第73話 額縁の傷に残された年月と、私が守りたい二つの花
翌朝、エレノアが目を覚ますと、窓の外には薄い霧が漂っていた。庭園の奥にある木々は白い靄の向こうで輪郭をぼかし、近くの花壇には夜の間に降りた露が残っている。秋が深まりつつあることを知らせる冷たい空気が窓硝子の向こうに満ちていたが、寝室の中は昨夜のうちに整えられた暖かさを保っていた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、いつものように窓辺へ目を向けた。古い木製の額には、彼女が完成させた桃色の野薔薇の刺繍が収められている。霧のかかった朝の光では花弁の色が少し落ち着いて見え、その柔らかな印象が、まだ眠りの余韻を残す心に心地よかった。
(昨日はエレーヌ様に、たくさんのことを教えていただいたわ。今日は、あの額を実際に見ていただけるかもしれないのね)
昨日の相談では、古い額と刺繍を長く守るために、まず現在の状態を確認することになった。ただし、額を分解したり、刺繍を取り出したりする予定はない。エレーヌ・フォシェが外側から状態を確かめ、必要な対応を慎重に考えるという約束だった。
エレノアは額を見つめながら、木枠の角に残る小さな傷を思い出した。あの傷がいつついたものなのか、誰がつけたものなのかは分からない。母アデラインが生きていた頃からあったのかもしれないし、その後の保管中についたものかもしれなかった。
以前なら、傷があることを残念に思っただろう。しかし今は、その傷も含めて長い年月を過ごしてきた額なのだと感じていた。
やがて控えめなノックが響き、リディアが朝の挨拶とともに入室した。彼女はエレノアがすでに起きていることを確かめると、窓の外の様子を見て微笑んだ。
「おはようございます、エレノア様。今朝は霧が出ておりますね。庭園の奥はまだよく見えませんが、昼頃には晴れるのではないかと、先ほど庭師の方がお話しになっていました」
「おはよう、リディア。私も今、窓の外を見ていたの。昨日とはまた違う朝ね。菩提樹の方も、今日は少し霞んで見えるわ」
「秋は朝晩の気温が変わりやすくございますから、お身体を冷やされませんように。今日は少し厚手の上着もご用意しております」
リディアは衣装箱から柔らかな生成り色の衣装を取り出し、それに合う淡い青色の上着を並べた。エレノアは布地へ指先を添え、袖口に施された控えめな刺繍を眺めた。
「今日はこれを着たいわ。青い上着も、少し涼しい日にちょうどよさそうね」
「かしこまりました。髪は昨日と同じようにまとめましょうか。それとも、少し違う形になさいますか」
エレノアは鏡へ目を向け、少し考えてから答えた。
「今日は後ろでゆるくまとめていただけるかしら。午後に額を見ていただくことになったら、私も近くでお話を聞きたいから、髪が顔にかからない方がよいと思うの」
「承知いたしました。それでは、動いても崩れにくいように整えますね」
リディアは穏やかに微笑み、慣れた手つきで髪をまとめ始めた。エレノアは鏡越しにその様子を眺めながら、昨日、自分の気持ちを伝えることも少しずつ上手になりたいと話したことを思い出していた。
以前は衣装や髪型を尋ねられても、相手が選びやすいものを答えようとすることが多かった。今は、なぜその形にしたいのかまで自然に話せるようになっている。その小さな変化を、リディアは何も特別なことのようには扱わず、当たり前の希望として受け取ってくれた。
(こうして自分で選ぶことが、少しずつ普通になっていくのね。まだ迷うことはあるけれど、迷ったまま相談してもいいのだと思えるようになったわ)
支度が整う頃には、窓の外の霧も少しずつ薄くなっていた。遠くの木々の輪郭が見え始め、庭園を横切る小道に落ちた葉が、淡い朝の光を受けている。
エレノアは窓辺の額へもう一度目を向け、それからリディアとともに朝食のために部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の様子について話していた。昨夜の冷え込みで落ち葉が増えたため、庭師たちは午前中に小道の掃除を進めるという。菩提樹の周囲についても、根元を傷めないよう注意しながら、歩く場所を整える予定だった。
