第84話 封をする前に確かめたことと、秋の庭に残した新しい色
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い金色の光が差し込んでいた。
秋が深まるにつれて、朝の空気は少しずつ冷たくなっている。寝台から見える庭園では、木々の葉が黄色や赤へ色づき始め、風が吹くたびに枝先から数枚の葉が舞い落ちていた。
エレノアは掛け布の中で身体を起こし、しばらく窓の外を眺めた。
昨日は、王宮へ提出する文書について、叔父アルフォンスから今後の手順を説明してもらった。
自分が書いた婚約拒否の文章は、まだ下書きのままである。署名もしておらず、正式な返答として送られることも決まっていない。
その一方で、ロシュフォール家から王宮へ問い合わせるための文案が準備されていた。
照会状への正式な回答とは区別し、必要な書類の形式や署名の扱いを確認するためのものだという。
(叔父様は、今日もあの文案を確かめていらっしゃるのかしら。私が尋ねたことまで加えていただいたのだから、きっと確認することが増えてしまったわね)
エレノアは少しだけ申し訳なく思った。
自分が質問をするたび、アルフォンスの仕事は増えているように見える。
けれど、昨日の叔父は、そのことを負担だとは言わなかった。
むしろ、本人が何を不安に思っているのかを知ることができてよかったと、穏やかに答えてくれた。
エレノアは胸元へ手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
王宮へ送る文書について、分からないことはまだ多い。
しかし、知らないことを尋ねるのは、悪いことではない。
少なくとも、今のロシュフォール家では、そのように考えてもらえている。
寝台から降りたエレノアは、窓辺へ近づいた。
そこには、桃色の野薔薇の刺繍が飾られている。
母アデラインが使っていた古い木枠に、自分で刺した花を収めたものだ。
昨日、マルタとリディアが置き場所を確認してくれたが、まだ移動はしていない。候補の棚は決まったものの、木枠が滑らないようにする敷物を用意してから、改めて移すことになっていた。
エレノアは木枠へ触れないようにしながら、花びらの糸を眺めた。
桃色の野薔薇は、すでに完成している。
けれど、完成したからといって、何も考えずに置いておけばよいわけではない。
光の当たり方や、置く場所の安定性にも気を配らなければならないのだと、今回の相談で知った。
(作ることと、守ることは、違うのね)
ふと浮かんだ考えに、エレノアは小さく微笑んだ。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。今朝は少し冷えますので、暖かいお召し物をご用意いたしました」
「おはよう、リディア。ありがとう。私も、今朝は昨日より寒いと思っていたところなの」
入室したリディアは、用意した衣装を椅子へ掛け、窓辺の刺繍へ目を向けた。
「野薔薇の刺繍ですが、マルタが敷物を用意できそうだと申しておりました。今日、棚の上に置いて安定するかを確認してから、お嬢様へご相談する予定でございます」
「そうなのね。それなら、今日中に移せるかもしれないわね」
「はい。ただ、実際に置いてみて不安定でしたら、別の方法を考えることになるかと存じます」
エレノアは頷いた。
「ええ。それでよいと思うわ。大切なものだから、急いで決めなくてもいいもの」
リディアはその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。
エレノアは衣装へ袖を通しながら、今日の予定を考えた。
午前中は、庭園の絵を少し進めたい。
午後には、青い花の刺繍にも触れたいと思っている。
王宮への問い合わせについて何か進展があれば、叔父から説明があるかもしれない。
けれど、それが今日でなくても構わなかった。
エレノアは、今できることを一つずつ進めようと決めた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、秋の庭園についての話が続いていた。
オーギュストによれば、庭師のギュスターヴ・メルシエが、東寄りの園路にある古い石畳の状態を改めて確認しているという。
雨上がりの日に見つかった石の浮きについては、周囲の土の状態も含めて調べており、今のところ通行を避ける措置が続けられていた。
「修繕の方法を決めるには、石の下がどうなっているかを確かめる必要があるそうだ。今日は作業を急がず、まず状態を詳しく見ることにしたよ」
オーギュストの説明に、エレノアは頷いた。
「そうなのですね。では、曲がり角の先へ行けるようになるのは、もう少し先でしょうか」
「そうなるかもしれないね。ただ、屋敷に近い道は問題なく歩けるそうだから、散歩をすること自体はできるよ」
エレノアは少し考え、微笑んだ。
「ありがとうございます。今日はお部屋で絵を描こうと思っていますけれど、午後に時間があれば、近くの道を歩いてみたいです」
マルグリットは嬉しそうに頷いた。
「それなら、風が強くならないうちがよいでしょうね。秋の庭は日ごとに色が変わりますから、昨日とはまた違うものが見つかるかもしれませんよ」
「はい。私も、そう思います」
エレノアは答えながら、温かな飲み物を口にした。
アルフォンスは今朝、いつもより静かだった。
疲れているようには見えなかったが、何かを考えている様子で、ときおりオーギュストと短い言葉を交わしている。
エレノアは気になったものの、すぐに尋ねることはしなかった。
食事が終わりに近づいた頃、アルフォンスが彼女へ顔を向けた。
「エレノア、昨日の問い合わせの文案について、今朝もう一度確認したんだ。父上にも目を通してもらって、いくつか表現を直したところだよ」
エレノアは茶器を置いた。
「そうなのですね。では、もう完成したのでしょうか」
「内容はほぼ整ったと思う。ただ、今日は送る前に、君にも一つ確かめておきたいことがあるんだ」
