第70話 母の絵に残る余白と、私が選ぶ今日の色
菩提樹の下を家族と歩いた翌朝、エレノアは机に置いた図案帳を開き、昨日描いた葉の輪郭を指先でたどった。窓から入る光はまだ弱く、紙の上に引いた線の濃淡が、夜に見た時とは少し違って見える。枝の下でセドリックが拾ってくれた葉は、もっと先端が細かった気もしたが、描き直そうとは思わなかった。
(これは植物の記録というより、昨日の私が見た葉なのね)
祖父オーギュストの話、祖母マルグリットの笑い声、父親と妹がこの庭園で過ごした日々を懐かしむ叔父アルフォンスの横顔。それらを思い返すと、紙に残した不揃いな線まで大切に感じられた。エレノアは帳面を閉じず、もう一枚の白い紙を取り出して、昨日見上げた枝の広がりを簡単に描き添えた。
扉を叩く音がして、リディアが朝の支度に訪れた。エレノアが机に向かったままだと知ると、急がせることなく窓辺のカーテンを整え、今日は昨日より少し雲が多いようだと告げる。
「おはよう、リディア。昨日の葉をもう一度描いていたの。正確な形ではないかもしれないけれど、見ていると木の下で聞いたお話まで思い出せるのよ」
「それは素敵でございますね。昨日お戻りになった時も、皆様とても楽しそうでいらっしゃいました。旦那様が、久しぶりに菩提樹の下でゆっくりできたとお話しになっていたそうです」
祖父も同じ時間を喜んでくれていたのだと知り、エレノアの胸が温かくなった。自分だけが楽しかったのではないと分かることは、まだ彼女にとって新鮮だった。鏡の前に移って髪を整えてもらいながら、今日も家族の誰かと話せる時間があれば嬉しいと、自然に思う。
「今日は刺繍を少し進めたいわ。それから、もしエレーヌ様がお忙しくなければ、古い絵を保管するお仕事について聞いてみたいの。絵を飾る話をした時、傷めないようにするのが大切だと教えていただいたでしょう」
「それでしたら、まずアルフォンス様へお伺いするのがよろしいかと存じます。エレーヌ様にも日々のお仕事がございますし、お時間のある時にお話しいただけるようにすれば安心でございます」
「そうね。今日でなくても構わないの。私、複製をお願いしたのに、作るために何が必要なのか、まだあまり知らないのだと思ったのよ」
リディアは小さく頷き、柔らかな生成り色の衣装を選んだ。エレノアは袖口を確かめ、自分の手で小さな青いリボンを合わせてみる。昨日の青緑色の外出着とは違う、静かな色の組み合わせだった。
支度を終えて机へ戻ると、昨日描いた葉と制作途中の青い花が並んで見えた。エレノアはその二つを見比べ、どちらも今の自分の手で作っているものなのだと確かめてから、朝食へ向かった。
◇ ◇ ◇
食堂では、セドリックが昨日の散策で見た枝のことを話していた。菩提樹の外側に伸びた枝は、庭師が折れや傷みを定期的に確認しているらしい。祖父は木を守るために必要な手入れは続けるべきだと頷き、祖母は、木陰が広がる季節には下草の様子も変わるのだと話した。
「昨日、エレノアが葉の形を気に入っていたね。部屋に戻ってから描いてみると言っていたけれど、どうだったかな」
セドリックに尋ねられ、エレノアは微笑んだ。
「描いてみました。お兄様に見せていただいた葉とは少し違うかもしれませんが、あの時のことを思い出しながら描くのが楽しかったです。今朝は、枝の形も少し描き足したんです」
「それは見てみたいな。僕も葉を渡した時のことを覚えているから、どんな絵になったのか気になるよ」
「はい。あとでお見せしますね」
以前なら、未完成の絵を見せることにためらいを覚えたかもしれない。しかし今は、上手に描けたかどうかより、昨日の時間を共有できることが嬉しかった。セドリックも出来栄えを確かめるためではなく、エレノアが何を見たのか知りたいのだと、その表情から分かった。
アルフォンスは二人の会話を聞いてから、エレノアに視線を向けた。
「そういえば、古い絵のことでエレーヌから連絡があったよ。複製を作れるかどうかについて、保存に詳しい専門家へ状態を説明して意見を求める準備ができたそうだ。ただ、まだ原画を見てもらったわけではないから、作業ができると決まったわけではないんだ」
