第81話 私の名前で綴る拒絶と、王宮へ届ける言葉
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の向こうでは細かな雨が降っていた。昨夜は雲の切れ間から月が見えていたというのに、夜明け前から空模様が変わったらしく、庭園の石畳には薄い水の膜が広がっている。
雨粒が窓硝子を伝うたび、向こう側の木々の輪郭がわずかに揺らいだ。窓辺に飾られた桃色の野薔薇の刺繍も、今朝は淡い灰色の光に包まれており、昨日とは違う落ち着いた表情を見せている。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、しばらく雨音に耳を傾けていた。昨日、王宮から婚約に関する照会状が届いたと知らされてから、胸の奥には小さな重みが残り続けている。
(今日になれば、少しは気持ちが落ち着くと思っていたのだけれど……やっぱり、そう簡単にはいかないわね)
眠れなかったわけではない。夜中に何度も目を覚ますこともなく、朝まで身体を休めることはできた。それでも、目覚めて最初に思い浮かんだのは、描きかけの庭園の絵ではなく、第二王子レオナード・ヴァレンティアの名前だった。
父ロベルトが、エレノアの意思を確かめずに送った婚約受諾の返書。それに対して、自分が婚約を望まないと伝えた事実を、王宮が改めて確認しようとしている。
正式な婚約が成立したという通知ではないことは、昨日アルフォンスから聞いている。だからといって、これから先も必ず自分の意思が尊重されると決まったわけではなかった。
エレノアは掛け布の上に置いた手を見つめた。
以前の人生で処刑を言い渡されたとき、自分は何度も無実を訴えた。しかし、口にした言葉は誰にも届かず、身に覚えのない罪だけが、揺るぎない事実であるかのように扱われてしまった。
あのときの恐怖は、今でも身体の深いところに残っている。
(今度は、同じことを繰り返したくない。けれど、王宮へお返事をするということは、あの方のお名前を、もう一度自分の手で書かなければならないのね)
それを考えるだけで、指先が冷たくなった。
エレノアは寝台から降りる前に、窓辺の刺繍へ目を向けた。母アデラインが使っていた古い木枠には、自分で刺した桃色の野薔薇が収まっている。
母が残した品のすべてが見つかったわけではない。行方の分からない木箱も、青い花の刺繍も、今なお手元には戻っていなかった。それでも、この額だけは今ここにあり、エレノアが新しく作ったものを静かに守ってくれている。
彼女はその光景を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
自分の部屋で目覚め、好きなものを眺め、今日の予定を考えることができる。その日常を守るためにも、避けて通れない話があるのだと、エレノアは理解していた。
やがて扉を叩く音が響き、リディアの声が聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。今朝は雨が降っておりますので、少し厚手のお召し物をご用意いたしました。お身体の具合はいかがでしょうか」
「おはよう、リディア。身体は大丈夫よ。ただ、昨日のことが少し気になってしまって……」
扉を開けて入ってきたリディアは、エレノアの表情を確かめると、衣装を寝台の傍らへ丁寧に置いた。
「王宮からのお知らせのことでございますね。昨日は大切なお話がございましたから、すぐにお気持ちが落ち着かなくても不思議ではございません」
「ええ。でも、今日は叔父様が返答の文案を考えてくださるかもしれないでしょう。私も確認させていただくとお約束したから、きちんと読めるようにしておきたいの」
エレノアがそう答えると、リディアは一瞬だけ目を細めた。主人が不安を抱えていることは、昨日から傍で見ていれば十分に分かる。それでも、彼女はその不安を理由に、すべてを他人へ委ねようとはしていなかった。
「アルフォンス様からお声がかかりましたら、すぐにお伝えいたします。ただ、まだ文案ができているとは限りませんので、朝から気を張り詰めすぎないようになさってくださいませ」
「そうね。まずは朝食をいただかなくてはいけないわ」
エレノアは小さく微笑み、用意された衣装へ手を伸ばした。
雨の日の朝は、晴れた日よりも屋敷の音が少なく感じられる。遠くで使用人たちが廊下を歩く足音や、暖炉の薪が弾けるかすかな音が、静かな室内によく響いていた。
着替えを終えたあと、エレノアは机の上に置いていた描きかけの庭園の絵を見つめた。昨日は王宮の照会状について考えているうちに、ほとんど筆を進められなかったものだ。
「今日は雨だから、お庭へ出るのは難しそうね。でも、絵の続きを描くにはちょうどよいかもしれないわ」
「そうでございますね。窓辺で描かれるのでしたら、お手元が暗くならないよう、灯りも整えておきます」
リディアの返事を聞きながら、エレノアは絵の端をそっと押さえた。
自分の未来を左右する問題があっても、昨日見つけた景色を大切に思う気持ちは消えていない。そのことに気づくと、少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、マルグリットが雨に濡れた庭園の話をしていた。
秋が深まるにつれ、朝晩の冷え込みが強くなっている。昨夜のうちに庭園の道具や傷みやすい鉢を移動させておいたため、今朝の雨による大きな問題はなさそうだと、使用人から報告があったらしい。
「昨日のうちにギュスターヴが準備をしてくれていたそうですよ。花壇の縁に水が溜まりやすいところも、今朝確認してくれているそうです」
マルグリットの言葉に、エレノアは顔を上げた。
「昨日描いていた曲がり角の近くも、雨が降ると水が溜まるのでしょうか。あの辺りは石畳が少し古く見えましたから、気になってしまって」
「場所によるだろうね。気になるなら、雨がやんでからギュスターヴに尋ねてみるといい。庭園のことなら、私たちよりもずっと詳しいからね」
オーギュストが穏やかに答えると、エレノアは頷いた。
セドリックは温かい飲み物を口に運びながら、彼女の様子をさりげなく見守っていた。昨日、王宮からの照会状について話したときよりも顔色はよくなっているが、普段よりも言葉を選ぶ間が長い。
その理由を尋ねることはしなかった。朝食の席でまで婚約の話を持ち出せば、エレノアが休まる時間を失ってしまう。
