第77話 母が残した庭の記憶と、まだ知らない景色を探す午後
翌朝、ロシュフォール邸の庭園には、前日とは違う穏やかな秋の日差しが降り注いでいた。
夜の間に冷え込んだ空気はまだ窓硝子の向こうに残っていたが、朝霧はほとんど見られず、遠くの菩提樹も、南側の花壇も、澄んだ光の中にはっきりと姿を見せている。時折吹く風が黄色く色づいた葉を揺らし、庭師たちが整えた小道へ、薄い影を落としていた。
エレノアは寝台の上で目を覚ますと、しばらくその景色を眺めていた。
昨日は、以前確認した衣類の書類束について、叔父アルフォンスと記録管理を担当するエレーヌ・フォシェに相談した。残りの書類を開く日程は決まらなかったものの、自分が何を知りたいのかを伝えられたことが嬉しく、夜には穏やかな気持ちで眠ることができた。
今朝も、書類のことが気にならないわけではない。
しかし、そればかりを考えて一日を過ごすのではなく、今日という時間の中で自分がしたいことも大切にしたかった。
(今日は青い花の刺繍を進めようかしら。それから、お祖母様にお時間があれば、母様のお話を少し聞いてみたいわ)
母アデラインのことを考えると、エレノアの胸には、懐かしさと寂しさが同時に広がった。
幼い頃の記憶は、年月が経つにつれて曖昧になっている。母がどのような声で笑っていたのか、どんな仕草で髪を整えてくれたのか、思い出せることもあれば、どうしても思い出せないこともあった。
ロシュフォール邸へ来てから、母に関する記録や思い出の品に触れる機会が増えた。
青い花を作りたいと記された古い紙片。
母が使っていた刺繍の額。
庭園で母と幼い自分が一緒に描かれた古い絵。
それらはエレノアにとって大切なものだったが、まだ分からないことも多かった。
特に、あの古い絵については、描かれた場所が庭園のどこなのか、制作された時期や描いた人物が誰なのかも分かっていない。
エレノアは窓辺の桃色の野薔薇の刺繍へ目を向けた。
母の古い額に入れたその作品は、今朝も同じ場所に飾られている。強い日差しが長く当たらないよう気をつけていたため、今は薄いカーテン越しの柔らかな光が、花弁の糸を静かに照らしていた。
(母様も、こんなふうに窓辺で刺繍を眺めたことがあったのかしら)
答えは分からなかった。
けれど、知らないことを考える時間が、以前ほど怖くなくなっていることに、エレノアは気づいていた。
やがて扉を叩く音が響き、リディアが朝の挨拶とともに入室した。
「エレノア様、おはようございます。本日は朝からよいお天気でございますね。昨日よりも少し気温が上がるようですが、朝晩は冷えますので、上着をご用意いたします」
「おはよう、リディア。ありがとう。今朝はお庭がとても綺麗に見えるわね。昨日は雨上がりの花を見られたけれど、今日はまた違う色に見えそうだわ」
リディアは窓の外へ視線を向け、微笑んだ。
「そうでございますね。昨日のお散歩で描かれた青紫色のお花も、今日は花弁が乾いて、少し違った姿になっているかもしれません」
「ええ。でも、今日はお庭へ出るかどうか、まだ決めていないの。青い花の刺繍も進めたいし、お祖母様に母様のお話を聞いてみたい気持ちもあるから」
エレノアがそう答えると、リディアは衣装を選ぶ手を止め、穏やかに頷いた。
「それでしたら、まず朝食の際にマルグリット様のご予定をお尋ねになってはいかがでしょうか。お嬢様がお聞きになりたいことを、ゆっくりお話しできる時間があるとよろしゅうございますね」
「そうね。お祖母様のお時間がある時に、少しだけお願いしてみるわ」
エレノアは微笑み、寝台から降りた。
今日の衣装は、淡いクリーム色の布地に、細い青色の飾り紐を合わせたものだった。リディアが髪を丁寧に整え、控えめな飾りを留めてくれると、鏡の中のエレノアは、昨日よりも少し明るい表情をしているように見えた。
その姿を眺めながら、エレノアは小さく息をついた。
まだ知らないことは多い。
それでも、今日もまた、自分の意思で何かを選べる朝が始まっていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、焼きたてのパンと温かな野菜のスープが並べられていた。
窓から差し込む日差しは食卓の白い布を柔らかく照らし、銀の匙や茶器の縁に小さな光を落としている。暖炉の近くには秋の花が飾られ、室内には焼きたてのパンの香りが穏やかに漂っていた。
オーギュストは庭園の様子について話し、今朝は小道の落ち葉が多かったらしいと笑っていた。
「菩提樹の葉が随分と落ちてきたようだね。庭師たちは朝から忙しそうだったよ。昨日の雨で枝に残っていた葉が、風に吹かれて落ちたのかもしれない」
セドリックはパンを切り分けながら、祖父の言葉に頷いた。
「今朝、廊下の窓から庭を見ましたが、確かに昨日より地面の黄色が増えていました。菩提樹の下へ行けば、また違う景色が見られそうですね」
「そうだね。ただ、落ち葉が重なった場所は滑りやすいこともあるから、歩くなら気をつけなければいけないよ」