「はい。原画を傷めないことが一番ですものね」
エレノアは頷き、少し迷ってから続けた。
「叔父様、私、エレーヌ様に絵の保管についてお聞きしてもよろしいでしょうか。複製をお願いするだけでなく、どうして光や湿気に気をつける必要があるのかも知りたくなったんです。もちろん、お仕事のお邪魔にならない時で構いません」
アルフォンスは意外そうに目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「いい考えだね。エレーヌも、資料を大切に扱おうとしてくれる人には喜んで説明すると思うよ。今日は午後に記録の整理があるはずだから、短い時間を取れるか確かめておこう」
「ありがとうございます。私も、絵を長く残すために何ができるのか、知っておきたいです」
マルグリットは孫娘の言葉を聞き、静かに茶器を置いた。
「アデラインの絵をお部屋に飾りたいという願いから、絵そのものを守ることにも目を向けられるようになったのですね。私も昔の品を扱う時、知らないことがたくさんあります。エレーヌのお話を聞いたら、よかったことを私にも教えてくださいな」
「はい、お祖母様。私がきちんと理解できたら、お話しします」
家族の会話はその後も穏やかに続いた。祖父は菩提樹の周囲に置かれた石の腰掛けを今後も安全に使えるよう、庭師と確認を続けるつもりだと話し、アルフォンスは必要な手入れの記録を残すよう手配すると答えた。エレノアは、庭園も絵も、大切にするためにはただ眺めているだけでは足りないのだと感じた。
◇ ◇ ◇
午前中、エレノアは自室で青い花の刺繍を進めた。以前に始めた花弁はまだすべて縫い終わっておらず、今日は糸の流れを揃えるところから取りかかる。針を通すたび、布の表面に少しずつ青い線が重なっていった。
窓辺には、以前完成させた桃色の野薔薇の刺繍が額に収められている。母の失われた刺繍が入っていた古い額を使って飾ったものだったが、今はエレノア自身の手で作った花が、朝の光を受けている。その姿を見ると、失われたものを探すことと、新しいものを作ることが同時にできるのだと思えた。
糸が少しねじれたところで、エレノアは針を止めた。無理に引けば布が寄ってしまいそうだったので、いったん糸を緩め、ゆっくり整え直す。以前なら、こんな小さな失敗にも胸がざわついたが、今日は手を休めることを自分で選べた。
「少し休憩なさいますか」と、傍らで裁縫道具を整えていたリディアが尋ねた。
「ええ。目も少し疲れたみたい。お茶をいただいてから、続きを考えるわ」
リディアは道具を安全な場所へ置き、温かな茶を用意した。エレノアは椅子を窓の方へ少し向け、湯気が上がる茶器を両手で包む。庭園の木々を眺めながら休む時間にも、今は何かをしていなければならないという焦りがなかった。
しばらくして、エレノアは机の引き出しに目を向けた。左下には鍵のかかった区画があり、鍵はまだ見つかっていない。右下には、以前確認した布や包み、革の袋などが残されている。どれも今すぐ開かなければならないものではなく、関係者と相談しながら慎重に扱うと決めていた。
(気になるものは、まだたくさんあるわ。でも、気になるからといって、今日すべてを確かめなくてもいいのよね)
エレノアは引き出しへ手を伸ばさず、茶器を置いた。母の木箱も、行方の分からない衣類も、まだ見つかっていない。自分の過去に関わる品々がどこへ行ったのか知りたい気持ちは変わらなかったが、その答えを待つ間にも、今日の自分にはできることがある。
青い花の刺繍を一針進めること。祖母と色を試すこと。祖父の好きな木を覚えておくこと。そして、母の絵を守るために必要なことを教わること。
それらはどれも小さなことかもしれないが、エレノアにとっては、自分の時間を自分で選ぶための大切な積み重ねだった。
◇ ◇ ◇
