第82話 雨上がりの庭園と、私の署名を待つ一枚の紙
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の向こうには久しぶりの青空が広がっていた。
昨日一日降り続いた雨は夜のうちにすっかりやんだらしく、庭園の石畳にはまだところどころ水が残っているものの、濡れた木々の葉には朝日が柔らかく差し込んでいる。窓硝子の向こうで枝先の雫が光るたび、庭園全体がいつもより明るく見えた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、しばらくその景色を眺めていた。
昨日は王宮への返答の文案を読み、自分が気になった言葉について叔父アルフォンスと話し合った。父ロベルトが送った婚約受諾の返書と、自分自身の意思が同じものとして扱われないようにしてほしいと伝えたことも、今でははっきりと思い出せる。
話し合いを終えた直後は、身体の奥に重い疲れが残っていた。しかし、一晩眠った今朝は、昨日ほど胸が苦しくない。
(まだ何も決まっていないのに、少し安心しているなんて、不思議ね。でも、昨日は私の言葉を、ちゃんと聞いていただけたもの)
王宮から届いたのは、あくまでも婚約に関する記録の扱いを確かめるための照会状だ。正式な婚約が成立したという知らせではなく、こちらが返答を送ったあとにどのような判断が下されるのかも分からない。
その事実を考えれば、安心するには早いのかもしれなかった。
けれど、エレノアは昨日、自分が望まない未来について、ただ怯えているだけではなかった。
文書の中にある曖昧な言葉を見つけ、それが自分の意思と違って受け取られる可能性を指摘した。アルフォンスはその言葉を聞き、文案を直すと約束してくれた。
その小さな積み重ねが、今朝の彼女を支えていた。
窓辺には、自分で刺した桃色の野薔薇の刺繍が飾られている。母アデラインが使っていた古い木枠に収められた花は、朝の光を受けて、昨日よりも明るい色に見えた。
その近くには、まだ完成していない青い花の刺繍も置いてある。
エレノアは寝台から降り、窓辺へ近づいた。
青い花の刺繍は、花びらの重なりに濃い色の糸を加えたところで手を止めている。母が遺したという青い花の刺繍そのものは、今も見つかっていない。だから、これは失われた作品を正確に再現するためのものではなく、自分が美しいと思った花を、自分の手で形にしている途中のものだった。
エレノアは布へ触れないように気をつけながら、糸の色を見比べた。
(昨日は言葉を選んで、今日は糸を選ぶのね。どちらも、私がどうしたいのかを考えなければ、決められないことだわ)
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。今朝はよいお天気になりましたね。お目覚めはいかがでしょうか」
「おはよう、リディア。ええ、今日はよく眠れたわ。昨日よりも、ずっと気持ちが落ち着いているの」
入室したリディアは、エレノアが窓辺に立っているのを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「それは何よりでございます。昨夜はお疲れのご様子でしたので、少し心配しておりました。今朝はお顔の色もよろしいようで安心いたしました」
「昨日は、思っていた以上に緊張していたみたい。でも、叔父様が私の言葉を聞いてくださったから、今日は少し違う気持ちで過ごせそうよ」
リディアは用意した衣装を椅子の背へ掛け、窓の外へ目を向けた。
「お庭も、雨上がりで綺麗になっていることでしょう。石畳が乾いておりましたら、短いお散歩もよろしいかもしれませんね」
「私も、そう思っていたところなの。昨日描いた絵の続きを考えたいし、雨のあとで庭園がどんなふうに変わったのか、少し見てみたいわ」
エレノアはそう答えながら、机の上の描きかけの絵へ目を向けた。
そこには庭園の曲がり角が描かれている。枝の重なりや石畳の奥行きは少しずつ形になってきたものの、曲がり角の先にはまだ白い部分が残されていた。
昨日の夜、その白い部分を見つめながら考えたことを、今朝も覚えている。
知らない景色を、知っているつもりで描き埋める必要はない。
自分の未来についても、同じことが言えるのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、雨上がりの庭園の話題が広がっていた。
マルグリットによれば、庭師のギュスターヴ・メルシエが早朝から園路の状態を確かめており、歩きやすい場所と、まだ足元の悪い場所を使用人たちへ伝えているという。
「南側の古い石の腰掛けの近くは、落ち葉が濡れて滑りやすくなっているそうですよ。今日はあちらまで行かず、屋敷に近い道を歩いた方がよさそうですね」
マルグリットの言葉に、エレノアは頷いた。
「分かりました、お祖母様。今日は、昨日描いていた曲がり角の辺りを少し見られればと思っています。あの場所も、雨のあとでは違う景色になっているでしょうから」
「それなら、午前中のうちに見ておくとよいかもしれないね。午後になると、風が強くなるという話もある」
オーギュストは窓の外へ目を向けながら、穏やかに答えた。
エレノアは礼を述べ、温かい飲み物へ手を伸ばした。
アルフォンスは今朝、いつもより少し早く食卓に着いていた。昨夜のうちに文案を見直したのだろうかと気になったが、エレノアは自分から尋ねることをためらっていた。
昨日はあれほど時間をかけて相談したのだから、叔父にも考える時間が必要なはずだ。
そう思っていると、アルフォンスの方から声がかかった。
「エレノア、昨日の文案だけれど、今朝もう一度見直してみたんだ。君が気にしていた部分を中心に、文章の順番も少し変えてみようと思っている」
エレノアは茶器を置き、叔父へ顔を向けた。
「ありがとうございます、叔父様。もう直してくださっているのですか」
「まだ途中だよ。昨日は君から大切な指摘をもらったからね。それをどう書けば誤解なく伝えられるか、もう少し考えたいんだ」
アルフォンスはそう言ってから、エレノアの表情を確かめた。
「ただ、今日は朝から書類のことを考えなくてもいい。君が庭園へ行きたいなら、そちらを優先して構わないよ。文案が整ったら、改めて声をかけるからね」
エレノアは少しだけ考え、静かに頷いた。