アルフォンスも同じことを考えていたのか、食事の間は仕事の話を避けていた。
しかし、朝食が終わり、使用人が食器を下げ始めたところで、彼はエレノアへ静かに声をかけた。
「エレノア、昨日話した王宮への返答についてだけれど、今日の午後に一度、文案の内容を相談できそうなんだ。君の都合はどうかな」
エレノアは膝の上で重ねていた手を、わずかに握り直した。
心の準備をしていたつもりでも、実際にその話が始まると胸が緊張する。それでも、昨日交わした約束を思い出し、アルフォンスの顔を見て答えた。
「はい、叔父様。私もお話を伺いたいです。ただ……文書を読むのに時間がかかってしまうかもしれません。それでもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。今日は返答を完成させるためではなく、内容を確かめるための時間だからね。君が考えたいところがあれば、その場で決めなくても構わない」
アルフォンスはそう言ってから、少し間を置いた。
「それから、同席してほしい人がいれば、君が選んでいい。私と二人で話してもいいし、リディアやセドリックにいてもらってもいい。父上や母上にも声をかけられるよ」
エレノアはすぐには答えなかった。
これまでの自分なら、大人が決めた席に座り、そこで求められたことだけを話していただろう。しかし、今回は誰と一緒に話すかということまで、自分に委ねられている。
その事実が嬉しい一方で、少し戸惑いもあった。
「……叔父様と、リディアにいていただきたいです。それから、もしお兄様のご都合がよろしければ、お兄様にも」
セドリックはすぐに返事をするのではなく、父の方へ一度目を向けた。午後の予定を確かめるように短く考えてから、エレノアへ微笑みかける。
「大丈夫だよ。午後なら時間を取れるから、僕も同席させてもらおうかな。もちろん、君が途中で人数を減らしたくなったら、遠慮なく言ってほしい」
「ありがとうございます、お兄様。そうしていただけると、心強いです」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
マルグリットは二人のやり取りを静かに見守っていたが、やがて穏やかな声で口を開いた。
「エレノア、午後までに無理をして準備をする必要はありませんよ。あなたは昨日、もう十分にご自分の気持ちを伝えています。今日はその気持ちが、書類の上でも正しく表されているかを確かめればよいのです」
エレノアは祖母の言葉を胸の中で繰り返した。
新しい理由を考え出さなくてもよい。自分の意思を、誰かに納得してもらうためだけに飾り立てる必要もない。
そのことを確かめるように、彼女はゆっくりと頷いた。
◇ ◇ ◇
午前の執務室では、アルフォンスが王宮からの照会状を机の中央に置き、関連する書類を左右に分けていた。
窓の外では雨が続いている。硝子を打つ細かな音の合間に、廊下を通る使用人の足音が遠くから聞こえていた。
アルフォンスの向かいにはオーギュストが座り、二人の間には、まだ何も書かれていない便箋が置かれている。
「父上、まず確認しておきたいのは、こちらが何を答える必要があるかという点です。照会状には、ベルナール家から送られた受諾の返書と、本人の拒否意思について、記録の扱いを整理したいとあります」
「そうだな。ならば、受諾の返書が送られた事実そのものを否定する必要はない。問題は、それがエレノア本人の同意を示すものではないという点だろう」
オーギュストは机上の文書を見つめながら答えた。
父親が返書を送ったことは事実である。その事実を消そうとすれば、かえって記録の整合性を失い、こちらの主張まで疑われかねない。
しかし、父親の返答と本人の意思が同じものとして扱われることは、絶対に避けなければならなかった。
「ええ。こちらから伝えるべきなのは、エレノアが受諾を希望していないという現在の意思です。あわせて、彼女が自分の知らないところで話を進められたことに不安を感じている点も、必要な範囲で示したいと思っています」
アルフォンスは一枚の紙へ、返答に必要と思われる事項を書き出した。
ただし、王宮の判断を先回りして、婚約が無効になったと断定するような表現は避ける必要がある。正式な成立通知が届いていないことと、王宮が今後どう扱うかが決まっていないことは、分けて考えなければならないからだ。
オーギュストは息子の書いた文章を読み、ある箇所で指を止めた。
「ここにある『本人の意思を確認しないまま進められた縁談』という表現は、そのまま使えるかもしれない。ただし、誰がどの時点で何を確認したのかについて、こちらが把握していない部分まで断定しないようにしなさい」
「はい。エレノア本人が受諾の意思を示していないことと、ベルナール家の内部でどのような説明が行われたかは、分けて記すつもりです」
アルフォンスは文案を書き進めながら、昨夜のエレノアの表情を思い出していた。
第二王子の名前を聞いた瞬間、彼女は目に見えて青ざめた。単に知らない相手との婚約を嫌がっているだけでは説明しきれないほどの恐怖が、あの小さな身体を強張らせていた。
その理由を、アルフォンスは知らない。
けれど、理由をすべて知ることができなければ守れないというわけでもないはずだった。
「父上、文案を見せるときには、難しい表現をそのまま押しつけないようにしたいと思います。エレノア自身が、自分の意思と違うところを指摘できる形にしたいのです」
オーギュストは頷き、机の端に置かれた封書へ視線を戻した。
「それがよい。あの子が自分で選ぶと言った以上、私たちがその言葉を奪ってはならない。ただ、十五歳の娘が王宮からの照会に向き合う負担を、すべて本人へ背負わせることも違う」
「ええ。手続きの責任はこちらが負います。エレノアには、自分の意思が正しく伝わるかを確認してもらいたいと思っています」
その方針が決まると、アルフォンスは最初の文案を書き始めた。
便箋に文字を重ねながらも、何度か筆を止めた。礼を失わない表現と、曖昧にしてはならない意思表示との間には、思った以上に慎重な調整が必要だった。
王家に対して敬意を示すことと、エレノアの拒否を弱めることは同じではない。
その境界を誤らないように、アルフォンスは一つずつ言葉を選んでいった。
◇ ◇ ◇
一方、エレノアは自室の机へ向かい、庭園の絵を描き進めていた。
