第83話 王宮の記録に残すべき言葉と、私が守りたい小さな約束
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。
昨日のような鮮やかな青空ではないものの、雨が降り出す気配はない。庭園の木々は朝の風に静かに揺れ、石畳に残っていた水も、屋敷に近い場所ではほとんど乾いているようだった。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、窓辺に飾られた桃色の野薔薇の刺繍へ目を向けた。
母アデラインが使っていた古い木枠に、自分で刺した花が収まっている。朝の光を受けた糸は柔らかな色に見え、昨夜、灯りの下で眺めたときとは違う表情をしていた。
その近くには、まだ完成していない青い花の刺繍も置かれている。
昨日は王宮への返答について、自分の言葉で短い文章を書いた。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望まないこと。父ロベルトが送った受諾の返書は、自分の同意を示すものではないこと。そして、その違いを王宮の記録でも明確にしてほしいということ。
その三つを、自分の手で紙に記した。
ただし、署名はしていない。
正式な文書として使用できるかどうかも、まだ確認されていなかった。
(昨日は、書き終えたことが嬉しかった。でも、あの紙が王宮へ送られるとしたら、私の名前はどんな形で残るのかしら)
エレノアは掛け布の上で手を重ねた。
父が送った返書を、なかったことにはできない。王宮が今後どのような判断を下すのかも、自分には分からない。
けれど、父の返答と自分の意思を区別してほしいと求めることはできる。
そのために何が必要なのかを、これから一つずつ確かめていかなければならなかった。
エレノアは寝台から降り、机の上に置いた文書入れへ視線を向けた。
昨日、叔父アルフォンスから受け取った下書きの控えは、リディアが用意してくれた封筒に収めてある。原本はアルフォンスが別に保管しており、正式な返答と混同されないようにしてくれていた。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
自分が書いたものが、知らないところで送られてしまうわけではない。
少なくとも今は、そう約束してもらえている。
やがて扉を叩く音が響いた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めはいかがでしょうか」
「おはよう、リディア。ええ、よく眠れたわ。昨日は少し疲れていたみたいだけれど、今朝は大丈夫よ」
入室したリディアは、エレノアの顔色を確かめると、安心したように微笑んだ。
「それは何よりでございます。今朝は風がございますので、少し暖かいお召し物をご用意いたしました。お庭へ出られるのでしたら、上着もお持ちになった方がよろしいかもしれません」
「ありがとう。でも、今日はまずお部屋で過ごそうと思っているの。昨日の絵もまだ途中だし、青い花の刺繍も少し進めたいわ」
エレノアは窓辺の刺繍へ目を向けた。
昨日は、花びらの重なりへ新しい青い糸を加えた。まだ全体の形が整っているわけではないが、少しずつ自分の思い描く花へ近づいている。
母が遺したという青い花の刺繍は、今も見つかっていない。
けれど、自分の作品を完成させるために、失われた刺繍が見つかるのを待つ必要はなかった。
「そういえば、リディア。野薔薇の刺繍を置く場所について、マルタと相談してくれていたでしょう。何か分かったかしら」
リディアは窓辺へ目を向けた。
「はい。昨日、マルタと候補の棚を確認いたしました。ただ、棚板の状態と、日中にどの程度光が当たるかを、もう少し確かめてから移した方がよいという話になっております」
「そうだったのね。急いで移して、落としてしまったら大変だもの。きちんと確かめてからにしましょう」
「ありがとうございます。お嬢様がよろしければ、今日の午後にも、もう一度マルタと確認いたします」
エレノアは頷いた。
大切なものを守るためには、急がない方がよいこともある。
それは、母の刺繍を収めた木枠だけでなく、昨日書いた一枚の紙についても同じなのだろう。
そう考えながら、エレノアはリディアが用意した衣装へ袖を通した。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の修繕について話していた。
昨日、ギュスターヴ・メルシエから報告のあった古い石畳の継ぎ目について、今朝も状態を確認しているという。
石の一部が浮いていることは確かだが、その原因が雨によるものなのか、以前から少しずつ傷んでいたものなのかは、まだ判断できていないらしい。
「人が通る場所だからね。原因が分からないうちは、あの部分を避けてもらう方がよいだろう」
オーギュストの言葉に、エレノアは頷いた。
「はい、お祖父様。昨日もギュスターヴが教えてくださったので、曲がり角の手前までにしました。絵の続きを描くために、また見に行きたいと思っていますけれど、直るまでは待つつもりです」
「それがよいね。修繕の見通しが立ったら、知らせてもらうようにしておこう」
マルグリットはエレノアへ微笑みかけた。
「昨日の雨上がりの景色は、ずいぶん綺麗だったのでしょうね。あなたがどんな絵を描いているのか、私も楽しみです」
「ありがとうございます、お祖母様。まだ石畳の陰影を直しているところですけれど、少しずつ形になってきました」
エレノアはそう答え、温かい飲み物へ手を伸ばした。
アルフォンスは朝食の間、庭園の話を静かに聞いていた。
昨日の文案について何か進展があったのだろうかと、エレノアは少し気になった。しかし、まだ朝食の途中であることを思い出し、自分から尋ねることはしなかった。
