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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第79話 秋の庭に残された足跡と、私が初めて尋ねたこと


 朝の光が薄いカーテンを透かして差し込む頃、エレノアは静かに目を覚ました。


 昨夜のうちに風が強くなったのだろう。窓の向こうでは、庭園の木々が昨日よりも多くの葉を落としており、朝露に濡れた石畳の上には黄色や赤褐色の葉が重なっていた。空はよく晴れていたが、窓辺へ近づくと、ガラス越しにも秋の冷たさが感じられる。


 エレノアは寝台から身体を起こし、昨日の話し合いを思い返した。


 ベルナール家から運ばれた衣類の書類束について、叔父アルフォンスたちと確認方法を相談した。まだ開いていない頁を調べる時には、以前の立会人に加えてセドリックにも同席してもらい、途中で気持ちが落ち着かなくなった場合には作業を中断できるようにしてもらうことになっている。


 実施日はまだ決まっていない。


 それでも、エレノアにとっては大切な一歩だった。


(昨日は、自分の希望をきちんと伝えられたわ。まだ少し緊張するけれど、何も言わずに待っているだけではなく、私も準備に関わることができたのよね)


 そう考えると、胸の奥に柔らかな温かさが広がった。


 ただ、今日まで書類のことばかり考えて過ごす必要はない。


 昨夜、祖父母にも話したとおり、今日は庭園を歩きたいと思っていた。


 母アデラインがかつて歩いた庭を、今の自分の目で眺めてみたい。古い絵に描かれた場所を探し当てるためではなく、母が親しんだ庭で、自分自身が好きだと思える景色を見つけたいのだ。


 エレノアは窓辺へ視線を向けた。


 そこには、母の古い木枠に収めた桃色の野薔薇の刺繍がある。日差しによる影響を考えて置き場所を検討しているものの、まだ移動はしていない。


 今朝の光は、額の端へわずかに届いていた。


 エレノアはその様子を見つめ、少し考えた。


(このまま置いておくのは、やはり気になるわ。でも、棚の状態を確かめないまま移すのもよくないものね。今日、リディアに相談してみましょう)


 額を自分で持ち上げることはせず、エレノアは窓から少し離れた。


 その時、扉を叩く控えめな音が響いた。


「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」


「ええ、起きているわ。おはよう、リディア」


 入室したリディアは、朝の挨拶をすると、用意していた衣装を椅子の背へ掛けた。


「今朝は風が冷たくなっております。庭園へお出かけになるのでしたら、少し厚手の上着をお召しになった方がよろしいかと存じます」


「ありがとう。今日はお庭を歩いてみたいと思っていたの。昨日よりも落ち葉が増えているようだから、足元にも気をつけないといけないわね」


「はい。庭師たちが小道を整えておりますが、濡れた葉が残っている場所もあるかもしれません。私もご一緒いたします」


 エレノアは微笑み、衣装を選んでもらいながら、先ほど気づいたことを伝えた。


「それから、窓辺の刺繍のことなのだけれど、今朝は額の端に日差しが当たっていたの。以前お話しした棚へ移せるかどうか、確認していただけるかしら」


 リディアは額へ目を向け、丁寧に頷いた。


「承知いたしました。ただ、棚の安定や周囲の状態については、私だけで判断しない方がよろしいかと存じます。マルタにも相談し、必要でしたらエレーヌ様へ確認いたします」


「ええ、そうしてちょうだい。急いで動かす必要はないけれど、大切にしたいの」


「はい。お嬢様のお気持ちをお伝えいたします」


 エレノアはほっと微笑んだ。


 母の思い出を守ることと、自分が心地よく暮らすこと。


 そのどちらも大切にしながら、少しずつ部屋を整えていきたいと思った。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、オーギュストが庭園の様子について話していた。