その言葉に、エレノアは少し緊張した。
自分の下書きには署名していない。
正式な返答も、まだ送られていない。
それでも、何か新しい判断を求められるのだろうかと思った。
アルフォンスは彼女の表情を見て、穏やかに続けた。
「難しい決断をしてもらうつもりではないよ。今回の問い合わせには、君が昨日尋ねていた文書の閲覧範囲についても書いている。君自身の名前をどのように記すかを、送る前に確認しておきたいんだ」
エレノアは少し考えた。
「私の名前を、ですか」
「そうだよ。問い合わせの目的を説明するには、誰の婚約に関する照会なのかを示す必要がある。ただし、君が昨日書いた文章そのものを添えるわけではないし、君の署名を使うこともない。その違いを、きちんと説明しておきたいと思ってね」
エレノアはゆっくりと頷いた。
自分の名前が記された文書が送られることと、自分が署名した文書が送られることは、同じではない。
その違いを考えたことは、これまであまりなかった。
「ありがとうございます、叔父様。私も、どのように書かれているのか知りたいです」
「それなら、昼食のあとに少し時間を取ろう。問い合わせの文案を見てもらってから、送付するかどうかを決めたいと思っている」
エレノアは頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
セドリックは二人のやり取りを聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「午後なら僕も時間があるよ。エレノアがよければ、昨日と同じように同席しようか」
「ありがとうございます、お兄様。ぜひ、お願いいたします」
エレノアはそう答え、少しだけ肩の力を抜いた。
今日も、何かを一人で決めなければならないわけではない。
そのことが、今の彼女には心強かった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、アルフォンスは執務室へ戻り、机の上に広げられた文案を改めて確認していた。
窓から差し込む朝の光が、書類の端を明るく照らしている。
机の中央には、王宮から届いた照会状の写しが置かれていた。
その隣には、これまで修正を重ねてきた正式な返答文案と、今回送付を検討している問い合わせの文案がある。
さらに別の場所には、エレノア本人が昨日より前に書いた、署名のない下書きが保管されていた。
アルフォンスは、三つの書類を混同しないよう、置く場所も分けていた。
王宮からの照会状。
その照会に対する正式な返答の案。
そして、正式な返答を整えるために必要な形式を確認する問い合わせ。
目的が異なる以上、文章の中でも、その違いを明確にしておく必要があった。
やがてオーギュストが執務室へ入り、アルフォンスの向かいへ腰を下ろした。
「今朝の修正は終わったのかい」
「はい、父上。昨日ご指摘いただいた部分を直しました。問い合わせであることを冒頭に明記し、婚約の成立や不成立について判断を求める文書ではないことも加えています」
アルフォンスは文案を父へ差し出した。
オーギュストは一行ずつ読み進めた。
冒頭には、王宮からの照会状を受領したことへの礼が記されている。
続いて、正式な回答を準備するにあたり、提出形式について確認したい事項があることが説明されていた。
その下には、問い合わせの内容が整理されている。
ロシュフォール家から、把握している事実について回答する場合の差出人の扱い。
エレノア本人の意思を別紙で示す場合の適切な形式。
本人の自筆や署名が必要かどうか。
提出した文書が記録上どのように扱われるか。
そして、記録された文書について、確認できる範囲で閲覧や取扱いの説明を求めること。
オーギュストは最後まで読み終え、静かに頷いた。
「昨日よりも目的が分かりやすくなったね。ただ、ここにある『本人の意思を示す文書』という表現は、すでに正式な文書が作成されているようにも読めるかもしれない」
アルフォンスは指摘された部分へ目を向けた。
「確かに、そうですね。エレノアが下書きを作ったことと、正式な意思表示の書類が整ったことは別ですから」
「そうだね。今は、本人の意思を別紙で示す場合の形式を尋ねたいだけなのだろう」
「はい。そのように直します」
アルフォンスは筆を取り、該当する一節へ修正を加えた。
オーギュストはその様子を見守りながら、静かに口を開いた。
「エレノアの名前については、どうするつもりだい」
「問い合わせの対象を明確にするため、エレノア・ベルナールの名を記します。ただし、本人の署名ではなく、ロシュフォール家からの問い合わせの中で対象者として示す形です」
オーギュストは頷いた。
「その違いを、本人にも説明するのだね」
「はい。昨日、あの子は自分の名前が書かれた紙の扱いを気にしていました。だから、送る前に文案を見てもらいたいのです」
アルフォンスは少しだけ表情を曇らせた。
「父上、私は時々、あの子に説明することが増えるほど、不安も増やしてしまっているのではないかと思うことがあります」
オーギュストは息子へ目を向けた。
「どうして、そう思うんだい」
「以前なら気にしなかったかもしれないことまで、考えるようになっているからです。文書の署名や閲覧範囲について、知らなければ不安にならなかった可能性もあるでしょう」
オーギュストはしばらく黙っていた。
やがて、机の上の文案へ目を向けながら答えた。
「知らないことで安心できる場合もあるだろうね。しかし、エレノアはすでに、自分の知らないところで婚約の返書が送られたことを知っている。今さら何も説明せずに進めることが、あの子の安心につながるとは思えないよ」
アルフォンスは静かに頷いた。
「……そうですね」
「説明を受けて、新しい疑問が生まれることはある。それは、必ずしも悪いことではないだろう。本人が自分の置かれている状況を理解しようとしている証拠でもあるからね」