「はい。では、午前中はお庭を見てこようと思います。叔父様も、どうか無理をなさらないでください」
その言葉に、アルフォンスは意外そうに目を瞬かせた。
「私の心配までしてくれるのかい」
「だって、私のために、たくさん考えてくださっているのでしょう。昨日も長い時間お付き合いいただきましたし……叔父様がお疲れになってしまったら、申し訳ありませんもの」
アルフォンスはしばらく彼女を見つめ、それから柔らかく笑った。
「ありがとう。でも、これは私が引き受けると決めた仕事だから、君が申し訳なく思う必要はないよ。もちろん、無理をしないようには気をつける」
セドリックは二人のやり取りを聞きながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
「父上は、書類に向かい始めると時間を忘れることがありますからね。エレノアに心配されるくらいが、ちょうどよいのかもしれません」
「セドリック、君までそんなことを言うのかい」
アルフォンスが苦笑すると、マルグリットも楽しそうに微笑んだ。
「でも、間違ってはいませんよ。昨日も夕食のあと、また執務室へ戻ろうとしていたでしょう」
「少し確認したいことがあっただけですよ、母上」
その返事を聞いたオーギュストは、静かに茶器を置いた。
「大切な書類だからこそ、疲れた頭で判断しない方がよい。今日は私も午後に目を通すつもりだが、それまでに急いで完成させる必要はないからね」
アルフォンスは父の言葉に頷いた。
エレノアはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
王宮への返答は、決して軽い問題ではない。
それでも、こうして家族が一緒に考えてくれることで、すべてを自分一人で背負わなくてもよいのだと実感できた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはリディアとともに庭園へ向かった。
外へ出る前には、ギュスターヴから園路の状態について簡単な説明を受けた。屋敷に近い石畳はすでに歩けるものの、日陰になっている場所にはまだ濡れた落ち葉が残っているため、足元に気をつけてほしいという。
「ありがとうございます、ギュスターヴ。今日は遠くまで行くつもりはありません。昨日描いていた曲がり角の近くを、少し見てみたいのです」
「それでしたら、東寄りの道から回られるとよろしいかと存じます。あちらは朝日が当たりますので、ほかの場所よりも早く乾いております」
ギュスターヴはそう答え、園路の先へ目を向けた。
「ただ、曲がり角の手前にある古い石の継ぎ目には、少し水が残っております。そこだけは、どうぞお気をつけくださいませ」
エレノアは礼を述べ、リディアとともに歩き始めた。
庭園には、雨上がり特有の湿った土の香りが漂っていた。葉の表面に残った雫が風に揺れるたび、小さな水滴が下草へ落ち、遠くでは使用人が落ち葉を集める音が聞こえている。
エレノアは歩く速さを落とし、昨日までとは違う庭園の表情を眺めた。
晴れた日の石畳は、明るい灰色に見える。
けれど、雨に濡れた部分は色が深くなり、陽の当たる場所との境目がはっきりしていた。木々の幹も同じで、普段は気づかなかった樹皮の細かな凹凸が、湿った表面に浮かび上がっている。
「リディア、あの石畳を見て。昨日の絵では、全部同じような色で描いてしまったけれど、実際にはずいぶん違うのね」
「本当でございますね。朝日が当たっているところと、木陰になっているところでは、色の見え方が違います」
「ええ。それに、濡れているところだけ少し光っているでしょう。絵にするときには、濃い色を加えるだけでは足りないのかもしれないわ」
エレノアは立ち止まり、持ってきた小さな紙へ簡単な線を描いた。
完成した絵をその場で描くつもりはない。今は、あとで自室に戻ったときに思い出せるよう、光の向きや石畳の形を記しておきたかった。
リディアはその様子を見守りながら、少し離れた場所に落ちている濡れた葉へ目を向けた。
「お嬢様、こちらの葉も綺麗でございますね。端の方だけ色が変わっております」
エレノアは顔を上げ、リディアが示した葉を見た。
落ち葉の表面には、緑から黄色へ変わりかけた部分が残っている。雨に濡れたせいか、その境目が普段よりも鮮やかに見えた。
「本当ね。全部が同じ色になってから落ちるわけではないのね」
エレノアは葉を拾おうとして、少しだけ手を止めた。
濡れた葉をそのまま紙の間に挟めば、汚してしまうかもしれない。そう考えていると、リディアが持っていた布を取り出した。
「もしお持ち帰りになるのでしたら、こちらへ包んでおきましょうか。お部屋へ戻ってから、乾かしていただくこともできます」
「ありがとう。でも、今日はここに置いておくわ。色を覚えておきたいから、少しだけ描いておくことにする」
エレノアは紙の端へ葉の輪郭を描き、色の変わり目を短い言葉で書き添えた。
自分の手で何かを確かめ、必要なことを残しておく。
その行為は、昨日の文案の確認と、どこか似ているように感じられた。
ただし、庭園の絵なら、間違えても自分で描き直せる。
王宮へ送る文書は、そう簡単にはいかない。
(だからこそ、送る前に何度でも確かめたいのね。私が何を望んでいるのか、あとから違う意味にされないように)
エレノアは紙を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき、曲がり角の向こうからギュスターヴが戻ってきた。
「お嬢様、こちらにいらっしゃいましたか。園路の先を確認してまいりましたが、今朝の雨水はほとんど引いております。ただ、古い石の継ぎ目が一か所、少し浮いているようですので、今日はその手前までにしていただけますか」
「もちろんです。教えてくださってありがとうございます」
エレノアは素直に頷き、曲がり角の先へ目を向けた。
その向こうには、まだ自分の絵に描いていない道が続いている。
けれど、今は無理に進まなくてもよい。
足元の状態が確かめられ、安心して歩けるようになってから、改めて訪れればよいのだ。
「ギュスターヴ、あの石畳は、以前から傷んでいたのでしょうか」
「古い部分ではございますが、今朝見つけた浮きがいつからあったものかは、まだ分かりません。雨で周囲の土が緩んだ可能性もございますので、念のため確認してから手入れをいたします」
