第78話 封じられた頁を開くために、私が選んだ立会人
秋の朝は、日に日にその冷たさを増していた。
ロシュフォール邸の庭園では、夜の間に降りた露が芝生の先端を濡らし、東から差し込む朝日を受けて小さく輝いている。窓の向こうに見える木々は少しずつ黄色を深め、風が吹くたびに、枝を離れた葉がゆっくりと石畳へ舞い落ちていた。
エレノアは寝台の上で目を覚ますと、しばらくその景色を眺めていた。
昨日、祖母マルグリットから聞いた母アデラインの話が、まだ胸の中に残っている。
母は庭園で本を読んだり、刺繍の図案を考えたりしていたという。そして幼い自分と歩く時には、その小さな歩幅に合わせて足を進めてくれていたらしい。
その姿を、エレノア自身が鮮明に思い出せるわけではなかった。
それでも、母の手の温かさを思い浮かべると、寂しさの奥に柔らかなものが広がっていく。
(母様のことを、また一つ知ることができたのよね。分からないことはまだ多いけれど、昨日のお話は、ずっと大切にしていたいわ)
エレノアは掛け布の上へ置いていた手をそっと握り、ゆっくりと身体を起こした。
寝台の脇に置かれた小卓には、昨夜閉じた日記帳がある。その表紙を眺めているうちに、もう一つ、以前から気にかかっていたことを思い出した。
ベルナール家から運び出された、衣類に関する書類束のことだった。
叔父アルフォンスたちが立ち会ったもとで、最初の二枚はすでに確認している。しかし、それより後ろの頁は、まだ封じられた状態のまま残されていた。
以前、エレノアはその続きを確かめたいと叔父へ相談した。
急いで開くのではなく、記録の状態を守りながら、誰がどのように確認するのかを決める必要があると説明されている。
そのことには納得していた。
けれど、今朝は少しだけ、以前とは違う気持ちが芽生えていた。
(私は、何が書かれているのかを知りたい。でも、もし私の知らないことが書かれていたら、落ち着いて読めるかしら)
ベルナール家での生活を思い返せば、心が痛むことはいくつもある。
自分の衣装がいつの間にか減っていたこと。
母の持ち物が、知らないうちに移されていたこと。
尋ねても、納得できる説明を受けられなかったこと。
そして、何かがおかしいと感じても、強く問いただすことができなかった自分のこと。
書類を開けば、それらに関係する記録が見つかるかもしれない。
反対に、何も分からないまま終わる可能性もあった。
どちらにしても、確かめる前から答えを決めてはいけない。
そう理解していても、胸の奥には小さな不安が残っていた。
やがて扉を叩く音が聞こえ、リディアが朝の挨拶とともに入室した。
「エレノア様、おはようございます。今朝は昨日より少し冷え込んでおりますので、暖かい上着をご用意いたしました」
「おはよう、リディア。ありがとう。窓の外はとても綺麗だけれど、もうすっかり秋が深まってきたのね」
リディアは窓辺へ視線を向け、微笑んだ。
「そうでございますね。庭師たちも、落ち葉のお掃除が忙しくなっているようでございます。昨日は南側の小道を整えておりましたが、今朝は西側にも落ち葉が増えていると聞きました」
「そうなのね。お庭を歩く時には、足元に気をつけなければいけないわ」
エレノアは微笑みながら寝台を降りたが、衣装を選んでもらう間も、書類束のことが頭から離れなかった。
リディアはその様子に気づいたらしく、淡い青色の上着を広げながら、静かに尋ねた。
「何か、お気にかかることがございますか。今朝は少し、お考えごとをなさっているようにお見受けいたします」
エレノアは鏡の中でリディアと目を合わせ、少し迷ってから口を開いた。
「以前、叔父様にお願いした衣類の書類束のことを考えていたの。まだ開いていない頁があるでしょう。続きを確認したい気持ちは変わらないのだけれど、どんなことが書かれているのかと思うと、少し緊張してしまって」
リディアはすぐに励ます言葉を重ねることはせず、エレノアの肩へ上着を掛け、襟元を整えた。
「そうでございますか。以前の記録を確かめることは、お嬢様にとって簡単なことではございませんものね。私も、あの書類に何が残されているのかは分かりません」
「ええ。知りたいと思っているのに、怖いと思うのは、おかしなことかしら」
エレノアが小さな声で尋ねると、リディアは穏やかに首を横に振った。
「おかしなことではないと思います。大切なことだからこそ、知りたいお気持ちと、不安なお気持ちが一緒にあるのではないでしょうか」
その答えに、エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうね。私、何かが分かった時に、自分がどう感じるのかも、まだ分からないのだと思うわ」
「でしたら、確認する時には、無理をなさらなくてもよいように準備しておくことが大切かもしれません。途中でお休みになりたい時に、そうお伝えできるようにしておくのはいかがでしょう」
エレノアはしばらく考え、静かに頷いた。
書類を開くことだけを目標にするのではなく、自分がどのように向き合いたいのかも考えてよいのだ。
そのことに気づくと、胸の奥にあった不安が、少しだけ輪郭のあるものへ変わった。
「ありがとう、リディア。今日、叔父様とお話しできたら、そのことも相談してみるわ」