エレノアは二人の会話を聞きながら、庭園の景色を思い浮かべた。
以前、菩提樹の下にある石の腰掛けを訪れた時には、母がこの庭で過ごした時間を想像した。けれど、あの場所が母と自分の古い絵に描かれた場所であると確認されたわけではない。
庭園には南側の古い石の腰掛けもあり、それぞれ別の場所として残っている。
エレノアはそのことを思い出し、マルグリットへ視線を向けた。
「お祖母様、今日の午後、もしお時間がありましたら、母様のお話を少し聞かせていただけませんか」
マルグリットは手にしていた茶器を静かに置き、孫娘へ優しい眼差しを向けた。
「もちろんですよ、エレノア。どんなことが聞きたいのかしら」
「以前見つかった、母様と幼い私が描かれた古い絵のことです。あの絵について、まだ分からないことが多いでしょう。描かれた場所を決めつけたいわけではないのですけれど、母様がどんなふうにお庭で過ごしていらしたのか、もっと知りたくなったんです」
マルグリットは少し考えるように目を伏せた。
「そうですね。あの絵そのものについて、私がどこまで覚えているかは分かりませんけれど、アデラインが庭園で過ごしていた頃のことなら、お話しできるかもしれません」
「ありがとうございます。母様がどんな場所をお好きだったのか、どんなことをして過ごしていらしたのか、それだけでも聞けたら嬉しいです」
エレノアが微笑むと、マルグリットも柔らかく頷いた。
「では、午後のお茶の時間にしましょうか。落ち着いてお話しできるように、私の居間へいらっしゃい。昔のことですから、覚えていることと曖昧なことを分けながら、お話ししましょうね」
その言葉に、エレノアは胸が温かくなるのを感じた。
母のことを知りたいという願いを、祖母は自然に受け止めてくれる。
それがどれほどありがたいことなのか、エレノアは今の生活の中で何度も感じていた。
アルフォンスは二人のやり取りを聞き、穏やかに口を開いた。
「母上、もし必要なら、以前確認した絵の記録も用意できるよ。ただ、今日は思い出を話す時間なのだから、必ずしも書類を並べる必要はないと思うけれどね」
「ええ、そうですね。まずはエレノアとゆっくり話してみます。記録を確かめる必要が出てきたら、その時にお願いしましょう」
アルフォンスは頷き、それ以上は話を広げなかった。
エレノアはその様子を見ながら、少し安心した。
古い絵のことを尋ねると、すぐに調査の話になってしまうのではないかと、心のどこかで思っていたからだ。
もちろん、絵の保存状態や制作に関する調査は大切である。
けれど今日は、母のことを知るために、祖母の記憶を聞きたかった。
その希望が尊重されたことが、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めていた。
窓辺の小卓には刺繍糸を入れた箱が置かれ、淡い青色から少し濃い青色まで、いくつかの糸が丁寧に並べられている。今縫っている花は、母が残した「青い花を作りたい」という言葉に心を動かされて始めたものだったが、母の作品を再現するつもりで作っているわけではない。
母がどのような青い花を思い描いていたのかは、分かっていない。
だからこそ、エレノアは自分が綺麗だと思う形と色を選び、少しずつ布の上へ重ねていた。
針を進めると、花弁の端に柔らかな青い線が生まれる。
昨日はその輪郭を少し整えたところで終えていたため、今日は内側の糸の向きを確かめながら、花弁に奥行きを出す部分へ取りかかっていた。
リディアは少し離れたところで衣装の整理をしていたが、エレノアが何度か糸を見比べていることに気づき、静かに声をかけた。
「エレノア様、糸のお色で迷っていらっしゃいますか」
「ええ。ここへ少し濃い青を入れてみたいと思っているのだけれど、今の色とどのくらい違いをつけたらよいのか、まだ決められなくて」
エレノアは刺繍枠を少し持ち上げ、リディアにも見えるようにした。
リディアは手を止めて近づいたものの、すぐに色を決めることはせず、花弁の形を丁寧に眺めた。
「今の糸でも柔らかな印象がございますね。濃い青を加えるのでしたら、花弁の重なっている部分へ少しだけ入れると、陰影が出るかもしれません。ただ、お嬢様がどのような花にしたいかによっても変わると思います」
「そうね。あまり濃くすると、今の柔らかな色が目立たなくなってしまうかもしれないわ」
「試し布へ少し縫ってみるのはいかがでしょうか。実際に糸を重ねた時の印象を確かめてから、こちらへ使うかどうかお決めになれます」
エレノアはその提案に頷いた。
「それがよさそうね。前に別の糸を試した時も、箱の中で見た色と、布へ縫った時の色が少し違って見えたもの」
リディアは試し布を用意し、エレノアが糸を比べやすいよう小卓を整えた。
エレノアは濃さの違う二種類の青い糸を選び、それぞれを短く縫ってみた。
窓から差し込む光の下では、一方は少し紫がかったように見え、もう一方は落ち着いた青色に見える。どちらも綺麗だったが、今の花に合わせるなら、後者の方が自然かもしれない。
