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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 窓辺の光が教えてくれたことと、母の絵を守るための小さな決意


 翌朝、エレノアが目を覚ました時、寝室の窓には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。昨日よりも空は明るく、庭園の木々は夜の間に落とした葉を足元へ散らしながら、静かな朝を迎えている。開け放たれたカーテンの向こうで菩提樹の枝が揺れるのを眺めていると、エレノアは昨夜リディアと交わした約束を思い出した。


 今日は、窓辺に飾っている桃色の野薔薇の刺繍に、どのように光が当たるのかを確かめる予定だった。古い額へ収めた刺繍は、母アデラインが残したものではなく、エレノア自身が初めて完成させた大切な作品である。だからこそ、昨日エレーヌ・フォシェから聞いた絵の保存についての話が、他人事とは思えなかった。


(お母様の絵を守りたいと思っていたけれど、私が作ったものだって、長く大切にしたいわ。せっかく完成させたのだから、できるだけ綺麗なままで残しておきたいもの)


 エレノアは寝台から起き上がり、窓辺の額へ目を向けた。淡い桃色の花弁は朝の光を受けて柔らかく浮かび上がり、刺繍糸の細かな重なりが、布の表面に小さな陰影を作っている。完成した時には、その美しさを眺めることばかり考えていたが、今は額を置く場所そのものにも目が向くようになっていた。


 しばらくして、扉を叩く控えめな音が響いた。入室の許しを得て現れたリディアは、エレノアがすでに起きていることに気づくと、朝の挨拶をしてから窓の外へ目を向けた。


「おはようございます、エレノア様。本日は昨日よりも空が明るいようでございますね。庭園の小道も、朝のうちに落ち葉を集めているそうです」


「おはよう、リディア。ちょうど窓辺の刺繍を見ていたの。昨日お話ししたことを、今日一緒に確かめていただけるかしら」


「もちろんでございます。今朝の光の当たり方を確認しておいて、午後にも様子を見てみましょう。ただ、私も保存について詳しいわけではございませんので、気になることがございましたら、エレーヌ様へお尋ねするのがよろしいかと存じます」


 リディアはそう答え、エレノアの寝間着を整えるために近づいた。以前なら、侍女に手間をかけさせることを気にして、刺繍の位置など自分一人で考えようとしたかもしれない。しかし今は、分からないことを誰かと一緒に確かめることが、相手へ負担を押しつける行為とは限らないのだと理解し始めていた。


「ええ。まずは私たちで、どんなふうに光が入るのかを見てみたいわ。それから、必要ならエレーヌ様に相談しましょう」


 リディアは微笑み、衣装を選ぶために衣装箱へ向かった。エレノアも鏡の前へ移動し、今日着たいものを考える。淡い生成り色の衣装と薄い青色の衣装を見比べたあと、昨日とは少し違う気分で過ごしたくなり、柔らかな薄紫色の衣装を選んだ。


 支度を整えている間にも、窓から差し込む光は少しずつ位置を変えていた。エレノアはその変化を見ながら、同じ部屋で毎日過ごしていても、気づいていないことがたくさんあるのだと感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、オーギュストが庭園の手入れについてアルフォンスと話していた。菩提樹の周囲では、季節が進むにつれて落ち葉が増えるため、小道の状態をこまめに確かめる必要があるという。昨日の報告では大きな問題は見つかっていなかったが、雨の日に滑りやすくなる場所については、引き続き注意することになっていた。


 エレノアはその会話に耳を傾けながら、先日家族と歩いた菩提樹の下を思い出した。大きく広がった枝の間から落ちてくる光や、セドリックが見せてくれた黄色い葉は、今でも鮮やかに心に残っている。


「お祖父様、菩提樹の葉は、これからもっと黄色くなるのでしょうか」


 エレノアが尋ねると、オーギュストは穏やかに頷いた。


「そうだね。天候にもよるが、これから少しずつ色づいていくだろう。もっとも、すべての葉が同じように変わるわけではないよ。早く落ちる葉もあれば、しばらく枝に残る葉もあるからね」


