第80話 王宮から届いた照会状と、私がもう一度選ぶ未来
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。
昨夜まで庭園を揺らしていた風は収まり、枝先に残った葉も、今朝はほとんど動いていない。窓辺に置かれた桃色の野薔薇の刺繍には柔らかな光が差し込み、古い木枠の彫り模様を静かに浮かび上がらせていた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、昨日描き始めた庭園の絵へ目を向けた。
机の上には、南側の花壇から東へ進んだ曲がり角の景色が、まだ鉛筆書きのまま残されている。ギュスターヴに教えてもらった場所を思い出しながら描いたもので、枝の重なりや石畳の形には、もう少し手を加えたいところがあった。
(今日は、あの絵の続きを描きたいわ。それから、青い花の刺繍も少し進められたら嬉しい)
そう考えたとき、胸の奥に穏やかな温かさが広がった。
以前のエレノアなら、朝目覚めた瞬間から、誰かに命じられたことや失敗してはいけないことを考えていた。ベルナール家では、自分のために使う時間があっても、それを楽しみにすることさえ、どこか後ろめたかった。
今は違う。
昨日見つけた景色を描きたいと思い、刺繍の続きを楽しみにしている。その小さな変化が、エレノアには嬉しかった。
けれど、穏やかな気持ちの奥には、まだ消えない不安も残っている。
ベルナール家から運ばれた衣類の書類束について、次の確認作業を行う準備が進められていた。開かれているのは最初の二頁だけで、その先に何が書かれているのかは、エレノアにも分からない。
父ロベルトが送った第二王子との婚約受諾の返書についても、正式な婚約が成立していないとはいえ、問題そのものが終わったわけではなかった。
エレノアは掛け布の上で両手を重ねた。
(私は、あの方との婚約を望んでいない。その気持ちは、今も変わらないわ)
第二王子レオナード・ヴァレンティア。
その名前を心の中で口にしただけで、指先がわずかに冷たくなった。
以前の人生で、自分を処刑へ追いやった人。
今の彼は、まだ自分を知らない。少なくとも、この時間の中では、二人は直接顔を合わせていない。
それでも、エレノアにとっては忘れられない相手だった。
目を閉じれば、冷たい石の床と、逃げ場のない場所で告げられた言葉が蘇る。あの出来事を思い出すたび、身体は過去と現在の違いを忘れそうになる。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
今いるのはロシュフォール家の自室で、扉の向こうにはリディアがいて、朝食の席では祖父母や叔父たちが待っている。
それを一つずつ確かめるように周囲を見渡したとき、扉を叩く音が聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。おはよう」
扉が開き、リディアが朝の支度を整えた姿で入ってきた。
いつもどおりの穏やかな表情を見たエレノアは、自然と肩の力を抜いた。
「今朝は少し肌寒くございます。昨日ほど風はありませんが、雲が多いようですので、温かいお召し物をご用意いたしました」
「ありがとう。今日はお部屋で絵の続きを描こうと思っていたの。昨日見た景色を、忘れないうちにもう少し描いておきたくて」
「それはよろしゅうございますね。昨日の絵は、机の上にそのまま置いております。紙が傷まないよう、周囲の道具だけ整えておきました」
リディアは衣装を用意しながら、机の上へ目を向けた。
その視線には、主人の小さな楽しみを大切にしたいという気持ちが滲んでいる。
「それから、野薔薇の刺繍の置き場所についてですが、マルタへ相談いたしました。候補にしている棚は、固定の状態を確認してから使う方がよいとのことですので、まだ額には触れておりません」
「そうなのね。確認してくださってありがとう。大切なものだから、急いで動かさない方が安心だわ」
「はい。確認が済みましたら、改めてお知らせいたします」
エレノアは頷き、窓辺の額を見つめた。
母の古い木枠に、自分が作った野薔薇の刺繍が収まっている。
母が残したものと、自分が新しく作ったもの。
それらが一緒にある光景は、今のエレノアにとって、失いたくない日常の一部になっていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、すでにオーギュストとマルグリットが着いていた。
アルフォンスはいつもより少し遅れて入室し、セドリックもそのあとに続いた。二人は廊下で何かを話していたようだったが、エレノアが挨拶すると、穏やかに応じてくれた。
「おはよう、エレノア。昨日は庭園で素敵な場所を見つけたそうだね」
オーギュストがそう声をかけると、エレノアは嬉しそうに頷いた。
「はい、お祖父様。ギュスターヴに教えていただいた曲がり角が、とても綺麗だったのです。今、絵に描いているところですので、完成したらお見せしたいと思っています」
「それは楽しみだね。庭園は長く見ていても、季節によって違う顔を見せてくれる。私も知らない景色が、まだたくさんあるのかもしれないな」
マルグリットは微笑みながら、エレノアの皿へ視線を向けた。