午後の早い時間、アルフォンスから使いがあり、エレーヌが小応接室で短い時間なら説明できると伝えられた。エレノアはリディアとともに向かい、机の上に並べられた紙や小さな布片を見て、少し驚いた。古い絵そのものは置かれておらず、代わりに説明用の新しい紙と、額装に使う材料の見本が用意されていた。
「お時間をいただいて、ありがとうございます。急にお願いしてしまって、申し訳ありません」
エレノアが頭を下げると、エレーヌは穏やかに首を振った。
「お気になさらないでくださいませ。大切なお品をどのように扱うか、所有される方々に知っていただくことも、記録を預かる者の仕事の一つでございます。今日は原画を動かさず、一般的なお話からご説明いたしますね」
エレノアは席に着き、用意された紙へ目を向けた。エレーヌは、光に長くさらされた紙や絵具は変色することがあり、湿気の多い場所では紙が波打ったり、傷みが進んだりする場合があると説明した。反対に、乾燥させればよいという単純なものでもなく、急な環境の変化を避けることが大切なのだという。
「ですから、原画を毎日眺められる場所へ飾ることが、必ずしも最善とは限りません。とくに今回の絵は、すでに色が薄くなっている部分がございますので、保管状態を安定させることを優先しております」
「私が部屋に飾りたいとお願いした時、叔父様が複製のことを考えてくださったのは、そのためなんですね」
「はい。複製なら、原画を保管したまま絵の姿を身近に置ける可能性がございます。ただし、複製を作る工程でも原画を扱う必要が生じることがありますので、その方法が安全かどうかは専門家の判断を待たねばなりません」
エレノアは頷き、机の上の紙を見た。薄い紙と厚い紙では、同じように見えても手触りが違う。エレーヌはその違いを示しながら、保管する時に重ね方や支え方を考える必要があると話した。
「絵の色を、昔のように鮮やかに戻すことはできないのでしょうか」
エレノアはそう尋ねてから、自分が何を期待していたのかに気づいた。母と幼い自分が描かれた絵を、もっとはっきり見たいという気持ちがあったのだ。しかし、薄くなった色の下に、どんな色があったのかは誰にも分からない。
エレーヌは少し考え、慎重に答えた。
「色を補うことと、元の色を知ることは別の問題でございます。現在見えている色から、かつての色を正確に決められるとは限りません。今回の記録では、薄くなった状態も含めて、今ある絵の姿を残す方針でおります」
「では、もし複製ができるとしても、想像で色を足したりはしないのですね」
「そのように考えております。少なくとも、確認できない色を元からあったものとして扱うことはいたしません。別の形で想像画を作ることはできますが、それは古い絵の複製とは明確に区別すべきものでございます」
エレノアはしばらく黙って考えた。色が薄いことを残念に思う気持ちはある。けれど、その薄さも、絵が長い時間を経て自分のもとへ届いた証なのだと感じた。
「私、今の色のままでも、あの絵が好きです。お母様と私が描かれていることが分かった時、色が薄いことより、一緒にいた時間が残っていることが嬉しかったので」
エレーヌはその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。
「そうお感じになったことも、記録には書かれていない大切なことでございますね。私どもは紙の状態や文字を残せますが、その絵をご覧になった方のお気持ちまでは、同じ方法で測ることはできませんから」
エレノアは少し照れながら頷いた。机の上にあるのは説明用の紙と布だけだったが、古い絵を初めて見た時とは違う意味で、その存在が近くなったように感じた。
◇ ◇ ◇
説明が一段落すると、エレノアは絵の裏側に残された文字についても尋ねた。先日見せてもらった写しには、「庭園にて アデラインとエレノア」という言葉が残されていたが、書き手も制作時期も分かっていない。エレーヌは記録を示しながら、読み取れた文字と、読み取れない部分を区別して保管していると説明した。