 昨夜の風で西側の菩提樹の葉が多く落ちたため、庭師のギュスターヴ・メルシエが朝から小道を確認しているという。


 セドリックは窓の外へ視線を向けながら、穏やかに笑った。


「昨日、落ち葉の多い場所には気をつけるように話したばかりですが、今朝はさらに増えましたね。西側の石畳は、少し歩きにくくなっているかもしれません」


「そうだね。庭師たちが整えてくれているとはいえ、すべての葉を取り除くことはできないからね」


 オーギュストはそう答え、エレノアへ目を向けた。


「今日は庭を歩く予定だったね。無理に遠くまで行かず、歩きやすいところを選ぶとよいよ」


「はい、お祖父様。今日は景色を眺めながら、ゆっくり歩きたいと思っています」


 マルグリットは優しく微笑んだ。


「それなら、南側の花壇を通る道もよいかもしれませんね。夏の花は少なくなりましたけれど、秋の草花が綺麗に咲いているはずですよ」


「ありがとうございます、お祖母様。そちらも見てみたいです」


 エレノアは嬉しそうに頷いた。


 母と幼い自分が描かれた古い絵には、庭園らしい景色が残されている。しかし、その絵がどこで描かれたのか、いつのことなのかは分かっていない。


 南側の古い石の腰掛けも、絵の場所だと確かめられたわけではなかった。


 だから今日は、何かを証明しようとするのではなく、ただ庭を楽しみたい。


 その気持ちを祖母へ伝えると、マルグリットは静かに頷いた。


「それがよいと思います。お母様の思い出を大切にすることと、今のエレノアが新しい思い出を作ることは、どちらか一つを選ばなければならないものではありませんからね」


 エレノアはその言葉を胸に留めた。


 母のことを知りたいと思う気持ちは、これからも変わらないだろう。


 けれど、母の足跡を追うことだけに、自分の時間を使わなくてもよい。


 今の自分が見つけた景色も、いつか大切な思い出になるのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたあと、エレノアはリディアとともに庭園へ出た。


 玄関を出ると、冷たい空気が頬を撫で、思わず上着の襟元へ手を添えた。空は澄み渡り、遠くの木々まで輪郭がはっきりと見えている。


 庭園の小道には、朝の作業を終えたばかりらしい箇所があった。


 落ち葉は道の端へ丁寧に集められ、石畳の表面にはまだ湿り気が残っている。庭師たちが使っている道具の音が遠くから聞こえ、秋の静かな庭に小さな生活の気配を添えていた。


「綺麗ね。昨日とは、また違う景色に見えるわ」


 エレノアがそう言うと、リディアは微笑んだ。


「そうでございますね。朝の光が低くなってきましたので、木々の色も少し違って見えるのかもしれません」


 エレノアは足元を確かめながら、ゆっくりと歩いた。


 南側の花壇には、淡い紫色の花がいくつも咲いていた。


 夏の華やかな花々とは違い、背の低い草花が風に揺れている。その姿は控えめだったが、近づいてみると花弁の形が繊細で、一つ一つに異なる表情があった。


 エレノアは花壇の前で足を止めた。


「このお花、綺麗ね。青い花の刺繍をしているからかしら。最近、青や紫のお花に目が向くようになった気がするわ」


「お嬢様が今お作りになっている刺繍にも、よく似合いそうなお色でございますね」


「ええ。でも、刺繍に使うなら、もう少し淡い糸を重ねた方がよいかもしれないわ」


 エレノアは微笑み、花弁の重なりを眺めた。


 刺繍の図案に使うかどうかは、まだ決めていない。


 けれど、こうして実際の花を見ると、糸の色を選ぶ時とは違う発見がある。


 風に揺れる花弁は、光の当たり方によって色を変えていた。


 その柔らかな変化を眺めているうちに、エレノアは少しだけ心が軽くなるのを感じた。


(こういう時間も、大切にしてよいのよね。何かを調べたり、答えを探したりしていない時でも、私はここで過ごしていてよいのだわ)


 エレノアは静かに息を吸い、秋の空気を胸いっぱいに取り込んだ。


     ◇ ◇ ◇


 花壇を離れたあと、二人は南側の小道を進んだ。


 やがて、庭師のギュスターヴ・メルシエが、石畳の端に集まった落ち葉を片づけている姿が見えた。


 ギュスターヴはエレノアたちに気づくと、作業の手を止めて一礼した。


「エレノア様、おはようございます。今朝はお散歩でいらっしゃいますか」


「おはようございます、ギュスターヴ。はい。今日は秋のお庭を眺めたくて、リディアと一緒に歩いているのです」


 エレノアがそう答えると、ギュスターヴは穏やかに微笑んだ。


「それはよろしゅうございます。ただ、昨夜の風で葉が多く落ちております。こちらの道は整えておりますが、奥の方にはまだ濡れた葉が残っておりますので、どうぞお気をつけください」