オーギュストは穏やかに続けた。
「もちろん、すべてを一度に説明する必要はない。あの子が理解できるように、必要なことを順番に伝えればよいのだと思うよ」
アルフォンスは父の言葉を聞き、ゆっくりと息を吐いた。
エレノアを守りたい。
その気持ちは、最初から変わっていない。
しかし、守るということは、本人の代わりに何もかも決めることではないのだろう。
「ありがとうございます、父上。午後は、あの子が自分で確かめられるように説明します」
オーギュストは頷いた。
「それがよいだろう。送るかどうかは、そのあとで決めればいい」
アルフォンスは文案を重ね、午後の話し合いに備えて必要な書類を整理した。
◇ ◇ ◇
一方、エレノアは自室で庭園の絵を描き進めていた。
机の上には、雨上がりの日に書き留めた覚え書きが広げられている。
石畳の濡れた部分。
木陰になった場所。
朝日を受けて明るく見えた葉の縁。
それらを思い出しながら、鉛筆で少しずつ陰影を加えていく。
曲がり角の先には、まだ白い部分が残っていた。
そこは、実際に確かめられていない景色だ。
エレノアはその部分へ手を加えず、手前の木々の形を整えることにした。
「お嬢様、今日は枝の重なりが、昨日よりもはっきりして見えますね」
リディアが傍らから声をかけた。
エレノアは顔を上げ、少し照れたように微笑んだ。
「そう見えるかしら。昨日は石畳ばかり気になっていたけれど、今朝は木の枝の方も直してみたの」
「はい。こちらの枝が少し手前に見えるので、道の奥行きも分かりやすくなったように思います」
エレノアは絵へ目を戻した。
確かに、枝の重なりを変えたことで、道が少し奥へ続いているように見える。
けれど、まだ完成ではない。
「ありがとう、リディア。今日はここまでにしておこうと思うわ。午後には叔父様とのお話もあるし、あまり疲れないようにしたいの」
「それがよろしいかと存じます。午前中に少しお休みになれば、午後も落ち着いてお話しできるでしょう」
エレノアは頷き、鉛筆を置いた。
そのとき、窓の外で風が吹き、黄色い葉が一枚、石畳の上へ舞い落ちた。
エレノアはその様子を見つめ、ふと微笑んだ。
「秋になると、同じ庭園でも毎日少しずつ違って見えるのね」
「そうでございますね。昨日はまだ緑だった葉も、今日は色が変わっているかもしれません」
「ええ。全部を描き終える頃には、最初に見た景色とは違っているかもしれないわ」
エレノアはそう言ってから、少し考えた。
絵を描くということは、目の前の景色をそのまま閉じ込めることではないのかもしれない。
自分が見たときの光や色を、覚えておきたいと思うことなのだろう。
その考えは、どこか日記を書くことにも似ていた。
今日の自分が何を思い、何を望んだのか。
あとから忘れてしまわないように、言葉として残しておく。
エレノアは机の上の文書入れへ視線を向けた。
そこには、昨日書いた婚約拒否の下書きの控えが収められている。
その文章もまた、今の自分が何を望んでいるのかを残したものだった。
(あの紙が、どんな形で使われるのかはまだ分からない。でも、私が書いた言葉そのものは、今も変わっていないわ)
エレノアは静かに息を吐き、絵を丁寧に片づけた。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアはリディアとともに小さな応接室へ向かった。
廊下の窓からは、午後の光が柔らかく差し込んでいる。
屋敷の中は静かで、遠くから使用人たちの足音が聞こえる程度だった。
エレノアは扉の前で一度立ち止まり、ゆっくりと呼吸を整えた。
昨日の話し合いでは、王宮へ提出する文書の形式について、まだ確認が必要だと教えてもらった。
今日は、その確認のための問い合わせを、実際に送るかどうかを考えることになる。
自分の署名は必要ないと説明されている。
それでも、王宮へ新しい文書が届くという事実には、少し緊張していた。
リディアはエレノアの様子を見て、静かに声をかけた。
「エレノア様、お疲れになりましたら、途中でお休みをお願いしてもよろしいのですよ」
エレノアは顔を上げ、微笑んだ。
「ありがとう、リディア。大丈夫よ。今日は、送る前に確かめられることがあるのだから、きちんとお話を聞きたいわ」
リディアは頷き、扉を叩いた。
中からアルフォンスの声が聞こえ、二人は入室した。
応接室には、アルフォンスとセドリックがすでに席に着いていた。
机の中央には、問い合わせの文案が一枚置かれている。
その隣には、王宮からの照会状の写しがあった。
エレノアが昨日書いた下書きは、そこには置かれていなかった。
アルフォンスは彼女を迎えると、穏やかに微笑んだ。
「来てくれてありがとう、エレノア。今日は、この問い合わせの文案を見てもらいたいんだ」
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアは椅子へ腰を下ろし、机の上の紙へ目を向けた。
アルフォンスは文案を彼女の前へ置いた。
「まず確認しておきたいのだけれど、これは婚約についての正式な返答ではないよ。王宮から届いた照会状へ正確に回答するため、提出形式について確認する問い合わせなんだ」
エレノアは頷いた。
「はい。昨日も、そのように教えていただきました」
「ありがとう。では、最初から読んでみようか。分からないところがあれば、その場で尋ねてくれて構わないよ」
エレノアは紙へ視線を落とした。
冒頭には、王宮からの照会状を受け取ったことへの礼が記されていた。
続いて、ベルナール家から送られた婚約受諾の返書と、エレノア本人の拒否意思について、ロシュフォール家が把握している事実を整理した回答を準備していることが説明されている。
そのうえで、回答の提出形式について確認したい事項があると記されていた。
エレノアはゆっくりと読み進めた。
文章は、昨日の正式な返答文案よりも短い。
けれど、何を尋ねようとしているのかは、はっきりしていた。
彼女は途中で手を止め、一つの名前へ目を向けた。