「絵を描くのもよいけれど、朝食はきちんといただいてくださいね。昨日は少し長く歩いたのでしょう」
「はい、お祖母様。今日はお部屋で過ごすつもりです」
エレノアがそう答えると、セドリックが穏やかに笑った。
「それなら、午後に少し時間があれば、絵の続きを見せてもらえるかな。昨日の段階でも、あの曲がり角らしさがよく出ていたよ」
「もちろんです、お兄様。もう少し描き進めてから、お見せしますね」
そんな会話を交わしながら、食卓には穏やかな時間が流れていた。
けれど、アルフォンスは時折、オーギュストへ視線を向けていた。
エレノアはその様子に気づいたものの、二人の間に何か急ぎの話があるのだろうと思い、口には出さなかった。
朝食が終わりに近づいた頃、アルフォンスが静かに口を開いた。
「父上、食後に少しお時間をいただけますか。今朝、確認しておきたい書類がございます」
オーギュストは息子の表情を見て、短く頷いた。
「分かった。執務室で話そう」
それ以上の説明はなかった。
エレノアは二人の様子を眺めながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
けれど、今すぐ自分が関わることだとは限らない。
そう考え直し、祖母との会話へ意識を戻した。
朝食のあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
その背中を見送りながら、アルフォンスは手元の書類へ目を落とした。
今朝、王宮から届いた封書。
それは、エレノアが穏やかな朝を過ごしている間に、ロシュフォール家へ新たな判断を求めるものだった。
◇ ◇ ◇
オーギュストの執務室には、朝の光が細長く差し込んでいた。
重厚な机の上には、アルフォンスが持参した封書と、その内容を確認するための記録が置かれている。
封蝋には、王宮の文書を扱う部署の印が押されていた。
オーギュストは椅子へ腰を下ろし、アルフォンスへ目を向けた。
「王宮からか」
「はい。今朝、正式な経路で届きました。差出人は王宮の儀礼関係の事務を扱う部署です。第二王子殿下の婚約について、現在の扱いを確認したいという内容でした」
アルフォンスは封書を机の上へ置いた。
「ベルナール家から以前送られた受諾の返書と、こちらから伝えているエレノア本人の拒否について、記録上の扱いを整理したいようです」
オーギュストは眉を寄せた。
「つまり、まだ婚約が成立したという通知ではないのだな」
「はい。少なくとも、この文書には正式な婚約成立を告げる記載はありません。王宮側が、双方の意思表示に食い違いがあることを把握し、その確認を求めていると読むべきでしょう」
オーギュストは封書へ目を落とした。
エレノアがロシュフォール家へ身を寄せてから、彼女の意思を守るために必要な手続きは進めてきた。
ロベルトが送った受諾の返書だけで、エレノアの人生を決めさせるわけにはいかない。
しかし、相手は王家である。
通常の貴族同士の縁談とは異なり、言葉の選び方一つにも慎重さが求められた。
「期限は書かれているか」
「即日の回答を求めるものではありません。ただ、回答の時期については相談を受け付ける旨が記されています。放置してよい文書ではありません」
「そうだな。こちらの立場を曖昧にすることはできない」
オーギュストはしばらく考え込んだ。
そして、封書から目を上げた。
「エレノアには、きちんと知らせよう」
アルフォンスは静かに頷いた。
「私もそう考えています。本人に関わる問題ですから、知らせずに返答するべきではありません。ただ、今朝届いたばかりの文書です。内容を整理してから、落ち着いて説明したいと思います」
「セドリックにも同席してもらうか」
「エレノアが望むのであれば。まずは本人に、誰と話したいか尋ねるのがよいでしょう」
オーギュストは息子の言葉に頷いた。
かつてのエレノアは、家族の前でさえ、自分の希望を口にすることをためらっていた。
その彼女が、最近では少しずつ、自分の意思を伝えるようになっている。
衣類の書類束を確認する際の立会人についても、彼女自身が希望を述べた。
その変化を大切にしたかった。
「急がせてはならない。だが、本人の知らないところで話を進めることも避けよう」
「はい。今日の午後、都合を尋ねてからお話しします」
アルフォンスは封書を丁寧に収めた。
王宮からの照会状は、ただの書類ではない。
エレノアがようやく見つけ始めた穏やかな暮らしへ、過去の決定が再び手を伸ばしてきたことを意味していた。
だからこそ、アルフォンスは慎重でありたいと思った。
彼女の代わりにすべてを決めるのではなく、彼女が自分で選べるように支える。
その姿勢を、今回も変えるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは机に向かい、昨日描き始めた庭園の絵へ鉛筆を走らせていた。
窓の外には薄い雲が流れ、時折差し込む日差しが、机の上の紙を明るく照らした。
エレノアは枝の形を少し整え、葉の重なりを丁寧に描き加えた。
絵の中の景色は、実際に見たものと完全に同じではない。
それでも、鉛筆を動かしていると、昨日の朝の空気や、足元の落ち葉の音まで思い出せる気がした。