雨のせいで室内は少し暗く、リディアが用意してくれた灯りが紙の上を柔らかく照らしている。昨日まで曖昧だった枝の重なりへ細い線を加えると、曲がり角の奥行きが少しずつ見えてきた。
しかし、鉛筆を持つ手が止まることも多かった。
午後になれば、王宮へ送る文案を読むことになる。
そのことが頭をよぎるたび、紙の上の枝がどこまで伸びていたのか分からなくなり、同じ場所を何度も見直してしまう。
エレノアはやがて鉛筆を置き、椅子の背へ身体を預けた。
「リディア、少しだけ相談してもよいかしら」
傍らで布を畳んでいたリディアが顔を上げる。
「もちろんでございます。何か気になることがおありですか」
「午後のお話のことなの。叔父様は、私の気持ちを文書にしてくださるとおっしゃったでしょう。でも、もしその文章を読んで、私が何か違うと思ったら……本当に、そのままお伝えしてよいのかしら」
リディアは手元の布を丁寧に置いた。
エレノアの声には、文案そのものへの不安だけでなく、相手が時間をかけて作ったものへ意見を述べることへのためらいが混じっていた。
「アルフォンス様は、そのためにお嬢様へ確認していただくとおっしゃったのだと思います。もし気になるところがございましたら、どの言葉が気になったのかをお伝えしてよろしいのではないでしょうか」
「でも、私がうまく説明できなかったら、叔父様を困らせてしまうかもしれないわ」
「すぐに説明できなくても構わないと思います。違うと感じられたところを一度止めて、何が気になるのかを一緒に考えていただくこともできるはずです」
リディアはそこで少し微笑んだ。
「お嬢様は、刺繍の色を選ぶときにも、最初からすべてを決められるわけではございませんでしょう。布へ当ててみて、少し違うと感じたら、別の糸を探されます。それと同じように、言葉も確かめながら選んでよろしいのではありませんか」
エレノアは思わず机の端へ視線を向けた。
そこには、まだ完成していない青い花の刺繍が、布を傷めないように整えて置かれている。以前、花びらの色を決めるときには、何種類かの糸を並べ、光の当たり方による違いを何度も確かめた。
誰かに決められた色をそのまま使うのではなく、自分がよいと思うものを選んだ。
それと同じことを、もっと大切な場面でもしてよいのだろうか。
「……そうね。文章も、一度読んだだけで決めなくてよいのね」
「はい。お嬢様のお気持ちを正しく伝えるためのものですから、納得できるまで確かめることは大切だと思います」
エレノアは静かに頷き、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
午後の話し合いで、忘れずに確認しておきたいことを書いておこうと思ったのだ。
最初に記したのは、婚約を望まないという意思が曖昧になっていないかということだった。次に、父の返書が自分の同意と同じ意味に扱われていないか、そして王宮へ送る前にもう一度確認できるかということを書き添えた。
そこまで書いたところで、筆が止まった。
エレノアはしばらく紙を見つめてから、最後にもう一つの問いを書き加えた。
『私の言葉が、どこまで私自身の言葉として残るのか』
その一文を書いたとき、胸の奥がわずかに痛んだ。
以前の人生では、自分が何を言っても、周囲の人々はすでに決められた結論へ向かっていた。言葉を口にすることはできても、その言葉が判断に関わる余地はなかった。
今度は、そうなってほしくない。
エレノアは紙を折らずに机の上へ置き、しばらくその文字を見つめていた。
◇ ◇ ◇
昼食を終える頃には、雨脚が少し弱まっていた。
窓の外では、屋根の端から落ちる雫が一定の間隔で石畳を叩いている。庭園へ出られるほど天候が回復したわけではないが、朝よりも空が明るくなり、雲の向こうに日差しの気配が感じられた。
エレノアは昼食後、自室へ戻る前にマルグリットから声をかけられた。
「午後のお話まで、まだ少し時間がありますね。よろしければ、私の部屋でお茶をいただきませんか」
エレノアは祖母の表情を見つめた。
マルグリットは、婚約について詳しく尋ねようとはしていない。ただ、エレノアが一人で午後のことを考え続けなくても済むよう、別の時間を用意してくれたのだろう。
「はい、お祖母様。ご一緒させてください」
二人はリディアを伴い、マルグリットの部屋へ向かった。
部屋には、季節に合わせた落ち着いた色の布が使われており、窓辺には小さな花器が置かれている。雨の日の湿った空気を和らげるように、温かな茶の香りが広がっていた。
マルグリットはエレノアを窓に近い椅子へ案内し、自分も向かいへ腰を下ろした。
「昨日、庭園の絵を描いていると聞きました。少しずつ進んでいますか」
「はい。まだ完成していませんけれど、枝の形を直したり、石畳の奥行きを描き足したりしています。雨の日の景色も綺麗なので、今度は雨が降っているお庭を描いてみたくなりました」
エレノアがそう話すと、マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「それはよいですね。晴れた日の庭園とは、また違う景色が見つかるでしょう。あなたのお母様も、季節や天気によって同じ場所の印象が変わることを、よく楽しんでいましたよ」
エレノアは茶器を持つ手を止めた。
「お母様も、ですか」
「ええ。アデラインは、同じ花でも朝と夕方では色が違って見えると話していました。私は最初、そこまで変わるものかしらと思ったのですけれど、一緒に見ているうちに、確かに違うのだと気づかされました」
マルグリットは懐かしそうに窓の外へ目を向けた。
母について語るとき、祖母の表情にはいつも柔らかな温かさと、失った娘を思う寂しさが同時に浮かぶ。エレノアはその表情を見るたび、母が自分だけでなく、多くの人に大切にされていたことを感じた。
「私も、いつかお母様が見ていた景色を、もっと知りたいです。でも、同じものを見つけるだけではなく、私が綺麗だと思ったものも描いてみたいと思っています」
「それでよいのですよ。アデラインの思い出を大切にすることと、あなた自身の好きなものを見つけることは、少しも矛盾しません」
マルグリットは茶器を置き、エレノアへ穏やかな視線を向けた。
「人は、大切な誰かの思い出を守ろうとすると、時にその人と同じものを選ばなければならないと思ってしまうことがあります。でも、あなたはあなたなのですから、違う色を選んでも、違う景色を好きになってもよいのですよ」
エレノアはその言葉を聞きながら、胸の奥に広がる温かさを感じていた。