「はい。私でお役に立てることがございましたら、どうぞお申しつけくださいませ」
エレノアは微笑み、鏡の中の自分へ目を向けた。
淡い青色の上着は、今朝の空によく似た色をしていた。
母のことを思い出した昨日とは、また違う一日が始まろうとしている。
それでも、今の自分なら、怖いと思うことについても、少しずつ言葉にできるような気がした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の冬支度について話していた。
今朝は西側の小道に落ち葉が多く、庭師のギュスターヴ・メルシエが、石畳の隙間に入り込んだ葉を丁寧に取り除いているという。雨のあとに葉が重なると滑りやすくなるため、これからの季節は特に気をつけなければならないらしい。
セドリックは祖父の話を聞きながら、窓の外へ視線を向けた。
「昨日よりも葉の色が濃くなったように見えますね。あの菩提樹も、もう少しすれば枝が随分と寂しくなるのでしょう」
「そうだね。けれど、冬の枝にも冬の美しさがあるものだよ。葉が落ちると、今まで隠れていた庭の向こう側まで見えるようになるからね」
オーギュストの言葉に、マルグリットが穏やかに微笑んだ。
「春や夏とは違う景色になりますね。エレノアも、これから少しずつ変わっていく庭を楽しめるとよいわ」
「はい、お祖母様。昨日お話を聞いてから、お庭を眺めるのが前より楽しみになりました」
エレノアがそう答えると、祖母は嬉しそうに頷いた。
食卓には焼きたてのパンと温かなスープが並び、柔らかな湯気が立ち上っている。家族の会話を聞きながら食事を進めているうちに、エレノアの気持ちも少しずつ落ち着いてきた。
やがて話題が一段落したところで、エレノアはアルフォンスへ視線を向けた。
「叔父様、今日、少しお時間をいただくことはできますか」
アルフォンスは手にしていた茶器を置き、姪の表情を確かめた。
「もちろんだよ。何か相談したいことがあるのかな」
「はい。以前お願いした、衣類の書類束についてです。続きを確認する時のことを、もう少し詳しく相談したいと思っているのです」
アルフォンスは静かに頷いた。
「分かった。エレーヌとも準備について話しているところだから、今の段階で説明できることはあると思うよ。午後なら落ち着いて時間を取れるけれど、それでよいかな」
「はい。ありがとうございます」
エレノアはほっと息をついた。
アルフォンスはその様子を見て、少し声を和らげた。
「エレノア、今日すぐに書類を開かなければならないわけではないからね。まずは君が何を確かめたいのか、どういう形なら安心して確認できるのかを、一緒に考えよう」
「はい、叔父様。私も、そのことをお話ししたいと思っていました」
セドリックは二人の会話を聞き、エレノアへ穏やかな眼差しを向けた。
「必要なら、僕も話を聞くよ。もちろん、エレノアが望むならだけれど」
エレノアは従兄の顔を見た。
セドリックは、これまで何度も自分の気持ちを尊重してくれた。
母の思い出を尋ねた時も、庭園を歩いた時も、何かを急いで決めるよう求められたことはない。
書類を確認する時にも、彼がそばにいてくれたら心強いだろう。
けれど、それを当然のこととして決めるのではなく、自分の希望を尋ねてくれている。
「ありがとうございます、お兄様。もしお時間があるのでしたら、今日のお話し合いにもご一緒していただけると嬉しいです」
セドリックは微笑んだ。
「分かった。午後は時間を空けておくよ」
マルグリットは二人のやり取りを見守りながら、静かに口を開いた。
「エレノア、もし話している途中で疲れたら、遠慮なく休みなさいね。今日は相談をする日なのですから、すべてを決めてしまわなくてもよいのですよ」
「はい、お祖母様。ありがとうございます」
エレノアは頷き、温かなスープを口へ運んだ。
自分のために時間を取ってくれる家族がいる。
そのことを感じるたびに、胸の奥に小さな安心が積み重なっていく。
しかし、安心できるからこそ、今度は自分自身も、きちんと考えて伝えたいと思った。
何を知りたいのか。
何が怖いのか。
誰にそばにいてほしいのか。
午後の話し合いでは、それらを曖昧にせず、できる限り自分の言葉で伝えようと、エレノアは心に決めた。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で刺繍を進めていた。
小卓の上には、昨日選んだ青い糸と、まだ完成していない花の刺繍枠が置かれている。花弁の重なる部分には少し濃い青色が加わり、淡い輪郭との間に柔らかな陰影が生まれ始めていた。
エレノアは針を進めながら、午後の相談で伝えたいことを考えていた。
書類を開く目的は、失われた衣装について何かを確かめるためだ。
けれど、衣装がどこへ行ったのかという疑問だけではない。
自分の名前が書かれた書類を、自分自身が確かめたいという気持ちもあった。
以前の生活では、衣装や持ち物について、本人である自分に十分な説明がないまま物事が進むことがあった。
それがどれほど不自然なことだったのか、ロシュフォール邸で暮らすようになってから、少しずつ分かってきた。
(私の衣装だったのに、私は何も知らなかった。だから今度は、誰かに説明していただくだけではなく、自分の目でも確かめたいのだと思うわ)