エレノアはその話を聞き、先日家族と歩いた時の景色を思い出した。大きな枝が広げる木陰と、祖父母が語ってくれた母の思い出。あの日のことは、今でも図案帳を開くたびに鮮やかによみがえってくる。
「お祖父様、菩提樹の周りのお掃除は、落ち葉を全部集めてしまうのですか」
エレノアが尋ねると、オーギュストは穏やかに首を振った。
「歩く場所は滑らないように整えるが、木の周囲を何もかも綺麗に取り除くわけではないよ。落ち葉の扱い方は場所によって違うからね。庭師が木の状態を見ながら、必要な手入れをしてくれている」
「そうなのですね。落ち葉は、ただ片づけるものだと思っていました」
「そう思うのも無理はないよ。けれど、庭園を守るには、見た目を整えることだけでは足りない場合もあるんだ」
エレノアは静かに頷いた。昨日エレーヌから聞いた保存の話にも、どこか似ているように感じられた。綺麗に見せることと、長く守ることは、必ずしも同じではない。
マルグリットは孫娘の表情を見て、優しく微笑んだ。
「今日は、古い額をエレーヌに見てもらうのでしたね。アルフォンスから、午後に少し時間を取れると聞きましたよ」
「はい、お祖母様。昨日の相談で、まず外側から状態を確認していただくことになりました。今の場所が好きなので、もし動かす必要があるとしても、どこへ置くかはゆっくり考えたいと思っています」
「それがよいでしょうね。あの額は、あなたが完成させた野薔薇の刺繍を収めた大切なものですもの。急いで決めることはありませんよ」
エレノアは祖母の言葉に微笑んだ。古い額が母のものであったことを知っているからこそ、今の自分の作品を収めていることにも特別な意味を感じている。
アルフォンスは茶器を置き、エレノアへ顔を向けた。
「エレーヌには、午後の都合を確認してもらっているよ。額を動かす必要がある場合も、君とリディアの立ち会いのもとで進めるようにしよう。もちろん、今日の確認だけで何かを決める必要はない」
「ありがとうございます、叔父様。私も、どうしてその方法がよいのかを知りたいと思っています。分からないことがあったら、また尋ねてもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも。むしろ、疑問があればその場で聞いてほしい。君が大切にしているものについての相談なのだからね」
エレノアは頷き、胸の奥が温かくなるのを感じた。自分の持ち物について、自分の意見を聞いてもらえる。それは当たり前のことなのかもしれないが、以前の彼女には、簡単に信じられることではなかった。
セドリックは二人の会話を聞きながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「エレノア、もし額を別の場所へ置くことになったら、僕も部屋の配置を考える手伝いくらいはできると思うよ。もっとも、飾る場所については、君が気に入ることが一番大切だけれどね」
「ありがとうございます、お兄様。昨日、リディアと一緒に部屋の簡単な図を描いてみたんです。今まで気づかなかった場所もあって、少し楽しかったです」
「それなら、もう準備は始まっているんだね。自分の部屋を違う目で見るのは、案外面白いものだろう」
セドリックの言葉に、エレノアは微笑んだ。家族が自分の小さな相談に耳を傾け、必要なら手伝うと言ってくれる。その穏やかなやり取りが、今の彼女にとって何よりも心地よかった。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めた。昨日は相談のためにあまり針を動かせなかったが、今日は少し時間に余裕がある。窓の外では霧がすっかり晴れ、庭園の木々が秋の光を受けていた。
刺繍枠の中では、青い花弁が少しずつ形になっている。まだ完成には遠いものの、以前よりも糸の流れが整い、花の輪郭がはっきりしてきた。エレノアは布を引きつらせないように気をつけながら、一針ずつ丁寧に進めていった。
リディアは少し離れた場所で衣装の整理をしていたが、時折エレノアの手元へ目を向けていた。彼女は主人の集中を妨げないようにしながら、必要な時に道具を渡せる位置に座っている。
しばらくして、エレノアは針を止め、刺繍枠を少し離して眺めた。花弁の端に、昨日までより自然な曲線が生まれている。糸の色は同じでも、針を通す向きによって光の受け方が変わり、布の上に柔らかな陰影ができていた。
