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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 空いた壁に描く未来と、母の名前を残す記録


 翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の外では細かな雨が降っていた。昨夜から続いていたらしい雨は庭園の小道を濡らし、菩提樹の枝に残る葉を重たそうに揺らしている。曇った空から届く光は弱く、窓辺に飾られた桃色の野薔薇の刺繍も、いつもより深みのある色合いに見えた。


 寝台の上で身体を起こしたエレノアは、しばらく雨に濡れた庭園を眺めていた。先日、祖父たちと歩いた時には乾いていた小道が、今朝は薄い水の膜をまとっている。石の縁を伝う雨粒を見ていると、同じ庭園でも天候によってまったく違う表情を見せるのだと感じられた。


(今日はお部屋で過ごす時間が長くなりそうね。昨日教えていただいたことを、落ち着いて整理するのによい日かもしれないわ)


 昨日、エレーヌ・フォシェに古い額を確認してもらった。外側から見える範囲では大きな破損は認められなかったものの、内部の状態までは分からず、木枠の小さな傷がいつついたものなのかも不明のままである。


 それでも、現在の状態を記録できたことは嬉しかった。母アデラインが使っていた額と、自分が完成させた桃色の野薔薇。その両方を大切にするために、これから何を考えればよいのかが、少しずつ見えてきたように思える。


 控えめなノックの音が響き、リディアが朝の挨拶とともに入室した。彼女は窓の外を確かめると、エレノアへ穏やかな笑みを向けた。


「おはようございます、エレノア様。今朝は雨でございますね。庭園の石畳も濡れておりますので、お出かけになる場合には足元にお気をつけいただく必要がありそうです」


「おはよう、リディア。今日はお部屋で過ごそうと思っているの。昨日の額のことも、まだ考えたいことがあるから」


「それでしたら、午前中はゆっくりお過ごしいただけるようにいたしましょう。お部屋の明るさも、今日は昨日とは違っておりますね」


 リディアはそう言って、窓辺のカーテンへ目を向けた。昨日エレーヌから、強い光が直接当たる時間帯には光を和らげる工夫を考えるよう勧められたばかりだった。しかし今朝は雨のため、窓から届く光も柔らかい。


「今日は、カーテンを少し開けておいても大丈夫そうね。雨の日は、強い日差しが入らないもの」


「はい。ただ、天候が変わることもございますので、時折様子を確認いたします」


 エレノアは頷き、窓辺の額を見つめた。今の場所が好きだという気持ちは変わっていない。けれど、長く守るためには別の場所を考える必要があるかもしれないと、昨日の確認で改めて感じていた。


 衣装を選ぶ時、エレノアは柔らかな灰青色の衣装を希望した。雨の日の落ち着いた空気に似合う色だと思ったからである。リディアはそれに合う淡い生成り色の上着を用意し、髪を後ろでゆるくまとめてくれた。


 支度を終えたエレノアは鏡の前で軽く身を翻し、袖口の布が自然に落ちる様子を確かめた。


「ありがとう、リディア。今日はこの衣装にしてよかったわ。少し落ち着いた気持ちで過ごせそう」


「お気に召していただけて何よりでございます。雨の日は外の景色が静かですから、お部屋で手仕事をなさるのにもよいかもしれませんね」


 エレノアは微笑み、机の上に置かれた図案帳へ目を向けた。菩提樹の葉を描いた頁も、青い花の刺繍も、まだ手を加えたい部分がある。しかし今日は、それらを進める前に、昨日の相談で考えたことを整理したいと思っていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、窓を打つ雨音が静かに響いていた。庭園の作業は天候に合わせて調整されるらしく、オーギュストは庭師たちが無理に外で仕事を進めないようにしていると話していた。


 エレノアはその話を聞きながら、昨日の額の確認を思い返した。古いものを守るためには、急いで手を加えるよりも、今の状態をよく知ることが大切なのだと教わったばかりである。庭園の手入れも、天候や木々の状態を見ながら進めるという点では似ているのかもしれない。