針を止めたエレノアは、刺繍枠を膝の上へ置いた。
その時、リディアが小卓へ新しい糸を並べながら、静かに声をかけた。
「午後のお話し合いについて、何かお考えでございますか」
「ええ。叔父様に何をお願いしたいのか、考えていたの。書類の続きを見たいというだけでは、少し足りない気がして」
リディアは椅子のそばへ立ち、エレノアの言葉を待った。
「私、自分の衣装について書かれたものなら、できるだけ自分で確かめたいの。でも、文字を読んで分からないところがあったら、説明していただきたいし、途中で気持ちが落ち着かなくなったら、少し休ませていただきたいと思っているわ」
「大切なご希望だと思います。確認することと、その場で何かを判断することは、必ずしも同じではございませんから」
エレノアは顔を上げた。
「そうね。もし知らない名前や記録が出てきても、すぐに誰かの責任だと決めてしまうことはできないもの」
「はい。書かれていることを確かめるだけでも、十分に意味があると思います」
リディアはそう答えたあと、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「それから、エレノア様。もし私がおそばに控えることをご希望でしたら、もちろんお仕えいたします。ただ、私自身もベルナール家でのすべての事情を知っているわけではございません。分からないことについては、分からないと申し上げることになると思います」
エレノアは静かに頷いた。
「それでよいのよ、リディア。知らないことまで答えてほしいわけではないの。ただ、あなたがそばにいてくれたら、少し安心できると思うの」
その言葉を聞いたリディアは、わずかに目元を和らげた。
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけることを、嬉しく思います」
エレノアは再び針を手に取った。
今朝まで漠然としていた不安が、少しずつ言葉になっていく。
書類に何が書かれているかは、まだ分からない。
それでも、確かめる時に自分がどうしたいのかは、少しずつ分かってきた。
エレノアは濃い青の糸を花弁へ重ね、ゆっくりと針を進めた。
一本の糸だけでは、花の形は完成しない。
けれど、どこへ糸を通すのかを考えながら重ねていけば、少しずつ自分の望む形へ近づいていく。
午後の相談も、きっと同じなのだろう。
すべてを一度に決める必要はない。
まずは、自分の希望を一つずつ伝えることから始めればよいのだ。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアがアルフォンスの執務室を訪れると、室内にはすでにセドリックとエレーヌ・フォシェがいた。
窓から差し込む日差しは机の端を照らし、書棚の背表紙に細長い影を落としている。暖炉にはまだ火が入っていなかったが、室内はほどよく暖かく、開かれた窓の隙間からは庭の葉が揺れる音がかすかに聞こえていた。
アルフォンスは机の向こうから立ち上がり、エレノアへ微笑んだ。
「来てくれてありがとう、エレノア。今日は書類そのものを開くのではなく、今後の確認方法について相談するつもりだよ」
「はい、叔父様。よろしくお願いいたします」
エレノアは一礼し、勧められた椅子へ腰を下ろした。
リディアはその少し後ろへ控え、セドリックはエレノアの斜め向かい側に座っている。エレーヌは机の端に管理記録を置き、必要な時に説明できるよう準備していた。
エレノアは室内の様子を見渡し、少しだけ緊張した。
書類の確認について話すだけだと分かっていても、ベルナール家に関係するものを前にすると、身体が自然に強張ってしまう。
それに気づいたセドリックが、穏やかに声をかけた。
「エレノア、急いで話さなくても大丈夫だよ。今日は君の考えを聞くために集まっているのだから」
「ありがとうございます、お兄様」
エレノアは小さく息を整えた。
アルフォンスはその様子を見守ってから、エレーヌへ視線を向けた。
「まず、現在の書類の状態について、確認しておこうか」
エレーヌは頷き、管理記録を開いた。
「承知いたしました。以前確認した『エレノア衣類』と記された書類束について、現在までに開かれたのは冒頭の二枚のみでございます。残りの部分は、その後も開封しておりません。内容については未確認であり、どのような記載があるかを推測で申し上げることはできません」
エレノアは静かに耳を傾けた。
エレーヌは続けた。
「また、前回の確認では、立会人と確認した範囲を記録しております。次に続きを確認する場合にも、どこからどこまでを開いたのか、誰が立ち会ったのか、どのような状態だったのかを明確に残す必要がございます」
「その記録は、後から確認することもできるのでしょうか」
エレノアが尋ねると、エレーヌは穏やかに頷いた。
「はい。お嬢様に関係する記録でございますので、適切な形でご説明することは可能です。ただし、原本の扱いについては、保存状態を確かめながら進める必要がございます」
エレノアはその答えを聞き、少し考えた。
書類の内容を知ることだけではなく、どのように確認されたのかも残しておく。
その意味が、以前よりもはっきりと分かる気がした。
