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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第75話 届いた返書の空白と、私が確かめたい名前


 雨の翌朝、ロシュフォール邸の庭園には、澄んだ秋の光が戻っていた。昨夜まで枝先に残っていた水滴は、朝日を受けて小さく輝き、濡れた石畳の上には木々の影が長く伸びている。窓を開ければ、湿った土と落ち葉の匂いが流れ込んできそうな朝だった。


 エレノアは寝台から身体を起こすと、窓辺に飾られた桃色の野薔薇へ目を向けた。昨日は一日中雨が降っていたため、額に強い光が当たることはなかった。しかし今朝は、窓の向こうに青空が広がっており、時間が経てば日差しの入り方も変わるだろう。


(今日は晴れたのね。昨日考えたことを、少しずつ試してみるのによい日かもしれないわ)


 古い木製の額については、エレーヌ・フォシェに外側から状態を確認してもらったばかりだった。目に見える範囲では大きな破損は認められなかったものの、内部については未確認であり、木枠に残る小さな傷がいつ生じたものなのかも分かっていない。


 今の窓辺が好きだという気持ちは変わらない。それでも、母アデラインが使っていた額と、自分が完成させた野薔薇の刺繍を長く守るために、強い光を避けられる場所を考えたいと思っていた。


 控えめなノックのあと、リディアが朝の挨拶とともに入室した。彼女は窓の外の様子を確かめ、エレノアが額へ目を向けていることに気づくと、穏やかに微笑んだ。


「おはようございます、エレノア様。今朝はよく晴れましたね。昨日の雨で庭園の空気も澄んでいるようでございます」


「おはよう、リディア。ええ、とても綺麗な朝ね。でも、今日は額に光が当たりすぎないように、少し気をつけたいと思っているの」


「承知いたしました。お支度の間は今の明るさを保ち、日差しが強くなる頃にカーテンを調整いたしましょうか」


「そうしていただけると嬉しいわ。ずっと暗くしておく必要はないと思うけれど、直接光が当たる時間は避けたいもの」


 リディアは頷き、窓辺のカーテンを確かめた。厚い布をすべて閉じてしまえば光は遮られるが、それでは部屋全体が暗くなり、エレノアが普段行っている読書や刺繍にも影響する。だからこそ、時間帯に応じて無理なく調整することが大切なのだろう。


 エレノアは衣装を選びながら、昨日描き直した部屋の図を思い出した。窓から少し離れた飾り棚は、額を置く候補の一つになっている。ただし、棚の安定性や、そこに置かれている花器の移動先については、まだ確認が必要だった。


「リディア、今日はお部屋の図をもう一度見てみたいの。昨日は紙の上で考えただけだから、実際の距離も確かめておきたいわ」


「かしこまりました。家具を動かさずに確認できることから始めましょう。必要であれば、あとで担当の者にも棚の状態を見てもらえるようにいたします」


「ありがとう。でも、まだ移すと決めたわけではないから、今日は私たちで分かるところまでにしておきたいの」


 リディアはその希望を自然に受け止め、衣装の支度を続けた。


 今朝、エレノアが選んだのは、柔らかな薄青色の衣装だった。袖口には小さな白い花の刺繍が施されており、昨日の雨上がりの空を思わせる色合いである。


 鏡の前に座り、髪を整えてもらいながら、エレノアは窓の外へ目を向けた。庭園では、濡れた小道の状態を確かめる使用人の姿が見える。菩提樹の枝先にはまだ黄色い葉が残っており、風が吹くたびに数枚ずつ地面へ落ちていた。


 あの木の下で祖父から母の話を聞いた日から、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、庭園の景色を眺める時の気持ちは、以前とは少し違っていた。


 母の思い出が残る場所であると同時に、今の自分が家族と過ごした場所でもある。


 エレノアはそのことを嬉しく思いながら、リディアが結んでくれた髪飾りを鏡越しに確かめた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、ロシュフォール邸の執務室では、アルフォンスが朝の書類に目を通していた。


 雨上がりの光が高い窓から差し込み、机の上に積まれた書類の端を照らしている。執務室には紙と革表紙の匂いが漂い、壁際の書棚には、家政や領地管理に関する記録が整然と並んでいた。