「リディア、この辺りの枝を、もう少し細く描いた方がよいかしら」
エレノアが尋ねると、傍らで裁縫道具を整えていたリディアが近づいた。
「そうでございますね。お嬢様が昨日ご覧になった枝は、もう少し柔らかく曲がっていたように思います」
「やっぱりそうよね。描いているうちに、少し硬い形になってしまったみたい」
エレノアは微笑み、鉛筆の線を慎重に直した。
うまく描けない部分があっても、誰かに叱られることはない。
何度でも描き直してよい。
その当たり前のことが、今も時々、不思議に感じられた。
(私は、こんなふうに失敗を気にせず何かを作ることが、好きだったのかもしれないわ)
エレノアは小さく息を吐き、再び紙へ目を落とした。
その時、扉を叩く音が響いた。
「エレノア、少し話をしてもいいかな」
アルフォンスの声だった。
エレノアは鉛筆を置き、扉へ顔を向けた。
「はい、叔父様。どうぞ」
入室したアルフォンスは、いつもと変わらない穏やかな表情をしていた。
けれど、その手には一通の封書があった。
エレノアは無意識に、その封書へ視線を向けた。
「絵を描いていたところだったんだね。邪魔をしてしまったかな」
「いいえ、大丈夫です。昨日見たお庭の景色を描いていたのです」
エレノアは微笑もうとしたが、アルフォンスの手元が気になっていた。
アルフォンスはその視線に気づき、少しだけ声を柔らかくした。
「実は、今朝、王宮から文書が届いたんだ。君に関係する内容だから、きちんと知らせておきたいと思ってね」
エレノアの指先が、机の縁をそっと握った。
王宮。
その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちたような感覚があった。
「……王宮、からですか」
「そうだよ。ただし、今すぐ何かを決めなければならないという内容ではない。まずは落ち着いて聞いてほしい」
アルフォンスはエレノアの様子を確かめながら続けた。
「第二王子殿下との婚約について、以前ベルナール家から送られた返書と、君自身の意思表示の扱いを確認したいという照会状が届いたんだ」
エレノアは息を止めた。
第二王子。
婚約。
その二つの言葉が重なった瞬間、目の前の部屋が遠ざかるように感じられた。
冷たい石の床。
高い場所から見下ろす人々。
自分の言葉が誰にも届かなかった、あの日の記憶。
エレノアは机の縁を握る指に力を込めた。
(違うわ。今は、あの時ではない。私はロシュフォール家にいて、叔父様が目の前にいらっしゃる)
そう言い聞かせても、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
アルフォンスは彼女の顔色が変わったことに気づき、すぐに説明を続けるのをやめた。
「エレノア、少し休もうか。今すぐ話を聞く必要はないよ」
その声に、エレノアはゆっくりと顔を上げた。
叔父の表情には、責める色も、急かす様子もなかった。
リディアも傍らへ近づき、静かに声をかけた。
「エレノア様、お茶をお持ちいたしましょうか」
エレノアは一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます。少し、お茶をいただきたいです」
リディアは頷き、温かいお茶を用意するために動いた。
アルフォンスは椅子を引き、エレノアの向かいではなく、少し斜めの位置へ腰を下ろした。
その距離が、今のエレノアにはありがたかった。
誰かに問い詰められているような気持ちにならずに済んだからだ。
「叔父様……婚約が、決まったということではないのですよね」
エレノアは震えを抑えながら尋ねた。
アルフォンスははっきりと頷いた。
「そうだよ。今回の文書は、正式な婚約成立を知らせるものではない。王宮側が、記録の扱いについて確認を求めているんだ」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、安心しきることはできなかった。
王宮が確認を求めているということは、まだ婚約の問題が残っているということでもある。
「私が、お断りしたことは……伝わっているのですか」
「少なくとも、今回の文書には、君の拒否の意思が記録上存在していることを前提とした記載がある。だからこそ、以前の受諾の返書との扱いを確認したいのだろう」
アルフォンスは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、王宮側が最終的にどう判断するかについては、まだ何も決まっていない。私たちも、事実を整理して返答する必要がある」
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
父が勝手に送った受諾の返書。
自分が望んでいないと伝えた婚約。
その二つが、今も別々の記録として残っている。
分かっていたはずのことだった。
けれど、王宮から実際に文書が届いたことで、問題が急に近づいてきたように感じられた。
「……叔父様、私は、あの方との婚約を望んでいません」
エレノアは小さな声で言った。
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