「ありがとうございます。私、前に開いた二枚についても、後からどこまで確認したのか分からなくならないようにしておきたいです」
「もちろんだよ」
アルフォンスは穏やかに答えた。
「それから、ベルナール家へ問い合わせている帳簿の件についても、今の状況を伝えておこう。先方から正式な返書は届いているけれど、記録の欄が重なっている理由や、『ロラン』という姓がどちらの役割を示しているのかについては、まだ確定できていない」
エレノアは頷いた。
返書が届いたと聞いた時、何かが分かるのではないかと期待した。
しかし、調べた結果として、現存する資料だけでは判断できないこともある。
その事実を、叔父たちは曖昧にせず説明してくれた。
「はい。お返事があったことと、答えが分かったことは違うのですよね」
「そのとおりだよ。今回の書類束の確認でも、同じようなことが起こるかもしれない。新しい記載が見つかっても、それだけで事情のすべてが分かるとは限らないんだ」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
期待してはいけないわけではない。
ただ、期待した答えが見つからなかったとしても、それを誰かの隠し事だと決めつけることはできない。
そのことを理解しながら、エレノアは自分の気持ちを言葉にした。
「叔父様、私は、書類の続きを確かめたいです。でも、何かが書かれていたからといって、すぐに答えが出るとは思っていません。まずは、そこに何が残されているのかを、自分の目で見たいのです」
アルフォンスは姪の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「分かった。君がそう考えていることを聞けてよかったよ」
エレーヌも静かに頭を下げた。
「そのご希望を踏まえて、確認方法を考えてまいります」
エレノアは少しだけ胸をなで下ろした。
まだ何も開いていない。
けれど、自分の希望をきちんと伝えられたことが、思っていた以上に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
話し合いは、次に誰が立ち会うかという問題へ移った。
アルフォンスは机の上へ置かれた記録を閉じ、エレノアへ向き直った。
「前回は、私とエレーヌ、それからマルタとリディアが立ち会っていたね。次も同じ形にすることは考えられるけれど、君が希望する人がいるなら、まず聞いておきたい」
エレノアは少し考えた。
前回の確認では、書類を扱う人と、記録を残す人がそれぞれ役割を担っていた。
マルタは以前の確認に立ち会っており、リディアは自分のそばで支えてくれた。
その顔ぶれが変わることに、不安がないわけではない。
しかし、今日ここにいるセドリックにも、そばにいてほしいと思っていた。
「叔父様、前回と同じように、エレーヌ様とマルタにもお願いできたら安心です。それから、リディアにもそばにいてほしいと思っています」
アルフォンスは頷いた。
「分かった。マルタの都合も確認してみよう。リディアについては、本人の希望も聞いておきたいね」
エレノアは振り返り、リディアへ視線を向けた。
「リディア、お願いしてもよいかしら」
リディアは丁寧に一礼した。
「はい、エレノア様。私でよろしければ、喜んでおそばに控えさせていただきます」
その答えに、エレノアはほっと微笑んだ。
続いて、セドリックへ視線を向けた。
「それから、お兄様にもお願いしたいのです。書類を調べるお仕事を増やしてしまうことになるかもしれませんけれど、私が落ち着いて確認できるように、そばにいていただけたら嬉しいです」
セドリックは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんだよ。僕でよければ、立ち会わせてほしい。ただ、記録の扱いについては父上やエレーヌの判断に従うし、僕自身が知らないことを、知っているように話すつもりもない」
「はい。それで十分です。お兄様がいてくださるだけで、心強いと思います」
エレノアがそう答えると、セドリックは少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう、エレノア。そう言ってもらえるのは嬉しいよ」
アルフォンスは二人のやり取りを見守りながら、静かに口を開いた。
「では、セドリックにも立会人として加わってもらう方向で考えよう。ただし、人数が増えれば、それだけ原本の周囲での動きにも気を配る必要がある。誰が書類を扱い、誰が記録を取り、誰が見守るのかは、事前に決めておこう」
エレーヌは頷き、管理記録へ必要な事項を書き加えた。
「承知いたしました。なお、書類の状態によっては、直接手に取ってご覧いただくのではなく、机の上に置いたまま確認していただくことになるかと存じます」
「それで構いません」
エレノアはすぐに答えた。
「書類を傷めてしまうのは嫌ですもの。私が触れなくても、文字が見えるようにしていただければ、それで十分です」
エレーヌは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。お嬢様がそのようにお考えくださることは、保存の面でも大変ありがたいことでございます」
