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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第72話 古い額を守るための相談と、母の絵に触れない優しさ


 翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。昨日ほど明るい朝ではなかったものの、雲の切れ間から差し込む光が庭園の木々を柔らかく照らし、枝先に残った葉を淡い金色に染めている。夜の間に風が吹いたのか、芝生の上には昨日よりも多くの落ち葉が散らばっていた。


 寝台の上でゆっくりと身体を起こしたエレノアは、最初に窓辺の額へ目を向けた。古い木枠に収められた桃色の野薔薇は、曇り空の下では昨日よりも落ち着いた色合いに見える。光が違えば同じ刺繍でも印象が変わることを、昨日一日かけて確かめたばかりだった。


(今日はエレーヌ様に相談できるかしら。私たちだけで考えても分からなかったことを、きちんと教えていただきたいわ)


 エレノアはそう考えながら、枕元に置いていた小さな布を整えた。昨夜の日記には、窓辺の光について調べたことや、家族と交わした会話を書き留めてある。昨日のうちに結論は出なかったが、それを残念だとは思わなかった。


 むしろ、すぐに答えが出ないことにも慣れてきたような気がしていた。以前の自分なら、何かを決めなければならないと思った途端、間違えない答えを探すことに必死になっていただろう。けれど今は、誰かに尋ねたり、時間をかけて確かめたりすることも、一つの選び方なのだと知っている。


 控えめなノックの音が響き、入室を許されたリディアが朝の挨拶をした。彼女はカーテンの開き具合を確かめると、窓辺の額へ視線を向けた。


「おはようございます、エレノア様。今朝は少し雲が多いようでございますね。昨日とはまた違った光の入り方になりそうです」


「おはよう、リディア。私も今、そう思っていたところなの。昨日は朝と午後で比べたけれど、お天気が違う日にも変化があるのね」


「はい。ただ、今日は昨日ほど明るくございませんので、昨日の記録と同じようには比べられないかもしれません」


「それでも、違いがあることは分かるわ。今日は無理に記録を増やすより、昨日の覚え書きをエレーヌ様に見ていただこうと思うの」


 リディアは穏やかに頷き、エレノアの衣装を選ぶ準備を始めた。エレノアは衣装箱に並ぶ布地を眺め、今日は淡い青色の衣装を選ぶことにした。袖口には控えめな刺繍が施されており、柔らかな布は朝の少し冷たい空気にも心地よかった。


 髪を整えてもらっている間、エレノアは鏡越しにリディアの手元を見つめた。慣れた動きで髪をまとめる指先は迷いがなく、一本だけ逃げた髪も、無理に引っ張ることなく丁寧に整えていく。


「リディアは、いつも上手に髪をまとめてくれるのね。私が自分で結ぼうとすると、どうしても左右が揃わなくなることがあるのに」


「ありがとうございます。長く続けていることでございますから、少しずつ手が覚えたのでしょう。私も初めから上手にできたわけではございません」


「そうなの?」


「ええ。若い頃には、急いで整えようとして、かえって時間がかかってしまったこともございました。今でも難しい髪型では、先に形を考えてから手を動かすようにしております」


 エレノアはその言葉を聞き、昨日の刺繍のことを思い出した。糸の流れが乱れた部分を急いで縫い進めず、いったん針を戻して整えた時、仕上がりはずっと自然になった。髪を結ぶことも、刺繍をすることも、慌てずに確かめるという点では似ているのかもしれない。


「私も、少しずつ上手になれたら嬉しいわ。刺繍も、髪を結ぶことも、まだ覚えたいことがたくさんあるもの」


「お嬢様なら、きっと少しずつおできになることが増えてまいります。ですが、難しい時にはいつでもお手伝いさせてくださいませ」


 リディアの言葉に、エレノアは微笑んだ。できることを増やしたいという願いと、誰かに助けてもらいたいという気持ちは、必ずしも反対のものではない。そう思えるようになったことも、この屋敷で暮らし始めてからの変化だった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、アルフォンスがエレーヌの予定について話してくれた。午前中は資料の整理があるものの、午後には少し時間を取れるという。エレノアが昨日作った覚え書きを見せたいと伝えると、叔父は快く頷いた。