けれど、目を伏せずに続けた。
「以前もお伝えしましたけれど、今も気持ちは変わっていません。父様がどのようなお返事をされたとしても、私は……自分の意思で、お断りしたいのです」
アルフォンスは、エレノアの言葉を最後まで聞いた。
そして、穏やかに頷いた。
「分かった。君の意思は、私たちがきちんと受け止めているよ」
その声には、迷いがなかった。
「ただし、君が望まない婚約を避けるために、どのような手続きを取るべきかは、慎重に確認しなければならない。王家に関わる問題だからこそ、感情だけで返答して、あとから君が不利な立場になることは避けたいんだ」
エレノアはゆっくりと頷いた。
叔父が慎重なのは、自分の意思を疑っているからではない。
むしろ、その意思を守るために、できる限り確かな方法を選ぼうとしてくれているのだ。
「はい。私も、叔父様たちにご迷惑をおかけしたくありません」
そう言った途端、アルフォンスの表情が少し変わった。
「エレノア、それは少し違うよ」
エレノアは驚いて顔を上げた。
アルフォンスは責めるのではなく、静かに言葉を続けた。
「君が自分の意思を伝えることは、私たちに迷惑をかけることではない。君はこの家の大切な家族なんだ。君の将来について一緒に考えるのは、私たちにとって当然のことだよ」
エレノアの喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
家族。
その言葉は、今でも胸の深いところへ届く。
ベルナール家にいた頃、家族のために我慢することが、自分の役割なのだと思っていた。
けれど、ロシュフォール家の人々は違う。
彼らは、エレノアが何かを望むたびに、その気持ちを聞こうとしてくれる。
「……ありがとうございます、叔父様」
エレノアは目を伏せ、震える声で礼を述べた。
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「礼を言う必要はないよ。今は、君がどうしたいかを一緒に考えよう」
◇ ◇ ◇
リディアが温かいお茶を運んでくると、エレノアは両手で茶器を包み込んだ。
指先へ伝わる温かさが、少しずつ身体の緊張を和らげていく。
アルフォンスは彼女が落ち着くのを待ち、それから静かに話を続けた。
「今回の照会状について、君に確認しておきたいことがあるんだ。王宮への返答には、君自身が婚約を望んでいないことを、改めて明確に記すつもりでいる。ただ、その表現について、君の希望を聞いておきたい」
エレノアは茶器を置き、叔父へ目を向けた。
「私の、希望ですか」
「そうだよ。君の意思を伝える文書なのだから、君が望まない理由を勝手に作ったり、君の言葉を別の意味へ変えたりしたくないんだ」
エレノアは少し考えた。
第二王子との婚約を望まない理由。
本当の理由を、すべて話すことはできない。
自分が十八歳で処刑されたこと。
その前に、身に覚えのない罪を着せられたこと。
そして、時間を遡って十五歳の自分へ戻ったこと。
そんな話をすれば、叔父たちはどのように受け止めるだろう。
エレノアは膝の上で手を握った。
(本当のことをお話しできれば、どれほどよいかしら。でも、今の私には、まだそれができない)
クロノアの存在も、時間を遡った秘密も、今は自分だけが抱えている。
だからといって、婚約を拒む意思まで曖昧にする必要はない。
エレノアは静かに息を吸った。
「叔父様、私は……第二王子殿下のことを、よく存じ上げません」
アルフォンスは頷き、続きを待った。
「お会いしたこともなく、お話ししたこともありません。それなのに、私の知らないところで婚約のお話が進み、父様から受諾のお返事が送られてしまいました」
エレノアは言葉を選びながら続けた。
「私は、そのことがとても怖かったのです。自分の将来が、自分の知らないところで決められてしまうように感じました」
それは、今の時間の中でも確かな事実だった。
過去の記憶を語らなくても、エレノアには婚約を拒む理由がある。
「私は、まだ十五歳です。これから自分がどのように生きたいのか、何を大切にしたいのか、少しずつ考えているところです。だから、今は誰かとの婚約を決めたくありません」
アルフォンスは静かに聞いていた。
エレノアは胸の奥に残る恐怖を押し込みながら、もう一度言葉を重ねた。
「第二王子殿下がどのようなお方であっても、私自身が望んでいないことに変わりはありません。その気持ちを、きちんと伝えていただきたいです」
言い終えると、エレノアは深く息を吐いた。
心臓はまだ速く打っている。
けれど、言葉を口にする前よりも、少しだけ呼吸がしやすくなっていた。
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「よく分かったよ。君の意思は、十分に伝わった」
その声に、エレノアは目を上げた。
「君が話してくれた内容をもとに、返答の文案を整えよう。ただし、王宮へ送る前に、必ず君にも確認してもらう。君の意思を示す文書なのだからね」
「……私も、確認してよろしいのですか」
「もちろんだよ。難しい表現があれば説明するし、君が違うと感じたところがあれば、修正を考えよう」
エレノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分に関わる文書を、自分で確かめてよい。
それは当たり前のことのようでいて、以前の彼女には与えられなかった機会だった。
「ありがとうございます。私も、きちんと読んで確かめたいです」
アルフォンスは微笑んだ。
「うん。そうしよう」
少し間を置いてから、エレノアはもう一つのことを尋ねた。
「叔父様、私の養子縁組の手続きは……今回のことと関係があるのでしょうか」
アルフォンスはすぐには答えず、慎重に言葉を選んだ。
「関係がまったくないとは言い切れないけれど、別の手続きとして扱う必要があるよ。養子縁組については、ロベルト殿から異議を唱えない旨の返答を受け取っているし、必要な書類への署名も進めている。ただ、正式な手続きはまだ完了していない」
エレノアは静かに頷いた。
今の自分は、法的にはまだベルナール家の娘である。
ロシュフォール家で暮らし、祖父母や叔父たちから家族として迎えられていても、その立場が正式に変わったわけではない。
「ですから、王宮への返答では、今の法的な立場を正確に示す必要がある。養子縁組が済んだことにして話を進めるわけにはいかないんだ」
「はい。分かりました」
エレノアは茶器へ目を落とした。
自分の名前が変わる日が、いつになるのかは分からない。
けれど、今の自分の意思は、名前が変わる前でも伝えられるはずだ。
「叔父様、私は、まだベルナール家の娘ですけれど……それでも、自分の意思を伝えてよいのですよね」
アルフォンスは、まっすぐにエレノアを見つめた。
「もちろんだよ。君の意思は、どの家の名前を名乗っているかで消えるものではない」
エレノアはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
胸の奥にあった不安が、少しだけ形を変えた。
まだ怖い。
けれど、何もできないわけではない。
自分の言葉で、自分の望まない未来を拒むことができる。
そのことを、今は信じてみたかった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスが部屋を出たあと、エレノアはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。
机の上には、描きかけの庭園の絵が置かれている。
昨日まで、その絵を眺めるだけで、心が穏やかになった。
けれど今は、王宮から届いた照会状のことが頭から離れなかった。
第二王子との婚約。
正式に成立していないと聞いても、その名前が再び自分の前へ現れたことが恐ろしかった。
エレノアはそっと両手を握った。
(私は、もうあの場所へ戻りたくない。誰かの言葉だけで罪を決められ、何を言っても聞いてもらえない未来へは、絶対に進みたくない)
胸の奥で、あの日の記憶が疼いた。
冷たい空気。
遠くから聞こえた人々の声。
自分を見下ろす第二王子の姿。
その表情を思い出しかけた瞬間、エレノアは目を閉じた。
今は違う。
まだ、あの未来は訪れていない。
自分は十五歳で、ロシュフォール家にいる。
そして、今度は自分の意思を聞いてくれる人々がいる。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
その時、傍らにいたリディアが静かに声をかけた。
「エレノア様、少しお休みになられますか。お顔の色が、まだ優れないように見えます」
エレノアは顔を上げ、リディアの心配そうな表情を見た。
「……ええ、少しだけ。叔父様のお話を聞いて、驚いてしまったの」
「そうでございましたね。突然のお知らせでしたから、無理もございません」
リディアはそれ以上、理由を尋ねなかった。
ただ、エレノアの手元へ温かいお茶を置き、必要ならすぐに休めるよう、静かに部屋を整えた。
その心遣いが、エレノアにはありがたかった。
「リディア、私……自分の気持ちを伝えられたのに、まだ怖いの」
エレノアは小さな声で言った。
リディアはすぐには答えず、エレノアの言葉を待った。
「叔父様は、私の意思を大切にしてくださるとおっしゃったわ。お祖父様たちも、きっと同じように考えてくださると思うの。それなのに、王宮という言葉を聞いただけで、胸が苦しくなってしまって……」
エレノアはそこで言葉を止めた。
これ以上話せば、過去の秘密まで口にしてしまいそうだった。
リディアは穏やかな声で答えた。
「エレノア様、怖いとお感じになることと、ご自分の意思を伝えられたことは、別のことでございます。怖さが残っていても、お嬢様がお話しになったお気持ちがなくなるわけではございません」
エレノアはゆっくりと顔を上げた。
リディアは続けた。
「今すぐお気持ちを落ち着けなければならないわけではございません。今日はお疲れになったのでしょう。少しお休みになってから、またお好きなことをなさってもよろしいのではないでしょうか」
エレノアはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうね。少し、休ませてもらうわ」
リディアは優しく微笑んだ。
「はい。私は近くにおりますので、何かございましたらお呼びください」