エレノアは刺繍枠と試し布を並べ、少し考え込んだ。
(母様がどんな色を選ばれたのかは分からない。でも、私が今作っている花は、私自身が綺麗だと思うものにしてよいのよね)
その考えが胸に浮かぶと、指先の迷いが少し和らいだ。
「リディア、こちらの青にしてみるわ。今の花弁の色を残しながら、重なっているところへ少しだけ入れてみたいの」
「かしこまりました。とても綺麗な組み合わせになると思います」
エレノアは微笑み、選んだ糸を針へ通した。
まだ完成までには時間がかかる。
けれど、急いで仕上げる必要はない。
自分で考え、自分で選び、納得しながら進めていくことが、今の彼女には何より大切だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ロシュフォール邸の執務室では、アルフォンスがエレーヌから書類の整理状況について報告を受けていた。
机の上には、衣類の書類束に関する管理記録と、母娘の古い絵についてまとめた控えが、それぞれ別に置かれている。どちらもエレノアに関係する資料だったが、調査の目的も扱うべき内容も異なるため、アルフォンスは混同しないようにしていた。
「昨日相談した衣類の書類束については、前回の確認記録を整理しております。実物にはまだ触れておりませんが、次に確認する際に必要な立会いと記録方法について、準備できる事項をまとめているところでございます」
エレーヌの報告に、アルフォンスは頷いた。
「ありがとう。急ぐ必要はないから、まずは記録に不足がないか確かめてほしい。エレノアも、自分が何を知りたいのかを考えながら待っているところだからね」
「承知いたしました。なお、ベルナール家からの返書については、昨日の時点から新たな回答は届いておりません。先方の追加確認を待つ状態に変わりはございません」
「そうだね。返書が届いたことと、疑問が解決したことは別だ。その区別は引き続き守ろう」
アルフォンスは机の上の記録へ目を落とした。
衣類の記入者と確認者の欄が重なっている理由は、まだ分かっていない。
そこに残された「ロラン」という姓についても、誰がどの役割を担っていたのかを確定できる状態ではなかった。
また、失われた衣装のうち五着は、現在も行方が分からないままである。
その事実を確認したあと、アルフォンスは別の書類へ視線を移した。
「それから、母娘の古い絵についてはどうかな。専門家への相談の準備は進んでいるだろうか」
エレーヌは少し姿勢を正し、慎重に答えた。
「保存状態の確認と、将来的な複製の可否について相談するため、既存の記録を整理しております。ただし、現物を専門家に確認していただいたわけではございませんので、現段階で保存処置の必要性や複製の方法を決めることはできません」
「分かっているよ。絵を傷めないことが最優先だ。エレノアも、元の色が分からない部分を勝手に補ってほしいとは考えていないようだからね」
「はい。以前のお話し合いでも、お嬢様は分からない部分を分からないまま大切にしたいとおっしゃっておりました。そのご希望は、今後の相談でも重要になるかと存じます」
アルフォンスは頷き、少しだけ窓の外へ目を向けた。
妹アデラインが生きていた頃、庭園には今と同じように季節が巡っていた。
しかし、記憶の中の庭と、今目の前にある庭は、まったく同じではない。
木々は成長し、花壇の植え替えも行われ、石畳の一部には補修が加えられている。古い絵に描かれた景色を探そうとしても、現在の庭園だけを見て、すべてを判断することはできないだろう。
「今日、エレノアは母上からアデラインの話を聞くそうだよ。あの絵についても、少し気になっているらしい」
アルフォンスがそう話すと、エレーヌは穏やかに頷いた。
「それは、お嬢様にとって大切なお時間になりそうでございますね。記録に残っていないことでも、ご家族の思い出として大切にできるものはあると思います」
「そうだね。ただ、母上の記憶を、そのまま絵の制作記録として扱うことは避けたい。思い出と資料は、どちらも大切だからこそ、区別しておくべきだろう」
「おっしゃるとおりでございます。必要がございましたら、後日、記憶として伺った内容と、資料で確認できた内容を分けて整理いたします」
アルフォンスは礼を述べ、書類を閉じた。
調査を進めることは大切だ。
けれど、今日エレノアが祖母と過ごす時間まで、記録のための聞き取りに変えてしまう必要はない。
彼はそう考え、午後の話し合いには立ち会わず、母と姪が落ち着いて話せるようにすることにした。
◇ ◇ ◇
午後のお茶の時間が近づくと、エレノアはリディアとともにマルグリットの居間へ向かった。
廊下の窓からは、秋の日差しを受けた庭園が見える。朝よりも風が少し強くなったらしく、菩提樹の枝先から黄色い葉が舞い落ち、石畳の上をゆっくりと転がっていた。
エレノアはその景色を眺めながら、胸の奥に小さな緊張を感じていた。
母のことを知りたいという気持ちは、以前からあった。
けれど、祖母が何を覚えているのか、どんな話を聞けるのかは分からない。