 アルフォンスは一通の封書を手に取り、差出人を確かめた。


 ベルナール家からの返書だった。


 以前、エレノアの衣類に関する古い記録を確認した際、記入者と確認者の欄が重なって見える箇所が見つかっている。そこには「ロラン」と読める姓が残っていたものの、どちらの欄に記されたものなのか、原本の状態だけでは判断できなかった。


 そのためアルフォンスは、特定の人物を疑うような文面を避け、記録の作成方法と確認手順について中立的な問い合わせを送っていた。


 正式な回答が届くまでには時間がかかっていたが、アルフォンスは遅れそのものを不審な証拠とは考えていなかった。古い書類を確認するには手間がかかる場合もあるし、当時の担当者がすぐに分かるとは限らない。


 彼は封を開き、便箋を慎重に取り出した。


 返書には、問い合わせを受領したことへの挨拶に続き、現在確認できている範囲の説明が記されていた。


 問題の記録について、ベルナール家側でも保存書類を照合したものの、記入者と確認者の欄が重なって見える理由は、現時点では特定できていないという。また、同じ時期の衣類管理に関する書類を引き続き確認する予定であること、確実なことが判明した場合には改めて連絡することが記されていた。


 アルフォンスは最後まで読み終えると、便箋を机の上へ置いた。


(返書は届いた。しかし、肝心の欄については、まだ何も確定していないということか)


 問い合わせを無視されたわけではない。それは一つの進展だったが、疑問そのものが解消したわけではなかった。


 アルフォンスは便箋をもう一度読み返した。


 記入者の氏名を確定する記述はない。確認者が誰だったのかを証明する資料も示されていない。記録の重なりが、単なる筆記上の問題なのか、後から何かを書き加えた結果なのかについても、判断できる情報はなかった。


 もちろん、書類の欄が重なっているという事実だけで、不正が行われたと考えることはできない。


 彼は新しい記録用紙を取り出し、返書の到着日と確認できた内容を整理し始めた。


 問い合わせを受け取ったこと。


 ベルナール家側で保存書類を照合したこと。


 現時点では記入者と確認者の区別を確定できないこと。


 追加確認が続けられる予定であること。


 それぞれを分けて記し、推測にあたる内容は書き込まなかった。


 しばらくして、扉を叩く音が響いた。


「アルフォンス様、エレーヌ・フォシェでございます。お呼びでしょうか」


「ああ、入ってくれ。先日問い合わせた衣類の記録について、ベルナール家から返書が届いたんだ」


 エレーヌは一礼して入室し、机の前へ進んだ。アルフォンスは便箋を差し出し、まず内容を確認するよう促した。


 彼女は一行ずつ丁寧に目を通し、読み終えると、少し考えるように視線を落とした。


「正式な返書が届いたことは確認できました。ただ、記入者と確認者の欄については、まだ判断できる段階ではございませんね」


「そうだね。こちらの問い合わせに応じて調べていることは分かったが、当時の記録を誰がどのように扱ったのかまでは明らかになっていない」


「それでは、こちらの管理記録にも、回答済みではなく、照合継続中と記すのが適切かと存じます」


「私もそう考えている。返書が届いたことと、疑問が解決したことは分けておきたい」


 エレーヌは頷き、手元の記録用紙を確認した。


 衣類に関する調査では、複数の記録がすでに見つかっている。しかし、受け渡しの途中経過が分かることと、最終的に誰が受け取ったのかを証明できることは別だった。


 衣装職人アニエス・モローの記録にも、ベアトリス・ロランからナタリーへと受け渡しが続いたことを示す情報はあったが、それだけで失われた品々の最終的な行方を確定することはできない。


 また、エレノアの衣類としてまとめられた古い束については、立会人のもとで最初の二枚を確認しただけで、残りはまだ開かれていなかった。


 アルフォンスはそれらの状況を頭の中で整理し、静かに口を開いた。


「この返書だけで、誰かの責任を決めることはできない。衣類の束についても、残りを開く必要があるなら、これまでと同じように立会いと記録を整えてからにしよう」


「承知いたしました。既存の記録と混同しないよう、返書は問い合わせの控えとともに保管いたします」


 エレーヌはそう答え、書類の扱いについて確認した。


 アルフォンスはしばらく考えたあと、もう一つ付け加えた。


「エレノアには、返書が届いたことを伝えてもよいと思っている。ただし、分からないことが多い段階で、余計な不安を与えるような説明は避けたい。何を伝えるべきか、少し整理しておこう」


