第76話 開かれていない記録と、私が自分で選ぶ確かめ方
翌朝、エレノアが目を覚ました時、ロシュフォール邸の庭園には薄い朝霧が漂っていた。前日の晴天で石畳の表面は乾いていたものの、夜の間に冷え込んだ空気が芝生や低木の葉へ細かな露を残し、窓の向こうの景色を柔らかく霞ませている。遠くに見える古い菩提樹も、枝先の黄色い葉を朝霧の中へ溶け込ませるようにして、静かに立っていた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、掛け布の端を膝へ寄せながら、しばらく庭園を眺めていた。昨日はベルナール家から届いた返書について叔父アルフォンスから説明を受け、衣類の記録に残された疑問がまだ解決していないことを知った。夜には落ち着いて日記を書くことができたけれど、朝になっても、その話が心から離れたわけではなかった。
(返書が届いたのに、まだ分からないことがある。でも、叔父様がおっしゃったように、分からないことを急いで決めつけてはいけないのよね)
記入者と確認者の欄が重なっている理由は不明であり、そこに残された「ロラン」という姓が、どちらの役割を示しているのかも確定していない。ベルナール家では引き続き同じ時期の書類を確認する予定だというが、いつ新しい回答が届くのかは分からなかった。
それでも、エレノアにはもう一つ、気になっているものがあった。
以前、立会人のもとで最初の二枚だけを確認した、古い衣類の書類束である。
残りの頁は、今も開かれないまま保管されている。何が書かれているのかは分からず、失われた衣装の行方につながる情報があるかどうかさえ、まだ確かめられていなかった。
エレノアは窓辺に置かれた桃色の野薔薇の刺繍へ視線を移した。母アデラインが使っていた古い額の中で、自分が選んだ糸は朝の淡い光を受けている。日差しが強くなる時間にはカーテンを調整することにしていたが、今はまだ柔らかな明るさが室内へ広がるばかりだった。
(あの書類のことも、いつかは確かめたいわ。でも、ただ中身を知りたいというだけで、急いで開いてもよいのかしら)
そう考えたところで、扉を叩く控えめな音が響いた。
「エレノア様、おはようございます。リディアでございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、起きているわ。入ってちょうだい」
扉が開き、朝の支度を整えたリディアが入室した。彼女はエレノアへ一礼すると、窓の外を確かめ、薄い霧に包まれた庭園へ穏やかな眼差しを向けた。
「今朝は少し冷え込んでおりますね。霧が晴れれば日差しも戻るかと存じますが、庭園へお出かけになるのでしたら、上着をご用意した方がよろしいかもしれません」
「ありがとう。昨日、明日はお庭の様子も見たいとお話ししたものね。霧が晴れて、小道が歩きやすくなったら、少しだけ出てみたいわ」
「かしこまりました。朝食のあとに庭園の状態を確認してまいります。お足元が濡れているようでしたら、乾いている道を選びましょう」
リディアは衣装を用意しながら、エレノアの表情へさりげなく目を向けた。昨日の話し合いでは、失われた衣類のことを尋ねる際に緊張していたが、今朝は落ち着いているように見える。ただ、その眼差しには何かを考え続けている時の静かな真剣さがあった。
「エレノア様、昨夜はよくお休みになれましたか」
「ええ、眠れたわ。ただ、昨日のお話を少し考えていたの。返書のこともそうだけれど、前に見せていただいた衣類の書類束が、まだ途中だったでしょう?」
リディアは衣装を持つ手を止めず、静かに頷いた。
「はい。最初の二枚をご確認いただいたあと、残りは開かずに保管されております。アルフォンス様も、必要があれば立会いと記録を整えてから確認するとお話しでございました」
「そうだったわね。私、あの続きを確かめたい気持ちがあるの。でも、昨日の返書が届いたからといって、すぐに開く理由になるわけではないと教えていただいたから、どうお願いすればよいのか迷ってしまって」
エレノアは寝台から足を下ろし、揃えられた室内履きへゆっくりと足を入れた。自分の希望を口にすることには以前より慣れてきたものの、古い記録の扱いとなると、誰かの仕事を増やしてしまうのではないかという遠慮が顔を出す。
リディアは衣装を寝台の脇へ整えると、エレノアと視線の高さを合わせるように少し身を屈めた。
「お嬢様が続きを確かめたいとお考えであることは、お伝えになってよろしいと思います。ただ、いつ、どのような方法で確認するのが適切かについては、アルフォンス様やエレーヌ様とご相談なさるのがよろしいのではないでしょうか」
「そうね。開いてほしいとお願いすることと、すぐに開くと決めることは、同じではないものね」
「はい。ご希望をお伝えになったうえで、必要な準備を考えていただくこともできるかと存じます」
エレノアはその言葉を胸の中で繰り返した。
自分の希望を伝えたからといって、その場ですべてが決まるわけではない。反対に、今すぐ決められないからといって、希望を口にしてはいけないわけでもないのだ。
「ありがとう、リディア。今日は叔父様のお時間があるかどうか、あとで尋ねてみたいわ。あの書類を開くと決める前に、私が何を知りたいのか、きちんと考えておこうと思うの」
リディアは柔らかく微笑み、支度を手伝い始めた。今朝は薄い若草色の衣装に、生成り色の上着を合わせることになった。庭園の霧が晴れた時、秋の光に馴染みそうな色合いだった。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、焼きたてのパンと温かなスープが用意されていた。窓の外の霧は少しずつ薄くなり、庭園の低木の間に細い日差しが差し始めている。暖炉にはまだ大きな火を入れていなかったが、室内には秋の朝らしい穏やかな温かさが保たれていた。