「リディア、少し見ていただけるかしら。昨日よりも花弁の形が整ったように思うのだけれど、どうかしら」
リディアは手元の仕事を置き、エレノアの隣へ近づいた。刺繍枠を覗き込むと、彼女は穏やかに微笑んだ。
「はい。花弁の端が滑らかになっておりますね。以前よりも、糸の向きが自然につながっているように見えます」
「よかった。昨日、少し迷っていたところを整え直したの。急いで進めなくてよかったわ」
「丁寧にお作りになっているからこそ、少しずつ形が整っていくのでしょうね。完成が楽しみでございます」
エレノアは嬉しそうに微笑み、刺繍枠へ目を戻した。母が残した「青い花を作りたい」という短い記録を見つけた時、自分も青い花を刺繍してみたいと思った。しかし、母がどのような花を思い描いていたのかは分からない。
今作っている花は、母の作品を再現したものではない。エレノア自身が色を選び、形を考え、少しずつ針を進めているものだった。
(お母様が作りたかった花と、私が作っている花は、きっと同じではないのでしょうね。でも、それでいいのだと思うわ。私は私の花を、大切に完成させたいもの)
その思いを胸に、エレノアはもう数針だけ進めた。糸を整えてから刺繍枠を置き、少し休むことにする。
窓辺の額へ目を向けると、桃色の野薔薇が朝の光を受けていた。今作っている青い花と、すでに完成した桃色の野薔薇。二つの花は色も形も違うが、どちらも自分が時間をかけて作った大切なものだった。
エレノアはしばらくその二つを見比べ、自然と微笑んだ。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアはマルグリットの私室を訪ねた。祖母は小さな刺繍枠を手にしていたが、孫娘が入ってくると作業を止め、隣の椅子へ座るように促した。
「いらっしゃい、エレノア。今日は青い花を進めていたそうですね。少し形が整ってきたのでしょうか」
「はい、お祖母様。まだ途中ですけれど、花弁の端を少し整えることができました。リディアにも見てもらって、昨日より自然になったと言っていただけたんです」
「それはよかったですね。手仕事は、少しずつ変わっていくところを見るのも楽しみの一つですもの」
マルグリットはそう言って微笑み、自分の刺繍枠を机の上へ置いた。エレノアは祖母の手元にある糸箱へ目を向け、先日試した青紫色の糸が並んでいることに気づいた。
「お祖母様、こちらの糸は、先日一緒に選んだものですね」
「ええ。まだどの色を使うか決めていませんけれど、こうして並べておくと、少しずつ違いが分かってきますね」
エレノアは糸を見比べ、庭園で見つけた小さな青紫色の花を思い出した。花弁の中心は少し濃く、外側へ向かうほど淡く見えたが、実際に刺繍で表現するとなると、どの糸を組み合わせるべきか迷っていた。
「私、あの花もいつか刺繍にしたいと思っています。でも、今は青い花を完成させることを楽しみにしているので、こちらはゆっくり考えたいです」
「それでよいのですよ。作りたいものが増えるのは嬉しいことですが、すべてを急いで仕上げる必要はありませんからね」
祖母の言葉に、エレノアは頷いた。以前なら、途中のものがあることを気にして、新しいものへ興味を向けることにためらいを感じたかもしれない。けれど今は、完成を急がずに考える時間も楽しめるようになっている。
しばらく糸を眺めたあと、エレノアは今日の午後に古い額を見てもらうことを話した。マルグリットは穏やかに耳を傾け、額の状態を確認するだけで、すぐに分解したり動かしたりするわけではないと聞くと、安心したように頷いた。
「あの額は、アデラインが使っていたものですからね。私にも思い出があります。けれど、今はあなたの野薔薇が収められているのですもの。これから先も大切に使えるように、よい方法を考えていきたいですね」
「はい。私も、額そのものを大切にしたいと思っています。木の縁には小さな傷がありますけれど、それも長い年月を過ごしてきた証のように感じるんです」
マルグリットはその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「そうですね。古いものには、使われてきた時間が残ることがあります。けれど、その傷がいつついたものなのか、私にも分からないことは多いのですよ」