「エレーヌにも話しておいたよ。古い額と刺繍について、君が気づいたことを聞きたいそうだ。もっとも、専門的な保存処置については、彼女自身も確認しなければならないことがあるだろうから、今日すべてを決めようとしなくていい」


「ありがとうございます、叔父様。私も、すぐに答えを出していただきたいわけではないんです。ただ、知らないままにしておくより、今できることを教えていただけたらと思って」


「それで十分だと思うよ。大切なものを守る方法は、急いで決めればよいというものではないからね」


 アルフォンスは穏やかに答え、茶器を置いた。その表情には、エレノアが自分の考えを言葉にしたことへの安堵が浮かんでいたが、彼女はそれに気づかず、午後の相談に必要なものを思い浮かべていた。


 マルグリットは孫娘の様子を見ながら、昨日聞いた話を思い出したようだった。


「覚え書きには、朝と午後の光の違いを書いたのでしたね。せっかくですから、額の位置だけでなく、お部屋のどこに飾りたいと思っているのかも、お話ししてみてはどうかしら」


「飾りたい場所、ですか?」


「ええ。保存に適した場所があるとしても、そこがお部屋の使い方に合うとは限りませんもの。あなたが普段どこで刺繍をして、どこで本を読むのか、そういうことも関係するかもしれません」


 エレノアは少し考えた。窓辺の額は、朝起きた時にも、机で作業をしている時にも、自然と目に入る位置にある。だからこそ気に入っていたのだが、そこから移すとすれば、次はどこに置くのがよいのだろう。


「私、まだ別の場所を決めていませんでした。昨日は、今の場所から動かすことになるかもしれないと考えただけで、少し寂しくなってしまって」


 エレノアが正直に打ち明けると、マルグリットは優しく微笑んだ。


「それなら、その気持ちもお話ししてよいのですよ。大切なものを守るために相談するのですから、あなたが大切に思っている理由も、聞いていただけばよいのです」


 オーギュストも頷き、穏やかな声で言葉を添えた。


「長く使う場所を決める時には、そこで過ごす人の気持ちも大切だからね。庭園の腰掛けだって、日陰になるからという理由だけで置かれたわけではない。座った時に何が見えるか、どのくらい落ち着けるか、そういうことも考えられていたのだよ」


 エレノアは祖父の言葉を聞き、菩提樹の下にあった石の腰掛けを思い出した。長い年月を経たその場所には、祖父母の思い出も、母の幼い頃の記憶も重なっている。しかし今の自分にとっては、家族と一緒に歩いた日の光や風を思い出す場所でもあった。


「お祖父様、ありがとうございます。私、額をどこへ置きたいのかも考えてみます。今の場所が好きな理由も、ちゃんとお伝えしたいです」


 セドリックはその会話を聞きながら、少し笑みを浮かべた。


「それなら、部屋の中を見回してみるのも楽しそうだね。いつも使っている場所でも、別のものを置くつもりで眺めると、新しい発見があるかもしれない」


「ええ。昨日、リディアから何も置かないという選び方もあると教えてもらったの。今まで考えたことがなかったから、少し驚いたわ」


「なるほど。空いた場所をそのままにしておくのも、一つの使い方だね」


 二人の会話に、家族は穏やかな笑みを向けた。朝食の席には、窓から差し込む淡い光と、温かな茶の香りが満ちていた。


     ◇ ◇ ◇


 午前中、エレノアはリディアとともに自室の中をゆっくり見回した。昨日の覚え書きを机の上に広げ、窓辺の額を置いている位置を確かめる。窓から少し離れた壁には、小さな飾り棚があり、その近くには読書をする時に使う椅子が置かれていた。


 エレノアは部屋の中央に立ち、窓辺から飾り棚へ視線を移した。どちらも普段からよく目にする場所だが、刺繍の額を置くと考えると、印象が違って見える。


「こちらの棚なら、窓から少し離れているわね。でも、今の額を置くには、ほかのものを動かした方がよいのかしら」


 エレノアが尋ねると、リディアは棚の上を確かめた。


「額の大きさから考えますと、置くこと自体はできそうでございます。ただ、棚の端に近づきすぎないようにする必要がございますし、安定しているかも確認しなければなりません」