「ありがとうございます。足元をよく見ながら歩きます」


 エレノアは丁寧に礼を述べた。


 ギュスターヴは再び作業へ戻ろうとしたが、その前に、エレノアは少し迷ってから声をかけた。


「あの、ギュスターヴ。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」


 ギュスターヴは手を止め、エレノアへ向き直った。


「はい。私に分かることでございましたら、何なりとお尋ねください」


 エレノアは南側の花壇へ視線を向けた。


「この季節のお庭で、ギュスターヴが特に綺麗だと思う場所はありますか。今日は何かを探しているわけではないのですけれど、普段お庭を整えてくださっている方が、どんな景色を好きなのか知りたくなったのです」


 ギュスターヴは少し驚いたように瞬きをした。


 エレノアが何かの記録や昔の出来事について尋ねることは、これまでにもあった。


 けれど、庭師自身が好きな景色を尋ねられたのは、少し意外だったらしい。


 やがて、彼は穏やかに微笑んだ。


「そうでございますね。私でしたら、南側の花壇から少し東へ進んだところにある、小さな曲がり角でしょうか。あそこは朝の光が斜めに差し込みまして、秋になると葉の色がとても綺麗に見えるのでございます」


 エレノアは目を輝かせた。


「そうなのですね。そこへ行ってみてもよろしいでしょうか」


「もちろんでございます。ただ、曲がり角の手前に少し段差がございますので、どうぞお気をつけください」


「ありがとうございます。教えていただけて嬉しいです」


 エレノアは微笑み、リディアとともに教えられた道へ向かった。


 ギュスターヴは二人の後ろ姿を見送りながら、少しだけ表情を和らげた。


 以前のエレノアは、何かを尋ねる時にも、どこか遠慮がちな様子を見せることがあった。


 けれど今は、自分が見たいと思う景色について、自然に尋ねてくれた。


 庭師にとって、それは嬉しいことだった。


 彼は再び落ち葉を集めながら、静かに作業を続けた。


     ◇ ◇ ◇


 ギュスターヴに教えられた曲がり角は、南側の花壇から少し東へ進んだところにあった。


 道の片側には低い生垣が続き、反対側には細い枝を広げた木々が並んでいる。朝の光はその枝の間を通り、石畳の上へ細長い影を落としていた。


 エレノアは段差に気をつけながら曲がり角へ進み、そこで足を止めた。


「まあ……」


 思わず、小さな声がこぼれた。


 目の前には、黄色や赤褐色に色づいた葉が、重なり合うように広がっていた。


 風が吹くと、枝先の葉が柔らかく揺れ、光を受けた部分だけが金色に輝く。足元には落ち葉が散っていたが、石畳の中央は丁寧に整えられており、安心して立ち止まることができた。


 エレノアはしばらく、その景色を眺めていた。


「本当に綺麗ね。ギュスターヴが好きだとおっしゃった理由が、少し分かる気がするわ」


 リディアも隣で頷いた。


「はい。こちらは普段、通り過ぎることが多い場所でございますけれど、立ち止まって眺めると、こんなにも綺麗なのですね」


「そうね。今まで気づかなかったわ」


 エレノアは木々の間へ目を向けた。


 特別な建物があるわけでも、珍しい花が咲いているわけでもない。


 けれど、光と葉の色が重なるだけで、こんなにも美しい景色になる。


 そのことが、エレノアには新鮮だった。


(私は、今まで何かを探そうとしてお庭を歩くことが多かったのかもしれないわ。でも、こうして立ち止まるだけでも、知らなかった景色に出会えるのね)


 エレノアは静かに微笑んだ。


 その時、足元で乾いた葉が一枚、風に押されて転がった。


 葉は石畳の端で止まり、朝日を受けて淡く輝いている。


 エレノアはその葉を見つめ、ふと、母のことを思い出した。


 母も、かつてこの庭を歩いたのだろう。


 この曲がり角を通ったことがあるかどうかは分からない。


 けれど、同じ庭の季節の移ろいを眺めていたかもしれない。


 そう考えると、胸の奥に柔らかな寂しさが広がった。


 エレノアは少しだけ目を伏せた。


「リディア、母様も、こんな景色をご覧になったことがあるのかしら」


 リディアはすぐには答えず、木々の方へ視線を向けた。


「アデライン様がこちらの場所を歩かれたかどうかは、私には分かりません。ただ、お庭がお好きだったと伺っておりますので、季節の景色を楽しまれたことはあったのではないでしょうか」