「お祖母様にも、分からないことがあるのですね」
「ええ。毎日すべてのものを見ていたわけではありませんからね。アデラインが使っていた頃のことも、覚えていることと、覚えていないことがあります」
エレノアは静かに頷いた。祖母が母のことを何でも知っているわけではないと理解していても、こうして言葉にされると、少し寂しさを感じる。しかし同時に、分からないことを無理に埋めず、覚えていることだけを伝えてくれる祖母の誠実さが嬉しかった。
「それでも、お祖母様が覚えていらっしゃることを聞けるのは、とても嬉しいです。私、お母様のことを少しずつ知っていけるだけで、十分幸せだと思っています」
マルグリットは孫娘の手へそっと自分の手を重ねた。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいですよ。あなたが知りたいと思うことを、これからも覚えている範囲でお話ししましょう。けれど、あなた自身の毎日も、同じくらい大切にしてくださいね」
エレノアは祖母の手の温かさを感じながら、静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
午後、エレーヌ・フォシェがエレノアの自室を訪れた。彼女はアルフォンスの許可を得て、古い額の外側を確認するために必要な簡単な道具を持参していた。リディアも立ち会い、エレノアは机の近くに椅子を用意して、説明を聞けるようにしていた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。まずは額を動かさず、今の状態を確認させていただきます。必要があれば、後ほど置き場所についてもご相談いたしましょう」
エレーヌはそう説明し、窓辺の額へ近づいた。彼女は直接手を触れる前に、木枠の表面や角の状態を目で確かめ、光の当たり方を見ながら、ゆっくりと位置を変えて観察した。
エレノアは少し離れた場所からその様子を見守っていた。額を傷めないように慎重に扱うエレーヌの動きには、長く資料を扱ってきた人らしい落ち着きがあった。
「こちらの角には、小さな傷がございますね。木枠の表面にも、長年の使用によるものと思われる細かな変化が見られます。ただ、これらがいつ生じたものなのかは、現時点では判断できません」
「はい。私も、その傷がいつついたものなのか気になっていました。でも、お母様が使っていらした頃からあったのかどうかは、分からないのですね」
「その通りでございます。傷の形だけで時期を特定することは難しいため、記録が残っていない限り、断定は避けるべきでしょう」
エレノアは頷き、額の角へ目を向けた。小さな傷は、今まで何度も見ていたはずなのに、こうして改めて確かめると、少し違った意味を持つように感じられた。
エレーヌは続いて、額の背面が見える範囲を確認した。無理に動かすことはせず、外側から見える部分だけを慎重に観察している。
「現時点で、外側から確認できる範囲に大きな破損は見られません。ただし、内部の状態については、分解せずに分かることに限りがございます。今後、必要があると判断された場合には、専門的な確認を検討することになるでしょう」
「では、今すぐ中を開ける必要はないのですね」
「はい。少なくとも、本日の確認だけで分解を決める段階ではございません。大切なのは、現在の状態を記録し、変化がないかを見守ることです」
エレノアは安堵したように息をついた。古い額を大切にしたいと思う一方で、必要以上に触れて傷めてしまうことも心配だった。今は無理に何かを変えず、分かることを記録するという方針が、彼女には心地よく感じられた。
エレーヌは額の位置を確かめ、窓から差し込む光の方向へ目を向けた。
「昨日お話しした通り、窓辺は時間帯によって光の当たり方が変わります。こちらの位置では、朝の明るい時間に直接光が届くことがあるようですね。長期的な保存を考えるなら、強い光を避けられる場所を検討する価値がございます」
エレノアは少し考え、机の上に置いていた部屋の簡単な図を取り出した。
「実は昨日、リディアと一緒に別の場所も考えてみたんです。こちらの飾り棚なら窓から少し離れていますけれど、額を置くには安定しているかどうかも気になっていて」