「そうね。綺麗に見えても、落ちてしまっては困るもの」


 エレノアは頷き、棚の前へ近づいた。古い額は木製で、軽いものではない。もし倒れてしまえば、額だけでなく、中の刺繍にも傷がつくかもしれなかった。


 彼女は棚に置かれていた小さな花器へ目を向けた。今は花を飾っていないが、以前は季節の花を入れていたことがある。そこへ額を置くなら、花器を別の場所へ移す必要があるだろう。


(何かを置く場所を変えるだけでも、考えることがいろいろあるのね。今までは、置きたいと思った場所に置ければ、それで十分だと思っていたけれど)


 エレノアは少し考えたあと、リディアへ顔を向けた。


「今日はまだ動かさないでおきましょう。午後にエレーヌ様へ相談してから、必要なら一緒に考えていただきたいわ」


「承知いたしました。今の位置を記録しておけば、後から比べることもできますね」


 リディアはそう答え、昨日の覚え書きの隣に、新しい紙を用意した。エレノアは部屋の大まかな形を描き、窓と机、椅子、飾り棚の位置を簡単な線で示した。正確な図面ではないが、相談する時に部屋の様子を説明する助けにはなるだろう。


 図を描いていると、エレノアは机の横の壁へ目を向けた。そこは、母と幼い自分が描かれた古い絵の複製を、いつか飾れたらよいと考えていた場所だった。


 けれど、複製が作れるかどうかはまだ分からない。専門家への相談もこれからであり、今の段階で飾る場所だけを決めてしまうのは早いように思えた。


「こちらの壁は、まだ何も置かないでおきたいの」


 エレノアが静かに言うと、リディアは彼女の視線を追った。


「古い絵の複製について、考えていらっしゃるのでございますね」


「ええ。でも、作れるかどうかも分からないから、今すぐ何かを決めたいわけではないの。ただ、いつか飾れる日が来たら、その時に考えたいと思って」


「かしこまりました。それまでは、今のままにしておきましょう」


 リディアはそれ以上尋ねず、机の上の紙を整えた。エレノアはその気遣いを嬉しく感じながら、窓の外へ目を向けた。


 庭園では、昨日に続いて落ち葉を集める作業が行われていた。大きな籠を運ぶ庭師の姿が木々の間に見え、乾いた葉が擦れる音が、時折窓越しに届いてくる。


 母の絵を飾る場所を考えることも、今の自分の刺繍を守ることも、急がずに進めていけばよい。そう思うと、部屋の中の何も置かれていない壁さえ、少し違う意味を持つように感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 昼食を終えたあと、エレノアはしばらく図案帳を開いて過ごした。先日描いた菩提樹の葉は、まだ鉛筆の線だけで表現されている。葉脈の細かな部分を見直していると、祖父が話してくれた庭園の昔の様子が思い出された。


 木陰が広がったことで花壇の位置が変わり、今では芝生になっている場所がある。長い年月の間に庭園の姿は少しずつ変わってきたが、そこに暮らす人々は、それぞれの時代に合った形で手入れを続けてきたのだろう。


 エレノアは葉の輪郭を少し整え、図案帳を閉じた。今日は午後に相談の予定があるため、刺繍を大きく進めるつもりはなかった。それでも、こうして少しだけ手を動かす時間があると、気持ちが落ち着いた。


 やがてリディアが戻り、エレーヌが午後の予定を調整できたことを伝えた。エレノアは覚え書きと部屋の簡単な図を揃え、リディアとともに小応接室へ向かった。


 廊下には午後の光が差し込み、壁に飾られた絵の額縁へ淡い影を落としていた。エレノアは歩きながら、自然とそれらの額へ目を向けた。以前は描かれている人物や風景ばかり見ていたが、今は額の位置や、窓との距離にも気づくようになっている。