エレノアはその説明を聞き、頷いた。
原因が分からないものを、分かったこととして扱わない。
ギュスターヴの慎重な言葉が、今の彼女には自然に受け止められた。
「では、今日はここまでにします。お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
「とんでもございません。お嬢様が安心して歩ける庭園にするのが、私どもの仕事でございますから」
ギュスターヴは丁寧に礼をし、石畳の状態を確かめるため、再び園路の先へ向かった。
エレノアはその背中を見送ってから、リディアとともに屋敷へ戻ることにした。
庭園を歩いた時間は、それほど長くなかった。
それでも、紙には新しく気づいたことがいくつも残っている。
エレノアはその小さな成果を大切に抱えながら、朝日が差し込む屋敷の入口へ向かった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、アルフォンスの執務室では、王宮への返答文案が改めて広げられていた。
机の向かいにはオーギュストが座り、その隣にはセドリックが控えている。窓から差し込む光は昨日よりも明るく、書類の上に重なった文字や修正の印を、はっきりと浮かび上がらせていた。
アルフォンスは昨夜から考えていた修正案を父へ示した。
「昨日、エレノアが指摘した『現時点で』という表現は削除しました。その代わり、本人が第二王子殿下との婚約を望んでいないことを、直接示す文章にしています」
オーギュストは文案を読み進め、静かに頷いた。
「こちらの方がよいだろう。ただし、婚約について王宮がまだ判断を下していない以上、こちらから成立や不成立を断定する文章は避けなければならない」
「はい。その点は分けて記しました。ベルナール家から受諾の返書が送られた事実は認めたうえで、エレノア本人は受諾の意思を示していないことを明確にしています」
アルフォンスは別の紙を取り出した。
そこには、昨日の話し合いを受けて整理した事項が書かれている。
ベルナール家から受諾の返書が送られたこと。
エレノア本人は、その返書が送られる前に婚約を受諾する意思を示していないこと。
現在も第二王子との婚約を望んでいないこと。
そして、その意思を、王宮の記録上でも父親の返答とは区別して扱ってほしいという希望。
アルフォンスはその四点を指で示しながら、慎重に言葉を選んだ。
「今回の返答で必要なのは、エレノアの気持ちを長々と説明することではありません。何が事実で、何が本人の意思なのかを、混同されない形で示すことだと思っています」
セドリックは頷いたものの、文案の末尾に目を留めた。
「父上、昨日エレノアが尋ねていた署名のことは、どうなさるおつもりですか」
アルフォンスは筆を置き、少し考えた。
「そこが、まだ決めきれていないところなんだ。ロシュフォール家として照会へ返答することはできるだろう。ただ、エレノア本人の意思を、どの形式で添えるのが適切なのかは確認が必要だ」
「本人の言葉を別紙にして、返答と一緒に送る方法も考えられますね」
「そうだね。ただし、それが王宮の記録上どのように扱われるかは、こちらだけでは判断できない。本人の署名が必要なのか、保護者の確認が求められるのか、あるいは別の形式があるのかも、確かめなければならない」
オーギュストは二人の会話を聞き、文案の端へ目を向けた。
「エレノアの署名を求めるのであれば、何のために署名するのかを、本人へ説明しなければならないね。書いた紙がどこへ送られ、誰が読む可能性があるのかも、分かる範囲で伝えるべきだ」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そのつもりです。昨日、あの子は自分の名前が書かれた文書を、知らないところで送られるのが怖いと言っていました。だから、本人の名前を使うなら、なおさら慎重でありたいと思っています」
セドリックは、昨日のエレノアの表情を思い出していた。
彼女は父親の返書を否定しようとはしなかった。ただ、その返書が自分の同意として扱われることを恐れていた。
その違いを理解するには、文書の内容だけでなく、エレノアが言葉を選ぶときのためらいも見なければならなかった。
「父上、本人の意思を示す紙を用意するとしても、最初から署名を求めるのではなく、まず文章だけを見てもらった方がよいと思います」
アルフォンスは息子へ目を向けた。
「そうだね。エレノアが自分で書くことを望むかどうかも、まだ分からないからね」
「はい。昨日の彼女は、自分の言葉が残ることを大切にしていました。でも、それが必ず自筆でなければならないという意味ではないと思います」
オーギュストは静かに頷いた。
「その点も、本人へ尋ねればよい。私たちが先に正しい方法を決めつける必要はないだろう」
アルフォンスは文案を重ね、別の便箋を取り出した。
そこには、まだ何も書かれていない。
この紙へエレノア本人の意思を書き記すかどうかは、これから相談することになる。
ただ、今は白紙のままにしておくことにした。
誰かの善意によって先回りして書かれた文章が、またエレノアの知らないところで本人の意思として扱われることだけは、避けたかったからだ。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、エレノアは自室で庭園の絵を描き進めていた。
午前中に見た石畳の色の違いを思い出しながら、鉛筆で濃淡をつけていく。濡れた部分をすべて暗くするのではなく、光を受けた場所には白い紙の色を残すようにすると、昨日まで平らに見えていた道に、少し奥行きが生まれた。
リディアは窓辺で布を整えながら、その変化を見守っていた。
「今朝ご覧になった景色が、絵の中にも少しずつ表れておりますね。石畳が、昨日よりも立体的に見える気がいたします」
「そう見えるかしら。嬉しいわ。でも、まだうまく描けていないところもあるの。濡れた葉の色も、思っていたより難しくて……」
エレノアは鉛筆を置き、午前中に書いた小さな覚え書きを広げた。
「今日は全部仕上げようとせずに、石畳のところだけ直してみるつもりよ。葉の色は、もう少し考えてからにするわ」
「それがよろしいかもしれませんね。急いで描かれる必要はございませんもの」
リディアはそう答えたあと、扉の方へ目を向けた。
廊下から控えめな足音が近づき、やがてノックが響いた。