エレーヌは図を受け取り、エレノアが示した飾り棚へ目を向けた。彼女は棚の位置を確かめ、周囲に置かれているものや、窓からの距離を見ながら、慎重に考えた。
「こちらの棚は、現在の窓辺より直接光を受けにくい可能性がございます。ただし、額の重さや棚の安定性を確認する必要がありますね。置き方によっては倒れる危険もございますので、すぐに移すのではなく、適した方法を考えた方がよろしいでしょう」
「やはり、そうなのですね。私も、もし倒れてしまったらと思うと心配だったんです」
「その点に気づかれたのは大切なことでございます。保存には、光や湿度だけでなく、物理的な安全性も関わってまいりますから」
エレノアは頷き、棚へ目を向けた。そこには小さな花器が置かれているが、今は花を飾っていない。額を移すなら、花器の位置も考えなければならないだろう。
リディアは二人の会話を聞きながら、静かに言葉を添えた。
「必要であれば、棚の上のものを整理することもできます。ただ、エレノア様が普段お使いになる場所ですので、動線も含めて考えた方がよろしいかと存じます」
「そうね。私、今の窓辺が好きだけれど、別の場所へ移すなら、そこも気に入れるように考えたいわ」
エレノアがそう言うと、エレーヌは穏やかに微笑んだ。
「そのお気持ちは大切になさってください。保存に適した場所を考えることと、お嬢様が心地よく過ごせることは、どちらか一方だけを選ばなければならないものではございません。条件を確かめながら、無理のない方法を探していきましょう」
その言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。大切なものを守るためには、自分の気持ちを我慢しなければならないと思っていた部分があった。しかし、こうして一緒に考えてもらえるなら、どちらも大切にできる方法が見つかるかもしれない。
◇ ◇ ◇
額の確認が一段落すると、エレーヌは記録用の紙へ、外側から確認できた状態を書き留めた。木枠の角にある小さな傷、表面の細かな変化、窓辺での光の当たり方。いずれも現時点で分かる範囲の記録であり、原因や時期を推測で決めることは避けていた。
エレノアはその様子を見ながら、昨日聞いた言葉を思い出した。分からないことを分からないまま記録することも、大切な仕事なのだというエレーヌの考え方である。
「エレーヌ様、こうして記録を残しておけば、後から変化があった時に比べることができるのですね」
「はい。今の状態を正確に残しておくことで、将来何か変化が見られた時に、いつ頃から生じたものなのかを考える助けになります。ただし、記録だけですべてが分かるわけではございませんので、必要に応じて専門家の判断も求めることになります」
エレノアは頷き、記録用紙へ目を向けた。そこには特別な秘密が書かれているわけではない。ただ、今目の前にあるものの状態が、丁寧に言葉へ置き換えられている。
それが、彼女にはとても大切なことのように思えた。
「私、今まで古いものを見る時には、そこに何が隠されているのかを考えることが多かったんです。でも、今ある姿をきちんと知ることも、同じくらい大切なのですね」
エレーヌはその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「ええ。古いものには、時として新しい発見につながる手がかりが残っております。ですが、すべての傷や変化に特別な意味があるとは限りません。まずは見えているものをそのまま受け止めることが、調査の基本になると私は考えております」
エレノアは静かに頷いた。母の古い額に残る傷も、何かの手がかりかもしれないと考えたくなることはある。しかし、今はその傷がいつついたものなのか分からない。分からないまま大切にすることも、できるのだと思った。
しばらくして、エレーヌは記録を終え、エレノアへ顔を向けた。
「本日の確認では、すぐに大きな処置が必要と判断できるような明らかな破損は見つかりませんでした。ただし、内部の状態については確認しておりませんので、今後も慎重に扱う必要がございます。置き場所については、光を避けられ、安定して飾れる場所を検討することをお勧めいたします」
「ありがとうございます。では、今日のところは今の場所から動かさず、リディアと一緒に別の場所を考えてみてもよろしいでしょうか」