 エレノアは静かに頷いた。


「そうね。どこを歩かれたのか、すべて分かるわけではないものね」


 その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。


 けれど、エレノアはすぐに顔を上げた。


「でも、今日ここを歩いたことは、私の思い出になるわ。ギュスターヴに教えていただいた、この景色を忘れないようにしたい」


 リディアは優しく微笑んだ。


「はい。きっと素敵な思い出になりますね」


 エレノアはもう一度、目の前の木々を眺めた。


 母の足跡を探すことと、自分の足跡を残すこと。


 その二つは、決して反対のことではない。


 母が大切にした庭で、自分も新しい景色を見つけていけばよいのだ。


     ◇ ◇ ◇


 庭園から戻る頃には、朝の冷たさも少し和らいでいた。


 玄関へ向かう途中、エレノアは石畳の上に残る落ち葉を見つめながら、今日見た景色をどう残そうかと考えていた。


 日記に書くのもよい。


 けれど、できれば絵にもしてみたいと思った。


 母の古い絵とは違い、自分が今日見た景色を、自分の手で描いてみたい。


 上手に描けるかどうかは分からないが、そのことはあまり気にならなかった。


 エレノアはリディアへ微笑みかけた。


「ねえ、リディア。今日見た曲がり角の景色を、少し描いてみたいの。お部屋に戻ったら、紙と鉛筆を用意していただけるかしら」


「もちろんでございます。お嬢様がご覧になった景色を、絵に残されるのですね」


「ええ。母様の絵を見つけてから、私も自分の思い出を残してみたいと思うようになったの」


 リディアは嬉しそうに頷いた。


「それは素敵でございますね。お部屋へ戻りましたら、すぐにご用意いたします」


 エレノアは微笑み、邸の中へ入った。


 廊下には温かな空気が流れ、窓から差し込む日差しが床を明るく照らしている。


 自室へ戻ると、リディアは机の上へ紙と鉛筆を用意した。


 エレノアは椅子へ腰を下ろし、先ほど見た景色を思い浮かべながら、ゆっくりと線を引き始めた。


 生垣の形。


 曲がり角の石畳。


 枝の間から差し込んでいた光。


 そして、黄色や赤褐色に色づいた葉。


 絵を描くことに慣れているわけではないため、思うように線が引けないところもあった。


 それでも、エレノアは急がずに鉛筆を動かした。


 完璧な絵にすることが目的ではない。


 今日、自分が綺麗だと思った景色を、忘れないように残したいのだ。


 しばらくして、リディアが温かいお茶を運んできた。


「エレノア様、少しお休みになりませんか。お庭を歩かれたあとですし、温かいお茶をご用意いたしました」


「ありがとう。ちょうど、少し休もうと思っていたところなの」


 エレノアは鉛筆を置き、描きかけの絵を眺めた。


 まだ完成していないが、曲がり角の形は少しずつ見えてきている。


「上手に描けているかは分からないけれど、見ていると、さっきの景色を思い出せる気がするわ」


 リディアは絵へ目を向け、穏やかに微笑んだ。


「お嬢様が今日ご覧になった景色が、丁寧に描かれていると思います。完成が楽しみでございますね」


 エレノアは嬉しそうに頷いた。


 母の思い出を探す日々の中で、自分自身の思い出も増えていく。


 そのことが、今はとても嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアは描きかけの絵を机の上へ置いたまま、青い花の刺繍を進めていた。


 庭園で見た紫色の花を思い出しながら、糸の色を確かめていると、扉を叩く音が聞こえた。


「エレノア、少しいいかな」


 聞こえてきたのは、セドリックの声だった。


「はい、お兄様。どうぞ」


 セドリックが入室すると、エレノアは刺繍枠を膝の上へ置き、微笑んだ。


「お兄様、今日はお庭を歩いてきました。ギュスターヴに教えていただいた場所が、とても綺麗だったのです」


「そうだったのか。どんな場所だったんだい」


 エレノアは机の上の紙を手に取り、セドリックへ見せた。


「南側の花壇から少し東へ進んだ曲がり角です。秋の葉が朝日に照らされて、とても綺麗だったので、絵にしてみようと思ったのです」


 セドリックは絵を受け取り、丁寧に眺めた。


「なるほど。あの辺りかな。確かに、秋になると光の入り方が綺麗な場所だね」


「お兄様もご存じなのですね」


「何度か通ったことはあるよ。でも、こうして絵にしてもらうと、普段とは違うところに目が向く気がする」


 エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


「私も、今まで気づかなかった景色でした。今日は何かを探すためではなく、ただ綺麗だと思う場所を見つけたかったのです」


 セドリックはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「それはいいね。エレノアが自分で見つけた景色なら、きっと大切な思い出になると思うよ」