「それなら、また違う色の葉を見られるかもしれませんね。昨日描いた葉と比べてみたいです」


「それは面白そうだ。庭師の仕事の邪魔にならない時なら、また見に行くといい。私も時間が合えば一緒に歩こう」


 祖父の言葉に、エレノアは嬉しそうに微笑んだ。次に庭園を歩く日がいつになるかは分からないが、また一緒に過ごしたいと自然に言い合えることが嬉しかった。


 マルグリットは二人の会話を聞きながら、エレノアの衣装へ目を向けた。


「今日は薄紫色を選んだのですね。とてもよく似合っていますよ。昨日は青い花の刺繍を進めていたそうですが、そちらも少しずつ形になってきたのでしょうか」


「ありがとうございます、お祖母様。まだ完成までは時間がかかりそうですが、花弁の糸を少し整えました。急いで仕上げるより、一針ずつ丁寧に進めたいと思っています」


「それがよいでしょうね。手仕事は、仕上がったものだけでなく、作っている時間も楽しめるものですから」


 エレノアは頷き、祖母と一緒に青紫色の糸を試した時のことを思い出した。今進めている青い花とは別に、庭園で見つけた小さな花の図案も少しずつ考えている。完成させたいものが増えていることに、以前のような焦りは感じなかった。


 セドリックは茶器を置き、エレノアへ穏やかな視線を向けた。


「そういえば、昨日見せてもらった菩提樹の葉の絵だけれど、あの枝の描き方が印象に残っているよ。今度庭園へ行く時には、僕も少し違う角度から木を眺めてみようと思ったんだ」


「お兄様もですか。私は、皆様のお話を聞いてから、同じ木でも見る場所によって違う景色になるのだと思いました。次に行く時は、石の腰掛けから見上げた形も描いてみたいです」


「それなら、僕も一緒に考えてみようかな。絵を描くのは得意ではないけれど、どこから見ると枝がよく見えるかくらいなら、手伝えると思うよ」


 二人の会話を聞き、アルフォンスが微笑んだ。


「庭園を歩く楽しみが増えたようだね。父上も、長く親しんできた場所を二人が気に入ってくれたなら嬉しいでしょう」


 オーギュストは照れたように笑い、茶器へ手を伸ばした。


「そうだね。昔の話を聞いてもらえることも嬉しいが、あの木を見て新しい楽しみを見つけてくれることは、もっと嬉しいかもしれないよ」


 エレノアは祖父の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。菩提樹は祖父の思い出が残る場所であり、母が幼い頃に過ごした場所でもある。そして今は、エレノア自身が新しい思い出を作る場所にもなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えて自室へ戻ると、エレノアはリディアとともに窓辺の額を確かめることにした。窓は庭園に面しており、朝の光が斜めに差し込む時間には、額の一部が明るく照らされる。桃色の野薔薇の刺繍は、その光を受けて柔らかく見えていた。


 リディアは額を動かさず、まず現在の位置を確かめた。窓枠からどのくらい離れているのか、光がどの方向から当たっているのかを見ながら、エレノアへ説明する。


「今の時間は、額の上の方へ光が届いておりますね。ただ、これが一日中続くわけではございません。午後には窓から入る光の角度も変わりますので、その時にも確認してみましょう」


「そうね。昨日エレーヌ様から、光に長くさらされると色が変わることがあると教わったの。今すぐ傷んでしまうわけではないのでしょうけれど、知らないままにしておくのは少し心配だわ」


 エレノアは額へ近づき、刺繍糸の色を確かめた。完成した時と比べて目立った変化は分からないが、それだけで安心してよいのかどうかも判断できない。昨日教わったことを思い返すと、保存については自分の感覚だけで決めず、必要な時には詳しい人へ相談するべきだと思えた。


「この額は、お母様の刺繍が入っていたものなのよね」


 エレノアが静かに言うと、リディアは頷いた。


「はい。以前確認された古い額でございます。今はお嬢様が完成させた野薔薇の刺繍を収めておりますが、額そのものにも長い時間が重なっておりますね」


 エレノアはその言葉を聞き、額の縁へ視線を向けた。木の表面には細かな傷があり、長い年月を経たことが感じられる。母の青い花の刺繍はまだ見つかっていないが、額だけはこうして残り、今は自分の作品を守ってくれている。