もしかすると、幼い自分が知らなかった母の姿に触れることになるかもしれなかった。
(嬉しいお話が聞けるとよいけれど、母様のことを思い出したら、また寂しくなってしまうかもしれないわ)
そう考えながらも、エレノアは足を止めなかった。
リディアが扉を叩くと、室内からマルグリットの穏やかな声が聞こえた。
「どうぞ、お入りなさい」
扉が開くと、居間には柔らかな午後の光が満ちていた。
窓際には小さな丸卓が置かれ、その上には茶器と焼き菓子が用意されている。壁には季節の花を描いた小さな絵が飾られ、暖炉の近くには淡い色の布張りの椅子が二脚、向かい合うように置かれていた。
マルグリットは窓際の椅子に座っていたが、エレノアの姿を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「いらっしゃい、エレノア。ちょうどお茶の支度が整ったところですよ。こちらへいらっしゃい」
「お祖母様、お時間をいただいてありがとうございます」
エレノアは一礼し、祖母の向かい側へ腰を下ろした。
リディアは茶器を整える手伝いをしたあと、必要な時に声をかけられるよう、少し離れた場所へ控えた。
マルグリットはエレノアの様子を見ながら、穏やかに尋ねた。
「今日は、アデラインの庭園での思い出を聞きたいのでしたね。どこからお話ししましょうか」
エレノアは少し考えた。
古い絵のことを最初に尋ねるつもりだったが、目の前の祖母が穏やかに待ってくれているのを見て、まずは母が庭でどのように過ごしていたのかを知りたくなった。
「母様は、昔からお庭がお好きだったのでしょうか。私が小さかった頃にも、お花を見せてくださった記憶が少しあるのですけれど、母様ご自身がどんなふうに過ごしていらしたのかは、あまり覚えていなくて」
マルグリットは茶器を置き、窓の向こうの庭園へ目を向けた。
「そうですね。アデラインは、庭で過ごす時間を好んでいましたよ。ただ、いつも花を摘んだり、遠くまで歩いたりしていたわけではありません。静かな場所に座って、本を読んだり、手仕事の図案を考えたりすることもありました」
「図案を考えていらしたのですか」
「ええ。刺繍をする時には、庭の花を眺めてから色を選ぶこともあったように思います。もちろん、すべての図案が庭の花をもとにしていたわけではありませんけれどね」
エレノアは思わず身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を整えた。
母が庭の花を見ながら刺繍の色を考えていたかもしれない。
その話は、今朝の自分の姿と重なるように感じられた。
「私も今日、青い花の刺繍に使う糸を選んでいたんです。昨日見た青紫色の花とは別のものなのですけれど、花弁の色をどう重ねようか、リディアと相談していて……。母様も、そんなふうに考えていらしたのかもしれないのですね」
マルグリットは孫娘の表情を見て、柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれませんね。ただ、アデラインがどんな色を選んだのか、私がすべて覚えているわけではありません。あなたが今作っている花は、あなた自身の花として大切にしてほしいわ」
「はい、お祖母様。母様のことを知りたい気持ちはありますけれど、今の刺繍は、私が綺麗だと思う色で仕上げたいと思っています」
エレノアがそう答えると、マルグリットは満足そうに頷いた。
「それがよいと思います。アデラインも、あなたが自分で選んだものを見られたら、きっと興味を持ったでしょうね」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの胸が少しだけ締めつけられた。
母が生きていれば、今作っている刺繍を見てもらえたかもしれない。
糸の色について相談し、花弁の形を一緒に考えられたかもしれない。
けれど、その時間はもう戻らない。
エレノアは茶器へ視線を落とし、指先で取っ手をそっと包んだ。
マルグリットは孫娘の変化に気づいたが、すぐに言葉を重ねることはしなかった。
少しの間、窓の外で葉が揺れる音だけが聞こえた。
「エレノア、寂しくなってしまいましたか」
やがて祖母が静かに尋ねると、エレノアは小さく頷いた。
「はい。母様のお話を聞けるのは、とても嬉しいんです。でも、もっと一緒に過ごしたかったと思ってしまって……。今の私が作っているものも、見ていただきたかったです」
声に出した途端、胸の奥にしまっていた寂しさが、少しだけはっきりした形を持った。
マルグリットはゆっくりと手を伸ばし、エレノアの手へそっと重ねた。
「そうですね。私も、アデラインに見せたいものや、話したいことが今でもあります。あの子がいなくなってから長い時間が経ちましたけれど、寂しさがなくなったわけではありません」
エレノアは祖母の手の温かさを感じながら、顔を上げた。
マルグリットの眼差しには、静かな悲しみがあった。