『エレノア・ベルナール』
自分の名前だった。
その文字を見た瞬間、胸の奥が小さく脈打った。
エレノアは少しだけ息を整え、アルフォンスへ顔を向けた。
「叔父様、こちらに私の名前が書かれていますね」
「そうだね。今回の照会の対象が誰なのかを明確にするために記しているんだ。ただし、これは君が署名したものではないし、君が書いた下書きを添えるわけでもないよ」
エレノアは頷いた。
「では、私の名前は、問い合わせの対象として書かれているのですね」
「そのとおりだよ。差出人はロシュフォール家としている。君の意思を正式に示すための文書とは、役割が違うんだ」
エレノアはもう一度紙へ目を向けた。
自分の名前が書かれている。
けれど、その名前の下に署名欄があるわけではない。
自分が書いた文章が、本人の意思表示として添えられているわけでもなかった。
その違いを理解すると、少しだけ緊張が和らいだ。
「……分かりました。ありがとうございます」
アルフォンスは穏やかに頷き、彼女が続きを読むのを待った。
問い合わせの後半には、本人の意思を別紙で示す場合の形式について尋ねる文章があった。
エレノアは、その部分を何度か読み返した。
そこには、本人の署名が必要かどうかだけでなく、文書の取扱いについて確認できる範囲で説明を求めることも記されている。
昨日、自分が尋ねたことだった。
「叔父様、こちらは……私が昨日お尋ねしたことですね」
「そうだよ。王宮の担当部署がどこまで答えられるかは分からないけれど、確認できることがあるなら、聞いておきたいと思ってね」
エレノアは紙を見つめた。
自分が不安に思ったことが、問い合わせの中に含まれている。
その事実が、胸の奥を少し温かくした。
「ありがとうございます。私の質問を、こうして書いてくださったのですね」
「君が気にしていることだからね。ただ、すべての閲覧者を事前に特定できるとは限らない。その点は、昨日説明したとおりだよ」
「はい。それでも、確かめていただけるだけで安心します」
エレノアは静かに頷いた。
しかし、最後の一節へ目を向けたところで、少しだけ考え込んだ。
そこには、問い合わせへの回答を受けたのち、正式な返答を整える予定であることが記されていた。
エレノアはその文章を読み返し、アルフォンスへ顔を向けた。
「叔父様、こちらに『回答を受けたのち、正式な返答を整える』とありますけれど……これは、王宮から問い合わせへのお返事が届くまで、婚約についての返答は送らないという意味でしょうか」
アルフォンスは少し考えた。
「基本的には、そういう予定だよ。ただし、王宮から別の連絡が届いたり、返答の期限について指示があったりした場合には、改めて考える必要があるだろうね」
エレノアは頷いた。
「では、必ずその順番になると決まっているわけではないのですね」
「そうだね。今の段階で考えている手順を示しているけれど、状況によっては変更する可能性もある」
エレノアは少しだけ眉を寄せた。
文章を読む限りでは、問い合わせへの回答が届くまで正式な返答を送らないと、すでに決めたようにも見える。
けれど、叔父の説明では、状況に応じて見直す余地があるという。
「それなら……『回答を受けたのち』という言葉を、少し変えた方がよいのでしょうか」
アルフォンスは彼女へ目を向けた。
「どうして、そう思ったんだい」
エレノアは少し緊張しながら答えた。
「王宮からのお返事が遅くなった場合でも、必ず待ち続けるという意味に読めてしまうかもしれないと思ったのです。私が考えすぎているだけかもしれませんけれど……」
セドリックは文案へ目を向け、静かに頷いた。
「確かに、その可能性はあるね。こちらが今後の手順を説明したつもりでも、返答の時期について約束したように読まれるかもしれない」
アルフォンスはしばらく文案を見つめた。
やがて、穏やかに微笑んだ。
「よく気づいてくれたね、エレノア。君の言うとおり、今の表現では少し限定しすぎているかもしれない」
エレノアは驚いたように目を瞬かせた。
「本当ですか」
「うん。問い合わせの目的は、正式な返答を適切に整えるための確認だ。返答の時期を、こちらから不必要に固定することではないからね」
アルフォンスは筆を取り、該当する一節へ修正を加えた。
エレノアはその様子を見守っていた。
昨日まで、自分は文章を読んで気になるところを尋ねるだけだった。
けれど、今日は、書かれた言葉がどのように受け取られるかを考え、自分から修正を提案することができた。
そのことが、少し不思議だった。
(私にも、気づけることがあるのね。叔父様が作ってくださった文章でも、読んでいて気になったことを伝えてよいのだわ)
アルフォンスは修正した部分を読み上げ、エレノアへ確認した。
「これなら、正式な返答を準備するための問い合わせであることを示しながら、返答の時期を必要以上に限定しない表現になると思う。どうかな」
エレノアは少し考え、頷いた。
「はい。こちらの方が、私には分かりやすいです」
セドリックも穏やかに微笑んだ。
「僕もそう思うよ。今日は、エレノアのおかげで一つ大切なところを直せたね」
エレノアは少し照れたように俯いた。
「そんな……私は、読んでいて気になっただけです」
「その『気になった』ということが、大切なんだと思うよ」
セドリックの言葉に、エレノアはゆっくりと顔を上げた。
アルフォンスも頷いた。
「そうだね。文書は、書いた人だけでなく、読む人がどう受け取るかも大切だからね」
エレノアは静かに微笑んだ。
王宮へ送る文書は、まだ完成していない。
けれど、その完成へ向けて、自分も少しだけ関わることができている。
その事実が、今の彼女には何よりも嬉しかった。
◇ ◇ ◇
問い合わせの文案を最後まで確認したあと、アルフォンスは書類を重ね、エレノアへ改めて尋ねた。
「今日の文案について、ほかに気になるところはあるかな」
エレノアは少し考えた。
自分の名前の扱い。
問い合わせの目的。