 小応接室へ入ると、エレーヌがすでに待っていた。机の上には筆記具と数枚の紙が整えられており、彼女はエレノアの姿を認めると、穏やかに立ち上がった。


「エレノア様、お待ちしておりました。昨日、窓辺の刺繍についてご相談されたいと伺いました。実際に確かめられたことがあるそうですね」


「はい、エレーヌ様。昨日、リディアと一緒に朝と午後の光の当たり方を見てみたんです。簡単な覚え書きしかありませんけれど、見ていただけますか」


「もちろんでございます。ご自身で気づかれたことを記録してくださったのなら、とても参考になります」


 エレノアは机の上へ紙を広げた。窓と額の位置を示した簡単な図と、朝と午後の光の違いを書き留めた覚え書きである。エレーヌはすぐに結論を出すことなく、一つずつ目を通していった。


「なるほど。朝には額の上の方へ光が届き、午後には直接当たる範囲が変わったのですね。昨日は比較的明るい日でしたから、変化も分かりやすかったのでしょう」


「はい。今朝は曇っていたので、昨日ほどはっきりしませんでした。でも、同じ場所でも日によって明るさが違うのだと分かりました」


「その点も大切でございます。光の当たり方は、時刻だけでなく季節や天候によっても変わります。ですから、一日だけの観察で長期間の状態を判断することは難しいのです」


 エレーヌはそう説明し、紙の端へ小さく印をつけた。エレノアはその手元を見ながら、昨日から考えていた疑問を口にした。


「エレーヌ様、刺繍の額は、今の窓辺から動かした方がよいのでしょうか。私はあの場所が好きなのですけれど、長く大切にするためには、別の場所を考えた方がよいのかもしれないと思って」


 エレーヌは少し考え、穏やかな声で答えた。


「一般的には、布や染められた糸を長く保存する場合、強い光を避けることが望ましいとされています。特に直射日光が当たる場所では、色の変化が進む可能性があります。ただし、現在の額の状態や、どの程度の光が当たっているかを詳しく確認しなければ、具体的な判断はできません」


 エレノアは頷いた。予想していた通り、簡単に答えが出るものではないらしい。


「では、今すぐ動かすと決めるのではなく、まず状態を確かめた方がよいのですね」


「はい。ただ、強い日差しが直接当たり続けるような場所であれば、当面はそれを避ける工夫を考える価値があります。額の中の刺繍だけでなく、古い木枠そのものについても、急な温度や湿度の変化がないか気を配る必要がございます」


 エレノアは古い額の縁を思い出した。細かな傷が残る木枠には、長い年月が重なっている。母の刺繍が入っていたものだからこそ、額自体も大切にしたいと思っていた。


「額の木にも、気をつけなければならないことがあるのですね」


「ええ。古い額には、それぞれ状態の違いがございます。無理に分解したり、表面を強く拭いたりすると、かえって傷めてしまう場合もありますので、まずは現在の状態を確認することが大切です」


 エレノアは静かに頷き、手元の紙へ目を落とした。今まで、額は刺繍を飾るためのものだと考えていた。しかし、その額にも長い歴史があり、守るべきものがあるのだと改めて感じた。


「私、刺繍を守ることばかり考えていました。でも、あの額もお母様が使っていらしたものですものね。どちらも大切にしたいです」


 エレーヌはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「そのお気持ちは、とてもよく分かります。だからこそ、今すぐ何かを変えるより、何を守りたいのかを整理してから考えるのがよろしいでしょう」


     ◇ ◇ ◇


 相談は、エレノアが想像していたよりもゆっくりと進んだ。エレーヌは一つの質問に答えるたび、分かっていることと、まだ確認が必要なことを分けて説明してくれた。エレノアも、聞き慣れない言葉が出てきた時には遠慮せず尋ね、そのたびに覚え書きへ短い説明を加えていった。


 やがて話題は、母アデラインと幼いエレノアが描かれた古い絵へ移った。エレノアは以前から気になっていたことを、慎重に言葉にした。


「エレーヌ様、古い絵のことも少し伺ってよろしいでしょうか。昨日、原画の色を想像で補うべきではないと教えていただきましたけれど、もし複製が作れるようになったら、薄くなった部分も今のまま残すことになるのでしょうか」