(お母様の刺繍が見つからないことは寂しいけれど、この額を使って私の花を飾れたことも、大切にしたいわ。だからこそ、これから先も長く残せるように考えたい)


 エレノアはしばらく額を眺めたあと、リディアへ顔を向けた。


「リディア、今の場所から少し離した方がよいのかしら。それとも、光が当たらない時間なら、このままでも大丈夫なのかしら」


「私の判断だけでは申し上げられませんが、まずは一日のうちにどのくらい光が当たるのかを確かめてから、エレーヌ様へご相談するのがよろしいかと存じます。額を置く場所を変えるにしても、安定した場所を選ばなければなりませんから」


「ええ。そうしましょう。今は無理に動かさず、午後の様子も見てから考えるわ」


 エレノアは頷き、机の上に置いた小さな紙へ、今朝の光の当たり方を書き留めた。正確な時刻を記録するためではなく、朝と午後の違いを比べるための簡単な覚え書きだった。窓の位置と額の場所を小さな線で示し、光が届いていた範囲へ印をつける。


 リディアはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。


「お嬢様は、昨日教わったことを早速お役立てになっているのですね。私も、今まで額を飾る時には見栄えを考えることが多うございましたが、長く残すための場所という見方はあまりしておりませんでした」


「私も同じよ。綺麗に見える場所が一番だと思っていたの。でも、綺麗に見えることと、長く大切にできることは、いつも同じではないのね」


 エレノアはそう答え、紙を机の端へ置いた。今すぐ答えが出なくても、こうして少しずつ確かめていけばよいのだと思うと、気持ちが落ち着いた。


     ◇ ◇ ◇


 午前中の残りの時間、エレノアは刺繍枠を手に取り、青い花の続きを進めた。昨日整えた花弁の糸は、今朝の光の下では少し明るく見える。彼女は糸の流れを確かめながら、布が引きつれないように針を通していった。


 窓辺の額を気にするようになったせいか、作業をする場所の明るさにも自然と目が向いた。手元が暗ければ糸の色を見誤りやすく、明るすぎれば目が疲れてしまう。リディアはエレノアが作業しやすいよう、椅子の位置を少し調整し、必要な道具を手の届く場所へ並べた。


「こちらの方が、手元が見やすいでしょうか」


「ええ、ありがとう。さっきより糸の重なりが分かりやすくなったわ。少し場所を変えるだけでも、随分違うのね」


 エレノアは微笑み、再び針を進めた。布の上に少しずつ青い花弁が広がっていく様子を眺めていると、母が残した「青い花を作りたい」という言葉が思い出される。あの短い記録に、母がどのような花を思い描いていたのかは分からない。けれど、今の自分が選んだ青い糸で花を作る時間は、確かにここにあった。


 しばらく作業を続けたところで、エレノアは針を止めた。花弁の端に少しだけ糸の流れが乱れた部分があり、無理に進めると形が崩れそうだった。彼女は糸を引き直す前に布全体を眺め、どこから整えれば自然な形になるかを考えた。


(急いで縫い進めれば、今日のうちにもっと形になるかもしれない。でも、今は綺麗に仕上げたい気持ちの方が強いわ。少し時間をかけて整えた方が、きっと後悔しないと思う)


 エレノアは慎重に針を戻し、糸の流れを整え直した。布の表面が滑らかになると、胸の奥に小さな満足感が広がる。誰かに急かされることなく、自分の判断でやり直せたことが嬉しかった。


 リディアはその様子を見守りながら、茶の用意を整えた。


「少しお休みになりませんか。先ほどから集中していらっしゃいましたので、目を休めるお時間も必要かと存じます」


「そうね。ちょうど一区切りついたところだから、少し休むわ。今日は昨日よりも、糸の色をよく見られた気がするの」


 エレノアは刺繍枠を安全な場所へ置き、温かな茶器を受け取った。窓の外では庭師たちが落ち葉を集めており、乾いた葉が地面を擦る柔らかな音が聞こえてくる。朝のうちには庭園の端に残っていた落ち葉も、少しずつ集められていた。