「はい。ただ、朝の強い光が直接当たる時間帯には、カーテンなどで光を和らげる工夫をなさるとよいでしょう。もちろん、室内の明るさやお嬢様の過ごしやすさも考えながら、無理のない範囲でお願いいたします」
エレノアは頷き、リディアへ目を向けた。リディアも穏やかに頷き返し、今後の対応を一緒に考えることを示してくれた。
エレーヌが道具を片づけ始めると、エレノアはふと思い出したように口を開いた。
「エレーヌ様、もう一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます。何でしょうか」
「古い絵のことなのですが、今は原画を安全な場所で保管していただいているのですよね。もし複製ができるようになったとしても、原画はそのまま大切に残していただけるのでしょうか」
エレーヌは穏やかに頷いた。
「はい。複製の可否や方法については専門家の確認を待つ必要がございますが、原画を保存するという方針は変わりません。複製を作ることができたとしても、それによって原画の価値が失われるわけではございませんから」
エレノアはその言葉を聞き、安堵したように微笑んだ。
「よかったです。私、あの絵を自分の部屋で眺められたら嬉しいと思っていますけれど、原画を傷めてまでそうしたいわけではないんです」
「そのお気持ちは、よく理解しております。だからこそ、今は専門家の判断を待ちましょう。お嬢様が安心して絵を眺められる方法を、慎重に考えてまいります」
エレノアは深く頷き、丁寧に礼を述べた。
◇ ◇ ◇
エレーヌが退室したあと、エレノアはしばらく窓辺の額を眺めていた。今日の確認で、額の傷に特別な意味があると分かったわけではない。古い木枠がいつ作られ、どのように使われてきたのかについても、新しい事実は判明していなかった。
それでも、今の状態を記録してもらえたことが嬉しかった。これから先、額をどこへ置くことになっても、今日の姿を覚えておくことができる。
リディアは机の上の紙を整えながら、エレノアへ声をかけた。
「エレノア様、本日はよい確認ができましたね。置き場所については、またお時間のある時に一緒に考えてまいりましょう」
「ええ。今すぐ動かす必要はないと分かっただけでも、少し安心したわ。でも、朝の光には気をつけたいから、明日からはカーテンの開き方も考えてみたいの」
「承知いたしました。お嬢様がお部屋で過ごしやすいように、明るさを確かめながら調整いたしましょう」
エレノアは頷き、机の上に置いた青い花の刺繍枠へ目を向けた。まだ途中の花弁は、午後の柔らかな光を受けている。完成した野薔薇と、これから完成させたい青い花。二つの刺繍は、今の彼女にとって大切な時間の証だった。
「リディア、私、いつかこの青い花も額に入れて飾りたいと思っているの。でも、その時には、今日教わったことを思い出して、どこへ置くかよく考えたいわ」
「それは素敵でございますね。完成した時には、きっとお部屋の中にまた一つ、お嬢様の大切なものが増えるのでしょう」
エレノアは微笑み、刺繍枠をそっと手に取った。まだ完成までには時間がかかるだろうが、その時間も楽しみたいと思っている。
◇ ◇ ◇
夕食の席で、エレノアは今日の確認について家族へ報告した。古い額の外側には大きな破損が見られなかったこと、ただし内部の状態までは確認していないこと、そして置き場所については引き続き考える必要があることを伝える。
アルフォンスは話を聞き終えると、穏やかに頷いた。
「丁寧に確認してもらえたようだね。今すぐ結論を出さず、必要なことを一つずつ考えていけばいい。エレーヌも、君の気持ちを尊重しながら進めてくれるだろう」
「はい、叔父様。私も、今日見ていただけてよかったと思っています。額の傷がいつついたものなのかは分かりませんでしたけれど、今の状態を記録していただけたので、これからも大切にしていきたいです」
マルグリットはその言葉を聞き、優しく微笑んだ。
「アデラインが使っていた額を、今はあなたが大切にしているのですね。そう思うと、私も嬉しくなります。けれど、古いものを守ることだけに気を取られて、あなた自身が楽しむことを忘れないでくださいね」
エレノアは祖母の言葉に頷いた。
「はい。私、野薔薇の刺繍を眺めるのが好きなんです。だから、これからも安心して眺められる場所を考えたいと思っています」