「筆跡が似ているという印象だけでは、誰が書いたかを確定できません。比較する資料があっても、書かれた時期や道具の違いなど、考えるべきことがございます。現時点では、記載内容そのものを確かな情報として残すにとどめております」
「はい。お祖母様も、記憶だけでは決められないとおっしゃっていました。私も、書いた方が誰なのか気になりますけれど、分からないままでも大切にしたいです」
エレノアは紙に写された文字へ目を落とした。母と自分の名前が並ぶ、その短い言葉は変わらない。誰かが庭園で二人を見たのか、後から絵を見て記したのか、それすらまだ分からなかった。
しかし、分からないことがあるからといって、絵を眺めた時の喜びまで曖昧になるわけではない。母がそこに描かれていること、幼い自分の姿が残されていること、その二つだけでも今のエレノアには十分大切だった。
「エレーヌ様、教えていただいたことを、お祖母様にもお話ししてよろしいでしょうか。光や湿気のことを、私だけで知っているのはもったいない気がして」
「もちろんでございます。ただ、今後の具体的な保管方法については、専門家の意見を受けてから決める予定でございます。その点だけ、分けてお伝えいただければと存じます」
「分かりました。今日教わったことと、これから決めることを、混ぜないようにします」
エレノアはそう答え、丁寧に頭を下げた。リディアも礼を述べ、二人は小応接室をあとにした。廊下へ出ると、窓から差し込む午後の光が床に長く伸びており、エレノアは思わず立ち止まった。
「さっきまでは綺麗な光だとしか思っていなかったのに、今は絵を飾る場所のことを考えてしまうわ」
リディアは微笑み、窓の位置を確かめた。
「お部屋の机の横も、季節によって光の入り方が変わるかもしれませんね。複製ができるかどうか決まったあとで、実際の額や飾る位置を相談するのがよろしいかと思います」
「ええ。今はまだ、そこまで決めなくてもいいのね。昨日の菩提樹も、遠くから見ていた時と、近くで見た時では随分違っていたもの」
エレノアは窓の外へ目を向けた。庭園の木々は午後の光を受け、朝よりも色が深く見える。見る場所や時間が変わるだけで、同じものが違って感じられることを、昨日から何度も教えられているようだった。
◇ ◇ ◇
その頃、アルフォンスの執務室では、衣類管理に関する照会の控えが整理されていた。ベルナール家へ送った質問に対する正式な回答は、依然として届いていない。記録者と確認者の欄が一つになった経緯を確かめるには、当時の運用を示す資料が必要だが、こちらにある帳簿だけでは理由を断定できなかった。
アルフォンスは書類を見比べ、エレーヌが別にまとめた古い絵の保存記録とは混ぜずに保管するよう、改めて指示した。二つの資料が同じ時期に見つかったというだけで、関連があると考えるべきではない。娘の衣類を巡る記録と、母娘を描いた絵は、確かな接点が確認されるまでは別のものとして扱う必要があった。
「返事が遅いことには理由があるかもしれないが、それをこちらで想像しても仕方がないね。確認できた事実だけを積み重ねよう」
書類を預かる担当者が頷くと、アルフォンスは封書の控えを閉じた。エレノアの法的な立場についても、ロシュフォール家への養子縁組は署名が済んでいても、まだ正式な手続きが完了したわけではない。ベルナール家の父ロベルトが異議を唱えない意向を示していることと、すべての手続きが終わったことは別だった。
アルフォンスはその違いを、決して曖昧にしないつもりでいた。エレノアが安心して暮らせるようにするためには、温かな言葉だけでなく、確認すべき書類を確実に整える必要がある。急ぐことと、手続きを飛ばすことは同じではなかった。
机の端には、庭園の小道の手入れに関する報告も置かれていた。昨日家族で歩いた菩提樹の周囲は、当面大きな工事を必要とせず、日々の点検を続ける方針だという。アルフォンスはそれを読んで、父が昔から好んでいた場所を、今はエレノアも好きになったのだと思い、静かに微笑んだ。