母の刺繍を探していることも、母の庭園画を大切にしたいと思うことも、母と同じ人生を歩むためではない。自分の知らなかった母の姿を知り、そのうえで自分の人生を生きていきたいからだ。
そして、それは婚約についても同じなのかもしれない。
誰かが望んだ未来を、自分も望まなければならないわけではない。
エレノアは茶器を両手で包み、しばらく祖母の言葉を噛みしめていた。
「お祖母様、私……午後のお話で、きちんと自分の気持ちを伝えられるか、少し不安なのです」
マルグリットはすぐに励ます言葉を返さず、エレノアが続きを話すのを待った。
「昨日は叔父様にお伝えできました。でも、文書になると、言葉が難しくなってしまうでしょう。私が何かを言い間違えて、望んでいない意味になってしまったらと思うと、怖くて……」
マルグリットはゆっくりと頷いた。
「そうですね。書かれた言葉は、話したときの表情や声を一緒に届けることができませんから、慎重に選ぶ必要があります。でも、だからこそ、あなた一人で完成させる必要はないのですよ」
祖母はエレノアの手元にある茶器へ目を向け、静かに続けた。
「アルフォンスは、書類の扱いに慣れています。セドリックもあなたの話を聞くでしょうし、リディアも傍にいてくれます。あなたが自分の意思を伝え、周囲の人がそれを正しく文書にするために力を貸す。それでよいのです」
エレノアは少し考えてから、顔を上げた。
「……私が全部できなくても、よいのですね」
「もちろんです。自分で選ぶということは、誰の助けも借りずにすべてを背負うことではありませんから」
マルグリットの声は穏やかだった。
エレノアはその言葉を胸に収めるように、ゆっくりと頷いた。
午後の話し合いが怖くなくなったわけではない。それでも、怖さを抱えたままでも席に着いてよいのだと、少しだけ思えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
午後、アルフォンスが指定した小さな応接室には、すでに必要な書類が整えられていた。
窓辺の卓には温かいお茶が用意され、中央の机には数枚の便箋が重ねられている。雨はほとんどやんでいたが、庭園の石畳はまだ濡れており、窓の向こうには灰色の雲が低く広がっていた。
エレノアがリディアとともに入室すると、アルフォンスが立ち上がって迎えた。
「来てくれてありがとう、エレノア。体調はどうかな。もし今日は難しそうなら、別の日にしても構わないよ」
エレノアは椅子の傍らで足を止め、机の上の書類へ目を向けた。
そこには、これから自分の未来に関わる言葉が書かれている。
そう思うと胸が緊張したが、彼女は一度呼吸を整えてから、叔父へ答えた。
「ありがとうございます、叔父様。少し緊張していますけれど、今日はお話を伺いたいです。朝から、確認したいことも考えてまいりました」
エレノアが手に持っていた紙を見せると、アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「それは心強いね。君の質問を聞きながら進めよう」
ほどなくセドリックも入室し、エレノアの隣から少し離れた席へ腰を下ろした。リディアはエレノアの後方に控えたが、必要ならすぐ声をかけられる距離にいる。
アルフォンスは全員が落ち着いたことを確かめ、机の上の文案を一枚手に取った。
「まず、今日用意したのは最初の案だということを伝えておくよ。まだ正式な返答ではないし、王宮へ送ることも決まっていない。君に内容を確認してもらい、必要なところを直すためのものなんだ」
エレノアは頷いた。
その説明を聞くだけで、机の上の紙が少し違って見えた。
すでに決定された命令ではなく、これから自分も確かめてよい文章なのだ。
アルフォンスは文案をエレノアの前へ置き、彼女が読みやすいように向きを整えた。
冒頭には、王宮からの照会を受け取ったことへの礼と、対象となっている縁談について、ロシュフォール家が把握している事実を説明する旨が記されていた。
エレノアは一行ずつ読み進めた。
文字そのものは難しくない。けれど、普段の会話では使わない表現が多く、意味を確かめながら読まなければならなかった。
そして、第二王子レオナード・ヴァレンティアの名前が記された箇所で、指が止まった。
紙の上の文字は、以前の人生で何度も目にした名前と同じだった。
処刑を言い渡した人物の名前が、今度は婚約に関する正式な文書の中にある。
エレノアの喉がわずかに強張った。
(私は、まだこの名前を見るだけで、あの日を思い出してしまうのね。でも、ここに書かれているのは、これからのことを確かめるための文章だわ)
エレノアは指先を紙から離し、膝の上で一度手を握った。
セドリックは彼女の変化に気づいたが、すぐには声をかけなかった。視線を文書へ戻すまで待ち、それでも読み進められないようなら休憩を提案しようと考えていた。
しばらくして、エレノアは小さく息を吐いた。
「叔父様、ここまでは読めました。続きを読ませていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。急がなくていいからね」
アルフォンスは文書へ視線を落とし、彼女が読み終えるのを待った。
続く部分には、ベルナール家から婚約受諾の返書が送られた事実と、エレノア本人がその婚約を望んでいないことが記されていた。
エレノアは何度か同じ箇所を読み直した。
そして、ある一文で再び手を止めた。
「……叔父様、ここを少しお尋ねしてもよろしいですか」
「どこかな」
エレノアは文案の中央にある一節を指した。
そこには、本人が現時点で婚約の受諾を希望していない旨が記されていた。
「この『現時点で』という言葉は、どういう意味なのでしょうか。今は望んでいなくても、あとから望むようになるかもしれない、という意味にも読める気がして……」
アルフォンスはその箇所へ目を向けた。
朝の段階では、現在の意思を示すために選んだ表現だった。けれど、エレノアが指摘したとおり、読む側によっては、将来の変更を前提としているような印象を与える可能性もある。
「そうだね。ここは、君が今どのように考えているかを示すつもりで書いたんだ。ただ、将来の判断を期待しているように読まれるのは、君の望むところではないんだね」
エレノアは頷いた。