「エレノア様、アルフォンス様からお伝えするようにと申しつかりました」
扉の向こうにいた使用人は、午後の遅い時間に、修正した文案について短い相談の場を設けたいという伝言を届けた。
エレノアは一瞬だけ鉛筆を持つ手を止めた。
昨日、長い時間をかけて話し合ったばかりだ。
今日はまだ文案が整わないかもしれないと思っていたため、少し驚いた。
「ありがとうございます。叔父様には、私もお話を伺いたいとお伝えください。ただ、昨日のように長い時間にならない方が、よろしいかもしれません」
使用人は丁寧に礼をして退出した。
扉が閉まると、リディアがエレノアへ目を向けた。
「午後のお話し合い、少し緊張なさいますか」
「ええ。でも、昨日とは少し違う気持ちなの。叔父様が直してくださった文章を読むのは、怖いだけではなくて……どんなふうに変わったのか、確かめたいと思っているわ」
エレノアは机の上の絵を見つめた。
昨日の自分が気づかなかったことを、今日の自分は知っている。
それと同じように、昨日の文案にはなかった言葉が、今日の文案には加わっているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に小さな緊張と期待が同時に生まれた。
◇ ◇ ◇
午後の相談は、昨日と同じ小さな応接室で行われた。
窓の外では風が少し強くなり、庭園の枝先がゆっくりと揺れている。室内には温かい茶が用意され、机の中央には、修正された文案と、まだ何も書かれていない便箋が置かれていた。
エレノアはリディアとともに入室し、アルフォンスへ礼をした。
セドリックもすでに席に着いており、エレノアの顔を見ると穏やかに微笑んだ。
「今日は庭園へ行けたそうだね。雨上がりの景色はどうだった?」
「とても綺麗でした、お兄様。石畳の色がいつもと違って見えて、絵に描きたいところが増えてしまいました。でも、古い石の継ぎ目が少し浮いているそうなので、曲がり角の先までは行かなかったのです」
「それは残念だったね。でも、ギュスターヴが確認してくれているなら、安心して歩けるようになるまで待った方がよさそうだ」
セドリックはそう答え、エレノアが椅子へ腰を下ろすのを待った。
アルフォンスは二人の会話が落ち着いたところで、机の上の文案を手に取った。
「エレノア、今日は昨日の文案を修正したものを見てもらいたいんだ。ただし、これもまだ完成版ではない。君の意思が正しく表されているかを確認するための案だと思ってほしい」
エレノアは頷いた。
「はい、叔父様。昨日お伝えしたことが、どのように書かれたのか、読ませていただきたいです」
アルフォンスは文案を彼女の前へ置いた。
エレノアは一行ずつ読み始めた。
冒頭には、王宮からの照会を受け取ったことへの礼と、ベルナール家から送られた婚約受諾の返書について、ロシュフォール家が把握している事実を説明する旨が記されていた。
その次に、エレノア本人が婚約を受諾する意思を示していないことが、明確に書かれている。
昨日の文案では、ベルナール家の返書についての説明が先に続いていた。しかし、今日の文章では、父親の返答と本人の意思を区別することが、早い段階で示されていた。
エレノアはその違いに気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「叔父様、昨日とは順番が変わっているのですね」
「そうだよ。セドリックが指摘してくれたことも踏まえて、最初から君の意思とベルナール家の返答を分けて説明する形にしてみたんだ」
エレノアはもう一度文案へ目を向けた。
父が返書を送った事実は消されていない。
けれど、その返書がエレノア本人の承諾を意味するものではないことが、以前よりもはっきりと分かる。
「……こちらの方が、私には分かりやすいです。父様がお返事をされたことと、私が受け入れたことは違うのだと、最初から伝わる気がします」
アルフォンスは頷き、彼女が続きを読むのを待った。
次の部分には、エレノアが第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないことが記されていた。
昨日、彼女が気にしていた『現時点で』という表現は、そこにはない。
代わりに、本人が婚約を望んでいないという意思が、余計な条件を付けずに書かれていた。
エレノアはその一文を、何度も読み返した。
文字を追うたび、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていくような気がした。
(私が言いたかったことが、ここに書かれている。いつか気持ちが変わるかもしれないという話ではなくて、私はこの婚約を望んでいないのだと)
それでも、第二王子の名前を目にしたときには、指先がわずかに冷たくなった。
以前の人生で処刑を言い渡した人物の名前は、今も彼女の心を強く揺さぶる。
あの日、何度も無実を訴えた声が誰にも届かなかったことを思い出すと、喉の奥が締めつけられるようだった。
けれど、今のエレノアは、その記憶を誰にも説明できない。
今の時間の中では、まだ第二王子と会ってさえいないのだから。
エレノアは文案の上で手を止め、ゆっくりと呼吸を整えた。
アルフォンスは彼女の顔色が変わったことに気づき、静かに声をかけた。
「少し休もうか、エレノア。今日は急いで最後まで読む必要はないよ」
エレノアは顔を上げた。
叔父の声には、先を促す響きがなかった。
そのことに安心しながらも、彼女は少し考えてから答えた。
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ読ませてください。今は、続きを確かめたいのです」
「分かった。無理をしない範囲で進めよう」
エレノアは頷き、再び文案へ視線を戻した。
後半には、王宮の記録上で父親の返答と本人の意思が混同されないよう、確認を求める文章があった。
その表現は、昨日よりも慎重になっている。
婚約がすでに無効であると断定するものでもなければ、王宮が必ずエレノアの希望どおりに判断すると決めつけるものでもない。
ただ、本人の意思を正確に記録し、その扱いを明確にしてほしいと求めている。
エレノアは最後まで読み終え、しばらく黙っていた。
昨日の文案を読んだときには、いくつもの言葉が気になった。