すると、食事が終わりに近づいた頃、アルフォンスの方から声がかかった。
「エレノア、昨日の下書きについて、少し伝えておきたいことがあるんだ。今すぐ話し合う必要はないけれど、午後に短い時間をもらえるかな」
エレノアは茶器を置き、叔父へ顔を向けた。
「はい、叔父様。何か、確かめなければならないことが見つかったのでしょうか」
「そうだね。君が昨日尋ねていた署名の扱いについて、こちらでも確認を進めているんだ。ただ、まだ結論が出たわけではないから、今日は分かっていることと、これから確かめることを整理したいと思っている」
エレノアは少し考えてから頷いた。
「分かりました。私も、お話を伺いたいです」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。昨日は自分で文章を書いてくれたからね。今日は無理に新しいことを決めなくてもいい。まずは、今後の手順について説明させてほしいんだ」
その言葉を聞いたエレノアは、胸の奥に小さな安堵を覚えた。
今日も何かを決断しなければならないのではないかと、少しだけ身構えていたからだ。
セドリックは父の説明を聞き、エレノアへ目を向けた。
「午後の話し合いには、僕も同席しようか。昨日と同じように、君が必要だと思うならだけれど」
エレノアは少し考えた。
昨日は、セドリックが傍にいてくれたことで、言葉を選ぶ時間を落ち着いて持つことができた。
今日も同席してもらえれば心強い。
「ありがとうございます、お兄様。ご都合がよろしければ、今日もお願いしたいです」
「もちろん。午後なら時間を取れるから、僕も一緒に聞かせてもらうよ」
セドリックはそう答え、柔らかく微笑んだ。
エレノアはその笑顔を見つめながら、静かに頷いた。
王宮へ送る返答は、まだ完成していない。
それでも、何も分からないまま時間だけが過ぎているわけではないのだと感じられた。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、アルフォンスは執務室へ戻り、王宮から届いた照会状を改めて広げた。
机の上には、昨日までに作成した返答文案と、エレノア本人が書いた下書きが、別々に置かれている。
本人の下書きには署名がない。
正式な文書としての扱いも、まだ決まっていなかった。
アルフォンスは二つの書類を見比べながら、昨夜整理した疑問をもう一度確認した。
王宮が求めているのは、ベルナール家から送られた婚約受諾の返書と、エレノア本人の拒否意思について、記録上の扱いを明確にするための回答である。
その照会に対し、ロシュフォール家として把握している事実を伝えることはできる。
しかし、エレノアは今も法的にはベルナール家の娘だ。
ロシュフォール家への養子縁組に関する書類は進んでいるものの、正式な手続きはまだ完了していない。
だからこそ、誰がどの立場で返答するのかを曖昧にしたまま、書類を送るわけにはいかなかった。
やがてオーギュストが執務室へ入り、アルフォンスの向かいへ腰を下ろした。
「昨日の文案について、何か気になるところがあったのかい」
「はい、父上。文章の内容そのものは、エレノアの希望にかなり近づいたと思います。ただ、正式な差出人と、本人の下書きをどのように扱うかについて、もう少し慎重に考えたいのです」
アルフォンスは机の上の二枚の書類を示した。
「ロシュフォール家からの返答と、エレノア本人の意思を示す文書は、同じものではありません。どちらも必要になる可能性はありますが、現段階で本人の署名を求めることが適切かどうかは、確認できていないのです」
オーギュストは静かに頷いた。
「そうだね。特に、エレノアが自分で書いた下書きを、正式な意思表示の原本として扱うかどうかは、本人にも説明しなければならない」
「ええ。昨日は本人の希望で私が原本を預かり、内容を写した控えを渡しました。ただし、あの紙はあくまでも下書きです。本人が書いたからといって、そのまま王宮へ提出できると考えるのは早計でしょう」
アルフォンスは下書きへ視線を落とした。
そこには、エレノアが自分で選んだ三つの文章が並んでいる。
儀礼的な表現はほとんどない。
しかし、本人の意思は明確だった。
だからこそ、その文章を不用意に書き換えたり、本人が知らないうちに正式な文書へ転用したりすることは避けたかった。
「父上、私はまず、王宮の照会を担当している部署へ、返答の形式について確認を入れようと考えています。婚約についての判断を求めるのではなく、どの立場の者が、どのような形で事実を伝えるのが適切なのかを尋ねるつもりです」
オーギュストは少し考えた。
「それなら、確認する範囲を明確にしておいた方がよいだろう。形式について尋ねたつもりが、こちらの返答そのものと受け取られては困るからね」
「はい。問い合わせと正式な回答を混同されないよう、文面にもその旨を記します」
アルフォンスは新しい紙を取り出した。
そこへ、確認すべき事項を書き出していく。
照会への返答を、ロシュフォール家の名義で提出できるか。
本人の意思を別紙として添える場合、どのような形式が適切か。
本人の自筆や署名が必要なのか。
そして、提出した文書がどのような記録として扱われるのか。
最後の項目を書いたところで、アルフォンスは筆を止めた。
「父上、もう一つ気になっていることがあります」
「何かな」
「本人の意思を記録することと、その意思が婚約についての判断にどう反映されるかは、別の問題だということです」
オーギュストは息子の言葉を聞き、静かに頷いた。
「そのとおりだね。記録へ残されたからといって、必ず希望どおりの結論になるとは限らない」