「はい。私は、いつか気持ちが変わるかもしれないから待っていただきたいのではありません。第二王子殿下との婚約そのものを、望んでいないのです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が強く脈打った。
しかし、今度は目を伏せなかった。
アルフォンスは彼女の表情を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「分かった。では、その意思が曖昧にならない表現へ直そう。君が将来どう考えるかについて、こちらが勝手に可能性を示す必要はないからね」
アルフォンスは文案の余白へ修正の印をつけた。
その動作を見たエレノアは、思わず紙へ目を落とした。
自分が違うと感じた言葉が、実際に修正される。
それは大きな出来事ではないように見えるかもしれない。けれど、エレノアにとっては、驚くほど大切な経験だった。
以前の人生では、誰かが決めた文章の中に自分の名前があっても、その内容へ異議を唱えることはできなかった。
今は、紙の上に残る言葉を、自分の意思に近づけることができる。
エレノアは胸の奥に生まれた小さな感覚を確かめながら、次の行へ視線を移した。
◇ ◇ ◇
文案の後半には、父ロベルトが送った返書についての説明があった。
エレノアはその部分を読んでいるうちに、また別の違和感を覚えた。
「叔父様、こちらには、ベルナール家から受諾の返書が送られたと書かれていますね。それは事実なのですけれど……私がそのことを知ったのは、返書が送られたあとでした」
アルフォンスは彼女の言葉を聞き、文書へ目を向けた。
「そうだったね。君自身が受諾を希望したわけではないという点は、別の箇所に記しているけれど、返書が送られた時点で君がどういう立場にいたのかは、もう少し明確にした方がよいかもしれない」
エレノアはゆっくりと頷いた。
父が返書を送った事実を否定したいわけではない。自分の知らないところで物事が進んだことを、なかったことにされたくないのだ。
「父様がお返事をされたことと、私が婚約を受け入れたことは、同じではありません。その違いが、王宮の方にも伝わるようにしていただきたいのです」
アルフォンスは余白へ新たな書き込みを加えた。
「その点は、今回の返答で最も大切な部分の一つだね。ただ、ベルナール家の内部でどのような説明が行われたかについて、こちらが確認できていない事柄まで断定することは避けよう。君自身が知らされていなかったこと、受諾の意思を示していないことは、はっきりと記せる」
セドリックも文案を見つめながら、静かに口を開いた。
「父上、本人の意思と家の返答を分けるのであれば、文章の順番も考えた方がよいかもしれません。最初にベルナール家の受諾だけが目に入ると、そのあとに書かれた拒否が、単なる気持ちの変化のように受け取られる可能性があります」
アルフォンスは息子へ目を向けた。
「なるほど。最初から本人の同意がなかったことを示す構成にした方が、誤解を避けやすいということだね」
「はい。少なくとも、エレノアが一度承諾してから撤回したかのような印象は、与えない方がよいと思います」
エレノアは二人の会話を聞きながら、胸の奥が少しずつ温かくなるのを感じていた。
セドリックは、自分の代わりに答えを決めようとしているのではない。自分が伝えた意思を、相手が誤って受け取らないように考えてくれている。
その違いが、今のエレノアには分かるようになっていた。
「お兄様、ありがとうございます。私も、そのように書いていただけると安心します」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「君がそう思うなら、よかった。あとは父上に、どんな順番なら正確に伝わるか考えてもらおう」
アルフォンスは苦笑するように口元を緩めた。
「責任重大だね。でも、こうして気になるところを教えてもらえる方が、ずっとよい文書にできるよ」
その言葉に、エレノアも小さく笑った。
緊張が消えたわけではない。けれど、部屋の空気は、最初に文案を手にしたときよりも少し柔らかくなっていた。
エレノアは机の上に置いた自分の質問用紙へ目を向けた。
確認したいことは、まだ残っている。
「叔父様、もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
「このお返事は、叔父様のお名前で送られるのでしょうか。それとも、私の名前も書かれるのでしょうか」
アルフォンスは少し考え、文案の末尾へ視線を移した。
「正式な返答の差出人や形式については、まだ確認が必要なんだ。今の段階では、ロシュフォール家として照会に応じる形を考えているけれど、君自身の意思を示す方法については、別に検討する余地があると思う」
エレノアはその説明を聞き、しばらく黙っていた。
自分の名前。
それは、今もエレノア・ベルナールのままだ。
ロシュフォール家への養子縁組の手続きは進んでいるものの、正式にはまだ完了していない。
だから、文書の上で自分がロシュフォール家の娘として扱われるわけではないことも、理解している。
「……私は、まだベルナール家の名前を名乗っています。それでも、私自身の意思を示すことはできるのでしょうか」
アルフォンスは静かに頷いた。
「君の意思が大切であることは、家の名前が変わっていないからといって失われるものではないよ。ただ、どの形式で記録へ残すのが適切かは、慎重に確かめる必要がある。君に署名してもらうことが必要なのか、それとも別の方法がよいのか、今ここで決めつけることはできないんだ」
エレノアは少し考えたあと、口を開いた。
「私……自分の名前が書かれた文書を、誰かが私の知らないところで送ることが、少し怖いのです」
その言葉を聞いたセドリックが、静かに彼女へ視線を向けた。
エレノアは膝の上で手を握り、ゆっくりと続けた。
「父様の返書も、私の知らないところで送られてしまいました。今度は叔父様が私のために書いてくださるのだと分かっていますし、信頼しています。でも……私自身のことなのに、最後に何が書かれているのか分からないままになるのは、嫌なのです」
言い終えたあと、エレノアは少しだけ俯いた。
叔父の厚意を疑っているように聞こえたのではないかと、不安になったからだ。
しかし、アルフォンスは表情を曇らせなかった。
「それは当然の希望だと思うよ。昨日も約束したけれど、正式な返答を送る前には、完成した文章を必ず君に確認してもらうつもりだ。今日の案から修正したあとも、君が読まないまま送ることはしない」