オーギュストはその会話を聞きながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「大切なものを守るというのは、しまい込むことだけではないからね。もちろん、保存のために必要なことはあるだろうが、どうすれば無理なく大切にできるかを考えるのも、よい時間になると思うよ」
セドリックも頷き、エレノアへ顔を向けた。
「今度、部屋の配置を考える時には、僕も手伝えることがあれば言ってね。もっとも、エレノアとリディアがすでにいろいろ考えているようだから、僕の出番はあまりないかもしれないけれど」
その言葉に、エレノアは小さく笑った。
「そんなことはありません、お兄様。もし迷ったら、ぜひご意見を聞かせてください。でも、最後は自分で決めたいと思っています」
「もちろん。それが一番いいと思うよ」
セドリックは嬉しそうに微笑み、茶器へ手を伸ばした。エレノアはその表情を見ながら、家族と過ごす時間が少しずつ自然なものになっていることを感じていた。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に今日の記録を広げた。エレーヌが確認した内容を思い出しながら、自分の日記にも残しておきたいことを書き留めていく。
古い額の角に小さな傷があること。外側から見える範囲では、大きな破損が確認されなかったこと。内部の状態については、まだ分からないこと。そして、強い光を避けながら、安定して飾れる場所を考える必要があること。
どれも、今日初めて知ったことばかりではない。しかし、実際に額を見てもらい、分かることと分からないことを整理できたことで、エレノアの中では少しずつ意味が変わっていた。
彼女は筆を止め、窓辺の額へ目を向けた。桃色の野薔薇は、夜の灯りを受けて静かに咲いている。母が使っていた古い木枠と、自分が完成させた刺繍。その二つが重なった姿を眺めていると、胸の奥に温かなものが広がった。
(お母様のものを大切にすることと、私が作ったものを大切にすることは、別々ではないのかもしれないわ。どちらも、今の私にとって大切なものなのだから)
エレノアは日記帳へ続きを書き加えた。
『今日は、エレーヌ様に古い額を見ていただきました。木枠には小さな傷がありましたが、いつついたものなのかは分かりませんでした。それでも、今の状態を記録していただけたことが嬉しかったです。これからも、母が使っていた額と、私が作った野薔薇の刺繍を、どちらも大切にしていきたいと思います。』
書き終えると、エレノアは筆を置き、日記帳を閉じた。机の上には、青い花の刺繍枠と、菩提樹の葉を描いた図案帳が並んでいる。どちらもまだ途中のものを含んでいるが、今の彼女には、その未完成さが心地よく感じられた。
明日もまた、少しずつ進めていけばよい。古い額の置き場所も、青い花の刺繍も、母の絵の複製についても、急いで答えを出す必要はない。大切なものだからこそ、時間をかけて考えていきたいと思っている。
リディアが寝台の支度を整え、エレノアへ声をかけた。
「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日はエレーヌ様との確認もございましたので、少しお疲れになったのではございませんか」
「そうね。今日はたくさん考えたから、少し疲れたかもしれないわ。でも、とてもよい一日だったと思っているの」
エレノアは微笑み、机の上の道具を整えた。リディアはその様子を見守りながら、必要なものを静かに片づけていく。
窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしていた。菩提樹の枝も、きっと同じ風を受けながら、長い年月を重ねた姿で立っているのだろう。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。母の思い出を守りたいという気持ちと、自分がこれから作っていくものを大切にしたいという願い。その両方を胸に抱きながら、彼女は静かに目を閉じた。
明日もまた、少しずつ新しいことを知る日になるかもしれない。そんな穏やかな期待を胸に、エレノアはゆっくりと眠りへ落ちていった。