「お祖父様、雨の日には、庭園のお手入れもお休みになることがあるのですね」


 エレノアが尋ねると、オーギュストは穏やかに頷いた。


「もちろんだよ。雨の中でしかできない仕事もあるが、濡れた地面を無理に踏み固めれば、かえってよくない場合もあるからね。庭師たちは、その日の状態を見て仕事を変えているんだ」


「そうなのですね。いつも綺麗に整えられているので、毎日同じようにお手入れしているのだと思っていました」


「綺麗に見える庭園ほど、実は日々の小さな判断が積み重なっているものなのかもしれないね」


 その言葉に、エレノアは微笑んだ。自分が知らないところで、多くの人が庭園を守ってくれている。菩提樹の下を安心して歩けたことも、そうした日々の仕事があったからなのだろう。


 マルグリットは孫娘の表情を見て、優しく声をかけた。


「今日は雨ですから、午後のお茶は小さな居間でいただきましょうか。あなたも、お部屋で考えたいことがあるのでしょう?」


「はい、お祖母様。昨日エレーヌ様に見ていただいた額の置き場所を、もう少し考えてみたいんです。今の窓辺も好きですけれど、別の場所に置くなら、どこがよいのかまだ迷っていて」


「それなら、今日はお部屋の中をゆっくり見回してみるとよいかもしれませんね。雨の日は光の入り方も違いますから、昨日とは別のことに気づくかもしれません」


 エレノアは頷いた。晴れた日の光だけでなく、雨の日の部屋の雰囲気も考えることができる。飾る場所を決めるというのは、思っていた以上に多くのことを考える必要があるのだと感じていた。


 アルフォンスは茶器を置き、穏やかな声で言葉を添えた。


「エレーヌから、昨日の確認について簡単な報告を受けたよ。外側から見える範囲では大きな破損は確認されなかったが、内部についてはまだ分からないことがあるそうだね。置き場所についても、すぐに結論を出す必要はないだろう」


「ありがとうございます、叔父様。私も、急いで決めないようにしたいと思っています。あの額を長く大切にしたいので、よく考えてから動かしたいんです」


「それでいいと思うよ。何か必要なことがあれば、遠慮なく相談してほしい」


 セドリックも頷き、エレノアへ微笑みかけた。


「昨日話していた部屋の図は、もう少し詳しく描くつもりなのかな。もしそうなら、家具の大きさも大まかに入れてみると、置き場所を考えやすいかもしれないね」


「そうですね、お兄様。昨日は窓と机と棚の位置だけを描いたので、今日は椅子や小さな花器の場所も入れてみようと思います」


「それなら、実際に家具を動かす前に、いくつかの置き方を考えられるね。もちろん、図の上ではよさそうでも、実際には使いにくいこともあるから、最後は部屋で確かめる必要があるだろうけれど」


 エレノアはその言葉を聞き、少し楽しみになった。額を移すことを考えるだけでなく、自分の部屋をどのように使いたいのかを見直す機会にもなるのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。窓の外では雨が少し強くなり、庭園の石畳に小さな水の輪がいくつも広がっている。室内には柔らかな灰色の光が差し込み、家具の輪郭を落ち着いた色合いで包んでいた。


 エレノアは机の上に紙を広げ、昨日描いた部屋の簡単な図を取り出した。窓、机、椅子、飾り棚の位置を示した線は、まだ大まかなものだった。今日はそこへ、普段使っている小さな道具箱や花器の位置も書き加えることにした。


「リディア、こちらの棚の上には、今は花器を置いているわね。もし額を飾るなら、花器を別の場所へ移す必要があると思うのだけれど、どこがよいかしら」


 リディアは棚へ目を向け、少し考えてから答えた。


「花器を使う時には水を入れることもございますから、古い額の近くへ置くのは避けた方がよろしいかもしれません。もし額をこちらへ移すのであれば、花器は別の棚へ置く方法もございます」


「そうね。水がこぼれてしまったら困るもの。今まで同じ棚に置くことしか考えていなかったけれど、別々にした方が安心かもしれないわ」


 エレノアは図の上で花器の位置を示す小さな印を消し、別の場所へ描き直した。実際には何も動かしていないのに、紙の上で位置を変えるだけで部屋の印象が少し変わるように感じられた。