 エレノアは少し照れたように目を伏せた。


「ありがとうございます。まだ上手に描けているわけではありませんけれど、完成したら日記と一緒に残しておきたいと思っています」


「うん。完成したら、また見せてもらえると嬉しいな」


「はい。ぜひ見てください」


 セドリックは絵を丁寧に返し、エレノアの刺繍へ目を向けた。


「青い花の方も、少し進んだようだね」


「ええ。今日見たお花の色が綺麗だったので、少しだけ糸の重ね方を考えていました」


 エレノアは刺繍枠を持ち上げ、花弁の部分を見せた。


 淡い青色の糸の上に、少し濃い色が重ねられている。


 セドリックはその様子を眺め、微笑んだ。


「柔らかな色になってきたね。エレノアらしいと思うよ」


 その言葉に、エレノアは少し驚いたように顔を上げた。


「私らしい、ですか」


「うん。派手すぎないけれど、よく見ると色が丁寧に重ねられている。君が時間をかけて考えていることが伝わってくる気がするんだ」


 エレノアは刺繍へ目を落とした。


 自分らしいと言われることは、まだ少し不思議だった。


 以前の自分は、周囲の人々に求められる姿へ近づこうとしていた。


 自分がどんなものを好きなのか、何を綺麗だと思うのかを、深く考える余裕がなかった。


 けれど今は、糸の色を選ぶ時にも、自分の気持ちを大切にしている。


「ありがとうございます、お兄様。そう言っていただけると、とても嬉しいです」


 セドリックは穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、見せてくれてありがとう」


     ◇ ◇ ◇


 その頃、アルフォンスの執務室では、エレーヌが衣類の書類束についての準備状況を報告していた。


 前回の確認記録と保存状態を照らし合わせ、次に作業を行う際の手順を整理しているという。


 ただし、まだ実施日は決まっていない。


 マルタの予定を確認する必要があり、原本を扱うための準備も残っていた。


「エレノア様がご希望された立会人については、記録に反映しております。次の確認では、前回の立会人に加えてセドリック様にも同席いただく方向で準備を進めております」


 エレーヌがそう説明すると、アルフォンスは頷いた。


「ありがとう。本人が望んだことだから、できる限り尊重したい。ただ、書類の状態を確かめる前に、無理な予定を組まないようにしてほしい」


「承知いたしました。原本の状態によっては、確認できる範囲が限られる可能性もございます。その場合は、事前にご説明いたします」


 アルフォンスは静かに息をついた。


 ベルナール家から届いた正式な返書では、帳簿の曖昧な記載について、現存する資料だけでは判断できないとされていた。


 『ロラン』という姓が記録者を示すのか、確認者を示すのか。


 その点は、まだ解決していない。


 衣類の書類束に何か新しい記載があったとしても、両者が直接結びつくとは限らない。


 だからこそ、調査の順序を誤るわけにはいかなかった。


「エレーヌ、今回の書類束については、確認した内容をそのまま記録してほしい。ベルナール家の帳簿と関連がありそうに見える記載があっても、根拠が揃うまでは別のものとして扱おう」


「はい。推測と確認済みの事実を分けて管理いたします」


 アルフォンスは頷き、窓の外へ目を向けた。


 庭園では、秋の光が木々の葉を照らしている。


 エレノアが今日、庭を歩いていると聞いていた。


 彼女が過去の記録だけに心を縛られず、今の生活を楽しめることを、アルフォンスは何より大切に思っていた。


 同時に、彼女が自分の過去を確かめたいと望むなら、そのための手助けもしたかった。


 どちらか一方だけを選ぶ必要はない。


 そのことを忘れずに、準備を進めていこうと考えた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアは机の上の絵をもう一度眺めていた。