 エレーヌは静かに頷いた。


「お嬢様は、ご自身に関する記録を知りたいとお考えでございます。一方で、確かでないことを事実として扱わないよう、いつも慎重にお尋ねになります。今回も、分かっている範囲を正確にお伝えするのがよろしいかと存じます」


 アルフォンスはその言葉を聞き、わずかに表情を和らげた。


 エレノアは、ロシュフォール邸へ来たばかりの頃、自分の希望を口にすることさえためらっていた。今では家族に相談し、分からないことを尋ね、時には自分の考えをはっきりと伝えられるようになっている。


 その変化を大切にしたいと思うからこそ、彼女に関わる記録を、本人の知らないところですべて決めてしまうことは避けたかった。


「今日の午後、時間を取ろう。まずは私から説明することにするよ」


 アルフォンスはそう言って返書を丁寧に折り、控えとともに整理した。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたエレノアは、自室で部屋の図を見直していた。


 昨日描き加えた家具の配置には、まだ不正確なところがある。窓から飾り棚までの距離も、紙の上では少し近く描きすぎているように思えた。


 エレノアはリディアと相談しながら、床の継ぎ目や家具の位置を目安に、部屋の大まかな広さを確かめた。正確な測量をするわけではなく、額を置く候補を考えるための簡単な確認である。


「こちらの棚は、思っていたより机に近いのね。図に描いた時には、もう少し離れているように感じたのだけれど」


「実際に立ってみると、見え方が変わりますね。額を置いた場合には、机で作業をなさる時の視線にも入るかもしれません」


「それは嬉しいわ。でも、棚の上に置くだけでは、少し不安定かもしれないわね」


 エレノアは棚の端へ目を向けた。古い額を立てかけるだけでは、何かの拍子に倒れる可能性がある。壁に固定する方法も考えられるが、それには額や壁の状態を確認する必要があり、今すぐ決められることではなかった。


「やっぱり、置き場所だけでなく、安全に飾る方法も考えなければならないのね」


「はい。エレーヌ様にも、必要な確認をしてから進めるようお話しいただいております。今は候補を考えるところまででよろしいかと存じます」


 エレノアは頷き、図の余白へ小さく書き加えた。


『飾り棚――光は避けやすそう。安定性は未確認。』


 それから、窓辺の位置にも印をつける。


『現在の場所――眺めやすい。朝の強い光に注意。』


 二つの場所には、それぞれよいところと、気をつけなければならないところがある。こうして書き出してみると、単純にどちらか一方が正しいわけではないことが分かった。


 エレノアは紙を見つめ、少しだけ微笑んだ。


(何かを選ぶ時には、よいところだけでなく、気になるところも見ていいのね。そうすれば、あとから困ることも減らせるかもしれないわ)


 その時、リディアが机の端に置かれた刺繍枠へ目を向けた。


「エレノア様、青い花の方も、少しずつ形が整ってまいりましたね。昨日は内側の色について考えていらっしゃいましたが、今日は続きをなさいますか」


「ええ。少しだけ進めたいと思っているの。でも、濃い糸を使うかどうかは、まだ迷っているから、今日は今の色でできるところを縫ってみるわ」


 エレノアは部屋の図を片づけ、刺繍枠を手に取った。


 青い花弁の輪郭は、以前よりも滑らかになっている。濃淡のつけ方にはまだ迷いが残るが、今使っている糸の流れを整えるだけでも、少しずつ花の形がはっきりしてきた。


 針を進める間、窓の外では庭師たちが雨上がりの小道を確かめていた。遠くから箒の音が聞こえ、時折、乾き始めた葉が風に舞い上がる。


 エレノアはその穏やかな音を聞きながら、布へ針を通した。


 自分で選んだ色が少しずつ形になることは、今の彼女にとって大きな喜びだった。完成を急ぐ必要はなく、途中で迷ったなら、また考え直せばよい。


 そうして午前の時間が過ぎていった。


     ◇ ◇ ◇


 昼食のあと、エレノアのもとへアルフォンスから伝言が届いた。


 午後、少し時間を取って話したいことがあるという。


 リディアからその内容を聞いたエレノアは、最初はいつもの家族の相談だと思った。しかし、衣類に関する古い記録について話があると知らされると、胸の奥がわずかに緊張した。