エレノアは寝台の端へ腰を下ろし、窓の外へ目を向けた。
薄い雲の向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。
庭園の木々は静かで、昨日見た曲がり角も、今頃は穏やかな秋の景色を広げているのだろう。
エレノアはその光景を思い浮かべながら、少しずつ呼吸を整えていった。
◇ ◇ ◇
午後、セドリックはアルフォンスから王宮の照会状について説明を受けた。
執務室には、アルフォンスとセドリックの二人だけがいた。
机の上には、今朝届いた封書と、これまでの婚約に関する記録が整理されている。
セドリックは内容を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「……エレノアには、もう話したのですね」
「ああ。本人の意思を改めて確認したよ。婚約を望まないという気持ちは、変わっていない」
アルフォンスは静かに答えた。
「ただ、王宮からの文書を聞いて、かなり動揺していた。今はリディアが傍についている」
セドリックは眉を寄せた。
エレノアが第二王子との婚約を強く拒んでいることは知っている。
けれど、なぜそこまで恐れているのか、そのすべてを知っているわけではなかった。
彼女は第二王子と会ったことがない。
それにもかかわらず、婚約の話になると、時折、言葉を失うほど怯える。
セドリックはその理由を無理に尋ねようとは思わなかった。
彼女が話したくないことを、力ずくで聞き出すつもりはない。
ただ、彼女が恐れている未来へ、周囲の都合だけで押し出されることは避けたかった。
「父上、王宮への返答は、どのように進めるのですか」
「まずは、エレノア本人の意思を明確に記した文案を作る。本人にも内容を確認してもらい、そのうえで正式な返答を検討するつもりだ」
「分かりました。僕にできることがあれば、言ってください」
アルフォンスは息子へ目を向けた。
「ありがとう。ただ、今はエレノアの気持ちを急かさないでほしい。君が傍にいてくれること自体が、あの子にとって支えになると思う」
セドリックは静かに頷いた。
「はい。無理に話を聞こうとは思いません。エレノアが話したい時に、聞けるようにしておきます」
アルフォンスはその言葉に、少しだけ表情を和らげた。
セドリックは幼い頃から、エレノアを大切に思ってきた。
母アデラインを失ったあと、彼女がベルナール家でどのような日々を過ごしていたのか、すべてを知ることはできなかった。
それでも、今ここにいる彼女が、安心して笑えるようになってほしい。
その願いは、父子ともに同じだった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは少し気持ちが落ち着いたところで、再び机へ向かった。
描きかけの庭園の絵は、午前中のまま置かれている。
エレノアは鉛筆を手に取り、枝の重なりへ少しだけ線を加えた。
けれど、思うように手が動かなかった。
王宮から届いた照会状のことが、まだ頭の中に残っている。
エレノアは鉛筆を置き、静かに息を吐いた。
(今日は、無理に続きを描かなくてもよいわ。昨日の景色は、明日になっても消えないもの)
そう考えた時、扉を叩く音が聞こえた。
「エレノア、少しだけ顔を見てもいいかな」
セドリックの声だった。
エレノアは顔を上げ、微笑もうとした。
「はい、お兄様。どうぞ」
入室したセドリックは、エレノアの表情を見て、少しだけ眉を下げた。
「今日は、あまり元気がないようだね」
エレノアは一瞬、言葉に迷った。
何もなかったように笑うこともできた。
けれど、今はそうする必要がない気がした。
「……はい。少し、驚くことがあったので」
セドリックは穏やかに頷いた。
「父上から、王宮の照会状について聞いたよ。君が婚約を望んでいないことも、改めて確認したと聞いている」
エレノアは目を伏せた。
「お兄様にも、お話が伝わったのですね」
「うん。ただ、君が話したくないことまで聞こうとは思っていないよ」
セドリックは少し離れた椅子へ腰を下ろした。
「今日は、君が一人で不安を抱えていないか、それだけが気になったんだ」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
セドリックは、いつも自分を急かさない。
何かを話す時にも、話さない時にも、その選択を尊重してくれる。
「……ありがとうございます、お兄様」
エレノアは小さく微笑んだ。
「私は、まだ怖いのです。正式な婚約が決まったわけではないと分かっていても、王宮から文書が届いたと聞くだけで、胸が苦しくなってしまって……」
セドリックは静かに聞いていた。
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
「でも、叔父様には、私の気持ちを伝えられました。第二王子殿下との婚約を望まないことも、今は誰かとの婚約を決めたくないことも、きちんとお話しできたのです」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「それは、大切なことだと思うよ」
エレノアは少しだけ顔を上げた。