調査を進める仕事と、家族が安心して過ごせる場所を守る仕事。そのどちらも、今の彼には欠かせないものだった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットの私室を訪ね、エレーヌから教わったことを話した。祖母は刺繍枠を脇へ置き、光や湿気が紙へ与える影響について、孫娘の言葉にゆっくり耳を傾けた。エレノアは説明の途中で何度か考え込み、自分が正しく理解しているか確かめながら話した。
「ですから、原画はすぐに飾るのではなく、安定した場所で大切に保管する方がいいそうです。複製が作れるかどうかは、まだ専門の方に確かめていただく前なので、決まっていません」
「よく分かりましたよ。あなたが絵を飾りたいと望んだことから、こうして保存のことまで考えるようになったのですね。アデラインも、自分の好きなものを知るために、よく人の話を聞いていました」
エレノアは少し微笑んだが、すぐに首を傾げた。
「でも、お母様と同じだから嬉しいというだけではないんです。私、知らないことを教わるのが楽しかったんです。大切なものを守る方法にも、いろいろあるのだと知りました」
「ええ。それでよいのですよ。アデラインの思い出がきっかけになっても、そこから何を知りたいと思うかは、今のあなた自身の気持ちですもの」
祖母の言葉に、エレノアは肩の力が抜けるのを感じた。母に似ていると言われることは嬉しいが、似ていなければならないわけではない。昨日、祖父も同じようなことを話してくれたのを思い出し、家族が自分自身を見てくれているのだと感じた。
マルグリットは机の上に置かれた糸箱を開き、先日試した青紫色の糸を取り出した。窓から差し込む光は夕方らしく柔らかくなっており、同じ糸でも午前中より少し落ち着いた色に見える。
「この糸も、見る場所で印象が変わりますね。先日お庭で見つけた花を、そのまま写し取ることは難しいでしょうけれど、あなたが好きだと思った色を探していけばいいのです」
「はい。今日は青い花の刺繍を少し進めたので、こちらはまだ試すだけにしておきます。焦って両方完成させようとしたら、きっと楽しむ余裕がなくなってしまいますもの」
二人は糸を並べ、色の違いを確かめた。マルグリットは、花弁の中心へ濃い色を置くと立体感が出る場合もあると教えたが、どの色を使うかまでは決めなかった。エレノアは試し縫いの布に小さな印をつけ、次に続きを考える時のために糸の組み合わせを書き留めた。
窓の外では、庭園の木々が静かに揺れていた。エレノアは菩提樹の方角を見て、昨日拾った葉を思い出す。あの葉も、光の下では黄色く透け、日陰では落ち着いた色に見えた。
「お祖母様、私、昨日の葉を描いたんです。お兄様に見せていただいた葉を思い出して、今朝少し描き足しました。あとでご覧になっていただけますか」
「もちろんです。あなたがどんなふうに見たのか、楽しみにしていますよ」
エレノアは頷き、図案帳を取りに戻ることにした。祖母に見せるために描いたわけではないが、見てもらえることが嬉しかった。誰かに見せたいと思う気持ちが、自分の中に自然と生まれていることにも気づいていた。
◇ ◇ ◇
図案帳を持って戻る途中、エレノアは廊下でセドリックと出会った。彼は庭園の管理記録を見に行くところだったらしく、薄い冊子を手にしていた。エレノアが菩提樹の葉を描いたと話すと、セドリックは少し時間を取ってくれた。
「これが昨日の葉なんです。実物より丸くなってしまったかもしれませんが、葉脈の広がりが面白かったので、そこは覚えているつもりで描きました」
エレノアが帳面を開くと、セドリックは隣から覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「うん、僕が見せた葉を思い出すよ。先端が少し細かったかもしれないけれど、エレノアが気に入ったところが分かる気がする。ここに枝も描いたんだね」
「はい。朝になってから、木の下で見上げた形を思い出したんです。枝が広がっているところに、光が落ちてきて、とても綺麗だったので」