 その様子を眺めながら、エレノアは菩提樹の下で祖父が話してくれたことを思い出した。庭園は、ただ自然のままに残されているのではない。木々を守り、花を育て、小道を整える人々の仕事によって、家族が安心して歩ける場所になっている。


 絵や刺繍も同じなのかもしれない。大切に思う気持ちだけでなく、実際に守るための方法を知り、必要な手入れを続けることが、長く残すことにつながるのだろう。


     ◇ ◇ ◇


 昼食後、エレノアはマルグリットの私室を訪ねた。祖母は窓辺の椅子に腰かけ、小さな刺繍枠を手にしていたが、孫娘が入ってくると作業を止め、穏やかな笑みを向けた。


「いらっしゃい、エレノア。今日は朝から刺繍を進めていたそうですね。少し疲れてはいませんか」


「大丈夫です、お祖母様。青い花の花弁を少し整えました。それから、昨日エレーヌ様に教えていただいたことを思い出して、窓辺に飾っている野薔薇の刺繍へ、どんなふうに光が当たるのか確かめていたんです」


 マルグリットは興味深そうに顔を上げた。


「まあ、それはよいことを考えましたね。私も昔から刺繍を飾ることはありましたけれど、保存について専門的に学んだわけではありません。どんなことが分かったのですか」


 エレノアは朝の様子を説明した。額の上の方へ光が届いていたこと、午後には角度が変わるため、もう一度確認する予定であること、そして自分たちだけでは判断できない部分については、エレーヌへ相談したいと考えていることを伝える。


 マルグリットは頷きながら聞き、机の上に置かれた糸箱へ目を向けた。


「刺繍糸も、長い年月の間に色が変わることがありますからね。私が若い頃に作ったものでも、今では当時と少し違う色に見えるものがあります。ただ、それが光のせいなのか、糸そのものの性質なのか、私には分からないものもあります」


「お祖母様が作られた刺繍にも、そういうものがあるんですね」


「ええ。大切にしまっていたつもりでも、時間が経てば変わることはあります。だからこそ、今の姿を覚えておくことも大切なのでしょうね」


 エレノアは祖母の言葉を聞き、少し考えた。古い絵の色が薄くなっていることを知った時には、昔の鮮やかな色を取り戻せたらよいのにと思った。しかし、昨日エレーヌから、分からない色を想像で補うことと、元の状態を正確に知ることは別だと教わっている。


「私、今の刺繍の色を図案帳に残しておこうかと思います。糸の色をそのまま写すことは難しいかもしれませんけれど、どんな色を選んだのか、書き留めておけば後から思い出せるかもしれません」


「それはよい考えですね。糸の名前や種類が分かるなら、そうしたことも一緒に残しておくとよいでしょう。もちろん、記録するために作っているわけではありませんから、負担にならない範囲で十分ですよ」


 マルグリットはそう答え、糸箱から青紫色の糸を取り出した。先日試した色の組み合わせは、まだ決定していない。エレノアは祖母と並んで糸を眺めながら、庭園で見つけた小さな花のことを思い出した。


「こちらの花も、いつか刺繍にしてみたいです。でも、今は青い花を完成させることを楽しみにしているので、急がずに考えたいと思っています」


「ええ。作りたいものがいくつもあるのは、楽しいことですからね。一つずつ形にしていけばよいのですよ」


 祖母の言葉に、エレノアは微笑んだ。以前なら、やりたいことが増えると、すべてを早く終わらせなければならないような気持ちになったかもしれない。しかし今は、作りたいものを選ぶ時間そのものが楽しかった。


 しばらく糸を見比べたあと、マルグリットはふと思い出したように窓の外へ目を向けた。


「アデラインも、色を選ぶ時にはよく迷っていましたよ。以前お話ししたように、気に入らないところをほどいてやり直すこともありました。けれど、迷っている時間が嫌いだったわけではないように思います」