「ええ。だから、エレノアへ説明するときにも、署名すれば婚約を断れるといった言い方は避けたいと思っています。私たちができるのは、本人の意思を正確に伝え、王宮がそれをどう扱うのか確認を求めるところまでです」
アルフォンスの声には、慎重な響きがあった。
エレノアを安心させたいという気持ちは強い。
けれど、まだ確定していないことを、確定したかのように伝えてしまえば、あとで彼女をさらに傷つけることになるかもしれない。
オーギュストは机の上の文書を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「私たちは、あの子に希望を持ってほしいと思っている。しかし、希望を持たせるために事実を曖昧にすることは、あの子のためにならないだろう」
「はい。だからこそ、分かっていることと、まだ分からないことを分けて伝えたいのです」
オーギュストは頷いた。
「では、問い合わせの文案を作りなさい。送る前に私も確認しよう。ただし、エレノア本人の下書きは、今はそのまま保管しておくことだ」
「承知しました」
アルフォンスは答え、改めて筆を取った。
王宮への正式な返答を完成させるためには、まだ確かめなければならないことがある。
その手順を一つずつ整理しながら、彼は慎重に文章を書き進めていった。
◇ ◇ ◇
一方、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めていた。
窓から差し込む光は柔らかく、布の上に置いた糸の色を確かめるにはちょうどよい明るさだった。
花びらの重なりへ加えた濃い青は、少し離れて眺めると、思っていたよりも落ち着いた印象を与えている。
エレノアは針を止め、刺繍枠を少し傾けた。
「リディア、こちらの花びらは、もう少し薄い色を加えた方がよいかしら」
傍らで衣類を整えていたリディアが顔を上げた。
「どちらも綺麗だと思いますが、今のままですと、花びらの重なりが少し深く見えますね。薄い色を加えられましたら、また違う印象になるかもしれません」
「そうね。濃い色を加えたところは気に入っているのだけれど、全部を同じようにしてしまうと、少し重たく見える気がするの」
エレノアは糸箱を開き、何種類かの青い糸を並べた。
以前、試し布へ濃い色を刺したときにも、同じように迷った。
そのときは実際に少し縫ってみて、光の当たり方を確かめながら色を選んだのだった。
今回も、すぐに決める必要はない。
エレノアは薄い青の糸を一本取り出し、試し布の端へ当ててみた。
「……こちらの色なら、少し柔らかくなるかもしれないわ」
「そうでございますね。今の濃い青とも、よく合うように見えます」
リディアの言葉に、エレノアは微笑んだ。
そして、試し布へ数針だけ糸を通した。
小さな部分を縫い終えると、二人で少し離れたところから眺めてみる。
近くで見たときには明るすぎるように感じた糸も、濃い青の隣へ置くと、思ったより自然に馴染んでいた。
「不思議ね。同じ糸なのに、隣にある色で違って見えるのだわ」
「そうでございますね。お嬢様が以前おっしゃっていた、庭園の石畳の色と似ているのかもしれません」
エレノアはその言葉を聞き、顔を上げた。
「本当ね。雨に濡れた石畳も、日が当たっているところと影になっているところで、ずいぶん違って見えたもの」
彼女は試し布を机へ置き、しばらく考えた。
同じものでも、どこから見るかによって印象が変わる。
けれど、だからといって、そのもの自体が別のものになるわけではない。
昨日書いた文章も、読む人によって受け取り方が違うかもしれない。
だからこそ、できるだけ誤解されない言葉を選ぶ必要があるのだろう。
エレノアは糸箱の蓋を閉じ、針を安全な場所へ置いた。
「今日は、この色を少しだけ使ってみるわ。でも、全部を仕上げるのは、もう少し先にするつもり」
「かしこまりました。お嬢様が納得できる形になるまで、ゆっくり進めてくださいませ」
リディアはそう答え、温かい飲み物を用意するために立ち上がった。
エレノアは刺繍枠を見つめながら、静かに息を吐いた。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
自分の作品も、まだ完成していない。
それでも、今ここにあるものを大切にしながら、少しずつ進めていくことはできる。
そのことが、今のエレノアには心強かった。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアはマルグリットの部屋へ招かれた。
祖母は窓辺の小さな卓に茶器を用意し、エレノアが入室すると、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「今日は刺繍を進めていたそうですね。青い花は、少しずつ形になってきましたか」
「はい、お祖母様。今日は、花びらの重なりに使う糸を少し試してみました。濃い青だけでは重たく見える気がしたので、薄い色も加えてみようと思っています」
エレノアはそう答え、祖母の向かいへ腰を下ろした。
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「それは楽しみですね。あなたのお母様も、刺繍の色を選ぶときには、ずいぶん時間をかけていましたよ」
「お母様も、迷われることがあったのですか」
「ええ。むしろ、気に入った色が見つかるまで、何度も糸を並べ直していました。最初に選んだ色を、途中で変えることもありましたね」
エレノアは驚いたように目を瞬かせた。
母アデラインは、幼い頃の記憶の中では、いつも穏やかで優しい人だった。
何かを作るときにも、迷わず美しいものを生み出していたように思っていた。