けれど、今日の文章は、自分が伝えたいことに近づいているように感じられる。
「叔父様、昨日よりも、ずっと分かりやすくなったと思います。私が気になっていたところも、直してくださっていて……ありがとうございます」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「そう言ってもらえてよかった。ただ、これで完成だと思わなくてもいい。ほかにも気になるところがあれば、遠慮なく教えてほしいんだ」
エレノアはもう一度文案へ目を落とした。
しばらく考えたあと、彼女は末尾の一節を指した。
「叔父様、こちらに『本人の意思を確認したうえで』と書かれていますね。これは、私がこの文章を読んで、内容を確かめたという意味になるのでしょうか」
「そのつもりで書いているよ。ただし、君が確認したという事実をどのように示すかは、まだ決めていないんだ」
エレノアは頷いた。
その説明を聞いて、昨日から気になっていたことを思い出した。
「では……私自身の名前を、どこかに書くことになるのでしょうか」
アルフォンスは机の端に置かれた白紙へ目を向けた。
「そのことについて、今日は少し相談したいと思っていたんだ」
エレノアの胸が、小さく脈打った。
自分の名前。
その言葉には、以前の人生では感じなかった重みがある。
誰かが自分の名前を使って物事を決め、その結果を自分が受け入れなければならなかった記憶が、今も心の奥に残っているからだ。
アルフォンスは白紙を彼女の前へ置いた。
「これは、まだ何も書いていない紙だよ。王宮へ送るものとして決めたわけではない。ただ、君自身の意思を、家からの返答とは別に記す方法も考えられると思っている」
エレノアは紙を見つめた。
そこには、文字も署名欄もない。
誰かがあらかじめ用意した文章を、ただ認めるように求められているわけではなかった。
「私が、自分の言葉を書くのですか」
「それも一つの方法だね。ただし、必ず自筆でなければならないと決まったわけではないし、王宮の記録上どのように扱われるかも確認が必要なんだ。だから、今日は君がどうしたいかを聞かせてほしい」
エレノアはしばらく黙っていた。
白紙の上に、自分の名前を書く。
その行為を想像すると、胸の奥に緊張が広がった。
けれど、同時に、昨日とは違う気持ちも生まれていた。
自分の意思を、誰かに説明してもらうだけではなく、自分の言葉として残すことができるかもしれない。
その可能性が、少しだけ嬉しかった。
「……私、自分で書いてみたいです」
アルフォンスはすぐに返事をせず、彼女の表情を確かめた。
「本当にそう思うかい。無理をする必要はないんだよ」
「はい。もちろん、王宮へ送る正式な書類として使えるかどうかは、叔父様に確かめていただきたいです。でも、まずは私が何を望んでいるのか、自分の言葉で書いてみたいと思います」
エレノアは白紙へ視線を落とし、ゆっくりと続けた。
「父様の返書は、私が知らないところで送られました。今度は、私が何を書いたのか、自分で分かる形にしたいのです」
その言葉を聞いたセドリックは、静かに頷いた。
「それなら、まずは下書きとして書いてみるのがよいかもしれないね。書き終えてから、言葉が足りないと思ったところを直してもいいし、全部書き直してもいい」
エレノアは従兄へ顔を向けた。
「下書きなら、間違えてもよいのでしょうか」
「もちろんだよ。誰かに見せる前に、君自身が読み返すこともできる。最初から正式な文書を完成させようとしなくてもいいんじゃないかな」
アルフォンスも頷いた。
「セドリックの言うとおりだね。今日ここで署名まで済ませる必要はないよ。まずは君が書きたいことを整理して、それから必要な形式を確認しよう」
エレノアはほっとしたように息を吐いた。
白紙の前に座った瞬間、すべてを決めなければならないわけではない。
そのことが分かると、少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
アルフォンスは机の上に置かれた筆記具を整え、エレノアへ差し出した。
しかし、彼女はすぐには筆を取らなかった。
何を書けばよいのか、頭の中では分かっているつもりだった。
第二王子との婚約を望まないこと。
父親の返書は、自分の同意を示すものではないこと。
そして、自分の意思を、正式な記録の中でも正しく扱ってほしいこと。
けれど、いざ白紙を前にすると、最初の一文が思い浮かばない。
エレノアは少し困ったように眉を寄せた。
「叔父様、私……何から書けばよいのか、分からなくなってしまいました」
アルフォンスは彼女を急かさず、静かに答えた。
「それなら、まずは誰に何を伝えたいのかを考えてみようか。難しい挨拶や形式は、あとから整えることもできる。君が最初に書きたいことは何かな」
エレノアはしばらく考えた。
王宮へ伝えたいこと。
それは、相手を責める言葉でも、誰かの判断を先回りする言葉でもない。
ただ、自分が望んでいないという事実だった。
「……私は、第二王子殿下との婚約を望んでいません」
エレノアはそう口にした。
昨日も何度か伝えた言葉だ。
けれど、今日はそれを自分の手で紙へ残そうとしている。
アルフォンスは頷いた。
「では、まずはその言葉を書いてみようか。あとから文章を整えることはできるから、今は君が伝えたい意味を大切にしよう」
エレノアは筆を取った。
紙の上へ最初の文字を書こうとしたとき、指先が少し震えた。
以前の人生で、処刑を言い渡されたときの光景が、ふいに胸の奥をよぎった。
あのとき、自分の言葉は誰にも届かなかった。
どれほど訴えても、すでに決められた結論は変わらなかった。
(今度は、あの日とは違う。私は、まだ何も決まっていないうちに、自分の意思を伝えようとしているのだわ)
エレノアは一度筆を置き、呼吸を整えた。
リディアが傍らから静かに声をかけた。
「エレノア様、少しお茶を召し上がりますか。お急ぎになる必要はございませんので」
「ありがとう、リディア。少しだけいただくわ」
温かい茶を口にすると、強張っていた喉が少し和らいだ。
エレノアは茶器を置き、もう一度筆を取った。
今度は、最初の一文を書くことができた。
『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』
書き終えた瞬間、エレノアはしばらくその文字を見つめていた。