「怖くても、自分の気持ちを伝えられた。それは、君が自分の将来について考え、選ぼうとしているということだからね」
その言葉に、エレノアの目元が少し熱くなった。
「……私、以前は、自分が何を望んでいるのかさえ、よく分からなかったのです」
エレノアは静かに言った。
「誰かに求められることを、きちんと果たさなければならないと思っていました。自分の気持ちを伝えても、困らせるだけなのではないかと考えてしまって……」
セドリックは黙って聞いていた。
「でも、こちらへ来てから、少しずつ変わってきた気がします。刺繍の色を選ぶことも、お庭で好きな景色を見つけることも、私にとっては大切なことなのだと分かってきました」
エレノアは机の上の絵へ目を向けた。
「だからこそ、婚約のことも、自分で決めたいのです。誰かに決められた未来ではなく、私自身が望む未来を選びたいのです」
セドリックはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「うん。僕も、君がそうできるように願っているよ」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「お兄様は……私が第二王子殿下との婚約をお断りすることについて、どう思われますか」
セドリックはすぐには答えなかった。
少し考えてから、穏やかな声で言った。
「僕は、君が望まない婚約を無理に受け入れる必要はないと思っている。ただ、王家に関わることだから、手続きは慎重に進めなければならない。それは父上や祖父上と同じ考えだよ」
エレノアは頷いた。
「でも、それ以上に大切なのは、君が自分の意思を失わないことだと思う。どんな返答が届いても、君が何を望んでいるのかを、僕たちは忘れないようにしたい」
その言葉に、エレノアは目を潤ませた。
セドリックは、彼女が涙をこらえていることに気づいたが、何も言わなかった。
ただ、彼女が落ち着くまで、静かに待っていた。
やがて、エレノアは小さく息を吐き、微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。私……少しだけ、安心しました」
セドリックも微笑んだ。
「それならよかった」
少し間を置いてから、彼は机の上の絵へ目を向けた。
「ところで、昨日の絵は進んだかな。もしよければ、見せてもらってもいいかい」
エレノアは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「はい。まだ完成していませんけれど、少しだけ枝の形を直しました」
セドリックは絵を受け取り、丁寧に眺めた。
「うん。昨日よりも、木々の柔らかさが出てきたね。朝の光が差し込んでいた様子も、少し伝わってくるよ」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「本当ですか。今日はあまり進められなかったのですけれど、明日また続きを描こうと思っています」
「それでいいと思うよ。絵は逃げないからね」
セドリックの穏やかな声に、エレノアは小さく笑った。
王宮からの文書が届いても、昨日見つけた景色が消えるわけではない。
自分が好きだと思ったものまで、手放す必要はないのだ。
そのことを、セドリックの言葉が思い出させてくれた。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、王宮からの照会状について、必要な範囲で話が共有された。
オーギュストはエレノアの表情を確かめながら、穏やかに口を開いた。
「エレノア、アルフォンスから話は聞いたよ。驚いただろうね」
エレノアは静かに頷いた。
「はい、お祖父様。少し怖くなってしまいました。でも、叔父様に自分の気持ちをお伝えすることができました」
オーギュストは頷いた。
「それでよい。君の意思は、私たちも大切に受け止めている。王宮への返答については、慎重に進めるつもりだ」
マルグリットも、優しい声で続けた。
「エレノア、今すぐ何かを決めなければならないわけではありません。あなたが安心して考えられるよう、私たちもできる限りのことをしますからね」
エレノアは祖母へ目を向けた。
「ありがとうございます、お祖母様」
その声は、朝よりも少し落ち着いていた。
アルフォンスは、今後の手順について簡潔に説明した。
まずは王宮から届いた照会状の内容を整理し、エレノアの意思を正確に示す文案を作る。
その文案をエレノア本人にも確認してもらい、必要な修正を行ったうえで、正式な返答を検討する。
養子縁組の手続きについては、別の問題として進め、まだ完了していないことを正確に扱う。
それらを聞きながら、エレノアはゆっくりと頷いた。
すべてがすぐに解決するわけではない。
けれど、何が決まっていて、何がまだ決まっていないのかを、家族と一緒に確かめられる。
そのことが、今の彼女には大切だった。
「叔父様、文案ができましたら、私も読ませてください」
エレノアは自分からそう伝えた。
アルフォンスは微笑んだ。
「もちろんだよ。君の意思を伝える文書だからね」
オーギュストも静かに頷いた。