署名の必要性についての確認。
そして、文書が王宮でどのように扱われるのかという質問。
どれも、今の段階で理解できる範囲では、納得できる内容になっているように思えた。
「今は、大丈夫です。私が気になっていたことも書かれていますし、正式な返答ではないことも分かりました」
アルフォンスは頷いた。
「ありがとう。では、この修正を反映した清書を作り、もう一度父上にも確認してもらうつもりだよ。そのうえで問題がなければ、王宮へ送ろうと思っている」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
しかし、少し考えたあと、彼女はもう一度口を開いた。
「叔父様、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。何かな」
「問い合わせを送られたら、私にも教えていただきたいのです。いつ送られたのか、あとから分かるようにしておきたくて……」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだよ。送付した日と、どの文書を送ったのかは、こちらでも記録するつもりだ。君にも伝えるようにしよう」
エレノアはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
その言葉を聞いたセドリックは、静かに頷いた。
「それなら、問い合わせの控えも残しておくとよさそうですね。あとから正式な返答を作るときにも、何を尋ねたのか確認できますから」
「そうだね。清書と同じ内容の控えを保管するつもりだよ」
アルフォンスは答え、机の上の文案を丁寧に重ねた。
エレノアはその様子を見つめていた。
自分が知らないところで文書が送られること。
以前なら、それを止める方法も、確かめる方法も分からなかった。
けれど、今は違う。
何が送られるのかを知り、気になるところを尋ね、送ったあとにはその事実を教えてもらうことができる。
その一つ一つが、エレノアには大切だった。
◇ ◇ ◇
エレノアが応接室をあとにした頃、屋敷の庭園ではギュスターヴが古い石畳の状態を確かめていた。
東寄りの園路にある曲がり角の手前では、石の継ぎ目の一部がわずかに浮いている。
雨上がりの日に見つかったその部分は、現在も通行を避けるようにしていた。
ギュスターヴは石の周囲を慎重に観察し、土の状態を確かめた。
表面は乾いてきているものの、石の下まで同じように乾いているとは限らない。
無理に石を動かせば、周囲の部分まで傷めてしまう可能性もある。
そのため、今日は状態を記録し、必要な道具と作業の手順を整理することにしていた。
少し離れた場所では、庭園の手入れを担当する使用人が落ち葉を集めている。
ギュスターヴはその様子を見ながら、園路の端へ目を向けた。
秋になると、木々の葉が落ちるだけでなく、土の状態も少しずつ変わっていく。
庭園を安全に保つためには、季節ごとの変化を見ながら、手入れの方法を考えなければならなかった。
やがて、屋敷の方からセドリックが歩いてきた。
午後の話し合いを終え、庭園の様子を確かめに来たらしい。
「ギュスターヴ、作業の途中にすまない。石畳の状態はどうだろう」
ギュスターヴは作業の手を止め、丁寧に礼をした。
「セドリック様。今朝から確認しておりますが、浮いている部分があることは確かでございます。ただ、周囲の土の状態も見なければなりませんので、まだ修繕方法を決める段階には至っておりません」
セドリックは石畳へ目を向けた。
「そうか。エレノアが、あの曲がり角の先を見に行きたいと言っていたんだ。もちろん、安全が確かめられるまでは待つつもりらしいけれどね」
ギュスターヴは穏やかに頷いた。
「お嬢様には、先日もご理解いただきました。こちらの事情を丁寧に聞いてくださり、無理に先へ進もうとはなさいませんでした」
セドリックは小さく微笑んだ。
「彼女らしいね。あの場所の絵を描いているそうだから、きっと気になっていると思う」
「はい。お嬢様は、雨上がりの石畳の色にも興味をお持ちのようでした。私どもには普段の仕事場でございますが、あのように景色を見ていただけるのは、嬉しいことでございます」
セドリックはその言葉を聞き、少し考えた。
エレノアは最近、庭園の小さな変化をよく見つけるようになった。
秋の葉の色。
石畳の濃淡。
雨のあとに残る雫。
以前なら見過ごしていたかもしれないものを、今は大切に眺めている。
それは、彼女がこの屋敷で過ごす時間を、自分のものとして受け止め始めているからなのかもしれなかった。
「修繕の見通しが立ったら、僕にも知らせてもらえるかな。エレノアにも伝えたいんだ」
「かしこまりました。ただ、作業が終わるまでは、引き続き通行を避けていただくようお願いいたします」
「もちろんだよ。安全が第一だからね」
セドリックは頷き、ギュスターヴの仕事を邪魔しないよう、園路の手前で引き返した。
曲がり角の向こうには、秋の庭園が続いている。
けれど、今はまだ進まない方がよい場所だった。
セドリックはその景色を一度だけ振り返り、屋敷へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めていた。
午前中に描いていた庭園の絵は、机の端へ丁寧に置いてある。
刺繍枠の中では、濃い青と薄い青の糸が少しずつ重なり、花びらの形が以前よりもはっきりしてきていた。
エレノアは針を止め、少し離れたところから布を眺めた。
「リディア、こちらの色は、思っていたよりもよく合うみたい」
傍らで布を整えていたリディアが顔を上げた。
「本当でございますね。濃い青の部分が引き立ちながら、花びら全体は柔らかく見えます」
「ええ。最初は少し明るすぎるかと思ったけれど、使ってみると違うのね」
エレノアは微笑み、もう一度針を通した。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