それはエレノアが初めて見るものではなかったが、今までよりも少し深く、祖母の気持ちを感じられるような気がした。
「お祖母様も、今でも母様にお会いしたいと思われるのですね」
「ええ。母親ですもの。何年経っても、娘に会いたいと思うことはありますよ。ただ、寂しい思い出ばかりではありません。あの子と過ごした楽しい時間も、たくさん覚えています」
マルグリットは優しく微笑んだ。
「今日は、その楽しかった時間も、あなたにお話ししたいと思っています」
エレノアは目元へ浮かびかけた涙をそっと押さえ、頷いた。
「ありがとうございます。私、母様のお話を、もっと聞きたいです」
◇ ◇ ◇
しばらくして、マルグリットはアデラインが若い頃の庭園での過ごし方について、少しずつ話し始めた。
春には新しく咲いた花を見つけるのを楽しみにし、夏には日差しの強い時間を避けて木陰で過ごしていたこと。秋になると、落ち葉の色を眺めながら、刺繍糸の色と比べることもあったという。
ただし、それらは祖母が覚えている日常の一部であり、いつの年の出来事だったかまで、すべてを思い出せるわけではなかった。
「アデラインは、庭の色が変わることをよく気にしていましたね。花が咲いている時だけではなく、葉が色づいた時や、雨のあとに石畳が濡れている時にも、景色が違って見えると話していたことがあります」
エレノアはその言葉に目を輝かせた。
「昨日、私も雨上がりのお庭を歩いたんです。青紫色のお花が、晴れた日に見た時よりも濃く見えて、図案帳へ描いてきました。母様も、そういう違いを見ていらしたのですね」
「ええ。少なくとも、私の覚えているアデラインは、そうした小さな変化を楽しんでいましたよ」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「ただ、あの子は絵を描くことだけが好きだったわけではありません。庭へ出ても、何も描かずに景色を眺めていることもありましたし、家族と話す時間を楽しむこともありました」
「そうなのですね。私は、母様が刺繍をなさっていたことばかり考えてしまっていました」
「残された品から、その人のすべてが分かるわけではありませんからね。アデラインにも、手仕事をしていない時間がたくさんありました」
その言葉に、エレノアは静かに頷いた。
母が残した刺繍や図案は、大切な手がかりである。
けれど、母はそれらを作るためだけに生きていたわけではない。
庭を歩き、家族と話し、時には何もせずに景色を眺めていた。
そうした当たり前の日々があったのだと思うと、エレノアの胸に、少し違った温かさが広がった。
「お祖母様、母様は、どのあたりのお庭で過ごすことが多かったのでしょうか」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し考え込んだ。
「そうですね。菩提樹の近くを好んでいたことは覚えています。木陰ができるので、夏には過ごしやすかったのですよ。ただ、いつも同じ場所にいたわけではありません。南側の庭へ足を運ぶこともありましたし、花壇の近くで立ち止まることもありました」
「では、以前見つかった古い絵の場所も、まだ分からないままなのですね」
「ええ。あの絵に描かれた景色が、どこなのかを断定できるほど、私の記憶は確かではありません」
マルグリットは少し申し訳なさそうな表情を見せた。
エレノアは慌てて首を横に振った。
「いいえ、お祖母様。分からないことを教えていただけるのも、大切なことだと思っています。私は、母様が庭のいろいろな場所で過ごしていらしたと知れただけでも嬉しいです」
マルグリットはその言葉に安堵したように微笑んだ。
「ありがとう、エレノア。あなたがそう言ってくれると、私も落ち着いて昔のことを話せます」
エレノアは祖母の表情を見ながら、少し考えた。
あの古い絵の裏には、「庭園にて アデラインとエレノア」という文字が残されている。
描かれている人物は母と幼い自分だと確認できたものの、制作時期も、描いた人物も、裏書きをした人物も分かっていない。
その絵を見た時、エレノアは母と自分が一緒に過ごした時間を感じ、胸がいっぱいになった。
しかし、今祖母の話を聞いていると、絵に描かれなかった日々も、確かに存在していたのだと思えた。
(あの絵は大切だけれど、母様と私の時間が、あの一枚だけだったわけではないのよね)
エレノアは茶器を置き、静かに微笑んだ。
「お祖母様、私、あの絵がどこで描かれたのか、いつか分かれば嬉しいと思っています。でも、もし分からなかったとしても、母様がこのお庭で過ごしていらしたことは、大切に覚えていたいです」
マルグリットは孫娘の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「ええ。それでよいと思います。あの絵のことは、これからも調べられる範囲で確かめていきましょう。でも、アデラインの思い出を大切にすることは、調査の結果を待たなくてもできますからね」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