オーギュストは庭園の様子を眺めながら、今年は菩提樹の葉が例年より少し早く色づいているようだと話していた。ただし、正確な比較をしたわけではなく、長年庭を眺めてきた感覚によるものだと付け加える。
エレノアはその言葉に興味を持ち、スープの匙を置いた。
「お祖父様、木の葉の色づき方は、毎年同じではないのですね。私は、秋になれば同じ頃に色が変わるものだと思っていました」
「大まかな季節は似ていても、気温や雨の降り方によって違いが出ることはあるよ。もっとも、私の記憶だけでは正確とは言えないから、詳しく知りたければ庭師の記録を見た方がよいだろうね」
「庭園にも、そうした記録が残されているのですね」
「木の状態や手入れについては、必要な範囲で書き留めているよ。すべての葉がいつ色づいたかまで分かるわけではないが、長く庭を守るためには役に立つものなんだ」
エレノアは頷き、窓の向こうの菩提樹へ目を向けた。先日、祖父やセドリックと一緒に木の下を歩いた時には、母もこの庭を眺めていたのだと知ることができた。けれど、同じ木を見ていても、祖父が覚えていることと庭師の記録に残ることは、必ずしも同じではないのだろう。
マルグリットは孫娘の表情を見て、穏やかに微笑んだ。
「エレノア、今日はお庭へ出たいと話していたのでしょう? 霧が晴れれば、昨日とはまた違う景色が見られるかもしれませんね」
「はい、お祖母様。小道が乾いていたら、少し歩いてみたいと思っています。それから、青い花の刺繍も進めたいので、長くは外にいないつもりです」
「それなら、午後はゆっくり手仕事ができますね。昨日は記録のお話もありましたから、今日は気持ちを休める時間も大切にしてください」
祖母の気遣いに、エレノアは小さく頷いた。
その時、向かい側に座るアルフォンスが、エレノアへ穏やかな視線を向けた。
「昨日の話で、何か気になることが残っていたら、遠慮なく聞いてほしい。すぐに答えられることばかりではないと思うけれど、確認できることは確認するつもりだよ」
エレノアは一度膝の上で指を重ね、それから顔を上げた。
「叔父様、実は一つ、ご相談したいことがあります。昨日の返書とは少し別のお話なのですけれど、以前確認した衣類の書類束について、もう一度お尋ねしたいんです」
アルフォンスは急かすことなく、彼女の言葉を待った。
「まだ開いていない部分が残っていますよね。私は、その中に何が書かれているのか、いつか確かめたいと思っています。ただ、今すぐ開いていただきたいと決めたわけではなくて、どういう準備が必要なのかを知りたいんです」
言い終えると、エレノアは叔父の表情を確かめた。
アルフォンスは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。続きを確認する場合の手順について相談したいんだね。それなら、エレーヌにも同席してもらって話すのがよいだろう。書類の保存状態や、前回どこまで確認したかについては、彼女が詳しく記録しているからね」
「ありがとうございます。私、前に開いた時には緊張してしまって、何を確かめたいのか、うまく考えられなかった気がするんです。今度は、もう少し落ち着いてお話しできたらと思っています」
アルフォンスの表情が、わずかに柔らかくなった。
「それはよい考えだと思うよ。確認する目的を整理することは、書類を守るためにも役立つ。今日の午後なら少し時間を取れるから、エレーヌの都合も確かめておこう」
エレノアは胸の奥が軽くなるのを感じた。
書類を開くと決まったわけではない。けれど、自分の希望を伝え、どのように進めるか相談する機会を得られたことが嬉しかった。
セドリックは二人のやり取りを聞いていたが、エレノアが少し安心した様子を見せると、静かに声をかけた。
「午後に相談があるなら、庭園へ出るのは午前のうちがよさそうだね。雨のあとだから、歩く場所には気をつけた方がいいけれど、僕も時間が合えば一緒に行こうか」
「よろしいのですか、お兄様。お仕事やご用事があるのではありませんか」
「午前中に済ませる予定のことはあるけれど、長い散歩でなければ大丈夫だよ。もっとも、庭園の状態を確かめてからだけれどね」
エレノアは微笑み、感謝を伝えた。
自分のために時間を作ってもらうことへの遠慮は、まだ完全には消えていない。それでも、相手が自分の意思で申し出てくれたことを、素直に受け取れるようになりたいと思った。
◇ ◇ ◇
朝食後、エレノアは自室へ戻り、机の上に小さな紙を広げた。
そこへ、午後の相談で尋ねたいことを書き留めるつもりだった。窓の外では霧がほとんど消え、庭園の小道を掃く音が遠くから聞こえている。
最初に思い浮かんだのは、書類束の残りが何枚あるのかという疑問だった。
しかし、エレノアは筆を紙へ下ろしかけて、少し手を止めた。前回の確認で全体の状態について説明を受けた記憶はあるものの、正確な枚数を自分が覚えているとは言えない。だからこそ、まずは保管記録を見ながら確認した方がよいのだろう。
彼女は紙の上へ、丁寧に文字を書いた。
『残っている書類の状態と枚数について、確認できる範囲で教えていただく。』
続いて、次の疑問を考えた。
あの束には「エレノア衣類」という表示が残されていた。けれど、その表示がいつ、誰によって書かれたのかは、まだ分かっていない。
中身を確認する前に、外側の表示について分かっていることを整理する必要があるのかもしれない。