自分の手で書いた言葉が、紙の上に残っている。
それは、昨日アルフォンスが用意してくれた文案とは、少し違うものに感じられた。
文書として整っているかどうかは、まだ分からない。
けれど、少なくともその一文は、自分が考え、自分で選び、自分の手で書いたものだった。
エレノアは筆を持ち直し、次の文章を考えた。
父が返書を送ったことについて、どこまで書くべきだろうか。
その事実を否定することはできない。
しかし、自分が承諾したわけではないことは、はっきりと残しておきたい。
エレノアはアルフォンスへ目を向けた。
「叔父様、父様が返書を送られたことも、ここへ書いてよいのでしょうか」
「もちろん、事実として書くことはできるよ。ただし、君が直接知っていることと、あとから知らされたことを区別しておくと、より正確になると思う」
エレノアは頷いた。
父が返書を送った場面を、自分の目で見たわけではない。
そのことを知ったのは、すでに返書が送られたあとだった。
だから、父が何を考え、どのような説明を受けて返答したのかまで、自分の言葉で断定することはできない。
エレノアは少し考え、次の文章を書き始めた。
『ベルナール家から婚約受諾の返書が送られたことは、あとから知らされました。しかし、私はその返書が送られる前に、婚約を受け入れる意思を示しておりません。』
書き終えると、エレノアはゆっくりと筆を置いた。
セドリックはその文章を見つめ、静かに頷いた。
「君が何を知っていて、何をしていなかったのかが、分かりやすいと思うよ」
エレノアは少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。でも、まだ最後まで書けていないのです」
「うん。だから、続きを考えよう。今のところ、君が書きたいことは伝わっていると思う」
アルフォンスは文案とエレノアの下書きを見比べていた。
彼女が書いた文章には、儀礼上の表現がほとんどない。
しかし、その分、本人が何を望んでいるのかが明確だった。
アルフォンスは、その率直さを失わせないようにしたいと思った。
「エレノア、最後に王宮へお願いしたいことがあるなら、それを書いてみるとよいかもしれないね。何をしてほしいのか、君自身の言葉で考えてみよう」
エレノアは頷き、白紙の残りへ目を向けた。
王宮へお願いしたいこと。
婚約を成立させないでほしい。
自分の拒否を、なかったことにしないでほしい。
父親の返書だけを見て、自分も望んでいると判断しないでほしい。
いくつもの思いが胸に浮かんだ。
しかし、それをすべて一度に書こうとすると、言葉がまとまらない。
エレノアはしばらく考え、筆先を紙へ近づけた。
『どうか、ベルナール家からの返書と、私自身の意思を同じものとして扱わず、私が婚約を望んでいないことを、記録の上でも明らかにしていただきたく存じます。』
最後の文字を書き終えたとき、エレノアの指先には少し力が入っていた。
彼女は筆を置き、紙を最初から読み返した。
三つの文章だけだった。
長い説明も、華やかな言い回しもない。
けれど、今の自分が伝えたいことは、その中に収まっているように思えた。
「……叔父様、これで、私の気持ちは伝わるでしょうか」
アルフォンスはすぐに答えなかった。
エレノアの書いた文章を最初から読み、意味が曖昧になっているところがないかを確かめている。
やがて、彼は穏やかに頷いた。
「君が何を望んでいるのかは、よく分かるよ。少なくとも、私はこの文章を読んで、君が一度婚約を受け入れたあとで気持ちを変えたとは思わない」
エレノアはその返事を聞き、胸の奥が少し軽くなった。
しかし、アルフォンスは続けて言った。
「ただ、正式な文書として使うのであれば、表現や形式について確認が必要になるだろう。だから、これは今日の段階では下書きとして大切に保管しよう。君が望むなら、あとから書き直すこともできる」
エレノアは頷いた。
「はい。私も、今日書いたものをすぐに送るつもりではありません。叔父様に確かめていただいて、それからもう一度考えたいです」
アルフォンスは微笑み、机の上に置かれた紙へ目を向けた。
「それがよいと思うよ。ところで、エレノア。最後に署名をすることについては、どう考えているかな」
その問いを聞いた瞬間、エレノアの胸が再び緊張した。
自分の名前を書く。
それは、ただ文章を残すこととは少し違うように感じられた。
エレノアは紙の末尾に残された空白を見つめた。
そこへ、今の自分の名前を書くことになる。
エレノア・ベルナール。
まだ正式にロシュフォール家の娘となったわけではない自分の名前だ。
彼女は筆へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……叔父様、今日はまだ、署名をしなくてもよろしいでしょうか」
アルフォンスは静かに頷いた。
「もちろんだよ。署名することにどんな意味があるのか、形式も含めて確認してからでいい。君が納得しないまま名前を書く必要はないんだ」
エレノアはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます。私、自分の名前を書くことが嫌なのではありません。でも、その名前が書かれた紙が、どこへ送られて、どのように扱われるのかを知ってからにしたいのです」
セドリックは彼女の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それなら、今日はここまでにしよう。君が書いた文章は、もう十分に大切な一歩だと思うよ」
エレノアは白紙の末尾を見つめた。
そこには、まだ署名がない。
けれど、空白が残っていることを、今は不安に思わなかった。
その場所へ自分の名前を書くかどうかを、これから確かめて決めることができる。
その事実が、エレノアには何よりも大切だった。
◇ ◇ ◇
話し合いを終えたあと、アルフォンスはエレノアの下書きを、ほかの文書とは別に置いた。
正式な返答と混同されないよう、今日作成した本人の下書きであることを示す簡単な控えを添え、保管方法についてエレノアへ説明した。
「この紙は、今の段階では王宮へ送らない。私の方で預かることもできるし、君が自分で保管しても構わないよ。どうしたいかな」
エレノアは少し考えた。
自分の手で書いたものだから、手元に置いておきたい気持ちはある。