けれど、祖母の話を聞くたび、母にも迷いや試行錯誤があったことを知る。
「私、お母様は何でも上手にできる方だったのだと思っていました。でも、そうではなかったのですね」
マルグリットは柔らかく笑った。
「もちろん、得意なことはたくさんありましたよ。でも、得意だからといって、迷わないわけではありません。むしろ、大切に思うものほど、時間をかけて考えていたように思います」
エレノアはその言葉を聞き、茶器へ視線を落とした。
大切だからこそ、迷う。
それは、今の自分にも当てはまるように思えた。
王宮への返答について、何度も言葉を確かめていること。
署名をする前に、その意味を知りたいと思っていること。
どちらも、決断できないからではなく、自分の未来を大切にしたいからなのかもしれない。
「お祖母様、私……昨日、自分の言葉で婚約をお断りする文章を書いたのです」
マルグリットは静かに頷いた。
「アルフォンスから聞いていますよ。まだ正式な文書ではなく、署名もしていないそうですね」
「はい。書いているときは、とても緊張しました。でも、書き終えたら少し安心したのです。ただ……今朝になって、また考えてしまって」
エレノアは茶器を両手で包み、少しだけ俯いた。
「私の名前が書かれた紙が王宮へ届いたら、どなたが読むのでしょう。第二王子殿下も、目にされることがあるのでしょうか」
その問いを口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
以前の人生で、レオナードが自分へ向けた冷たい眼差しが、ふいに思い出されたからだ。
処刑を言い渡されたあの日、彼の表情には、自分の言葉を聞こうとする気配がなかった。
けれど、今の時間の中で、エレノアはまだ彼と会っていない。
その記憶を、祖母へ説明することはできなかった。
マルグリットは孫娘の表情を見つめ、しばらく考えてから答えた。
「それは、今の段階では分かりませんね。王宮へ提出された文書が、どなたの目に触れる可能性があるのかは、扱いによって違うでしょうから」
エレノアは静かに頷いた。
「そうですよね……」
「ただ、分からないことを、そのままにしておく必要はありません。アルフォンスへ尋ねてみてもよいのではありませんか。すべてを事前に知ることは難しいかもしれませんが、分かる範囲で説明してもらうことはできるでしょう」
エレノアは顔を上げた。
「叔父様へ、ですか」
「ええ。あなたは昨日、署名の意味を確かめたいとおっしゃったのでしょう。それなら、その文書がどのように扱われる可能性があるのかも、知っておきたいと思うのは自然なことですよ」
マルグリットは穏やかに続けた。
「ただし、すべてが分かるまで何も進められないというわけでもありません。確かめられることを確かめ、そのうえで判断する。それでよいのだと思います」
エレノアは祖母の言葉を胸の中で繰り返した。
王宮へ送った文書が、誰に読まれるのか。
それは、今まで十分に考えていなかったことだった。
自分の意思を記録へ残したい。
けれど、その記録がどこまで届くのかも、知っておきたい。
「ありがとうございます、お祖母様。午後のお話で、叔父様へ尋ねてみようと思います」
マルグリットは微笑んだ。
「ええ。あなたが気になることを、きちんと聞いてみるとよいでしょう」
エレノアは頷き、温かな茶を口にした。
窓の外では、薄い雲の間から日差しが差し込み、庭園の木々を柔らかく照らしていた。
その光景を眺めながら、エレノアは午後の話し合いで尋ねたいことを、心の中で整理し始めた。
◇ ◇ ◇
午後の話し合いは、前日と同じ小さな応接室で行われた。
エレノアがリディアとともに入室すると、アルフォンスとセドリックがすでに席に着いていた。
机の上には、王宮からの照会状の写しと、これまでに修正した返答文案が置かれている。
ただし、昨日エレノアが書いた下書きの原本は、ほかの書類とは分けて保管されているらしく、机の上には見当たらなかった。
エレノアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
自分が書いた紙を、正式な返答と混同しないようにしてくれているのだろう。
「エレノア、来てくれてありがとう。今日は昨日ほど長い話にはならないと思うけれど、疲れたら遠慮なく言ってほしい」
アルフォンスがそう声をかけると、エレノアは頷いた。
「はい、叔父様。今日は、私からも一つお尋ねしたいことがあります」
「もちろんだよ。まずは、こちらで整理したことを説明してから、君の質問も聞かせてもらおうか」
エレノアは椅子へ腰を下ろし、机の上の書類へ目を向けた。
アルフォンスは、最初に王宮からの照会状について説明した。
王宮が確認しようとしているのは、ベルナール家から送られた受諾の返書と、エレノア本人の拒否意思について、記録上の扱いを整理することである。
ロシュフォール家として把握している事実を伝える必要はあるが、正式な返答の形式については、まだ確認すべき点が残っている。
「特に、君が今も法的にはベルナール家の娘であることを、文書の上で曖昧にしないようにしたいんだ。養子縁組の手続きは進んでいるけれど、まだ正式に完了していないからね」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。そのことは、私も分かっています」
「だから、ロシュフォール家からの返答と、君自身の意思を示す文書を、どのように扱うのが適切かを確認する必要があるんだ。昨日の下書きをそのまま送るのではなく、まずは王宮の担当部署へ、形式について問い合わせようと考えている」
エレノアは少し考えた。
「その問い合わせも、王宮へ送るのですか」