エレノアは少し照れたように目を伏せた。
以前の自分なら、誰かが決めた方法に従うだけだったかもしれない。
けれど今は、書類を大切にしたいという気持ちも、自分で伝えられる。
それが小さなことのようでいて、エレノアには大きな変化だった。
◇ ◇ ◇
立会人についての話がまとまると、アルフォンスはもう一つ、確認しておきたいことがあると告げた。
「エレノア、次に書類を開く時、君が途中で休みたいと思ったら、遠慮なくそう言ってほしい。これは最初から決めておいた方がよいと思うんだ」
エレノアは叔父の言葉に、少し驚いた。
今朝、リディアと話したことと同じだったからだ。
「叔父様、実は私も、そのことをお願いしたいと思っていました」
「そうだったのかい」
「はい。何が書かれているか分からないので、もし気持ちが落ち着かなくなったら、少し休ませていただきたいんです。でも、途中で止めたら、皆様にご迷惑をおかけしてしまうのではないかと、少し心配していました」
アルフォンスは穏やかに首を横に振った。
「迷惑だとは思わないよ。書類を確認することは大切だけれど、君が無理をしてまで続ける必要はない。途中で止めることになっても、その時点までの状態を記録して、次に引き継げるようにすればよいんだ」
エレーヌも静かに頷いた。
「はい。確認作業を中断する場合には、どこまで開いたか、どのような状態で保管したかを記録いたします。無理に最後まで進めることより、正確に扱うことを優先いたします」
その説明を聞き、エレノアは胸の奥にあった緊張が少しほどけるのを感じた。
途中で止めてもよい。
その言葉は、以前の生活では簡単に受け取れなかったものだった。
ベルナール家では、与えられた役目を途中で止めることに、強い抵抗があった。
疲れていても、体調が優れなくても、終わらせなければならないと思っていた。
そうしなければ、誰かに叱られるかもしれない。
役に立たないと判断されるかもしれない。
その恐れが、長い間、エレノアの中に残っていた。
(でも、ここでは違うのよね。私が休みたいと言っても、責められるわけではない。皆様は、私が落ち着いて確認できることを大切にしてくださっているのだわ)
エレノアは膝の上で握っていた手を、ゆっくりと開いた。
「ありがとうございます、叔父様。そう言っていただけると、安心できます」
アルフォンスは優しく微笑んだ。
「君が自分の気持ちを伝えてくれたから、こちらも準備できるんだよ。何も言わずに我慢する必要はないからね」
セドリックも穏やかに頷いた。
「もし途中で休むことになっても、僕たちは待てるよ。確認することを急いで、エレノアがつらい思いをする必要はないんだから」
エレノアは二人の顔を見つめた。
叔父も従兄も、当然のことのようにそう言ってくれる。
けれど、彼女にとっては、まだ何度も確かめたくなるほど大切な言葉だった。
「はい。もしつらくなったら、きちんとお伝えします」
そう答えると、アルフォンスは満足そうに頷いた。
エレーヌは管理記録へ、本人の希望により随時中断できること、確認を再開する場合には保存状態と記録を再確認することを書き加えた。
その文字を見ながら、エレノアは少し不思議な気持ちになった。
自分の希望が、ただのお願いとして消えていくのではなく、これからの手順の中に残されていく。
そのことが、何より心強かった。
◇ ◇ ◇
話し合いが一段落したところで、エレーヌは書類束の確認方法について、もう少し具体的な説明を始めた。
「次に確認する際には、まず前回の終了状態を確かめる必要がございます。封じられている部分を開く前に、外側の状態を記録し、前回の記録と相違がないかを確認いたします」
エレノアは頷き、説明を聞いた。
「そのあと、開く範囲を決めて作業を進めます。ただし、頁の状態によっては、予定したところまで確認できない可能性もございます。紙が傷んでいる場合や、無理に動かすと破損のおそれがある場合には、作業を止めて判断する必要がございます」
「その時は、内容が気になっていても、開かない方がよいのですね」
「はい。内容を確かめるために原本を傷めてしまっては、後から確認できる情報を失うことにもなりかねません」
エレノアは静かに頷いた。
書類の中に何が書かれているのかは、まだ分からない。
けれど、その書類が今まで残されてきたこと自体に意味があるのだと、改めて感じた。
「分かりました。もし紙の状態がよくなければ、無理に開かず、必要な方法を考えていただきたいです」
エレーヌは丁寧に頭を下げた。
「承知いたしました」
アルフォンスはそのやり取りを聞き、机の上の記録へ目を向けた。
「それから、今回の確認で何か新しい記載が見つかったとしても、その場で結論を出さないことにしよう。必要なら写しを作る方法を検討し、ほかの記録と照らし合わせることになると思う」
エレノアは頷いた。
「はい。私も、書かれていることをすぐに誰かの責任へ結びつけたくはありません」
その言葉に、アルフォンスは少しだけ目を細めた。
「そう考えられるのは大切なことだよ。ただ、何か不自然なことが見つかった時に、君が疑問を持つことまで遠慮する必要はないからね」
エレノアは顔を上げた。