エレノアはもう一行を書き加えた。
『外側の表示について、分かっていることと分からないことを区別する。』
そこで筆を置き、椅子の背へ少し身体を預けた。
(私が知りたいのは、あの束の中に何があるかということだけではないわ。そこに書かれていることが、私の衣装について何を示しているのかも知りたいのよね)
たとえば、衣装の名前が書かれていたとしても、それだけで実際の所在が分かるとは限らない。受け渡しの記録があっても、誰が最終的に受け取ったのかを証明できるとは限らないことは、これまでの調査で学んでいた。
エレノアは三つ目の項目を書いた。
『記載されている内容が、何を証明できるものなのかを確かめる。』
書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。
以前の自分なら、こんなふうに質問を用意することさえためらっただろう。誰かが説明してくれるのを待ち、理解できないところがあっても、何度も尋ねてはいけないと思っていたかもしれない。
今は、分からないことを分からないと伝えてもよいのだと知っている。
その変化を実感しながら、エレノアは最後にもう一つ、短い文章を書き加えた。
『私が同席した方がよいのか、確認する。』
書いたあと、彼女はその一行をしばらく見つめた。
自分の衣類に関する記録だから、できる限り知りたいと思っている。けれど、古い書類を扱う専門的な作業を、必ず自分の目の前で行ってもらわなければならないのかは、まだ判断できなかった。
リディアが茶器を片づけながら、机の上の紙へ目を向けた。
「ご質問を整理なさっているのでございますね。先ほどよりも、お顔が少し晴れやかになられたようにお見受けいたします」
「そうかもしれないわ。何を尋ねたいのかを書いてみたら、少し落ち着いたの。まだ答えは分からないけれど、相談する時に慌てずに済みそうだから」
「それは何よりでございます。お嬢様がご自身のお考えを伝えやすくなるのでしたら、その紙もきっと役に立つと思います」
エレノアは微笑み、紙を丁寧に折った。
まだ開かれていない書類について考える時間は、不安ばかりではなかった。自分が何を望んでいるのかを確かめる時間にもなっていたのである。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、庭園の小道が歩ける状態になったと知らせが届いた。
エレノアはリディアに上着を用意してもらい、セドリックとともに庭園へ出ることにした。石畳の端にはまだ湿った部分が残っているため、二人は庭師が通行に問題ないと確認した道を選び、無理に奥へ進まないことにした。
庭園へ続く扉を開けると、冷たい空気の中に湿った土と草の香りが混じっていた。雨上がりの庭には独特の静けさがあり、遠くの枝で鳴く鳥の声が、いつもよりはっきり聞こえるように感じられる。
セドリックはエレノアの歩幅に合わせ、少しだけゆっくり歩いていた。
「今日は、菩提樹の方まで行くつもりかな。それとも、近くの花壇を見て戻ろうか」
「できれば、花壇を少し見てみたいです。雨のあとで、花の色がどう見えるのか気になっていて。でも、足元が悪いようでしたら、近くから眺めるだけでも十分です」
「それなら、南側の小道を少し進んでみよう。花壇の縁は濡れているかもしれないから、石畳から見ることにしようか」
エレノアは頷き、セドリックの隣を歩いた。
花壇には秋の終わりへ向かう花々が残り、雨粒をまとった葉が日差しを受けて輝いている。以前、青紫色の花を見つけた場所にもまだいくつかの花が咲いていたが、雨の重みで花弁が少し下を向いていた。
エレノアは足を止め、しばらくその姿を眺めた。
「お兄様、あの花は、晴れた日に見た時よりも色が濃く見えますね。雨で濡れているからでしょうか」
「そうかもしれないね。光の当たり方も違うだろうし、濡れた花弁は乾いている時と印象が変わることもあると思う。ただ、僕には正確な理由までは分からないな」
「私も、まだよく分かりません。でも、同じ花でも、見る時によってこんなに違うのですね」
エレノアは持参した小さな図案帳を開き、花弁の向きと色の印象を簡単に書き留めた。今進めている青い花の刺繍とは別の図案として考えているため、すぐに糸を選ぶつもりはない。けれど、今日見た姿を忘れないようにしておきたかった。
セドリックは少し離れたところから、その様子を見守っていた。
エレノアがロシュフォール邸へ来たばかりの頃、彼女は何かを選ぶ前に、周囲の顔色を確かめることが多かった。庭園を歩く時も、どちらへ進みたいのかを尋ねられると、相手の都合を気にして答えを迷っていた。
今は、花を見たいと自分から伝え、気になった色を図案帳へ残している。
その変化は決して派手なものではないが、セドリックには嬉しかった。
(叔母上がこの子の今の姿を見たら、どんなふうに声をかけただろう。きっと、花の色について一緒に考えたかっただろうな)
そう思ったものの、セドリックは母のようにエレノアの気持ちを決めつけたくはなかった。アデラインが生きていた頃の記憶は大切だが、今目の前にいる従妹が何を感じているかは、本人の言葉から知りたい。
「エレノア、今描いている青い花とは、やっぱり少し違う色にするつもりなのかな」
彼が尋ねると、エレノアは図案帳から顔を上げた。
「はい。今の刺繍は、もう少し柔らかな青色を中心にしたいと思っています。こちらの花は青紫色が綺麗なので、もし別の刺繍にするなら、少し違う糸を選んでみたいです」
「なるほど。そうすると、同じ青に近い色でも、それぞれ別の花になるんだね」