 失われた衣装のことは、今も気になっている。


 かつて自分のために用意されたはずの衣装のうち、いくつかは異母妹ミレーヌのために作り替えられ、残りの一部は行方が分からなくなっていた。


 古い記録には、受け渡しに関する名前や日付が残されていたものの、すべての品の行方が明らかになったわけではない。


 エレノアは刺繍枠を置き、しばらく手元を見つめた。


(何か分かったのかしら。それとも、まだ調べなければならないことがあるのかしら)


 期待と不安が入り交じり、指先にわずかな力が入った。


 前の人生では、自分の持ち物について意見を求められることは少なかった。何かがなくなっても、必要なものを渡されなくても、それを当然のように受け入れるしかないと思っていた。


 今は違う。


 祖父母も叔父も、彼女の持ち物について調べることを認め、分からないことをそのままにしないよう努めてくれている。


 それでも、古い記録を調べるという行為には、時折、過去の不安を呼び起こす力があった。


 リディアはエレノアの表情を見て、静かに声をかけた。


「エレノア様、少しお茶をお持ちいたしましょうか。お話のお時間までは、まだ余裕がございます」


 エレノアは顔を上げ、リディアの穏やかな表情を見つめた。


「ありがとう。そうしていただけると嬉しいわ。少しだけ、緊張してしまったみたい」


「大切な記録についてのお話でございますから、緊張なさるのも自然なことかと存じます。ですが、今すぐ何かを決めなければならないと伺っているわけではございません」


「そうね。まだ、どんなお話なのかも分からないもの。先に心配しすぎないようにしたいわ」


 リディアは微笑み、茶の支度をするために一礼した。


 エレノアは窓辺の額へ目を向けた。


 桃色の野薔薇は、今も静かに飾られている。


 母が使っていた古い額に、自分が完成させた刺繍を収めることができた。失われたものばかりではなく、今ここにあるものも確かに存在している。


 そう思うと、胸の奥の緊張が少し和らいだ。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアはリディアとともに小応接室を訪れた。


 室内にはアルフォンスとエレーヌが待っており、窓際の小卓には茶器が用意されていた。机の上には数枚の書類が整えられていたが、エレノアが入室した時、アルフォンスはそれらを急いで広げることなく、まず椅子へ座るよう促した。


「来てくれてありがとう、エレノア。今日は以前問い合わせた衣類の記録について、ベルナール家から返書が届いたので、そのことを伝えたいと思っているんだ」


 エレノアは静かに頷いた。


「返書が届いたのですね。叔父様、何か分かったのでしょうか」


 アルフォンスはすぐに答えず、言葉を選ぶように少し間を置いた。


「まず、問い合わせを受け取ったことと、向こうでも保存書類を確認したことは分かった。ただ、私たちが知りたかった記入者と確認者の区別については、まだ確定できていないそうだ」


 エレノアは膝の上で重ねた手を見つめた。


 返書が届いたと聞いた時、何か新しい事実が明らかになったのかもしれないと思った。しかし、叔父の説明では、疑問そのものはまだ残っているらしい。


「では、あの記録にあった『ロラン』という名前が、どちらの欄に書かれていたのかも、まだ分からないのですね」


「そうだね。少なくとも、今回の返書だけでは判断できない。ベルナール家では同じ時期の書類を引き続き確認する予定だと書かれているが、いつ結論が出るのかまでは示されていない」


 エレノアは頷き、ゆっくりと息を整えた。


 古い記録の中に「ロラン」という姓があったことは、以前の確認で知っていた。しかし、それがベアトリス・ロランを指すのかどうか、また記入者と確認者のどちらを示すのかは、確定していない。