「お母様も、色を選ぶことを楽しんでいらしたんでしょうか」


「そうかもしれませんね。ただ、今となっては、本人がどんな気持ちだったのかを確かめることはできません。私には楽しそうに見えた、ということだけは覚えていますよ」


 エレノアは頷き、祖母の言葉を大切に受け取った。母がどのような気持ちで刺繍をしていたのか、すべてを知ることはできない。それでも、祖母が見ていた母の姿を聞くことで、少しずつ母のことを身近に感じられるようになっていた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、アルフォンスは執務室で、ベルナール家へ送った照会の控えを確認していた。衣類帳簿の記録者と確認者の欄が一つになっていた理由について、正式な回答はまだ届いていない。書類の端には、照会を送った日と、確認を求めた項目が丁寧に記されていた。


 アルフォンスはその控えを読み返し、質問の内容が必要以上に断定的になっていないことを確かめた。帳簿に残された姓だけでは、誰が記録したのかを決めることはできない。まして、その記録が衣類の行方を示していると結論づけるには、まだ情報が足りなかった。


 机の反対側には、エレーヌがまとめた古い絵の保存に関する報告が置かれている。こちらも専門家への相談準備が整った段階であり、複製の可否について結論は出ていなかった。


 アルフォンスは二つの書類を見比べ、静かに息をついた。


(エレノアのためにできることは、少しずつ増えている。だが、急いで答えを出そうとして、確かめるべきことを飛ばしてはいけない。あの子が安心して暮らせるようにするためにも、曖昧な情報を確かなものとして扱うわけにはいかないからな)


 彼は書類を整理し、それぞれ別の場所へ戻した。母娘の古い絵と衣類の記録は、どちらもエレノアに関わるものではあるが、現時点で直接の関連が確認されたわけではない。調査を進めるうえでは、その区別を維持することが重要だった。


 その時、扉を叩く音がして、エレーヌが入室した。彼女は手元の書類を整え、古い絵の保管状況について簡単な報告を行った。


「現在のところ、原画の状態に新たな変化は確認されておりません。専門家へ相談するための記録も整えておりますが、実際の確認方法については、まだ調整が必要でございます」


「分かった。原画を動かす必要があるかどうかも含めて、慎重に進めてほしい。エレノアは絵を部屋に飾りたいと望んでいるが、それ以上に、傷めずに残したいと考えているようだからね」


 エレーヌは頷き、昨日エレノアへ保存について説明した時のことを思い出した。


「お嬢様は、原画の色が薄くなっていることを残念に思われながらも、今の姿を大切にしたいとお話しになっていました。複製ができるとしても、確認できない色を勝手に補うべきではないという点も、よく理解してくださったように感じます」


 アルフォンスはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


「そうか。あの子は、少しずつ自分の考えを言葉にするようになってきたね。以前は何かを望むこと自体に遠慮があったようだが、今は知りたいことを尋ねられるようになっている」


「はい。昨日も、複製をお願いするだけでなく、保存について知りたいとおっしゃっていました。ご自身に関わるものを、ただ受け取るのではなく、どう扱うか考えようとしていらっしゃるのでしょう」


 エレーヌは穏やかに答えた。彼女にとって、資料を守る仕事は、過去の記録を残すだけではない。その記録を受け取る人が、何を知り、何を大切にしたいと思うのかを尊重することも、同じくらい重要だった。


 アルフォンスは窓の外へ目を向けた。庭園では落ち葉を集める作業が続いており、午後の光が木々の間へ差し込んでいる。昨日エレノアが菩提樹の葉を描いていたことを思い出すと、彼は胸の奥に温かなものを感じた。


「調査は引き続き慎重に進めよう。エレノアには、分かったことを正確に伝えたい。分からないことについても、分からないままだときちんと話せるようにしておきたいんだ」


「承知いたしました。新たに確認できたことがございましたら、事実と推測を分けてご報告いたします」


 エレーヌが退室したあと、アルフォンスは机の上に残った書類を整えた。まだ答えの出ていない問題は多いが、焦って結論を求めるよりも、確かな情報を積み重ねることが必要だと改めて思った。