「ええ。まだ作ると決めたわけではありませんけれど、考えるだけでも楽しいんです」
エレノアはそう答え、図案帳を閉じた。
少し前まで、完成していないものが増えることに落ち着かなさを感じる時もあった。けれど、今は途中の図案がいくつかあっても、それぞれを急いで仕上げなければならないとは思わない。
花の色を眺める時間も、図案を考える時間も、彼女自身が選んだものだった。
再び歩き始めると、セドリックは小道の先へ目を向けた。
「午後は叔父上と記録の相談をするんだったね。気になることは、もう整理できたのかな」
エレノアは少し考えてから、穏やかに答えた。
「はい。今朝、尋ねたいことを紙に書いてみました。あの書類束の続きをいつか確かめたいと思っているのですけれど、どんな準備が必要なのか、まだよく分からないので」
「それなら、まず相談するのがよさそうだね。古い書類は、見たいと思った時にすぐ開けばよいというものでもないだろうし」
「そうですね。でも、私が知りたいと思っていることは、ちゃんとお伝えしたいんです。以前なら、何も言わずに待っていたかもしれませんけれど」
セドリックはエレノアへ視線を向け、少しだけ微笑んだ。
「君がそう考えられるようになったのは、いいことだと思うよ。もちろん、分からないことがあれば、僕も一緒に考えることはできる。ただ、君の代わりに答えを決めるつもりはないからね」
エレノアはその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、お兄様。そう言っていただけると、とても心強いです」
二人は花壇の先まで歩き、濡れた小道の様子を確かめてから屋敷へ戻ることにした。菩提樹の下まで進むことはなかったが、エレノアには十分に楽しい散歩だった。
庭園の扉へ戻る頃には、朝の冷たさが少し和らいでいた。
◇ ◇ ◇
午後、アルフォンスはエレーヌ・フォシェとともに、以前の衣類記録を整理した控えを確認していた。
執務室の机には、ベルナール家から届いた返書とは別に、ロシュフォール邸で保管している書類束の管理記録が置かれている。アルフォンスはそれらを混同しないよう、机の左右へ分けて並べていた。
「エレノアから、未開封の部分について相談したいと申し出があったんだ」
アルフォンスが説明すると、エレーヌは静かに頷いた。
「承知しております。前回の確認では、最初の二枚のみを立会人のもとで開き、内容を記録したところで作業を終えております。残りについては、現在もその時の状態を保っております」
「本人は、すぐに開くことを求めているわけではないそうだ。何を確かめたいのか、どう進めればよいのかを相談したいと言っていたよ」
「それでしたら、まず目的を整理するのがよろしいかと存じます。古い書類は、一度開いて確認したという事実だけでは、十分な調査にならないこともございますので」
エレーヌは管理記録の一部を示し、前回の確認で何を記録したかを説明した。
誰が立ち会ったか、どこまで開いたか、どのような状態で保管を続けているか。そうした事項を残しておくことで、次に確認する際にも、以前の作業との違いを把握しやすくなる。
アルフォンスは説明を聞きながら、少し考えるように指先を組んだ。
「君は、残りを確認すること自体について、どう考えている?」
「現時点で、確認する価値がないとは申しません。ただし、内容が分からない以上、失われた衣装の行方につながると保証することもできません。まずは保管状態を確認し、必要な立会いと記録の方法を整えたうえで、開く範囲を決めるのが適切かと存じます」
「そうだね。エレノアにも、その点は正確に伝えたい」
アルフォンスは窓の外へ目を向けた。
庭園の小道を歩いて戻ってきたらしいエレノアとセドリックの姿が、遠くに見えた。二人は何かを話しながら屋敷へ向かっており、エレノアの手には小さな図案帳がある。
その姿を見て、アルフォンスはわずかに表情を和らげた。
調査を進めることは大切だが、エレノアの毎日が失われた衣装のことだけで埋まってしまうのは望んでいない。彼女が庭園を楽しみ、刺繍を進め、家族と笑い合う時間も同じように守りたかった。
「午後の相談では、まず本人の話を聞こう。私たちが先に結論を決めてしまわないようにしたい」
「かしこまりました。必要な記録は用意いたしますが、未開封の書類束そのものは、今日は保管場所から出さずにおきます」
「それで頼むよ。今日の目的は、開封ではなく相談だからね」
エレーヌは一礼し、書類を整え始めた。
◇ ◇ ◇
昼食を終えて少し休んだあと、エレノアはリディアとともに小応接室へ向かった。
廊下には午後の光が差し込み、窓際に置かれた花器の影が床へ細長く伸びている。エレノアは折り畳んだ質問の紙を手にしていたが、歩いているうちに少し緊張してきた。
昨日も同じように叔父と話したばかりである。今日は新しい返書について説明を受けるのではなく、自分の希望を伝えるために向かっているという違いがあった。
(私から相談したいとお願いしたのだから、何を知りたいのか、きちんとお話ししたいわ。でも、うまく言えなかったらどうしましょう)
そんな不安が胸をよぎり、エレノアは手の中の紙を少し強く握った。
その様子に気づいたリディアが、歩調を緩めた。
「エレノア様、急がなくても大丈夫でございます。お尋ねになりたいことは紙にまとめていらっしゃいますし、途中で考える時間が必要でしたら、そのようにお伝えになればよろしいかと存じます」
「ありがとう。そうね、全部を一度にお話ししなくてもよいのよね」