今作っているものも、母の作品を正確に再現しようとしているわけではない。
それでも、母が刺繍を好んでいたことを思い出しながら、自分の手で花を作る時間は、エレノアにとって大切なものになっていた。
しばらく縫い進めたところで、リディアが窓辺へ目を向けた。
「エレノア様、マルタが用意してくれた敷物がございます。野薔薇の刺繍を置く棚へ、試しに敷いてみてもよろしいでしょうか」
エレノアは顔を上げた。
「ええ、お願いするわ。私も一緒に見てみたいの」
リディアは小さな布を取り出し、候補の棚へ丁寧に広げた。
布は落ち着いた色合いで、棚の木目ともよく馴染んでいる。
エレノアは立ち上がり、少し離れたところから眺めた。
「綺麗ね。あまり目立たない色だから、刺繍を置いても邪魔にならなさそうだわ」
「はい。マルタも、その点を考えて選んでくれたようでございます」
リディアは棚板の上で布がずれないかを確かめた。
エレノアも近づき、布の端へ目を向けた。
大きさは十分にある。
ただ、木枠を置いたときに安定するかどうかは、実際に確かめなければ分からない。
「リディア、木枠を置いてみても大丈夫かしら」
「はい。ただ、古い木枠でございますから、私が支えながら置いてみますね」
エレノアは頷き、少し離れて見守った。
リディアは窓辺の野薔薇の刺繍を両手で持ち上げ、慎重に棚へ運んだ。
木枠を敷物の上へ置き、傾きがないかを確かめる。
エレノアはその様子を見つめながら、少しだけ息を詰めていた。
母が使っていた古い木枠。
自分で刺した桃色の野薔薇。
どちらも、今の彼女にとって大切なものだった。
やがてリディアが手を離し、木枠が安定していることを確認した。
「こちらなら、大丈夫そうでございます。ただ、念のためマルタにも最終確認してもらいましょう」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
「ええ。ありがとう、リディア」
少ししてマルタが入室し、棚の状態を確かめた。
木枠の底が安定していること。
棚板に傾きがないこと。
普段の掃除で不用意に触れないよう、置く位置を少し奥へ寄せること。
その三点を確認したうえで、マルタは穏やかに頷いた。
「こちらでしたら、安心して飾っていただけるかと存じます。お掃除の際にも、木枠へ触れないよう注意いたします」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、マルタ。では、こちらへ置くことにします」
リディアは木枠の位置を少しだけ整えた。
エレノアは椅子へ戻り、そこから刺繍を眺めた。
窓辺にあったときよりも、光は柔らかい。
けれど、花びらの色が見えなくなったわけではなかった。
むしろ、落ち着いた光の中では、桃色の糸が穏やかに見える。
「……こちらも、素敵ね」
エレノアは小さく呟いた。
リディアが微笑んだ。
「はい。お嬢様がお座りになる場所からも、よく見えますね」
「ええ。窓辺から離すのは少し寂しいかと思っていたけれど、こうして見ると、こちらも気に入ったわ」
エレノアは棚の上の刺繍を見つめた。
置く場所が変わっても、刺繍そのものが変わるわけではない。
大切に思う気持ちも、変わらない。
そのことを実感すると、胸の奥が少し温かくなった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、アルフォンスの執務室では、王宮への問い合わせの清書が完成していた。
机の上には、午前中にオーギュストが確認した文案と、午後の話し合いでエレノアが指摘した部分を修正した清書が並んでいる。
アルフォンスは二枚を見比べ、文章に違いがないかを確かめていた。
問い合わせの目的は、正式な返答の提出形式について確認すること。
婚約の成立や不成立について、今回の文書で判断を求めるものではないこと。
エレノア本人の意思を示す文書を別紙で提出する場合、どのような形式が適切なのかを尋ねること。
そして、提出された文書の記録上の扱いや、確認できる範囲での取扱いについて説明を求めること。
その内容が、清書にも正確に反映されている。
アルフォンスは最後まで確認し、静かに息を吐いた。
そこへオーギュストが入室した。
「清書ができたそうだね」
「はい、父上。エレノアが午後に指摘してくれた部分も修正しました。返答の時期について、不必要な約束をしたように読まれない表現にしています」
オーギュストは清書を受け取り、一行ずつ読み進めた。
しばらくして、静かに頷いた。
「よいと思うよ。問い合わせとしての目的も明確だし、正式な返答と混同されるような表現も避けられている」
アルフォンスは頷いた。
「ありがとうございます。では、これを送付してもよろしいでしょうか」
オーギュストは少し考えた。
「エレノア本人には、内容を確認してもらったのだね」
「はい。本人の名前がどのように記されているかも説明しました。下書きの原本を添えるものではないこと、署名を使用しないことも伝えています」
「それなら、よいだろう。ただし、送付した日と内容は、必ず記録しておくことだね」
「承知しました」
アルフォンスは清書を封筒へ収める前に、もう一度差出人と宛先を確認した。
宛先は、王宮から照会状を送ってきた儀礼関係の担当部署である。
問い合わせの対象は、エレノア・ベルナールに関する婚約の記録の扱いについての照会だった。
アルフォンスは書類の順番を整え、控えと照らし合わせた。
そのうえで、封筒へ収めた。
封をする前に、彼は一度だけ手を止めた。
この文書を送ったからといって、婚約についての問題が解決するわけではない。
王宮からどのような回答が届くのかも、まだ分からない。
けれど、必要な確認を行わずに正式な返答を送るよりは、慎重な手順を踏むことができる。
アルフォンスは静かに封をした。
そして、送付の手配を担当する使用人へ、文書を引き渡した。
王宮への問い合わせは、この日の夕方、ロシュフォール家から正式に発送された。