「疑問を持つことは、よいのでしょうか」
「もちろんだよ。分からないことを分からないと言うのも、なぜそうなっているのか尋ねるのも、君の権利だ。ただし、疑問を持つことと、証拠がないまま誰かを断定することは違う。その区別を守ればよいんだ」
エレノアはその言葉を、ゆっくりと受け止めた。
疑問を持つこと。
説明を求めること。
納得できない時に、もう一度確かめたいと言うこと。
以前の自分は、それらをわがままだと思っていた。
けれど今は、叔父が当然のこととして認めてくれる。
その違いに、胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます、叔父様。私、分からないことがあったら、きちんとお尋ねしたいです」
「うん。それでいいよ」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
エレーヌは記録を閉じ、静かに口を開いた。
「本日のお話し合いで、確認方法についてのご希望は整理できたかと存じます。次は立会人の予定と、原本の保存状態を踏まえて、実施できる日を検討いたします」
エレノアは少しだけ身を乗り出した。
「では、今日の時点では、まだ日程は決まらないのですね」
「はい。マルタの都合も確認する必要がございますし、書類を扱うための準備もございます。日程が決まりましたら、事前にお知らせいたします」
エレノアは頷いた。
少し残念な気持ちがなかったわけではない。
けれど、今日の話し合いで、自分が何を望んでいるのかを伝えられた。
それだけでも、確かな前進だった。
「分かりました。急がずに準備していただければ嬉しいです」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「ありがとう、エレノア。今日はここまでにしておこうか。君が望む形を聞けたから、次の準備も進めやすくなったよ」
エレノアは立ち上がり、丁寧に一礼した。
「叔父様、エレーヌ様、お時間をいただいてありがとうございました。お兄様も、ご一緒してくださってありがとうございます」
セドリックは微笑んだ。
「こちらこそ、声をかけてくれてありがとう。次も、必要ならそばにいるよ」
エレノアはその言葉に、心からの笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
執務室を出ると、廊下には午後の柔らかな光が差し込んでいた。
窓の外では、風に吹かれた落ち葉が石畳の上を転がっている。遠くからは庭師たちの作業する音が聞こえ、邸の中には穏やかな時間が流れていた。
エレノアはリディアと並んで歩きながら、先ほどの話し合いを思い返していた。
書類はまだ開かれていない。
失われた衣装の行方も、分からないままだ。
それでも、自分の希望を伝え、確認するための準備を進めてもらえることになった。
その事実が、胸の奥に小さな安心を残していた。
「リディア、今日はお話しできてよかったわ」
エレノアがそう言うと、リディアは穏やかに頷いた。
「はい。お嬢様がご自身のお考えを、丁寧にお伝えになっていたことが印象に残っております」
「少し緊張したの。でも、叔父様もお兄様も、急がなくてよいとおっしゃってくださったから、落ち着いて話せたと思うわ」
「それは何よりでございます」
リディアは微笑んだあと、少しだけ声を和らげた。
「以前のお嬢様でしたら、ご自身のご希望をお伝えになる前に、周囲の都合を気になさっていたかもしれませんね」
エレノアはその言葉に、静かに足を緩めた。
確かに、以前の自分なら、立会人を増やしてほしいとお願いすることさえ、ためらったかもしれない。
途中で休みたいなどと口にすれば、わがままだと思われるのではないかと恐れただろう。
けれど今日は、そうした希望を伝えられた。
そして、誰にも責められなかった。
「そうね。私、少しずつ変わってきているのかもしれないわ」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
「まだ怖いと思うことはあるし、すぐに自信が持てるわけではないの。でも、何も言わずに我慢するより、少しずつでも伝えてみたいと思えるようになったの」
リディアはその横顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「とても大切な変化だと思います。お嬢様が何を望んでいらっしゃるのか、私たちも知ることができますから」
エレノアは頷いた。
自分の気持ちを伝えることは、誰かを困らせるためではない。
むしろ、相手と一緒に考えるために必要なことなのだ。
そう思えるようになったことが、今の彼女には嬉しかった。
◇ ◇ ◇
エレノアたちが廊下を離れたあと、執務室ではアルフォンスとセドリック、エレーヌが、確認作業の準備についてもう少し話していた。
机の上には、先ほどの相談内容を記した紙が置かれている。
アルフォンスはそれを読み返しながら、静かに息をついた。
「エレノアが自分から立会人を希望してくれたのは、よかったと思うよ。以前は、こちらが何かを尋ねても、遠慮してしまうことが多かったからね」
セドリックは頷いた。