「僕は昨日、葉を拾った時には足元ばかり見ていたから、そんなふうに枝を見ていたことに気づかなかったよ。同じ場所にいたのに、やっぱり見ていたものは少し違うんだね」
エレノアは祖父が話してくれた、母アデラインの幼い頃の質問を思い出した。同じ花を見ても、人によって違うことを感じる。それは昨日だけの話ではなく、今ここで二人が同じ絵を見ている時にも起こっているのかもしれない。
「お兄様は葉を見つけてくださって、私は枝を見上げていたんですね。でも、お兄様が葉を見せてくださらなかったら、葉の形には気づかなかったと思います」
「僕も、エレノアが枝の話をしてくれなかったら、昨日の木漏れ日を思い出さなかったかもしれない。二人で見たから、覚えている景色が増えたんだね」
その言葉に、エレノアは嬉しくなった。誰かと一緒にいることは、自分の見方を押しつけられることでも、自分の考えを隠すことでもない。違うものを見ていたからこそ、お互いに知らなかった景色を教え合えるのだ。
セドリックは帳面を閉じる前に、葉の横へ書かれた「お祖父様の菩提樹」という文字を見つけた。
「いい名前だね。祖父上が見たら、きっと喜ぶと思うよ」
「そうでしょうか。お祖父様の木という意味ではないのですけれど、昨日のお話を思い出せるようにしたくて」
「うん。僕にも、そういう意味に見えるよ。祖父上が大切にしている場所だって、エレノアが知った日の絵なんだろう?」
エレノアは頷いた。自分が込めた意味を従兄が自然に受け取ってくれたことが、少し不思議で嬉しかった。二人は短い時間を共にしたあと、それぞれの用事へ戻った。
◇ ◇ ◇
夕食では、祖父がエレノアの描いた葉のことを聞き、食後に見せてもらえないかと尋ねた。エレノアは喜んで頷いたが、同時に少しだけ緊張した。祖父にとって長く親しんできた木を、自分はまだ一度しか近くで見ていないからだ。
食後、小応接室の灯りの下で図案帳を開くと、オーギュストは眼鏡をかけ、時間をかけて葉の輪郭を眺めた。マルグリットも隣から見ており、アルフォンスとセドリックは少し離れた席で二人の様子を見守っている。
「なるほど。葉の先が少し曲がっているところまで、よく見ていたね。枝の広がりも、昨日あの場所で見上げた時の感じがするよ」
「ありがとうございます。でも、実際の形とは違うところもあると思います。記憶だけで描いたので、少し不安だったんです」
オーギュストは帳面から顔を上げ、静かに首を振った。
「これは庭師に渡すための正確な図ではないのだろう。昨日君が何を見たか、何を覚えておきたかったかを残したものなら、その役目を十分果たしていると思うよ」
エレノアはその言葉を聞き、肩の力を抜いた。古い絵の保存記録では、確認できることを正確に残す必要がある。一方、自分が描いた菩提樹の葉は、昨日の思い出を自分の目で表したものだった。
「今日、エレーヌ様に古い絵のお話を聞いたんです。記録として残す時は、分からないところを想像で埋めてはいけないと教わりました。でも、私が自分の思い出を描く時は、感じたことも大切にしていいんですね」
「そうだね。ただ、二つを混ぜないことが大切なのだと思う。昔の絵に何が描かれていたかという話と、君がその絵を見て何を感じたかという話は、どちらも大切だが同じではないからね」
オーギュストの言葉に、アルフォンスも頷いた。
「記録は、あとから確かめる人が迷わないように残すものでもある。けれど、エレノアの日記や図案帳は、君自身が今日をどう過ごしたかを残す場所でもあるんだ。役目が違うから、書き方も違っていい」
エレノアは図案帳を見つめた。母と自分の名前が残る古い絵には、まだ分からないことが多い。けれど、自分が描いた葉には、描いた日も、見た場所も、誰と歩いたかも覚えている。
「それなら、昨日のことをもう少し書いておこうかしら。お祖父様が教えてくださったお話も、忘れたくありませんから」