何かを知るために調べることと、今ある思い出を大切にすること。
その二つは、同じではない。
けれど、どちらも自分にとって必要なものなのだと、少しずつ分かってきた。
◇ ◇ ◇
お茶の時間が進むにつれて、エレノアは祖母へもう一つ尋ねたいことを思い出した。
「お祖母様、母様は、私が小さかった頃にも、よくお庭へ連れていってくださったのでしょうか」
マルグリットは少し目を細め、記憶をたどるように考えた。
「ええ、何度か一緒に庭を歩いていたことは覚えていますよ。ただ、あなたが何歳の頃だったか、すべてを正確に覚えているわけではありません。小さなあなたが、アデラインの手を握って歩いていた姿は、今でも思い出せます」
エレノアは息を呑みかけた。
母の手を握って歩いた記憶は、自分の中にもわずかに残っている。
けれど、それがロシュフォール邸の庭園だったのか、ベルナール家の庭だったのか、はっきりと思い出せないことも多かった。
「私、母様の手が温かかったことは覚えている気がするんです。でも、どこのお庭だったのかは、よく分からなくて……」
「それでもよいのですよ。無理に思い出そうとしなくても、あなたが覚えている温かさは、あなたの大切な記憶です」
マルグリットは穏やかに答えた。
「私が覚えているのは、アデラインがあなたの歩幅に合わせて、ゆっくり歩いていたことです。あなたが何かを見つけて立ち止まると、あの子も足を止めていました」
エレノアはその光景を想像した。
幼い自分が庭の花を見つけ、母の手を引いて立ち止まる。
母は急かすことなく、同じ花へ目を向けてくれる。
その姿が、今の自分とリディアやセドリックの関係にも少し重なるように感じられた。
「母様は、私が立ち止まっても、待ってくださったのですね」
「ええ。もちろん、いつも時間に余裕があったわけではないでしょうけれど、私が見た時には、あなたが何を見ているのかを確かめようとしていましたよ」
マルグリットは微笑み、少しだけ懐かしそうに目を伏せた。
「アデラインは、あなたが花を見つけた時の顔が好きだったのかもしれませんね。そう感じたことはありますけれど、本人からそう聞いたかどうかまでは、もう覚えていません」
エレノアはその慎重な言い方に、祖母の優しさを感じた。
自分を喜ばせるために、曖昧な記憶を確かなこととして話すのではない。
覚えていることと、そう感じていたことを分けながら、それでも母の思い出を伝えてくれている。
エレノアは目元へ浮かんだ涙をそっと押さえた。
「ありがとうございます、お祖母様。母様が私と一緒に歩いてくださったことを、こうして聞けて嬉しいです」
マルグリットはエレノアの手を優しく包んだ。
「私も、あなたに話せて嬉しいですよ。アデラインのことを思い出すのは、寂しいだけではありませんから」
二人はしばらく手を重ねたまま、窓の外の庭園を眺めていた。
午後の日差しは少しずつ傾き、木々の影が芝生の上へ長く伸び始めている。
エレノアはその景色を見ながら、母と歩いたかもしれない道を思い浮かべた。
どの道だったのかは分からない。
けれど、母が自分の歩幅に合わせてくれたという話は、今の彼女の胸に確かな温かさを残していた。
◇ ◇ ◇
お茶の時間が終わる頃、マルグリットはエレノアへ穏やかに尋ねた。
「今日のお話は、あなたが聞きたかったことに少しでも近づけたかしら」
エレノアはすぐに頷いた。
「はい、お祖母様。古い絵の場所が分かったわけではありませんけれど、母様がどんなふうにお庭で過ごしていらしたのか、少し知ることができました。私が小さかった頃のことも聞けて、とても嬉しかったです」
「それならよかったわ。昔のことですから、これから思い出すこともあれば、どうしても思い出せないこともあるでしょう。でも、あなたが聞きたいと思った時には、またお話ししましょうね」
「ありがとうございます。私も、今日のお話を忘れないように、日記へ書いておきたいと思います」
マルグリットは微笑み、孫娘の頬へ優しく手を添えた。
「あなたが今感じたことも、一緒に書いておくとよいかもしれませんね。何年か経って読み返した時、今日の気持ちを思い出せるでしょうから」
エレノアはその言葉を胸に刻み、静かに頷いた。
居間を出る時、彼女はもう一度窓の外を眺めた。
庭園には、母が歩いたかもしれない道がいくつも続いている。
そのすべてを確かめることはできないかもしれない。
けれど、今の自分がその庭を歩き、花を見つけ、誰かと話すことはできる。
そう考えると、庭園の景色が少し違って見えた。
◇ ◇ ◇
エレノアが居間を出たあと、マルグリットはしばらく椅子に座ったまま、冷めかけた茶器を見つめていた。
窓の向こうでは、秋の風が木々の葉を揺らしている。
アデラインが幼い頃にも、同じような秋の日があった。
娘が庭で過ごしていた姿を思い出すことはできるが、その一日一日を正確に覚えているわけではない。