「はい。アルフォンス様もエレーヌ様も、お嬢様のお話をお聞きになるために、お時間を取ってくださっているのでございますから」
エレノアは小さく息を整え、頷いた。
小応接室へ入ると、アルフォンスとエレーヌがすでに待っていた。窓際の小卓には茶器が用意されており、机の上には数枚の記録用紙が整然と並べられている。
エレノアが一礼すると、アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「来てくれてありがとう、エレノア。今朝話していた書類束のことだね。今日はすぐに何かを決める必要はないから、まず君が気になっていることを聞かせてほしい」
「ありがとうございます、叔父様。実は、尋ねたいことを少し書いてきたんです。うまく説明できるか分からなかったので」
エレノアは折り畳んだ紙を取り出し、膝の上で広げた。
アルフォンスはその様子を見て、優しく頷いた。
「それはいいね。順番に聞かせてもらえるかな」
エレノアは最初の一行へ目を落とした。
「まず、あの書類束の残りについて、今どのような状態で保管されているのかを知りたいです。以前、最初の二枚だけ確認したことは覚えているのですけれど、残りが何枚あるのか、私は正確に覚えていなくて」
エレーヌは管理記録へ目を向け、慎重に答えた。
「お嬢様、前回の確認では、開いた範囲と、その後の保管状態を記録しております。ただ、残りの頁については、すべてを開いて一枚ずつ確認したわけではございません。そのため、現在の記録だけで内容や正確な構成を断定することは避けるべきかと存じます」
「では、残りの枚数についても、実際に確認しなければ分からない部分があるのですね」
「はい。外側から分かることと、開いて初めて確認できることは分けて考える必要がございます」
エレノアは頷き、紙の余白へ小さく書き加えた。
その仕草を見守っていたアルフォンスが、穏やかに尋ねた。
「ほかには、どんなことが気になっているのかな」
「束の外側に『エレノア衣類』と書かれていたことです。あの文字が、いつ、誰によって書かれたのかは、まだ分かっていないのでしょうか」
エレーヌは一度記録を確認し、それから顔を上げた。
「現時点では、表示を書いた人物や時期を確定できる資料は確認されておりません。表示そのものが存在することと、誰が書いたかということは、別の事項として記録しております」
エレノアはその説明を聞き、少し考え込んだ。
束に自分の名前が書かれているからといって、その中のすべてが自分の衣類に関するものだと、確実に言えるわけではないのかもしれない。もちろん、そうした内容が入っている可能性はあるが、開いていない以上、断定することはできない。
「私、外側に自分の名前が書かれていたので、中にも私の衣装のことが書かれているのだと思っていました。でも、実際に確認するまでは、そう決めてはいけないのですね」
「そのように考えていただくのが適切かと存じます。ただし、表示は確認の手がかりにはなります。無意味なものとして扱う必要もございません」
エレーヌの言葉に、エレノアは少し安心した。
何も信じてはいけないということではない。残された情報を手がかりとして大切にしながら、それが何を示しているのかを確かめていけばよいのだ。
エレノアは紙の三つ目の項目へ目を向けた。
「それから、もし中に衣装の名前や受け渡しの記録があったとしても、それだけで衣装の行方が分かるとは限らないのですよね」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そうだね。たとえば、ある場所へ移したという記録があったとしても、その後ずっと同じ場所にあったとは限らない。誰かへ渡したと書かれていても、その人物が最終的に保管したのかどうかは、別に確認する必要がある」
「では、書類を開くことができても、分からないことが残るかもしれないのですね」
「もちろん、その可能性はあるよ。けれど、何が分からないのかを整理するために役立つ場合もある。だからこそ、何を確かめる目的で開くのかを、先に考えておくことが大切なんだ」
エレノアは叔父の言葉を聞き、静かに頷いた。
彼女が知りたいのは、失われた衣装がどこへ行ったのかということだった。しかし、その答えが一枚の書類に書かれているとは限らない。
むしろ、いくつもの記録を照らし合わせながら、少しずつ確かな部分を増やしていく必要があるのだろう。
エレノアは膝の上で紙を整え、最後の質問を口にした。
「叔父様、もし続きを確認することになったら、私も同席した方がよいのでしょうか。それとも、古い書類を扱う時には、専門の方にお願いした方がよいのでしょうか」
その問いに、アルフォンスはすぐには答えなかった。
エレーヌへ視線を向け、彼女の考えを聞くように促す。
「書類の状態によりますので、一概には申し上げられません。ただ、前回と同じように立会人を置き、確認した範囲を記録することは重要でございます。お嬢様が同席なさるかどうかについては、保存上の問題と、お嬢様ご自身のお気持ちの両方を考えて決めるのがよろしいかと存じます」
「私の気持ちも、考えていただけるのですか」
「もちろんでございます。ご自身に関する記録でございますから、どのような形で確認結果をお知りになりたいのか、お嬢様のご希望を伺うことには意味がございます。ただし、実際の取り扱いについては、書類の状態を優先しなければならない場合もございます」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
自分が同席したいと言えば、必ずそうしてもらえるわけではない。けれど、希望を聞いてもらえることと、書類を安全に扱うことは、両立できるのだと分かった。