 エレーヌは少し考え、机の上の紙を整えた。


「複製の方法によって、できることは異なります。ただ、現時点では専門家の確認が済んでおりませんので、具体的な仕上がりについては申し上げられません。確かなことは、元の絵に残っていない色や形を、推測だけで正確なものとして扱うべきではないという点です」


「そうなのですね。私、最初にあの絵を見た時、もっとはっきりした色だったら、お母様の姿がよく分かるのにと思ってしまったんです」


 エレノアは少し俯き、膝の上で手を重ねた。母の姿を少しでも鮮明に見たいという願いは、今も変わっていない。しかし、その願いのために、確かめられないものを本当の姿だと思い込むことは避けたいとも感じていた。


「でも、今は、分からない部分があることも含めて、あの絵を大切にしたいと思っています。お母様と私が描かれていると分かっただけでも、私にはとても嬉しいことでしたから」


 エレーヌはその言葉を聞き、すぐには答えなかった。エレノアが自分の気持ちを言い終えるまで待ち、それから静かに頷いた。


「そのようにお考えいただけることは、資料を扱う者としても嬉しく思います。古い絵には、残っているものだけでなく、失われたものもございます。私たちにできるのは、今確かめられるものを正しく記録し、これ以上失われないように努めることです」


 エレノアは顔を上げ、エレーヌの表情を見つめた。彼女の言葉には、長く資料を扱ってきた人ならではの落ち着きがあった。


「エレーヌ様は、古いものを調べていて、分からないことが残るのは寂しくありませんか」


 その質問に、エレーヌは少し驚いたように瞬きをした。それから、穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「寂しいと感じることはございます。もう少し早く見つかっていれば、あるいは別の記録が残っていればと考えることもあります。ですが、分からないことを無理に埋めてしまえば、本当に残っているものまで見失うかもしれません」


 エレーヌはそこで一度言葉を区切り、窓の外へ目を向けた。


「ですから私は、分からないことを分からないまま記録することも、大切な仕事だと思っております。いつか別の資料が見つかった時、その記録が役に立つこともあるでしょう」


 エレノアは静かに頷いた。母の絵の裏に残された文字も、今分かっているのは「庭園にて アデラインとエレノア」という部分だけである。誰が書いたのか、いつ書かれたのか、それ以上の文字があったのかどうかも、まだ確かめられていない。


 それでも、分かっている部分を大切に残しておけば、いつか別の手がかりと結びつく可能性はあるのかもしれない。


(お母様のことを知りたい気持ちは、これからも変わらないと思う。でも、知りたいからこそ、分からないことを勝手に決めてしまわないようにしたいわ)


 エレノアはその思いを胸に、もう一つ質問した。


「それなら、あの絵の裏に残っていた文字も、今分かる部分をそのまま記録しておくのですね」


「はい。すでに確認できた文字については記録しております。読めない部分を無理に解釈することは避け、専門家の確認が必要な点は、そのまま残しております」


 エレノアは安堵したように息をついた。自分の知らないところで何かが決められてしまうのではなく、分かることと分からないことを丁寧に扱ってもらえている。それが何よりも心強かった。


     ◇ ◇ ◇


 相談を終える前に、エレーヌはエレノアの部屋の額について、実際の状態を確認する機会を設けたいと提案した。ただし、その場で額を分解したり、刺繍を取り出したりするつもりはないという。まずは外側から状態を見て、必要な対応を考えるためだった。