けれど、王宮へ送る正式な返答を整えるときには、叔父が確認する必要もあるだろう。
「叔父様に預かっていただいてもよろしいでしょうか。ただ、私もあとから読み返せるようにしていただきたいのです」
「もちろんだよ。それなら、君が書いた原本は私が保管し、内容を写した控えを君にも渡そうか。写すときには、文字が違っていないか一緒に確かめよう」
エレノアは頷いた。
「はい。それなら安心です」
アルフォンスは新しい紙を用意し、エレノアの下書きを丁寧に書き写した。
写し終えると、二枚の紙を並べて置いた。
エレノアは一行ずつ見比べた。
第二王子の名前。
婚約を望まないという意思。
父親の返書についての説明。
そして、王宮の記録上でも本人の意思を区別して扱ってほしいという希望。
どの文章も、元の下書きと同じ内容になっている。
エレノアは最後まで確かめてから、静かに頷いた。
「間違いはないと思います。ありがとうございます、叔父様」
「こちらこそ、確認してくれてありがとう。控えは君が持っていていいよ。原本は、正式な返答とは区別して保管しておくからね」
エレノアは控えを受け取り、両手で大切に持った。
その紙は、まだ正式な書類ではない。
王宮へ送ることも決まっていない。
それでも、自分が何を伝えたいのかを記した大切なものだった。
リディアはエレノアの傍らで、その様子を静かに見守っていた。
昨日までのエレノアは、王宮からの照会状について話すたび、身体を強張らせていた。
今日も緊張はしていたが、彼女は自分から質問し、文章を書き、署名を急がないことまで選んでいる。
リディアには、その変化が小さなものには思えなかった。
「エレノア様、お部屋へ戻られましたら、控えを入れる封筒をご用意いたしましょうか。ほかの紙と混ざらないようにしておくと、あとから確かめやすいかと存じます」
エレノアは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、リディア。そうしていただけると嬉しいわ。大切なものだから、なくさないようにしておきたいの」
アルフォンスはそのやり取りを聞きながら、机の上の原本へ目を向けた。
短い文章だった。
けれど、そこにはエレノア自身が選んだ言葉がある。
父親の返書が送られたという事実は変えられない。
王宮の判断も、まだ分からない。
それでも、少なくとも今ここには、本人の意思を示す別の記録が生まれている。
アルフォンスはその紙を丁寧に収め、これから確認すべき手続きを整理することにした。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室の机へ向かい、昼間に受け取った控えを封筒へ入れていた。
リディアが用意した封筒には、ほかの書類と混同しないよう、今日作成した下書きの控えであることが分かる短い書き付けが添えられている。
エレノアは封筒を机の上に置き、しばらく見つめた。
その中には、自分が書いた言葉が残っている。
王宮へ送る正式な返答は、まだ完成していない。
本人の署名が必要なのか、どのような形式が適切なのかも、これから確認しなければならない。
けれど、今日の自分が何を考え、何を望んでいたのかは、紙の上にはっきりと残された。
(私は、今日、自分の名前を書くところまでは進めなかった。でも、それでよかったのだと思うわ。何も知らないまま署名するより、何のために書くのかを確かめてからにしたいもの)
エレノアは封筒を机の上の文書入れへ収めた。
そこには、以前から大切にしている覚え書きも入っている。
母の遺品について調べたいこと。
まだ確かめられていない記録。
そして、自分がこれからどうしたいのかを考えるための言葉。
エレノアは、それらを一つずつ整理しながら、今日の出来事を思い返していた。
母の行方不明になった木箱については、まだ分からないことが多い。
衣類に関する束も、最初の二枚を確認したあと、残りは封じられたままだ。開封に立ち会う人々や保存上の注意については相談が進んでいるものの、実際に残りの頁を開く日はまだ決まっていない。
ベルナール家の帳簿に記された「ロラン」という姓についても、誰を指すのかは確かめられていない。
王宮からの照会状が届いたことで、これらの調査が消えてしまったわけではない。
ただ、今は婚約についての返答を整えることが、目の前の大切な課題になっている。
エレノアは机の上の青い花の刺繍へ目を向けた。
花びらの一部には濃い青の糸が加えられているが、まだ完成には遠い。
それでも、少しずつ進めてきたからこそ、今の形になっている。
今日の文書も、同じなのかもしれなかった。
最初から完成した答えを持っていなくても、自分が何を望んでいるのかを確かめながら、少しずつ形にしていけばよい。
エレノアは刺繍枠を手に取り、針を通した。
糸を引くと、布の上に新しい青が加わる。
その色を見つめながら、彼女は静かに微笑んだ。
今日は、これ以上王宮のことを考え続ける必要はない。
自分の言葉を書いたことを大切にしながら、残りの時間は好きなことをして過ごしたかった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、エレノアが自分の言葉で下書きを作ったことが、アルフォンスから家族へ伝えられた。
オーギュストは静かに頷き、エレノアへ目を向けた。
「自分で書いてみたいと思ったのだね」
「はい、お祖父様。叔父様に教えていただきながら、私が何を望んでいるのかを書いてみました。でも、まだ正式な書類ではありませんし、署名もしていないのです」
エレノアは少しだけ緊張しながら答えた。
オーギュストは穏やかに微笑んだ。
「それでよいと思うよ。大切なのは、君が何を書いたのかを理解し、納得したうえで次の手続きを進めることだからね」
マルグリットも優しく頷いた。
「今日はご自分の言葉を書かれたのですね。昨日は文案を読むだけでも緊張なさっていたのに、よく頑張りましたね」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます、お祖母様。でも、叔父様やお兄様が一緒に考えてくださったから、書くことができたのです」
セドリックはその言葉を聞き、穏やかに首を振った。
「僕たちは少し話をしただけだよ。実際に筆を取って、君の言葉を書いたのはエレノア自身だからね」