「そうするといい。ただし、私の昔話は、私の記憶に頼ったものだということも覚えておいておくれ。長い年月が経っているから、細かなところは違っているかもしれない」
「はい。お祖父様から伺ったお話として、書いておきます」
エレノアが答えると、祖父は満足そうに微笑んだ。マルグリットも孫娘の図案をもう一度眺め、春になったら同じ木を描いてみるのも楽しそうだと提案した。エレノアは、秋の葉と春の葉がどれほど違うのだろうと想像し、その日が少し待ち遠しくなった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、日記帳と図案帳を並べて開いた。昼間教わった絵の保存方法について、覚えていることを一つずつ書き留める。光や湿気が紙へ与える影響、原画を何度も動かさない理由、複製を作るには専門家の確認が必要なこと。どれも、これから絵を大切にしていくために忘れたくないことだった。
その隣には、昨日描いた菩提樹の葉がある。エレノアは祖父の言葉を思い返し、図案の下へ短く書き加えた。『昨日、皆で菩提樹の下を歩いた。お兄様が葉を見せてくださり、私は枝の間の光を見ていた。お祖父様は、迷った時には急いで答えを出さないようにしていると教えてくださった』。
書き終えると、エレノアはしばらくその文章を眺めた。昨日の出来事を今日書き残すことで、思い出が少し違う形になったように感じる。昨日はただ嬉しかったことが、今日はなぜ嬉しかったのかを考えられるようになっていた。
机の横の壁には、まだ何も飾られていない。母アデラインと幼い自分が描かれた絵の複製を置けるかどうかは、これから専門家の意見を聞いて決めることになる。エレノアはその空白を眺めながら、いつか絵を飾れた時には、今日の葉の図案も近くに置きたいと思った。
(お母様と私が一緒にいた昔の時間と、今の私が皆様と過ごした時間。その両方を、同じ部屋で大切にできたら嬉しいわ)
ただし、どこへ飾るかはまだ決めない。額の大きさも、光の当たり方も、これから確かめる必要がある。急いで決めなくても、絵を大切にしたい気持ちがなくなるわけではないと、今は分かっていた。
エレノアは日記帳の最後に、今日一番心に残ったことを書いた。『大切なものを守るには、知らなければならないことがある。知らないことを教わるのは、怖いことばかりではない。私はこれからも、自分が知りたいと思ったことを、一つずつ確かめていきたい』。
筆を置いたあと、窓辺の桃色の野薔薇の刺繍へ目を向けた。古い額に収まったその花は、以前より少し色が深く見える。昼間エレーヌから聞いた光の話を思い出し、エレノアはリディアに、額を置く場所についても今度相談してみたいと伝えた。
「かしこまりました。明日の明るい時間に、窓辺の光の当たり方を一緒に確かめてみましょう。今夜はもう遅うございますから、無理に動かさずにおきましょうね」
「ええ。ありがとう、リディア。今日もいろいろなことを知ったから、少し頭の中を整理したかったの」
リディアは微笑み、寝台の支度を整えた。エレノアは日記帳を閉じ、図案帳を机の上へ丁寧に重ねる。引き出しの中に残る未確認の品々には触れず、今日自分で選んだことだけを胸に留めた。
灯りを落とすと、窓の外には静かな庭園が広がっていた。昨日歩いた菩提樹の枝は、夜の中で輪郭だけを見せている。そこには祖父が過ごした長い時間があり、母が幼い頃に眺めた景色があり、そして今、エレノア自身の新しい思い出が重なっている。
すべてを知ることはできないかもしれない。失われたものの行方も、古い絵の書き手も、まだ分からないままだ。それでもエレノアは、分からないことを抱えたまま、明日を楽しみにしてよいのだと思えるようになっていた。
寝台に横たわり、掛布を肩まで引き上げる。明日は青い花の刺繍をもう少し進めようか、それとも菩提樹の葉を別の角度から描いてみようか。そんな小さな迷いを楽しみながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。
庭園を渡る風の音が、遠くで柔らかく響いていた。