エレノアは顔を上げた。
「……本当ですか」
「もちろんだよ。君が今、何を怖いと感じているのかも分かった。だから、その不安を減らせるように手順を考えよう」
アルフォンスは文案を机へ置き、落ち着いた声で続けた。
「ただし、最終的な形式については、王宮の照会に適切に応じるための確認が必要だ。そこは私たち大人が責任を持って調べる。君には、自分の意思が正しく書かれているかを確かめてもらいたい」
エレノアは胸の奥に広がる安堵を感じながら、ゆっくりと頷いた。
自分で決めることと、すべてを一人で処理することは違う。
昼間、祖母が教えてくれた言葉が、今になってはっきりと意味を持った。
◇ ◇ ◇
話し合いが始まってから、かなりの時間が過ぎていた。
窓の外では雨がやみ、雲の切れ間から差し込む光が、濡れた石畳を淡く照らしている。室内のお茶は一度新しいものへ替えられ、机の上の文案には、いくつもの修正の印が加えられていた。
アルフォンスは一度筆を置き、エレノアの顔色を確かめた。
「今日はここまでにしようか。君が気になるところは十分に聞けたし、これ以上続けると疲れてしまうだろう」
エレノアは文案を見つめた。
最初に読んだときには、難しい言葉が並んだ、遠い場所のための書類のように感じられた。
けれど今は、その余白に自分の疑問が書き込まれ、言葉の順番や意味が見直されようとしている。
それを眺めていると、まだ怖さは残っているものの、少しだけ違う感情も生まれていた。
「はい、叔父様。今日は、ここまでにしたいと思います。でも……最後に一つだけ、お伝えしてもよろしいでしょうか」
アルフォンスは頷き、静かに続きを促した。
エレノアは少し迷ってから、机の上に置いた質問用紙へ視線を落とした。
「私は、王宮の方に、第二王子殿下がどのようなお方なのかを判断していただきたいわけではありません。あの方を悪く申し上げたいのでもなくて……ただ、私自身が婚約を望んでいないことを、きちんと受け止めていただきたいのです」
その言葉は、エレノアにとって簡単なものではなかった。
以前の人生で何が起きたのかを知っている彼女には、第二王子を恐れる理由がある。けれど、今の時間の中で、その過去を証拠として示すことはできない。
そして、知らない事実を作り上げてまで婚約を拒みたいわけでもなかった。
「私は、まだ第二王子殿下にお会いしていません。今の私が知っていることだけで、何かを決めつけることはできないと思います。でも、だからといって、婚約を受け入れなければならないわけではありませんよね」
エレノアは顔を上げ、叔父の目を見つめた。
アルフォンスは彼女の言葉を最後まで聞き、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。相手について悪い事実を証明しなければ、自分の意思を示せないというものではない。君が望んでいないということを、まず正確に伝えるべきだと私も思うよ」
セドリックも静かに頷いた。
「相手の評価と、君自身がどうしたいかは、分けて考えられることだと思う。そこを混同しないようにするのは、大切なことだね」
エレノアは二人の返事を聞き、ゆっくりと息を吐いた。
第二王子が以前の人生で自分を処刑したという記憶は、決して消えない。
けれど、その秘密を話せない今でも、自分の意思を守るためにできることはある。
それを、今日の話し合いで少しだけ確かめられた気がした。
「ありがとうございます。私、今日お話しできてよかったです」
アルフォンスは修正の入った文案を丁寧に重ねた。
「こちらこそ、ありがとう。君が気になるところを伝えてくれたおかげで、最初の案に足りなかった部分が分かったよ。これをもとに改めて文章を整えるけれど、正式な返答にする前には、もう一度確認してもらうからね」
「はい。よろしくお願いいたします」
エレノアは椅子から立ち上がり、深く礼をした。
リディアがすぐに傍へ近づき、疲れた様子がないか確かめるように、そっと彼女の表情を覗き込んだ。
エレノアは小さく微笑み、問題ないことを伝えた。
それでも、部屋を出る頃には足取りが少し重くなっていた。長い時間、緊張しながら文章を読み、自分の気持ちを言葉にしたことで、思っていた以上に疲れていたのだ。
セドリックは廊下へ出たところで、エレノアへ声をかけた。
「今日はよく頑張ったね。少し休んだ方がよさそうだけれど、部屋まで一緒に歩こうか」
エレノアは兄と呼ぶ従兄の顔を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。今日は少し疲れてしまいましたけれど……自分の気持ちを、きちんと伝えられたと思います」
「うん。僕もそう思うよ。君が気づいた言葉の違いは、僕には最初、分からなかった。だから、君自身が読んでくれてよかったと思っている」
その言葉に、エレノアは驚いたように瞬きをした。
「お兄様でも、気づかなかったのですか」
「そうだね。文章としては自然に読めたから、最初は深く考えなかった。でも、君にとっては、将来の可能性を勝手に残されるように感じる表現だったんだろう。それは、本人でなければ分からないこともあると思う」
セドリックは歩く速さをエレノアに合わせながら、穏やかに続けた。
「だから、今日の話し合いには意味があったんだよ。父上だけでも、僕だけでも、きっと同じ文案にはならなかった」
エレノアは廊下の窓へ目を向けた。
雨上がりの庭園では、枝先から落ちる雫が光を受け、小さく輝いている。
その景色を見つめているうちに、胸の奥へ静かな温かさが広がった。
自分が席にいたことに、意味があった。
それは、これまでの人生でほとんど聞いたことのない言葉だった。
◇ ◇ ◇
エレノアが自室へ戻ったあと、アルフォンスは再び文案を広げた。
セドリックは彼女を部屋まで送り届けてから執務室へ戻り、父の向かいに腰を下ろしている。
机の上には、エレノアが指摘した箇所が分かるように印が残されていた。
「父上、思っていた以上に、言葉の受け取り方は難しいものですね」
セドリックがそう言うと、アルフォンスは小さく頷いた。
「そうだね。私も、最初の案を書いたときには、現在の意思を示すことだけを考えていた。けれど、エレノアにとっては、その表現が将来の承諾を期待されるように感じられたんだ」
アルフォンスは文案の一節へ目を落とした。