エレノアは従兄の顔を見つめた。
自分がしたことを、こうして認めてもらえる。
その経験は、今でも少し不思議だった。
以前の人生では、自分が何を望んでいるのかよりも、周囲が自分に何を望んでいるのかを優先することが多かった。
けれど、今は違う。
家族は彼女の意思を聞き、その意思を正しく伝えるために力を貸してくれている。
エレノアは胸の奥に広がる温かさを感じながら、ゆっくりと頷いた。
「……はい。今日書いたことを、私も大切にしたいと思います」
オーギュストはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
食卓には、しばらく穏やかな空気が流れた。
やがて話題は庭園の石畳へ移り、エレノアは午前中に見た雨上がりの景色について話した。
ギュスターヴが古い石の継ぎ目を確認していることを伝えると、オーギュストは管理を任せている者たちへ状況を確かめるようにすると答えた。
エレノアは、曲がり角の先をまだ描いていないことも話した。
「石畳が直ったら、また見に行きたいと思っています。今日は途中までしか歩けませんでしたけれど、雨上がりの景色だけでも、たくさん描きたいところが見つかったのです」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「完成したら、ぜひ見せてくださいね。あなたがどんな景色を選んだのか、楽しみにしています」
「はい、お祖母様。まだ少し時間がかかると思いますけれど、できあがったらお見せしたいです」
エレノアはそう答え、柔らかく微笑んだ。
王宮からの照会状は、まだ解決していない。
それでも、今日の食卓には、婚約のことだけではない会話がある。
そのことが、エレノアには何よりもありがたかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上の日記帳を開いた。
窓の外では風が弱まり、庭園の木々が静かに揺れている。雨上がりの空には薄い雲が残っていたが、その向こうにはいくつかの星が見えていた。
エレノアは筆を手に取り、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、王宮への返答について、叔父様が直してくださった文案を読ませていただきました。昨日、私が気になった言葉は修正され、父様の返書と私自身の意思が、別のものとして分かるように書かれていました。』
そこまで書き、少しだけ手を止めた。
そして、続きを記した。
『そのあと、私自身の言葉でも、婚約を望んでいないことを書いてみました。まだ正式な書類ではありませんし、署名もしていません。でも、自分の手で書いた文章を読んだとき、私が何を伝えたいのか、少しはっきりした気がしました。』
エレノアは筆を置き、日記帳を見つめた。
署名をしなかったことについて、後悔はなかった。
むしろ、何のために署名するのかを確かめてから決めたいと伝えられたことを、大切に思っている。
以前の人生では、自分の名前が書かれた文書について、十分に説明を受けられないまま物事が進むこともあった。
今度は、そうしたくない。
エレノアはもう一度筆を取り、最後の一文を書き加えた。
『私は、私の名前が何を意味するのかを、自分で確かめてから、その名前を書きたいと思います。』
書き終えると、エレノアは日記帳を閉じた。
机の上には、今日受け取った下書きの控えが入った封筒がある。
その中には、まだ署名のない文章が収められていた。
エレノアは封筒へそっと手を添えた。
王宮がどのように判断するのかは、まだ分からない。
父ロベルトの返書が、これからどのように扱われるのかも、確定していない。
ロシュフォール家への養子縁組の手続きも、正式な完了を待っている。
けれど、今の自分が何を望んでいるのかだけは、少しずつ明確になってきた。
(私は、第二王子殿下との婚約を望まない。その気持ちを、誰かに決めてもらうのではなく、自分の言葉として残していきたい)
エレノアは封筒から手を離し、窓辺の野薔薇の刺繍へ目を向けた。
母の古い木枠に収められた桃色の花は、夜の灯りの中で静かに咲いている。
その隣には、まだ完成していない青い花の刺繍が置かれていた。
過去から残されたものと、自分が新しく作っているもの。
そして、今日、自分の言葉で書いた一枚の紙。
どれも、今のエレノアにとって大切なものだった。
やがてリディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日はお庭にも出られましたし、午後には大切なお話もございましたから、お疲れになったことと思います」
エレノアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、そうね。今日は、昨日とは違う疲れ方をした気がするわ。緊張もしたけれど、自分で書きたいことを書けたから、少し嬉しいの」
「それは何よりでございます。お嬢様がご自分の言葉を大切になさっていること、私も嬉しく思います」
リディアはそう答え、寝台の掛け布を整えた。
エレノアは日記帳を机へ置き、灯りを落としてもらってから寝台へ入った。
窓の外では、風に揺れる枝の影が、淡い月明かりの中でゆっくりと動いている。
目を閉じると、午後に書いた文章が、静かに頭の中へ浮かんだ。
第二王子との婚約を望まないこと。
父の返書が、自分の同意を示すものではないこと。
そして、自分の意思を、記録の上でも正しく扱ってほしいという願い。
それらは、まだ王宮へ届いていない。
けれど、今夜はもう、誰かの言葉を借りなければ自分の気持ちを伝えられないとは思わなかった。
エレノアは掛け布を胸元へ引き寄せ、ゆっくりと息を吐いた。
明日になれば、また確かめなければならないことがあるだろう。
正式な返答の形式も、自分の署名の扱いも、これから考えていかなければならない。
それでも、今日の自分は、昨日よりも少しだけ前へ進めたように思えた。
机の上には、署名を待つ一枚の紙がある。
その空白へいつ自分の名前を書くのかは、まだ決めていない。
けれど、エレノアは初めて、その空白を怖いものだとは思わなかった。
誰かが勝手に埋めてしまうのではなく、自分が納得したときに、自分の手で書くことができる。
その未来を思い描きながら、エレノアは静かに眠りへ落ちていった。