「僕もそう思います。今日のエレノアは、緊張していたようですが、何を望んでいるのかを自分の言葉で伝えていました」
「そうだね。だからこそ、こちらもその希望を軽く扱ってはいけない」
アルフォンスは記録へ目を落とした。
エレノアが書類の続きを確認したいと望む理由は、単なる好奇心ではない。
自分の持ち物について、本人が知らないまま何かが行われていた。
その過去と向き合おうとしているのだ。
だからといって、書類を開けば必ず答えが見つかるとは限らない。
むしろ、記録の曖昧さが新たな疑問を生む可能性もある。
「エレーヌ、次の確認では、前回と同じように記録の範囲を明確にしてほしい。新しい記載が見つかった場合も、まずは書かれている内容を正確に残すことを優先しよう」
「承知いたしました。なお、マルタの予定については、これから確認いたします。実施日については、準備が整ってから改めてご相談いたします」
「ありがとう。それから、ベルナール家への追加確認についても、引き続き記録を分けておいてほしい。あちらの帳簿と、こちらの書類束を、最初から同じものとして扱うわけにはいかないからね」
エレーヌは頷いた。
「はい。両者の関係については、確認できる根拠が見つかるまで、推測と事実を区別して管理いたします」
セドリックは二人の会話を聞きながら、窓の外へ目を向けた。
庭園には、秋の日差しが静かに降り注いでいる。
エレノアがロシュフォール邸へ来てから、家族の中には少しずつ新しい日常が生まれていた。
朝食の席で笑い、庭園を歩き、刺繍の色について話す。
その穏やかな時間を大切にしたいと思う一方で、彼女が過去に受けた扱いについて、曖昧なままにしてよいとも思えなかった。
(エレノアが知りたいと思っているのなら、僕たちはその気持ちを支えたい。でも、何が書かれているか分からない以上、期待だけを持たせるわけにもいかない)
セドリックは静かに息をつき、父へ視線を戻した。
「父上、次の確認では、僕もできる限り落ち着いて立ち会いたいと思います。エレノアが不安そうにしていたら、何か声をかけられるかもしれませんが、記録の判断については、父上たちにお任せします」
アルフォンスは息子の言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「それでいいよ。君がエレノアのそばにいてくれることには意味がある。ただ、何かを知っているふりをしたり、無理に安心させようとしたりする必要はないからね」
「はい。分からないことは、分からないと伝えるつもりです」
セドリックはそう答え、机の上の記録へ目を向けた。
次に書類を開く時、何が見つかるのかは分からない。
それでも、エレノアが一人で向き合わなくてもよいようにしたい。
その思いだけは、はっきりしていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室へ戻り、机の上に置かれた青い花の刺繍を眺めていた。
午後の話し合いが終わってから、少しだけ疲れを感じていたため、すぐに針を持つことはせず、窓辺の椅子へ腰を下ろしていた。
庭園では、夕日に照らされた葉が柔らかな金色を帯びている。
昨日、祖母から聞いた母の思い出。
今日、叔父たちへ伝えた自分の希望。
その二つは、まったく違う出来事のようでいて、エレノアの中ではどこかつながっているように感じられた。
母のことを知りたいと願う気持ち。
自分の過去について、確かめたいと願う気持ち。
どちらも、誰かに決められたからではなく、自分自身が望んだことだった。
(私は、知りたいと思っているのね。母様のことも、自分のことも、これからどうしたいのかということも)
エレノアは静かに目を閉じた。
前の人生では、何かを知りたいと思っても、その気持ちを口にできないことが多かった。
周囲の人々が決めたことに従い、疑問を抱いても、尋ねる前に諦めていた。
けれど今は、分からないことを尋ねられる。
自分の気持ちを伝えられる。
そして、答えがすぐに見つからなくても、待つことができる。
その違いが、エレノアには何より大きかった。
しばらくして、リディアが夕食の支度について知らせに来た。
「エレノア様、そろそろお支度のお時間でございます。少しお疲れのようでしたら、温かいお茶をお持ちいたしましょうか」
エレノアは顔を上げ、微笑んだ。
「ありがとう、リディア。でも、少し休んだら落ち着いたわ。今日はお話し合いで緊張したけれど、皆様に希望を伝えられてよかったと思っているの」
「それは何よりでございます」
リディアは穏やかに頷いた。
「次の確認の日程が決まりましたら、また準備をいたしましょう。それまでは、いつものようにお過ごしになってよろしいのですから」
「ええ。明日はまた、青い花の刺繍を進めたいわ。それから、お天気がよければ、少しお庭を歩いてみたいと思っているの」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
「母様が昔、どんなふうにお庭を眺めていらしたのか、想像しながら歩いてみたいの。でも、あの古い絵の場所を無理に探すのではなくて、今の私が綺麗だと思う景色を見つけたいわ」
リディアは微笑んだ。
「それは素敵でございますね。秋のお庭には、今だけの景色がたくさんございますから」