(私は、自分の目で確かめたいと思っている。でも、書類を傷めてしまったら、あとから確かめたい人が困るかもしれないわ。それなら、まず安全に確認できる方法を考えていただくことが大切なのね)
エレノアは顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「私は、できれば確認する場にいたいと思っています。自分の衣類についての記録ですから、何が書かれているのかを知りたいんです。でも、書類の状態によって難しいのでしたら、無理にお願いするつもりはありません」
アルフォンスはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「君の希望はよく分かったよ。では、まずエレーヌに保管状態と前回の記録を整理してもらおう。そのうえで、続きを確認する必要があるか、どのような方法が適切かを相談しようか」
「ありがとうございます、叔父様。私も、今日のお話をもう一度整理しておきたいです」
「それがいいだろう。今日は開封を決めるためではなく、君が何を知りたいのかを確かめるための時間だったのだからね」
エレノアは胸の奥に、静かな安堵が広がるのを感じた。
自分の希望を伝えることができた。
そして、その希望をすぐに叶えてもらうことだけが、相談の意味ではないと知ることができた。
◇ ◇ ◇
話し合いが終わったあとも、エレノアはしばらく小応接室に残っていた。
茶器から立ち上る湯気は細くなり、窓の外では午後の光が庭園の木々を照らしている。アルフォンスは書類を整えながら、エレノアがまだ何か考えている様子に気づいた。
「ほかにも、気になっていることがあるのかな」
エレノアは少し迷ってから、静かに頷いた。
「叔父様、私は、あの書類を開けば何か分かるかもしれないと思っていました。でも、今日お話を聞いて、何も分からない可能性もあるのだと知りました」
「そうだね。残念だけれど、古い記録を調べる時には、そういうこともあるんだ」
「それでも、私は確かめたいと思っています。もし答えが見つからなくても、どこまで分かったのかを知ることには意味があるような気がするんです」
アルフォンスは手を止め、エレノアの言葉を静かに聞いていた。
エレノアは膝の上の紙へ視線を落とし、続けた。
「以前の私は、自分のものがなくなっても、何も尋ねられませんでした。どこへ行ったのか知りたくても、尋ねること自体がよくないことのように思えてしまって……。でも、今は違うのだと、少しずつ分かってきたんです」
その声は穏やかだったが、最後の方でわずかに揺れた。
アルフォンスは椅子から身を乗り出すことなく、彼女が話し終えるのを待った。
「だから、答えが見つかるかどうかだけではなくて、私が知りたいと思っていることを、ちゃんと大切にしたいんです」
エレノアは言い終えると、少しだけ頬を赤らめた。
自分の考えをここまで長く話すことには、まだ慣れていない。けれど、叔父は困った顔をすることも、話を遮ることもなかった。
「エレノア、君がそう思っていることを聞けてよかったよ」
アルフォンスは静かに答えた。
「君の持ち物について何が起きたのかを調べることは、私たちにとっても大切なことだ。ただ、それ以上に、君自身が自分のことを知りたいと願っていることを、尊重したいと思っている」
エレノアは顔を上げた。
「叔父様……」
「もちろん、すべての疑問に答えられるとは約束できない。古い書類が残っていなければ、どうしても分からないこともあるだろう。でも、分からないからといって、君が知りたいと思うことまで否定するつもりはないよ」
その言葉に、エレノアの胸が温かくなった。
前の人生では、何かを望むたびに、自分の希望は誰かの都合よりも後に置かれるものだと思っていた。父の判断に逆らうことも、継母の言葉へ疑問を向けることも、簡単にはできなかった。
今、目の前にいる叔父は、彼女が何を望んでいるのかを尋ねてくれる。
その違いは、何度経験しても、まだ少し不思議だった。
「ありがとうございます。私、今日相談できてよかったです」
エレノアが微笑むと、アルフォンスも穏やかに頷いた。
エレーヌは二人のやり取りを静かに見守りながら、管理記録へ必要な事項を書き加えた。
本人が未開封部分の確認を希望していること。
ただし、開封時期や方法については未決定であること。
保存状態と前回の確認記録を整理したうえで、改めて検討すること。
そこまで記したあと、エレーヌは筆を置いた。
今日の話し合いで新しい証拠が見つかったわけではない。それでも、今後どのように調査を進めるかを考えるうえで、本人の意思が明確になったことは重要だった。
◇ ◇ ◇
小応接室を出たあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
廊下の窓からは、午後の庭園がよく見えた。朝には霧に包まれていた菩提樹も、今は枝先の一本一本がはっきりと見え、黄色い葉が風に揺れている。
エレノアは窓辺で少し足を止め、庭園を眺めた。
「リディア、今朝はあんなに霧が深かったのに、もうすっかり晴れたのね」
「そうでございますね。朝には見えにくかった奥の木々も、今はよく見えております」
「何だか、今日のお話に少し似ている気がするわ。まだ分からないことはたくさんあるけれど、何を確かめたいのかは、前よりはっきりしたもの」
リディアはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「お嬢様がご自身で考え、言葉にされたからこそ、見えてきたことなのかもしれませんね」