 同じ姓が残っているからといって、すべてを一人の人物へ結びつけることはできなかった。


「叔父様、もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ。何が気になるのかな」


 エレノアは少し考え、手元の書類へ目を向けた。


「返書が届いたということは、向こうでも記録を探してくださったのですよね。でも、分からなかったことは、これからも分からないままになる可能性があるのでしょうか」


 アルフォンスはその問いを受け、穏やかに頷いた。


「可能性はある。古い記録だからね。必要な書類が残っていないこともあれば、残っていても読み取れないこともあるだろう。ただ、今の段階で調査が終わったと決まったわけではない。だから、分からないという結果を急いで確定させる必要もないんだ」


 エレノアは叔父の言葉を静かに受け止めた。


 知りたいことがあるからといって、必ず答えが見つかるとは限らない。


 それは母の古い絵についても、同じだった。


 絵の裏に残された文字からは、母と幼い自分が描かれていることを確かめられた。しかし、誰が描いたのか、いつ描かれたのか、庭園のどの場所だったのかについては、まだ分からない。


 それでも、分からない部分を想像で埋めてしまうべきではないと、エレーヌから教わったばかりである。


「私、少しだけ期待していたんです。返書が届いたと聞いて、何か分かったのかもしれないと思ってしまって」


 エレノアはそう打ち明け、わずかに視線を落とした。


「でも、まだ分からないことがあるのですね。残念な気持ちはありますけれど、調べてくださっていることは嬉しいです」


 アルフォンスはその言葉を聞き、静かに表情を和らげた。


「期待することは悪いことではないよ。君の大切なものに関わる話なのだから、早く知りたいと思うのは自然なことだ。私たちも、確かな情報が得られれば、きちんと伝えるつもりでいる」


 エレノアは顔を上げ、叔父の目を見つめた。


「ありがとうございます。私も、分からないことを無理に決めつけないようにしたいです。でも、もし新しく分かったことがあれば、また教えていただきたいと思っています」


「もちろんだとも。そのために、こうして記録を整理しているのだからね」


 エレーヌも穏やかに頷いた。


「今回の返書についても、分かったことと、まだ確認できていないことを分けて記録しております。後から別の資料が見つかった場合にも、混同せずに確認できるようにするためでございます」


 エレノアはその説明を聞き、少し安心した。


 返書が届いたからといって、調査が終わったわけではない。


 けれど、何も進んでいないわけでもない。


 問い合わせが届き、保存書類が照合され、まだ確認できないことがあると正式に伝えられた。その一つ一つを区別して残しておくことが、次の確認につながるのだろう。


     ◇ ◇ ◇


 アルフォンスはエレノアの様子を確かめてから、もう一つ説明を続けた。


「今回の返書には、失われた衣装の行方を新しく示す情報はなかった。以前確認した記録の内容も、現時点では変わっていない」


 エレノアは頷いた。


 かつて自分のために用意された衣装のうち、八着の所在が問題になっていた。その中の三着はミレーヌのために作り替えられていたが、残る五着については、まだ行方が分かっていない。


 その事実は変わらない。


 また、古い衣類の束についても、最初の二枚を確認したところで作業を止めており、残りはまだ開かれていなかった。


「叔父様、あの衣類の束は、今もそのまま保管されているのでしょうか」


「ああ。確認した二枚については記録を残しているが、残りは開いていない。今後確認する必要がある場合も、立会いと記録を整えてから進めるつもりだよ」


 エレノアは胸の奥に小さな安堵を覚えた。


 自分に関する古いものが、誰にも知らされないまま次々と開かれていくわけではない。必要な時に、何を確かめるのかを説明してもらえる。


 それは、彼女にとって大切なことだった。


「ありがとうございます。私、あの束の中に何があるのか気になっています。でも、急いで開ければよいというものではないのですね」


「そうだね。確認する目的をはっきりさせておいた方が、後から何が分かったのかを整理しやすい。今のところ、返書が届いたという理由だけで、残りを開く必要が生じたわけではないんだ」


 エレノアは頷き、少し考えたあと、静かに口を開いた。


「叔父様、私は、自分のものがどこへ行ったのかを知りたいです。でも、誰かを疑いたいからではないんです」


 アルフォンスは何も言わず、彼女の言葉を待った。


「もちろん、勝手に使われたものがあったことは悲しいです。私の知らないところで決められていたことも、今でも少し怖いと思います。でも、だからといって、まだ分からないことまで誰かのせいにしてしまったら、私が知りたかった本当のことから離れてしまう気がするんです」