     ◇ ◇ ◇


 午後も半ばを過ぎた頃、エレノアはリディアとともに自室へ戻り、朝に確認した窓辺の額をもう一度眺めた。朝には上の方へ届いていた光が、今は少し違う角度から差し込んでいる。額の表面は直接明るく照らされていなかったが、窓辺そのものはまだ十分に明るかった。


「朝とは随分違うのね。さっきまでお祖母様のお部屋にいたから、あまり意識していなかったけれど、こうして比べるとよく分かるわ」


 エレノアは机の上に置いていた覚え書きを取り、朝の印と今の様子を見比べた。リディアも窓の位置を確かめ、午後には光が額から少し離れた場所へ移っていることを確認する。


「そうでございますね。ただ、季節が変われば光の入り方も変わるかもしれません。今の時期だけを見て判断するのではなく、エレーヌ様へご相談する際には、その点もお伝えした方がよろしいかと存じます」


「ええ。私たちだけでは分からないことがあるものね。今日確かめたことを、忘れないうちに書いておくわ」


 エレノアは覚え書きへ午後の様子を加えた。窓から入る光の方向、額へ直接届いているかどうか、周囲の明るさ。どれも簡単な記録だったが、朝と午後の違いを自分の目で確かめられたことが嬉しかった。


 そのあと、エレノアは額を少し離れた場所から眺めた。窓辺に置かれた野薔薇の刺繍は、部屋へ入った時に自然と目に入る位置にある。ここから動かすことになれば、今までとは違う景色になるだろう。


 そのことを考えると、少し寂しさを感じた。完成した刺繍を初めて額へ収めた時の喜びや、毎朝目にするたびに感じる温かさが、今の場所と結びついていたからだ。


(もし場所を変えた方がよいと言われたら、少し寂しいかもしれない。でも、長く大切にしたいと思うなら、そのためにできることを考えたいわ)


 エレノアは額へ近づき、縁に触れないようにしながら、刺繍の花弁を眺めた。桃色の糸は、朝とは違う柔らかな色合いに見える。光が変わるだけで印象が変わることを知ると、今まで気づかなかった美しさまで見えてくるようだった。


「リディア、もしこの額を別の場所へ移すことになったら、今の場所には何を置こうかしら」


 エレノアが尋ねると、リディアは少し考えてから答えた。


「お花を飾ることもできますし、何も置かずに窓辺を広く使うこともできます。お嬢様が落ち着いて過ごせるように、いろいろ考えてみるのもよろしいかと存じます」


「そうね。何も置かないという選び方もあるのね」


 エレノアは少し驚いたように微笑んだ。何かを移動させるなら、空いた場所をすぐに埋めなければならないと思っていたが、必ずしもそうではない。何も置かない場所にも、光が差し込み、風が通り、庭園を眺めるための余白が生まれる。


 そのことに気づくと、胸の奥が少し軽くなった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアは小応接室でセドリックと顔を合わせた。彼は庭園の管理記録を確認していたらしく、薄い冊子を閉じたところだった。エレノアが窓辺の刺繍について話すと、セドリックは興味深そうに耳を傾けた。


「なるほど。飾る場所を考える時には、光の当たり方も大切なんだね。僕も絵や刺繍を見る時には、綺麗に見える場所を選びたくなるけれど、長く残すことまで考えると、少し違う見方が必要なのかもしれない」


「はい。私も、昨日エレーヌ様から教わるまでは、あまり考えていませんでした。今朝と午後で光の当たり方が違うことを確かめて、同じ部屋でも時間によって変わるのだと分かったんです」


 セドリックは頷き、窓の外へ目を向けた。


「庭園も同じかもしれないね。昨日の菩提樹は、朝と午後では枝の影が違っていたはずだ。僕たちは午後に歩いたから、その時の景色を覚えているけれど、朝にはまた違う表情を見せていたのだろうね」