それでも、エレノアと話しているうちに、長く胸の奥へしまっていた懐かしさが、少しずつ形を取り戻していくように感じられた。
(アデライン、あなたの娘は、少しずつ自分の好きなものを見つけていますよ)
マルグリットは静かに目を閉じた。
ロシュフォール邸へ来たばかりの頃、エレノアは何かを尋ねる時にも遠慮がちだった。
自分が望んでいることを口にする前に、相手の都合を気にし、迷惑ではないかと考えているように見えた。
今は、母のことを知りたいと自分から伝え、刺繍の色を選び、庭園で見つけた花について楽しそうに話している。
その変化は、マルグリットにとって何より嬉しいものだった。
ただ、孫娘の笑顔を見るたびに、彼女がそれまでどれほど多くのことを我慢してきたのかと思うこともある。
ベルナール家で過ごした年月を、今さらなかったことにはできない。
失われた衣装も、行方の分からない母の品々も、まだ戻っていない。
けれど、エレノアがこれから過ごす時間を、少しでも穏やかなものにすることはできるはずだった。
マルグリットは窓の外へ目を向けた。
庭園の道は、今もいくつもの方向へ続いている。
アデラインがどの道を好んで歩いたのか、すべてを思い出すことはできない。
それでも、エレノアがこれから選ぶ道を、家族として見守っていきたい。
そう願いながら、マルグリットは静かに茶器を置いた。
◇ ◇ ◇
夕方、自室へ戻ったエレノアは、机の上に図案帳と日記帳を並べていた。
窓辺の額には、桃色の野薔薇の刺繍が飾られている。
その近くには、今日少し進めた青い花の刺繍枠が置かれていた。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、祖母から聞いた話を思い返した。
母が庭園で本を読んでいたこと。
花や葉の色を眺め、刺繍の図案を考えることがあったこと。
幼い自分の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれたこと。
どれも、古い絵の制作時期や場所を証明するものではない。
けれど、エレノアにとっては大切な思い出だった。
彼女は日記帳を開き、丁寧に文字を書き始めた。
『今日は、お祖母様から母様のお話を聞きました。母様は庭園で過ごす時間がお好きで、本を読んだり、刺繍の図案を考えたりしていらしたそうです。私が小さかった頃には、私の歩幅に合わせて歩いてくださったこともあったと教えていただきました。』
そこまで書くと、エレノアは筆を止めた。
母の手の温かさを思い出そうとすると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
けれど、今日の寂しさは、以前のように自分を押しつぶすものではなかった。
祖母も母を恋しく思っている。
そのことを知れたからかもしれない。
エレノアは再び筆を動かした。
『古い絵に描かれた場所は、まだ分かりません。でも、あの絵に描かれていない時間にも、母様と私が一緒に過ごした日々があったのだと思いました。すべてを思い出せなくても、今日聞いたことを大切にしたいです。』
書き終えると、エレノアはしばらく文字を見つめた。
前の人生では、母の思い出に触れることさえ、遠慮しなければならないように感じていた。
ベルナール家の中で、母の名前を口にすることが、誰かの不機嫌につながるのではないかと恐れたこともある。
そのため、思い出せることまで心の奥へ押し込め、寂しさを言葉にしないまま過ごしていた。
今は違う。
母のことを知りたいと伝えれば、祖母が話を聞かせてくれる。
寂しいと口にしても、困った顔をされることはない。
その違いが、エレノアには何より大きかった。
(私は、母様のことを忘れたくない。でも、母様を思い出すたびに、悲しい気持ちだけになるのも嫌なの。今日みたいに、嬉しい思い出として大切にできたらいいわ)
エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
その時、リディアが夕食の支度について知らせに来た。
「エレノア様、そろそろ夕食のお時間でございます。今日はマルグリット様と、ゆっくりお話しできましたか」
エレノアは顔を上げ、微笑んだ。
「ええ、とてもよい時間だったわ。母様が昔、お庭でどんなふうに過ごしていらしたのか、少し教えていただいたの。私が小さかった頃に、手をつないで歩いてくださったこともあったそうよ」
リディアはその言葉を聞き、穏やかな表情になった。
「それは素敵なお話でございますね。お嬢様にとって、大切な思い出が一つ増えたのでございますね」
「そうね。私自身が覚えていることではないけれど、お祖母様が覚えていてくださったことを聞けて嬉しかったわ」
エレノアは立ち上がり、窓辺の額へ目を向けた。
「それから、母様もお庭の色を見て、刺繍のことを考えていらしたそうなの。私、今の青い花を仕上げたら、また別の花も作ってみたくなったわ」
「お嬢様のお好きなお花が、少しずつ増えていくのでございますね」