 言い終えたあと、エレノアは自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。


 失われた衣装のことを話す時、どうしても以前の生活が思い出される。


 自分のために用意されたはずのものが、いつの間にか別の誰かのために使われていた。何かを尋ねれば、余計なことを言わないようにと叱られるのではないかと恐れていた。


 今は、そうではない。


 目の前にいる叔父は、彼女の言葉を遮らず、最後まで聞いてくれている。


 アルフォンスは静かに頷き、穏やかな声で答えた。


「君が何を知りたいのか、よく分かったよ。私も同じように考えている。確認できる事実を積み重ね、分からないことは分からないまま残す。そのうえで、必要なことを調べていこう」


 エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 誰かが自分の考えを理解しようとしてくれること。


 それだけで、過去の記憶に触れた時の痛みが、少しだけ和らぐように思えた。


 エレーヌは机の上の書類を整え、エレノアへ穏やかな視線を向けた。


「お嬢様、古い記録を調べる際には、当時の人々が何を知っていたのかも大切になります。後から分かったことを、過去の人々が初めから知っていたように扱うことはできません。ですから、記録が作られた時点で何が確認されていたのかを、慎重に見ていく必要がございます」


 エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「はい。今の私が知っていることと、あの時の人たちが知っていたことは、同じとは限らないのですね」


「その通りでございます。誰が何を確認したのかが分からない段階では、責任の所在についても慎重であるべきでしょう」


 エレノアはもう一度頷いた。


 調べることは、誰かを責めることと同じではない。


 けれど、調べなければ分からないことがあるのも事実だった。


 その二つを、混同しないようにしたいと思った。


     ◇ ◇ ◇


 小応接室での話し合いを終えたあと、エレノアはリディアとともに廊下を歩いた。


 窓から差し込む午後の光が床に長い帯を作り、その上を通るたび、衣装の裾に淡い明るさが映る。外では雨上がりの庭園が乾き始めており、遠くから鳥の声が聞こえていた。


 エレノアはしばらく黙って歩いていたが、階段の手前で足を緩めた。


「リディア、少しだけ、ここで休んでもよいかしら」


「もちろんでございます。お疲れになりましたか」


「ええ。身体が疲れたというより、いろいろ考えてしまって」


 リディアは近くの窓辺にある腰掛けへエレノアを案内した。そこは廊下の往来を妨げない場所にあり、庭園の一部を眺めることができる。


 エレノアは腰を下ろし、窓の外へ目を向けた。


 雨上がりの木々は、朝よりも鮮やかな色を見せている。濡れた枝先にはまだ水滴が残り、風が吹くと小さく光った。


「返書が届いたと聞いた時、私、少し怖かったの」


 エレノアは静かに言った。


「何かが分かったのかもしれないと思うと嬉しかったけれど、もしまた自分の知らないところで何かが決められていたと分かったら、どうしようとも思ってしまって」


 リディアは隣に立ったまま、静かに耳を傾けていた。


「でも、叔父様は、分かったことも分からないことも、きちんと説明してくださったわ。何も隠さずに話していただけたことが、嬉しかったの」


 エレノアはそう言って、膝の上で重ねた手をゆっくりと開いた。


 先ほどまで指先に残っていた緊張は、少しずつ和らいでいた。


「お嬢様がご自身のお考えをお伝えになったことも、大切だったと思います」


 リディアは穏やかに答えた。


「アルフォンス様も、エレノア様が何を望んでいらっしゃるのかを、改めて知ることができたのではないでしょうか」


「そうだったら嬉しいわ。私、以前は自分のものについて尋ねることさえ、よくないことのように思っていたから」


 リディアはその言葉を聞き、わずかに表情を曇らせた。


 エレノアがロシュフォール邸へ来たばかりの頃、彼女は何かを頼むたびに申し訳なさそうにしていた。自分の衣装を選ぶことにも、食べたいものを尋ねられることにも、戸惑いを見せることがあった。