 午前中に描き始めた曲がり角の景色は、まだ完成していない。


 それでも、木々の形や石畳の曲がり方は少しずつ整い、今日見た景色を思い出せるようになっていた。


 エレノアは鉛筆を手に取り、葉の重なりを少し描き加えた。


 窓の外では、夕日が庭園を柔らかな橙色に染めている。


 朝とは違う光の中で、木々の色は少し落ち着いて見えた。


 エレノアはその変化を眺め、静かに微笑んだ。


(同じお庭でも、朝と夕方ではこんなに違って見えるのね。今日見た景色も、明日にはまた少し変わっているのかもしれないわ)


 そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。


 母がかつて見た庭と、今の自分が見ている庭。


 同じ場所であっても、季節も時間も違う。


 だからこそ、母の思い出を大切にしながら、自分自身の思い出も残していきたいと思った。


 エレノアは鉛筆を置き、日記帳を開いた。


『今日は、リディアと一緒に秋のお庭を歩きました。ギュスターヴに教えていただいた曲がり角では、黄色や赤褐色の葉が朝日に照らされて、とても綺麗でした。私は、あの景色を忘れないように、絵に描いてみようと思いました。』


 そこまで書くと、少し考え、続けて文字を記した。


『母様が同じ景色をご覧になったことがあるかどうかは分かりません。でも、今日私が見た景色は、私自身の大切な思い出になりました。これからも、母様のことを知りながら、私の好きなものも少しずつ見つけていきたいです。』


 エレノアは筆を置き、日記帳を静かに閉じた。


 自分の好きなものを見つけること。


 自分が綺麗だと思った景色を残すこと。


 それは、以前の彼女にとって、当たり前のようでいて難しいことだった。


 けれど今は、誰かの許しを待たなくても、自分の気持ちを大切にしてよいのだと思える。


 そのことが、胸の奥に温かな喜びを残していた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、夕食を終えたエレノアは、自室へ戻ってから少しだけ刺繍を進めた。


 青い花の花弁へ糸を重ねながら、今日の庭園で見た紫色の花を思い出していた。


 窓辺には、母の古い額に収めた桃色の野薔薇の刺繍がある。


 その近くには、描きかけの庭園の絵が置かれていた。


 母の思い出と、自分の新しい思い出。


 その二つが同じ部屋にあることが、エレノアには嬉しかった。


 しばらくして、リディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。


「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日はお庭を歩かれましたし、少しお疲れではございませんか」


「ええ、そうね。今日はとても楽しかったわ」


 エレノアは刺繍枠を置き、微笑んだ。


「ギュスターヴに教えていただいた場所も綺麗だったし、絵を描くのも楽しかったの。明日も少し続きを描いてみたいわ」


「それは何よりでございます。完成したら、きっと素敵な思い出になりますね」


 リディアはそう答え、机の上の道具を整えた。


 エレノアは窓の外へ目を向けた。


 夜の庭園は暗く、木々の形だけがぼんやりと見えている。


 朝にはあんなにも鮮やかだった葉の色も、今は闇の中へ溶け込んでいた。


 それでも、今日見た景色は、エレノアの心に残っている。


(明日になっても、今日のことを思い出せるわ。絵が完成したら、もっとはっきりと思い出せるかもしれない)


 エレノアは静かに微笑んだ。


 書類束の確認日は、まだ決まっていない。


 ベルナール家の帳簿についても、分からないことが残っている。


 母の持ち物の行方も、すべて明らかになったわけではない。


 けれど、それらを確かめる日を待ちながら、今の生活を楽しんでもよいのだ。


 エレノアは寝台へ入り、掛け布を胸元まで引き上げた。


 リディアが灯りを落とすと、室内には柔らかな暗さが広がった。


 窓の外からは、秋の風が木々を揺らす音が聞こえている。


 エレノアはその音に耳を傾けながら、今日の曲がり角の景色を思い浮かべた。


 黄色い葉。


 赤褐色の枝。


 石畳へ差し込んでいた朝の光。


 そして、ギュスターヴが教えてくれた、庭師だけが知っているような小さな美しさ。


 その景色は、母の記録の中にはないかもしれない。


 けれど、今日からはエレノア自身の記憶の中に残る。


 母の足跡を探すだけではなく、自分の足跡も残していく。


 そのことを、少しずつ覚えていきたいと思った。


 エレノアは穏やかな呼吸を重ねながら、静かに目を閉じた。


 明日もまた、自分が大切にしたいものを、一つずつ見つけていけますように。


 そう願いながら、秋の夜の静かな眠りへ落ちていった。

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