エレノアは頷き、再び歩き始めた。
自室へ戻ると、机の上には青い花の刺繍枠が置かれていた。午前中に庭園で見た青紫色の花とは違い、こちらは柔らかな青色を中心にしている。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、刺繍枠を手に取った。
針を通す前に、糸の流れを指先で確かめる。花弁の内側はまだ途中であり、濃い糸をどこへ使うかも決まっていないが、今日は今の色で進められる部分を少しだけ縫うつもりだった。
「リディア、今日はこの花弁の端を整えてみるわ。午後のお話で少し緊張したから、落ち着いて手を動かしたいの」
「かしこまりました。お茶をお持ちいたしましょうか。少し休憩なさってからでもよろしいかと存じます」
「ありがとう。そうしていただけると嬉しいわ」
リディアが茶の支度をする間、エレノアは針を進めた。
布の上に青い糸が重なり、花弁の形が少しずつ整っていく。急いで縫えば、糸の向きが乱れてしまうこともある。だからこそ、手元をよく見て、一針ずつ確かめながら進めていた。
その時間は、今日の話し合いで考えたことを整理するのにも役立った。
(書類のことも、刺繍と同じように、少しずつ確かめていけばよいのかもしれないわ。もちろん、同じものではないけれど、急いだからといって綺麗に仕上がるわけではないものね)
エレノアは針を止め、花弁の端を眺めた。
まだ完成には遠い。
けれど、昨日よりも少しだけ形が整っている。
その小さな変化が、今の彼女には嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕方、アルフォンスは執務室でエレーヌからの簡単な報告を受けていた。
未開封の書類束について、前回の管理記録を整理し直す作業は始まったものの、実物の確認はまだ行っていない。エレーヌは、次に何を確かめる必要があるのかを整理するため、まず既存の記録を見直しているところだった。
「今日のエレノアの様子は、どう見えたかな」
アルフォンスが尋ねると、エレーヌは少し考えてから答えた。
「緊張はなさっていたように見えましたが、ご自身の疑問を丁寧に整理していらっしゃいました。特に、書類に何か書かれていたとしても、それが何を証明するのかを確認したいとお尋ねになったことが印象に残っております」
「私もそう思ったよ。以前よりも、自分が何を知りたいのかを、はっきり言葉にできるようになっている」
アルフォンスは机の上の記録へ目を向けた。
エレノアの衣類に関する問題は、まだ解決していない。
ベルナール家からの返書にも、記入者と確認者の欄を区別できる新しい情報はなかった。失われた五着の衣装についても、行方は分からないままである。
しかし、調査の目的を見失わないためには、何を確かめたいのかを整理し続けることが大切だった。
「エレーヌ、今後の確認については、急いで日程を決めなくてもよい。まず、前回の記録と現在の保管状態について、確認できる範囲を整理してほしい」
「承知いたしました。実物を扱う必要が生じる場合には、事前にご相談いたします」
「それから、エレノアが同席を希望していることも、忘れずに考慮してほしい。ただし、書類の保存上の問題があるなら、無理にその形を取る必要はない。本人へ理由を説明できるようにしておこう」
エレーヌは静かに頷いた。
「お嬢様がご自身の記録を知りたいとお考えであることと、古い資料を守ること。その両方を大切にできる方法を考えてまいります」
アルフォンスは礼を述べ、報告を受け取った。
窓の外では、夕方の光が庭園の木々を赤みがかった色に染め始めている。朝の霧はすっかり消え、遠くの菩提樹も静かな輪郭を保っていた。
アルフォンスはしばらくその景色を眺め、妹アデラインのことを思い出した。
彼女が生きていた頃、庭園には今と同じように季節が巡っていた。幼いエレノアを連れて歩いたこともあったはずだが、そのすべてを自分が覚えているわけではない。
記憶に残るものと、記録に残るもの。
そのどちらにも、確かな部分と、分からない部分がある。
(だからこそ、今ここにいるエレノアの言葉を大切にしなければならない。過去を調べることに気を取られて、あの子自身の気持ちを見失ってはいけないな)
アルフォンスはそう考え、机の上の書類を丁寧に閉じた。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、エレノアが午前中に庭園で見た花の話をした。
雨上がりの青紫色の花は、晴れた日に見た時よりも色が濃く感じられたこと。花弁が少し下を向いていたため、図案帳にもその姿を描き留めたこと。そして、今進めている青い花の刺繍とは別のものとして、いつか考えてみたいと思っていること。
マルグリットはその話を嬉しそうに聞き、エレノアが持参した図案帳を眺めた。
「まあ、雨上がりの花の様子がよく分かりますね。花弁の向きが、以前の絵とは少し違っているように見えます」
「はい、お祖母様。雨粒の重みで下を向いていたのかもしれません。でも、正確なことは分からないので、今日は見えたままを描いてみたんです」
「それでよいと思いますよ。見たものをそのまま残しておけば、あとで比べることもできますものね」
エレノアは頷き、図案帳を閉じた。
オーギュストは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んでいた。
「庭園の花も、こうして絵に残してもらえるとは嬉しいことだね。庭師たちが見れば、また違うところに気づくかもしれない」