 次に、椅子の位置を考えた。普段は窓の近くで読書をすることが多いが、雨の日には窓から少し離れた場所の方が落ち着くこともある。エレノアは椅子を動かした場合の図を描き、机との距離を確かめた。


「こちらへ椅子を動かすと、刺繍をする時には少し暗くなるかもしれないわね」


「そうでございますね。手仕事をなさる時には、明るさも大切でございます。お嬢様が普段どこで何をなさるかを考えながら、配置を決めるのがよろしいかと存じます」


 エレノアは頷き、図を見つめた。額を守るために部屋のすべてを変えてしまう必要はない。今の暮らしを大切にしながら、無理のない場所を探すことができればよいのだ。


(私は、あの額を守りたい。でも、部屋で過ごす時間も大切にしたいわ。どちらかを我慢するのではなく、両方を考えていいのね)


 しばらく図を描き直していると、エレノアは机の横にある何も飾られていない壁へ目を向けた。そこは、母と幼い自分が描かれた古い絵の複製を、いつか飾れたらよいと考えていた場所である。


 複製が作れるかどうかは、まだ分からない。専門家への相談もこれからであり、原画の状態についても慎重な確認が必要だと聞いている。


 それでも、エレノアはその壁を眺めるたびに、少しだけ未来を想像するようになっていた。


「リディア、こちらの壁は、やはり今のままにしておきたいわ」


 エレノアが静かに言うと、リディアは彼女の視線を追った。


「古い絵の複製について、考えていらっしゃるのでございますね」


「ええ。でも、作れるかどうかも分からないから、今すぐ何かを決めたいわけではないの。ただ、もし飾れる日が来たら、その時にどこがよいか考えたいと思って」


「かしこまりました。それまでは、何も置かずにおきましょう」


 リディアはそれ以上尋ねず、机の上の紙を整えた。エレノアはその気遣いを嬉しく感じながら、空いた壁へ目を向けた。


 何も飾られていない場所が、寂しいものではなく、これから何かを迎えるかもしれない場所に見える。そんな変化が、今の彼女には不思議で、少し嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の終わり頃、雨は少し弱まった。窓硝子を伝う水滴が細くなり、庭園の奥にある菩提樹の輪郭が、朝よりもはっきり見えるようになっている。


 エレノアは部屋の図を描き終えると、しばらく青い花の刺繍を進めることにした。刺繍枠を手に取り、昨日整えた花弁の端へ新しい糸を通していく。


 青い糸は布の上で柔らかな曲線を描き、少しずつ花の形を作っていった。まだ完成には遠いが、針を進めるたびに、自分の選んだ色が布の上へ残っていくことが嬉しかった。


 リディアは少し離れた場所で衣装の整理をしていたが、エレノアが針を止めた時には、自然と手元へ目を向けた。


「エレノア様、今日は花弁の内側を進めていらっしゃるのですね」


「ええ。外側の線が少し整ったから、今日は内側の色を考えながら進めてみようと思ったの。でも、濃い糸をどのくらい使うか迷っているところなのよ」


「それでしたら、すぐに縫い進めず、糸を並べて比べてみるのもよろしいかもしれません」


 エレノアは頷き、糸箱から少し濃い青色の糸を取り出した。布の上へそっと重ねてみると、今使っている糸との違いが分かる。けれど、実際に縫った時の印象までは、まだ想像しきれなかった。


「この色も綺麗だけれど、少し濃すぎるかもしれないわね。お祖母様と一緒に考えた青紫色の花とは違うから、こちらはもう少し落ち着いた青にしたいと思っているの」


「それでしたら、今の色を中心にして、少しだけ濃い糸を使う方法もございますね」


「そうね。今日は決めずに、もう少し考えてみるわ」


 エレノアは糸を元の場所へ戻し、刺繍枠を机の上へ置いた。すぐに答えを出さなくてもよいと思えるようになったことで、手仕事の時間は以前よりも穏やかなものになっていた。


     ◇ ◇ ◇


 午後のお茶の時間、エレノアは小さな居間で祖母と過ごした。窓の外では雨が細くなり、庭園の木々が濡れた葉を揺らしている。室内には温かな茶の香りが広がり、暖炉の近くに置かれた椅子が、静かな午後の空気を作っていた。