 エレノアはその言葉に、昨日描いた葉の図案を思い出した。


「そうですね。今度は朝の菩提樹も見てみたいです。もちろん、お祖父様や庭師の方々のご都合がよい時にですけれど」


「それなら、天気のよい日に相談してみよう。急いで行かなくても、木はそこにあるからね」


 セドリックは穏やかに微笑んだ。エレノアも頷き、窓の外に広がる庭園を眺めた。季節が進めば葉は落ち、木の姿も変わっていく。それでも、今見られない景色を楽しみに待つことができるのだと思うと、心が温かくなった。


 しばらくして、セドリックは机の上に置かれた冊子へ目を向けた。


「そういえば、庭園の記録を見ていたんだけれど、菩提樹の周囲は昔から少しずつ手入れが変わっているようだよ。祖父上が話していた通り、木陰が広がったことで花壇の位置を変えた時期もあったらしい」


「お祖父様のお話と、記録に残っていることが重なるんですね」


「そうだね。ただ、記録に書かれていないことも多いから、昔の庭園をすべて正確に再現できるわけではないと思う。だからこそ、今の庭園を大切にしながら、昔のことも少しずつ知っていけたらいいんじゃないかな」


 エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。古い絵も、庭園の記録も、母の思い出も、すべてを完全に知ることはできない。しかし、分かることを大切にしながら、今の時間を重ねていくことはできる。


「私、今日も少し新しいことを知りました。窓辺の光のことも、刺繍を長く残すためのことも。知らないことがあると、以前は不安になることが多かったのですけれど、今は知っていくのが楽しみです」


 セドリックはその言葉を聞き、優しく微笑んだ。


「それはいいことだね。エレノアが知りたいと思ったことを、これからも少しずつ確かめていけばいいと思うよ。僕も一緒に考えられることがあれば、喜んで手伝うから」


 エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。誰かに頼ることをためらっていた頃の自分が、少し遠くに感じられる。今は、分からないことを一緒に考えてくれる人がいることを、素直に嬉しいと思えた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の席では、エレノアが窓辺の刺繍について調べたことが話題になった。マルグリットは昼間聞いた内容を思い出しながら、エレノアが朝と午後の光の違いを記録したことを家族へ伝えた。


 オーギュストは興味深そうに頷き、アルフォンスも穏やかな表情で耳を傾けていた。


「なるほど。実際に確かめてみたのはよいことだね。古いものを守るためには、まず今どのような状態にあるのかを知る必要がある。もっとも、専門的な判断は詳しい人へ任せた方がよいだろう」


 オーギュストがそう言うと、エレノアは頷いた。


「はい、お祖父様。私たちだけでは分からないこともありますので、エレーヌ様に相談したいと思っています。ただ、今の場所が好きなので、もし移すことになったら少し寂しいかもしれません」


 その言葉に、マルグリットは優しく微笑んだ。


「好きな場所から動かすのは、少し寂しいものですよね。でも、長く大切にするために場所を変えることも、愛情の一つなのかもしれません。もちろん、今すぐ決める必要はありませんよ」


 エレノアは祖母の言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。自分の寂しさを否定されず、そのうえで別の考え方を教えてもらえたことが嬉しかった。


 アルフォンスは少し考えてから、エレノアへ顔を向けた。


「エレーヌには、明日以降の都合のよい時に相談できるよう伝えておこう。古い絵の保存とは別の話になるけれど、額に収めた刺繍をどう扱うかについても、一般的な注意点なら教えてもらえると思う」


「ありがとうございます、叔父様。お仕事のお邪魔にならない時で構いませんので、よろしくお願いいたします」


 エレノアが頭を下げると、アルフォンスは穏やかに首を振った。


「遠慮はいらないよ。君が大切にしているものを守りたいと思うのは、自然なことだからね。ただ、専門家の意見を聞くまでは、今の状態をよく見ておくことにしよう」


 エレノアは頷き、家族の顔を見渡した。祖父も祖母も、叔父も従兄も、自分の小さな疑問に耳を傾けてくれている。大きな事件や難しい問題ではなく、部屋に飾った刺繍のことでも、こうして一緒に考えてくれるのだ。