 今では、刺繍の糸を選び、額の置き場所を考え、分からないことを尋ねられるようになっている。


 けれど、過去の不安がすべて消えたわけではないことも、リディアには分かっていた。


「エレノア様、ご自身のものについてお尋ねになることは、決して悪いことではございません。分からないことがあれば、これからもどうぞお話しくださいませ」


 エレノアは顔を上げ、リディアの表情を見つめた。


「ありがとう。私、少しずつ慣れていきたいわ。怖いと思うことがあっても、何も言わずに諦めてしまわないように」


 リディアは穏やかに微笑み、静かに頷いた。


 二人はしばらく窓の外を眺め、それから自室へ戻るために立ち上がった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、アルフォンスは執務室で再び返書を確認していた。


 エレノアとの話し合いを終えた今、彼は書類に残すべき内容をもう一度整理していた。


 返書の到着によって、問い合わせが受理されていたことは確かめられた。しかし、記録の曖昧さは解消されていない。今後の照合がどの程度進むかについても、現時点では判断できなかった。


 アルフォンスは記録用紙の末尾へ、今日の説明について書き加えた。


 エレノア本人へ返書の概要を伝えたこと。


 記入者と確認者の区別は未確定であると説明したこと。


 本人が引き続き事実の確認を望んでいること。


 そして、特定の人物について推測による判断を求めていないこと。


 そこまで記すと、アルフォンスは筆を置いた。


(あの子は、自分のものが失われた理由を知りたいのだ。誰かを責めるためではなく、自分の知らなかった過去を確かめるために)


 彼は窓の外へ目を向けた。


 庭園の木々は夕方の光を受け、濡れていた葉をゆっくりと乾かしている。少し前まで雨に包まれていた景色が、今は穏やかな色を取り戻していた。


 アルフォンスは、妹アデラインのことを思い出した。


 彼女も幼い頃から、分からないことをそのままにするのが苦手だった。庭園で見つけた花や虫について、周囲の大人へ次々と質問し、時には相手の説明が終わる前に別の疑問を口にすることもあった。


 けれど、エレノアは母と同じではない。


 彼女は彼女自身の経験を通して、知りたいことと、確かめるべきことを少しずつ見つけている。


 アルフォンスはその違いを大切にしたいと思った。


 アデラインの娘だから守るのではない。


 今ここにいるエレノア自身が、大切な家族だからこそ、その意思を尊重したいのだ。


 彼は書類を閉じ、保管場所へ戻した。


 机の別の場所には、ロシュフォール家への養子縁組に関する書類も整理されている。ロベルト・ベルナールから異議を唱えない旨の返答は得ているが、正式な手続きはまだ完了していない。


 衣類の調査と、養子縁組の手続きは別の問題である。


 どちらもエレノアの今後に関わるからこそ、混同せず、必要な確認を進めなければならなかった。


 アルフォンスは深く息をつき、次の書類へ手を伸ばした。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席で、エレノアは家族へ今日の話し合いについて簡単に伝えた。


 ベルナール家から返書が届いたこと。


 古い記録の曖昧な部分については、まだ答えが出ていないこと。


 そして、引き続き確認が行われる予定であること。


 オーギュストは話を聞き終えると、静かに頷いた。


「返書が届いたことは一つの進展だね。しかし、分からないことが残っている以上、急いで判断しない方がよいだろう」


「はい、お祖父様。私も、今日叔父様からお話を聞いて、そう思いました」


 マルグリットはエレノアの表情を見つめ、穏やかに声をかけた。


「少し疲れたのではありませんか。古い記録を調べることは、思い出したくないことへ触れる場合もありますもの」


 エレノアは少し考え、正直に頷いた。


「少しだけ、疲れました。でも、叔父様が丁寧に説明してくださったので、安心できました。分からないことはまだありますけれど、今すぐ答えを出さなくてもよいのだと思えたんです」


 マルグリットは優しく微笑んだ。


「それならよかったですね。何かを知ることには勇気が必要な時もありますが、あなた一人ですべてを背負う必要はありませんよ」


 エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 セドリックは少し離れた席から、穏やかな声で言葉を添えた。