「そうだよ。ただし、婚約についての正式な返答ではなく、提出方法を確認するための問い合わせとして、目的を明確にするつもりだ」
アルフォンスは別の紙を示した。
そこには、問い合わせで確認したい事項が整理されている。
エレノアは一つずつ読み進めた。
差出人の名義。
本人の意思を別紙で示す場合の形式。
署名の必要性。
そして、提出された文書の記録上の扱い。
どれも、昨日の自分が気にしていたことと関係している。
エレノアは最後まで読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「叔父様、私が昨日お尋ねしたことを、こうして確かめてくださるのですね」
「もちろんだよ。君が署名の意味を知りたいと思うのは、もっともなことだからね」
アルフォンスは穏やかに答えた。
しかし、すぐに続けた。
「ただ、一つ大切なことがある。仮に君の署名が必要だと分かっても、それだけで婚約についての判断が決まるわけではないんだ。君の意思を記録へ残すことと、王宮がその意思をどう扱うかは、分けて考えなければならない」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ唇を結んだ。
署名すれば、婚約を断れる。
もしそう言われたなら、どれほど安心できただろう。
けれど、叔父はそう約束しなかった。
まだ分からないことを、分かったこととして伝えないためだろう。
「……はい。私が望んでいないと書いても、王宮がどのように判断するのかは、まだ分からないのですね」
「そうだね。だからこそ、こちらが何を伝えたのか、正確に記録へ残るようにしたいと思っている」
エレノアはゆっくりと頷いた。
胸の奥には、不安が残っている。
それでも、叔父の説明が曖昧でないことに、少しだけ安心できた。
セドリックは二人の会話を聞きながら、静かに口を開いた。
「エレノア、今日の話は、何かを諦めるためのものではないと思うよ。むしろ、これからどんな手順で進めれば、君の意思を正確に伝えられるかを考えるためのものなんだ」
エレノアは従兄へ顔を向けた。
「はい、お兄様。私も、そう考えたいです」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
エレノアはその笑顔を見つめてから、午前中に考えていた質問を思い出した。
「叔父様、もう一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。何かな」
エレノアは膝の上で手を重ね、少しだけ呼吸を整えた。
「もし私の書いた文章が王宮へ送られたら、その文章は、どなたが読むのでしょうか」
アルフォンスは一瞬だけ考え込んだ。
エレノアは続けた。
「王宮の担当の方が読むことは、分かります。でも、そのあと……第二王子殿下も、私の書いたものを目にされることがあるのでしょうか」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が強く脈打った。
以前の人生で、自分を処刑へ追いやった人物。
今の時間の中では、まだ会ったことのない第二王子。
彼が自分の拒否の言葉を読むかもしれない。
その可能性を考えるだけで、指先が冷たくなった。
アルフォンスはエレノアの表情を見つめ、慎重に答えた。
「その点については、今の段階では分からないんだ。王宮の記録として扱われる以上、担当部署の中で確認されることは考えられるけれど、どの範囲の人が閲覧できるのかは、こちらでは判断できない」
エレノアは静かに頷いた。
「……そうなのですね」
「ただ、君が気にしていることは理解できたよ。問い合わせの際に、提出した文書の扱いについて、確認できる範囲を尋ねてみようと思う」
エレノアは顔を上げた。
「よろしいのですか」
「もちろんだよ。ただし、すべての閲覧者を事前に特定できるとは限らない。その点は、君にも理解しておいてほしいんだ」
エレノアは少し考えたあと、頷いた。
「はい。全部を知ることは難しいかもしれません。でも、何も分からないまま送るより、少しでも確かめられた方が安心します」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「分かった。では、その点も確認事項へ加えよう」
彼は問い合わせの草案へ、新しい一文を書き加えた。
エレノアはその様子を見つめていた。
昨日は、自分の言葉がどのように書かれるかを確かめた。
今日は、その言葉がどこへ届くのかを考えている。
どちらも、今まで十分に考えたことのなかった問題だった。
けれど、自分の未来に関わることだからこそ、少しずつ知っていきたいと思った。
◇ ◇ ◇
話し合いが終わりに近づいた頃、アルフォンスは机の上の書類を整理しながら、エレノアへ改めて確認した。
「今日の説明で、ほかに気になるところはあるかな」
エレノアは少し考えた。
署名の意味。
文書の差出人。
王宮での扱い。
まだ答えの出ていないことは多い。
けれど、今の段階で何を確認しようとしているのかは、理解できたように思えた。
「今は、大丈夫です。叔父様が何を確かめてくださるのか、分かりました」
アルフォンスは頷いた。
「それならよかった。問い合わせの文案は、父上にも確認してもらうつもりだよ。内容が整ってから送ることになるけれど、君が書いた下書きは、今のところ提出しないからね」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは礼を述べた。
しかし、立ち上がろうとしたところで、ふと気になったことがあった。
「叔父様、問い合わせのお返事が届くまでは、私の下書きはそのままにしておくのですよね」