書類を扱う側にとって自然な表現が、当事者にとっても同じ意味になるとは限らない。今回の話し合いは、そのことを改めて考えさせるものだった。
「エレノアは、父親が送った返書についても、事実そのものを否定しようとはしなかったね。自分の知らないところで進められたことと、自分が同意したわけではないことを、分けて話していた」
セドリックは頷いた。
「はい。僕は、もっと感情的になってもおかしくないと思っていました。でも、彼女は自分が何を伝えたいのか、必死に考えていたように見えました」
アルフォンスは筆を置き、息子へ視線を向けた。
「怖がっていないわけではないんだろう。むしろ、怖いからこそ、言葉を間違えたくないのかもしれない」
セドリックはその言葉を聞き、しばらく黙っていた。
エレノアが第二王子との婚約を恐れる理由は、今も分からない。
しかし、彼女の恐怖を理解できないからといって、軽く扱ってよいはずがなかった。
「父上、王宮への返答は、急いで送る必要があるのでしょうか」
「照会状には即答を求める記載はない。ただ、放置するわけにもいかないから、適切な時期に返答できるよう準備は進めるつもりだよ。形式について確認すべきこともあるし、エレノアにも完成した文章を読んでもらわなければならない」
アルフォンスは書類を整理しながら続けた。
「今日の段階では、まだ送れない。君も分かっていると思うけれど、修正の必要がある文章を、そのまま正式な返答として扱うわけにはいかないからね」
「はい。エレノアにも、もう一度確認してもらう約束でした」
セドリックは父の手元へ目を向けた。
文案には、いくつもの修正の印が残されている。
それは未完成の証であると同時に、エレノアが自分の意思を示した痕跡でもあった。
セドリックは、その印を消して整った文章にする前に、父がもう一度慎重に読み直すだろうと感じていた。
そして、自分もできる限り、彼女の言葉が曖昧にならないよう見守りたいと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室の長椅子に腰を下ろし、温かい飲み物を手にしていた。
午後の話し合いを終えたあと、しばらく休んでいたため、身体の疲れは少し和らいでいる。窓の外では雲が薄くなり、濡れた庭園に夕暮れの光が差し込んでいた。
机の上には、朝から描いていた庭園の絵が置かれている。
エレノアはその絵を見つめながら、今日の話し合いを思い返していた。
最初の文案にあった『現時点で』という言葉。
父の返書が、自分の同意と同じ意味に受け取られないようにしたいという希望。
そして、自分の知らないところで、完成した返答が送られないようにしてほしいという願い。
どれも、昨日の自分が十分に考えられていたことではなかった。
実際に文書を読んだからこそ、初めて気づいたことだった。
(私は、ただお断りしたいと言えば、それで十分だと思っていたのかもしれない。でも、同じ気持ちでも、どんな言葉で伝えるかによって、受け取られ方が変わってしまうのね)
エレノアは茶器を置き、机の上の紙へ目を向けた。
そこには、午前中に書いた質問が残されている。
最後の一文を読み返すと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
『私の言葉が、どこまで私自身の言葉として残るのか』
今日の話し合いでは、その問いに完全な答えが出たわけではない。
王宮が返答をどのように扱うかは、まだ分からない。自分の意思が、どのような形式で正式な記録に残るのかも、これから確認する必要がある。
それでも、少なくとも今日の文案には、自分が考えたことが反映されようとしている。
その事実を、エレノアは大切にしたかった。
やがてリディアが部屋へ戻り、机の上の絵へ目を向けた。
「エレノア様、今日は絵の続きを描かれますか。それとも、もう少しお休みになりますか」
エレノアは少し考えてから、柔らかく微笑んだ。
「少しだけ描いてみようかしら。今日はずっと文書のことを考えていたから、最後に自分の好きなことをして過ごしたいの」
「それはよろしゅうございますね。灯りをもう少し近づけましょうか」
「ありがとう。でも、窓からの光がまだ残っているから、今は大丈夫よ」
エレノアは机へ向かい、鉛筆を手に取った。
雨に濡れた庭園を眺めているうちに、昨日描いた曲がり角にも、少し違う影を加えてみたくなった。実際に見た晴れた朝の景色とは異なるが、雨上がりの柔らかな光を思い浮かべながら、紙の端へ薄く線を重ねていく。
鉛筆を動かしている間、王宮のことを完全に忘れられたわけではなかった。
それでも、今は目の前の紙に集中できている。
自分が描きたい景色を、自分の手で少しずつ形にしていく。
その時間は、今日のエレノアにとって、思っていた以上に大切だった。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、午後の話し合いについて、アルフォンスから簡単な報告があった。
オーギュストは文案に修正が必要になったことを聞き、静かに頷いた。
「本人に確認してもらってよかったね。書類の上では自然な言葉でも、エレノアの意思と違う意味に受け取られる可能性があるなら、直した方がよい」
「はい。今日の話し合いで、最初の案に足りなかったところが分かりました。正式な返答として整えるには、もう少し時間が必要です」
アルフォンスは落ち着いた声で答えた。
エレノアは二人の会話を聞きながら、膝の上で手を重ねた。
自分の指摘によって文案の完成が遅れてしまったのではないかと、一瞬だけ不安がよぎった。
しかし、その気持ちを察したのか、マルグリットが優しく声をかけた。
「エレノア、今日はご自分の気持ちをきちんと伝えられたそうですね。アルフォンスから聞きましたよ」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「はい、お祖母様。難しい言葉もありましたけれど、叔父様が説明してくださったので、少しずつ理解することができました」
「それはよかったですね。大切なことですから、分からないまま進めずに済んだのは何よりです」
マルグリットは穏やかに頷いた。
セドリックも、エレノアへ柔らかな視線を向けた。
「今日の文案は、君が読んだからこそ気づけたことがあったんだよ。だから、遠慮せずに質問してくれてよかったと思う」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