 エレノアはその説明を聞き、快く頷いた。


「ありがとうございます。私も、今の状態をきちんと知りたいです。もし移した方がよい場所があれば、リディアと一緒に考えたいと思っています」


「承知いたしました。お部屋の使い方も大切ですから、無理のない方法を考えましょう」


 エレーヌはそう答え、机の上の紙をまとめた。エレノアは持参した覚え書きを受け取り、丁寧に礼を述べた。


 小応接室を出ると、廊下には午後の光が差し込んでいた。リディアはエレノアの隣を歩きながら、相談の様子を振り返るように微笑んだ。


「エレノア様、いろいろなことを教えていただけましたね。私も、古い額を扱う時には、もっと気をつけなければならないことがあると分かりました」


「ええ。私、知らないことばかりだったわ。でも、分からないことを尋ねても、エレーヌ様は一つずつ丁寧に説明してくださったから、安心して聞くことができたの」


「お嬢様がご自身のお考えをお伝えになったからこそ、エレーヌ様も必要なことを説明しやすかったのではないでしょうか」


 エレノアは少し考え、静かに頷いた。以前なら、詳しい人の言うことをただ聞くだけで、自分が何を望んでいるのかまでは伝えられなかったかもしれない。しかし今日は、今の窓辺が好きだという気持ちも、古い額を守りたいという願いも、きちんと言葉にできた。


「そうだったら嬉しいわ。私、自分の気持ちを伝えることも、少しずつ上手になりたいと思っているの」


 リディアは穏やかな笑みを浮かべた。


「すでに、以前よりずっと自然にお話しになっているように感じます。もちろん、急いで変わる必要はございませんけれど」


 その言葉に、エレノアは少し照れたように微笑んだ。自分では小さな変化だと思っていても、近くで見守ってくれている人には伝わっているのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアは自室へ戻り、窓辺の額をもう一度眺めた。今日の相談で、すぐに移動させるという結論は出ていない。けれど、今の状態を確かめ、必要なことを考えるための一歩は踏み出せたように感じていた。


 机の上には、昨日の光の記録と、今日の相談で書き加えた覚え書きが並んでいる。エレノアはそれらを見比べながら、今まで気づかなかったことが少しずつ増えているのを感じた。


 窓辺の額は、母が使っていた古いものだった。中に収められているのは、エレノア自身が完成させた桃色の野薔薇である。母の刺繍はまだ見つかっていないが、今の自分が作ったものを大切にすることも、母の思い出を大切にすることと矛盾しないのだと思えた。


(お母様のものを探すことも、今あるものを守ることも、どちらも大切にしたいわ。全部を一度にできなくても、今日できることを少しずつ続けていけばいいのね)


 エレノアは刺繍枠を手に取り、青い花の続きを少しだけ進めることにした。今日は相談のことで頭を使ったため、長く作業するつもりはない。けれど、針を持つ時間は彼女にとって、気持ちを落ち着ける大切なひとときになっていた。


 青い糸を布へ通すと、花弁の端に新しい線が生まれた。まだ完成には遠いものの、昨日よりも少しだけ形が整っている。エレノアはその変化を眺め、自然と微笑んだ。


 しばらくして、リディアが茶を運んできた。エレノアは刺繍枠を置き、温かな茶器を受け取った。


「ありがとう、リディア。今日はエレーヌ様に相談できて、本当によかったわ。すぐに答えが出なくても、何を確かめればよいのか分かっただけで、気持ちが落ち着いたの」


「それは何よりでございます。お嬢様が大切にしていらっしゃるものですから、これからも丁寧に扱ってまいりましょう」


 エレノアは頷き、窓の外へ目を向けた。庭園では夕方の光が木々の間へ差し込み、落ち葉の積もった小道を淡く照らしている。遠くに見える菩提樹の枝は、風に揺れながらゆっくりと影を動かしていた。


 その景色を眺めていると、祖父と一緒に歩いた日のことが思い出された。あの時も、木陰の下で昔の話を聞きながら、今の自分が見ている景色を大切にしたいと思ったのだった。


 母の絵も、庭園も、刺繍も、すべてが同じ形のまま残るわけではない。それでも、今あるものを大切に扱い、必要なことを知ろうとすることで、未来へ残せるものがあるのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席で、エレノアはエレーヌとの相談について家族へ報告した。専門的な判断には確認が必要であること、今の額の状態を外側から見てもらう予定であること、そして古い絵についても、分からない部分を推測で補わずに扱う方針が変わっていないことを伝える。