「そうだよ。原本は、ほかの文書と区別して保管してある。君がもう一度読みたいと思ったら、いつでも見せられるようにしているよ」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。私、昨日書いた言葉を、今はまだ変えたいとは思っていません。でも、正式な文書にするときには、もう一度読みたいです」
「もちろんだよ。君が確認しないまま送ることはしないと、約束したからね」
アルフォンスの返事は、静かで明確だった。
エレノアはその言葉を聞き、深く頷いた。
昨日、自分で書いた文章。
まだ署名のない一枚の紙。
それは今も、正式な文書ではない。
けれど、誰かが勝手に完成させてしまうものでもなかった。
エレノアは椅子から立ち上がり、アルフォンスとセドリックへ礼をした。
「今日は、お話を聞かせてくださってありがとうございました。分からないことがまだあるのは、少し不安ですけれど……何を確かめているのかが分かって、安心しました」
セドリックは柔らかく微笑んだ。
「それならよかった。今日は昨日よりも落ち着いて話せたように見えたよ」
エレノアは少し照れたように笑った。
「そうかもしれません。昨日は、自分で文章を書くことばかり考えていましたから」
アルフォンスも穏やかに頷いた。
「今日は、君が新しい質問をしてくれたからね。文書の扱いについて、こちらも考えるべきことが増えた。気づいたことがあれば、これからも遠慮なく伝えてほしい」
「はい、叔父様」
エレノアはそう答え、リディアとともに応接室をあとにした。
◇ ◇ ◇
エレノアが退出したあと、アルフォンスは机の上に残された問い合わせの草案を見つめていた。
セドリックは父の向かいに座ったまま、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「父上、エレノアは、第二王子殿下が文書を読むかもしれないことを、ずいぶん気にしていましたね」
アルフォンスは頷いた。
「そうだね。本人の意思を記録へ残したいという気持ちと、その記録がどこまで届くのか分からない不安が、両方あるのだろう」
セドリックは少し考えた。
エレノアは、第二王子の名前を聞くたびに表情を強張らせる。
しかし、その理由については、まだ詳しく話していない。
無理に聞き出すべきではないと分かっていても、何がそこまで彼女を恐れさせるのか、気にならないわけではなかった。
「父上、僕たちは、彼女が何を怖がっているのか、まだ十分には分かっていませんね」
アルフォンスは息子へ目を向けた。
「そうだね。でも、分からないからといって、彼女の恐怖を軽く扱う理由にはならないと思っているよ」
セドリックは静かに頷いた。
「はい。僕もそう思います」
アルフォンスは書類を重ね、落ち着いた声で続けた。
「エレノアが自分から話したいと思うことがあれば、聞くつもりだ。ただ、今は婚約を望んでいないという意思が明確に示されている。それを正確に伝えることが、私たちの最初の役目だろう」
セドリックは父の言葉を聞き、ゆっくりと息を吐いた。
エレノアの秘密を知りたいという気持ちが、まったくないわけではない。
けれど、秘密を話してもらうことと、彼女の意思を守ることは、同じではない。
今の自分にできるのは、彼女が必要なときに相談できる場所を保つことなのだろう。
「父上、問い合わせの文案は、いつ頃完成しそうですか」
「今日中に内容を整理して、父上にも確認してもらうつもりだよ。ただ、送付するかどうかは、文面を見直してから決める。急いで不正確な問い合わせを送る必要はないからね」
セドリックは頷いた。
「分かりました。僕も、必要なら文案を確認します」
「ありがとう。君にも目を通してもらえると助かるよ」
アルフォンスはそう答え、改めて筆を取った。
エレノアが尋ねた、文書の閲覧範囲についての確認事項を、問い合わせの草案へ丁寧に書き加えていく。
王宮の担当者がどこまで答えられるのかは、分からない。
それでも、本人が不安に思っていることを、最初から確認の対象から外すべきではないと考えていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室の窓辺で、庭園の絵を眺めていた。
朝から続いていた薄い雲は少しずつ流れ、夕暮れの光が庭園の木々を柔らかく照らしている。
昨日描き足した石畳の陰影は、今見ても悪くないように思えた。
けれど、曲がり角の先には、まだ白い部分が残っている。
そこをどう描くかは、石畳の修繕が終わり、安心して歩けるようになってから考えるつもりだった。
エレノアは絵を机へ置き、文書入れから昨日の下書きの控えを取り出した。
封筒には、リディアが書いてくれた短い説明が添えられている。
正式な返答ではないこと。
本人の下書きの控えであること。
そして、原本はアルフォンスが保管していること。
エレノアはその書き付けを読み、封筒を開いた。
中には、昨日自分で書いた文章を、叔父が丁寧に写してくれた紙が入っている。
彼女は一行ずつ読み進めた。
『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』
その一文を読むと、胸の奥が少しだけ緊張した。
けれど、昨日ほど指先は冷たくならなかった。
続く文章には、父の返書が送られたことをあとから知らされたことと、自分は婚約を受け入れる意思を示していないことが書かれている。
最後には、父の返書と本人の意思を区別して扱ってほしいという希望が記されていた。
エレノアは最後まで読み終え、しばらく黙っていた。
短い文章だった。
けれど、今の自分が伝えたいことは、確かにそこにある。
(私は、まだこの文章を変えたいとは思っていない。でも、正式な文書にするときには、今日教えていただいたことも考えなければならないのね)