「そうなのですね。もし機会があれば、ギュスターヴ様にもお尋ねしてみたいです」
「もちろんだよ。仕事の都合が合う時に、話を聞いてみるといい」
エレノアは感謝を伝え、温かなスープへ手を伸ばした。
食事が進むうちに、アルフォンスが午後の相談について簡単に触れた。
「エレノア、今日は書類束について、よく考えて話してくれたね。エレーヌとも確認したが、まずは前回の管理記録を整理することになったよ」
エレノアは顔を上げ、静かに頷いた。
「ありがとうございます、叔父様。今日お話しして、私も少し考えが整理できました。まだ開くと決まったわけではありませんけれど、どうして確かめたいのかを、自分でも前より分かるようになった気がします」
「それならよかった。今後のことは、必要な確認をしてから改めて相談しよう」
マルグリットは二人のやり取りを聞き、エレノアへ優しく声をかけた。
「今日は庭園も歩きましたし、記録の相談もしたのですから、少し疲れたでしょう。夜はゆっくり休んでくださいね」
「はい、お祖母様。でも、今日はよい一日だったと思っています。気になっていたことをお話しできましたし、刺繍も少し進められましたから」
セドリックは微笑み、エレノアへ視線を向けた。
「それなら、明日は刺繍の続きを楽しめそうだね。今朝見た花の図案も、急がず考えればいいと思うよ」
「はい、お兄様。今の青い花を大切に仕上げてから、別の花のことも考えてみたいです」
エレノアはそう答え、家族の顔を順に見渡した。
祖父母も叔父も従兄も、自分の言葉を自然に受け止めてくれている。
その穏やかな時間の中で、彼女は今日一日の緊張が少しずつほどけていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に日記帳を広げた。
窓辺の額は、今日も同じ場所に飾られている。日中はリディアが光の入り方を見ながらカーテンを調整してくれたため、強い日差しが長く当たり続けることは避けられた。
古い額を別の場所へ移すかどうかは、まだ決まっていない。
母と幼い自分が描かれた古い絵についても、専門家による保存状態の確認と、複製の可否についての相談を待っている。
そして、衣類の書類束も、残りは開かれないままだった。
エレノアはそれらを思い浮かべながら、筆を手に取った。
『今日は、以前確認した衣類の書類束について、叔父様とエレーヌ様に相談しました。まだ開いていない部分を確かめたいという気持ちを、お伝えすることができました。』
そこまで書いて、少し考える。
今日の相談では、失われた衣装の行方が分かったわけではない。書類を開く日程が決まったわけでもなく、そこに何が書かれているのかも不明のままである。
けれど、何も変わらなかったとは思わなかった。
エレノアは続きを書き加えた。
『書類を開けば必ず答えが見つかるわけではないと教えていただきました。それでも、私は確かめたいと思っています。何が分かっていて、何が分からないのかを知ることも、大切なのだと思います。』
筆先を止めると、窓の外から風に揺れる木々の音が聞こえた。
朝には霧に包まれていた庭園も、今は月の淡い光の下で静かに広がっている。菩提樹の枝先にはまだ黄色い葉が残り、風が吹くたびに小さく揺れていた。
エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
その隣には、今日少しだけ進めた青い花の刺繍がある。花弁の内側はまだ途中だが、糸の流れは昨日よりも整っていた。
(私が知りたいと思っていることも、作りたいと思っているものも、まだ途中なのね。でも、途中だからこそ、これから自分で選べることがあるのかもしれないわ)
エレノアは刺繍枠をそっと手に取り、布の上へ指先を近づけた。
針を進めた部分には、確かに今日の時間が残っている。誰かに命じられて縫ったものではなく、自分が選んだ色を、自分の手で重ねたものだった。
その事実が、彼女には嬉しかった。
リディアが寝台の支度を終え、静かに声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日は庭園のお散歩もございましたし、午後には大切なお話し合いもございましたから、お疲れになったのではございませんか」
「ええ、少し疲れたわ。でも、今日は相談してよかったと思っているの。私が何を知りたいのか、少しだけはっきりした気がするから」
エレノアは微笑み、刺繍枠を元の場所へ戻した。
「リディア、明日はまた、この青い花を進めたいわ。それから、今日書いた質問の紙も、なくさないようにしまっておきたいの」
「かしこまりました。大切な紙でございますから、日記帳とは別に、机の上の書類入れへお収めいたしましょうか」
「そうね。次に相談する時にも見られるように、そこへ入れておくわ」
エレノアは折り畳んだ紙を取り出し、書類入れへ丁寧に収めた。
まだ答えの出ていない疑問が、そこに残されている。
けれど、それは彼女を苦しめるだけのものではなくなりつつあった。自分の希望を確かめ、必要な時に言葉にするための、大切な手がかりでもあった。
寝台へ入ると、柔らかな掛け布が身体を包み、冷え始めた夜の空気を遠ざけてくれた。
エレノアは窓辺の額へ最後に目を向け、それから静かに目を閉じた。
失われた衣装の行方は、まだ分からない。
古い書類の中身も、まだ確かめられていない。
それでも、今日の彼女は、自分の知りたいことを自分の言葉で伝えることができた。
その小さな確かさを胸に抱きながら、エレノアは穏やかな眠りへ落ちていった。




