますから」
「はい。私も、早く続きを見たい気持ちはあるのですけれど、無理をしない方がよいと思いました」
エレノアは少し考え、続けた。
「それに、今日、開く前の状態も記録しておくと教えていただいたのです。今まで私は、中に何が書かれているかばかり考えていました。でも、どのような状態で保管されていたのかも、大切なのですね」
オーギュストは穏やかに微笑んだ。
「そうだね。あとから確かめるためには、内容だけでなく、その記録がどのように残されていたかも重要になる」
セドリックは頷いた。
「エレノアは、確認したことを自分でも手帳へ書き留めたいそうです。今日の話し合いでも、記録と推測を分けておくことについて質問していました」
マルグリットはエレノアへ顔を向けた。
「そうなのですね。ご自分でも準備をなさっているのですか」
「はい。あとから読み返したとき、何が分かっていて、何がまだ分からないのか、区別できるようにしたいと思ったのです」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「でも、まだ手帳に欄を作っただけなのです。実際にどのように書けばよいかは、当日にならないと分からないと思います」
「それでも、準備をしておくことには意味がありますよ」
マルグリットは優しく答えた。
「何かを知ろうとするときには、心の準備も必要ですからね。あなたが自分で考えながら進めていることを、私は嬉しく思います」
エレノアは静かに頷いた。
「ありがとうございます、お祖母様」
その後、話題は庭園へ移った。
エレノアが夕方に見た紫がかった青い花について話すと、マルグリットは興味深そうに耳を傾けた。
「夕方の光では、花の色が違って見えることがありますね。以前、アデラインも似たようなことを話していた気がします」
エレノアは思わず顔を上げた。
「お母様も、ですか」
マルグリットは少し考えた。
「ええ。ただ、どの花について話していたのかまでは、はっきり覚えていません。庭園の色が時間によって変わるのを、あの子はよく楽しんでいましたから」
エレノアはその言葉を静かに受け止めた。
母が好んだ花と、今日自分が見た花が同じだとは限らない。
けれど、時間によって変わる色を楽しんでいたという話は、以前にも聞いたことがある。
「私も、今日それを感じました。昼間に見る青とは違って、夕方は少し紫に見えたのです」
マルグリットは微笑んだ。
「それなら、あなたもアデラインと同じように、庭園の変化を楽しんでいるのかもしれませんね」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
母と同じ花を見たのかどうかは分からない。
同じ景色を、同じように感じたとも言い切れない。
それでも、母が愛した庭園の中で、自分も美しいと思うものを見つけている。
そのことが、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に今日の手帳を広げた。
窓の外では風が弱まり、庭園の木々が静かに揺れている。
壁際の棚には、桃色の野薔薇の刺繍が飾られていた。
机の上には、まだ完成していない青い花の刺繍と、描きかけの庭園の絵がある。
エレノアはそれらを見渡し、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
今日、衣類の記録について、いくつもの約束が決まった。
けれど、まだ封は開かれていない。
残りの頁に何が書かれているのかも分からない。
開封の候補日は考えられているものの、作業場所の最終確認が終わるまでは、正式な日程として決まらない。
エレノアは手帳へ、そのことを書き留めた。
『衣類の束について、開封前の準備を相談した。まだ開いていない。候補日はあるが、正式には決まっていない。』
その下へ、今日教えてもらったことを一つずつ記した。
資料を扱う人を限ること。
開く前の状態を記録すること。
傷みがあれば、無理に進めないこと。
確認できた事実と、そこから考えたことを分けること。
エレノアは最後まで書き終え、筆を置いた。
(今日は、何か新しい記録を見つけたわけではない。でも、確かめるための準備が進んだのね)
そのことを思うと、胸の奥に静かな満足感が生まれた。
彼女は手帳を閉じ、今度は日記帳を開いた。