「エレノア、今日はゆっくり休むといいよ。調べることは大切だけれど、君が毎日を楽しむことも同じくらい大切だからね」


「ありがとうございます、お兄様。今日はお部屋の図も少し描き直せたので、明日はまた刺繍を進めたいと思っています」


「それなら、楽しみが残っているんだね。青い花も、少しずつ形になっているのだろう?」


「はい。まだ色を迷っているところがありますけれど、前よりも花弁が整ってきたんです。完成したら、ぜひ見ていただきたいです」


 セドリックは嬉しそうに微笑んだ。


「もちろん。楽しみにしているよ」


 そのやり取りを聞きながら、アルフォンスは静かに茶器を置いた。


 衣類の記録には、まだ分からないことが残っている。


 しかし、エレノアの毎日は、それだけでできているわけではない。


 庭園を歩き、祖父母と話し、刺繍を進め、部屋の飾り方を考える。そうした一つ一つの時間が、彼女の暮らしを少しずつ豊かなものにしている。


 調査を進めることと、その日々を守ること。


 アルフォンスは、その両方を大切にしていきたいと思った。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に日記帳を開いた。


 窓辺の額は、今夜も同じ場所に飾られている。日中はリディアが光の入り方を確かめながらカーテンを調整してくれたため、強い日差しが長く当たり続けることは避けられた。


 古い額の置き場所は、まだ決まっていない。


 母の絵の複製についても、専門家の確認を待っている。


 青い花の刺繍も、まだ完成していない。


 そして今日、衣類の記録について新しい返書が届いたものの、疑問そのものは解決しなかった。


 エレノアはそれらを思い浮かべ、しばらく筆を止めた。


 以前なら、未完成のものや、答えの出ないことが重なるたび、自分が何かを間違えているのではないかと不安になったかもしれない。


 けれど今は、すべてを急いで終わらせる必要はないと感じている。


(私の知らないことは、まだたくさんあるわ。でも、知らないままにしておきたくないこともある。だから、確かめられることから少しずつ進めていきたいの)


 エレノアは筆を取り、今日の出来事を書き始めた。


『今日は、ベルナール家から衣類の記録について返書が届いたと教えていただきました。記入者と確認者の欄については、まだ分からないことが残っています。少し残念でしたが、叔父様が丁寧に説明してくださったので、安心してお話を聞くことができました。』


 そこで一度筆を止め、続けて書き加える。


『私は、自分のものがどこへ行ったのかを知りたいと思っています。でも、分からないことを誰かのせいにしてしまわないようにしたいです。確かなことを一つずつ知っていくことが、今の私には大切なのだと思います。』


 書き終えると、エレノアは日記帳を閉じた。


 机の上には、菩提樹の葉を描いた図案帳と、青い花の刺繍枠が並んでいる。


 窓辺には、完成した桃色の野薔薇。


 何も飾られていない壁には、まだ決まっていない未来が残されている。


 エレノアはそれらをゆっくりと見渡し、胸の奥に静かな温かさが広がるのを感じた。


 今日の返書によって、失われた衣装が見つかったわけではない。過去に何が起きたのかも、すべて明らかになったわけではなかった。


 それでも、自分の疑問を口にし、答えを待つことができる。


 分からないことを、分からないまま大切に扱ってもらえる。


 そのことが、今のエレノアには何よりも心強かった。


 リディアが寝台の支度を整え、静かに声をかけた。


「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日はお話し合いもございましたので、お疲れになったのではございませんか」


「ええ。今日は少し疲れたわ。でも、話してよかったと思っているの」


 エレノアは微笑み、机の上の筆記具を整えた。


「明日は、青い花の刺繍をもう少し進めたいわ。それから、お天気がよければ、庭園の様子も見てみたいと思っているの」


「かしこまりました。明日の朝、天候と小道の状態を確かめておきますね」


「ありがとう、リディア。今日は本当に、いろいろなことを考えた一日だったわ」


 リディアは穏やかに微笑み、灯りを少し落とした。


 エレノアは寝台へ入り、柔らかな掛け布の中で身体を休めた。


 窓の外では、雨上がりの庭園を夜風が静かに通り抜けている。菩提樹の枝先に残る葉が揺れ、遠くで小さな音を立てていた。


 失われたものの行方は、まだ分からない。


 けれど、今ここにあるものを大切にすることはできる。


 エレノアはその思いを胸に抱きながら、ゆっくりと目を閉じた。


 明日もまた、自分で選んだ一日を過ごしていきたい。


 そんな穏やかな願いとともに、彼女は静かな眠りへ落ちていった。


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