 マルグリットはエレノアが持参した部屋の図を眺め、穏やかに微笑んだ。


「まあ、ずいぶん丁寧に描きましたね。窓や机だけでなく、椅子や花器の位置まで考えたのですか」


「はい、お祖母様。お兄様が、家具の大きさも考えるとよいと教えてくださったので、少し描き足してみたんです。まだ正確ではありませんけれど、どこへ何を置くか考えるのが楽しくなってきました」


「それはよいことですね。自分の部屋をどう使いたいのかを考える時間も、大切なものですから」


 エレノアは頷き、図の中で何も描いていない壁を指さした。


「こちらは、今は何も置かないでおきたいと思っています。古い絵の複製が作れるかどうかはまだ分かりませんけれど、もし飾れる日が来たら、その時に考えたいので」


 マルグリットはその部分へ目を向け、少しだけ表情を和らげた。


「そうですね。あの絵は、私にとっても大切なものです。けれど、今は原画を守ることが何より大切ですから、複製については専門家の確認を待ちましょう」


「はい。私も、原画を傷めてまで複製を作りたいわけではありません。ただ、いつかお部屋で眺められたら嬉しいと思っているんです」


「その願いは、決して悪いものではありませんよ。大切な人の姿を身近に感じたいと思うのは、自然なことですもの」


 祖母の言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。母の姿をもっと知りたいという願いは、今も変わっていない。しかし、知りたい気持ちが強いからこそ、確かめられないことを勝手に決めつけないようにしたいと思っている。


 マルグリットは茶器を置き、少し考えるように窓の外へ目を向けた。


「アデラインも、何かを作る時には、すぐに決められないことがありましたよ。糸の色を選ぶ時にも、何度も並べ直していたことがありました」


 エレノアは顔を上げ、祖母の言葉に耳を傾けた。


「お母様も、糸の色を迷われたのですか」


「ええ。もちろん、いつもそうだったわけではありませんけれどね。気に入った色が見つかるまで、少しずつ比べていたことを覚えています。けれど、どの作品のことだったのかまでは、はっきり覚えていないのですよ」


 マルグリットはそう言って、少し申し訳なさそうに微笑んだ。エレノアは首を振り、穏やかに答えた。


「それでも嬉しいです。私も今、青い花の糸を選ぶのに迷っているので、お母様も同じような時間を過ごしていらしたのかもしれないと思うと、少し親しみを感じます」


「そうですね。ただ、あなたはあなたの花を作っているのですから、アデラインと同じようにしなければならないと思わなくてよいのですよ」


「はい。私も、そう思っています」


 エレノアは微笑み、茶器へ手を伸ばした。温かな茶が喉を通ると、雨の日の少し冷たい空気が遠のくように感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 午後の遅い時間、エレノアは自室へ戻り、日記帳の隣に置いていた古い絵の記録を見直した。そこには、絵の裏に残されていた文字について、以前エレーヌから教わった内容が書き留められている。


『庭園にて アデラインとエレノア』


 確かに読めたのは、その部分だけだった。日付や書いた人物については、まだ分かっていない。絵が描かれた場所についても、庭園のどこなのかは特定されていなかった。


 エレノアはその文字を静かに眺めた。母と幼い自分が一緒に描かれているという事実は、今も胸を温かくしてくれる。けれど、その絵に残る空白を、想像だけで埋めることはしたくなかった。


(お母様が何を思っていらしたのか、私はまだ知らないことが多いわ。でも、知らないからこそ、今残っているものを大切にしたいの)


 彼女は記録の端へ、今日考えたことを少しだけ書き加えた。


『複製については、専門家の確認を待つ。原画を守ることを優先する。飾る場所は、複製が可能と分かってから考える。』


 書き終えると、エレノアは筆を置き、机の横にある空いた壁へ目を向けた。何も飾られていないその場所は、今の彼女にとって、まだ決まっていない未来を静かに待つ場所のように感じられた。