王宮へ送ったあと、誰が読むのか。
どのような記録として残るのか。
そのすべてを事前に知ることは難しいかもしれない。
けれど、分かる範囲で確かめることはできる。
エレノアは紙を封筒へ戻し、丁寧に文書入れへ収めた。
そのとき、扉を叩く音が響いた。
「エレノア様、マルタが参りました。窓辺の刺繍を置く場所について、少し確認させていただきたいとのことです」
リディアの声に、エレノアは顔を上げた。
「ええ、どうぞ入ってもらって」
ほどなくマルタが入室し、丁寧に礼をした。
「エレノア様、お時間をいただきありがとうございます。野薔薇の刺繍を飾る場所について、リディアと候補の棚を確認してまいりました」
エレノアは窓辺の刺繍へ目を向けた。
「ありがとう、マルタ。どこがよさそうだったかしら」
「こちらの壁際の棚でございます。窓からの直射日光が当たりにくく、普段のお掃除でも手が届きやすい位置にございます。ただ、棚板の上に置く際には、滑りにくい敷物を用意した方がよいかと存じます」
マルタは候補の棚を示しながら、慎重に説明した。
エレノアは立ち上がり、リディアとともに棚の前へ移動した。
確かに、窓辺よりも日差しが弱い。
けれど、部屋の奥へ入りすぎているわけではなく、椅子に座ったときにも刺繍を眺められそうだった。
「こちらなら、今までと同じように見ることができそうね」
「はい。ただ、木枠が古いものでございますから、置き方についてはもう少し注意した方がよろしいかと思います」
マルタはそう答え、棚板の状態を確かめた。
エレノアは頷いた。
「それなら、敷物を用意してから移しましょう。今日はまだ、窓辺に置いておいても大丈夫かしら」
「はい。今日のところは問題ないと思います。ただ、日差しの強い時間には、必要に応じて窓掛けを調整いたします」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。急いで移さなくてもよいのね」
「もちろんでございます。大切なお品ですから、安心して置けるようにしてから移しましょう」
マルタは丁寧に礼をした。
エレノアは窓辺の野薔薇の刺繍を見つめた。
母が使っていた古い木枠。
自分で刺した桃色の花。
それを守るために、マルタとリディアが置き場所を考えてくれている。
その光景を見ていると、今日の王宮への問い合わせについての話が、ふと頭に浮かんだ。
大切なものを、どこへ置くのか。
誰が扱うのか。
何を確かめてから動かすのか。
刺繍の木枠と王宮へ送る文書では、もちろん意味が違う。
それでも、どちらも大切だからこそ、扱い方を考えなければならないのだと感じた。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、アルフォンスが王宮への問い合わせについて、簡単に説明した。
オーギュストは草案を確認したうえで、いくつかの表現を見直すよう助言したという。
正式な婚約についての返答と混同されないよう、問い合わせの目的を明確にする必要があるためだった。
「今日の段階では、まだ送付していません。確認事項は整理できましたが、文面をもう一度見直してから判断するつもりです」
アルフォンスの説明に、オーギュストは静かに頷いた。
「そうだね。形式を尋ねるための文書なのだから、こちらの意思表示そのものと誤解されないようにした方がよい」
エレノアは二人の会話を聞きながら、ゆっくりと頷いた。
今日、王宮へ新しい文書が送られたわけではない。
自分の下書きも、まだアルフォンスの手元に保管されている。
そのことを確かめると、胸の奥が少し落ち着いた。
マルグリットはエレノアへ穏やかな視線を向けた。
「今日は午後にもお話があったそうですね。お疲れではありませんか」
「大丈夫です、お祖母様。今日は、昨日ほど長いお話ではありませんでしたから。それに、私が気になっていたことも、叔父様へお尋ねできました」
エレノアはそう答え、少し微笑んだ。
「王宮へ送った文書を、どなたが読むのかということです。まだ分からないそうですけれど、叔父様が確認できる範囲で尋ねてくださることになりました」
マルグリットは頷いた。
「それはよかったですね。気になることを、きちんとお伝えできたのなら何よりです」
セドリックも穏やかに微笑んだ。
「今日は、僕もその質問を聞いて考えさせられたよ。文書を書くときには内容ばかり気にしてしまうけれど、そのあと誰が読むのかということも、当事者にとっては大切なんだね」
エレノアは少し照れたように目を伏せた。
「私も、昨日まではそこまで考えていませんでした。でも、自分の名前が書かれた紙が王宮へ届くのだと思ったら、気になってしまって……」
オーギュストは孫娘の言葉を聞き、静かに口を開いた。
「気づいたときに尋ねればよいのだよ。すべてを最初から考えつくことは難しい。だからこそ、書類を送る前に確かめる時間を設けているのだからね」
エレノアは祖父へ顔を向けた。
「はい、お祖父様。ありがとうございます」
食卓には、しばらく穏やかな空気が流れた。
やがて話題は庭園の石畳へ移り、オーギュストはギュスターヴからの報告について話した。
古い石の継ぎ目は、まだ修繕方法を確認している段階であり、通行を避けるようにしているという。
エレノアはその説明を聞き、頷いた。
「私も、直るまではあの先へ行かないつもりです。絵の続きを描くのは楽しみですけれど、今は別のところを進めようと思っています」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、青い花の刺繍も進められそうですね」