「その時には、分からないことがあれば遠慮なく尋ねなさい。難しい言葉を使っているからといって、君が理解できないまま進める必要はないのだから」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「はい。ありがとうございます」
夕食の席には、そのあとも穏やかな会話が続いた。
マルグリットが庭園の秋の花について話し、セドリックがエレノアの絵のことを紹介すると、オーギュストは完成を楽しみにしていると笑った。
王宮からの照会状という重い話題があっても、家族の時間がすべてその話だけに染まるわけではなかった。
エレノアは、そのことに少し救われる思いがした。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上の日記帳を開いた。
窓の外では、薄い雲の間から月の光が差し込み、庭園の木々を淡く照らしている。
エレノアはしばらく筆を持ったまま考えていた。
今日の出来事を、どのように書けばよいのだろう。
王宮から照会状が届いたこと。
第二王子との婚約について、記録の扱いを確認する必要があること。
そして、自分が改めて婚約を望まないと伝えたこと。
それらを思い返すと、まだ胸が苦しくなる。
けれど、今日の自分が何もできなかったわけではない。
エレノアはゆっくりと筆を動かした。
『今日は、王宮から第二王子殿下との婚約についての照会状が届いたと、叔父様から教えていただきました。正式な婚約が成立したというお知らせではありませんでしたが、私はとても怖くなってしまいました。』
そこまで書き、少しだけ手を止めた。
そして、続けて文字を記した。
『それでも、叔父様に、私は婚約を望んでいないとお伝えすることができました。自分の知らないところで将来を決められたくないことも、今は誰かとの婚約を決めたくないことも、お話しできました。』
エレノアは静かに息を吐いた。
筆先が少し震えていた。
けれど、今度はその震えを隠そうとは思わなかった。
『叔父様は、私の言葉を大切にしてくださるとおっしゃいました。お祖父様も、お祖母様も、お兄様も、私の気持ちを聞いてくださいました。まだ怖いけれど、私は一人ではありません。』
そこまで書くと、エレノアは筆を置いた。
日記帳の文字を見つめながら、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。
以前の人生では、自分の言葉が誰にも届かないまま、最後の日を迎えた。
けれど、今は違う。
少なくとも、ここには自分の言葉を聞こうとしてくれる人々がいる。
それだけで、未来が必ず変わるとは限らない。
王宮がどのような返答をするのかも、まだ分からない。
けれど、今のエレノアには、自分の意思を伝える機会がある。
その機会を、決して手放したくなかった。
エレノアは日記帳を閉じ、窓辺の野薔薇の刺繍へ目を向けた。
母の古い木枠に収められた桃色の花は、柔らかな灯りの中で静かに咲いている。
その近くには、描きかけの庭園の絵が置かれていた。
昨日見つけた、自分だけの小さな景色。
エレノアはその絵を見つめ、静かに微笑んだ。
(私は、あの未来へ戻りたくない。でも、ただ逃げるだけではなく、これから自分がどんなふうに生きたいのかも、大切にしていきたい)
第二王子との婚約を断ること。
ロシュフォール家で、自分の意思を大切にしながら暮らすこと。
母の思い出を少しずつ確かめ、自分自身の新しい思い出も作っていくこと。
そのどれもが、今のエレノアにとって大切な願いだった。
やがて、リディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日はお疲れになったことと思います」
「ええ、そうね。今日は少し、いろいろなことを考えたわ」
エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
「でも、叔父様たちにお話しできて、少し安心したの。明日は、また絵の続きを描きたいと思っているわ」
リディアは優しく微笑んだ。
「それはよろしゅうございますね。お嬢様が楽しみにしていらっしゃることを、明日も大切になさってください」
エレノアは頷き、寝台へ向かった。
掛け布の中へ身体を収めると、リディアが灯りを落とした。
室内には柔らかな暗さが広がり、窓の外からは、静かな夜の気配が伝わってくる。
エレノアは目を閉じた。
王宮から届いた照会状。
まだ決まっていない婚約の扱い。
これから作られる、自分の意思を示す返答の文案。
考えなければならないことは、まだたくさんある。
それでも、今日の自分は、怖さに押しつぶされるだけではなかった。
自分の言葉で、望まない未来を拒むことができた。
その小さな一歩を、今夜は大切にしたかった。
(私は、もう一度、自分の未来を選びたい。今度こそ、誰かに決められた道ではなく、私自身が望む道を歩いていきたい)
エレノアは静かに息を吐いた。
眠りに落ちる直前、昨日見た秋の庭園の景色が、ふと心に浮かんだ。
朝日に照らされた黄色い葉と、柔らかく曲がる石畳。
その先にどんな景色が続いているのか、まだすべては分からない。
けれど、明日もまた、自分の足で歩いていきたい。
そう願いながら、エレノアは静かな眠りへ落ちていった。