 しかし、そこへ何かを飾れなかったとしても、母の思い出が失われるわけではない。母について知ったことは、家族との会話や、図案帳や、日記の中にも残っている。


 エレノアはそう思いながら、記録を丁寧に重ねた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席では、雨が弱まったことが話題になった。明日は晴れるかもしれないと、庭師が話していたという。オーギュストは庭園の小道の状態を見て、必要なら掃除を進める予定だと説明した。


 エレノアはその話を聞きながら、今日一日を振り返った。部屋の図を描き直したこと、青い花の糸を比べたこと、祖母から母の昔の話を聞いたこと。どれも大きな出来事ではないが、彼女にとっては大切な時間だった。


 アルフォンスはエレノアの様子を見て、穏やかに声をかけた。


「今日は部屋の配置を考えていたそうだね。何かよい案は見つかったかな」


「はい、叔父様。まだ決めてはいませんけれど、今の窓辺とは別に、飾り棚の近くも考えてみました。ただ、棚の安定性や花器の位置も気になるので、すぐには動かさないつもりです」


「それがよいだろうね。実際に移す時には、必要な確認をしてからにしよう」


 エレノアは頷き、家族へ微笑みかけた。


「ありがとうございます。私、今日考えてみて、何も置かない場所があってもよいのだと思いました。今まで、空いている場所には何かを飾らなければならないような気がしていたんです」


 マルグリットはその言葉を聞き、優しく微笑んだ。


「空いている場所があるからこそ、あとから新しいものを迎えられることもありますものね。今すぐ決めなくてもよいことは、そのままにしておいてよいのですよ」


 セドリックも頷き、少し楽しそうに言葉を添えた。


「それなら、部屋の図もまだ完成させなくていいね。これから少しずつ変えていけば、今とは違う使い方が見つかるかもしれない」


「はい、お兄様。私も、そう思っています」


 エレノアは微笑み、温かな茶器へ手を伸ばした。家族と過ごす穏やかな時間の中で、自分の考えを自然に話せることが、今では当たり前のようになりつつある。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に広げた部屋の図をもう一度眺めた。窓辺の額をどこへ移すかは、まだ決まっていない。古い絵の複製についても、専門家の確認を待つ必要がある。


 それでも、今日一日を過ごしたことで、何も決まっていないことへの不安は少し和らいでいた。今すぐ答えを出さなくても、自分の気持ちを大切にしながら考えていけばよいのだと思える。


 エレノアは日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。


『今日は雨の一日でした。お部屋の中を見回して、古い額をどこへ置くか考えました。まだ決められませんでしたが、何も置かない場所があってもよいのだと分かりました。お母様の絵の複製についても、今は専門家の確認を待ちたいと思います。』


 書き終えると、エレノアは筆を置き、窓辺の額へ目を向けた。桃色の野薔薇は夜の灯りを受け、静かな色合いでそこに飾られている。


 母が使っていた古い額と、自分が完成させた刺繍。どちらも、今の彼女にとって大切なものだった。


(お母様の思い出を守りたい気持ちも、私がこれから作っていくものを大切にしたい気持ちも、どちらも持っていていいのね)


 エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。青い花の刺繍枠はまだ途中のままだが、その未完成さを見ても焦りは感じない。むしろ、これから少しずつ形になっていくことが楽しみだった。


 リディアが寝台の支度を整え、エレノアへ声をかけた。


「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日はお部屋でお過ごしになる時間が長うございましたが、いろいろとお考えになって、お疲れではございませんか」


「少し疲れたけれど、今日はよい一日だったわ。雨の日でも、できることがたくさんあるのね」


 エレノアは微笑み、机の上の紙を整えた。リディアはその様子を見守りながら、必要なものを静かに片づけていく。


 窓の外では、雨がほとんど止んでいた。濡れた庭園の木々が夜風に揺れ、菩提樹の枝も、静かな闇の中で長い年月を重ねた姿を保っている。


 エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。母の思い出を守りたいという気持ちと、自分の未来を少しずつ形にしていきたいという願い。その両方を胸に抱きながら、彼女は静かに目を閉じた。


 何も飾られていない壁の向こうには、まだ決まっていない未来がある。けれど、その未来を急いで埋める必要はないのだと、今夜のエレノアは穏やかに思っていた。


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