「はい。今日は薄い青の糸を少し試してみたのです。思っていたよりも濃い色とよく合ったので、明日も少し進めてみたいと思っています」
エレノアはそう答え、柔らかく微笑んだ。
王宮への返答は、まだ完成していない。
母の遺品についての調査も、すべてが進んだわけではない。
それでも、今の生活には、婚約のことだけではない大切な時間がある。
そのことを、エレノアは忘れたくなかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上の日記帳を開いた。
窓の外では、昼間の雲が少しずつ流れ、夜空には淡い月明かりが広がっている。
庭園の木々は静かに揺れ、ときおり枝先が窓硝子の向こうで影を落としていた。
エレノアは筆を取り、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、王宮への返答について、叔父様から今後の手順を教えていただきました。私の下書きはまだ正式な文書ではなく、署名もしていません。叔父様は、どのような形式で提出するのが適切なのかを、王宮へ確認してくださるそうです。』
そこまで書き、少しだけ手を止めた。
そして、続きを記した。
『私は、自分の書いた文章が王宮へ届いたあと、どなたが読むのかをお尋ねしました。今はまだ分からないそうですが、確認できる範囲で尋ねてくださることになりました。すべてが分かるわけではないかもしれません。それでも、何も知らないまま送るのではなく、確かめられることを確かめたいと思います。』
エレノアは筆を置き、しばらく日記帳を見つめた。
昨日、自分の言葉を書いたときには、その文章を完成させることだけを考えていた。
けれど、今日はその先にあることを考えた。
書いた言葉が、どこへ届くのか。
誰が読むのか。
そして、どのような意味を持つのか。
それらは、今までのエレノアが十分に考える機会を与えられなかったことでもあった。
(私は、まだ何もかも分かっているわけではない。でも、分からないことを、分からないままにしなくてもよいのね)
エレノアは日記帳へもう一度筆を走らせた。
『私の名前が書かれた紙を、私自身が理解したうえで送りたい。その気持ちは、昨日よりも強くなりました。』
書き終えると、エレノアは日記帳を閉じた。
机の上には、昨日の下書きの控えが入った封筒がある。
その隣には、青い花の刺繍と、まだ完成していない庭園の絵が置かれていた。
どれも、今の自分が少しずつ進めているものだった。
母の遺品を探すための記録も、机の文書入れに整理されている。
最初の二枚だけを確認した衣類の束については、残りの頁を安全に開くための準備が続いている。立ち会う人々についても相談が進んでいるが、開封する日はまだ決まっていない。
ベルナール家の帳簿に残された「ロラン」という姓も、誰を指すのか確定していない。
母の野薔薇の彫刻が施された木箱も、行方が分からないままだ。
エレノアはそれらのことを思い出し、静かに息を吐いた。
王宮への返答を考えている間も、ほかの問題が消えたわけではない。
けれど、すべてを同じ日に解決しようとする必要もなかった。
今は、目の前にあることを一つずつ確かめていけばよい。
そう考えると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
やがてリディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日は午後にも大切なお話がございましたから、早めにお休みになった方がよろしいかと存じます」
エレノアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、そうね。今日は昨日ほど疲れていないつもりだったけれど、少し眠くなってきたわ」
「それは、安心なさったからかもしれませんね。今夜はゆっくりお休みくださいませ」
リディアはそう答え、寝台の掛け布を整えた。
エレノアは日記帳を机へ置き、窓辺の野薔薇の刺繍へ最後に目を向けた。
母が使っていた古い木枠は、まだ窓辺にある。
けれど、置き場所については、マルタとリディアが慎重に考えてくれている。
急いで動かさず、安心して置ける場所を確かめてから移す。
その小さな約束を思い出すと、エレノアは今日の王宮への問い合わせについても、少し似た気持ちになった。
自分の言葉を、大切に扱ってほしい。
自分の名前を、知らないところで使われたくない。
その願いは、決して大げさなものではないはずだった。
(私は、もう一度生きることができている。だからこそ、今度は自分の言葉も、自分の名前も、大切にしたい)
エレノアは寝台へ入り、掛け布を胸元へ引き寄せた。
以前の人生で、最後まで自分の声が届かなかったあの日。
その記憶は、今も消えていない。
けれど、今日のエレノアは、あの日と同じ場所に立っているわけではなかった。
今は、まだ何も決まっていないうちに、自分の意思を伝えるための準備を進めている。
その準備を、一人で抱えているわけでもない。
叔父は文書の形式を確かめ、祖父は慎重に内容を見守り、従兄は傍で話を聞いてくれる。
祖母は、分からないことを尋ねてもよいのだと教えてくれた。
リディアは、日々の暮らしの中で変わらず支えてくれている。
その一つ一つを思い出しながら、エレノアは静かに目を閉じた。
王宮への正式な返答は、まだ送られていない。
問い合わせの文案も、今は確認の途中にある。
そして、自分の下書きには、まだ署名がない。
けれど、エレノアは今夜、その空白を急いで埋めたいとは思わなかった。
自分の名前を書くときには、何のために書くのかを理解し、納得したうえで筆を取りたい。
その小さな約束を胸に抱きながら、エレノアはゆっくりと眠りへ落ちていった。