(私が大切にしたいと思ったものを、皆様も大切に扱ってくださるのね。だから、私も自分の気持ちを隠さずに話していいのだと思えるんだわ)


 エレノアはそう考えながら、温かな食事を口へ運んだ。窓の外では夜が深まり始め、庭園の木々は静かな闇に包まれていく。食堂の中には穏やかな会話が続き、エレノアはその時間を心地よく感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に置いた覚え書きを日記帳の隣へ並べた。朝と午後の光の当たり方を記した紙には、小さな線と短い言葉が書き込まれている。見たことを忘れないための簡単な記録だったが、こうして並べてみると、今日一日で自分が何を確かめたのかが分かるようだった。


 エレノアは日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。窓辺の額をリディアと一緒に確かめたこと、祖母から昔の刺繍の色が変わることもあると聞いたこと、セドリックと菩提樹の朝の景色について話したこと。そして、家族が自分の小さな疑問にも耳を傾けてくれたこと。


 書き進めるうちに、エレノアはふと筆を止めた。今日の出来事は、誰かにとってはごく普通の一日なのかもしれない。けれど、以前の自分にとっては、分からないことを尋ねたり、好きなものを大切にしたいと伝えたりすることさえ、簡単ではなかった。


 今は、そうした気持ちを少しずつ言葉にできるようになっている。


(大きなことが起きなくても、私の毎日は少しずつ変わっているのね。昨日は知らなかったことを今日知って、今日できなかったことを、いつかできるようになるかもしれない)


 エレノアはその思いを胸に、日記帳へ続きを書き加えた。


『今日は、窓辺に飾っている野薔薇の刺繍へ、どのように光が当たるのかを確かめました。朝と午後では光の位置が違い、同じ部屋でも時間によって景色が変わることを知りました。大切なものを守るためには、好きだと思う気持ちだけでなく、どうすれば長く残せるのかを知ることも必要なのだと思います。』


 エレノアは書き終えた文章を眺め、静かに微笑んだ。古い絵の複製が作れるかどうかは、まだ分からない。母の失われた品々も、すべてが見つかったわけではない。けれど、今の自分が大切にしているものについて、今日できることを考えられたのは嬉しかった。


 机の横の壁には、まだ何も飾られていない。いつか母と幼い自分が描かれた絵の複製を置ける日が来るかもしれないが、その時には光の当たり方や額の位置についても、よく考えたいと思っている。


 エレノアは窓辺の野薔薇の刺繍へ目を向けた。夜の灯りを受けた花弁は、朝とは違う落ち着いた色合いに見える。今日一日、何度も眺めたはずなのに、見るたびに少し違う表情を見せてくれることが、不思議で楽しかった。


 リディアが寝台の支度を整えながら、穏やかに声をかけた。


「エレノア様、本日もお疲れさまでございました。明日もお天気がよろしければ、窓辺の光を確かめることができますね」


「ええ。でも、明日はエレーヌ様にご相談できるかもしれないから、今日の記録を見ていただこうと思っているの。私たちが気づいたことを、きちんとお伝えしたいわ」


「それがよろしいかと存じます。お嬢様がご自身で確かめられたことなら、きっとお話もしやすいでしょう」


 エレノアは頷き、日記帳を閉じた。机の上には青い花の刺繍と、菩提樹の葉を描いた図案帳が並んでいる。どちらもまだ途中のものを含んでいるが、今のエレノアには、その未完成さが以前ほど気にならなかった。


 これから少しずつ形にしていけばよい。分からないことは確かめ、迷うことがあれば時間をかけて考えればよい。祖父が教えてくれたように、急いで答えを出さなくても、大切なものが失われるとは限らないのだから。


 エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。窓の外では、夜風が庭園の木々を静かに揺らしている。菩提樹の枝も、今頃はその風に揺れながら、長い年月を重ねた姿で庭園に立っているのだろう。


 母が過ごした時間と、自分が今過ごしている時間。その両方を大切にしたいと思いながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。


 明日もまた、何か一つ新しいことを知る日になるかもしれない。そんな穏やかな期待を胸に、彼女は静かな眠りへと落ちていった。

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