エレノアは頷き、椅子から立ち上がった。
書類の確認も、刺繍も、庭園の散歩も。
どれも、急いで終わらせる必要はない。
自分が望む速さで、一つずつ進めていけばよいのだ。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、エレノアが午後の話し合いについて、祖父母へ簡単に報告した。
次に書類を確認する時には、前回の立会人に加えてセドリックにも同席してもらいたいと伝えたこと。
途中で疲れたり、不安になったりした場合には、作業を止めてもらえるようにしたこと。
そして、まだ日程は決まっていないものの、準備を進めてもらえることになったこと。
オーギュストは話を聞き、穏やかに頷いた。
「自分の希望をきちんと伝えられたのなら、それはよかったね。大切な書類だからこそ、落ち着いて確認できるようにすることが必要だろう」
マルグリットも優しく微笑んだ。
「エレノア、今日はよくお話しできましたね。けれど、準備が整うまで、ずっとそのことばかり考えていなくてもよいのですよ」
「はい、お祖母様。私も、明日は刺繍をしたり、お庭を歩いたりして過ごしたいと思っています」
その答えに、祖母は安心したように頷いた。
セドリックはエレノアへ微笑みかけた。
「庭へ出るなら、落ち葉の多い場所には気をつけてね。今朝、祖父上もおっしゃっていたけれど、石畳が見えにくくなっているところがあるから」
「はい、お兄様。リディアと一緒に、気をつけて歩きます」
エレノアがそう答えると、オーギュストは楽しそうに笑った。
「それなら、庭師たちが整えてくれた小道を歩くとよいよ。今の季節は、少し歩くだけでもいろいろな色が見られるからね」
食卓には穏やかな笑い声が広がった。
エレノアはその空気の中で、温かな食事をゆっくりと味わった。
今日、書類を開いたわけではない。
新しい事実が判明したわけでもない。
それでも、自分の希望を家族へ伝えられたことが、心の中に確かな温かさを残していた。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、日記帳を開いた。
窓辺には、母の古い額に入れた桃色の野薔薇の刺繍が飾られている。
その近くには、まだ完成していない青い花の刺繍枠が置かれていた。
エレノアは筆を取り、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、叔父様たちと衣類の書類束について相談しました。まだ開いていない頁を確認する時には、前回の立会人の方々と、お兄様にもご一緒していただきたいとお願いしました。途中で不安になった時には、休ませていただけることになりました。』
そこまで書くと、エレノアは少し考え、続けて文字を記した。
『私は、書類に何が書かれているのかを知りたいです。でも、どんなことが分かるのかは、まだ分かりません。すぐに答えが見つからなくても、自分の目で確かめることには意味があると思っています。』
筆を置くと、エレノアは日記帳の文字を静かに見つめた。
以前なら、こんなふうに自分の希望を書き残すことさえ、ためらったかもしれない。
けれど今は、何を望んでいるのかを言葉にできる。
そのことが、少し誇らしかった。
リディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。今日はお話し合いもございましたし、ゆっくりお休みいただくのがよろしいかと存じます」
「ええ、そうするわ。ありがとう、リディア」
エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
それから窓辺の刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。
母の思い出を大切にすること。
自分の過去について確かめること。
そして、これからの時間を、自分の意思で選んでいくこと。
どれも、今の彼女にとって大切なものだった。
(まだ知らないことはたくさんあるわ。でも、知らないまま諦めなくてもよいのよね。私は、確かめたいと思ったことを、少しずつ確かめていけばいいのだわ)
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしている。
書類束の残りの頁は、まだ開かれていない。
そこに何が記されているのかも、分からないままだった。
けれど、次に確認する時には、誰にそばにいてほしいのか、どのように進めたいのかを、自分の言葉で伝えることができた。
それは、以前のエレノアには難しかったことだった。
今は、家族がその言葉を受け止め、準備を進めてくれている。
エレノアは掛け布を胸元まで引き上げ、静かに目を閉じた。
明日はまた、青い花の続きを進めよう。
そして、秋の庭園を歩きながら、自分が綺麗だと思う景色を見つけよう。
そう考えているうちに、胸の奥に残っていた緊張は少しずつ和らいでいった。
封じられた頁を開く日は、まだ決まっていない。
それでも、その日を迎えるための準備は、確かに始まっていた。
エレノアは穏やかな呼吸を重ねながら、静かな眠りへ落ちていった。