「ええ。でも、今はこの青い花を大切に進めたいと思っているの。急いで仕上げるのではなくて、色を考えながら作りたいわ」
リディアは微笑み、夕食へ向かう支度を手伝った。
エレノアは机の上の刺繍枠を整え、リディアとともに部屋を出た。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、エレノアが祖母から聞いた話を、家族へ少しだけ伝えた。
母が庭園で本を読んだり、刺繍の図案を考えたりしていたこと。
幼い自分と一緒に歩く時には、歩幅を合わせてくれていたこと。
その話を聞いたオーギュストは、懐かしそうに微笑んだ。
「そうだったね。アデラインは庭で過ごす時間を好んでいたよ。もっとも、私はあの子が何を考えていたのか、いつも分かっていたわけではないけれどね」
セドリックも穏やかに頷いた。
「叔母上が庭を好んでいたことは、僕も覚えています。エレノアが今日聞いた話は、きっと大切なものになるね」
エレノアは微笑み、二人へ感謝を伝えた。
「はい。古い絵のことも、まだ分からないことが多いですけれど、今日のお話を聞いて、母様がこのお庭で過ごしていらした時間を、もっと大切にしたいと思いました」
アルフォンスはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「それでいいと思うよ。絵については、保存状態の確認や専門家への相談を進める必要があるけれど、君が母上から聞いた思い出は、それとは別に大切にしてほしい」
「ありがとうございます、叔父様。私も、絵のことを急いで決めたいわけではありません。元の絵を大切にしながら、分かることを少しずつ確かめたいです」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「そうしよう。新しいことが分かったら、また説明するよ」
エレノアは頷き、温かなスープへ手を伸ばした。
家族の会話はそのあと、庭園の秋の様子や、これから寒くなる季節の過ごし方へと移っていった。
エレノアはその穏やかな時間を楽しみながら、今日一日の出来事を胸の中で振り返っていた。
母のことを知る時間。
刺繍の色を選ぶ時間。
家族と食卓を囲む時間。
そのどれもが、今の彼女にとって大切なものだった。
◇ ◇ ◇
夜、寝台へ入る前に、エレノアはもう一度窓辺の額を眺めた。
桃色の野薔薇の刺繍は、昼間とは違う柔らかな灯りの中で、静かに花を咲かせている。
母が使っていた古い額に、自分の作った刺繍を飾ることができた。
そのことが、今でも少し不思議に感じられる。
母の作品そのものが戻ってきたわけではない。
けれど、母の思い出を大切にしながら、自分の作品を作ることはできる。
エレノアは額の前でしばらく立ち止まり、それから机の上の青い花へ視線を移した。
今日選んだ濃い青の糸は、花弁の重なりに小さな陰影を作っている。
まだ完成していないが、その途中の姿も、今の彼女には愛おしかった。
(母様、私は今、自分で選んだ花を作っています。いつか完成したら、お祖母様にも、お祖父様にも、叔父様にも、お兄様にも見ていただきたいわ)
エレノアは静かに微笑んだ。
母がその花を見たら、どんな言葉をかけてくれただろう。
その答えを知ることはできない。
けれど、今の自分が何を綺麗だと思い、何を作りたいと願っているのかは、確かめることができる。
そして、その気持ちを家族へ伝えることもできる。
リディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日はマルグリット様と長くお話しなさいましたから、お疲れになったのではございませんか」
「ええ、少し疲れたわ。でも、とてもよい一日だったと思っているの。母様のお話を聞いて、寂しい気持ちにもなったけれど、それ以上に嬉しかったことがたくさんあったから」
エレノアはそう答え、窓辺から離れた。
「リディア、明日はまた、青い花の続きを進めたいわ。それから、今日聞いた母様のお話を、忘れないように大切にしておきたいの」
「かしこまりました。お嬢様が今日お聞きになったことは、きっとこれからも大切な思い出になると思います」
エレノアは微笑み、寝台へ入った。
掛け布の温かさが身体を包み、窓の外では秋の風が静かに木々を揺らしている。
古い絵の制作時期も、描かれた場所も、まだ分からない。
母の青い花の刺繍も、失われた衣装も、行方が分からないままだった。
それでも、今日のエレノアは、母の思い出を一つ増やすことができた。
幼い自分の歩幅に合わせて、母が庭園を歩いてくれたという記憶。
それは、今の彼女が直接思い出せるものではなかったけれど、祖母の言葉を通して、確かに心へ届いていた。
エレノアは目を閉じ、母と手をつないで歩く幼い自分の姿を、静かに思い浮かべた。
その景色が実際にどの道だったのかは、まだ分からない。
けれど、今はそれでよかった。
母が自分と一緒に歩いてくれたことを、大切に覚えていたい。
そう願いながら、エレノアは穏やかな眠りへ落ちていった。