オーギュストは孫娘の様子を見守りながら、静かに口を開いた。
「エレノア、今回の件は、すぐに結論が出るものではないかもしれない。王宮からの照会に対して、こちらが正確に返答することは大切だが、そのあとにどのような確認が必要になるかは、まだ分からないからね」
エレノアは真剣な表情で頷いた。
「はい、お祖父様。私も、すぐにすべてが終わるとは思っていません。でも、今日は自分の気持ちを文書にするためのお話ができました。それが、とても大切なことだったと思います」
オーギュストは静かに微笑んだ。
「そうだね。君がそう感じられたのなら、今日の時間には十分な意味があったのだろう」
食卓には、しばらく穏やかな空気が流れた。
そのあと話題は庭園の雨上がりの景色へ移り、エレノアは描きかけの絵に少し影を加えたことを話した。マルグリットが完成を楽しみにしていると告げると、エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
王宮からの照会状は、まだ解決していない。
けれど、家族の食卓には、婚約の話以外にもたくさんの会話がある。
そのことが、エレノアにはありがたかった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上の日記帳を開いた。
窓の外では雨雲が薄くなり、ところどころに星が見えている。庭園の木々はまだ濡れているらしく、時折、枝先から落ちる雫の音が静かな夜に響いていた。
エレノアは筆を手に取り、今日の出来事を思い返した。
朝は、王宮へ送る返答について考えるだけで胸が苦しかった。
午後の話し合いでも、第二王子の名前を目にしたときには、過去の記憶が蘇りそうになった。
けれど、そこで何も言えなくなったわけではない。
自分の意思が曖昧になりそうな言葉を見つけ、叔父へ質問することができた。父の返書と自分の同意が別のものであることも、改めて伝えられた。
エレノアはゆっくりと筆を動かした。
『今日は、王宮への返答の文案を読ませていただきました。最初はとても緊張しましたが、叔父様が一つずつ説明してくださり、お兄様とリディアも傍にいてくれました。』
そこまで書き、少しだけ手を止めた。
そして、続きを記した。
『私は、第二王子殿下との婚約を望んでいません。その気持ちが、いつか変わるかもしれないという意味に受け取られないようにしていただきたいと、お伝えしました。叔父様は、私の言葉を聞いて、文案を直してくださるとおっしゃいました。』
筆先が紙の上を滑る音が、静かな室内に小さく響いた。
エレノアは書き終えた文章を見つめながら、胸の奥に残る不安を確かめていた。
王宮がどう判断するかは、まだ分からない。
自分の意思が正式な記録としてどのように扱われるのかも、これからのことだ。
それでも、今日の自分が何をしたのかは、はっきりと分かる。
エレノアはもう一度筆を取り、最後の一文を書き加えた。
『まだ怖いけれど、私は、自分の言葉を誰かに預けるだけではなく、その言葉が正しく残るように確かめていきたいと思います。』
書き終えると、エレノアは筆を置いた。
日記帳を閉じる前に、机の上の描きかけの絵へ目を向けた。
曲がり角の向こうには、まだ何も描かれていない部分がある。
実際の庭園では、その先にも石畳が続き、季節の花や木々が並んでいるはずだ。けれど、エレノアはまだ、そのすべてを自分の目で確かめたわけではない。
だから、想像だけで描き埋めることはしなかった。
(これから先のことも、きっと同じなのね。まだ分からないことを、分かったことにしなくてもよいのだわ)
エレノアはその考えを胸に収め、ゆっくりと日記帳を閉じた。
第二王子との婚約がどうなるのか、今はまだ分からない。
ロシュフォール家への養子縁組も、正式な手続きが完了するまでには、もう少し時間が必要だ。
母の遺品についても、分からないことは多く残っている。
それでも、分からないことがあるからといって、自分の意思まで曖昧にする必要はない。
エレノアは窓辺の野薔薇の刺繍を見つめた。
母の古い木枠に収められた桃色の花は、灯りの中で静かに咲いている。その隣には、今日少しだけ描き進めた庭園の絵が置かれていた。
過去から残されたものと、自分が新しく作っているもの。
その二つが同じ部屋にあることを、エレノアは大切に思った。
やがてリディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日は長いお話し合いもございましたし、少しお疲れになったことと思います」
エレノアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、そうね。今日は少し疲れてしまったわ。でも、叔父様にお話しできてよかったと思っているの」
「それは何よりでございます。明日は、もう少しゆっくりお過ごしになれるとよろしゅうございますね」
「そうね。お天気がよければ、お庭を少し歩きたいわ。雨上がりの景色も、きっと綺麗でしょうから」
リディアは優しく微笑み、寝台の掛け布を整えた。
エレノアは日記帳を机の上へ置き、灯りを落としてもらってから寝台へ入った。
窓の外では、雲の切れ間から淡い月の光が差し込んでいる。
目を閉じると、午後に読んだ文案の文字が、ふと頭に浮かんだ。
第二王子の名前。
父が送った受諾の返書。
そして、自分が望まないと伝えた言葉。
それらは、まだ一つの結論へ結びついていない。
けれど、今日の話し合いによって、自分の意思が少しずつ形になり始めていることだけは確かだった。
(私は、あの方との婚約を望まない。その気持ちは変わらないわ。だから、これからも、自分の言葉で伝えていこう)
エレノアは静かに息を吐いた。
王宮へ送る返答は、まだ完成していない。
明日以降、アルフォンスが修正した文章を、もう一度確認することになるだろう。
そのときも、きっと緊張する。
それでも、今日のように、一つずつ確かめていけばよいのだと、少しだけ思えるようになっていた。
エレノアは掛け布を胸元へ引き寄せ、静かな夜の中で目を閉じた。
明日の庭園には、雨上がりの光が差し込むかもしれない。
まだ描いていない曲がり角の先にも、きっと新しい景色が待っている。
その景色を、自分の目で確かめられる日々を守りたい。
そんな願いを胸に抱きながら、エレノアはゆっくりと眠りへ落ちていった。