 アルフォンスは話を聞き終えると、穏やかに頷いた。


「よい相談ができたようだね。エレーヌも、君が何を大切にしたいのか分かっただろう。額の確認については、彼女と都合を合わせて進めればいい」


「ありがとうございます、叔父様。私、今日お話ししてみて、分からないことを尋ねるのは恥ずかしいことではないのだと、改めて思いました」


 その言葉に、マルグリットは優しく微笑んだ。


「ええ。知らないことがあるのは自然なことですもの。大切なのは、知ろうとする気持ちと、教えてくださる方への敬意を忘れないことでしょうね」


 オーギュストも頷き、穏やかな声で言葉を添えた。


「私も、庭園のことなら長く見てきたつもりだが、今でも庭師に教わることがあるよ。木の状態は毎年違うし、昔のやり方がいつでも一番よいとは限らないからね」


 エレノアは祖父の言葉を聞き、少し驚いたように目を見開いた。


「お祖父様でも、まだ新しく教わることがあるのですね」


「もちろんだとも。長く生きているからといって、何でも知っているわけではないよ。むしろ、知らないことがあると分かるからこそ、学ぶ楽しみが続くのかもしれないね」


 その言葉に、食卓には穏やかな笑みが広がった。エレノアも微笑みながら、今日一日の出来事を思い返した。


 古い額を守るための相談は、まだ始まったばかりだった。母の絵の複製についても、専門家の確認を待たなければならない。しかし、分からないことを一つずつ確かめていく時間は、以前のように不安だけを生むものではなくなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に広げた覚え書きを丁寧に重ねた。今日エレーヌから教わったことは、まだすべてを理解できたわけではない。それでも、今の自分にできることと、詳しい人へ任せるべきことの違いが、少しずつ見えてきたように感じていた。


 日記帳を開き、今日の出来事を書き始める。窓辺の額について相談したこと、古い絵の色を推測で補わない理由を聞いたこと、そして分からないことをそのまま記録することにも意味があると教わったこと。


 書き進めるうちに、エレノアはふと筆を止めた。前の人生では、自分の言葉が誰にも届かないまま、罪を着せられて処刑された。あの時、何が本当で、誰が何を知っていたのかを確かめることさえできなかった。


 その記憶は今も胸の奥に残っている。けれど、今日エレーヌが話してくれたことを思い返すと、確かめられないことを勝手に決めつけないという姿勢が、どれほど大切なのかを改めて感じた。


(私は、もう二度と、誰かの思い込みだけで自分の人生を決められたくない。だからこそ、私も、分からないことを勝手に決めつけないようにしたいわ)


 エレノアは静かに息を整え、日記帳へ続きを書き加えた。


『今日は、エレーヌ様に古い額と刺繍の保存について相談しました。すぐに答えが出ることばかりではありませんでしたが、何を確かめればよいのかを教えていただきました。分からないことを分からないまま大切に扱うことも、何かを守るためには必要なのだと思います。』


 書き終えると、エレノアは筆を置き、窓辺の額へ目を向けた。桃色の野薔薇は夜の灯りを受け、静かな色合いでそこに飾られている。母の古い額と、自分が作った刺繍。その二つが重なった姿を眺めていると、胸の奥に温かなものが広がった。


 明日、すべてが変わるわけではない。母の失われた品々が突然見つかるわけでも、古い絵の謎が一度に解けるわけでもない。それでも、今日のように一つずつ確かめていけば、いつか新しいことが分かる日も来るかもしれない。


 リディアが寝台の支度を整え、エレノアへ声をかけた。


「エレノア様、そろそろお休みになりませんか。本日はお話を聞かれる時間も長うございましたので、お疲れになったのではございませんか」


「そうね。少し疲れたけれど、今日はとてもよい一日だったわ。明日も、できることを少しずつ進めたいと思っているの」


 エレノアは日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。青い花の刺繍枠はまだ途中のままだが、その未完成さを見ても焦りは感じない。むしろ、これから少しずつ形になっていくことが楽しみだった。


 窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。菩提樹の枝も、きっと同じ風を受けながら、長い年月を重ねた姿で立っているのだろう。


 エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。母が残したものを守りたいという気持ちと、自分がこれから作っていくものを大切にしたいという願い。その両方を胸に抱きながら、彼女は静かに目を閉じた。


 今夜の眠りは、穏やかなものになりそうだった。


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