ただし、それは婚約についての最終的な返答ではない。
エレノア本人の署名も、昨日作成した下書きも、同封されていなかった。
アルフォンスは送付の記録を残し、控えを別に保管した。
そのあと、エレノアへ知らせるための短い伝言を用意した。
◇ ◇ ◇
夕食の少し前、エレノアの部屋へアルフォンスからの伝言が届いた。
リディアが受け取った内容を、エレノアへ丁寧に伝える。
「エレノア様、アルフォンス様からでございます。本日、王宮への問い合わせを発送されたとのことです。午後にお嬢様が確認なさった内容を修正したうえで、オーギュスト様にもご確認いただいたそうでございます」
エレノアは手元の刺繍枠を置いた。
「……今日、送られたのね」
「はい。ただし、婚約についての正式な返答ではなく、提出形式を確認するための問い合わせであることも、改めてお伝えするようにとのことでございます」
エレノアは静かに頷いた。
王宮へ、新しい文書が送られた。
その事実を考えると、胸の奥に小さな緊張が広がる。
けれど、以前のように、何が送られたのか分からないわけではない。
今日、自分も文案を読んだ。
気になった言葉を指摘し、修正してもらった。
自分の名前がどのように書かれているのかも、説明を受けている。
そのことを思い出すと、少しだけ落ち着くことができた。
「ありがとう、リディア。叔父様が、送ったら教えてくださると約束してくださったことも、守ってくださったのね」
リディアは柔らかく微笑んだ。
「はい。お嬢様が安心してお過ごしになれるよう、きちんとお知らせしたかったのだと思います」
エレノアは頷き、机の上の文書入れへ目を向けた。
そこには、昨日自分で書いた婚約拒否の下書きの控えがある。
その紙は、まだ王宮へ送られていない。
正式な返答も、完成していない。
けれど、今日一つ、必要な確認のための文書が送られた。
(これで、すべてが決まったわけではない。でも、何も知らないところで進んだわけでもないのね)
エレノアは静かに息を吐いた。
以前の人生では、周囲の決定が自分の知らないところで進んでいくことが多かった。
今も、王宮の判断そのものを自分で決めることはできない。
けれど、自分の意思を伝えるための準備については、少しずつ関わることができている。
その違いが、今の彼女には大切だった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、アルフォンスが問い合わせの発送について、家族へ改めて報告した。
オーギュストは静かに頷き、今後は王宮からの回答を待ちながら、正式な返答の準備を続けることになると説明した。
「問い合わせを送ったからといって、すぐに回答が届くとは限らない。しばらくは、こちらで確認できることを整理しながら待つことになるだろうね」
その言葉に、エレノアは頷いた。
「はい、お祖父様。私も、急いでお返事が届くものだとは思っていません」
アルフォンスは彼女へ穏やかな視線を向けた。
「今日の問い合わせについては、控えも残してあるよ。君がもう一度内容を確かめたいと思ったら、いつでも見られるようにしておくからね」
「ありがとうございます、叔父様」
エレノアは微笑んだ。
マルグリットはその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「今日は、刺繍を飾る場所も変えたそうですね」
エレノアは顔を上げた。
「はい、お祖母様。マルタとリディアが棚の状態を確かめてくださったので、桃色の野薔薇の刺繍を窓辺から移したのです」
「そうでしたか。新しい場所は、気に入りましたか」
「とても気に入りました。窓辺にあったときとは光の当たり方が違うのですけれど、落ち着いた色に見えて、それも綺麗なのです」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかったですね。大切に作ったものですから、安心して飾れる場所が見つかって何よりです」
エレノアは頷いた。
「はい。最初は、窓辺から移すのが少し寂しい気もしたのです。でも、実際に置いてみたら、こちらも素敵だと思えました」
セドリックはその話を聞き、穏やかに笑った。
「それなら、今度見せてもらおうかな。君が刺した野薔薇は、前にも見せてもらったけれど、置く場所が変わると印象も違うのかもしれないね」
「はい、お兄様。ぜひ見ていただきたいです」
エレノアはそう答え、柔らかく微笑んだ。
王宮への問い合わせは、今日送られた。
けれど、夕食の席には、それだけではない話題がある。
庭園の修繕。
刺繍の置き場所。
秋の葉の色。
そうした日常の小さな出来事が、今も変わらず続いている。
エレノアは、そのことをありがたく思った。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上の日記帳を開いた。
窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしている。
昼間は薄い雲が広がっていた空も、夜になると少し晴れ、遠くに星が見えていた。
エレノアは筆を取り、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、王宮への問い合わせの文案を読ませていただきました。叔父様が、私の名前をどのように書いているのかも説明してくださいました。私が昨日書いた下書きとは別のもので、正式な婚約についての返答でもないことが分かりました。』
そこまで書き、少しだけ手を止めた。
そして、続きを記した。
『文章の中で気になったところをお尋ねしたら、叔父様は直してくださいました。私は、書類のことを十分に知っているわけではありません。でも、読んでいて分からないことや、気になったことを伝えてもよいのだと思えました。』
エレノアは筆を置き、しばらく日記帳を見つめた。
今日、自分がしたことは、それほど大きなことではないのかもしれない。