『今日は、衣類の記録を開くための準備について、皆様とお話ししました。私は早く続きを見たいと思っていますが、紙が傷んでいたら無理に開かないことにしました。何が書かれているかを知ることも大切ですが、その記録を失わないようにすることも大切なのだと教えていただきました。』
エレノアは少し考え、続きを書いた。
『残りの頁には、私が知りたいことが書かれているかもしれません。でも、何も分からないかもしれません。まだ見ていないのだから、今は決めつけないようにしたいです。』
筆を動かしながら、エレノアは昼間のセドリックの言葉を思い出した。
何も新しいことが分からなかったとしても、確認したという事実は残る。
その考え方は、今の彼女にとって大切なものだった。
以前の人生では、知らないことがあると、不安ばかりが大きくなった。
周囲の言葉を信じるしかなく、自分で確かめる方法も分からなかった。
けれど、今は違う。
分からないことを分からないまま記録し、確かめるための準備を進めることができる。
誰かの言葉をすぐに疑う必要もなければ、何も考えずに受け入れる必要もない。
自分の目で見て、確かめられるところから考えていけばよい。
エレノアは日記帳へ、もう一つ書き加えた。
『夕方には、庭園で紫がかった青い花を見ました。今作っている刺繍にも、あの色を少し使ってみたいと思いました。でも、すぐに縫い直すのではなく、別の布で試してから決めるつもりです。』
書き終えると、エレノアは小さく微笑んだ。
衣類の記録を開くことと、刺繍の色を選ぶこと。
大きさも意味も違う二つのことだ。
それでも、急いで決めず、確かめてから進めるという点では、どこか似ているように思えた。
エレノアは日記帳を閉じ、青い花の刺繍を手に取った。
今日はもう針を通さない。
ただ、濃い青と薄い青が重なった花びらを眺め、夕方に見た紫がかった色を思い出していた。
花びらの端へ、ほんの少しだけ違う色を加えたら、どのように見えるだろう。
そう考える時間が、楽しかった。
やがてリディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日は午後のお話し合いもございましたし、少しお疲れではありませんか」
エレノアは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「ええ、少し疲れたわ。でも、今日はよい一日だったと思うの」
「それは何よりでございます。衣類の記録についても、準備が進んだようでございますね」
「ええ。まだ中身は見ていないけれど、どのように確かめるのかを考えることができたわ。それに、今日は庭園でも綺麗な花を見つけたの」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「明日も、穏やかな一日になるとよろしいですね」
エレノアは頷いた。
「そうね。明日は、今日見た花の色を、別の布で少し試してみたいわ」
彼女は刺繍枠を机へ置き、手帳と日記帳を丁寧に片づけた。
王宮へ送った問い合わせについては、今日も新しい返事は届いていない。
婚約についての正式な返答も、まだ送られていない。
自分が書いた拒否の文章には、今も署名がない。
それでも、何も進んでいないわけではなかった。
王宮へ確認すべきことは、すでに問い合わせとして送られている。
衣類の記録についても、開封の準備が具体的に進み始めた。
そして、自分の暮らしの中には、刺繍や絵を楽しむ時間が残っている。
エレノアは寝台へ入り、掛け布を胸元へ引き寄せた。
窓の向こうでは、秋の夜空に星がいくつか瞬いている。
彼女はその光を眺めながら、静かに目を閉じた。
(まだ知らないことは、たくさんあるわ。でも、知らないまま決めつけなくてもいい。私は、これから自分で確かめていけるのだから)
母の遺したもの。
自分の幼い頃の記録。
王宮へ伝えたい意思。
どれも、簡単に答えが出るものではない。
けれど、今のエレノアには、急がずに確かめるための時間と、手を貸してくれる人々がいた。
そのことを大切に思いながら、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。
秋の庭園では、夜風に揺られた葉が一枚、静かに石畳へ舞い降りた。
まだ誰も歩いていない曲がり角の先にも、季節は少しずつ進んでいる。
そして、封じられた頁が開かれる日も、確かに近づき始めていた。