王宮への問い合わせを作ったのはアルフォンスだ。
内容を確認したのはオーギュストであり、発送の手配も使用人たちが行ってくれた。
エレノア自身は、文案を読み、一つの表現について質問しただけだった。
それでも、その質問によって文章が少し変わった。
自分の言葉が、実際の書類へ反映された。
その経験は、今のエレノアにとって大切なものだった。
(私は、何もかも自分でできるわけではない。でも、だからといって、何も言えないわけではないのね)
エレノアはもう一度筆を取った。
『問い合わせは、今日、王宮へ送られたそうです。叔父様は、送ったら教えてくださると約束してくださり、そのとおりにしてくださいました。正式な返答はまだ送られていませんし、私の下書きにも署名はありません。それでも、何が進んだのかを知ることができて、少し安心しました。』
書き終えると、エレノアは静かに息を吐いた。
王宮からどのような回答が届くのかは、まだ分からない。
正式な婚約が成立したわけでもなければ、婚約についての問題が解決したわけでもない。
父ロベルトが送った返書も、今なお記録の中に存在している。
その事実は変わらなかった。
けれど、エレノア本人の意思を、父の返答と区別して扱ってほしいという希望は、少しずつ形になり始めている。
エレノアは日記帳を閉じ、机の上の文書入れへ目を向けた。
そこには、婚約拒否の下書きの控えが収められている。
まだ署名のない一枚の紙。
けれど、その空白を急いで埋める必要はない。
何のために署名するのか。
その文書がどのように扱われるのか。
分かる範囲で確かめ、納得してから決めればよい。
エレノアは立ち上がり、壁際の棚へ目を向けた。
桃色の野薔薇の刺繍が、そこに飾られている。
窓辺にあったときよりも光は柔らかいが、花びらの色は穏やかに見えた。
エレノアは少しだけ近づき、木枠へ触れないようにして眺めた。
母が使っていた古い木枠。
自分で刺した野薔薇。
その二つが、今も同じ形でそこにある。
置く場所が変わっても、大切なものは変わらない。
そのことを思いながら、エレノアは静かに微笑んだ。
机の上には、まだ完成していない青い花の刺繍がある。
庭園の絵にも、描いていない部分が残っている。
母の遺品についても、分からないことは多い。
野薔薇の彫刻が施された木箱は、まだ見つかっていない。
衣類に関する束も、最初の二枚を確認したあと、残りは封じられたままだ。
開封に立ち会う人々については相談が進んでいるが、実際に開く日はまだ決まっていない。
帳簿に記された「ロラン」という姓についても、誰を指すのか確かめられていない。
どれも、今すぐ答えが出ることではなかった。
それでも、調べることをやめたわけではない。
エレノアは机へ戻り、青い花の刺繍を手に取った。
濃い青と薄い青が重なった花びらは、昨日よりも少しだけ形が整っている。
まだ完成には遠い。
けれど、少しずつ進めてきたからこそ、今の姿になっている。
(明日は、もう少しだけ花びらを進めてみようかしら。庭園の絵も、手前の枝を整えたいわ)
エレノアはそう考え、刺繍枠を丁寧に机へ置いた。
王宮への問い合わせを送ったからといって、明日から何かが大きく変わるとは限らない。
返事が届くまでには、時間がかかるかもしれない。
その間も、日々の暮らしは続いていく。
エレノアは、今の自分にできることを大切にしながら過ごしたいと思った。
やがてリディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日は大切なお話もございましたから、早めにお休みになった方がよろしいかと存じます」
エレノアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、そうね。今日は少し緊張したけれど、今は落ち着いているわ」
「それは何よりでございます。今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」
リディアはそう答え、寝台の掛け布を整えた。
エレノアは日記帳を閉じ、机の上を片づけた。
そして、もう一度だけ、壁際の棚に飾られた野薔薇の刺繍へ目を向けた。
柔らかな灯りの中で、桃色の花は静かに咲いている。
母が遺した木枠の中に、自分で選んだ色が残っている。
その光景を見つめながら、エレノアは胸の奥に小さな温かさを感じた。
以前の人生で、彼女は多くのことを自分の意思とは関係なく決められてきた。
婚約も、立場も、そして最後には命さえも。
あの日、どれほど無実を訴えても、自分の言葉は届かなかった。
その記憶は、今も消えていない。
けれど、今日のエレノアは、以前と同じ場所に立っているわけではなかった。
今は、自分の意思を伝えるための文書を読み、気になるところを尋ね、送られる前に内容を確かめることができる。
それは、以前の人生では当たり前にできなかったことだった。
(私は、まだ未来を変えられたと確信できるわけではない。でも、今日も一つ、自分で確かめることができたのね)
エレノアは寝台へ入り、掛け布を胸元へ引き寄せた。
王宮へ送られた問い合わせが、どのような返事をもたらすのかは分からない。
正式な婚約についての判断も、まだ下されていない。
それでも、今日送られた文書には、彼女が確認した内容が含まれている。
その事実を思い出すと、胸の奥に残っていた不安が、少しだけ和らいだ。
窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしている。
遠くで葉が落ちる音がしたような気がして、エレノアは目を閉じた。
明日になれば、また庭園の景色が少し変わっているかもしれない。
青い花の刺繍も、少しだけ進められるだろう。
そして、王宮からの返答を待つ時間の中でも、自分の意思を大切にすることはできる。
その小さな確信を胸に抱きながら、エレノアはゆっくりと眠りへ落ちていった。




